「0003」 論文 アリストテレス著『ニコマコス倫理学』―エクィリブリアム、「中庸」の思想(3) 鴨川光筆 2009年3月3日

永遠の正義、自然法にのっとった国政こそ最善の国政

 さて、アリストテレスはここでいったん正義と均、中庸の結論を述べて話を正道に戻します。『ニコマコス倫理学』から引用します。
 
(引用開始)

 かくして、不正とは何であり正とは何であるかは述べられた。これらについての規定によって、「正しきを行う」とは不正をはたらくと不正をはたらかれるとの「中」であることが明白である。けだし、不正を働くというのは過多を、不正を働かれるというのは過少をえることだからである。正義も或る意味における中庸であるが、それはしかし、他のもろもろの徳の場合と同一の仕方においてではない。正義が中庸であるのは、それが「中」にかかわるものなるが故なのであり、不正義は両極いずれにもかかわっている。(190ページ)


(引用終わり)
 

 ここまでの流れを忘れないでおきましょう。すべてのものは中庸であるべきで、それは均等なものであり、正義(比例配分的な)でもある。それがマネーでもある、ということです。

 ただし「均と正義、マネー」は人間が自分たちの便利のために勝手に作り出したもので、いつでも取り消せるものだ、ということです。すべては善、幸福、徳(卓越性)を目指すのですから、それを望めなくなったらマネーも学問も無効にならなくてはなりません。アリストテレス自身もこの後、最善の国政は自然でなければならないといっています。『二コマコス倫理学』から引用します。
 
(引用開始)

 もろもろの自然法的ならぬ人間的な「正」はいたるところにおいて同一であるわけではない。もろもろの国制でさえもその例外ではないのである―。

 それでいてしかし、最善の国制というものはあらゆるところにおいて自然本性に即してただひとつしかない。(195ページ)

(引用終わり)
 

 契約的・功利的な正とは量こうに似ているのですから、人間の力で計量出来る数字に分割できない正、つまり均、比例配分的正義です。人間の力で変えることができます。

 人間による正義は、国政であっても、同一に等しくできるわけがありません。しかしそれでいてアリストテレスは「最善の国政というものはあらゆるところにおいて自然本性に即してただ一つしかない」とはっきり宣言しています。これが何なのかは本書でははっきりしません。

 アリストテレスは『政治学』において「最善の国政とは民主制(貧しい一般ピープルの政治)と共和制(貴族、金持ちの政治)の合わさったものだと主張している、と副島氏は述べています。おそらくこの『ニコマコス倫理学』でもそれを言っているのかもしれません。

 アリストテレスがこれまで述べてきた人為的なもの、「均、イソン、比例配分的なもの」を否定していません。ただしそうではない自然的本性というものが同時に存在する、確かにあるという主張をやめません。『二コマコス倫理学』から引用します。
 
(引用開始)

 市民社会的な「正」にも自然法的(フュシコン)なそれもあるし、人為法的(ノミコン)なそれもある。自然法的なそれは、いたるところにおいて同一の妥当性(デュナミス)を持ち、それが正しいと考えられているといないとにかかわらない。

 これに対して、人為法的なそれは、こうであってもまたはそれ以外の仕方であっても本来は一向差支えを生じないものであるが、いったんこうと定めた上は、そうでなくては差支えを生ずるごときことがらである。

(中略)

 個々について立法の行われていることがらや、諸般の「政令」的な性質のことというものはすべてそういった性質のものなのだと考えられている。

 けだし、自然本性(フュシス)によるものならば変動せず、いたるところにおいて同一の妥当性を有しているのに対して、もろもろの「正しい」ことがらというものは可変的なものでしかないことを彼らは見ているからである。

(中略)

 そこにやはり自然本性による何ものかが存在していないわけではないが、それでいて、すべてのものが変動をまぬがれず、そこにやはり、自然本性によるものと、そうでないものとがともに存在しているのである。(194、195ページ)

(引用終わり)
 

 ここでもアリストテレスは自然なものと人為的なものははっきり違うものだということを明確に述べています。

 自然なものは、人間が正義、均、比例配分的だと考えようといまいと関係なく、普遍的な妥当性を持ち、変化するものではないのです。

 それに対して人為的なものは「いったんこうと決めたらそうでなければまずい、そうしましょう、そのようにスタートしましょう」ということです。比例配分的に、均、イソンとして妥当である、エクィリブリアムである、バランスが取れている、ということです。

 先に述べた仮説の話の中で述べましたが、それと同じ人工的な神様に逆らったらまずいのだといいたい人々がいるのです。

 現代の世界では紙幣の印刷がまさにこれです。アリストテレスも言っています。マネーも均分という発想からきていると。

 現代のマネーはフィアット・マネー(fiat money)といって、本当は金銀の裏づけがなければいけない紙幣を、何の裏づけもなく「これで行きましょう、これでいいことにしましょう」といって刷り散らかしています。アメリカのFRB(エフ・アール・ビー、連邦準備銀行)やイギリスのバンク・オブ・イングランド(Bank of England)です。

 この裏づけのない紙幣を刷り散らかそうという根拠は、均、比例配分的正義でアリストテレスにさかのぼるものです。

 ところがこの194、195ページの引用をよく見るとアリストテレスはこの人為的正義、人為法を手放しで認めてはいません。よく見るとそれは、そのように主張している一部の人々がいるといっています。
 
(引用開始)

 一部の人々の間では、しかるにもろもろの「正しい」ことというものはすべてそういった(いったんこうと決めたらそうでなくては差支えを生じる)性質のものだと考えられている。(194ページ)

 
(引用終わり)
 

 この一部の人々というのはおそらくプラトン(Plato)とその一派、プラトニアンたちなのでしょう。プラトンはアリストテレスの師匠といわれています。本当はプラトンの主宰する学問所リュケイオンにほんの一時期いただけだったはずです。アリストテレスはプラトンをどうも遠まわしに攻撃しているように見えます。プラトンは彼ら以前にいた職業知識人であるソフィストたちの権威をズダズダにしてしまいました。

プラトン

 ソフィストたちは「万物の尺度は人間である」というまことに当たり前のことを言っていて人たちです。副島氏はソクラテス(Socrates)、プラトンからおかしなことをいう人たちがでてきました、とどこかで言っていたことを私は覚えています。

 この種のアリストテレスの思想も、後のネオ・プラトニアンたちや中世のトマス・アクィナス(Thomas Aquinas)らスコラ学派(スクール・メン)に捻じ曲げられていきました。

トマス・アクィナス

 

人間の手によって変えられないもの「衡平、エクィティ」―それは自然法のこと

 アリストテレスはこの人為的に物事を均等に割って配分していく正義の人々に対して「いやそうではない。自然本性によるものは変動せずにいたるところにおいて同一の妥当性を有している」と主張します。そしてこの自然本性、ナチュラル・ラー自然法こそが善なのだと主張しているのです。国政もそれに応じてやらなければなりません。

 アリストテレスはこの人為法、後に人定法、ポジティヴ・ラーと名を変えますが、それに対する攻撃の手を緩めません。『ニコマコス倫理学』から引用します。
 
(引用開始)
 

 かくして「宜」とは何であるか、すんわち、それは「正」であり、しかもある種の「正」よりもよき「正」であることが明らかとなった。(210ページ)

 「宜」ということは或る種の「正」よりはよきものであるにかかわらず、それはやはり「正」なのであって、何らか別の類として「正」よりもよくあるのではない。だからして、同一のことがらが正しくあるとともに宜しくもあるといえるし、また、これら両者を比較して、どちらもいいが「宜」のほうがよりすぐれている、ということもできるのである。(208、209ページ)

(引用終わり)
 
 このある種の正とはノミモン・ディカイオン、人為法的正義のことです。つまり「比例配分的正義、均、イソン、バランス、エクィリブリアム」のことです。

 アリストテレスはここではエクィリブリアムよりも「よい、宜(よろ)しい、優れている」ものはエクィティ(equity)なのだとはっきり述べています。

 「宜=エピエイケイア」とはエクィティといって、現代では「衡平」と訳が当てられています。この語源がエピエイケイアのというギリシャ語にはっきり由来していることは、エクィリブリアムよりもはっきりしています。じつに出所の明らかな言葉です。

 エピエイケイアのPがQに変わった、ただそれだけのことです。どこかで誤記されたのでしょう。ですからエクィリブリアムと違ってエクィティのエクィはイコールのエクィではありません。

 そもそもエクィというラテン語がどこから遣って来て、なぜギリシャ語のイソンに当てはめられたのか、それがわかりません。

 オックスフォード辞典を見てもその由来が書かれていません。実に怪しい言葉で、実はイソンはエクィリブリアムではないのではないか?エクィリブリアムはどこか異なったところからやってきた、アリストテレスとはまったく違った思想なのではないか、という可能性は大なのです。誰も「イコール・バランスが正、正義だ」などとは言っていないのかもしれません、古代ギリシャでは。

 さてこの「宜、宜(よろ)しさ、エクィティ」についてアリストテレスはどういっているか。それを引用しましょう。一言でそれは人為的、比例配分的正義、人定法の補正です。『ニコマコス倫理学』から引用します。

(引用開始)

 「宜」は「正」であっても、それはしかし法に即してのそれではなく、かえって法的な「正」(ノミモン・ディカイオン、人為法)の補訂にほかならないというところに存する。そしてこのことの因がどこにあるかというに、法はすべて一般的なものであるが、ことがらによっては、ただしい仕方においては一般的規定を行いえないものが存在する。

 それゆえ、一般的に規定することが必要であるにかかわらず一般的な形ではただしく規定するようなことのできないようなことがらにあっては、比較的多くに通ずるところを探るというのが法の常套である。

 その過っているところを識らないではないのだが―。しかも法は、だからといって、ただしからぬわけではない。けだし過ちは法にも立法者にも存せず、かえってことがらの本性に存するのである。つまり「個々の行為」なるものの素材がもともとこのような性質を帯びているのである。

 もし、だから、法が一般的に語ってはいても時として一般的規定の律し得ないような事態が生ずるならば、その場合、立法者の残しているところ、つまり、彼が無条件的な仕方で規定することによって過っているところを受けて、不足せることがら―立法者がその場合に望めばやはり自身も規定の中に含ませるであろうような、そうしてもしすでにそれを知っていたならば立法しておいたであろうような―を補訂すると言うことは正しい。(209ページ)
 

(引用終わり)

  ここの行為というのは人定法という網で完全には一般的に規定し得ないものです。法による判断では必ず誤り、過不足が生じます。それを補正するのが「宜しさ、宜」なのです。

 アリストテレスは著書『弁論術』においても人間の作った成文法、人為法への攻撃の手を緩めません。以下に『西洋思想大辞典』(平凡社)から引用します。

 
(引用開始)
 

 彼(アリストテレス)の衡平とは「成文法を超える正義」である。なぜなら、成文法には規定し足りないところがあるからである。

(中略)

 立法者が鉄器を用いた傷害行為を禁止したとする。ところが、鉄の指輪をしたある男が別の男を打った。法の文言に従えば、彼は悪事をなし、罪があることになる。「しかし、本当はそうではない」とアリストテレスはここで言う。「そして、これが衡平の理念の働くべき事例なのである」。

 さらにアリストテレスは、慈悲を持って取り扱われるべき諸行為の事例では衡平の理念が働くべきであり、それらの行為の中には、不運、過失、人間の弱さに起因するものが含まれているという。

 このような事例の判断では、立法者の精神に依拠すべきであって、法の文言に従うべきではない。彼の言うところによれば、われわれが頼りにすべきなのは行為自体ではなく、道徳の観点から見たその意図であり、また、部分ではなく全体であり、現に人がどのようなものであるかということではなくて、むしろその人がいつも、あるいはたいていの場合に、どのようなものであったかということである。

 法廷での裁判よりも調停にかけるほうがよい。なぜなら、調停者は公平を考慮に入れているが、裁判官は法しかあてにしないからである。そして調停が用いられるようになったのは、衡平の理念が現実の中で力を増すようになったためであった。(160ページ)

(引用終わり)
 
 このシンプルな例からもわかるように、人間の行為には法ではカヴァーしきれない道徳、倫理のレベルの問題がたくさんあります。『ニコマコス倫理学』は善と徳が何であるかから始まりますが、そこからこの「衡平(こうへい)、宜しさ、エクィティ」という考えまで全く一貫していてぶれがありません。

 人間の行為を裁き、判断するよりも、慈悲と徳を持って行うことが、人為的に作られた法によって均分に割り切ることよりもよいのだ、ということなのです。

 衡平(こうへい)、エクィティは法ではありません。ですから「衡平法」という言い方がありますが、これはありえない言葉なのです。

 繰り返しますが衡平というのは人為法、人定法、成分法ではカヴァーしきれない人間の行為を補正するもので、それは慈悲、情けの精神によって行われるものです。

 では誰の慈悲なのかといえばそれは裁判官、判事の良心ということになります。つまり衡平とは裁判官の自由裁量なのです。自由裁量のことをディスクリーション(discretion)といいます。これは裁判ではなく調停(メディエイション、mediation)で行われるものです。副島氏の法関係の一連の著作(『法律学の秘密』、『裁判の秘密』、『裁判のカラクリ』)を読めばわかりますが、裁判というのはわれわれ一般庶民、ピープルには普段の生活レベルでは手の届かないものです。

 土地問題といった込み入った問題以外、普通の人々には全く無縁のものです。それにしたって財産の少ない大多数の人々には縁遠いものです。それ以外は国、検察から訴えを起こす刑法犯罪しか関係がありません。罪を犯したり巻き込まれたりした特殊な場合です。

 ですからめったにそして一生ないこと、なくてよいことだと思いますが、裁判所に厄介になる場合、多くは家庭の問題であり、外国の裁判のように対決をするということはないと思います。ほとんどは裁判官の判断にお任せし、その温情を持って裁定が下されるというケースがほとんどでしょう。そして一般の人間的な諸事はそれでいいと思います。

 ただしそれは衡平に基づいた慈愛、温情というものはあくまでも人定法という成文法の体系を補正するものだという視点を裁判官は忘れてはいけない、それはアリストテレスのいう善、幸福、徳(卓越性、たくえつせい)と直結する思想なのだということをよく知っていなくてはいけません。

 この調停という点で面白いのは、あのモーゼス・マイモニデス、律法好きのユダヤ思想学者がめずらしくいいことを言っています。以下に『西洋思想大辞典』(平凡社)から引用します。
 
(引用開始)
 

 事件を常に調停に付するのであれば、それは賞賛されるべきである。そのような(理想的な)法廷については、聖書に次のように書かれている―あなたがたの門で……平和の裁きを行わなければならない(「ゼカリア書」8:16)、平和の伴うのはいかなる種類の裁判であろうか、それは疑いもなく調停である。

 また聖書はダビデについて、次のように述べている―こうしてダビデは、そのすべての民に正義と慈愛とをおこなった(「サムエル記」下、8:15)、慈愛を伴うのはいかなる種類の裁判であろうか、それは疑いもなく、調停、すなわち妥協である。(161ページ)

(引用終わり)

 ユダヤ思想にも衡平があって、それはヨシェールといいます。実はイスラエル、これがヨシェールです。国の名自体が衡平なのです。

 これによってトーラーやミシュナといったユダヤ思想の厳格な律法から、多くの人々が理不尽な判決から救済されたそうです。というのは「七歳の子供に死刑を課した法廷」というものがあったそうです。

 ただし気をつけなくてはならないのは、マイモニデスはパリサイ派、ヒルレル派の流れを汲む人物です。

 パリサイ派、ヒルレル派に対してサドカイ派、シェンマイ派があります。こちらはトーラーの律法を厳格に適応しようという本来、ユダヤ思想の正当な流れを受け継ぐ人々です。

 それに対してパリサイ側の人々は反律法の立場に立っています。パリサイというのはセパラティスト(separatists)という意味で、政教分離派のことを示しています。こてこてのリベラル(Liberals)です。リベラルの元祖です。これは近・現代に今でも通じている人々です。以下に『西洋思想大辞典』(平凡社)から重要な部分を引用します。
 
(引用開始)
 

 サドカイ派やシェンマイ派のように律法を厳格に解釈しようとする者たちは、「わたしがあなたがたに命じる言葉に付け加えてはならない。また減らしてはならない」(「申命記」4:2)という個所を原典から引用して、彼らの保守的な字義通りの解釈の根拠とすることができた。しかし他方では、字義にとらわれない解釈を主張したパリサイ派やヒレル派なども、原典を援用して、かれらの創造的で、革新的ですらある方法を根拠づける事ができたのである。

 その個所では、困難な事件についてはそのときの裁判官が誰であってもその判断に解決を委ね、彼の決めたとおりに行うように命じている。

 すなわち、「あなたがたは、彼らが告げる判決にそむいてはならない。彼らが告げる言葉から、右にも左にも偏ってはならない」(「申命記」17:8―13)と。

 後者の見解の精神に従って、ユダヤ教の権威者らはしばしば公然と、律法の文言とは逆の道を進んだ。(161、162ページ)

(引用終わり)
 

 彼らはパレスチナからバビロンに本拠を移し、サンヘドリンという学問所を開いて、約1000年かけてトーラーを換骨奪胎(かんこつだったい)、骨抜きにしていきました。事実上の律法停止です。

 引用文中の「律法を字義通り解釈せず」や「ユダヤ教の権威者らはしばしば公然と、律法の文言とは逆の道を進んだ」というのは、そういうトーラー骨抜き作業を含む大きな流れの中にあります。

 この作業によってトーラー(旧約聖書の中のモーゼ五書、ユダヤ思想の原点)を「補正」するものとしてタルムードが出来たのですが、これが10世紀ごろ成立したことでトーラーが骨抜きにされたのです。

 タルムードはミシュナとゲマラという2つの部分に分かれています。この2つの編纂作業を経ることでユダヤ思想は変質していきました。

 ミシュナとゲマラは地中海とオリエントに散らばっていたユダヤ人たちが、彼らの生活の中での行為―食べ物など―がトーラーに即しているのかどうかをサンヘドリンに手紙で聞いてきたものに宛てた返事の集大成です。これはこれで実生活上大切なことで、よいことでした。

 しかし問題がありました。このタルムード編纂の過程で、バビロンの学問所の歴代のボスたち、ガオン、ジェオニムたちが拝金思想、レイシオを持ち込みました。

 サーディア・ベン・ヨーゼフ(Sa'adia en Joseph)という人物がレイシオを持ち込みました。彼の拝金思想を磐石(ばんじゃく)とするためにマイモニデスがアリストテレスを導入したのです。

 読者の皆さんはアリストテレスのどの部分が導入されたかがもうお分かりだと思います。それは「イソン、エクィリブリアム、均(きん)、均等」の思想の部分です。

 アリストテレスが善、徳、幸福そして中、中庸を確立するために導入した「イソン、エクィリブリアムの思想」の部分のみを、彼らの強欲、拝金思想―これは副島氏が唱えました―を正当化するために長い時間かけて導入したのです。

 この強欲を満たすためには法や正義も関係ありません。彼らはその埒外(らちがい)にいなければなりません。

 その立場を正当化するためにもアリストテレスの人為法―人間によって変更、取り消しできる―という思想は好都合でした。

 ところがアリストテレスは変更の不可能な真実があるという立場を崩していません。それが自然法です。人為法と自然法の二つがあるとはっきり言っています。それを守るためにさらに「エピエイケイア、宜しさ、衡平」を唱えたのです。

 ところがマイモニデスの思想をよく見てみると、衡平でさえも人間によって変更の可能なものだという考えが伺(うかが)えるのです。

 衡平は調停で行われ、法でもなく、裁判官の自由裁量―あくまで慈悲に基づき、人為人定法を補正するという立場で―行われるのですから、人によってまちまちです。ですから衡平も変更可能な人為的なものだと思えるでしょう。

 しかしアリストテレスは『弁論術』でこう主張します。以下に『西洋思想辞典』から引用します。


 
(引用開始)
 

 成文法がわれわれの直観に反するものである場合には、われわれは「それよりもっと正義に適っているものとして共通法〔欠かれていないもので、皆のところで継承されると思われることども。『弁論術』第1巻第10章3〕や衡平」に訴えるべきである。

 成文法はたびたび変化するが、衡平は変わることがないということを、われわれは主張しなければならない。というのも、衡平は人間の本性に基礎を置いているのであって、偽者ではない本物の正義の一部なのだからである。(160ページ)

(引用終わり)
 

 どうでしょう。衡平は変わることのないものだとはっきり言っています。つまり衡平は自然法の流れを汲む人為的に変更停止の不可能な「真実」の側のものなのです。「永遠の正義、人間を大切にする思想としての正義」(副島隆彦)に他ならないものです。

 アリストテレスの思想の流れを再度掲げましょう。

 善、幸福、徳=卓越性、中庸(ここから中庸を裏付ける思想の支流、均、正義、貨幣)そして衡平。

 あくまでもアリストテレスの本流のほうをしっかりつかんでおかなくてはなりません。

 ユダヤ=フェニキアの強欲と拝金思想はアリストテレスの主張の一部、支流、小枝の部分を借りてきたものなのです。『西洋思想辞典』とポール・ガヴリロヴィッチ・ヴィノグラドフ著『法における常識』(岩波書店)から引用して、この論考を終わりたいと思います。
 
(引用開始)
 

 「衡平」(equity)という語は、倫理や法や法哲学において広く使用されている。そこでの意味合いとしてまず挙げられるものは、厳格法を回避または超越し、良心、人間性、自然法、ないしは自然法的正義(これには法に従うという意味の正義とは異なるものである)に従う判断、すなわち法律の文言ではなく、その精神に従った判断を示唆するものであるが、この語はそればかりではなく、正義、公平、平等、慈悲、法に従った判断といった諸理念を暗示したり、それらの理念に訴えかけたりする意味合いでも用いられる。(『西洋思想辞典』、157ページ)

 われわれは、いまや、慣習や判例法の形成にあたってはもちろんのこと、制定法解釈の過程においても、裁判所による権利の宣言ということが、法を作り上げる上にいかに大きな役割を演ずるものであるかが分った。

 しかし、なお第四の法源が存在するのであり、しかもそこでは、裁判所の創造力はいっそうきわだっているのである。

 なぜならば、その法源は、承認された法規範に大いに反抗しながら運用されなければならないからである。衡平(Equity)または公正といわれるものがそれである。

(中略)

 彼(アリストテレス)は、法規範は必然的に一般性をもつものでなければならないのに反し、各事件の具体的状況は特殊のものであること、また将来に起こるべきさまざまの、また複雑なすべての現実の事態に適合するような規範をまえもって定めることは、人間の洞察力と知識のとうてい及びえないところであること、したがって、法は衡平(epieikeia エピエイケイア)によって補充されなければならず、またそれぞれの事情に適応し、伸縮性のある処理を行う力がなければならないので、その力によって、ときには、形式的に承認された法とは異なるにもかかわらず、本質的にみて正当な結果となるような決定が促されるものであることに注目した。(『法における常識』、187、188ページ)

(引用終わり)

(終わり)