「0005」 論文 イスラム研究―ムータジラ派、強欲の思想、つまり理性と信仰を融合させようとした人々(1) 鴨川光(かもがわひろし)筆 2009年3月6日

 

 イスラム教にシーア派(Shi’ite)とスンニー(スンナ)派(Sunni)といった様々な思想系譜を異にした集団があります。その中でもあまり知られていないけれども、おそらくはイスラムが始まってから現代に至るまで、イスラム神学に多大な影響力を持ち、最も問題をはらんだ哲学集団ムータジラ派(Mu'tazili)のことをお話ししなければなりません。

 このムータジラ派の思想系譜が重要です。それは、ムータジラ派こそが、本来のイスラム信仰の中に混ざりこんできて、信仰に理性(レイシオ、ラチオ)という金銭崇拝と強欲の思想を持ち込んできた人々だからなのです。

 とはいえ私は、イスラムに触れるのはほぼ初めてです。ですからイスラムのことに詳しい人や大家と呼ばれる人は日本にも無数にいると思います。しかも無謀にも有名なイスラム学者たちの名前も知らず、基本的文献、書物も読んでいません。

 そこで私は『西洋思想大事典』(平凡社)と『エンサイクロペイディア・ブリタニカ』のイスラムの項に沿って、あくまで世界的知識の基本的線から外れないように話をしようと思います。

 『西洋思想大事典』では「イスラムの知的概念」という項目がありましたのでそれと、『エンサイクロペイディア・ブリタニカ』ではイスラムの章の「ムータジラ」と「イスラミック・フィロソフィ」というところを引いて説明します。

 このムータジラ派は8世紀から10世紀にかけて、アリストテレスを中心とするギリシャ哲学をアラビア語に翻訳した、おもにアラブ人とペルシャ人の学者たちです。

 西暦8世紀というのはイスラム暦でいうところの2世紀で、イスラム暦1世紀のうちにコーランに関する注釈(ちゅうしゃく)作業が終わり、バグダッドやバスラ、ダマスクスといった現在のイラクとシリアに当たる地域でイスラム神学者とそれに先行するギリシャやパレスチナ、ゾロアスター教徒といった敵対者との神学論争(しんがくろんそう)が盛んに行われたようです。

 イスラムはギリシャやパレスチナ、ペルシャの先行文明をすべて吸収するという包括的な懐の深さを見せるわけですが、当然のごとく彼らよりも1000年は先(さき)んじていたギリシャ人たちの方の弁舌が立ったわけです。それで自らの信仰を、理論武装する必要に迫られてギリシャの形式論理学(けいしきろんりがく)を取り入れていった、という必要にも迫られました。9世紀がその翻訳、注釈作業の最盛期でした。

 10世紀ごろまで学問の中心地はバビロンでした。ここでユダヤ思想の研究が行われ、旧約聖書のモーゼ五書、出エジプト記やヨシュア記、申命記などのトーラー(Torah)の注釈である膨大な量のタルムードが完成しました。

 実際にはトーラーの注釈ではなく、それを骨抜き、換骨奪胎(かんこつだったい)したバビロンやスーラの偽ユダヤ人学者たちが数百年かけて作った強欲思想の集大成です。それを完成させたのがバビロンの学問の長、サアディア・ベン・ヨーゼフです。彼がこの思想のおおもとで、後にキリスト教のトマス・アクィナス、ユダヤ教のモーゼス・マイモニデス、そして今回お話しするイスラム教ムータジラ派のアヴェロイスを作り出したのです。

 イスラム神学者、哲学者たちの翻訳・注釈活動の最盛期はまさにバビロンの知的活動に取って代わるような文明史上の大事件でした。

 この翻訳活動はバグダッドで行われました。優れた翻訳者たちはこのバグダッドを首都にしたアッバース朝に集まっていたのです。つまり西暦9、10世紀あたりを境に文明の中心はバビロンからバグダッドに移ったということなのです。バビロンは1500年にわたって栄えた文明の中心地でしたので、これは本当に大事件でした。

 イスラムの知性史の主流はカラーム研究です。このカラーム研究を主軸として、コーランの注釈、預言者の伝承(ハディース)、イスラム法学の研究がまずイスラム暦1世紀(つまり西暦7世紀)に行われました。

 その後、西暦8世紀には、ワーシル・ブン・アター(Wasil Ibn Ata)という人が現れ、ムータジラ派を創設しました。このムータジラ派の主張には実にアリストテレス的な思想の影響が感じられます。『西洋思想大辞典』から引用します

(引用開始)

 神の唯一性、神の正義、善行に対する報酬の約束と大罪に対する懲罰による威嚇、信仰と不信仰の間にはある中間の状態が存在しうるという確信、そして最後は善を勧め不義を禁じることの強調である。(91ページ)

(引用終わり)

 私は最近(2008年5月)、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』という著作の書評を書いたのですが、その中でアリストテレスの思想の中心はエクィリブリアム・セオリーだということに気づきました。エクィリブリアムというのはこの引用の中にある「中間」の思想です。

 そこからラショナル・チョイス・セオリー(rational choice theory、合理的選択理論)というものが生まれました。これは懲罰と見返りという二つの選択を与えたならば人間はできるだけ自分に損のないほうを選ぶはずだ、という理論です。ただそれはすべての人間が自然人ではない、経済人だったならば、という仮定があっての話ですが。

 この理論に基づいてアメリカのグローバリストたちは2005年ごろ『フォーリン・アフェアーズ(Foreign Affairs)』という雑誌にイランの取り扱いに関する論文を載せました。上記のムータジラ派の思想はまさにこのエクィリブリアムとラショナル・チョイスの考え方の源流なのです。

 このムータジラ派というアリストテレスの翻訳・注釈集団の最後で最大の大物がコルドバのアヴェロイス(Averroes)です。ラテン名をイブン・ルシュド(Ibn Rushd)といいます。イスラムの思想家(神学者、哲学者たち)にはラテン名を持つものが多いので、この文章ではそれを併記することにします。

アヴェロイス(イブン・ルシュド)

 

イスラムに合理思想を持ち込んだのはネストリウス派キリスト教徒

 イスラム思想を調べていくうちで気になったことがいくつかありますが、その中でも大きかったのがギリシャ思想を翻訳してアラビア人に伝えたのはキリスト教徒だったということです。

 このキリスト教徒というのは5世紀の神学論争の結果、431年のエフェソス公会議(First Council of Ephesus)で異端とされたネストリウス派(Nestorianism)キリスト教徒たちです。彼らは正式名称をアッシリア教会(Holy Apostolic Catholic Assyrian Church of the East)といってなんとササン朝ペルシャ(226―651年)において発展しました。

 ここで彼らは自らの持つヘレニズム文明、つまりアリストテレスを中心としたギリシャ思想をまずシリア語に訳したのです。彼らは実は北シリア、つまりもとのアッシリアの中心地であるアンティオキアが拠点だったのです。

 

イスラム思想史―ムハンマドが移り住んだメディナが学問の中心だった

 イスラム思想を述べる前に簡単にイスラム史をさらっと概観しておこうと思います。

 まずムハンマド(570―632年)が、632年に没しました。その後ムハンマドを受け継いだ第2代カリフ、ウマル一世(在位:634―644年)のもとで、軍事的征服が行われます。このときエジプト、パレスチナ、シリア、イラク、ペルシャという今のイスラム圏の土台が確立されました。これを征服第一波(632―641年)といいます。

 征服の第二波は、第4代カリフ、アリーの下で行われました。アリーが今のシーア派のもととなるのですが、このアリーの死後、イスラム初の王朝ウマイヤ朝が出来ます。この時モロッコやチュニジアは今でもイスラム圏ですけれども、北アフリカ、スペインへと勢力を拡大しました。

 この勢力を食い止めたのがメロヴィング朝、今のフランスにあたりますが、そこの宮宰チャールズ・マルテルとされていて、それが名高いトゥール・ポワチエの戦いです。それでとりあえずイスラムの版図が確定した、ということになっています

 

アリストテレスの翻訳注釈はアッバース朝で行われた

 イスラム思想の学問的な発展は、その後のアッバース朝(Abbasid Caliphate750―1258年)においてです。このアッバース朝はなんと、8世紀から13世紀まで続いたのですね。500年です。普通歴史上の大帝国でも300年かそこいらで滅亡しているのですから、これは相当に重要な国です。ビザンチン帝国(Byzantine Empire)(東ローマ帝国、Empire of the Romans)の次に永く続いた国だとおもいます。

 このときに大量の知識人たちが、シリア経由でアッバース朝の首都バグダッド(Baghdad)に押し寄せてきたのです。彼らの思想というのはアリストテレスの著作を中心とするギリシャ思想です。

 このギリシャ思想は、もともとはエジプトのアレクサンドリアにあったギリシャ高等教育機関が学問の中心地でした。なぜエジプトがギリシャ思想の中心地であったかというと、アレクサンダー大王が、古代において最初で最大の世界帝国であったアケメネス朝ペルシャを征服し、オリエントを統一したからです。アレクサンダーの出身地マケドニアはギリシャです。

 つまりエジプト、シリア、メソポタミア、パレスチナ、イランのギリシャ化が進んだのです。これをヘレニスティック・レヴォリューション(Hellenistic Revolution)といいます。ヘレニズム(Hellenism)ともいいます。

 アレクサンダーの死後、その将軍の一人であったプトレマイオス、英語ではプトレミー(Ptolemy)といいますが、彼がエジプトを支配したため、ヘレニズム的、ギリシャ的なプトレマイオス朝ができた訳です。

 このアレクサンドリアが642年、ウマイヤ朝の版図に含まれると、この研究機関がシリアのアンティオケアに移されます。アンティオケアはキリスト教会の五本山、ローマ、アレクサンドリア、コンスタンチノープル、エルサレム、アンティオケアに数えられていた学問の中心地です。この地にギリシャ思想を広めることとなるネストリウス派のキリスト教徒が大勢いた訳です。

 ネストリウス派というのは現在のローマン・カトリックから見て異端の代名詞的存在です。ネストリウス派に対して現代に至るカトリックの正統はアタナシウス派といいます。

 5世紀当時、ネストリウス派とヤコブ派というキリスト教の一派がアンティオケアでキリスト、つまりイエス、ジーザス・クライストが人間であって神とは別のものであるかどうかで大論争を引き起こしていました。それに対して、イエスと父なる神、精霊の三位一体、トリニティを主張していたのがアタナシウス派でした。

 最終的にはエフェソス公会議にてネストリウス派は異端とされました。一般的にその後彼らはアジアに逃れ、少数派となって勢力を失っていった、そして中国にもわたって景教と呼ばれた、というイメージをもたれています。

 ところが真相は違います。彼らはその後アンティオケアにて勢力を持ち続けていたというのが真実です。ネストリウス派などといいますが、本当はアッシリア教会というのが正しいのです。彼らはアッシリア、つまりシリアのアンティオケアにルーツをたどることの出来るキリスト教徒たちです。

 彼らはイスラム勢力が出てくるまではどこにいたのでしょうか。実は6世紀、ペルシャでササン朝が興ります。このゾロアスター教を国教としたことで有名なササン朝ペルシャ(Sassanid Empire)で彼らは東シリア教会と名乗ってヘレニズム学問の教育機関を各地に建て、それぞれがギリシャ思想の中心地となっていったのです。

 彼らはササン朝でギリシャ思想をまず、シリア語に翻訳しました。一般的にギリシャ思想はギリシャ語からアラビア語を経てラテン語に訳されたといわれますが、アラビア語へ直接変換される前にシリア語を経ていた訳です。

 キリスト教アッシリア教会の者たちが彼らの母語シリア語を使ってササン朝ペルシャ各地にギリシャ思想センターを作っていったということになります。

 そしていよいよ661年からのウマイヤ朝(Umayyad Caliphate)ということになるわけですが、ササン朝の学院の中にジュンディ・シャーブーハ学院というのがあって、ウマイヤ朝5代目カリフ、ハールーン・アッラシードがこれをそっくりそのまま受け継いで「知恵の宝庫、キザナート・アルクヒマ」という学院を作ります。

 これがアッバース朝に受け継がれて7代目カリフ、マームーンのもと、832年にバグダッド王宮に「知恵の館」という翻訳・注釈学院が設立されます。ここに、学問の中心は古代から続くバビロンからバグダッドに移るという世紀の大事件が起こるのです。

 この学院でアッシリア教会のキリスト教徒たちが何世代にもわたって指導的役割を果たし、ギリシャ思想と科学を持ち込み、いよいよアラビア語への翻訳活動を始めたのです。

 バグダッドには大勢の優れた翻訳家がいてアッバース朝の前半期に「翻訳の黄金時代」(767―912年)が現出しました。

 この700年から900年代、紀元8世紀から10世紀というのはイスラム暦では2世紀から4世紀にあたります。

 その前のイスラム暦1世紀はどうであったかというと、このギリシャ思想の翻訳家たちがバグダッドに流入する以前、学問の中心地はムハンマドが遷都したメディナであったのです。ここで純粋なイスラムの基本的な研究、つまり注釈活動が行われていました。

 なぜメディナかというと、やはりムハンマドがいたわけですから、ムハンマドの教えを直接聞いた同時代人がたくさんいたわけです。それで彼らからムハンマドの教えを聞こうと世界から学生がメディナに集中していったのです。

 なんといってもこのメディナで初めてコーランがまとめられ、ムハンマドの伝承であるハディースが初めて収録されたということが重要です。(『イスラム入門』、168ページ)

 メディナこそがイスラム正統派の学問の中心でした。

 こうしてここメディナに集まった学生たちによってコーラン注釈、ハディース、シャリーア(イスラム神聖法)、カラーム(神学)が研究されていきました。

 この時期の強いイスラムの基本的な学問的研究により、後のギリシャ思想の大量流入の際にもアリストテレスの『ニコマコス倫理学』と『政治学』にはあまり関心を払われませんでした。必要とされなかったのでしょう。(『イスラム入門』、256ページ)

 

エクリブ思想―均等公益理論と名づけます

 さて、私、鴨川はこのエッセイを神学対合理(理性、ラチオ、強欲拝金思想)の対立という副島理論の追試、事実の集積による証明の一環として書いています。エクィリブリアム理論、私はこれをエクリブ理論、均等公益理論(きんとうこうえきりろん)と名づけようと思いますが、このエクリブ理論という重要な考え方がいかに発展してきたか、それをギリシャ思想、仏教、ユダヤ思想、イスラム思想の発展を、段階を追いながらこれまで注目されてこなかった重大な真実を掘り返していくという役割を担っています。

 このイスラム思想の研究は、いかにして正当なイスラム神学が合理を旨とする集団に侵食されていったか、いかにアリストテレスが利用され、拒絶されてきたかを、中世のイスラム世界においてみてみようという試みです。

 

ササン朝ペルシャでアッシリア協会、ネストリウス派キリスト教は発展した

 イスラムはこれまで述べてきたように、イスラム一世紀にまず正統派の思想がメディナにおいて確立されました。これがカラームです。カラームとはイスラム神学、つまりシオロジーということです。神という真理、前提があり、神に対する疑問、理由、説明を一切拒むものです。

 そしてイスラム2世紀、つまり西暦の700年代から800年代、8、9世紀にバグダッドにムータジラ派が現れます。彼らによってイスラム神学、カラームが攻撃を受け始めます。

 バグダッドはアッシリア協会(ネストリウス派)キリスト教徒の優れたアリストテレス翻訳家の牙城(がじょう)となっていました。

 本論文のテーマは、イスラム神学に合理、レイシオを持ち込んだムータジラ派という哲学集団なのですが、追い出されたことになっているアッシリア派キリスト教徒たちがそのままムータジラ派になったのかどうか分かりません。

 ササン朝ペルシャで発展し、シリア語にギリシャ思想を翻訳した彼らは、ムータジラ思想に多大な影響を及ぼしたことは間違いないでしょう。ネストリウス派という集団がムータジラとどのような関係があり、その実態は何であったのかを追求することは重要だと思います。

 

ムータジラ派とアシュアリー、反合理主義者たち

 ムータジラ派が出てくる前に、アッシリア派の翻訳・注釈活動は、バスラとクーファにおいて文法研究をすることから始まりました。この文法研究が、後のスーフィズムや神秘主義のルルス等へ影響を与え、アッシリア派の翻訳・注釈活動は、ムータジラ派とはまた別にスーフィズムを生み出していきました。

 私はこの項ではスーフィズム等の神秘主義の系譜は今のところ追求しません。安易な陰謀理論、共謀共同正犯理論に陥りやすく、範囲も定まらなくなるからです。それでもこのスーフィズムやカバラ、ゾロアスター、ヘルメス・トリスメジストス、グノーシス、ネオ・プラトニズム、密教(エソテリック、タントリズム、ヴァジラヤーナ・ブディズム)、バール神崇拝やトペテで行われていたフェニキア人たちの儀式殺人、子供殺しのモロク崇拝、シャバタイ・ツヴィといった系譜は近いうちに徹底的に調べようと思います。

 さてムータジラ派がこの翻訳・注釈活動の渦の中から興ってくるわけですが、その創設者はワーシル・ブン・アターという人物です。ムータジラ派はアッバース朝7代カリフ、マームーンのもとで全盛を極め、スンニーは社会の中でカラームを支配しました。

 ムータジラ派は神の唯一性、超越性を主張する「理知主義」的解釈を始めました(『西洋思想大事典』、91ページ)。彼らの主張は次のとおりです。『西洋思想大辞典』から引用します。

(引用開始)

 神の唯一性、神の正義、善行に対する報酬の約束と大罪に対する懲罰による威嚇、信仰と不信仰の間にはある中間の状態が存在しうるという確信、そして最後は善を勧め不義を禁じることの強調である。(91ページ)

(引用終わり)

 この主張には驚かされました。典型的な「合理」主義、レイシオの思想、エクィリブリアムの思想だからです。まず「報酬と、見返り、懲罰」というのはまさにラショナル・チョイス、合理的選択の思想です。

 人間は間違いなく合理、合利的選択をするはずだ、つまり、損をせず得をするほうを自然に選ぶはずだ、という前提のもと「善行と報酬、罪に対する懲罰」という選択=エサを与え、報酬を選ばせるという強欲思想です。

 そして「信仰と不信仰の間にはある中間の状態が存在する」というのはこのラショナル・チョイスのもととなる「均衡理論(きんこうりろん)、エクィリブリアム・セオリー、中間、中道、中庸」の思想のことです。

 アリストテレスはこれを初めて『ニコマコス倫理学』で展開しました。ブッダも同じことを言っていますし、この理論的展開がナーガールジュナの『中論』です。『中論』は大乗仏教の「中観(中がん、ちゅうよう、ちゅうどう)派」の根本理論書です。『中論』『百論』『十二門論』といって、これを日本では三論宗といいます。

 このムータジラ派の思想は明らかにプラトン、アリストテレスの展開したエクィリブリアム・セオリーそのものなのです。

 この理論はそのすぐ後、翻訳・注釈の絶頂期のアッバース朝にあってアシュアリーという人物による挑戦を受けることになります。ムータジラ派が神を実体としてではなく哲学的抽象として見たのに対し、アシュアリーは「神の具体的実在を回復し、神聖概念をイスラムのエートスに近くなるように」(『西洋思想大事典』、92ページ)論理を展開しました。アシュアリーは原子論においても物事の因果関係を否定したのですが、この考えはデヴィッド・ヒュームの考え方に極めて近いものだそうです(『西洋思想大事典』、92ページ)。

 アシュアリー派は相当に強力な存在であるようで「哲学に対する、また知識への合理的アプローチに基礎を置く神智学的哲学的学派すべてに対する主要な敵対者」となったのです(『西洋思想大事典』、92ページ)。『西洋思想大辞典』から引用します。

(引用開始)

 実在の理解には理性の力は無力であることを示し、人間の心を開いて、啓示が真実であることを理解できるようにさせることであった。(92ページ)

(引用開始)

 アシュアリー派のこの思想はムータジラ派に取って代わり、スンニー派の間でのムータジラ派によるカラーム支配は今日まで続いています。(『西洋思想大事典』、92ページ)

(つづく)