「0006」 論文 イスラム研究―ムータジラ派、強欲の思想、つまり理性と信仰を融合させようとした人々(2) 鴨川光筆 2009年3月8日

 

9世紀、バグダッドでアル・キンディーがはじめて「理性」を持ち込む

 話が前後しますが、時を少し逆戻りして、翻訳最盛期の9世紀の話をします。

 9世紀のバグダッドでの翻訳活動が頂点に達したときに登場したムータジラ派の最初の大物はアル・キンディー(Al-Kindi、801―873年)です。

アル・キンディー

 このキンディーがムータジラ派を実質的に創始した人物です。翻訳・注釈最盛期にバグダッドにあって、正統派のコーラン解釈に反発し、信仰理解に哲学的基盤を与えました。

 彼の『知性論』はアリストテレスの『霊魂論(デ・アニマ)』に基づいており、ラテン語訳によって西欧に広く知られるようになりました。キンディーは新プラトン主義のプロティノスの影響があります。プロティノスは流出論(りゅうしゅつろん)の祖です。流出論とは因果律、因果論のことです。

 キンディーを継承したのはファーラビー(Farabi)という人物です。クラウス・リーゼンフーバーは、著書『中世思想史』(村井則夫訳、平凡社)で、このファーラビーから哲学者たちは理性をはっきりと導入し始めた、と指摘しています(870ページ)。また、『中世思想史』から重要な部分を引用します。

(引用開始)

 根本的には唯一の真なる宗教、つまり神の理性的認識による宗教のみが存在する。(253ページ)

(引用終わり)

 ここにはっきりと理性、つまり合理、レイシオという言葉を持ち込んで、信仰と理性は矛盾しないということをイスラム史上初めて宣言しています。

 ファーラビーは、イスラム教徒の間では「第二の師」と呼ばれていました(『西洋思想大事典』、94ページ)。「第一の師」は、アリストテレスです。ファーラビーの思想系譜にはトマス・アクィナスとダンテ(Dante Alighieri)が続きます。それほどの大物です。

ダンテ

 ファーラビーがなぜ「第二の師、第二のアリストテレス」と呼ばれたか。それはアリストテレスのやった「知識の諸領域の限界を明らかにし、諸学の分類・整理」(『西洋思想大事典』、94ページ)をしたからです。

 アリストテレスがギリシャ文明に対してやったことをそのままイスラム世界で行いました。この学問分類の作業は『諸学問について』という著作に結実し、ラテン語訳されて西欧に伝わります。これが中世の大学での「自由学芸」つまりリベラル・アーツ(Liberal Arts)、ヒューマニティーズ(Humanities)という日本では一般教養などと呼ばれているカリキュラムを決定したのです(『西洋思想大事典』、94ページ)。つまりファーラビーが人文といわれるヒューマニティーズの父なのです。日本の大学一、二年生の授業のもとといえます。

 ファーラビー自身のアリストテレス翻訳は、『形而上学(形而上学)』と『オルガノン(論理学の著作群)』という重要な著作になされています。

 形而上学というのはいわば神学の哲学、いや哲学の神学です。神、超自然のことを考える哲学ですから、これがイスラム教の信仰に理性を導入したことに役立ったのでしょう。

 ファーラビーはイスラム政治哲学の祖とも言われています。しかしこの分野ではアリストテレスの中でも最重要な著作『政治学』ではなく、なぜかプラトンの『国家』と『法律』を踏襲(とうしゅう)しています。

 つまり哲人王を中心にエリートのみによる寡頭政治(かとうせいじ)を志向するということです。そしてイスラム神聖法、シャリーアにプラトンのノモス=人為法、人定法、ポジティヴ・ラーを組み込むという行いです。これは自然法対人定法という大きな対立構造の流れの中にあるものです。これは現在も続いています。『中世思想史』から引用します。

(引用開始)

 国家組織における社会階層の厳密な位階制は、宇宙の必然的な流出段階に対応させられ、同様に―プラトンの哲人王に倣って―哲学者にして預言者である君主においてその頂点に達するものと考えられている。(253ページ)

(引用終わり)

 ファーラビーの政治思想は、後代のほとんどすべての考案に足跡を残し、アヴェロイスの著作にもその跡が見られます(『西洋思想大事典』、94ページ)。

 ムータジラ派はこの後アシュアリーによる手痛い攻撃を受けたあと、この地においての最後の大物が登場します。

 それがアヴィセンナ(Avicenna)(イブン・シーナー、980―1037年)です。

 

セルジュク朝ニザー・ミーヤ学院にてイブン・シーナー(Ibn Sina)滅ぼされる

アヴィセンナ(イブン・シーナー)

 彼の思想は、形而上学の分野でトマス・アクィナスとドゥンス・スコトゥスに多大な影響を及ぼしました(『西洋思想大事典』、94ページ)。

 実質的な中世ヨーロッパのスコラ哲学の祖ともみなされています。

 アヴィセンナはウズベキスタン生まれで、諸侯の王宮の太守の下にいました。

 彼の本業は医者で、著書『医学典範』はガレノスに並んで、1100年から1500年の400年間、標準的な医学の教科書でありました。

 またもうひとつ著名なのは『治癒の書』で、西欧ではアリストテレスの作品として知られていました。この本で、動植鉱物三界の全ての研究が初めてまとめ上げられたほどの重要文献でした。

 哲学的にはオックスフォードやパリへ及ぼした影響が強く、神の存在論とプラトンによる流出論をロジャー・ベーコン、トマス・アクィナス、ドゥンス・スコトゥスに伝えました。

 『神学大全(スンマ・セオロジア)』で神の存在を論理的に証明したとされるトマス・アクィナスの神の存在証明の「第三議論」はアヴィセンナが起源だったのです(『西洋思想大事典』、95ぺージ)。

 イスラム暦2、3、4世紀(西暦8、9、10世紀)が終わり、イスラム5世紀(西暦11世紀)になると、セルジュク・トルコ(1038―1194年)が勃興します。これによってイスラム世界が再統合されると、正統的なイスラム神学、カラーム研究が再考し、アシュアリー派が再び力を増してくることになります。この時、イスラム世界では、大学システムが構築され始め、これが中世西欧の大学のモデルになります。

 その中でも宰相ニザー・アル・ムルクの作ったニザー・ミーヤ学院はセルジュク朝のアシュアリー派の学院だったのです(『イスラム事典』)。

 このセルジュク朝の最盛期にぴったりとその活躍した期間が重なるのが、ガザーリー(al-Ghazali、1058―1111年)です。

ガザーリー

 ガザーリーはイスラム知性史上最も影響力のあった人物とされています。スンニー派の方向性はこのガザーリーによって決定づけられたというほどの人物です(『西洋思想大事典』、97ページ)。

 アシュアリーはカラーム学者なのですが、完全な正統派かというとそういうわけでもなく、強力なスーフィー、つまりイスラム神秘主義、スーフィズム支持者でもあります。彼によってスーフィズムはニザー・ミーヤ学院の正課となりました。

 ガザーリーはカラーム神学の立場からムータジラ派の合理、合利、理性、ラショナリズムへの攻撃を開始します。

 ガザーリーの主張は「理性は全真理を包含(ほうがん)し、真理の自らその立場にない領域にまで、その偏った見解を押し付ける」(『西洋思想大事典』、97ページ)と言ってムータジラ派を批判し「理性の力を減じ、それを啓示に従属させようとした」(同書、97ページ)というものです。

 ガザーリーが、それまでの神学者以上にムータジラ派にとって非常に手強い相手であったのは、神の真理、存在を前提とせざるを得ない神学、シオロジーの立場からだけでなく、哲学者としても傑出した才能を見せた点です。

 彼の前にいたアッバース朝ムータジラ派のヒーロー、アヴィセンナは、期しくもガザーリーによって徹底的に、極めて客観的に要約され、『哲学者の意図』という著作に結実しました。皮肉なことにこれによってアヴィセンナの主張が後に西欧に伝わり、アヴィセンナが「アリストテレス主義の代表者」(『中世思想史』、263ページ)と目されたのです。

 そうしてアヴィセンナを完全に分解し、『哲学者の矛盾』の中で批判を開始します。この中でガザーリーはアヴィセンナの20のテーゼを論駁し、ついにムータジラ派のラショナリズムの支柱を破壊してしまいます。20のテーゼというのはプラトニズムの流出論です。流出論というのは因果律のことです。それは存在論、オントロジー(Ontology)にもつながり、仏教思想にも流れ込んでいる。この新プラトン、つまりプロティノスの流出論は非常に重要でさらなる探求が必要です。

 いずれにしろガザーリーによってムータジラ派の思想はイスラム世界アラビア語圏で終局に導かれたのです。

 その後ラージー(al-Rhazi、1149―1209年)によってガザーリーのアヴィセンナ攻撃は引き継がれ、アヴィセンナの『指示と論評の書』という著書を徹底的に批判しました。これによって東方イスラム世界のアリストテレス主義者の権威が失墜してしまったのです(『中世思想史』、265ページ)。

ラージー

 

イスラム知識人のディアスポラ―アンダルシアへの大移動

 こうしてアジアにおけるムータジラのラショナル、合利、強欲思想が滅びた後、知識人たちの大移動が始まります。イスラム文明の支配した西半分、モロッコなどのアフリカとイベリア半島南部、アンダルシア地方(Andalucia)に重要な知的活動がシフトしていきました。

 この地でムータジラ派のみならず、西欧の中世から近代に至るまで、つまり現代の世界にまで影響を及ぼした重要人物が登場することになります。

 アンダルシア地方には12世紀になるまでアシュアリー、ムータジラ派のどちらの優れた思想家、哲学者、神学者がいたことはなく、学問的不毛の地でした。

 最初の傑出した神学者・哲学者はイブン・ハズム(Ibn Hazm、994―1064年)という人です。イブン・ハズムはイスラム、ユダヤ、キリスト教思想の比較宗教史『諸宗派の書』を著しました。これはイスラム神秘主義の流れにあるライムンドゥス・ルルスが拠り所としました。これによってハズムは宗教思想史の祖と呼ばれることになります(『中世思想史』、266ページ)。

イブン・ハズム

 この当時、北アフリカとイベリア半島を支配していたのはムワッヒド朝(アルモデア朝ともいう 1130―1269年)というベルベル人の作った王朝が支配しており、イスラム哲学者、ムータジラ派が活躍しにくい環境にありました。

 ムワッヒド朝が倒れるとイブン・バーッシャ(Ibn Bajjah)、ラテン名をアヴェンパケ(Avempace)という人物が現れます。彼はファーラビーとアヴィセンナの正統な思想の継承者でした。アリストテレスの投射体運動理論を批判した人物で、「中世の力学上、重要な発展段階を代表」(『西洋思想大事典』、98ページ)する存在なのです。

 それはかの有名なガリレオの『天文対話』(1632年)には、アヴィセンナ起源の「インペトゥス理論(Impetus Theory)」と今日の科学者が「アヴェンパケの動力学(Ibn Bajjah's law of motion)」と呼んだものが含まれていることからも、イベリア半島で最初の重要な思想家でした。アヴェンパケはまたアリストテレスの『自然学』の注釈をした点でも重要です。

 アヴェンパケの後継者であるイブン・トゥーファイル(Ibn Tufail)も無視できない人なので書き添えておきます。

イブン・トゥーファイル

 彼の著作『ヤクザーンの子ハイイ(目覚めた者(神)の息子)の物語』は絶海の孤島に1人置き去りにされた者を主人公として、啓示によらずになされる自然な発展を追い、50歳の時点で哲学を超える神の神秘的認識を得る(『中世思想史』、267ページ)という物語です。

 これはダニエル・デフォー(Daniel Defoe)の『ロビンソン・クルーソー(Robinson Crusoe)』のモデルでもあり、ライプニッツの『独修の哲学者』の種本であるそうです(『西洋思想大事典』、98ページ)。

 ここまで概観しただけでも、いかにオリジナルはイスラムにあったかということがお分かりになると思います。世界史の教科書にも明白に書かれていますが、科学も哲学も、現代のわれわれが西欧のものだと思っていたものは、ほとんどがこの時代、つまりアッバース朝からセルジュク・トルコ、イベリア半島のコルドバにて生み出されていたことに、あらためて感銘を受けます。

 ここには、ユダヤ人思想家、歴代バビロンの学頭たちの力も大きいのですが、この稿ではすべて無視して話を進めていきます。

 そしていよいよ最後の大物で、西欧近代の本当のもとを作った思想家が登場します。

 

モダーンを作った男、アヴェロイス(Averroes)登場

 アヴェロイス(1126―1198年)は、今のスペインのコルドバで生まれました。当時のコルドバはアンダルシア地方、アンダルシアというのはイベリア半島の地中海側の海岸地方と考えていいのですが、イベリア半島における、学芸の中心地でした。コルドバにはユダヤ人のタルムード学者たちが大勢集まり、一種の翻訳王国が作られました。つまり私たちはもう知っているようにあのアッバース朝バグダッドの再現がここでなされたのです。

アヴェロイス

 アヴェロイスは、コルドバの著名な法学者一族の生まれで、当時最高の教育を受け、セビリアとコルドバの大裁判所長官(カーディ)となりました。と同時に医者でもあり、ムワッヒド朝カリフ、アブー・ヤークーブ・ユースフ(アブ・ヤコブ・ヨーゼフ、在位1163〜1184年)の宮廷医師となりました。彼の前任がトゥーファイルです(『中世思想史』、268ページ)。

 アヴェロイスはここでカリフの要請に応じてアリストテレスの注釈作業を始めることになります。

 このアヴェロイスこそコメンテイターとして西欧で知られた人物で、西欧はアヴェロイスによってアリストテレスを知ったのです。

 「中世全般に渡ってその人物像はアリストテレスと切っても切れなかった」(『西洋思想大事典』、99ページ)。といわれるほどで、現在私たちが知っているアリストテレスのほとんどがこのアヴェロイスの手によるものなのです。

 アヴェロイスに特筆すべきものの1つとして、それまでのアヴィセンナなどと違い、新プラトン主義の流出論の影響がないことが挙げられます。新プラトン主義、流出論、因果律理論、存在論(オントロギー)の問題はやはり無視できません。中世に至るまでこの思想がアリストテレスに入り混じってきます。私には、それ程にこの問題は放っておけない気持ちが増してきました。いつかやります。それゆえ、アヴェロイスの功績はおそらくは純粋なアリストテレスの考えを中世ヨーロッパ、そして、今に伝えたといえるでしょう。『中世思想史』から引用します。

(引用開始)

 彼の功績は古代末期のイスラームの哲学者に至るまで一般的に見られた新プラトン主義―とりわけ流出論―の傾向の強いアリストテレス解釈からアリストテレス自身の教えを救い出したところにある。

 アヴェロイスは、物体的実態が質量・形相、可能態・現実態によって構成されるという理論を改めて主張し、アヴィセンナによる本質と存在の区別を拒絶した。神は世界から切り離された制止的で述定不可能な一者ではなく純粋現実態であり、非質量ではあるが、肯定的な述語によって表されうる実体、または不動の動者である。(271ページ)

(引用終わり)

 この不動の動者というのは正しくはアンムーヴァブル・ムーヴァー(unmovable mover)といいます。全てのものの第一目的をあらわすもので、今のところそれが何のことを言っているのかわかりません。ただ因果律と流出理論を否定するものなのではあるのでしょう。

 アヴェロイスはアリストテレスの著作に38の注釈を加え、大中小の註解という風に分類していきました。『中世思想史』の著者クラウス・リーゼンフーバーによると、アリストテレスの5点の著作はこの3種がそっくり現存しているそうです(『中世思想史』、270ページ)。

 それでもアリストテレスの『政治学』は入手できなかったために、政治思想に関しては『ニコマコス倫理学』とプラトンの『国家』を註解しました。この2冊の著作こそエクリブ理論の「根本経典(こんぽんきょうてん)」なのです。

 アヴェロイスはバグダッドにおいてムータジラ派を根絶したガザーリーに対しての攻撃を開始します。ガザーリーがアヴィセンナを叩きのめした『哲学者の矛盾』に対して『矛盾の矛盾』を著します。

 この中でアヴェロイスはアリストテレスを根拠に理性を擁護し「アリストテレスによる証明の3区分によれば哲学者だけが神の存在の理性的証明を行いうる」として理性と啓示のおのおのを真理へ到達する別個の方法として公平に扱いました(『中世思想史』、270ページ)。

 この時点でイベリア半島にムータジラの伝統が復活するのですが、パトロンであるヤークーブ・ユースフが死ぬと情勢が変わります。

 

アヴェロイス、王の寵愛を失い、追放される

 ユースフの子ヤークーブ・マンスールがムワッヒド朝の王となると、アヴェロイスは1195年に、その寵愛を失い、イスラム正統派からの強い要請でアヴェロイスは告発され、アヴェロイスは追放されてしまいます。以後、アンダルシアでは哲学研究は禁止され、アヴェロイスの著作の焚書が行われて、法学と神学の著作はすべて紛失してしまいます。『矛盾の矛盾』だけがラテン、ヘブライ語訳で残るだけとなりました。

 アヴェロイス死後、イスラムの世界では哲学が消滅し、『歴史序説』で著名なイブン・ハルドゥーンの歴史学が存在するのみとなりました。

 このアヴェロイス、アヴィセンナらが徹底的に排撃され、時の為政者から禁じられたという事実が無数にある、それほどまでにイスラム世界、中世に至るまでムータジラ派の思想は嫌われたのです。

 このことの根本的な意味は何かというと、一般的に理性的、合理的などと訳されているラショナリズムが忌み嫌われたというのが真相です。ラショナリズムというのはすべてを割る、利益を取らざるを得なくさせられる、異常な金銭崇拝、強欲の思想というのがムータジラ派の正体だったということなのです。

 だからといって、イスラムも、仏教ですら、商取引を禁じてはいません。むしろ肯定しています。アリストテレスが、イソン、エクリブ理論で主張したことは、交易をすることは正しいということなのです。

 ではなぜラチオ、レイシオ、ラショナルなものが嫌われるのか。それは交易によってすべての人々がほぼ均等に満足するというエクリブ思想を逆手にとって、バランスの名のもとに、一部の人間たちが力を握ろうとするからです。新プラトン主義や流出理論、存在論はそのために考え出され、あるいは利用されたものなのだと思います。新プラトン主義とはニュー・プラトニズムではなくネオ・プラトニズムといいます。

 信仰、啓示の世界では、すべての人々に生きるために必要なもの、金を惜しみなく分け与える、ザカート、喜捨という思想があります。そこから日本の無尽(今は廃止された相互銀行がそれ)であるとか、お講(こう)、ロッジ(浄土真宗の蓮如が庶民を集めてお茶を振舞っておしゃべりさせたことなどもこれ)という思想が昔からあったのです。それとは相容れぬ拝金思想、利子をとる合理思想がイスラム世界では忌み嫌われ、追放されたのです。

 しかしこの後、アヴェロイスの思想はユダヤ人思想家モーゼス・マイモニデスに受け継がれ、ドイツやイギリスに渡っていきます。

 そしてキリスト教に紛れ込んだスコラ学者(スクールメンという)マグヌス・アルベルトゥスとトマス・アクィナスによって合理(合利)思想は復活し、ルネサンス、近代を迎えることとなります。

(おわり)