「0009」 論文 和解(わげ)ということ 鴨川光(かもがわひろし)筆 2009年3月17日

 

 本日は、「説明すること」の本当の意味についてお話してみようと思います。

説明するということこそモダーン・サイエンスの要

 「説明する」とは英語でエクスプレイン(explain)といいます。

 単語の中にプレイン(plain)という言葉が入っているのがわかると思います。プレインとは平野のことです。見渡す限り何の障害物もなく、すべてが見通せる状態のことです。そこから物事を相手に伝えるときも明確で明白な物言いをしなければならないということです。

 つまり説明するということとは相手が子供であろうと誰であろうとはっきりわからせる、明白に物事を簡単に相手に伝え、わからせる技術のことなのです。

 エクスプレインの頭についているエクスexとは何かというと、これは「外に出す」という意味です。つまり自分の脳の中にある考えを外にはっきりとわかりやすく明らかにするということです。

 これはすべてをオーヴァートリー(overtly)にする、包み隠さず明白にする、明らかにするという態度で、500年前から始まったモダーン・サイエンス(modern sciences)の基本的な考え方に通じることなのです。西洋人は英語を中心にしたその言語構造からも、説明するということに子供のころから精通しています。

 オーヴァートリーの反対の言葉はコヴァートリー(covertly)といって、物事にカヴァーがかかっていて見えない、隠されている状態です。自然界の真実を「発見する」というのはこのカヴァーを取るという意味なのです。発見のもとの言葉はディスカヴァー(discover)といいます。頭のディスがこの場合「とる」という意味合いです。

 

「説明する」の対義語は「表現する」

 では「説明する」の反対の言葉は何でしょうか。それは、「表現する」です。このことは辞書にも載っていません。受験の教科書には対義語や類義語がたくさん載っていて、これらをすぐに言えるようにして語彙を増やせといわれます。「絶対」の反対は「相対」であるとか。

 こんないんちきな話はありません。「相対」とか「相対的な」などという言葉はそもそも存在しないからです。「相対」というのはそもそもリレティヴィティ一(relativity)という言葉で、「相関(そうかん)」というのが正しいのです。だから相対性理論というのもありません。相関性理論です。

 それは英語のことで、日本語はこうだからいいじゃないか、などといってはいけないと思うのです。そもそも現在私たちが使っているような二字熟語は江戸時代後期から明治、昭和にかけて無理やり、必死になって英語に感じを当てはめたものなのですから。

 実はこのことこそがこの文章のテーマ「和解(わげ)」なのですが、それは後ほど話します。

 さて、日本で「説明する」の対義語は、「表現する」であるということを知っているのは私だけです。きちんと説明できて理解しているのは私だけです。塾で小学生を教えていた経験から言えることなのですが、こんなに基本的な、私たちの生活に必要な最低限度の言葉すらも日本の教育ではきちんと定義がなされていないのです。これは日本人である私たちにとって致命的なことです。

 

特急コーヒー、エスプレッソが表現と同じもの

 さて対義語は「表現する」です。表現の元の言葉は、エクスプレス(express)といいます。頭のエクスexをとるとプレスpressだけが残ります。プレスはわかると思います。ぐっと圧力をかけることです。押し付ける、押し込むことです。

 私にはなぜこれが表現という言葉のもとなのか不思議です。少なくとも私には不思議でしょうがなかった。絵や詩、音楽などで自分の気持ちなどを表すことがなぜプレスなのでしょうか。プレインの反対の意味というわけでもありません。プレインとはぜんぜん関係がありません。

 これは頭、脳の中にあるもの、考え、感情を表に出す、ということです。感情の迸り(ほとばしり)といいますがまさに水が勢いよくバァーっと飛び出していく、あの感じ、あれがエクスプレスなのです。

 エスプレッソというコーヒーがあります。エスプレッソespressoとはエクスプレスのイタリア語です。ラテン語系の言葉ではエックスを発音しないで省くことが多々あります。だからエクスプレッソではなくエスプレッソといいます。

 私はよく近所のドトール・コーヒーを利用するのですが、10年ぐらい前からドトールのような安価なセルフ・サービスのカフェに入ると「ブシューッ」という音が聞こえてきます。皆さんもお聞き覚えがあるでしょう。今でこそこれはエスプレッソとかカプチーノを作っている機械の音だとわかるのですが、それが聞こえた初めのころは「なぜ喫茶店で、あんな爆発音、熱湯のほとばしりの音がするのだろう、と不思議でした。

 あれがまさにエクスプレスなのです。エクスプレスのイメージそのものです。エスプレッソ・コーヒーは熱湯にものすごい圧力をかけてブシューっとうまいところだけを抽出して作ります。だからエスプレッソなのです。

 もうひとつ。普通エクスプレスというと特急列車を思い出しませんか。成田エクスプレスとかそういう特急列車はエクスプレスといいますね。新幹線のことをスーパー・エクスプレス・トレインといいますが別名ブレット・トレイン(bullet train)、「弾丸列車(だんがんれっしゃ)」といいます。

 あの弾丸がまさにエクスプレスです。狭い銃身のなかで火薬が爆発し、そのときのものすごい圧力で人間には出すことのできないものすごい勢いで弾丸が飛び出す。エスプレッソとおんなじです。

 特急列車もまさにこれと同じイメージなのです。だから「エクスプレス・トレイン、表現列車」という名前がつけられているのです。というより、表現、説明のほうがもとの英語に当てはめられたいい加減な言葉なのです。

 この特急列車や熱湯、弾丸がバーっと噴出すこと、これと人間の感情をバーっと噴出することが同じエクスプレスなのです。

 

「表現」「詩」「韻文」「比喩」はすべて同じもの

 ところで「表現」とは比喩(ひゆ)のことです。比喩の別名です。「何々は何々のようだ」というたとえのことです。二つの物事の共通点、似ているところを結び付けてたとえることです。

 たとえば「あの雲は綿菓子のようだ」というように、「白くてふわふわしている」という共通点を捉えて表現したものです。ですから詩(poem、ポエム、ポエジー)は比喩の塊です。表現です。詩や音楽の歌詞(リリクス、lyrics)はこうした理由から近代学問(モダーン・サイエンス)の対極にあるといえるのです。

 ガストン・バシュラール(Gaston Bachelard、1884−1962)という科学者と文学者をあわしたようなフランスの哲学者がいますが、『空間の科学』とか『火の詩学』といった興味を惹かれるタイトルの本が、私が大学生だった1980年代の終わりごろに盛んに本屋さんに並んでいました。

 面白そうだなあと思ってよく手にとって見ましたが、なぜ自然科学を専攻している人が詩に関する論文を書いているのか当時はわかりませんでした。湯川秀樹も物理学の研究と詩は共通するところがあるというようなことをいっていたような気がします。

 それは今挙げたような理由があったからなのです。表現と説明は語源の上からも対義語である。このことに気づいたとき私の疑問は一気に氷解しました。

 説明と表現両方に言えることは、必ず事実に基づかなくてはならないということです。事実という言葉もきちんと定義しなくてはいけませんが、ここでは簡単に「見たり聞いたりしたこと、そしてそれを記述したもの」ということです。ですから近代学問は引用文の明示や実験、観測を重視します。

 表現は感情のほとばしりといいましたが、それは自分がきちんと経験した物事を受け取って比喩という技術を使って言い表さなければならないものなのです。

 

「表現」の反対方向の対義語は「印象」

 もう少し表現のことを続けます。いま、「自分が経験したことを受け取って」といいましたが、この心、頭の中で現実に見たり聞いたりしたものを受け取ることを「インプレス(impress)」といいます。インプレスは普通「印象(いんしょう)」と訳されますが、これは印象だけではなく「感銘を受ける、感動する」という意味にもなります。

 インプレスという文字を見れば皆さんはもうお分かりかと思います。この中にもプレスという言葉があります。そして今度はプレスされる方向が違います。イン(イム)imという言葉が頭についています。これは「中に向けて、内側に」という意味です。つまりさっきのエクスプレスとは逆方向に、外側、ほかの人に向けてではなく、イン、内側、つまり自分自身に向けられているわけです。

 何が向けられているかというと、自分が見たり聞いたりしたもの、五感で感じ取ったものがあまりにも素晴らしくって、風景とか、音楽があまりにも素晴らしくて忘れられない、それでそれらが心、頭の中に残った状態のことを言うのです。だから「あの風景が心に残った、感銘を受けた、感動した、印象にのこった」というわけです。

 つまり表現、詩とは、「五感を通じて心の中に強く圧力をかけられて残ったものを、今度は比喩などの技術を使って外側にブシューっと圧力をかけてほとばしらせる」ということです。感動的に歌い上げることがまさにそれ。歌の上手い歌手とはこのインプレスとエクスプレスを素直に、上手に表に出せる人のことなのです。

 説明、表現、印象(感銘、感動、感想も印象と同じ意味の言葉)。この三つの言葉は強い関連性があり、私たちの日常に欠かせない密接なつながりのある言葉なのです。

 そして、説明するということはそこに「平野」という意味が入っているように、相手に対してすべてをわかるようにしてあげる、魔術的なあいまいさのない、曇りのない状態で相手に伝えてあげる。このような使命があるのです。相手に対する配慮であり、人間の交際には欠かすことのできないコミュニケーションの基本なのです。

 新聞の一面の記事がまさにそうです。新聞一面の事件や災害、列車のダイヤの状況があいまいで曇りがかっていたような説明だったら当事者になったとき、それこそ困ったものでしょう。

 

「理系バカ」とは説明できない人のこと

 逆に説明できないということは馬鹿ということです。これはいわゆる理系の「頭のよい人」に多いことです。彼らは途中で説明できなくなると「お前にはわからないよ」とでもいうような薄ら笑いと目配せをします。これは「本当はその質問には答えられない、知らない、考えてもわからない、そこまで考えたこともない」といえばいいことなのです。

 そして、理系であれ文系であれ、職人であれ商売人であれ、物事をよく知っていて立派に仕事のできる人は常にこの謙虚な姿勢をお持ちの方が多いということもひとつ付け加えておきたいと思います。

 ただ、ちょっといっておかなければならないのは日本人ができないというのではなく、日本語では、そしておそらく中国語も、東アジアの言葉、ウラル・アルタイ語系の言葉では説明、エクスプレインはできない、ということがあります。

 日本語でできることは歴史的に「わけ、和解(わげ)」だけです。

 次はこの「わげ」について話したいと思います。

 

「説明」という行為は日本語ではできない―できるのは和解(わげ)だけである

 江戸時代に『ハルマ和解(わげ)』という蘭和辞典がありました。初めてのオランダ語辞典です。本来は日本人が独自に作るはずだったのが、手間がかかりすぎて結局はもともとある仏蘭辞典をそのまま和訳したようです。

 これこそがまさに「わげ」なのです。

 「わげ」というのを私に話してくれたのは副島隆彦先生です。そのときのことがずっと心に引っかかっていました。

 「いいか鴨川。わげというのがあってな、日本には翻訳したり説明したりすることはできないんだ。ほら、何々なわけ〜といったりするだろ。それしかないんだ」とおっしゃっていたのを覚えています。

 これがずっと引っかかっていました。

 これを聞いて私ははっとしました。

 日本語では説明はできない、理由を述べたり、物事を論理だてて考えたり、疑問すら持ちづらいのだと。当然ディベートなどできない。ただの言い合いにしかなりません。

 英語教育者の松本道弘(まつもとみちひろ)氏が言っていましたが、日本語によるコミュニケーションには論理の基本となるイエス(yes)とノー(no)、ホワイ(why)とビコーズ(because)、ホワット(what)、イフ(if)といった言葉がないということだそうです。私も日々の実体験からわかることですが、相手に対して「なぜ」と素朴な疑問を問いかけても相手は不機嫌な顔をします。

 私も小学生に国語を教えていましたので松本道弘先生の言っていたこともよくわかります。皆さん、小学生のとき学校の国語の授業で何を習ったでしょうか。漢字を練習したことと作文、後は夕鶴とかのような物語がいくつか浮かぶだけでしょう。

 塾では説明文、論説文、物語、随筆、詩、短歌・俳句を教えていました。しかし教えれば教えるほど説明文なるものは何なのか、という疑問がずっとありました。

 世界的な枠組みではオピニオン(opinion、コメンタリー)とアナリシス(analysis)しかありません。説明文などありません。いや、説明ということもこの英語やドイツ語などの論文の形式をものすごく簡単にして無理やり日本語に当てはめただけなのです。

 私は無理やりそれを論理的に分解して授業をしていましたが、そんなことをしても本当のところ子供には力はつきませんでした。日本語で書かれたものを、論理という体裁で説明しても、そもそも論理の基本がない言語なのですから無理があるのです。

 私は先ほど日本語では説明はできないといいましたが、表現はできます。つまり詩や歌というものは古代からあったことからもわかりますが、これはできるのです。といっても日本の明治以降の近代詩はシェリー(Percy Bysshe Shelley、1792ー1822)やキーツ(John Keats、1795ー1821)といったイギリスのロマン主義詩人やボードレール(Charles Pierre Baudelaire、1821ー1867)などの象徴主義詩人を翻訳したようなものなのですけれども。

 それでも表現はできます。結局のとこを日本語による「文章」は半韻文とも言うべき随筆しかないのです。随筆が一番味があります。随筆とは自分の体験と感想を比喩などの表現を織り交ぜて書かれた、一種の散文詩です。西洋のエッセイとは違います。これは小論文です。

 私はそれもわかっているので今この文章を書いているときでも随筆を書いているつもりです。いや随筆にしかなりません。

 詩の表現には全部で十一あります。比喩(直喩、メタファーと暗喩、シミリ)、擬人法、倒置法、省略、擬音語、擬態語、脚韻、対句、繰り返し、体言止めです。

 私は簡単な随筆を書いて副島先生に送ったときにこうしたものを使ってわざと書いたことがあります。今でも体言止と倒置法は使います。日本語として自然だからです。

 それを呼んだ先生は、さすがにこういいました。「あれはヴァーズだな」と。

 ヴァーズ(verse)とは韻文のことです。韻文とは詩そのものです。さすがに先生にはすぐに気づかれてしまったという経験があります。

 話を元に戻すと、日本語では和解(わげ)しかできないということです。

 和解とは翻訳のことです。よく言われることですが日本は翻訳文化なのです。いや日本語では翻訳しかできないのです。

 いやいや、日本語の翻訳というのは翻訳ではすらない。本来の翻訳、トランスレイション(translation)というのは言語を別の言語にただ単純に移し変えるのではなく、意味を忠実に探って別の言い方にするということなのです。これをインタープリテーション(interpretation)といいます。通訳という翻訳が与えられています。ですから日本語の内容をもっとわかりやすく日本語の別の言葉に移し変えて説明することもインタープリテーションなのです。

 日本語の翻訳も中国語の翻訳も、これは漢字によるところが多いのですが、インドから以西の言語を移し変える際に、似たような意味を持つ感じを類推して当てはめるという作業をやっているに過ぎないのです。

 意味がわからなかったり、人の名前だったりする場合は音だけをとって当てはめたりする。ただそれだけに過ぎないのです。そういった問題が漢字にも日本語にもあるのです。きちんと説明する、理由を言う、論理を筋立て言うということは日本語ではできないのです。

 このように本来の翻訳、トランスレイションとは元の意味の正確な移し変えで、それだけでは足りないから注釈、コメンタリーがあるのです。

 日本語で行われているホンヤクは、言語の当てはめにしか過ぎません。類推、アナロジーによる当てはめなのです。アナリシス(分析、分解)ではありません。

 そういう問題が日本語にはあって、私たちは普段の生活のコミュニケーションにいろいろと苦労をせざるを得ない。学校で習ったことや、書かれている言葉とはぜんぜん違った言葉で話しているわけです。

(おわり)