「0010」 論文 メジャーズ、世界制覇への道  山田宏哉(やまだひろや)筆  2009年3月19日

 

1.スタンダード・オイルとロックフェラーT世の生い立ち

 石油が産業として始まったのは、1860年頃のことだ。

 当初、石油は、照明用のエネルギーとして普及していった。灯油を用いる石油ランプである。それまでは、灯油としては、鯨油が使われていた。そのため、アメリカは鯨を乱獲した。

 1859年、アメリカのペンシルヴェニア州タイタスビルにおいて、山師エドウィン・ドレークは、石油の採掘に成功した。電灯、ディーゼル機関が発明された後は、機械の燃料用として、石油の需要が高まった。

 ドレークの発見以後、数年で石油抜きのアメリカは考えられなくなった。日本近海まではるばる捕鯨漁にきていたアメリカの捕鯨産業は、一気にさびれた。

 この石油採掘を、近代産業へと仕立て上げた人物こそが、ジョン.D.ロックフェラー(John D. Rockefeller I、ロックフェラーT世)である。当初の石油採掘は、一攫千金を夢見たゴールドラッシュのようなもので、一種のギャンブルだった。

ジョン・D・ロックフェラー(1839ー1937)

 1839年、ロックフェラーT世は、薬の売人の息子として生まれた。母親のイライザは、厳格なピューリタンだった。しかし、注目されるのは、むしろ父親の方である。

 ハワード・ミーンズの『マネー&パワー 富豪たちの千年史』(斎藤精一郎訳 東洋経済新報社)には、以下のように書かれている。

(引用ここから)

 父親からは、汚いやり方と策略の能力を含めて、母親とは全く反対の性質を受け継いだ。ウィリアム・「デビル・ビル」・ロックフェラーはインチキなセールスマンで、重婚者であった。さまざまな人物になりすまし北東部を旅して、何の価値もない治療薬を売っていた。(158ページ)

(引用ここまで)

 このような両親のもと、ロックフェラーT世は、16歳で高校を中退し、農作物仲介商の会計係を経て、19歳で独立する。1862 年にオハイオ州クリーブランドで石油精製工場を始めた。当時、石油精製業はブームだった。商才に恵まれ、2年後には、28歳にして石油販売で成功を収めている。

 前掲の『マネー&パワー』によれば、南北戦争が起こったとき、ロックフェラーとジョン・ピアモント・モルガン(John Piermont Morgan)は、ともに兵役につく歳だったが、300ドルを払って、首尾よく逃れた。金持ちのあいだでは、ごく当たり前のことだった。

ジョン・ピアモント・モルガン(1837ー1913)

 ロックフェラーの対抗馬のように言われるモルガン商会は、ロスチャイルド(Rothschild)財閥の、“アメリカ店舗”のような存在だ。J.P.モルガンの創始者である、ジョン・ピアモント・モルガンの父親、ジュニアス・スペンサー・モルガンは、ヨーロッパのロスチャイルド一族のいわば“大番頭”だった。

 そして、1870年、ロックフェラーT世は、スタンダード・オイル(Standard Oil、スタンダード石油会社)を設立する。このスタンダード・オイルこそは、ロックフェラー財閥の富と名声の起源である。

 ロックフェラーの手口は、鉄道業者と独占契約を結ぶことで、差別運賃をなどの特権を利用し、ライバル会社を駆逐する、というものだった。産業スパイや賄賂をも駆使した。まだ、石油産業自体が幼稚な段階で、輸送ルート、パイプライン、油田を強引に買収してしまえば、他社は手の出しようがなかった。こうして、ロックフェラーは、わずか10年余りで、独占企業体(monopoly、モノポリー)を形成するにいたる。

 

2.反トラスト法によるロックフェラー王国の解体

 1890年、米連邦政府は、反トラストを目的とした「シャーマン法(Sherman Antitrust Act)」を制定する。

 ロックフェラーは、スタンダード・オイル系企業の株式を評議会に信託(trust、トラスト)させ、その株式に基づく議決権を行使して、各社を支配管理していた。つまり、独占は、信託の形態をとっていた。だから、アンチ・トラスト(anti-trust)の独占禁止法なのである。

 シャーマン法により、ロックフェラーは、トラスト協定を放棄せざるを得なくなった。さらに、このシャーマン法を皮切りにして、以後、各州で反トラスト法が制定された。州の境を越えて、他州の企業の株式を保有することも、禁止となった。

 ただし、この独占禁止法制定の本音は、実質的な効果よりも、一般庶民の不満を静めるところにあった。

 さらに、抜け道があった。独占禁止法が制定されないままで、州の壁を越えた事業拡大が、事実上、放任されている州があったのだ。ニュージャージー州である。ロックフェラーT世は、このニュージャージーに、「スタンダード・オイル・オブ・ニュージャージー(Standard Oil of New Jersey)」という持ち株会社を設立し、他の州の石油企業群を再編・集中させていった。

 当然のことながら、ロックフェラーの姑息なやり方には、多くの批判が巻き起こった。当時のアメリカには、マックレーカーズ(Muckrakers)と呼ばれる社会悪を暴露するジャーナリストたちが出現しつつあった。ロックフェラー石油王国に対する告発記事は、一般庶民の怨嗟の声を代弁していた。

 この代表的な作品が、アイダ・ターベルが「マクルーア・マガジン(McClure’s Magazine)」に連載を始めた「スタンダード石油の歴史」である。この記事は、1902年から3年間に渡って続いた。ロックフェラー自身は、「マクルーア・マガジン」の記事に対する反論を拒否した。

「マクルーア・マガジン」の表紙

 そして、1906年、ワシントン連邦政府の司法長官は、スタンダード・オイルを反トラスト法違反で告発した。この裁判は、最高裁まで持ち込まれた。そして、1911年、ついにロックフェラー財閥解体の判決が下された。この結果、スタンダード・オイル傘下にあった38もの子会社群は、各州ごとに33の独立企業へと分割させられた。

 しかし、解体されたはずの各会社の大株主は、旧スタンダード・オイルのままであることに変わりなく、ロックフェラー自身が筆頭株主の地位を保ったままだった。

 

3.ロックフェラー三人娘の躍進

 さらに、財閥解体された中に、後のロックフェラーの基幹となる3社が含まれていた。

 まず、それまでの中核企業だった「スタンダード・オイル・オブ・ニュージャージー」(後の「エクソン(Exxon)」)。同じく、大きな規模を誇った「ニューヨーク・スタンダード(New York Standard)」(後の「モービル(Mobile)」)。さらに、「ソーカル(SoCal)」という略称で知られた「スタンダード・オイル・オブ・カリフォルニア(Standard Oil of California)」(後の「シェブロン(Chevron)」)である。

 このエクソン、モービル、ソーカルは、生粋のロックフェラー3人娘として、世界の石油市場を傘下に収めていくことになる。この3社は、財閥解体後も、共同歩調を取った。

 規模の面で圧倒的優位な地位を占めていたのがエクソンである。財閥解体後の1917年、若きウォルター・ティーゲル(Walter C. Teagle、1878ー1962)がエクソン社長に就任した。エクソンは、ティーゲルの指揮の下、大きく経営戦略を転換する。原油生産部門が弱体化してしまったからだ。瀬木耿太郎著『石油を支配する者』(岩波書店)から引用します。

ウォルター・ティーゲル

(引用ここから)

 それまでのジャージー[エクソン]は、海外では、自己の市場に近い原油の供給源にしか興味を示さなかった。それに対して、ティーゲルは、石油の存在するところ、世界中どこへでも出かけていくと宣言したのである。(38ページ)

(引用ここまで)

 この方向転換は、決定的な意味を持っている。さらに、ロックフェラーが舵取りを変えたことで、アメリカの外交政策ともリンクして、イギリスの石油会社と利権を巡って、正面衝突するようになったのだ。

 モービルもまた、原油生産部門がどうしても弱かった。そのため、原油を求めて外国に手を伸ばす好戦的な企業だった。

 一方、ソーカルは、財閥解体の11年前に、ロックフェラー帝国の一部となった。ソーカルは、カリフォルニアの石油を土台にし、鉄道を生かして、アメリカ西海岸で支配的な地位を築くようになる。インドネシアや中東方面での利権拡大に動くようになる。ソーカルは、販売部門が弱かった。

 

4.テキサス油田発見でテキサコとガルフ・オイルが誕生

 1901年、テキサス州のスピンドルトップで新油田が発見された。発見したのは、アンソニー・ルーカスという優秀な技師である。

 ここから、後にセブン・シスターズ(Seven Sisters)の一角をしめる、テキサコ(Texaco)とガルフ・オイル(Gulf Oil)が誕生する。

 アンソニー・ルーカスを支援していたジェイムズ・ガフィ大佐は、メロン財閥の援助を受け、ガフィ・オイルを設立した。当時、メロン財閥は、ロックフェラーの強力なライバルだった。

 ガフィは、「愛すべきテキサス人」の体現者ではあったが、経営面では無能だった。そのため、パトロンであるメロン家を失望させた。

 1907年には、メロン財閥は、ガフィ・オイルの資金枯渇に乗じて株式の大半を買い占め、経営権を握った。そして、ガフィは追放された。

 これが、ガルフ・オイル社となった。

 テキサコもまた、1901年、ジョセフ・カナリンというアイルランド系の山師によって設立された。テキサコは、対外的には反権力の独立色が強かった。カナリンの祖父は、1840年代にアイルランドで発生した「ジャガイモ飢饉」でアメリカに逃れてきていた。しかし、カナリン自身は、ビルの屋上から海賊の旗を翻したりする奇人で、株主たちの支持を得られず、結局、追放されてしまった。

 なお、スタンダード・オイルは、テキサスの新油田発見の恩恵に与ることはできなかった。テキサス州は、最初に独占禁止法を成立させ、ロックフェラーを締め出していたからだ。

 

5.イギリスの双璧、ロイヤル・ダッチ・シェルとBP

 大西洋を挟んで、イギリスの石油会社では、ロイヤル・ダッチ・シェル(Royal Dutch Shell)とBP(British Petroleum)が双璧をなしていた。これは、後にBPがロックフェラーの軍門に下ったため、正確には過去形である。

 シェルの社員は、伝統的にオックス・ブリッジ(オックスフォード大学とケンブリッジ大学)の卒業生が占めている。貴族然とした会社である。

 1833 年、シェルの歴史は、マーカス・サミュエルがロンドンで開いた古美術店に始まる。

 ロイヤル・ダッチは、旧オランダ領スマトラで石油事業を手がけていた。名前の通り、オランダ王室の支援と援助を受けている。

 ロイヤル・ダッチ・シェルを世界企業に仕立てたのは、ヘンリー・ディターディング(Henri Wilhelm August Deterding )である。デターディングは、”石油界のナポレオン”と称された男で、ロックフェラー資本が手薄だったアジアの販路を抜け目なく拡大した。

ヘンリー・ディターディング

 1909年、BPは、イギリスの”国策”とも言うべき会社として出発した。「アングロ・ペルシャン・オイル」という名の通り、ペルシャ湾の石油を本国イギリスに運ぶために設立された。創立者は、イギリス政府のアシスタントで、オーストラリアの鉱山技師でもあるウィリアム・ノックス・ダーシーである。1901年、ダーシーは、イランのカージャイル朝国王から、石油開発利権を手に入れていた。

 BPは、他のメジャーズと異なり、地盤が現在のイラクを中心とする湾岸地域に限られていたため、はるばる本国までのシーレーンを守るために、イギリス軍の支援を受ける必要があった。

 1911年以降、当時、イギリス海軍省大臣だったウィンストン・チャーチルもまた、海軍の強化を図っていた。ドイツの脅威に対抗してのことである。その具体的な方策として、BPの株式を51%、保有した。

 チャーチルは、世界の石油市場は、スタンダード・オイル・トラストとシェルが分割統治していると考え、独立した存在であるとみなしたBPを買ったのだった。BPは、イランの石油事業を独占的に経営することで、メジャーズの仲間入りを果たし、セブン・シスターズに数えられた。

 

6.ロスチャイルドが支援したロシア・バクー油田

 奇しくもアメリカでロックフェラー主導の石油開発が軌道に乗り始めたのと同時期、ロシアのアレクサンドルU世(1818―1881年)は、現在のアゼルバイジャンの首都バクーにあった石油資源を民間に解放した。当時、ロシアはクリミア戦争(1853年)でイギリス・フランスに敗れ、その後進性を明らかにしていた。

 1876年、パリのロスチャイルド家は、ロシアのバクー油田に投資している。カスピ海沿岸の石油採掘権を手にしたのは、アルフレッド・ノーベルの息子2人だった。ノーベル家もまた、ロスチャイルドの一族である。

 ただし、当時は、パイプラインという技術がなかった。従って、ロシアの石油産業を傘下におさめても、石油を西欧方面に搬送することはできなかった。

 突破口が開かれたのは、1883年のことだ。フランスのロスチャイルド家は、黒海へ抜ける鉄道を敷設した。これで、バクーからヨーロッパへと石油を運ぶことが可能となった。

 こうして、ロシアの石油生産は急速に伸び、バクー油田は、19世紀末から20世紀初頭にかけて、世界の石油生産の中心地となった。

 しかし、このバクー油田は、後にソビエト革命政府に接収されることになる。

 

7.禍根を残したイギリスによる中東分割

 第一次大戦中、イギリスは、オスマン帝国(Ottoman Empire)下で不満を持っていたアラブの有力者に接近した。アラブ民族意識を利用して、オスマン帝国の内部からの切り崩しを狙ったものだった。

 この有力候補の中には、ハーシム家(The Hashemites)とサウド家(House of Saud)があった。

 ハーシム家のフサインは、対オスマン政府反乱と交換に、自身の野望であるアラブ国家独立をイギリスに認めさせようとした。ハーシム家は、イスラム教の開祖、ムハンマドが属していた家系である。高貴な血族として今でも大きな権威を持っている。

 そして、1915 年 7 月から 1916 年 3 月にかけて、フサインは、エジプト高等弁務官マクマホンと計5通の往復書簡を交わし、イギリスにアラブ独立を認めさせた。これが、フサイン・マクマホン協定(McMahon-Hussein Correspondence)である。

 さらにイギリスは、情報将校であった「アラビアのローレンス(Lawrence of Arabia)」をフサインの息子ファイサルに接近させて、独立運動を扇動させた。親英の傀儡政権を打ち立てることが目的である。

 こうして、1921年、イギリス委任統治下でファイサルを初代国王とするイラクが成立した。しかし、イラク国内では、バグダード(Baghdad)を占領したイギリスに対して、大きな不信と反発が巻き起こった。

 また、現代の中東における国境を、おおよそ線引きしたのは、1916年4月のサイクス・ピコ協定(Sykes-Picot Agreement)である。この秘密条約は、イギリス、フランスがオスマン帝国後の勢力範囲を区分けしたものだ。当事者である中東の人々は、与り知らぬことだった。

 このサイクス・ピコ協定で、イギリスはベイルート(Beirut)を植民地として手に入れた。

 さらに、アメリカは参戦が遅れたために、この密約から除外され、不満を強めた。

 さらに、第一次世界大戦中の1917年、イギリス外相バルフォアは、ユダヤ人のパレスティナ復帰を支持するという発表をした。このバルフォア宣言(Balfour Declaration)は、書簡という形で、ロンドンのロスチャイルド当主、ライオネル・ロスチャイルド卿(Lionel Rothschild、1868―1937年) に宛てられている。ライオネルは、英国シオニスト連盟会長である。

ライオネル・ロスチャイルド

 したがって、バルフォア宣言は「ユダヤ人による世界支配の陰謀」という格好の宣伝材料にもなった。

 このイギリスの二枚舌外交が、現代の中東紛争の原因にもなった。

 さらにイギリスの思慮遠謀は、第一次大戦後も続く。瀬木耿太郎は、著書『石油を支配するもの』の中で次のように指摘している。以下に引用する。

(引用ここから)

 第一次世界大戦の終戦処理に当たり、イギリスは、石油の出そうな地域をなるべく自己の勢力圏に入れようと画策した。中東の旧オスマン・トルコ帝国の旧領土も、この観点から新しい国境の線引きが行われた。(39ページ)

(引用ここまで)

 この指摘は、全く正しい。そして、イギリスの石油支配政策の具体的な手先となったのが、ロイヤル・ダッチ・シェルとBPだったというわけである。

 

8.オスマン・トルコ崩壊に始まる石油争奪戦

 20世紀初頭、ドイツ皇帝ヴィルヘルムU世は、特にトルコでの利権獲得に熱心だった。そのため、この地域の石油資源を中核に、ベルリン、ビザンティウム(現在のイスタンブール)、バグダッドを鉄道で結ぶ、「3B政策」を展開した。イギリスの世界覇権に対抗してのことだ。そのため、イギリスとの対決を避けたがっていた宰相ビスマルクは辞任させられた。

 ドイツは、第一次世界大戦に敗れたことで、ドイツ銀行が持っていたトルコ石油の株式は、フランスに委譲された。

 第一次大戦は、戦車と飛行機という新兵器の登場により、石油の重要性を見せつけた。各国は、血眼になって石油利権を漁るようになった。

 さらに、第一次大戦に敗れたオスマン・トルコ帝国では、連合軍にアナトリアを占領され、民族的独立を脅かされていた。さらに、セーブル条約というトルコ分割案を押し付けられた。イギリスとフランスの狙いはメソポタミアに埋蔵すると見られた石油だった。そしてこの頃から、メジャーズが原油の宝庫とも言うべき、中東に進出するようになった。

 ここに至って、祖国解放を目指してトルコ国民は団結した。この時の指導者がムスタファ・ケマル(ケマル・アタチュルク)である。ムスタファ・ケマル率いるトルコ軍の前に、西アナトリアのギリシア軍は追放され、スルタン政府は廃止され、オスマン帝国は終焉を迎えた。

 こうして、ケマル・アタチュルクを初代大統領とする新生トルコ共和国が成立した。

ムスタファ・ケマル(ケマル・アタチュルク)

9.「イラクに行って、石油を手に入れよ」

 1914年、アルメニアの実業家カルースト・グルベンキアンは、メソポタミアで石油採掘に成功し、「トルコ石油」を設立した。以前から、石油埋蔵が期待されていた場所だった。

 この石油シンジケートに「アングロ・ペルシャン」(現在のBP)が約半分出資した。BPは、隣のイランですでに利権を取得していた。さらに、シェルとバグダッドの鉄道敷設に融資していたドイツ銀行が、それぞれ約1/4ずつ出資する。カルースト・グルベンキアン自身は、5%もった。

 ここに、アメリカは、「機会均等」、「門戸開放」を唱えて(「分け前をよこせ」ということだ)、トルコ石油に資本参入を求めた。

 アメリカの言い分にも、一理あった。第一次世界大戦では、連合国側の石油の80%を、アメリカ石油資本が提供し、そのうちの30%強をエクソン1社が提供していた。こうして、イギリスは「トルコ石油」に対する20%の出資を割譲した。

 1928年7月、イラクの石油利権をめぐる交渉は延々と続いていたが、一応の決着がついた。トルコ石油シンジートに参加する企業は、旧オスマン・トルコ帝国領内では、トルコ石油を通さなければ、石油資源開発ができないことになったからだ。これがいわゆる「赤線協定」である。

 そのため、アメリカの石油企業7社が、イラクに進出したが、エクソンとモービルを除いて、すぐに撤退することになった。赤線協定による拘束で、うまみが減ってしまったのである。

アンソニー・サンプソン著『セブン・シスターズ』は、この撤退の背景を次のように記述している。以下に引用する。

(引用ここから)

 結局アメリカの石油会社の中東進出には、企業家精神も熱意も欠けていたのである。ガルフの現地駐在代表、チャールズ・ハミルトンが述べているように、「業界の代表者たちがワシントンに呼ばれて、イラクに行って石油を手に入れよと申し渡された」だけだった。(77ページ)

(引用ここまで)

 この赤線協定により、もとよりイランで独占的な特権を手にしていたBPは、イラクでも油田開発を出きるようになった。アメリカとフランスは、不満を強めた。

 
10.ソーカルが奪い取ったサウジの石油利権

 では当時、現在では世界最大の油田国であるサウジアラビアをめぐる石油状況はどうだったのだろうか。これが、ほとんど無視されていた。

 1924 年、イブン・サウードは、ハーシム家のフサインをヒジャーズから追って国王を名乗った。ここに、アラビア半島統一が達成される。

イブン・サウード

 サウド家は、イスラム教の中でも、厳格なワッハーブ派思想の守護者であるリヤド太守の家系である。正式にサウジアラビア(Saudi Arabia)という名称に変わるのは、1932年のことだ。

 従って、ハーシム家を支援したイギリス政府の選択は、決定的な失敗だった。イギリスはサウド家との関係を強化しようとしたが、すでに手遅れだった。

 1927年、サウド家は、「ジェッダ条約」を結ぶことで、完全にイギリスの影響下から離れた。

 サウジアラビアでは、独立前後の戦乱が続く中で、資金が不足していた。

 さらに重要なことは、ここに来てサウジアラビアは、ロックフェラー系石油会社の側についたことである。

 この際、重要な役割を果たしたのが、イブン・サウードの主席顧問だったハリー・セントジョー・フィルビーというアラビア学者である。フィルビーは、国王のお気に入りだった。実は、フィルビーは、反イギリス思想の持ち主で、ロックフェラー三人娘のひとつソーカルにひそかに買収されていた。

 フィルビーが果たした役割を前掲の『セブン・シスターズ』から引用しよう。

(引用ここから)

 ある昼下り、国王と自動車に乗り合わせたフィルビーは国王に、この国の鉱物資源を開発すればカネが見つかるのではないか、この国の人々はまるで「埋もれた宝庫のある場所で眠っており、ものぐさ過ぎるのか、こわがり過ぎるのか、その豊庫を求めて掘ることもしない人々のようだ」とたきつけた。(104ページ)

(引用ここまで)

 これが、イブン・サウード国王を動かしたのだ。そして、サウジアラビアは、アメリカの石油会社に協力を求めることになった。かつて、財政支援をしていたイギリスは、サウジを援助するには、あまりに疲弊していた。

 ソーカルは、赤線協定の拘束から自由だった。

 こうして、かねてからこの地方に目をつけていたソーカルとテキサコが、サウジアラビアに足場を気付く事に成功したのだ。1938年には、ソーカルが買収した鉱区内のダンマーンから巨大な油田が発見された。

 イラクの石油事業に参加していた企業は、赤線協定による規制に縛られて、敗れ去った。ミスター5%である「トルコ石油」のグルベンキアンは、執拗に赤線協定の堅持を主張した。最終的に赤線協定が廃止されるのは、1948年のことである。

 アメリカのメジャーズが中東に進出することで、それまでの石油地図は大きく塗り替えられることになった。

 1944年、サウジアラビアでは、ソーカルの産油会社であるCASOCが「アラビアン・アメリカン・オイル・カンパニー(Amarco、アラムコ)と名称を変えた。アラムコは、アラビア半島内部への入り口として重要な港、ジュバイルに本拠地を持っていた。さらに1948年、油田開発とパイプライン敷設の資金を得るため、ソーカルやテキサコだけでなくエクソンやモービルにも出資させた。

 こうしてアメリカは、世界最大の油田地帯での石油生産を本格化させていくのである。

 

11.クウェート石油利権の行方

 1914年以来、クウェートに一応の利権を持っていたのはBPである。イギリス政府の後押しもあった。しかし、BPはイランで大量の石油を確保していたので、乗り気でなかった。そうこうしているうちに、交渉権が失効してしまった。

 一方、1925年、ニュージーランド人のフランク・ホームズ少佐が、バーレーンの首長から鉱区を買い取った。この鉱区を買収したのがガルフ・オイルである。同じアラビア半島でもクウェートだけは、赤線協定から除外されていた。

 しかし、ガルフの前にはイギリス政府が立ちはだかった。

(引用ここから)

 クウェートの首長サバーハ族は、古く1913年に、「イギリス政府の同意なしには、何人にも石油利権を与えない」と約束していた。イギリスに領土を守ってもらうための条件であった。そして、イギリス植民地省は、ここでも、「イギリスの保護領では、イギリス国民もしくはイギリスの会社だけが、石油利権を与えられるべきだ」という原則を守るつもりでいた。(瀬木 耿太郎著『石油を支配する者』P69)

(引用ここまで)

 1931年、イギリスの支援を受けたBPが再び参入し、ガルフは、アメリカ国務省の支援を受けることにする。

 イギリスの支援を受けたBPとアメリカの支援を受けたガルフが、激しく争い、1933年、BPとガルフ・オイルが共同出資する形で、「クウェート石油」が設立された。そして、1938年、ブルガン地区で大油田が発見される。

 こうして、クウェートは、石油成金の国へと変貌をとげ、やがてイラクから妬みを買うようになる。ホームズは、クウェート国民から「石油の父」と呼ばれるようになった。

 

12.「アクナキャリー協定」で国際カルテル成立へ

 1928年、エクソンのウォルター・ティーゲル、シェルのヘンリー・ディターディング、BPのカドマン社長はスコットランドのアクナキャリー城で、一同に会する。この3社が当時のビッグ・スリーだった。

 ここで決められたことこそ、アメリカとソ連を除く世界の石油市場を現状のまま固定する、という国際カルテル協定である。会談の場所から「アクナキャリー協定」と呼ばれるものだ。

 1960年代まで、セブン・シスターズによるカルテル体制が世界の石油市場を安定的に支配することになった。この協定に亀裂が入るのは、アラブ民族主義による石油国有化が相次ぐようになってからだ。

(おわり)