「0012」 論文 森林を回復した日本の経験からみえる環境論――人間は、他の動物と同様に自然から資源を得て、廃棄物を自然に返せばよい。廃棄物処分場は一切不要である(1) 鳥生守(とりうまもる)筆 2009年3月25日
1.はじめに
いつの間にか、地球温暖化問題が国際世論として完全に定着している。それが条約(京都議定書)となり、それによって今、CO2(二酸化炭素)の削減、それ一点だけが取りざたされている。
といっても、これは巨大メディアの世界での話である。われわれ庶民にとっては、その詳細がほとんど分らない。巨大メディアが時々、ニュースや解説で唐突に報じるだけだ。地球の環境を守り、人類の子孫を守ることが今非常に重要なことであることはよく解る。そうありたいと思うのは山々だが、CO2を削減すればどうして環境を守ることになるかは、実感として理解できない。これが、善良な庶民の正直な思いだろう。
ところが、槌田敦著『新石油文明論』(2002年)を読んでみると、環境問題が実感を伴って分るようになった。そこには、地球温暖化問題はほとんど正しくない、間違っているという説が書かれている。それは、私にはとても説得力があり、実感として理解できるものであった。これで環境問題の多くが理解できた。
槌田敦
またその本から多くの重要な事実を知ったが、そのなかには、次のようなことがあった。それは、日本は中世において森林破壊(しんりんはかい)があり、当時の人々は洪水に悩まされた。しかしそれを受け継いだ江戸時代には、森林のほぼ完璧な回復がなされ、それによって日本は現在に至るまで抜群の森林国となったのだ、というものである。
破壊された森林の完全なほぼ回復とは、世界的に見てめずらしいのではなかろうか。ひょっとしたら、それは、世界の歴史で唯一の例ではないかと思う。
その森林回復の物語では、環境は人間だけがつくっているのではない、そこでは野生動物や昆虫や微生物や植物が大活躍し、それら動植物の活躍なしでは決して森林はできるものではない、ということが見えてくる。だから、人間の力だけでつくろうとする環境は決して人間にとって良い環境にはならない、それはむしろ環境悪化となる、ということがはっきりするのである。
現在の環境問題に関する国際世論は、森林の中で暮らす原住民の人びとや野生動物や昆虫などの働きは全く考慮に入っていない。人間の力だけで環境を良くしようとする思想の上に立ったものである。これは大きな間違いである。そんなことでは、環境が良くなるはずはないのである。
このように、欧米支配層がつくる国際世論には十分な注意が必要である。
2.欧米巨大メディア・支配層による国際的な環境世論は、ほとんどウソである
● 環境問題についての現在の国際世論は、そのほとんどがおかしい
昨今、地球温暖化が問題だと言って、政府レベルで世界が大騒ぎをしているCO2排出削減目標とか、CO2排出権取引とかと言って、国際会議を開いて政府間レベルで勝手に騒いでいる。
しかし槌田敦氏など、環境問題を真っ当に考えて、それを世に語ろうとする真の学者たちは、
@現在問題視されている、2〜3℃程度の地球温暖化は人類に対して害を及ぼすものではない。
A現在の地球温暖化は、人類が排出しているCO2(二酸化炭素)が原因ではない。
という説を唱えている。つまり、現在の地球温暖化は当面特に何ら問題はないし、またそれはCO2が原因ではないと言っているのだ。この説には説得力がある。
ところが、欧米支配層が煽って巨大メディアにさせている国際世論は、この地球温暖化問題が本当に国際会議を開いて条約(京都議定書など)を結ばなければならないほどの大問題であると言い続けている。
もしそれがその通り本当に大問題であるならば、それはどんな被害を人類にもたらすのか、その原因は何か、その対策はどうするのか、その対策によってどんな被害が避けられるのかなど、そういったことの解説や啓蒙、あるいは反対学説に対する説得討議などが、世界各国の人々に対して、毎日あるいは毎週、毎月のように繰返し丁寧に提示されてしかるべきである。
しかるに、そういうあらゆる角度からの解説や討議などは、ほとんど示されない。CO2排出がどうのこうのという、この一点での話の展開だけが、唐突感をもってときどき聞こえるだけである。これはどうしたことなのか、どうして積極的な解説などがもっと行われないのだろうか。それはどうも、やはり、地球温暖化問題が真っ赤なウソであるからに違いない。そう考えざるを得ない。大問題だと言いながら、積極的な解説や説得などを行わない。ここに、地球温暖化問題についての国際世論の大きなゴマカシが、感ぜられる。
かつてのオゾンホールに関するフロン問題も、よく検討してみると、おかしい。そのフロン原因説も、その(春先の南極の)オゾンホールが人類に害を及ぼすという説も、はなはだ疑問である。槌田氏はそれらがウソだという説を明確に唱えているが、それにも非常な説得力がある。すなわち、かつてのオゾンホールについての国際世論にも、大きなゴマカシが感ぜられる。
● なぜか、森林の破壊や砂漠化の問題が環境問題として取り上げられない
アフリカは、1920年頃までは80%が深い森であったが、今や3%である。インドの緑は、この1955年頃から急に消失し、今10%以下となった。ネパールは、この20〜30年で、現在のような禿山の国になった。フィリピンのセブ島やミンダナオでは、バナナ畑はあっても、森はなくなった。タイ、マレーシア、インドネシアなどでは、伝統的な農業が欧米の近代文明の波に飲み込まれて衰退し、それと共に、自然崩壊が始まった。ブラジルでも森林破壊が目立っている。
こういう話が多くの本でささやかれている。しかし巨大メディアは、こういう森林破壊を環境問題として取り上げない。不思議なことである。
森は、もともと人類の居住地である。種々雑多なその地方独自の暮らし方や、その民族独自の暮らし方で生活しており、近代人(モダンマン)の暮らしとは大きく異なるであろうが、そこは彼らの生活の場であり、住まいである。アフリカやアジア、中南米の深い森には、そういう人々が必ず住んでいる。
ところが、その森が破壊され、その周辺を含めて砂漠化されている。そうすると当然、そういうところで暮らしていた人々には被害が及ぶ。彼らは生活の場を失って死に絶えたり、難民となってどこかよその村に住み着いたり大都市に流入したりせざるを得ない。たいへんな苦労にさらされるのだ。1980年頃から世界の半数が飢えていると言われ、8億人が生命の危険レベルにあると、昨今言われている。
このように非常に多くの人びとが被害にあっているのに、世界の巨大メディアは、これを環境問題としても、取り上げないのである。
● また化学合成物質の問題も取り上げられない
現在、1日あたり4000種の新たな人工化学合成物質が創られているという。それらが毒物かどうか、第三者がテスト、確認するいとまもなく、どんどん実用に供されている。これが非常な危険性をもたらしている。このような化学物質がなかった時代は、煙突掃除人など特殊な職業の人しか、癌に罹ることはなかった。現在は、癌による死亡が増えた(日本では3人に1人である)。この癌は、人工の化学物質が原因であると思われる。この問題はすでに、レイチェル・カーソン(Rachel Louise Carson)によってその著書『沈黙の春』(1962年)で世に提起されている。しかし結局、これが大きな国際世論とはならなかった。巨大メディアはこれをずっと無視し続けてきたのである。
レイチェル・カーソン
● 環境問題をすり替え、環境を悪化させてきた欧米支配層と巨大メディア
この森林破壊、砂漠化、それによる飢餓、そして化学合成物質の問題を直視しない環境問題論者は偽者(にせもの)である。つまり、実際に人びとが被害にあっている問題を取り上げない環境論はゴマカシである。だから欧米支配層の代弁者である巨大メディアは、自分たちの儲けのために、環境問題のすり替えを行い、そして偽りの対策を語っているのである。そしてその偽りの対策によって、世界の真の環境問題は放置され、環境はさらに悪化されてきたのである。
すなわち現在は、環境問題は地球温暖化に、対策はCO2削減にすり替えられている。これが、環境破壊を増大させ、人々の苦しみを増大するのである。
● 人類の歴史は森林破壊と砂漠化の歴史であった
8000年前から3000年前にかけて、ほぼ同時に栄えたエジプト、メソポタミア、インダス、黄河の古代四大文明がある。この跡地は現在すべて砂漠である。文明が成立するためには、食糧を大量に産出する必要があり、豊かな農地が必要となる。そのためには、森林がその地表を覆い尽くしている必要があった。その森林を開墾して農地ができるのである。
だから古代四大文明が成立したところには豊かな森林が茂っていたのである。しかし畑での麦類の栽培、その畑での収量低下、新たな森林の開墾、古い畑での牧畜、の繰返しで、森林を破壊し、砂漠化していったのである。これが、古代四大文明跡地が砂漠である理由である。古代四大文明の地は、砂漠化されたのである。
ただエジプトでは、ナイル河の氾濫によって毎年栄養が供給され、またその氾濫によって塩分が洗い流され農地の塩化が進まなかった。それで、ナイル河沿いの農地だけは、砂漠化にならなかった。これが1902年に、イギリスの援助でアスワンダムが建設されるまで続いた。このダムが建設されると、それによる灌漑によって農地を増やした。これで、問題が生じた。
ナイル河の栄養はダムの湖底に沈み、農地は肥料不足になった。また農地を増やした分だけ水不足になり農地に塩害が見られるようになった。エジプト農業は苦しみ始めた。1964年には、ソ連の援助でアスワンハイダム(Aswan High Dam)が建設された。これによって、事態はさらに悪くなり、エジプトの農業は瀕死状態であるという。
ギリシアの地はもともと森林に覆われていた。しかしギリシア文明が滅亡するころまでには、禿山になった。
ローマはエジプトとカルタゴを食糧生産基地とした。エジプトはすでに述べたようにナイル河のめぐみで砂漠化を免れ農地を維持できたが、カルタゴは砂漠になってしまった。
ヨーロッパも、元々中世までは、深い森に覆われていた。村や町は森に囲まれた島のように存在していた。人々は森に囲まれて、森に見つめられるように暮らしていた。そのヨーロッパの森は、16〜18世紀には、ほとんど消滅した。それから、ヨーロッパの森は、人間が見つめる森となったのである。それによりヨーロッパは、自然(神)のいない、人間中心の思想になった。
ヨーロッパの森
西欧人は高度に開発された戦争技術を使って、コロンブスのアメリカ大陸発見以来、世界を侵略した。この西欧人の世界支配と収奪が、現在の世界砂漠化の出発点となった。以後、中南米、アフリカ、アジアの森林は破壊されることとなった。
植民地アメリカでは、ヨーロッパ向けの農産物が大量生産された。そのため、アメリカの森林は農地に変えられ、アメリカは森林を失った。アメリカの農地は灌漑と化学肥料で塩分の蓄積が進み、その農地はどんどん痩せている。
● 日本は世界でも、抜群の森林国である
現在、世界の森林面積は41億haで、森林率は陸地面積の31%でしかない。
表 各国の森林率 (人口5000万人以上または面積700万km2以上の国の場合:1998/1999年)
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森林率 GNP>1兆ドル GNP<1兆ドル
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60〜69% 日本
50〜59% ブラジル、インドネシア
40〜49% カナダ、ロシア、フィリピン
30〜39% アメリカ、ドイツ
20〜29% イタリア、フランス インド、メキシコ、ベトナム、タイ
10〜19% イギリス 中国、オーストラリア
0〜 9% イラン、エジプト、パキスタン、バングラディッシュ、ナイジェリア
不明 ウクライナ
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(槌田敦『新石油文明論』より)
この表は、人口5000万人以上、または面積700万km2以上の国の森林率であるが、熱帯のインドネシアとブラジルではその後、森林破壊が目立っているので、現在では、50%以上の森林率を持つ国は日本だけのようだ。
いずれにせよ現在、日本は世界的にみて、抜群の森林国ということになるのである。
ところで、丘や山(の頂上や斜面)では栄養分は雨に溶けて流れ落ちるので貧栄養になりやすく、疎林になりやすいと、(西洋生まれの)森林生態学では考えられている。ところが日本では、平野は農地や都市であり、森林はほとんど傾斜地にある。そして日本では、丘陵ではもちろん、険しい山岳地帯でも立派な森林となっている。日本の森林は、欧米人にとっては常識外れであり、不思議なことなのである。欧米人は、丘や山の上の方には森ができるはずがないと思っているのだ。
3.森林を回復した日本
では、歴史的に世界じゅうで森林破壊が進んだ中、日本だけは、どうしてどのようにして、豊かな森林を維持してきたのだろうか。以下、槌田敦著『新石油文明論』に従って、その秘密をたどってみようと思う。
● 中世の日本では、日本の里山は実は禿山ばかりだった
抜群の森林国日本も、中世においては、森林が破壊されていたのだった。その原因は農民による刈敷(柴刈り)だった。
2000年前の弥生時代には、水田稲作(米作)農業が発達した。大きな川が平野に流れ出たところを扇状地(せんじょうち)というが、ほとんどの水田はこの扇状地に作られたのである。大きな川は人里離れた奥山から、稲作に必要なリン酸や窒素などの栄養を運んでくる。したがって、この大きな川の水を用いた扇状地での稲作農業は、肥料をほとんど加える必要はなかった。
しかし中世になると、人々は谷地田(やちだ)でも稲作を始めた。谷地田とは、山から湧き出したばかりの小さい川から水を引いている水田のことである。その小さな川の水は、きれいに澄んだ水かもしれないが、溶けている栄養は少ない。そこで谷地田では、その栄養の不足分は近くの山から草や柴を刈ってきて、高い生産性を確保したのである。このような草や柴のことを刈敷(かじき)(草木の葉を焼いたり、緑肥として鋤きこんだりして、田畑の肥料とするもの)という。日本の昔話にある「爺さんは山に柴刈りに」とは、燃料を取りにいったのではない。水田の肥料を取りにいったのである。
燃料のためなら、薪を取ったはずである。この柴にはリン酸、カリ、窒素など栄養が豊富に含まれており、これを、水田にそのまま投げ入れたのである。
この刈敷のために、山は栄養を収奪され続けたので、この農業の発達の中で日本の山(里山)はどんどん痛み、禿山になっていった。世界の砂漠化の原因は放牧であったが、日本では刈敷であった。
日本の里山が一番痛んでいたのは、500年前の戦国時代であった。日本のような多雨地帯では、里山が禿山になれば、雨水は一挙に流れ出て、洪水が頻発することになる。その水害で農民は苦しみ続けたが、その農民たちの水田で得られる米を供出させて生活している武士たちも困った。そこで、その時代の領主である戦国武将は、戦争ばかりではなく、水害との戦いも必要であった。
武田信玄は「信玄堤」という堤防技術で水害対策をおこなった。これで農民は大喜びし、甲州では現在でも信玄は庶民に愛されている。加藤清正は「乗越堤(越流堤)」という堤防技術で水害を減らし、上流も下流も得をしたという。
信玄堤
現代の森林国日本も、このようにかつては森林が破壊された国だったのである。
● 日本における森林回復の仕組み
このように、里山は、禿山で洪水ばかりという環境の悪い、砂漠化した日本で、江戸時代は400年前に始まった。その後、日本は戦争がなくなり、平和になった。その江戸時代は森林回復の時代となった。干鰯(ほしか)という、刈敷に代わる金肥(きんぴ)(金銭を支払って購入する肥料)が出現したので、刈敷が廃れたのである。
江戸時代になると、全国に都市が成立した。都市の代表はいずれも50万人程度で、政治の江戸、商業の大阪、手工業の京である。また、名古屋などに城下町、そして善光寺などに門前町もできた。これは巨大文明である。この都市が日本の砂漠化を救ったのである。
また、江戸社会の特徴のひとつは、通貨の基礎単位が米の量で示されたことである。単位は石で、これは米6表であり、151kgの重さである。1人が1年に食べる量としては少しすくないが、米だけしか食べないというわけではなく、麦や芋、魚なども食べるから、米一石でほぼ1人分を養えると考えてよい。
この通貨制度は、武士の生活を安定させるためのものであったが、結果としては、米作りの農民の生活も保障することになった。もっとも、南部(東北地方の太平洋側)や飛騨(中部山岳地帯)など一部の地域では、気象条件が適さないのに米作りを強制されて、農民が苦しめられるということはあった。しかし、ほとんどの農民は米作りに支えられ、後に語られるほど、貧しかったわけではない。江戸時代の農民は、金肥を買えるほどの経済力があったのである。
余談になるが、そもそも、一揆は豊かな生活をしている農民に対して急に厳しい取り立てをするから起きるのである。その証拠に一揆の記録を見れば、十分な食糧の準備をしている。もしも貧しければ、一揆などしようと考える余裕も元気もなくなる。一揆など起こるわけがないのである。
江戸時代は巨大都市の発達で、米、綿、燃料、灯油などを運ぶ商業が発達した。巨大な物流社会の出現である。
当時の交通では、人は歩いたが、物資は、川船と海船で運ばれた。江戸に運ぶ物資は全国から集まった。たとえば、江戸より北にある庄内地方(山形県)の米は最上川を下り、酒田から日本海を西に進み、下関から瀬戸内海を東進し、米商人の集まる大阪を経て、両国の倉庫に運び込まれた。3000kmに近い輸送ということになる。北回りで太平洋へ出るほうがずっと江戸に近いが、下北半島先端での遭難が避けられず危険であったので、その危険を避けたのである。
北前船
この物流によって、都市の発達が可能であった。この都市の発達は、灯油の需要を増大させた。当時、灯油には菜種が使われた。しかし、これは高価だから、都市の住民の夜なべ仕事に使うことはできない。そこで、庶民用としては臭いけれども安い魚油(ぎょゆ)(魚類からしぼりとる油。鰯油、鰊油の類。灯火用のほか、せっけん、薬用などに用いた)が使われた。
この魚油は、雑魚をゆでた煮汁の上澄みから作る。このとき生ずる魚かすは当初は捨てられたに違いない。しかし、浜に投げ捨てられて乾燥した魚かすは運搬と保存の可能な肥料になって、農民に高く売れることが分かった。これを干鰯(ほしか)という。これを漁村から買い集め、農村に売り歩く商業が発達して、遠方の漁村も、魚油と干鰯の生産拠点として発達した。
一方、江戸時代は、全国で新田開発が進んだ。大きな川の扇状地はすでに開発済みだから、残るところは小川の水を引いた水田(谷地田)を作った。しかし、前述のように湧き出したばかりの水には栄養が少なく、せっかく開墾しても米の収穫はほとんどない。そういうところでは、この干鰯が貴重であった。
この干鰯は、水田に使われただけではない。畑作にも使われた。畑作では水田のような豊かな栄養の補給はないので、肥料を加えなければ作物は得られない。そこで、干鰯は、たとえば、綿の生産に欠かせない肥料になった。
この干鰯の利用で、柴刈りは廃れ、山の痛みは少なくなった。しかし、これだけでは山の森林は回復しない。禿山は栄養がないから禿山なのである。多くの人々は勘違いしているが、まったくの禿山に木を植えても育たない。野生動物の働きが必要だった。
干鰯を投入した田畑には、虫が発生する。するとそこへキジやムクドリなどがやって来て、これを食べ、山に帰って糞をして、里山に栄養を引き上げる。農民が高価な肥料を買い、田畑に入れたのに、それを鳥に泥棒されたのである。しかし、この泥棒によって栄養は里山に引き上げられたのである。この繰り返しにより何年もかけて、農村の周辺のはげていた里山は自然の循環の豊かな雑木林に変わったのである。
日本の山は、日本人が植林したから森林になったと思っている人が多い。西洋人の日本近世史の研究家タットマンもそうである。しかし、人間が植えたのはスギ、ヒノキなどの経済林である。ほとんどの雑木林は鳥が植えたのである。このようにして雑木林になった後に、これを伐採してその栄養豊かな跡地に植えたから、スギ、ヒノキが育ったのである。
しかし、この森林の回復には時間がかかったようである。その回復の時間は条件によって異なる。条件の良いところで数十年、悪いところで数百年かかったようである。
このようにして、江戸時代の農民は干鰯という金肥を購入して田畑で米や綿を作ることになって、刈敷(柴刈り)をやめたので、日本の里山の森林は回復したのである。
もう一度繰り返す。江戸時代は、大きな都市が成立・発達し、その都市に米、綿、燃料、灯油などを運ぶ商業が発達した。商人は、漁村における都市住民向けの、魚油を生産した後の廃棄物である干鰯が、農村で肥料として高く売れることを発見した。農民は当時は大事にされていたので、その金肥(干鰯)を購入でき、これを田畑に撒いた。
これによって、刈敷をしないでも、農作物の十分な収穫は可能になった。干鰯を投入した田畑には虫が発生した。そこへ鳥などがやってきてそれらの虫を食べ、山に帰って糞をした。このことによって、陸地から雨水によって海に流されていた栄養分が、干鰯によって陸上に戻され、さらにその栄養分の一部は虫や鳥によって、里山の頂上部にも引き上げられたのである。里山の栄養は海に流され、その海から栄養は里山に戻ったのである。ここに栄養の循環ができたのである。この循環を毎年繰り返すことによって、日本の里山の森林は回復したのである。
人間のしたことと言えば、魚を獲りそれで魚油を生産し、その副産物として干鰯も生産し(漁民)、これを仕入れて干鰯農村で農民に売り(商人)、この干鰯を、田畑に投入して作物を育てた(農民)こと、だけであった。それにより、虫や鳥の活動がこれに加わって、里山の森林が回復したのであった。
日本の森林の回復には、人間の働きだけではなく、自然の野生動物の働きがあった。だから、日本の森は生きた森である。本当の自立した森である。
ヨーロッパも、森林破壊をした過去の反省から、一部で森林を回復している。しかし、ヨーロッパの森の回復は、人間の働きのみでなされ、野生動物の働きが加わっていない。よってその森は、人工的な、野生のたくましさのない森である。すなわち、イミテーションの森である。ヨーロッパの森は(ゴルフ場のような)手入れを要する、さみしい生き物の感じられない森である。
(つづく)