「0014」 論文 森林を回復した日本の経験からみえる環境論――人間は、他の動物と同様に自然から資源を得て、廃棄物を自然に返せばよい。廃棄物処分場は一切不要である(2) 鳥生守筆 2009年3月28日

 

● 日本では巨大都市の周辺も森林になり、豊かな水田になった

 農村地帯の丘や山が森林になっただけではない。日本では、巨大都市のまわりも森林になった。巨大都市江戸が建設されたころ、その西側にある武蔵野台地はまったくの荒地で草木はほとんど生えていなかった。農村はこの台地の下に点在し、この広大な台地は、肥料のための草刈り場だったから、その栄養は収奪され続けたのだ。

 ところで、巨大都市江戸で発生する最大の産物は人糞であった。これは下肥(しもごえ)として、周辺の農民に高く売られた。神田の下町から雑司ケ谷(池袋)の農村には、この下肥を運ぶ街道が作られた。途中の小石川の坂道などではこれを押す人夫がたむろしていて、手間賃を稼いでいた。

 人糞を運ぶことは、つい最近まで重要な日本の産業であった。第二次世界大戦後でも、西武電車は、肥料としての人糞を運ぶ、貨物列車を池袋から練馬、所沢方面の農村地帯に向けて深夜に運行していた。しかし、硫安などの化学肥料が出回って、駅の人糞貯蔵所があふれることになり、この「汚穢(おわい)電車」も廃止された。化学肥料によって、不要とされたのである。

 このように、人糞を投入した江戸周辺の農地には大量の虫が発生した。この虫を求めて野鳥がやって来て、荒地だった武蔵野台地に糞と種をばらまいた。それが広大な荒れ地の武蔵野を、またたく間に自然の循環の豊かな雑木林に変えたのである。「都市ができるとまわりは森林になる」というのは、人糞を肥料として自然に返していた日本では決して奇跡ではなかったのである。

 都市のまわりの荒れ地が雑木林になっただけではない。この豊かな武蔵野台地から流れ出る川の水に豊かな栄養が含まれるようになった。この武蔵野台地から流れ出る湧き水が集まる北の新河岸川、南の野川流域は豊かな水田が作られ、米が大量にとれるようになった。

 これは、糞尿という巨大都市の巨大な栄養を田畑に戻し、それによって、その栄養の一部が武蔵野台地に引き上げられたからである。

● 日本では巨大都市の浜が豊かな漁場になった

 さらに、江戸湾(東京湾)にこの栄養分豊かな川の水が流れ込み、豊かな漁場になって、うまい魚や貝がとれるようになった。これが「江戸前」という「さしみ」や「すし」のはじまりである。さらに江戸湾に人口の「藻場」が作られ、ここで育った海草も「浅草のり」という食糧になった。巨大都市の出現による人間を含めた新しい自然の循環の成立である。

 自然は重力によって栄養物を上から下へ落とす。しかし、人間と野生動物は栄養物を下から上へ運び上げる。これにより、豊かな自然の循環が成立するのである。

 江戸だけでなく、大阪や京などの50万都市をはじめとして全国各地に作られた都市も、同じように人糞によって近郊の山林、農地、漁場を豊かにした。これらの物質循環の豊かな自然は、商業を中核にした漁業、農業という人間の経済活動と野鳥の活動の連携によって得られたものである。

 江戸時代の商業は、このようにして、全国の都市、全国の農村、そして全国の漁村を結んで、一大物流の網をかけたのであった。これが結果的に日本の自然を豊かにしたのだった。

● 日本の奇跡的経済成長の主原因は日本の豊かな生きた森林にあった

 ところで、安政5年(1858年)、日本は鎖国を終了して、世界に開国し、それと同時に先進国に仲間入りした。このような国は日本以外に存在しない。世界史での驚異のひとつと考えられている。

 それは、日本に良質の石炭が大量に産出したこともその原因のひとつである。日本は石炭の輸出国であった。しかし、ここで述べたように日本の農村のおかれていた環境が豊かであったことも、開国と同時に先進国になった理由なのである。

 日本各地に、「水田は肥料をやらないでも7割とれる」ということわざが今でも残っている。豊かな森林の山から流れてくる水が、栄養豊かなのである。そのため、肥料は、3割分だけでよい。そのような豊かな農村だったから、開国後の日本政府は徹底して農民を収奪できて、「富国強兵」と「産業報国」政策をとることが可能だった。

 第二次世界大戦後の復興も同様である。農村が豊かな自然の循環の中にあったからである。ドイツに比べて、日本では京都などの一部を除き、空襲による都市と工業の被害は大きかった。それでも、日本の復興はめざましく、これを支えたのは、豊かな農村だった。人口が3000万人だった江戸時代だけでなく、第二次世界大戦後に人口が7000万人になっても、社会の循環と自然の循環がしっかりと結びついていたのである。これが、重要であった。

● 日本は現在も抜群の森林国に変わりはないが、その中身は危険な方向に変質した

 しかし、現代の日本人は、この祖先からもらった豊かな環境の意味を理解していない。敗戦ショックのためか、西欧文明に全面的にかぶれ、根こそぎ西欧文明に染まってしまった。つい最近までは、「和魂洋才」と言っていたが、今では「洋魂洋才」になってしまった。つまり、完全洗脳されてしまったのである。おそらくそれは、バブルのころではなかろうか。

 ヨーロッパの国力の源泉は、高度な戦争技術と、それによる他国への侵略と略奪であった。

 日本の国力の源泉は、自然の循環にしっかり結びつきそれに乗っかったところにあった。今、その自然の循環が見えなくなり、それを利用しなくなったのである。だから、これでは日本の自然循環はやせ衰え、日本はひ弱な国になってしまう。この意味を知り反省しないと、やがて日本は歴史上かつて経験をしたことがなかったほど過度に、貿易や、戦争、侵略、略奪の技術に頼らざるを得なくなるだろう。それは現実的ではなく、長続きすることではない。われわれ日本人は、いま落ち着きを取り戻し、祖先の遺産をしっかり学び、かつてのような豊かな自然の循環をとり戻さなければならない。

 現在の人口は第二次世界大戦のころの倍の1億2000万人でしかない。それなのに、廃棄物問題に困り果てている。それは自然の循環限界を超えて人口が増えたからではなくて、現在のわれわれの社会が、欧米文明に染まりすぎて、自然の循環を無視して廃棄物を処分しているからである。

 

4.現代の日本で、廃棄物処理はどうすればいいか

 以上、槌田氏に従って、森林国日本の秘密をたどってみた。これで私たちの社会を豊かで快適な社会にするには、どうすればよいかがかなり見えてきた。

 干鰯と糞尿を肥料に使うことが、ポイントだった。

 江戸文明は、経験則だけで自然の循環を豊かにした。人間は必要な資源を自然から得る。また、人間の廃棄物は自然に返す。そうすると、自然の循環はふたたび、資源を作ってくれる。人間の廃棄物は本来は、自然にとっては資源となるのである。廃棄物を自然の資源になるように自然に戻せば、自然はさらに豊かな循環になるというわけである。

 人間も、他の動物と同様に自然から資源を得て、廃棄物を自然に返せばよいのである。

 したがって結局のところ、社会の循環と自然の循環を、資源と廃棄物で結合すればよいのである。

 では森林を回復したこの経験を踏まえながら、現代日本での廃棄物処理を考えてみよう。

 廃棄物処理の情報は手軽に得られない。地方自治体は、真実を隠そうとしがちである。だから、門外漢の私がそのことを述べるのは荷が重い。しかし敢て、槌田氏の考えに従いながら、述べようと思う。間違いがあれば、御叱責いただきたい。

● 現代の廃棄物処理はどうすべきか

 人間の廃棄物も、野生動物がしているようにできるだけそのままの形で自然に放置することが基本である。ただし、宗教観の問題や衛生問題などのためにそのまま放置できない時は、科学技術などにより自然の循環に受入れられる形に変えて、自然の循環に引き取ってもらう。これが基本である。

 まず、廃棄物は、リサイクルできるものはリサイクルさせる。

 つまり、行政(税金)から援助を受けないで、それでも儲かる(経済学の用語を使えば市場が成立する)場合は、リサイクルさせればよいのである。儲かるということは必ず需要があるのだから、過剰供給による経済の混乱はありえない。よって、これで健全なリサイクルが行われることになる。

 次に、リサイクルできない廃棄物を、次のように6つに分けて処理する。

 @生ごみ

 生ごみとは、「台所・調理場などから出る食料品のくずや残り物など、水気を含むごみ」(国語大辞典〔新装版〕小学館 1988年)である。

 野生動物がしているようにそのまま生態系に返し、野生動物の餌にする。すなわち、山や森の空き地に野生動物の餌場を作り、そこに生ごみを放置するのだ。

 そうするとカラスや狸などの野生動物がやってきて、処理してくれる。この野生動物の糞により付近の山や森は見違えるほど豊かになる。野生動物の残した廃物は集めて焼却し、灰は土に返し肥料とする。

 有機農業家には、生ごみで堆肥を作るという案もあるが、生ゴミの中に含まれる肥料分はわずかであり、投入する労力の割には、得られる肥料は少ない。だから生ごみは、野生動物に与える方がはるかに得策である。

 この野生動物の餌にする方法は、広い山や森を持つ地方の市町村において可能な方法である。

 中都市では野生動物が少ないので、この方法は実行できない。この場合には、空き地を探して網で囲い、大量に得られる生ごみでニワトリの放し飼いをするとよい。鶏肉、鶏卵、鶏糞が得られるから、健全な養鶏となり、これは地場産業になる。これは、つい最近までどこの家庭でもしていたことである。それを大規模に再現するだけのことである。

 大都市であって、それも不可能である場合は、以下のBで述べる焼却の方法を使う。

 昔は鶏などに食べさせたのだが、現在では、焼却したり、堆肥つくりに使ったりであり、鳥などの動物の餌にする思想がほとんどなくなったようだ。

 A糞尿

 糞尿は、とりあえず、空き地に池や田んぼを作り、そこへ流せばよい。鯉や稲などの水生の動物や植物が処理してくれる。これは日本では最近まで普通の方法であった。問題は、寄生虫と病原菌であるが、病原菌はほとんどが嫌気性菌であるから、空気に触れるようにすれば問題はない。また病原菌も寄生虫も、超音波など科学技術で対応可能である。臭いは嫌気的状態で発生するから、これも十分に空気と触れさせて好気的に処理すればほとんど問題は生じない。

 この糞尿は科学技術でも処理できる。たとえば、糞尿は、まず水蒸気蒸留する。これにより有用物質を含む油性物質が得られる。残りは過熱水蒸気で乾燥すると固形肥料ができる。

 このように糞尿は現在でも、簡単に最有力の肥料にできるし、科学技術処理をすれば有用物質も得られる。これらは売ることができる。

 ところが現在は、糞尿は水洗トイレで下水道に流している。そこで生活排水や雨水など、いろいろのものと一緒くたにしている。それで、処理が非常に難しくなっているようだ。これは、非常に問題ではなかろうか。国民には廃棄物の分別を強要しながら、自分たち専門家は重要な大量の廃棄物(資源)を混ぜこぜにしてしまうとは、おかしな話だ。国民はこの事実を見逃してはならないだろう。

 B死体、大都市の生ごみと糞尿

 死体については、風葬(鳥葬)が最も合理的であるが、今では衛生問題や宗教観の問題があるので、すぐにこれを風葬にするというわけにはいかない。そこで、死体や、@やAでどうしても処理できなかった大都市の糞尿や生ごみなどは焼却する。焼却によって、廃棄物に含まれる炭素や水素は炭酸ガスや水蒸気なって、窒素成分は気体の窒素になって、大気に返される。これらは植物の光合成で、有機物に戻る勘定になる。これも自然の物質循環の一つである。

 リサイクル運動をしている人たちは焼却に反対するが、焼却は物エントロピーを熱エントロピーに変換して、自然に返す有効な方法である。最近、焼却技術は進歩したので、この管理さえしっかりすればダイオキシンなど発生することはない。

 この焼却で生ずる灰は、毒性物質を含まない場合、焼結して固化しレンガにする。ガラス固化してもよい。毒性重金属を含む灰は、溶融固化して不溶性の人工の砂や石にする。

 このようにして得たレンガや人工砂などは土木材料として、たとえば海に運んで陸地を広げることに使用できる。また人工湾・人工干潟・人工藻場の材料にできる。しかし、需要がなければ廃棄してもよいのである。もともと固体として自然環境から得たものだから、無害の固体にして自然に返すのもひとつの物質循環である。

 C下水道

 液体廃棄物をすべてまとめて末端の処理場で処理しようとするのが間違いの元である。生活排水はできるだけ発生源の近くで処理すべきである。そしていきなり川へ放流するのではなく、土壌に染み込ませる方法を採用することである。要するに、ドブの復活である。ミミズなど土壌生物がこの汚染水を処理してくれるので、付近の土壌は豊かになる。蚊の発生を抑えるため、水溜りが生じないようにするか、生じても短期間で消えるようにする。このようにして浄化された排水は地下水となり、河川や海岸の湧き水となる。

 現在、生活排水は最終的に河川に流そうとする思想で、河川の水質汚濁に苦しんでいるようだ。地面に安全にしみこませるという思想はないようだ。

 D重金属など毒物

 ヒ素やカドミウムや水銀などの毒物になる鉱物は課税してできるだけ使用を制限する。多少混ざった毒性物質は、不溶性の硫化物に変えたり、溶融固化することにより無害化できる。ここでは科学技術が有効である。

 つまり、毒物にはその毒性に応じて課税(あるいは製造禁止に)することである。そうすれば、課税で高価になっても、それでも使用する価値がある場合に限り、使われることになり、その毒物の管理がしやすくなる。管理は生産者が行い、無害化して使うなり捨てるなりする制度とする。

 農薬や化学肥料などの化学合成物質も、この思想で行うべきであろう。

 現在は、毒物の製造、販売に対して、そのような課税がなされていない。だから、安価であれば、猛毒でも広く使われ、猛毒物質が、環境にばら撒かれ、事実上管理ができなくなっている。そして、生産者はその責任を問われることはない。

 E放射能

 自然の循環にはこの放射能のエントロピー(汚染)を処理(無害化)する能力はない。また、科学技術にも放射能を消滅する能力はない。ただ放射能地震の崩壊で、安定原子核と熱になるのを長時間待つだけである。

 したがって、原子力を利用すれば、放射能が地球に溜まるばかりである。そこで放射能の発生は完全に禁止する必要がある。原子力発電や放射性物質の利用にこだわる人は、そもそも科学技術には限界があることを無視している。

 すでに作ってしまった放射能は、仕方がないので半減期の10倍の時間保管する。これには防水が必要で、地上の建物に保管する。現在、地下に埋めるなどの乱暴な方法がとられているが、至急中止すべきであろう。

 現在は、まだ放射能の発生は禁止されていない。また、その保管も中途半端なまま行われている。

● 廃棄物処分場は必要ない

 以上述べたように、残念ながら現在はその思想は全くできていないが、廃棄物処理は、製造段階から総合的に、自然の循環と社会の循環をつなぐ政策でおこなえば、解決できるのである。

 そのようにすれば、廃棄物処分場はまったく不必要なのだ。これで、現在のような、処分場をめぐる嫌な争いはなくなり、地方自治体の廃棄物処分の負担も軽くなるのだ。

 

5.むすび

 要は、海に流れた栄養分と廃棄物(排泄物)をうまく山に返すため、人間が働き、そして野生動物などにうまく働いてもらうことである。これで私たちの社会を豊かで快適な社会にできる。人間の力(科学技術)だけでは、それは無理ということである。

 森林、そして自然はレジャーの面からだけではなく、基本的な生産活動の面からも見られることが必要である。

 ところが、知略計略(うまくはかりごとをめぐらしたり、人をだまそうと考えをめぐらすこと)の高度な進歩と、戦争技術の高度な開発で世界を支配し、かつまた国際世論を支配している欧米支配層は、豊かな自然循環ということに、考えが至らないようだ。もしくは、豊かな自然循環ということが、お気に召さないようである。彼らは本当におバカさんの集団である。

 その欧米支配層が、世界の賢人会議として「IPCC(気候変動に関する政府間パネル:Intergovernmental Panel on Climate Change)」などという変な名称の組織をつくって、環境保護運動を行っているというのが、現在の「CO2削減」運動なのである。

 このIPCCのWebページ(http://www.gispri.or.jp/kankyo/ipcc/ipccinfo.html)によれば、IPCCは「科学的知見を基にした政策立案者への助言を目的とし、政策の提案は行わない」ということである。つまり事実上の運動の旗振り役が、責任は一切取らない、と言うのである。

 だから、現在われわれの眼前で行われている「CO2削減」運動なる環境保護運動は、責任の所在が不明のまま行われているのである。責任回避の準備はすでにできているのだ。こんな無責任な運動で、本当に地球環境は良くなるのだろうか。

 アメリカの連邦準備制度(FRS)は、表向きは「経済安定」が目的で創設されたのであった。にもかかわらず、FRSはその目的を何度も達成せず、しかもその一度たりとも責任の転嫁こそすれ責任をとったことがない。グリフィンは次のように書いている。

 一般には、FRSは経済安定のために創設された、ということになっている。このテーマでいちばん広く使われている教科書には次のように書いてある。「FRSは1907年の恐慌と恐るべき銀行大量倒産から生まれた。国民は不安定な民間銀行のアナーキズムにうんざりしていた。」(中略)FRSが創設されて以来、1921年、1929年の株価暴落、そして1929年から39年の大恐慌、1953年、57年、69年、75年、81年の景気後退、87年の「ブラック・マンデー」を経験し、1000パーセントのインフレでドルの購買力の90パーセントが破壊された。(グリフィン『マネーを生み出す怪物』2005年、40ページ)

 欧米支配層と巨大メディアが国際世論として誘導する環境保護運動も、「CO2削減」運動を含め、すべて基本的にこれと同じように、表向き目標とは正反対の結果と責任転嫁の運命をたどるのだと、私には思われる。

 

参考文献:

槌田敦『新石油文明論』(農山漁村文化協会:2002年)
槌田敦『エコロジー神話の功罪』(ほたる出版:1998年)
槌田敦『環境保護運動はどこが間違っているのか?』(宝島社新書:2007年)
レイチェル・カーソン『沈黙の春』(新潮社:1987年、原著1962年)
安田喜憲『森と文明の物語』(ちくま新書:1995年)
G・エドワード・グリフィン『マネーを生み出す怪物』(草思社:2005年、原著1998年)

(おわり)