「0015」 論文 決算書を本気で読むのなら会計方針から読もう 佐々木貴浩(ささきたかひろ)筆 2009年3月30日

 

1.はじめに

 皆様、はじめまして。私、佐々木貴浩(ささきたかひろ)と申します。今回が、私の初めての論文発表となります。私のような得体のしれない人間の論文を、皆様の貴重な時間を割いて読んでいただきありがとうございます。さて、私の肩書は、公認会計士で、2008年9月まで、大手の会計事務所に勤務し、12年間、主に監査(会計監査及び内部統制監査)という仕事を生業としておりました。今は、公認会計士の独占業務である監査業界から離れ、公認会計士という枠に縛られることのない活動を行うべく、日々研鑽中です。

 今回、ウエブサイト「副島隆彦の論文教室」の管理人である古村治彦氏から、当サイトへの論文発表という嬉しいお誘いをいただいたものの、何をテーマに論文を書くのかという根本的なところで生みの苦しみを味わった挙句、まずは、私が十数年間慣れ親しんできた、会計というものを、いま一度、新鮮な目で見直し、論文として発表することといたしました。どうぞ、よろしくお付き合い願います。

 さて、皆さんは、会計(かいけい)という言葉を聞いて何をイメージされるしょうか?

・飲み屋さんでお勘定(支払い)をするシーン
・家計簿やお小遣い帳をつけるシーン
・請求書や領収書の膨大な束に埋もれて途方に暮れているシーン

 等々、この文章を読んでおられる方のいままでの人生経験によってイメージされるものは様々であり、どれも的をえたものであると思います。そして、中には、小難しい理論やテクニックを振り回された体験があり(「誰に?」ということはあえて申し上げませんが)、ある種の嫌悪感を覚える方や単なる無機質な数字の羅列にしか見えず、どうしても興味が持てないし、そんなものを知らずとも生きてゆけるという方もおられると思います。

 確かに、詳しく会計を知らずとも生きてゆけるし、必要性が無ければ、わざわざ、難しい会計の本を買って勉強する必要もないと、私も考えます。ただ、少しでも決算書に触れる機会があるのであれば、この論文のタイトルである「決算書を本気で読むのなら会計方針から読もう」ということを、皆さんの頭の片隅に置き、実践することで、皆さんが決算書の表面的な数字に惑わされることなく、冷静な判断のもと決算書を実生活において役立てることができると確信しております。

 

2.二つの言葉の意味の明確化

 まずは、この論文における重要な言葉である、

  • 会 計(かいけい)
  • 決算書(けっさんしょ)

 の意味を明確にしておきます。

 公認会計士や税理士といった専門家からすれば、細かな指摘をしたくなる意味になるかもしれませんが、専門家以外の方には理解できないような指摘を恐れることなく、本質を押さえながらも、皆さんが理解できるような意味付けをしようと考えております。なぜなら、一部の専門家にしか理解できないようなものは、専門家自身の地位を守るための自己保身のための行為にすぎず、普通に生活をする上で、そんなものに、皆さんが付き合う必要は無いと考えるからです。ちなみに、決算書という言葉遣いは、通称であり、厳密に言えば正確ではなく、財務諸表とか計算書類という言葉の方が正確でしょう。

 

(1)会計の意味

 私の言葉で、皆さんが理解できるような意味付けをするとは言ったものの、それだけでは、論文としては失格と考えますので、会計という言葉の意味を広辞苑から引用します。

(引用はじめ)

 かい−けい【会計】クワイ・・
 (「会」)は、総勘定、「計」は数える意)

    • 金銭・物品の出納の記録・計算・管理。また、その担当者。
    • 企業の財政状態と経営成績を取引記録に基づいて明らかにし、その結果を報告する一連の手続。また、その技術や制度。企業会計。
    • 官庁組織の単年度の収支を予算との対比で把握する決算。また、その技術・制度・単位。官庁会計。
    • 飲食店などで代金を勘定して支払うこと。「お−」

(引用終わり)

 なんと、会計という言葉ひとつでも、これだけの意味があるのです。そこで、この論文では、上記Aの「企業の財政状態と経営成績を取引記録に基づいて明らかにし、その結果を報告する一連の手続。また、その技術や制度。企業会計」という意味で統一します。ここで、皆さんに知っていただきたいのは、会計とは、企業の財政状態や経営成績等を取引記録に基づいて明らかにし、その結果を報告するための、

イ)一連の手続き
ロ)その技術や制度

 のことであり、企業活動(結局は、人間が行った実際の活動)の結果を事実に基づいて明らかにし、企業を取り巻く様々な利害関係者に報告するための、なにがしかのテクニックやルールが、会計の世界には存在するのだということです。

 

(2)決算書の意味

 決算書という言葉についても、その意味を広辞苑から引用しようとしましたが、残念ながら広辞苑には、決算書という言葉そのものが存在しませんでした。よって、この論文で意味するところの決算書という言葉について、上述した、会計の意味と整合するように、私の言葉で以下のように意味付けします。

 決算書とは、企業の一時点の財政状態と一定期間の経営成績等を、人間が行った実際の取引事実に基づいて明らかにし、その結果を、企業を取り巻く様々な利害関係者に報告し、利害関係者の判断や行動に役立ててもらうための書類である。さらに、要約するのであれば、決算書とは、企業活動(結局は、人間が行った実際の活動)の結果を事実に基づいて明らかにし、企業を取り巻く様々な利害関係者に報告し、利害関係者の判断や行動に役立ててもらうための書類である。

 この意味付けで、大きくは間違いないであろうと考えます。そして、もう一つ別の側面から意味を付け加えるのであれば、決算書は、会計の最終成果物であるということです。すなわち、何もないところから決算書というものが突然、生まれるのではなく、企業活動(結局は、人間が行った実際の活動)の結果を、会計を使って表現したものが決算書なのだということです。

  
3.自己申告書としての決算書

 

(1)決算書とは

 上述したように、決算書とは、企業の一時点の財政状態と一定期間の経営成績等を、人間が行った実際の取引事実に基づいて明らかにし、その結果を、企業を取り巻く様々な利害関係者に報告し、利害関係者の判断や行動に役立ててもらうための書類です。これが、本来あるべき姿です。しかし、現実には、自らの業績を、自らの判断で評価し、申告したものであり、大いに主観の介入する可能性のあるものです。そう、決算書は、あくまで自己申告書なのです。この自己申告書という決算書の性格を知っておくことが、決算書を本気で読むならば重要です。

 会社勤めをしている方であれば、人事制度の中で、目標管理制度と称して、年度初めに、自身の業務目標を上司に自己申告し、そして、年度終わりに、業務目標の達成度を自己申告するという経験をされている方も多いと思います。その際、冷静にご自身がやってきたことを振り返り、客観的に自己評価出来る方は非常に稀で、程度の差はあれ、業績を過大評価してしまう方や、過小評価してしまう方が大半ではないでしょうか。

 ご自身の生活に直結する昇給や昇進、あるいは、同僚との横並び意識などを考え出すと、主観を徹底的に排除して、客観的に自己評価し、申告するというのは、難しいのではないでしょうか。それを、うまく調整して、出来るだけ公平な評価に修正してゆくのが、自己申告書を精査し、部下の実際の働きぶりを見てきた上司の仕事なのでしょうが、このような制度を採用している世の中の企業において、どこまで、うまく機能しているのかは、私にはわからないです。私自身の体験や私のかつての同僚の声を聞くに、うまく機能していたとも、まったく機能していなかったとも言えないのが実情です。

 これを決算書にあてはめると、実は、同じようなことが起こっています。すべての企業の決算書に起こっているとは断言しませんが、多かれ少なかれ、業績を過大評価したり、逆に、過小評価したりしているのが現実です。ここで、「業績を過小評価することなどあるのか?」という疑問を抱かれた方もおられると思いますが、現実にはあります。このご時世では考えにくいかもしれませんが、過去に「利益が思った以上に出すぎてしまった、どうしよう。利益をもう少し減らすようなネタは無いか。」と頭を抱えている経理担当者を私は見てきました。

 

(2)決算書=企業の自己申告書

 この「どうしよう」の意味するところですが、例えば、上場企業の決算書は、EDINET(エディネット、Electronic Disclosure for Investors' NETwork=金融商品取引法に基づく有価証券報告書等の開示書類に関する電子開示システム, http://info.edinet-fsa.go.jp/)で、誰でも閲覧可能であり、Investorという言葉が入っているものの株を買う人だけが閲覧しているわけではありません。当然、取引先(売上先)の企業も閲覧しており、あまり儲かり過ぎていると「おたくは、だいぶ利益をだしているようやないか、次の仕入れから、ちょっと値段を下げてくれへんか」というような値引き要求のネタとして使われることも十分あり得る話なのです。もし、皆さんが、日常生活品を買いにいっている、スーパー等が儲けに儲けているなら、実際に値段を下げさせるか否かは別にして、「ちょっとくらい、還元してちょうだい」と一言くらいは、言ってしまうのではないでしょうか。

 他にも、「どうしよう」の意味するところは多々あるのですが、この論文では、これくらいにしておきます。いずれにせよ、企業としては、業績が悪すぎても、良すぎても、つらい立場に置かれることがままあるのです。それを回避したいが故に、企業、いや、その構成員である経営者や従業員を、決算書に表現される業績を、自身にとって都合の良いもの調整してしまおうという行動に走らせてしまうことがあり、それが行き過ぎると、エンロン等の大規模な粉飾決算(実際よりも業績を良く見せすぎる)や逆粉飾決算(実際よりも業績を悪く見せすぎる)ということが行われ、何も知らされていない、私たちが大迷惑を被るのです。

 

(3)決算書=企業の自己申告書の理由

 さて、私が、何故、「決算書は、あくまで自己申告書なのです」と断言したのかについて、その理由を二つ述べます。

 第一の理由は、少し専門的になるのですが、二重責任の原則という言葉をより所にしています。これは、決算書を作成する責任は企業にあり、企業が作成した決算書が、企業活動(結局は、人間が行った実際の活動)の結果を事実に基づいて明らかにしているか否かを監査するのが、公認会計士の責任であるということです。このことから、決算書は、監査を受けているような大企業の決算書でさえ、その作成責任は企業にあるのですから、そもそも決算書は自己申告書であるということをご理解いただけるのではないでしょうか。

 第二の理由は、非常に生々しいのですが、私の知人が、MBAなるものを取得すべく、大学院に通っていた時に、会計学なる科目を教えていた公認会計士、もしくは、税理士が、「これくらいの粉飾決算は、どこの企業でもやっている」と堂々と学生に言い放っていたとの話を聞いたからです。「これくらいの」という言葉には、「大した金額の粉飾決算では無く、ばれなければ問題にはならない」という意味がこもっていることは、元同業者としては、手に取るようにわかります。この発言の方が、自己申告書としての決算書の実態をありありと物語っていると考えます。

 それにしても、個人的に許せないのがこの公認会計士、もしくは、税理士の態度です。企業活動の結果を正確に決算書に表現することを企業に求める立場の人間でありながら、「粉飾決算は普通に行われているし、自身もそれを容認しているし、それに問題は無いのだ」ということを学生に言い放ったのです。この公認会計士、もしくは、税理士の言葉を真に受けた不幸なMBAホルダーは、「これくらいなら大丈夫」という勝手な基準を設けてインチキ決算に手を染めてゆくのかもしれないと思うと「ぞっ」とします。

 さらに、付言するなら、この公認会計士、もしくは、税理士の罪は相当重いと言わざるを得ないです。なぜなら、これからの企業幹部や起業家になることを期待され、MBA取得のための高等教育を受けた者が、率先してインチキ決算に手を染めることを勧めたことになるのですから。ただ、世の中の公認会計士や税理士がすべて、このような人物とは思わないでほしいです。私が、仕事をともにし、つきあってきた大半の公認会計士や税理士は、企業活動の結果を正確に決算書に表現することに真摯に取り組む人達であったのも、また事実です。

 

4.会計と会計方針

 決算書を作成するための一連の手続き、技術や制度のことが会計であり、企業の一時点の財政状態と一定期間の経営成績等を、人間が行った実際の取引事実に基づいて明らかにし、その結果を、企業を取り巻く様々な利害関係者に報告し、利害関係者の判断や行動に役立ててもらうための書類を作成するための、なにがしかのテクニックやルールが、会計の世界に存在するのだということは前述しました。そして、なにがしかのテクニックやルールのことを、一般に会計基準と呼びます。

 この会計基準は、決算書を作成する際に、決算書の作り手の主観を出来るだけ排除して企業の一時点の財政状態や一定期間の経営成績等の表現するための方法を取り揃えたものであり、企業活動(結局は、人間が行った実際の活動)の結果を事実に基づいて表現するための方法なのです。

 あくまで、決算書の作り手の主観を排除した表現方法の取り揃えが会計なのですが、実際には、決算書の作成ルールである会計基準は、どの企業にも、金太郎飴のように同じように適用されるような唯一の基準というわけではありません。会計基準の中には、企業活動(結局は、人間が行った実際の活動)の結果を決算書に表現する際に、複数の方法を認めている場合もあり、どれを選択するかは、企業の判断に任されています。

 そして、企業が選択した表現方法を、会計方針と呼び、どのような方法を選択したか決算書には、必ず記載されているはずです。そして、会計方針として、どのような方法を選択するかの判断基準は、企業活動(結局は、人間が行った実際の活動)の結果を最も適切に表現できる方法であるか否かであり、決して、自身にとって都合の良いものを基準に選択することは許されないといことは、ご理解いただけるでしょう。

 

5.決算書を本気で読むのなら会計方針から読もう

 ここまでで、決算書の表面的な数字に惑わされることなく、冷静な判断のもと決算書を実生活において役立てるためには、決算書が、自己申告書であるということと併せて考えれば、

「決算書を本気で読むのなら会計方針から読もう」

 という私の提言をご理解いただけるのではないでしょうか。

 ポイントは、決算書が自己申告書であるにも関わらず、会計方針の選択が、企業の判断に任されているが故に様々な思惑がからんでいるという点です。会計方針を無視して、決算書を読むことは、真っ暗な夜道をライトが点灯しない欠陥車で走るようなものであり、それが、どれほど危険なことなのかは、明らかでしょう。逆に、しっかりと会計方針を理解したうえで、決算書を読むことで、ご自身の知識や経験との相乗効果で、決算書の数字が表現している、企業活動(結局は、人間が行った実際の活動)が手に取るようにわかる日が来ることでしょう。

 そして、会計方針を読む際に意識すべき点は、

  • この企業の決算書は、どのような会計方針を採用して作成されているのか?そして、その採用されている会計方針は、この企業の活動(結局は、人間が行った実際の活動)の結果を表現する方法として適切であろうか?
  • 当期の決算書を作成するにあたり、前期の決算書から、会計方針に変更がなされていないか?もし、変更があるのなら、変更の理由とその理由が適切なのか?また、何故、当期のこのタイミングで変更をするのか?

 の二点で十分です。

 以上が、今回の私の論文の主な内容です。次回の論文では、「監査業務に従事する公認会計士はある意味占い師だ-後出しじゃんけんでいじめられる公認会計士の苦悩-」という切り口で、お話をさせていただきます。その前に、この論文で、あと一点だけ補足させてください。それは、会社四季報の数字だけ、ちらっと眺めて、「前期の決算と比較してどうのこうのとか、同業他社と比較してどうのこうのとか言いだし、ひいては、この会社の株価は・・・」などと言い出す方の話は信用しない方が良いでしょうということです。

 そんな場面に出くわしたら、上記、二点の会計方針を読むときの意識すべきことを、そのまま、その方に質問してみてください。この質問に、しどろもどろになってしまう方の発言は、信用しない方が良いでしょう。逆に、決算書の該当箇所を見ながらでも、説明のできる方の発言は、じっくりと聞く価値はあるでしょう。

(おわり)