「0024」 論文 古代通史序論(1) 鳥生守(とりうまもる)筆 2009年4月9日

 

 これは、真実の古代通史序論である。現在の古代通史は間違っているのではないか、あまりにも不公平で、不当で、多くの間違いが埋め込まれているのではないのか。従って、古代史の通史は全面的に書き改められるべきではないか。これは、そのことを論じた小論である。

 

はじめに

 改めて思うことは、現在の古代通史は総合的な視点では大いなる改竄・捏造ではないのか、ということである。なるほど8、9割の部分は、史実が語られている。しかし、わずかずつであるが、各所に偽りの言い回しが埋め込まれている。この各所に埋め込まれたわずかな偽りによって、総合的な古代通史の改竄・捏造が完成するのだ。

 現在の世界史編纂は、西洋・キリスト教世界が主体となってで行なわれてきた。だから、世界史の捏造があるとすれば、これらの人々の都合によるだろう。そういう可能性があるだろうということで、そういう視点から古代史を見直してみると、その可能性は事実であった。つまり、大きく見れば、古代史は(したがって世界史が)西洋・キリスト教の都合による改竄・捏造であることが判明するのである。

 つまり、一神教かつ過激なキリスト教正統派や隠れユダヤ教の思想の持ち主が現れたとき、すなわち、偏狭かつ排他的な西洋中心思想の持ち主が現れたとき、自覚的、あるいは無自覚的に、自己中心的かつ排他的な言い回しが、各所に埋め込まれたのだろう。世界史全体を西洋優越の世界史にするために、古代通史を西洋中心に誘導したのだろう。そういうことだ。いまのところ、それは完璧に近い状態で成功している。

 では、古代通史捏造の例として、「ヘレニズム(Hellenism)」を見ることにしよう。

 

「ヘレニズム」はあったのか

 「『ヘレニズム』という語は、歴史家ドロイゼン(ドイツ)の造語で、『ギリシア風文化』を意味する。アレクサンドロス大王以後の、約3世紀間の時代をさす」と、日本の高校教科書「世界史」には解説されている。教科書では一般的に、「ヘレニズム時代」、「ヘレニズム文化」、「ヘレニズム文化の流れ」というような表現がされる。ヘレニズム文化の伝播は、「ギリシア・ローマの女神や神々の神像(たとえばアポロン像)⇒インドのガンダーラ仏像⇒中国の雲崗仏像(うんこうぶつぞう)⇒日本の百済観音像」にみられるというのだ。そして、日本では、「東西文明の融合によって生み出された新しい世界文明をさす概念」として、理解がひろまっている。

        

アポロン像  ガンダーラ仏像  雲崗仏像  百済観音像

 このドロイゼン(J.G. Droysen、1808〜84年)は、ドイツの歴史家であり、政治家だった。プロイセン王国(1701−1871年)、ポンメルン地方の小都市トレプトー(現在はポーランド領)に生まれ、ベルリン大学で学んだ。若干25歳の若さで、「アレクサンドロス大王の歴史」(1833年)を発表し、その後「ヘレニズムの歴史」全3巻(1836〜43年)で、ヘレニズムという時代概念を提唱したのだった。つまり、「ヘレニズム」という概念は、日本においては、天保の改革の頃に提唱された概念なのだ。1世紀半以上も前の概念である。

ヨハン・ドロイゼン

 ところが、その「ヘレニズム」の概念がいまだに曖昧だという。概念が混乱してはっきりしないという。大戸千之(おおと・ちゆき)著『ヘレニズムとオリエント』から引用する。

(引用はじめ)

 (ヘレニズム)時代の特質や主要な動向の把握、さらには概念の全体理解をめぐって、見解の対立や混乱を生じて収拾つけがたいところがある。

(中略)

 「ヘレニズム」の場合、問題なのは、概念としての曖昧さが指摘されるようになってから、すでに久しい年月をへているにもかかわらず、曖昧なまま用い続けられていることだ。

(中略)

 欧米の(学界の主流をなす)研究者たちは、むしろギリシア文化の拡大・普及を重視しつつ、その成果と限界をあきらかにしようと腐心しているように見うけられる。われわれの考えるところでは、ドロイゼン流の見解はもとより、近年の欧米の研究もまた、少なからぬ問題を含んでいて、多面的な再検討がなされねばならない。われわれの課題とするゆえんである。(まえがき)

(引用終わり)

 大戸氏はこのような観点から、「ヘレニズム」概念を再構築するために長くこの研究を続けた。しかしそれは成功したと言えない。「ヘレニズム」概念を再構築し、明確にすることはできなかった。同書の上梓が予定より大幅に遅れたゆえんである。『ヘレニズムとオリエント』はそのことを正直に述べた本である。

大戸千之

 大戸氏の、「ヘレニズム」概念の曖昧さと混乱を明らかにした功績は、大きい。しかし大戸氏は同書で、「ヘレニズム」概念再構築のために、その後も研究を続行する構えを示している。けれども、これ以上「ヘレニズム」概念を追い求めることに、意味があるのだろうか。150年以上を経過しても概念が曖昧なのだ。ひとりの学者の生涯を捧げた研究でも、いっこうに明確にならないのだ。そんな概念が存在するのだろうか。

 「ヘレニズム」は曖昧なまま用いられてきたのだ。「ヘレニズム」はなかったのだ。だから、「ヘレニズム」概念は捏造なのである。

 前述の神像と仏像のことは史実として認めよう。しかし、それがどうしたというのであろうか。文化の一部が伝播しただけのことである。別に珍しいことではない。このくらいのことなら、探せばいくらでもあるのだ。どんな国の文化も外来の文化に刺激されながら発展するものである。ギリシアだけ特記するのは不当である。つまりこの種の伝播は、文化とは接触時に共鳴が起これば広まっていく、そういう民族の地域には広まっていくという、一般的なことの一例であり、それだけのことなのだ。「ヘレニズム」がなくても、このような伝播は起こったはずである。

 また、「東西文明の融合」も認めよう。しかしそれは政治状況が変化すれば、常に起こるものである。それは「ヘレニズム」に限ったことではない。

 

ギリシア建築はどうだったか

 ギリシア建築は、初期はドーリア式(Doric order)で、中期はイオニア式(Ionic order)、そして後期はコリント式(Corinthian style)だったと言うことで、ギリシアの建築だけが美しく立派なように教科書では書いてある。これによって、古代オリエントの果たした役割を無視するかのように、ギリシア建築が世界の建築の出発点であったかのように、私たちは思い込まされて(マインド・コントロール)きた。しかし、これらはそれぞれいつ頃の何を指しているのだろうか。

 手許の高校教科書によれば、ドーリア式の例として挙げられているのは、アテネのパルテノン神殿(Parthenon、前447−438年)である。イオニア式の例はアテネのニケ神殿(Temple of Athena Nike、前420年頃)、コリント式の例はアテネのオリュンピエイオン=ゼウス・オリュンピオス神殿(Temple of Olympian Zeus、前174−後129年)である。これが当時世界最先端の建築だと言わんばかりである。

   

パルテノン神殿 ニケ神殿    オリュンピエイオン

 では、それらと、エジプトのカルナックのアンモン神殿(=アメン神殿、Amun)の大多柱室(=多柱式の広間)(第19王朝、前1290年頃)やアケメネス朝ペルシア(前550−330年)のペルセポリス宮殿のダリウス1世(=ダレイオス1世)のアパダナ(ApadaNa、ダリウス1世の謁見の間があった建物)(前521−485年頃)や百柱殿(前490−460年)と、比較した場合に、どうなるのであろうか。(桐敷真次郎『西洋建築史』6ページ、15ページ)

    

アメン神殿    アパダナ      百柱殿

 また小アジア(現在のトルコ)にも神殿がある。リュディア王国では、エフェソスやサルディアにはアルテミス神殿(Temple of Artemis)があり、フェニキアのテュロス(ツロ)にはメルカトル神殿(なんと、ギリシア人からみれば、なぜか、これはヘラクレス神殿、Herakleionとなるという)がある。

  

アルテミス神殿   メルカトル神殿

 それらの神殿と比較して、より立派で進んだ技術なのだろうか。これらをきちんと比較して欲しい。(ただし、アテネのオリュンピエイオンは、ローマ帝国の時代の完成になっている。ギリシア・ローマ世界の政治的支配が400年以上続いた後のことだ。だから、これについてはさすがに、当時のほぼ世界最先端だろうと思う。)

 『エンカルタ百科事典』によると、カルナックおよびアンモン神殿は次のように書かれている。以下に引用する。

(引用はじめ)

[カルナック Karnak ]

 エジプト中東部、ナイル川東岸の村。ルクソールの町から北へ約3kmの所にあり、古代テーベの遺跡の北半分がこの村に、南半分がルクソールにある。カルナックは、古代エジプト第11王朝(前2134−1991年頃−引用者注)の時代、つまりテーベがその政治と宗教の中心地だったころの神殿群の遺跡で有名である。

 スフィンクスのある参道でむすばれた神殿群は、日干し煉瓦の壁にかこまれ、広さがおよそ3km2にもおよぶ。この神域の周りには、アメンヘテプ3世(前2069−2060年頃−引用者注)がたてたメントゥ神と女神ムートをまつった小さな神殿群がある。

 守護神アメンをまつった最大でもっとも重要なアメン大神殿の建設がはじまったのはセンウセルト1世(前1971−1926年頃−引用者注)の時代で、完成したのはラメセス2世(第19王朝、前1279−1212年頃−引用者注)の時代だが、細部の増改築は前1世紀までつづいた。

 アメン大神殿のもっともすばらしい建築物は多柱式の広間である。高さ21mもある122本の柱が9列にならんで、その天井をささえている。レリーフや碑銘が壁をうめつくし、敷地内には、オベリスク(方形で上にいくに従って細くなり、先のとがった白い石柱。方尖塔−引用者)、像、塔門がある。(後略)

(引用終わり)

 なお、ギリシア神話の英雄ペルセウス(Perseus)やヘラクレス(Heracles)も、そしてかのアレクサンドロス大王(Alexander the Great)も、神託を受けたという、有名なアンモン神殿とは異なる。それは、リビア砂漠の中にあるシウァ・オアシス(現在のリビア国境に近いシワ付近)にあったアンモン神殿であり、名前が同じであるが、カルナックのそれではない。

 また次の、ペルシアのペルセポリスの王宮については、岸本通夫ほか著『世界の歴史2・古代オリエント』は、次のように書いてある。以下に引用する。

(引用はじめ)

 (ペルセポリスの)列柱建築、・・・岩壁を利用した横穴墓室などにはエジプトからの影響を見ることができる。そしてかように、古代オリエントの諸民族の技法を取り入れ、・・・古代オリエント史3000年の結論としてのペルシア大帝国の一面が見られて興味深い・・・。

(中略)

 ペルセポリス王宮全体としては、高さ20メートルに達する列柱を連ねた「百柱の間」をはじめ、豪壮な巨大感と力強い安定感を備えて、いかにも大帝国の首都を飾る王宮にふさわしい風格を示している。

(中略)

 列柱はいずれも、イオニア式の列柱に似て、柱溝がついているが、イオニア式とちがって、その柱溝はこまかく数が多く、いずれも四〇をこえている。かようにペルシア建築はいったいに装飾過剰の気味があるが、その装飾過剰が嫌味を感じさせず、ただ流麗としか映じないところがいかにも不思議であって、この王宮を造営した工匠はどのような深い計算をしていたかと賛嘆の念を禁じえない。(444−446ページ)

(引用おわり)

 アケメネス朝ペルシア(インド・ヨーロッパ語族アーリア人の帝国)は前525年にエジプトを征服している。一方、それらの建築は前521年頃以降の建設である。だから、ペルセポリス王宮の建設にはエジプト人の建築家や工匠そして奴隷などが(連れて来られて)使われた可能性が十分考えられる。私はそのように想像する。

 ギリシア(インド・ヨーロッパ語族アーリア人のギリシア語を話す都市国家群)とペルシアの戦争(前500−449年)は、エジプトを征服したペルシアがギリシア方面に触手を伸ばし、ギリシアがこれに抵抗を示したために起こった戦争と言える(これはアーリア人同士の戦争でもある)。ギリシアの場合、この戦争の間、あるいはギリシア勝利の戦後処理のなかで、おそらく「戦利品」のようなものとして、小アジアのイオニア地方などから神殿造りの建築家や工匠を連れてきて使った可能性が高い。アテネの再建は終戦二年後の前447年から始まっているのだ。

 このようにみると、前600年頃には石造列柱建築がオリエントにおいて日進月歩の進歩をなしており、その建設ラッシュがあったことがうかがわれる。それがペルシア戦争(Persian War、前500−449年)後に、戦勝国ギリシアに波及したということだろう。

 つまり、ギリシア文明は少なくとも、その「ヘレニズム」当時は、古代オリエント(中東)文明を政治的に支配し始めた段階であり、その文明そのものはオリエント文明の一部に過ぎず、また遅れてもいたのだ。だから、ギリシア文明がオリエント世界に大きな影響を与えるということは、基本的にはありえないのだ。その逆はありえても、それはありえなかっただろう。だから、「ヘレニズム」などというのは、もともと存在しなかったのである。

 ドロイゼンの「ヘレニズム」という仮説は、19世紀において、西洋の優越感を満たし、「優越する西洋」という観念を世界に浸透させるのに便利だったために、喜んで迎えられ、利用されたのである。その後「ヘレニズム」は概念が一人歩きをしながら、数多くの無数の印刷物になって、喧伝された。それによって、世界の人々はいつの間にかそれが真実の歴史であったかのように、思い込まされて(マインド・コントロール、ブレイン・ウォッシュされて)しまったのだ。

 そのために歴史学界は、ギリシア建築について、オリエントとの正確な比較・関連が、いまだに書けないのではないだろうか。

 ただし「ヘレニズム」の時代は、ギリシア世界がオリエントを政治的に支配した。また、ギリシア語がオリエントの公用語となり、オリエント文明のすべてがギリシア語で表現されていった。これが後々の歴史において、重大な意味を有することになったことは事実である。

 

古代通史概略

 これまで、地中海古代史は中東を無視し、語られてきた。自分たち西洋の地中海だけで偉大な古代を築いたと思いたい願望と思い込みのあまり、それに固執してきたのだ。それゆえに古代史は、不自然で堅苦しいものになってきた。西洋地中海とオリエントとの相互関係がないのだ。不思議ではないか。地中海のどこかに長い長大な障壁(barrier、バリア)があるかのようだ。そうではなく、地中海古代史はやはり古代最大の文明であるオリエント文明の吸収の歴史なのであって、オリエントと西洋地中海は相互交流しあっていたのである。大きくみれば、常に融合しあっていたのである。

 古代史は、やはり、メソポタミアとエジプトを軸としたオリエントを中心にして見なければ、史実に合わなくなるのだ。イスラーム史研究家が、この中東・地中海古代史の流れをうまく書いていた。それを以下に紹介する。

 これは、佐藤次高、鈴木董ほか著『都市の文明・新書イスラームの世界史1』(34−46ページ)に書かれていることだ。将来において、修正の必要が出てくるかもしれないが、とりあえずは、これを骨格として古代通史を見ればよいだろう。修正の必要が出てくれば、その時点で変更すればよい。これに従えば、古代通史は活き活きと、真実なものとして蘇(よみが)えるであろう。

 その古代通史の概略とは、次の(1)〜(29)のようになる。

(1)中東は一般的に、冬に少量の降雨をみるが、夏には雨がほとんどない。麦類はこの気候帯を好む植物種であり、山羊・羊はこの気候帯に生育する麦類や牧草を好む動物であった。この地域の人々は早くから、野生の麦を採取して食料とし、野生の羊・山羊を狩っていた。

(2)やがて、人々は麦の栽培と、羊と山羊の飼養をはじめた。それはいまから8000年ほど前(前6000年)、イラク、トルコ南部、シリアの山間部のいわゆる「肥沃の三日月地帯」でなされた。これが、人類の歴史で最初の農耕と牧畜であった。

 この中東の山間部での農業は、粗放農業の域を出なかった。農地は水平に整地されるのではなく、斜面のままで、灌漑設備もない。畑に畝をつくるわけでもなく、種は籠からばら撒きにされた。畑はまた毎年播種されるわけでもなく、2年か3年ごとに農地となり、他の期間は休閑地であった。

(3)こうした粗放農業が2000年ほど続いたのち、いまから6000年ほど前(前4000年)ごろから、メソポタミアとエジプトで新たな農業が生まれた。

 ティグリス・ユーフラテス両河がうるおすメソポタミアの平原と、ナイル川の川谷とデルタよりなるエジプトは、降雨量が少なく、乾燥に強い麦類ですら生育できない地域である。ここでの農業は灌漑施設をともなわなければならない。灌漑農業を行なうためには、人間はかなりハードな仕事を余儀なくされる。しかし、そのかわり、粗放農業に比べれば灌漑・集約農業の生産性はきわめて高い。

(4)19世紀フランスの画家ミレーが描く農夫が、籠から種をばらまきにしていることに象徴されているように、ごく最近までフランスの農業は粗放農業だったのだが、そこでは、収穫が播種量の数倍から10倍程度である。それに対して、いまから4000年ほど前(前2000年)の時代のメソポタミアやエジプトの灌漑・集約農業の生産は、収穫が播種量の数十倍から場合によっては100倍あったと計算されている。

 この高い生産性にささえられて、いまから5000年ほど前(前3000年)からメソポタミアとエジプトでは、人間が稠密(ちゅうみつ)に住むようになり、都市が形成された。この時期の都市とは、数千、数万、ときには十数万人規模の集落のことである。

 しかし、都市とは単に人間が多数、稠密に住んでいることだけを意味してはいない。そこは絶えず外部から人、物、情報が集まり、またそこから絶えず人、物、情報が出ていく「場」なのである。そして、異質な人々、多様な物、各種の情報が交差しあうなかから、文明というものが生まれた。中東は都市とともに、文明を世界最初につくりだした地域なのである。

(5)メソポタミアとエジプトの当時の人口は、それぞれ数百万人規模とも、1000万人をこえていたとも想定されている。世界のその他の地域の総人口は、数百万人規模であったろう。それぞれが100万ヘクタールの、2つの地域に、世界総人口の過半が集中して、そこだけに文明があった時代がおよそ2000年間(前4000−2000年)続いたのである。(この肥沃の三日月地帯のメソポタミアと、ナイル流域のエジプトは、意外と狭い。河の近辺のみが文明の地であった。)この中東の歴史は重い。

(注1)このナイル流域(エジプト)と、肥沃の三日月地帯(メソポタミア、シリア、パレスティナ)は細く、面積は意外と狭い。

(注2)ナイル流域の東西は砂漠であり、ナイル上流のアスワン以北も急流地域が何か所もあり、通行困難である。したがってエジプトは外部から侵入されにくいところであった。それに比べ、メソポタミアなどは、外部の民族に侵入されやすいところであり、事実そうであった。エジプトは長く平和的であった。メソポタミは外来の民族に征服される歴史であった。これは、エジプトとメソポタミアの大きな違いとなった。

(6)前3000年紀(前3000−2000年)には、灌漑・集約農業は、メソポタミアとエジプトの周辺に着実に広がった。しかし、世界のその地域では、人間はあいかわらず狩猟・採取か、移動する農業に従事していた。そして、次の前2000年紀(前2000−1000年)の後半に、わずかに中国の黄河地域やアメリカ大陸の一部で粗放農業がはじまり、定着する人が出てきた程度である。

(7)前1000年紀は、世界各地に灌漑・集約農業の技術が伝播したり、あるいは独自に開発されたりして、世界各地に都市が形成されて、文明が花開いた時代であった。メソポタミアとエジプトで開発された技術と文明は、東はイラン高原から中央アジアに伝わって各地で都市や国家を生み、西は地中海一帯に広まって同じく都市や国家を生んでいった。

(8)膨大な投資と多量の労働力を必要とする灌漑・集約農業は、「商品作物」を生産するために開発されていた。前3000年紀(前3000−2000年)からの中東は、すでに商品経済の世界であった。金・銀に裏づけされ、個人の信用に媒介された商取引・商契約が、社会を成り立たせる基本であった。

 前1000年紀(前1000−0年)から活躍しはじめる遊牧民も、砂漠や荒野で孤立した生活を営む人々ではなくて、商品としての家畜を飼養して販売する商人でもあり、ラクダなど飼養している家畜を利用しての運送業者でもあった。都市民は無論、その全員が何がしかの商取引に従事していた。

(9)中東は、個人の資格で他者と契約する、自立した人々よりなる社会であったのである。アルプス以北のヨーロッパでこのような社会が実現するのは、19世紀になってからである。中東は、ヨーロッパの近代、 それを、5000年ほど前(前3000年)の時代から先取りしていたことになる。

(10)中東は、その中でも特にメソポタミアとエジプトは、神々のふるさとであった。その神々は、人間のさまざまな集団を代表していた。国家には国家を代表する神がいた。都市には都市の守護神がいた。パン屋の組合のような職業別組合にはそれぞれの神がいた。(ずっと後年、紀元後17世紀ごろに、石工組合からフリーメーソン−自由な石工−という秘密結社ができたと言われている。)家族とか氏族とか部族のような血縁組織にもそれぞれの神がいた。社会全体には無数の神々がいた。

 1人の人はいくつもの集団に属していた。従って1人の人はいくつもの神の保護下にいたことになる。紀元前3000年から紀元後4、5世紀まで(前3000−500年)の中東は、神々によって代表される世界であった。(すなわち多神教の世界であった)

(11)紀元前13世紀(前1300−1200年)に、中東は激しい民族移動の波にみまわれ、一大変革期を迎えていた。このころから中東の人々は鉄器を武器として用いるようになり、それで武装した軍隊の戦闘能力はそれまでに比べて飛躍的に高まり、国家や軍団の興亡はスピードを増した。

(12)この混乱の時代に、広い世界を股にかけて活躍する集団が出現した。前12世紀(前1200−1100年)ごろには、フェニキア人が地中海交易圏をつくりあげ、内陸ではアラム人の隊商がイラン高原や中央アジアまで達した。やがて、前10世紀以降、ヘブライ人(ユダヤ人)やアラブ人が、アラム人とともに内陸の隊商貿易で活躍するようになった。そして地中海では、前8世紀ごろから、ギリシア人がフェニキア人と競って海上交易に乗り出した。

 かくして、このような商人集団をつうじて、メソポタミアやエジプトで生まれた文明は、東はイラン高原から中央アジア、南はアラビア、西は地中海沿岸一帯に広がっていったのである。

(13)フェニキア人、アラム人、アラブ人、ギリシア人などの商人集団は、それぞれの神々をもっていた。しかし、彼らは、広域交易圏を組織する商人集団であったから、その神々は当然のことながら、広い地域の人々の信仰を得た。ひとつの地域や国家に縛られない、広い地域に通用する神々が誕生したのである。

(14)前8世紀に成立したアッシリア帝国は、広大な地域とさまざまな民族を統治する、帝国とよぶべきものの最初であった。そして帝国の神々も、広い地域に通用する神々となり、その最高神は広い地域での最高神となったのである。そして前6世紀に誕生したペルシア帝国の神々もまた、広域に通用する神々となった。

(15)前4世紀になると、アレクサンドロスがギリシア人を率いて、ペルシア帝国を滅ぼし、その全領域を継承した。その結果、ギリシアの神々はギリシア人の交易網だけではなく、政治的支配をもつうじて、中東の大部分をおおう広域の神々となったのである。

(16)紀元前後のころからは、中東の西半分はローマ帝国に支配されるようになった。しかし、ローマ帝国の発祥の地であるイタリアや、ローマ帝国の初期の領土であった地中海世界の西部は、経済的・文化的には帝国の辺境であり続け、帝国の東部、すなわち中東が帝国の経済的・文化的な中心部であった。

(つづく)