「0025」 論文 古代通史序論(2) 鳥生守筆 2009年4月12日

 

(17)当時の中東では、アレクサンドロスによる征服以来、ギリシア語が文明をささえる言語となっていた。紀元前3000年紀以来の文明は、この時代にはもっぱらギリシア語で表現されていた。そしてローマの支配はギリシア語の文明を変えることなく、逆にギリシア語世界に帝国は飲み込まれていった。また3世紀以降は、政治的中心も中東に移動してきた。ローマ帝国もまた、しょせん中東の帝国なのであった。当然、ギリシアの神々がローマの神々となった。

(18)ペルシア帝国、そしてそれを継承したギリシア人の帝国やローマ帝国は、狭い地域や人間集団にとらわれない、普遍的な世界を創出していた。そのような世界の神々は、特定の集団を代表する神ではなく、広範な人々の信仰を集める神なのであった。しかしそれらはまだ、愛の神、戦争の神のように、特定の機能をもつ神であった。

(19)さて、その世界を股にかけて活躍する商人集団のひとつとして、ヘブライ人があった。彼らの一部は、いくつもの神々を崇拝するのではなく、ただひとつの神を崇拝すべきである、と主張した。彼らは、すべての機能をもつ神、という神概念の革命的な転換をおこなったのである。彼らの間で、天地万物を創造した唯一なる神への信仰という一神教、ユダヤ教が成立していった。

(20)ユダヤ教をささえた人々は、商人として中東から地中海世界の全域に散っていた。彼らは前2世紀ごろから、今日のパレスチナの地で独立国家をつくった。しかしその国家もローマ帝国に併合され、さらに帝国の支配に反抗した彼らの一部はその地を追われてしまった。

(21)それ以後、ユダヤ教徒は地中海世界のどこででも少数派であり続けたが、どの都市ででも彼ら自身の社会を維持していた。ローマ皇帝は彼自身が神の一人であると主張し、彼自身への崇拝を人々に強制していたが、ユダヤ教徒は巧みにそれを拒否して、唯一なる創造神への信仰を維持した。

(22)短命のユダヤ教徒の国家がローマ帝国に併合された直後、この国家の旧領内にイエスという名の1人の男が生まれた。イエスは、ユダヤ教徒社会の改革者を目指していた。そのイエスが十字架の刑で死んだのち、彼が復活したのだと信じた一群の人々の信仰が、キリスト教をつくっていった。

(23)キリスト教では、万物を創造した神とイエスが同一視される。「同一」であるという言葉の内容をめぐって、キリスト教徒の間で無数の議論と混乱があるのだが、そのことはここでは触れない。ともあれキリスト教も唯一神への信仰なのである。

(24)キリスト教は、ユダヤ教徒という限定された商人集団の枠をこえて、異邦人、すなわちユダヤ教徒以外の人々をも組織しようとした。神は唯一であって、また全人類のための神なのである。キリスト教は、都市化した社会を1000年以上にわたって、維持していた中東の人々の間に、時間をかけて着実に浸透していった。地域や集団の枠にとらわれようとはしない都市化した人々は、特定の集団の神ではない、普遍的な神への信仰を求めていったのである。

(25)中東の民衆の多くがキリスト教徒となった4世紀、大事件がおこった。キリスト教がローマ帝国の国教となったのである。コンスタンティヌス帝のミラノ勅令(313年)が、事実上の国教化とみなすことが出来よう。キリスト教は帝国の権力と結びついた。権力を背景においた宗教は強い。帝国は、そしてキリスト教勢力は、帝国内のキリスト教以外の信仰を、異教として弾圧していった。

(26)ローマ帝国の領域内から、政治権力によって神々は追放された。神々の追放とは、単に神々だけの問題ではなかった。この時代の最良の建造物は神々のための神殿であったし、この時代の学問・芸術は神々のためにあった。しかし、キリスト教の精神にあわないものは捨てられたのである。これは古代の抹殺であった。

(27)アテナイのアクロポリスは、この時代に廃墟となった。エジプトのルクソールのあの巨大な神殿も、廃墟となった。その神殿の神官団も消滅した。エジプトでは、前3000年ごろから文字が使われていて、この時代まで神官団によってそれは使われていた。しかし、このとき以来19世紀まで、ヒエログリフという呼び名で一般に知られるこの文字(象形文字=聖刻文字)は、誰も読めない単なる紋様に化した。エジプトの多神教は迫害を受け、抹殺されたのである。岸本通夫ほか『世界の歴史2・古代オリエント』(河出文庫)から引用したい。

 (注)ヨーロッパ人は象形文字のことを「ヒエログリフ」とよんでいる。    それは、石に刻まれた神聖な文字、という意味である。単音記号、    複音記号、限定詞を組み合わせたもの。「ヒエログリフ」(前27    00年ごろから)は楷書体。その行書体を「ヒエラティック」(前    1500年ごろから)、その草書体を「デモティック」(前8世紀    ごろから)という。(192−196ページ)

(28)トルコのミロにあったヴィーナス女神の彫像は海に投げ捨てられ、19世紀に拾いあげられてフランスのルーブル美術館に飾られるまで、海に眠り続けた。神々にささげられていた演劇や音楽は見捨てられ、そのテキストや楽譜の大部分は消え失せた。神々の追放は、文化大革命であったのである。それは、宗教運動が政治と結びついてはじめて達成できた革命、すなわち古代の暴力的抹殺なのであった。

(29)キリスト教は、ローマ帝国の領域をこえて広がっていったが、ローマ帝国の領域外では、キリスト教は権力を背景に置けなかった。このため、今日のイラクやイラン、そしてアラビア半島という地域では、それ以外の信仰を抹殺できなかった。イスラームの勃興は、アラビアからみれば先進地域であった地中海世界をおおっていた一神教を、アラビアへ純粋な形で導入しようとする試みだったのである。

 私はこのような概略で古代史を見ないと真実の古代史を得られなくなると思う。ところが、現在はそのような歴史編纂になっていない。それは、世界史の構成をみれば明らかである。

 河出文庫の「世界の歴史」シリーズ全24巻は、次のような構成になっている。

世界の歴史1・人類の誕生
世界の歴史2・古代オリエント
世界の歴史3・中国のあけぼの
世界の歴史4・ギリシア
世界の歴史5・ローマ帝国とキリスト教
世界の歴史6・古代インド
世界の歴史7・大唐帝国
・・・・

 つまり、ギリシア、ローマが1巻ずつ与えられているが、古代オリエントには1巻しか与えられていない。これが、いかにもアンバランスなのだ。古代での歴史の重みからするならば、本来であれば、少なくともメソポタミア、エジプト、シリアに各1〜2巻というようになっていなければならないのだ。

 このように、現在の世界史はオリエントを無視しているのだ。また、多神教を無視しているのだ。これでは、古代通史が改竄・捏造されるのは当たり前なのだ。この構成そのものが、古代通史の改竄・捏造を示しているのである。

 これは明らかに、世界の支配者によって、全世界のマインド・コントロールのために、意図されたものだろう。

 私はオリエントの歴史が応分に編纂されることを望むものである。そういう歴史学者や歴史学界が登場することを願う。しかし、それには時間がかかる事情があるかもしれない。

 そこでとりあえずは、現在のギリシア・ローマ史を古代オリエント史の中のそれとして、正当な位置づけになるように、組み直すのも有効かもしれない。いずれそうなるはずである。現に膨大なギリシア・ローマ・キリスト教史ができているのだから、それを早急に行なうべきかもしれない。

 それでは、この概略を踏まえて、実際の歴史を具体的にみてみよう。とはいっても紙数の関係から、今回は、簡単に述べるにとどまることになるのだが。

 

クレタ文明などについて

<クレタ文明以前>

 ギリシアの新石器時代は、西アジアの農耕文化(粗放農業)が北上して、小アジアをへてヨーロッパにひろがったもののひとつで、前6、7千年頃から始まった。同じころ、クレタには別種の新石器文化が、すなわち西アジアを南下してエジプトあるいはパレスチナ、シリア方面からのものが、伝わった。(『世界の歴史2・ギリシア』、29ページ)

 これは、クレタ文明以前のことである。歴史学界説であるが、これはこれで問題ないだろう。

 この新石器時代は、概略(2)のころに対応する。

<クレタ文明−歴史学界説>

 ギリシアの青銅器時代は、小アジアから伝わり、前2600年ごろから始まる。(『世界の歴史2・ギリシア』、29ページ)

 同じころ、クレタにも青銅器文化が伝わり、クレタを中心とした、ギリシア本土、キクラデス諸島(ギリシア・小アジア間にあるエーゲ海の島々)、トロヤ(トロイ、小アジア西北部)を圏域とするクレタ文明(Minoan civilization、前2600−1400年頃)が現れる。(前掲書、30ページ)

 この文明は、オリエントの先進文明にまさるとも劣らないほどの高度な文明だった。クレタ陶器はシリアからエジプトにかけて発見されるし、エジプトの高官の墓壁画には、縁飾りや文様のある腰布と、腰の細いのが特色であるクレタ人の姿が見られる。またクノッソス(クレタ島にある都市)からは、エジプト王の名を刻んだ彫像が発掘されている。(前掲書、31、42ページ)

 クレタ島には有数の広さを持ったメッサラ平野があり、かなり水にも恵まれている。こうした自然条件をフルに利用して、クレタ人は史上最初の海洋民族となった。(前掲書、47ページ)

 クレタ人は何人種とはっきりは定めにくいにせよ、アーリア人種(すなわち、ギリシア人)でないことだけは、確実なのである。(前掲書、49ページ)

<補足資料>

 前2600年頃というのは、エジプト古王国時代(前2686−2184頃)の第3王朝(前2686−2613頃)あるいは第4王朝(前2613−2500頃)のころである。『世界の歴史2・古代オリエント』には次のように書かれている。

 エジプトは、初期王朝時代(前3000−2686頃)の第2王朝(前2800−2686頃?)のころ、シリアのゲバル(ビュブロス)にはすでに商業植民地が設けられ、同地の杉材やアジア各地の産物の輸入が促進された。外海用の大型船も建造された。(『世界の歴史2・古代オリエント』P197)

 この頃は、ほかに強力な統一国家がなく、対等の競争相手がなかった頃だったから、エジプトはもっとも有利に取引を進めることができたであろう。古王国時代にはいって中央政権はすっかり安定し、ファラオは、マスタバ墳墓にかわって石造の巨大なピラミッドを営むようになった。(前掲書P197−198ページ)

 サッカラにはじめて階段状ピラミッドをつくり、一時期を画したのは、第3王朝の始祖ゼセル王(前2668−2649年頃)であった。(略)ギゼーにそびえる3つのピラミッドのあるじクフ(前2589−2566年頃)、カフラー(前2558−2532年頃)、メンカウラー(前2532−2504年頃)の諸王のころ、ピラミッドの造営はもっともさかんになった。前2600年前後のことである。(前掲書205−206ページ)

<クレタ文明の真実>

 クレタは、シリアのゲバル同様に、エジプトの植民地であった可能性が濃厚である。と言うよりも、クレタ文明とはエジプト文明であり、当時エジプト文明はここまで膨張していた、というべきかもしれない。

 このころ、エジプトの力を背景にデルフォイ(デルポイ)の神殿(Delphi)が開かれたのではなかろうか。当初の守護神は、正義の女神、法や掟の女神テミスであった。(この女神は、ぼやき「539」「547」に出ていた、ローマの正義の女神ユスティティア(Justitia)と同一視される女神である。後世の偽造かもしれないが、テミスはユスティティアと同様、右手に剣、左手に天秤、そして目隠しがイメージされている女神である。エジプトの正義の神にはラー神の娘でマアト女神(Ma'at)がいる。

 これはイメージが少しちがうが、天秤が関係している。これの変形とも考えられる。)しかしその後、植民の神、太陽の神アポロンに変更され、植民や戦争の際、つねにその神託によって行き先などが決定されたという。デルフォイの神殿は由緒があるらしく、開かれたのは古いのではなかろうか。

 またこのころ、イタリア半島の付け根の、ローマ北方に位置するオリエント系のエストニア王国が、エジプト植民地として建設されたのだと、想像することもできる。エストニアは進んだ文明国として、まだ建国間もないころの小都市ローマに対して、公共施設などの土木建築を指導してやった国である。

 この時期のエジプトの地中海への影響を考えるべきであり、クレタ文明もそのひとつではなかろうか。

クレタ文明は、以上のように考えられるが、これは、概略(5)・(6)に対応する。

 

ミケネ(ミケーネ)文明

<ミケネ文明−歴史学界説>

 前1900年頃から、後にミケネ文明(前1600−1200)をつくるギリシア人(ミケネ人)が北方からギリシアの地へやってきた。クレタ以外の地域での発掘された陶器の様式などから、前1500年ごろからクレタ人にかわって東地中海の主人になっていた形跡がある。ギリシアの所どころに城砦(アクロポリス)が造られた。これがミケネ文明である。(『世界の歴史3・ギリシア』49−51ページ)

 クレタ島にある諸宮殿は、ミケネ人によって、前1400年ごろいっせいに火災にあい、破壊された。これで、クレタ文明は消滅した。(前掲書、48ページ)

 ところが前13世紀頃、北方の、おそらくハンガリア平原あたりからイルリア人とよばれる民族が侵入してきた。そのためギリシアにはドリア(ドーリア)人が侵入してきた。かれらはミケネ文明を破壊した。ミケネ世界の先住者を殺したり、奴隷にした。これにより前1200年頃、ミケネ文明は消滅した。(前掲書、81−84ページ)

 ギリシア本土のギリシア人(ミケネ人)は、エーゲ海や小アジアへと移動した。ドリア人とは別の種族は、小アジアの北部に侵入した。このあおりをくって、ヒッタイト王国が滅んだ。(前掲書、81−84ページ)

 このドリア人たちはミケネの先進文化に対して魅力を感ぜず、尊敬もはらわなかった。その後数世紀、ギリシア本土は文明のない状態となった。(前掲書、85ページ)

<補足資料>

 クレタ文明が消滅した前1400年頃のエジプトのファラオは、第18王朝(前1570−1293年頃)のトトメス4世(前1419−1386年頃)である。『世界の歴史・古代オリエント』(234−240ページ)には、エジプトの軍事遠征のことが書かれているが、この第18王朝が始まる前から前ファラオまでのことが書かれているが、このトトメス4世のことは書かれていない。トトメス4世は、前ファラオまで続いていた、シリアなど西アジアへの軍事外征をやめているようである(『世界の歴史・古代オリエント』234−240ページ)。

 『古代エジプトを知る事典』では、「戦車に乗って狩をするというスタイルを始めて取り入れたのはトトメス4世である、と書かれている。(305ページ)ということはつまり、戦争は好きでなかったようだ。

 『世界の歴史2・古代オリエント』には、「前13世紀末、ヒッタイト王国は突如として消息を絶ってしまうのである。・・・このあと小アジアは、バルカンから移動してきたフリュギア人たちの天地となる。」(296、298ページ)とある。

 ヘロドトス『歴史・上』(岩波文庫)にも、リュディア王国(前700−546年頃)の前に、ヘロドトスを祖とする家柄の王国(前1200−700年頃)が、すなわち、フリュギア王国が、小アジアにあったことが記されている。(13ページ)

<ミケネ文明の真実>

 前1900年頃から、ミケネ人(最初のギリシア人)は、傭兵団のようなものとして、北方からクレタ文明圏にやってきた(のちのちギリシア人は小アジアやエジプト王国、ペルシア帝国などの傭兵になっている)。

 クレタ人はクレタ島以外の、ギリシア本土、エーゲ海の島々、小アジアへと、このミケネ人傭兵を配置して、それを使った。鉄器を独占して使うヒッタイト王国(前1700−1200年)が小アジア東部におこった。ミケネ人は小アジア西部にまで勢力を伸ばしてきたヒッタイト王国の傭兵にもなっただろう。

 その傭兵団のうちの一部が力をつけた。その一部が前1400年頃、エジプトの軍事力後退の機を見て、クレタ文明を破壊し消滅させた。

 そしてクレタ文明の富を奪ってミケネ文明(前1400−1200年頃)を起こした。ギリシア本土のミケネやティリンスなど、所どころに城砦(アクロポリス)を築いた。この城砦は、小アジア経由でメソポタミアの影響を受けたものだろう。彼らは海賊のような小軍事国家をつくり、ヒッタイト王国など、小アジアの王国との間になんらかの関係があった。これがミケネ文明である。

 その後、前1200年、未開のドリア人が侵入してきた。彼らによって、ミケネ文明は破壊・略奪され、消滅した。

 ギリシア本土のミケネ世界は破壊され、占領されたのだ。ミケネ人たちは殺され、奴隷にされたり、あるいは逃げ出さざるをえなかっただろう。そこはその後、数世紀の間、文化のない未開の地となった。

 この侵入のため、ミケネ世界の先住のギリシア人(ミケネ人たち)は、エーゲ海の島々へ、あるいは小アジアの方へと移動した。それはヒッタイト王国を滅ぼす結果となり、(ヒッタイト王国には北方からも、他民族の侵入があった)、彼らの力でそこにフリュギア王国ができた。やがて、フリュギア王国はギリシア世界と何らかの関係をもったはずだが、それは不明だ。

 これが、ミケネ文明の起こりとその消滅の様子であろう。ミケネ人の侵入は先住民に同化する形で行なわれたのに対して、ドリア人の侵入は侵略的である。同じ侵入でも、こういう違いがあった。

 この時代は、概略(11)に対応する。海賊も、自立した人々よりなる社会である。その意味で、ミケネ世界は概略(8)および(9)にも対応する。

おわりに

 その後、ギリシアに現れたのは、ミケネ時代の領土国家よりも小さな、ポリスという小国家(都市国家)である。ギリシアは最後まで、このポリスに分立していた。そして互いに争うことが多かった。ギリシアは商人的、海賊的国家であったと言える。

 そういうギリシアの国家形態は、小アジアという文明先進地帯に接していたから可能であったのではなかろうか。近くに高度な文明の中核があり、その周辺地域として何らかの形でその文明の恩恵を得て、はじめて存在しえたのではなかろうか。

 また、そのポリスは、シドン、テュロス(ツロ)、ガザなどの、フェニキア、カナン(パレスチナ)の西アジア海洋都市国家をモデルにしたのではなかろうか。あるいは、小アジア沿岸のポリスがそれらをモデルにし、ギリシア本土は小アジアのポリスをモデルにしたのかもしれない。

 このように古代ギリシアを見る場合には、小アジア、地中海東岸を詳細に知ることが重要であると思われる。しかし私の見る限り、この両地域の歴史があまり明らかにされていない。これらの地域の歴史は(特にギリシアと関係する場合になると)わざとひどく避けられているかのようである。

 つまり、古代オリエントの歴史研究は古代ギリシア・ローマに比較してあまり進んでおらず、さらに、小アジア、地中海東岸の歴史研究はもっと進んでいないようなのだ。研究が進んでいるところと進んでいないところの差が大きすぎはしないだろうか。

 古代は多神教の時代であったが、最後には、一神教に負かされた歴史でもあった。だから、古代通史はこの過程を明らかにすべきであるが、現在は、それを隠蔽するかのような古代史になっている。古代通史は、これを明らかにすべきである。そのとき、はじめて、古代通史は真実の歴史になる。真実の歴史は、アジア人がつくるしかないかもしれない。真実の歴史になったとき、多神教は蘇ると思う。

 一神教はあってもよい。一神教を抹殺する必要はない。しかし、今のように多神教が抹殺されたままということでは、いけないと思う。多神教が蘇り、一神教と多神教の平和的な緊張関係が持続するのが望ましいのではなかろうか。

 

□ 参考文献
大戸千之(おおと・ちゆき)『ヘレニズムとオリエント』(ミネルヴァ書房、1993年)
桐敷真次郎(きりしき・しんじろう)『西洋建築史』(共立出版、2001年)
岸本通夫ほか『世界の歴史2・古代オリエント』(河出文庫、1989年)
村田数之亮・衣笠茂『世界の歴史3・ギリシア』(河出文庫、1989年)
佐藤次高&鈴木董ほか『都市の文明・新書イスラームの世界史1』(講談社現代新書、1993年)
吉村作治編著『古代エジプトを知る事典』(東京堂出版、2005年)
ヘロドトス『歴史・上』(岩波文庫、1971年)

 

(おわり)