「0027」 論文 前3000年頃に、エジプトによる大遠征があったのではなかろうか(1) 鳥生守(とりうまもる)筆 2009年4月17日
ヘロドトス(Herodotus)『歴史・上』(岩波文庫、1971年)には、初期王朝時代(前3000年−2660年頃)に、エジプト王(ファラオ)・セソストリス(Sesostris)による大遠征が書かれている。
ヘロドトス 『歴史』(ヘロドトス著、松平千秋訳)
一般の歴史書はこれを無視し、これを記すことはないが、これは実際にあったのではなかろうか。(編者註:セソストリスが実在したか、長年、疑われてきた)
ヘロドトス(前485−425年頃)は、『歴史』において、エジプト王による大遠征を書いている。エジプト王(ファラオ)のセソストリスは、有史以来、初めて艦隊を率いて紅海(Red Sea)からアラビア海(Arabian Sea)、ペルシア湾(Persian Gulf)までの沿岸住民を征服したという。
紅海、アラビア海、ペルシア湾の地図
彼はさらにその遠征からエジプトに帰還後、大軍を率いて大陸を北上し、その進路の民族をことごとく征服し、アジアばかりではなく、トラキア(エーゲ海北岸、黒海西南岸)、スキュティア(黒海西北岸)などのヨーロッパにまで達したという。また、エチオピアをも征服したという。ヘロドトス『歴史・上』から引用する。
(引用はじめ)
そこで私もこれら諸王のことは措き、彼らの後に王位に就いたセソストリスという人物について語ることにしよう。
司祭たちの語るところによれば、セソストリスは有史以来初めて艦隊を率いて「アラビア湾」(訳注1)を発し、「紅海」(訳注2)沿岸の住民を征服したということで、彼はさらに船を進めて浅瀬のために航行不能の海域にまで達したという。
その遠征からエジプトに帰還すると――祭司たちの話は続く――大軍を召集して大陸を席巻し、その進路を阻む民族をことごとく平定した。独立の維持に懸命となって勇敢に戦う民族に遭遇するごとに、セソストリスは自分と祖国の名および自分の武力によってこの民族を征服した次第を記した記念柱を、その国に建てるのが例であった。また戦闘もなく容易に町々を占領できた国には、勇敢に戦った民族の場合と同様の事項を記念柱に刻んだ上、さらに女陰の形を彫り込ませたのである。それによってこの国の住民の怯懦〔きょうだ、臆病で意志が弱いこと−引用者〕であったことを示そうとしたのである。(巻2−102)
[訳注1]たびたび注しているように、「アラビア湾」が今日の紅海、「紅海」は主としてインド洋を指す。(425ページ)
[訳注2]ここにいう「紅海」は今日慣用の語より広義で、紅海のみならずアラビア湾、ペルシア湾をも含む。「南の海」と呼ぶこともある。この用語法は今後も頻出するので、括弧に入れてそれを示す。なお、これに対して次の「こちらの海」は、いうまでもなく地中海を指す。(391ページ)
かくしてセソストリスは大陸を席巻し、アジアからヨーロッパに渡り、スキュタイ人およびトラキア人をも征服するに至ったのであるが、これはエジプトの軍隊が達した最遠距離の記録であると私には思われる。というのは右の民族の国土では例の記念柱がたっているのを確認できるが、それより以遠にはもはや見られないからである。(巻2−103)
またエジプト王でエチオピアに君臨したのはこの王ひとりである。(巻2−110)
(引用終わり)
このエジプト王セソストリスが大遠征をしたらしい。ヘロドトスは、メンフィスのヘパイストス(プタハ)神殿の祭司(神官)たちからそれを聞いたのだ。その際ヘロドトスが、この神官たちの話に対して疑念を抱いている様子は全くない。エジプトの大遠征がずっと大昔にあったのは皮膚感覚として了解しているかのようだ。
しかし上の引用にみるように、それは驚くほど簡単に書かれている。したがって、その全容がよく分かるように書かれてはいない。実に不親切でそっけない記述であり、ここはヘロドトスらしくない箇所である。これでは、この「大遠征」の実体はよく判らない。
ヘロドトスは、本当に、このように不親切に書いたのであろうか。それとも、写本時の編集の際に、詳細説明の部分が省略されたのであろうか。私は現在、後者の「省略された」可能性が大きいだろうと想像している。
それはともかく、ヘロドトスの『歴史』の記述から、なんとか、この「大遠征」の実体を読みとってみよう。 その際に、留意すべきポイントが5つある。それを次に示そう。
(1)訳注にあるように、本書の訳者松平千秋氏によれば、ヘロドトスの『歴史』では、「アラビア湾」が今日の紅海であり、「紅海」がアラビア海、ペルシア湾、インド洋などを指すという。これは注意しなければならないことである。これに従った理解をする必要がある。
(2)次に、上記の引用では、「浅瀬のために航行不能の海域にまで達した」とあるが、これはどういうことか。海域ならば浅瀬であっても上陸できるし、水深のあるところを迂回すれば先へ進めるはずだ。どうとでもなるだろう。これはあまり意味ある言葉ではない。
ここは、河川の遡行(そこう、川の下流から上流へさかのぼって行くこと)のことを言おうとしたのではなかろうか。つまり、ここは「浅瀬のために航行不能になるまで河川を上流までさかのぼった」とか「河川は船でいけるところまで上流に行った」ということを言おうとしたところだと解すべきではなかろうか。今はそういうように読み替えを行なうことにする。
(3)エジプトに帰還の後、再度大軍を率いて大陸を席巻した時、艦隊を使ったとは書いていない。なんとなく艦隊を使わなかったかのような雰囲気にもみえる。しかし、艦隊を使わないというのは、いかにも不自然である。それは無理がある。もとよりヘロドトスの記述は、艦隊の使用を否定するものではない。そこで、その二度目の遠征のときも艦隊を使ったこととする。
(4)この遠征による征服地域は、大帝国アケメネス朝ペルシア(前546−330年)の最大版図と同等かそれ以上の地域であるだろう。これは、次のような記述があるからである。
ヘロドトス『歴史・上』(岩波文庫、1971年)から引用する。
(引用はじめ)
ペルシア王ダレイオスが右の像〔エジプト王セソストリスの家族の巨大な石像6体−引用者〕の前面に自分の像を建てようとした時、ヘパイストスの祭司は、ダレイオスにはセソストリスの果たしたほどの業績がないといって、それを許さなかった。セソストリスはダレイオスに劣らず多数の民族を征服したのみか、スキュタイ人をも平定したが、ダレイオスはスキュティアを占領することができなかった。されば功業においてセソストリスを凌駕することができなかった者が、その人の奉納した物の前に自分の像を建てるのはよろしくないというのである。祭司の言葉に対し、ダレイオスもこれを了承したという。(巻2−110)
(引用終わり)
ダレイオス
ペルシア王ダレイオスとは、おそらくペルシア帝国のダレイオス1世(在位前522−486年)のことだろう。その頃は、エジプトはペルシアに征服されていた。そのダレイオス1世に対してエジプトの祭司(神官)が、スキュティア(黒海西北部および北部地帯)を征服したかどうかの分、エジプト王セソストリスに及ばないとして、反論し了承させている。それでエジプトから見れば自分たちの神聖な場所に、異民族の支配者の石像を設置しなくて済んだのだ。
ということは、エジプトの支配地域がダレイオス1世当時のペルシア帝国と同等か、あるいはそれ以上の広さであったということだ。ダレイオス1世の治世にペルシア帝国は最大版図となり、東はインダス河流域から、西は小アジア、トラキア(エーゲ海北岸)、エジプトまでである。
(5)ヘロドトスの『歴史』によると、初代エジプト王ミンがいて、メンフィスを開き、その地の安全を確保して、「広大なヘパイストス神殿(エジプト名はプタハ神殿)」を建立したと書いている。(巻2−99)セソストリスが、この初代エジプト王から何代目かは書かれていないので、判らない。が、このセソストリスの4代後のケオプスが大ピラミッドを建造したとなっている。(巻2−111〜127)
ということは、ピラミッドは古王国時代(前2686−2181年頃)の第3王朝期(前2686−2613年頃)から建造されたので、セソストリスは初期王朝時代(前3000−2686年頃)の人である。その第1王朝(前3000−2890年頃)か、第2王朝期(前2890−2686年頃)の人だ。
ヘロドトスは、エジプト王3代で、100年として計算している。これに従って計算すると、セソストリスは前2820−2786年頃となる。ただし、セソストリスからケオプスまでを実際の王位継承通りに記したかどうか、はなはだ疑問である。途中少しずつ省略している可能性がある。だからもっと古い人である可能性がある。ここではとりあえず、セソストリスは、前3000−2800年頃の人とする。
以上のような留意点を考慮して、ヘロドトスの『歴史』をつなぎ合わせると、次のような「大遠征」があったことになる。
前3000−2800年頃、エジプトによる「大遠征」があり、東はインド沿岸、インダス河流域、イラン南岸、メソポタミア、南アラビア、エチオピア、パレスティナ、シリア、小アジア(トロイアが含まれる)、クレタ島、トラキア(エーゲ海北岸)、スキュティア(黒海西北岸)を支配したというエジプト王の事績が浮かび上がってくる。
おぼろげながらではあるが、ヘロドトスの『歴史』にはそのことが書かれている。(ただし、ギリシア以西に関しては、その征服は断じてなかったと言っている。ヘロドトスがそう書いたのか、写本時にそうなったのか、判らないが。)
ヘロドトスはその遠征は実際にあっただろうと考え、証拠を4つほど挙げている。
(1)ヘロドトスが第一に挙げているのは、コルキス人(Colchis)の存在である。
コルキス王国(黒海に面した緑の部分)
黒海(Black Sea)東岸のパシス河はアジアとヨーロッパの境界にある。(この境界はヘロドトスの時代から現在まで変わらない。)そのパシス河流域のコルキスに住むのがこのコルキス人である。ヘロドトスは、このコルキス人がエジプト人であり、これはその「大遠征」従軍兵士の一部がそのときにここに住みついたのであるとして、その証拠としている。(巻2−103〜104)
コルキス人は色が黒く髪が縮れていること、世界中でコルキス人とエジプト人とエチオピア人だけが昔から割礼を行なっていること、コルキス人は、エジプト人と同じ方法で割礼を行なうこと(フェニキア人およびパレスティナのシリア人はその風習をエジプトから学び、小アジア東部カッパドキアのシリア人はコルキス人から学んだという)、エジプト人と同じ方法で亜麻を栽培していること、これらがコルキス人がエジプト人であることを示すという。(巻2−104〜105)
(2)ヘロドトスが第二に挙げているのは、記念柱の存在である。
ヘロドトス自身が、エジプト王が建てた記念柱をいくつかパレスティナ・シリアで見たというのだ。ヘロドトス『歴史・上』(岩波文庫、1971年)から引用する
(引用はじめ)
エジプト王セソストリスが各地に立てた記念柱は、大部分失われて残っていないが、私はパレスティナ・シリアで現存するものをいくつか見た。それには前述の碑文や女陰の形も刻まれていたのである。(巻2−106)
(引用終わり)
エジプトの支配から脱したところにおいては、この記念柱はその地の新たなる支配民族によって撤去されたのであろうが、このパレスティナ・シリアではヘロドトスの時代(前5世紀)まで残っていたのだ。女陰の形があるので、その地では戦わずして服従したのだろう。そしてそこはエジプトに近く、エジプトの支配が続いていたということだろう。
残念ながらヘロドトスはこの記念柱の高さとか幅とかの寸法や材質を書いていない。それは彼らしくない。もしかしたら、彼は書いたのに、後世の写本・編集時に省略されたのかもしれない。
(3)ヘロドトスが第三に挙げているのは、岩壁に浮き彫りにした人物像の存在である。
ヘロドトスは自身の目で、その人物像をイオニア地域(小アジア西岸)で、ふたつ見たという。ヘロドトス『歴史・上』(岩波文庫、1971年)から引用する。
(引用はじめ)
またイオニア方面にも岩壁に浮き彫りにしたこの人物の像が二つある。一つはエペソスからポカイアへ通ずる街道上にあり、他はサルディスからスミュルナに通ずる路上にある。いずれの場合も、4ペキュス半(199.8cm−引用者)ほどの背丈の男の姿が掘り込まれており、その男は右手には槍を、左手には弓をもち、その他の服装もこれに準じている。というのは、つまり一部はエジプト式、一部はエチオピア式の服装をしているという意味である。そしてその胸部には、一方の肩から他方にわたって、エジプトの神聖文字で記した碑銘が刻んであるが、その意味は、
「われはこの地を、わが肩によりて得たり」
というものである。それがどこの何者であるかをよそでは碑文に記してあるのであるがここの碑文には記していない。そこでこれらの像を見たものの中には、これをメムノン(訳注1)の姿と推定したものも幾人かあるが、見当違いもはなはだしいといわねばならない。(巻2−106)
[訳注1]トロイア戦争において、トロイア方の援軍として参加したエチオピアの王。
(引用終わり)
ヘロドトスは、エジプトの神聖文字(Egyptian hieroglyphs、 ヒエログリフ)で「われはこの地を、わが肩によりて得たり」という意味の碑銘が刻まれているのを見たというのだ。これはエチオピア王の像だという学者も幾人かいたが、ヘロドトスはエジプト王セソストリスのものだとしている。(ここでトロイア方の援軍としてエチオピア王が参戦したとあるが、これはトロイアとアフリカ、つまりエジプトとエチオピアの深い関係を暗示している。トロイアはエジプトによって建設されたのではないだろうか。)
(4)ヘロドトスが第四に挙げているのは、メンフィスのヘパイストス神殿(エジプト名はプタハ神殿)の6体の巨大人物石像の存在である。このエジプト王は自分の業績を記念するために、高さ13mの石像2体と9mの石像4体の巨大石像を建てたのだ。ヘロドトス『歴史・上』(岩波文庫、1971年)から引用したい。
(引用はじめ)
彼は自分の功業を記念するために、ヘパイストス神殿の前に、自分と妻の姿を写した30ペキュス〔13.3m−引用者〕もある二個の石像と、四人の子供のためにはおのおの20ペキュス〔8.8m−引用者〕の石像を残している。(巻2−110)
(引用終わり)
この6体の石像は、現在はなくなっているが、ヘロドトスは明らかにそれらを見たはずである。残念ながら、これもこれ以上詳細に書かれていない。彼らしくないと思う。
以上の4つが、ヘロドトスが挙げた証拠である。
(つづく)