「0030」 論文 今、見直すべき福沢諭吉の研鑽過程と教育思想 山田宏哉(やまだひろや)筆 2009年4月27日

 

1.はじめに  essay(エッセイ)=随筆 は誤り 〜このような誤解が放置される日本の教育の悲劇〜

 日本ではごく基本的な文章の書き方さえ教えられていない。

 例えば、essayというのは小論文のことなのに、日本ではなぜか随筆と訳され、「見聞をもとに、思いつくままに書かれた文章」のことだと思われている。ひどい場合は、日記とほとんど区別されずにいたりする。しかし、アメリカ(世界基準)では「見聞をもとに、思いつくままに書かれた」ような類の文章はessayの名に値せず、間違いなく低評価である。

 テーマをハッキリさせ、論理的な文章構成に基づいて書かれた文章でなければ、essayとは言えない。そして驚くべきことにアメリカの高校生たちは学校の授業の一環として日常的にessayを書き、成績を評価されているようなのだ。以上、このessayにまつわる話は私がアメリカの高校に留学している日本人女性の方からメール等で聞き出した話である。単刀直入に「essay(エッセイ)って小論文のこと?」と聞いたら「そうだ」という答えだった。

 ひるがえって、日本の義務教育や高校の現代文(国語)の授業では何が行われているか。

 たいてい、教科書の本文をみんなで読んでいるだけである。例えば、先生が「はい、田中君。78ページの10行目から読んでください」などと言うと、田中君は机を立って朗読を始め、他のみんなは黙ってこれを聞く。これ以外には、教師が教科書ガイドのような教師向けの教材の知識を受け売りしてそれで終わりである。今思えば、こんな授業は真面目に受ける価値が無くて当然だった。多くの生徒が、国語の時間は、教師に隠れて、英語や数学などの“内職”をやっていた。

 あるいは、進学校ならば、もっとプラクティカル(実際的)に、センター試験などの入試現代文の問題を解いている。しかし、いずれにせよ、現代日本の国語教育を受けても基本的な文章すら書けるようにならない、ということだけは間違いなく言える。

 では、日本の生徒が基本的な文章を書けるように、国語のカリキュラムにエッセイ(もちろん小論文という意味)や文章添削を取り入れるべきだ、という提言が、当然に出てくるだろう。ただ、この提言は、教師に論理的な文章作成能力と添削能力が備わっている、ということが暗黙の前提になっている。しかし、残念ながら、この前提は疑わしい。

 大学の教職課程科目を取り、文学部国文科を卒業したからといってこういう基礎的な能力が備わっているとは思えない。第一、大学の教職課程科目の内容そのものがある意味、噴飯ものである。「フレーベルやエリクソンやペスタロッチがどうしたこうした」というような、“高級知識”を習得する前に、教育者を志すものならばやるべきことがあるだろう。また、仮に教師に文章添削能力があっても「時間的制約」だなんだと言って、うまくいかないだろう。この現状も大きくは変わりそうにない。

 つまり、日本では、エッセイとは随筆、思いつきの感想文の類ということにしておかないと、外国の学校ではエッセイが日常的に書かれているという事実の前に、日本の教育制度の大欠陥があぶりだされてしまうのである。これは、小手先の改革をするだけではどうにもならないほど構造的な問題である。エッセイというのは、あくまで一例で、日本では引用の作法、参照文献の明記、盗文・剽窃はいけない、と言った文章を書く上での基本中の基本のルールさえあまり守られていない。

 一事が万事この調子だから、もはや現代日本の教育制度に寄りかかることはできない。自分(の子供)の身は自分で守るしかない。現代日本の学校では「みんな同じ」の号令のもと画一的で退屈な教育が行われ、しかも感受性豊かな思春期にこんな場所に強制的に毎日通わないといけない。まるで牢獄か強制収容所のようだ。

 私の先生である副島隆彦も機会があるたびに教育についての提言を行っている。ウェブサイト「副島隆彦の学問道場」の、「今日のぼやき[380] ケンブリッジ大学で研究している会員からのメールとそれへの返事」から引用する。

(引用はじめ)

 私が、日本で復活させたいのも、そういう学問メソッドです。教師と学生(先生と弟子たち)が、集団で寝泊りしながら、いつでも質問できるようにして、文章を書く指導をして、着想をはっきりさせ、手取り足取りで勉強するというやり方です。私は、日本の高等教育機関は、すべて崩壊している、と断定しています。明治から無理して作った、勅任官であった旧帝大の大学教授たちの「現在の末裔たち」、その能力的惨状(一部理科系を除く)たるや、まるで、世界基準での小学生の集りであるか、ぐらいにしか能力判定できません。凄まじい崩壊振りです。だから、私は、もう一度、日本の学問は、幕末の寺小屋や漢学・儒学・蘭学などの私塾の伝統に戻して、寺の離れやあばら家のようなところに学生が集って自力で世界基準の近代学問(サイエンス)をやらなければ駄目だ、と考えています。(『今日のぼやき[380] ケンブリッジ大学で研究している会員からのメールとそれへの返事。』)

(引用終わり)

 山田宏哉です。

 この副島氏の提言は、慧眼であると言わなければならない。つまり、今、必要とされているのは「教室の中に限定されない全人的な師弟関係」なのである。だが、現実には、日本の教師と学生の関係はほぼ完全に教室の中に限定されている。ここで、副島氏はおそらく福沢諭吉と緒形洪庵の師弟関係(緒形洪庵の方が師匠。後ほど触れるが、私はこの2人の師弟関係は理想的だったと考える)や蘭学塾であった適塾のことなどを念頭に置いているのだろうと思う。

 しかし、我々一人一人に差し迫った問題としては、寺子屋的な教育が復活する社会的な環境が整うのを待っていては遅すぎる。その前にすべきことがある。その答えの一つとして私が提示したいのが、各自が福沢諭吉(1834〜1901年)の研鑽過程や教育思想を学び、生活の場で活かしていくということである。

 幕末当時は現在とは比べるまでもなく、日本国内は欧米社会で通用する知識や思想が伝わっていなかった。その中で福沢がどのように世界で通用する知識や思想を掴もうとしたか、正確には掴めなくても掴もうとしたか、ということは、私たちが大いに参考とするべきことである。なお、本稿の福沢をめぐる事実関係の記述の多くはこの福沢諭吉の自伝・『福翁自伝』(岩波文庫 1978年 富田成文校注)を基にしている。

 

2.特筆すべき適塾の学風と緒方洪庵との師弟関係

 福沢諭吉は蘭学を学ぶために緒方洪庵の弟子となり、彼の適塾に入門している。1855年、福沢22歳のときである。そもそも福沢が蘭学を志したかというと、19歳のときに、兄に「原書というはオランダ出版の横文字の書だ。いま日本に翻訳書というものがあって、西洋のことを喜いてあるけれども、真実に事を調べるにはその大本の蘭文の書を読まなければならぬ。それについては貴様はその原書を読む気はないか」(『福翁自伝』「長崎遊学」、27ページ)と言われたことがそもそもの始まりのようだ。

       

福沢諭吉        緒形洪庵      適塾

 緒方の本業は医者であったが、医学生だけでなく、オランダ語を学ぶために入門した武士階級の子弟も多かったようだ。適塾には姓名録に記名のあるものが、600人以上いたとされ、福沢諭吉の他にも、村田蔵六 (大村益次郎)、武田斐三郎、佐野栄寿 (常民)、箕作秋坪、橋本左内、長与専斎、花房義賢、高松凌雲などの有為な人間を輩出している。適塾はまさに幕末日本を代表する私塾であった、といっていいだろう。なお、緒方洪庵と適塾に関する以上の記述は「ネットで百科」(WEB上の百科事典)の長門谷洋治氏や佐藤昌介氏による説明を参考にした。

      

大村益次郎   佐野常民   箕作秋坪   橋本左内

 適塾は独特の学風を持っていたようだ。福沢が適塾時代を回顧した箇所を『福翁自伝』「大阪修業」から引用する。

(引用はじめ)

 元来緒方の塾というものは、真実、日進進歩主義の塾で、その中に這入っている書生はみな活発有為の人物であるが、一方から見れば血気の壮年、乱暴書生ばかりで、なかなか一筋縄でも二筋縄でも始末に行かぬ人物の巣窟、その中に私が飛び込んで共に活発に乱暴を働いた、けれどもまたおのずから外の者と少々違っているということもお話しなければならぬ。 (『福翁自伝』「大阪修業」、57ページ)

 そんな訳けだから、塾中の書生に身なりの立派な老はまず少ない。そのくせ市中の縁日などいえば夜分きっと出て行く。行くと往来の群集、就中(なかんずく)娘の子などは、アレ書生が来たと言って脇の方に避けるその様子は、何かえたでも出て来てそれをきたながるようだ。如何も仕方がない。往来の人から見てえたのように思う筈だ。(『福翁自伝』「大阪修業」、67ページ)

(引用終わり)

 山田宏哉です。

 被差別部落民のような汚らしさ、というような比喩は現在ではとても使える比喩ではないが、とにかく適塾の書生は、身なりやマナーといった面では相当ひどかったであろうことは、容易に想像がつく。だが、学問勉強ということに関しては、適塾の塾生は本当にずば抜けていたようだ。それでは適塾の書生たちは、一体何のためにこれほど勉強したのか。というと、驚くべきことに実は目的のなかったものが大半だったと福沢はいう。『福翁自伝』「緒方の塾風」から引用する。

(引用はじめ)

 学問勉強ということになっては、当時世の中に緒方塾生の右に出る者はなかろうと思われるその一例を申せば、私が安政三年の三月、熱病を煩うて幸いに全快に及んだが、病中は括枕で、座蒲団か何かを括って枕にしていたが、追々元の体に回復して来たところで、ただの枕をしてみたいと思い、その時に私は中津の倉庫敷に兄と同居していたので、兄の家来が一人あるその家来に、ただの枕をしてみたいから持って来いと言ったが、枕がない、どんなに捜してもないと言うので、不図思い付いた。これまで倉屋敷に一年ばかり居たが、ついぞ枕をしたことがない、というのは、時は何時でも構わぬ、殆んど昼夜の区別はない、日が暮れたからといって寝ようとも思わず、頻りに書を読んでいる。読書に草臥れ眠くなって来れば、机の上に突っ臥して眠るか、あるいは床の間の床側を枕にして眠るか、ついぞ本当に蒲団を敷いて夜具を掛けて枕をして寝るなどということは、ただの一度もしたことがない。その時に初めて自分で気が付いて「なるほど枕はない筈だ、これまで枕をして寝たことがなかったから」と初めて気が付きました。これでも大抵趣がわかりましょう。これは私一人が別段に勉強生でも何でもない、同窓生は大抵みなそんなもので、およそ勉強ということについては、実にこの上に為ようはないというほどに勉強していました。(80ページ)

 兎に角に当時緒方の書生は、十中の七、八、目的なしに苦学した者であるが、その口的のなかったのが却って仕合で、江戸の書生よりも能く勉強が出来たのであろう。ソレカラ考えてみると、今日の書生にしても余り学問を勉強すると同時に始終我身の行く先ばかり考えているようでは、修業は出来なかろうと思う。さればといって、ただ迂闊に本ばかり見ているのは最も宜しくない。宜しくないとはいいながら、また始終今もいう通り自分の身の行く末のみ考えて、如何したらば立身が出来るだろうか、如何したらは金が手に這入るだろうか立派な家に住むことが出来るだろうか、如何すれば旨い物を食い好い着物を着られるだろうか、というようなことにはかり心を引かれて、齷齪(あくせく)勉強するということでは、決して真の勉強は出来ないだろうと思う。就学勉強中はおのずから静かにして居らなければならぬ、という理屈がここに出て来ようと思う。(94ページ)

(引用終わり)

 山田宏哉です。

 さすがと言うべきか、当然と言うべきか、福沢はこのように秀才・鬼才が集まったこの適塾でみるみる頭角をあらわし、24歳で塾長になっている。入門してから2年である。ただ、福沢は酒癖が悪く、自分から酒に誘っておきながら、酒をおごってくれなかった先輩を懲らしめる、というような庶民的な(?)エピソードも残している。(60〜61ページ)

 また、福沢は緒方に単に学恩だけではなく、実子のように生活全般にわたって世話になっている。

 例えば、1856年、福沢は兄の病死に伴って、一家の主となってしまう。緒方の下で学びたいと、なんとか母を説得するものの、家の借金の関係で家財を売り払っても手元に金が残らず、遊学することが経済的にも困難になる。福沢はそのような困難な事情を正直に緒方に相談する。そのときの緒方の返事を『福翁自伝』 「大阪修業」から引用する。

(引用はじめ)

 「それは結構だ。ソコデお前は一切聞いてみると如何しても学費のないということは明白に分ったから、私が世話をしてやりたい、けれども外の書生に対して何かお前一人に品属するようにあっては宜しくない。待て待て。その原書は面白い。ついては乃公(おれ)がお前に言い付けてこの原書を訳させると、こういうことにしよう、そのつもりでいなさい」と言って、ソレカラ私は緒方の食客生になって、医者の家だから食客生というのは調合所の者より外にありはしませぬが、私は医者でなくてただ翻訳という名義で医家の食客生になっているのだから、その意味は全く先生と奥方との恩恵好意のみ、実際に翻訳はしてもしなくても宜いのであるけれども、嘘から出た誠で、私はその原書を翻訳してしまいました。(56ページ)

(引用終わり)

 山田宏哉です。

 福沢の緒方を親のように思う姿勢と言い、緒方の福沢に対する厚意と言い、このような師弟関係は当然、深い信頼関係に基づいていなければ、当然無理なことである。現在、真に有為な人間を育てるために必要とされているのはこのような深い信頼関係に基づいた師弟関係なのである。

 なお、話はずれるが、引用文中に出てくる「その原書」とはオランダ語の築城書のことである。この原書の持ち主、奥平一岐は23両でこの原書を買ったという。貧乏人の福沢にはとても手のでる金額ではない。また、これだけ大金を出して買った書を、他人に読ませるために無料で貸すわけもないだろう。だが、福沢はこの原書の持ち主、奥平一岐に「なるほどこれは結構な原書でございます。とてもこれを読んでしまうということは急な事では出来ません。せめては図と目録とでも一通り拝見したいものですが、四、五日拝借は叶いますまいか」(『福翁自伝』、52ページ)などと調子のいいことを言ってあっさり借りてしまい、内緒で200ページ余りあったこの原書を最初から最後まで丸写ししてしまう。もちろん、コピー機などなかった時代である。

ただ、福沢は、のちのちこのような古きよき時代の師弟関係は消えてしまうだろうとも、哀愁をもって自伝で語っている。『福翁自伝』 「大阪修業」から引用する。

(引用はじめ)

 マア今日の学校とか学塾とかいうものは、人数も多くとても手に及ばないことで、その師弟の間はおのずから公なものになっている、けれども昔の学塾の師弟は正しく親子の通り、緒方先生が私の病を見て、どうも薬を授くるに迷うというのは、自分の家の子供を療治してやるに迷うと同じことで、その扱いは実子と少しも違わない有様であった。後世だんだんに世が開けて進んで来たならば、こんなことはなくなってしまいましょう。私が緒方の塾に居た時の心地は、今の日本国中の塾生に較べてみて大変に違う。私は真実緒方の家の者のように思い、また思わずには居られません。(45−46ページ)

(引用終わり)

 山田宏哉です。

 いずれにしても、緒方の塾での経験や緒方との師弟関係が、福沢の教育思想を形成するにあたっても、大きな役割を果たしたであろうことは、想像に難くない。 

 

3.実際には使えなかったオランダ語の知識

 だが、このように緒方のもとで苦労して学んだオランダ語だったが、いざ江戸に出て来て実際には使えない、というカルチャーショックを受けることになる。そのときの落胆の様子を、『福翁自伝』 「大阪を去って江戸に行く」から引用する。

(引用はじめ)

 横浜から帰って、私は足の疲れではない、実に落胆してしまった。これはどうも仕方がない、今まで数年の問、死物狂いになってオランダの書を読むことを勉強した、その勉強したものが、今は何にもならない、商売人の看板を見ても読むことが出来ない、さりとは誠に詰らぬことをしたわいと、実に落胆してしまった。けれども決して落胆していられる場合でない。あすこに行われている言葉、書いてある文字は、英語か仏語に相違ない。ところで今、世界に英語の普通に行われているということはかねて知っている。何でもあれは英語に違いない、今我国は条約を結んで開けかかっている、さすればこの後は英語が必要になるに違いない、洋学者として英語を知らなければとても何にも通ずることが出来ない、この後は英語を読むより外に仕方がないと、横浜から帰った翌日だ、一度は落胆したが同時にまた新たに志を発して、それから以来は一切万事英語と覚悟を極めて、さてその英語を学ぶということについて如何して宜いか取付端がない。江戸中にどこで英語を教えているという所のあろう訳けもない。(99−100ページ)

(引用終わり)

 山田宏哉です。

 今まで何年も必死に勉強してきたものが全くの役立たずだと悟った時の絶望感は想像して余りある。しかし、福沢はさすがというべきか、すぐに気持ちを切り替え今度は英語の勉強を始めることになる。この志の高さはさすがとしかいいようがない。

 そのおかげもあって、福沢はすぐにオランダ語を学習したことが英語を学習する上で、決して無駄ではなかったことを発見する。もし、オランダ語が無駄だったと言って、いつまでもクヨクヨしていたら、福沢は現在まで名前を残す人間にはなれなかったかもしれない。何事もちょっとやそっとのことでは絶望しないことが大切である。『福翁自伝』 「大阪を去って江戸に行く」から引用する。

(引用はじめ)

 詰まるところは最初私共が蘭学を捨てて英学に移ろうとするときに、真実に蘭学を捨ててしまい、数年勉強の結果を空うして生涯二度の艱難辛苦と思いしは大間違いの話で、実際を見れば蘭といい英というも等しく構文にして、その文法も略(ほぼ)相同じければ、蘭書読む力はおのずから英書にも適用して、決して無益でない。水を泳ぐと木に登ると全く別のように考えたのは、一時の迷いであったということを発明しました。(104ページ)

(引用終わり)

 

4.国内では抜群に優秀でも避けられなかった欧米人との差

 これまで述べてきたことからもわかるように、福沢は日本国内では抜群に優秀な人間だった。だが、それでも欧米との壁にぶちあたることになる。 

 その際の苦労話のひとつを『福翁自伝』 「ヨーロッパ各国に行く」から引用する。

(引用はじめ)

 ソレカラまた政治上の選挙法というようなことが皆無わからない。わからないから選拳法とは如何な法律で議院とは如何な役所かと尋ねると、彼方の人はただ笑っている、何を聞くのかわかり切ったことだというような訳け。ソレが此方ではわからなくてどうにも始末が付かない。

 また、党派には保守党と自由党と徒党のようなものがあって、双方負けず劣らず鎬(しのぎ)を削って争うているという。何のことだ、太平無事の天下に政治上の喧嘩をしているという。サアわからない。コリャ大変なことだ、何をしているのか知らん。少しも考えの付こう筈がない。あの人とこの人とは敵だなんというて、同じテーブルで酒を飲んで飯を食っている。少しもわからない。ソレが略(ほぼ)わかるようになろうというまでには骨の折れた話で、その謂(いわ)れ因縁が少しずつわかるようになって来て、入組んだ事柄になると五日も十日も掛かって、ヤット胸に落ちるというような訳けで、ソレが今度洋行の利益でした。(132−133ページ)

(引用終わり)

 山田宏哉です。

 これに類似した話ならばいくらでもある。

 日本国内では抜群に優秀だった福沢といえども、このような欧米(世界)の常識を全くわかっていなかったという事実をもっと真剣に受け止めなければならない。福沢はこの当時、英語で原書を読んでいた。それでもこうだったのである。もっとも、福沢は欧米人にとってわかりきっていることで、本には書かれないような事柄が、一番難しい、だからそういうことを意識的に聞いたのだと、自伝には書いている(「福翁自伝」、132ページ参照)。

 このように、わからないことを、欧米の人たちに馬鹿にされながらもしつこく聞くという福沢の姿勢は、私たちが見習わなければならない姿勢そのものである。福沢の「西洋事情」という本はこのような経験をもとに出来上がったものである。

 

5.各人が政治的見識を持ち、自らの資質を生かし、一身一家のために業をなせ

 福沢諭吉は偉大な啓蒙思想家であると同時に、偉大な教育者でもあった。福沢が優れた教育者であった証拠は、「学校はものごとを教える場ではなく生まれ持った資質の発達の発育する場だ」と喝破した次の文章を引用すれば十分であろう。 「文明教育論」(『福沢諭吉教育論集』収録)から引用する。

(引用はじめ)

 もとより直接に事物を教えんとするもでき難きことなれども、その事にあたり物に接して狼狽せず、よく事物の理を究めてこれに処するの能力を発育することは、ずいぶんでき得べきことにて、すなわち学校は人に物を教うる所にあらず、ただその天資の発達を妨げずしてよくこれを発育するための具なり。教育の文字はなはだ穏当ならず、よろしくこれを発育と称すべきなり。かくの如く学校の本旨はいわゆる教育にあらずして、能力の発育にありとのことをもってこれが標準となし、かえりみて世間に行わるる教育の有様を察するときは、よくこの標準に適して教育の本旨に違わざるもの幾何あるや。我が輩の所見にては我が国教育の仕組はまったくこの旨に違えりといわざるをえず。(135ページ)

(引用終わり)

 山田宏哉です。

 私は、「すなわち学校は人に物を教うる所にあらず、ただその天資の発達を妨げずしてよくこれを発育するための具なり。教育の文字はなはだ穏当ならず、よろしくこれを発育と称すべきなり」という福沢の言葉の前に脱帽せざるを得ない。全くその通りだと思う。だが、福沢は純粋に子供たちのことだけを考えて教育を論じているわけではない。あくまで日本という国家が自立していくということまで見越してのことでもある。

 そもそも、福沢はなぜ教育について論じるようになったのだろうか。山住正巳 編『福沢諭吉教育論集』(岩波文庫 1991年)の山住正巳による解説部分から引用する。   

(引用はじめ)

 福沢が教育について論じはじめたのは、日本が欧米から強い政治的・軍事的圧力を受けていた幕末である。その困難な状況のなかで、彼が個々人の独立なしには国の独立はありえないことを知る重要なきっかけとなったのは、欧米への旅であった。その道中、アジア諸国の港町に立ち寄り、その地の諸事情を見聞、とりわけ現地住民の貧しさを知って複雑な思いを抱いたことも、彼の教育観形成にとって少なからぬ影響をあたえた。欧米とアジアの現実にふれ、両者のちがい、格差を痛感したからといって、誰もが教育振興の構想を提言したのではない。教育による人々の自立より、短兵急に軍備増強をすすめようとした人も多かった。(308ページ)

(引用終わり)

 山田宏哉です。

 つまり福沢の教育思想は、もともと非常に政治的な動機に基づいていたのである。しかも、この福沢の認識は現在でもそのまま通用するといっていいだろう。私は真に優れた教育(思想)というのは、子供本位の発育という姿勢と国家戦略上の人材養成という姿勢のバランスの緊張関係からこそ生まれるものだと思う。また、だからこそ私は福沢の研鑽過程や教育思想を見直すべきだと言うのである。

 それでは、結局のところ、福沢が自らの特異な経験を通してたどり着いた教育思想とは一体何だったのだろうか。

 私は、「私たち一人一人が政治的見識を持ち、自らの資質を生かし、自分や家族のために仕事をしろ」という極めてシンプルな結論だったと判断している。

 このようなことを述べている箇所を、「学問の独立」(『福沢諭吉教育論集』収録、116−117ページ。執筆時福沢は50歳)から引用する。これは何度でも読み返す価値がある名言だと私は思う。

(引用はじめ)

 これを要するに、国民一般に政治の思想を養えとは、国民一般に学問の心掛けあるべしというに異ならず。人として学問の心掛けは大切なれども全国の人民、悉皆学者たるべきに非ず。人として政治の思想は大切なれども、全国の人民、悉皆政治家たるべきに非ず。

 世人往々この事実を知らずして、政治の思想要用なりといえば、たちまち政治家の有様を想像して、己れ白から政壇にのぼりて政をとるの用意し、生涯政事の事業をもって身を終らんと覚悟するもの多し。学問といえばたちまち大学者を想像して、生涯、書に対して身を終らんとする者あるが如し。その心掛けは嘉みすべしといえども、人々に天賦の長短もあり、家産・家族の有様もあり、幾千万の人物が決して政治家たるべきにも非ず、また大学者たるべきにも非ず。世界古今の歴史を見ても、その事実を証すべきなれば、政治も学問も、その専業に非ざるより以外は、ただ大体の心得にしてやみ、尋常一様の教育を得たる上は、おのおのその良ずるところにしたがい、広き人間世界にいて随意に業を営み、もって一身一家のためにし、またしたがって国のためにすべきなり。(116−117ページ)

(引用終わり)

 山田宏哉です。

 福沢は、国民が政治的見識を持つことの重要性を訴えている。しかし、もちろん誰もが政治家になったり、政治学者になるということを意味するわけではない。各人がそれぞれ、自分に与えられた職分を果たせばそれでよいのだ。

 「尋常一様の教育を得たる上は、おのおのその良ずるところにしたがい、広き人間世界にいて随意に業を営み、もって一身一家のためにし、またしたがって国のためにすべきなり。」 これこそ、福沢が行き着いた教育思想のエッセンスだと言ってもいいと私は思う。有名な「独立自尊」という言葉があらわす精神も大きくはこれと同じことだ。

 

6.まとめとして  福沢諭吉はなぜ偉かったのか

 以上、福沢の研鑽過程と行き着いた教育思想を概観してきた。ただ、本稿で紹介した福沢のエピソードはほんのごく一部に過ぎない。願わくば、各人が、『福翁自伝』や『学問のすすめ』『文明論之概略』『福沢諭吉教育論集』などを手に取り、座右の書とされたい。すべて岩波文庫から出版されている。

 福沢は、自身はこれ以上ないというくらいに勉強したというにもかかわらず、決して現実社会から目を逸らした空理空論を唱えたわけではない。それは彼の学問観にもよくあらわれている。福沢は、文学など暇人向けの学問を退け、日常生活に近い実学を学ぶ必要性を唱えた。有名な『学問のすすめ』(岩波文庫 昭和17年版)の初編の一節から引用する。

(引用はじめ)

 学問とは唯むづかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽み詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。(略) 古来漢学者に世帯持の上手なる者も少く、和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。これがため心ある町民百姓は、其子の学問に精進するを見て、やがて身代を持崩すならんとて親心に心配するものあり。無理からぬことなり。畢竟其学問の実に遠くして日用の間に合わぬ証拠なり。されば、今斯る実なき学問は先ず次にし、専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。(12−13ページ)

(引用終わり)

 山田宏哉です。

 最後に、福沢諭吉の最大の業績は何であったか、という問題に触れたい。これは福沢諭吉はなぜ偉かったのか、という問題でもある。

 私は、端的に言えば、「国家の危機が迫る中で、国内の感情や迷妄に基づく論を排し、世界で通用する事実や思想を、日本国内に正確に輸入して、ごく普通の庶民たちに広めたこと。正確に、輸入して広めようと努力したこと」だと思う。私の先生である副島隆彦氏の最大の業績もまた「国内の感情や迷妄に基づく論を排し、世界で通用する事実や思想を、日本国内に正確に輸入して広めたこと」だと私は判断している。ときどき、鬼の首でもとったかのように、「副島隆彦は高度に専門化された学問上の理論を打ち立てたりしたわけではない。日本の学界で認められていない」というようなことを言う人がいるが、そもそもこういう問題の立て方自体がおかしい。

 日本のアカデミズムの体制に盲従し、ひたすら己の出世のために、業界用語で誰も読まないような自己目的化した”学術論文” を書き続け、それが「業績」となってしまう文科系の専門家先生より、このような日本のアカデミズムのあり方そのものを正そうとする副島氏の姿勢の方が偉いのは当然のことだと私は思う。いずれ、どちらが正しかったか、ということに関する歴史的な評価が下るだろう。だから、例えば「高度に専門化された学問上の理論を打ち立てたり」するような細部を詰める仕事は私のような後学の弟子たちの仕事ということにして、副島先生は一段上で構えておられるのがよろしいでしょう、と私は思う。

(2002年12月27日 山田宏哉記、おわり)