「0033」 論文 和、大和、日本、Japan−日本の国名についておさらいする(1)高野淳(たかのじゅん)筆 2009年5月14日

 

 和風、和食、和室、和服、和紙、和歌、和訳・・・日本のことをさしてなぜ和というのでしょうか。これはさして難しくない問題です。ちょっと歴史をひもとけば、倭国の「わ」、倭人の「わ」ではないかと推測がつきます。よく見れば表題に掲げた「大和」のなかにも「和」の字が入っています。では倭国の倭がどうして和に変わったのか。大和と書いてどうしてヤマトと読むのでしょうか。

 日本の国名について調べてみると、そこには属国・文明周辺国の悲哀が刻まれていることに気づかされます。

 

1.倭(わ)、大和(ヤマト)

(1)大和の和

 大和をどうしてヤマトと読むのかがわかれば、同時に和についても答えが得られます。上田正昭著『大和朝廷』(1995年、講談社学術文庫)から引用します。

(引用はじめ)

 大和国をふつうには「ヤマトノクニ」とよんでいる。ところが、これを「ダイワノクニ」とよんで平然とすましこんでいた中学生がいたそうである。(中略)じつはそうよんでも無理からぬ事情が、大和の字の歩みには宿されていたのである。(中略)大和の用例は、後述するようにむしろ新しく、その起源は大倭(ふりがな:だいわ)にあったからである。

 倭の字は、委と書かれる場合もあり、倭は、waかwiかその元(ふりがな:もと)のよみ方については議論がある。しかし、日本で呉音waを用いた例もあり、後に大倭(ダイワ)の倭の字をきらい、倭と和が音の通ずるところから、倭を和と改め、大倭を大和に変えたことは確かであろう。(30−31ページ)

 ヤマトという古代日本語には、万葉仮名のほかに、倭・大倭を当てる古文献がきわめて多い。『古事記』や『日本書紀』では畿内のヤマトに大和を当てている例は一つもない。万葉仮名以外では、ほとんど倭・大倭を用いている。(中略)『古事記』の場合には、大倭という字は、畿内ヤマトよりももっと広い意味で用いて、古訓は「オホヤマト」とする。(31−32ページ)

 なぜ、日本の古い文献には倭・大倭がヤマトに借字されているのであろうか。そこには、わが国土における最初の文字使用者が、朝鮮半島や中国から渡来した人々(史(ふりがな:ふひと)・史部(ふりがな:ふひとべ)ら)であったことと深いつながりがある。

 なぜなら、中国や朝鮮では早くからわが国土を倭地(ふりがな:わち)とよび、この国土の住民を倭人(ふりがな:わじん)と称していたからである。その意味の倭人という文字が中国史書に登場してくる確実な例の最初は『漢書』(「地理志」)である。編者は後漢の班固(ふりがな:はんこ)という人であるが、その一節には、

 楽浪の海中に倭人あり。分かれて百余国となる。歳時を以って来り献見すという。

 と見えている。文中の楽浪とは、漢の武帝が紀元前一〇八年に、朝鮮半島の大同江流域に設置した楽浪郡のことである。

 班固が死んだのは紀元後九三年のことであるから、ここに見える倭人の時代が、紀元前後のころ―弥生時代の中期―であることはまちがいない。(33−34ページ)

(引用終わり)

 続いて、安本美典著『「倭人語」の解読』(2003年、勉誠出版)から引用します。

(引用はじめ)

 「やまと」は、はじめ、「倭」と書かれた。第四三代元明天皇(在位七〇七年〜七一五)のとき、国名に、二字を用いることが定められ、「大倭」と書くようになった。さらに、七五七年(天平宝字元年)から、「倭」に通じる「和」を用い、「大和」と書くようになった。「倭」を、良い字にかえたのである(「倭」は、背が曲がって、たけの低い小人の意)。(168ページ)

(引用終わり)

 「わ人」たち(弥生時代の倭人たちではなく、奈良時代の人たち)は、自分たちの呼称であるヤマトを、すこし大きくみせようとオオヤマトと称し「大倭」と表記しました。しかし、「小さい人」を意味する倭の字に「大」の字を付けて飾ってみても「大きなこびと」の意味になってしまいます。その滑稽さに気づいたからでしょうか、「倭」をもっと良い意味をもつ「和」の字に変えたのです。これが七五七年だというのでした。

 こうして、和と言えば日本固有のものという使われ方が今日まで続いているわけです。「和風」などと使う場合に、厳密に言えば奈良時代半ば、「倭」までふくめれば弥生時代以降の伝統を指し得るのです。

 「わ」という呼称は日本側が自称していたものか、中国側が名付けたのかは諸説あって決定的なことは言えません(註1)。なにせ『日本書紀』より古い時代に書かれた史書は『漢書』にしろ、いわゆる「魏志倭人伝」にしろ中国側の資料しかありません。そこに書かれていないことは、考古学等による新たな発見がない限りわからないのです。倭人たちの様子は外から文明人によって観察され報告されていました。これは、ちょうど文明国ローマの歴史家タキトゥスが蛮族であるゲルマン人について観察して『ゲルマーニア』(紀元97-98年ころ)を書いたのとよく似ています。

(註1)「倭」「わ」についての諸説は、たとえば、以下参照。
佐原眞著『体系 日本の歴史1』(1987年、小学館)374−377ページ。
田中?著『日本の歴史2 倭人争乱』(1991年、集英社)12−14ページ。

(2)邪馬台国

 「魏志倭人伝」(『三国志』)とくれば邪馬台国です。ここでは安本の前掲書から邪馬台国の国名と女王名に関する部分をごく簡単に見てみましょう。安本美典著『「倭人語」の解読』から引用します。

(引用はじめ)

 「邪馬臺(台)」と「大和(夜摩苔など)」とは、ともに、「やまと」と読めるばかりでなく、そこに含まれている「と」の音が、同音で、「乙類のト」である点においても一致する。(引用者註:古代(奈良時代)には「ト」の音に二種類あり、「乙類のト」とは、そのうちの一つを指しています。)(167ページ)

 「邪馬台国」は「大和朝廷」と関係があるとすれば、それはどのような関係だろうか。次の三つぐらいの説が考えられる。

(1)襲名説 「邪馬台国」と「大和朝廷」とは本来無関係であったが、大和朝廷が成立したとき、中国にまで知られた古代日本の輝かしい名である「邪馬台国」の名を襲った。(大和朝廷の成立は、邪馬台国以後と考える)。

(2)同一説 「邪馬台国」は大和政権そのものと考える。「邪馬台国」の時代、大和朝廷はすでに成立しており、「邪馬台国」は、大和朝廷が治めた国の一時期をさす(大和朝廷の成立は、邪馬台国以前と考える)。

(3)後継説 「邪馬台国」の後継勢力が、大和朝廷をうちたてたため、「邪馬台」の名が、ひきつがれた(大和朝廷の成立は、邪馬台国以後と考える)。(169ページ)

(引用終わり)

 安本は、古代の漢字の発音(上古音)や万葉仮名を検討することにより、いわゆる「魏志倭人伝」の邪馬臺がヤマトと同じ読みであるとしています。そして、「邪馬台国」と「大和朝廷」の関係は、引用文中の(3)後継説だろうとし、北九州にあった邪馬台国が畿内の大和に移ったという東遷説を唱えます。

 また、同書では女王名「卑弥呼」の意味は「ひめこ」で、「女王」を意味する大和ことばだったとしています(P.126)。すると「卑弥呼」は女王の固有名詞ではありませんから「女王卑弥呼」という言い方は「女王女王」とだぶって唱えているおかしな言い方だったことになります。

 

2.日本、JAPAN

(1)日本

 さて、倭・ヤマトとみてきました。次に現在のわが国の名称である「日本」はいつごろどんな事情でできたのか見てみましょう。吉田孝著『日本の誕生』(1997年、岩波新書)から引用します。

(引用はじめ)

 「日本」の国号を中国に対して用いたのは、七〇一年(大宝元)の遣唐使であるが、「日本」の国号が正式に定められたのは、六七四年(天武三)以後と推定されている。その根拠は、『日本書紀』六七四年三月条の記事である。そこには対馬国が産出した銀を献上してきたとあり、「凡(ふりがな:およ)そ銀の倭国に有ることは、初めて此の時に出(ふりがな:み)えたり」と記されていて、この「倭国」はあきらかに対馬をふくむ「大八州」全体をさしているからである。『日本書紀』が完成するのは七二〇年(養老四)で、書名からもうかがわれるように、「日本」の国号を重視しているにもかかわらず、ここに「倭国」と記すのは、おそらく原史料の表記によったものであろう。つまり、六七四年にはまだ、正式には「倭」が「日本」と改称されていなかった可能性が強いのである。

 ところが七〇一年の大宝律令では「日本」という国号を用いており(『令集解』公式令1条古記)、大宝の遣唐使が「日本」の国号を称したことは諸史料にみえる。したがって「日本」の国号が正式に定められたのは、史料的に確認されるかぎりでは、六七四年から七〇一年の間である。制度的には、おそらくは、飛鳥浄御原令(六八九年施行)で「日本」が国号とされていたのではないだろうか。(118−119ページ)

(引用終わり)

 では、日本と書いてどう読んだのでしょうか。現在はもちろん音読みして、ニッポンあるいはニホンですが、訓で読むとしたら、「ヒノモト」でしょうか。しかし、もともとは、「日本」と書いて「ヤマト」と読んでもらいたかったらしいのです。吉田孝著『日本の誕生』から続いて引用します。

(引用はじめ)

 それにしても、なぜ「日本」でヤマトを表記できたのか。「日本」という漢字の音や訓(意味)からは出てこない。『日本書紀』が、その初出(巻一)の「日本」(国生(ふりがな:くにう)み神話の「大日本豊秋津州(ふりがな:おおやまととよあきづしま)」)に、わざわざ「日本、此(ふりがな:これ)をば耶麻騰(ふりがな:やまと)という。下(ふりがな:しも)皆此に效(ふりがな:なら)え」と注を付したのは、「日本」をヤマトと訓ませることの難しさを示している。(12ページ)

(引用終わり)

 ニッポン(またはニホン)が音読みだということは、国の名前を、外国語風に名乗ったわけです。われわれは、すでにニッポンを受け容れてしまって何の違和感も感じませんが、日本に対して「ヤマト」という一種の訓読が定着した可能性だってあったのです。今日で例えて言えば、「国際化に対応して正式国名を「Japan」とつづり「ニホン」と読ませたかった。しかし、英語ではこれを「ニホン」とは読んでくれないので「ジャパン」となった」といった状況に相当します。当時の日本にとっての国際社会といえば、中心は中国(唐)です。そして、漢字でつづる限り、日本側がどう読んでもらいたいと思ったところで、国際社会は本家の漢字の発音で読んでしまうのが当然のなりゆきです。(こちらの意図する発音を本当に伝えたいなら「可口可楽:コカ・コーラ」のように音訳する手もありましたが。)

 読み方はさておき、「日本」の意味はさらに中国を意識したものとなっています。「日の出るところ」といっても、それは中国から見てということですから。網野善彦著『日本社会の歴史 上』(1997年、岩波新書)から引用します。

(引用はじめ) 

 「日本」は部族名でも地名でもなく、日の出るとこと、つまり東の方向を意味し、太陽信仰を背景にしつつ、中国大陸を強く意識した国号であった。(109ページ)

(引用終わり)

 では、なぜそれまでの倭、大倭を「日本」とあらためたのでしょうか。それは唐という強大な帝国に白村江の戦いで敗れた倭国側がそれまでの体制の改変にせまられたためだというのです(註2)。この危機意識から天武・持統朝は唐の制度をまねて律令国家の体裁を整えます。その一環として国号の変更があったようです。平川南著『日本の歴史 二 日本の原像』(2008年、小学館)から引用します。

(引用はじめ)

 天武・持統(ふりがな:じとう)朝政権は、七世紀初頭の対中国外交政策をふまえたうえで、七世紀後半に中国の律令(ふりがな:りつりょう)制を導入した古代法治国家建設を行ない、同時に新たな国家にふさわしい統治者の呼称と国号の制定をめさしたはずである。そして、東アジア的世界秩序のなかで古代国家建設を推進したわが国は、あくまでも中国の強力な影響下で「天皇」と「日本」を創成したと考えるべきであろう。もちろん、「天皇」号も「日本」国号も、その大前提として中国の承認が必要であり、中国にとって不都合でないと認められたものを選ばなければならなかったのである。
(中略)

 「日本」という国号も、古代中国の世界像における東夷(ふりがな:とうい)の世界、東の果ての地として、「日の土台」という意味で採択された。
 七世紀後半に新たな国家の国号を制定するにあたり、七世紀初頭の遣隋使外交以来の「日の出の地」に終始執着したのは、仏典の説く「日出ずる処は是れ東方」という位置づけを重んじたからであろう。日本国号は、みずからをあくまでも中国的世界像の東方に位置づけたもので、それゆえに中国の承認も比較的容易に得られたのではないか。

(中略)

  極論すれば、古代国家は中国的世界を前提としながら、中国的世界からの自立の象徴として「大王」ではなく「天皇」、「倭国」ではなく「日本」を欲したのである。その「天皇」および「日本」が、道教や仏教という外来思想に基づいて制定されたところに、中国側が容認した理由があったのであろう。(61−62ページ)

(引用終わり)

(註2)白村江の敗戦による危機意識については
岡田英弘『倭国』(1997年、中央公論社)195−205ページや
川喜田二郎『素朴と文明』(1989年、講談社学術文庫)306−314ページ参照。
一方、隋、唐自体も漢民族の王朝ではないことは
岡田英弘『世界史の誕生』(1992年、筑摩書房)145、152ページ参照。

(つづく)