「0034」 論文 和、大和、日本、Japan−日本の国名についておさらいする(2)高野淳筆 2009年5月日

 

(2)Japan

 マルコ・ポーロの『東方見聞録』に「ジパング」の話がでてくることはよく知られています。英語のJapanの語も中国から伝わりました。日本が直接ヨーロッパに伝えたのではなく、中国を経由して伝わったので、当時の中国の漢字の発音で伝わったのです。中島文雄・寺澤芳雄編集『英語語源小辞典』(1970年、研究社)から引用します。

(引用はじめ)

 Japan 日本.1577(Eden&Willis).中国音Jih-punの転化(jih日+pun本);cf. F Japon/It.Giappone. Marco PoloによりChipanguの形ではじめてヨーロッパに紹介された。(226ページ)

(引用終わり)

 また、吉田孝著『日本の誕生』からも引用します。

(引用はじめ)

 マルコ・ポーロ『東方見聞録』のジパングは「日本国」の中国音に、現在通用しているジャパンはポルトガル人がヨーロッパに伝えた「日本」の中国音に、それぞれ由来するらしい。(204ページ)

(引用終わり)

 日の音が「ニチ」でなく、「チ」や「ジ」と伝えられたのは、中国側の漢字の発音が、時代とともに変わったからです。これは、漢字の音読みの呉音・漢音(註3)の違いとして日本語にも残っています。「日」は呉音で「ニチ」、漢音で「ジツ」(例:元日「ガンジツ」、当日「トウジツ」など)であることは漢和辞典に必ず出ています。

 ちなみに、「日本国」を現代中国語(普通話)で発音すると「リ(ジ)ーべングォ」(註4)のような音になります。

(註3)沼本克明「日本語の語源と呉音・漢音」 吉田金彦編『日本語の語源を学ぶ人のために』所収(2006年、世界思想社)から引用します。

(引用はじめ)

 日本語に入って定着した漢字音を日本漢字音と呼ぶ。日本漢字音には古い層から新しい層へ「呉音」「漢音」「新漢音」「宋音(鎌倉期唐音)」「唐音(江戸期唐音)」の少なくとも五層が体系的に区別される。(中略)この日本の五種類の漢字音は、基本的には借用時期の異なりに対応する。すなわち、呉音は中国六朝期以前、漢音は唐代中期、新漢音は唐代末期、宋音は宋代、唐音は明・清代の中国語が母胎になったものである。(68−69ページ)

(引用終わり)

(註4)日の発音はriと表記される。これは以下のように発音されます。
(引用開始)日本放送協会・日本放送出版協会編集「テレビで中国語2009 4」
(2009年、日本放送出版協会)から引用します。

(引用はじめ)

 ri  口は横に引かず力をぬき、舌先を少し後ろに引くようにして日本語の「リ」か「ジ」を言います。舌先は上あごにつけてはいけません。(50ページ)

(引用終わり)

 

3.帝国・属国という大きな枠組み

 以上で、倭(和)、大和(ヤマト)、日本、Japanという日本の呼称についてみてきました。和は倭に由来しました。倭の由来は断定できませんが中国の史書で初めて記述された語でした。日本という国号も当時の日本にとっての世界の中心である唐王朝に向けてのものでした。Japanも中国語の読みがもとになっています。いずれも中国との関係抜きには成り立たないものでした。そして、これは国の名という言葉の上の問題だけではありません。むしろ古代の政治・経済・文化・軍事全般におよぶ中国の強い影響が国の名にもあらわれたものだったのです。

 「ヤマト」は倭人がみずから名乗っていた国の名のようです。では漢字を用いず「やまと」と表記すれば中国と無関係な日本独自のものが表現できるでしょうか。いっそ国の名を「やまと」に変えたらどうでしょう。しかしこれでは、現在の日本国にとって都合が悪いことがあります。沖縄とアイヌが抜け落ちてしまいます。沖縄では、日本の本土を指して「ヤマト」、本土人たちを「ヤマトンチュウ」といいます。アイヌは日本人を「シャモ」といっていたそうです。自分たちの土地は「アイヌモシリ」です(註5)。ですから彼らは「やまと」の人ではないのです。このあたりの事情は、イギリスという語がEnglandしか指していないということとよく似ています。ウェールズ人やスコットランド人は決してイギリス人ではありません。全部あわせたものを指す言葉は今日ではブリティッシュ(British)です(註6)。

 アングル人・サクソン人たちはブリテン島にのりこみ(449年)、先住民であるケルト人を次第に駆逐しあるいは飲み込んでいきました。イングランドがウェールズを併合するのは1284年。スコットランドは1707年に統合され、アイルランドは1801年に統合されます。ヤマトがイングランドなら中国はさしずめローマでしょうか。ローマはBC55年からAD407年までブリタニアに駐留しました。そしてアングル・サクソン人たちがブリテン島にのりこんでから(449年)ほどなくして滅んでいます(476年西ローマ滅亡)。したがって残念ながらイングランドとローマの関係は、ヤマトと中国の関係にはなりません。

 しかし、ローマはたとえば蛮族の進入を防ぐため長城を築くなど、文明周辺の部族に対して政治・経済・文化・軍事面で大きな影響をあたえた点で、中国と似た役回りを果たしています。これが帝国・属国関係の視点です。ローマ帝国−中国、イングランド−近畿、スコットランド−関東・東北、アイルランド−北海道、ウェールズ−南九州などと対比して異同を比較してみるのも興味深いと思います。

 このように帝国−属国関係の視点は、世界史規模での比較も可能にします。自国の歴史であっても飾ることなく真実を暴いて、大きな枠組みのなかで捉え、突き放して見たほうが歴史から多くを学ぶことができるのです。

(註5)萱野茂『アイヌの里 二風谷に生きて』(1987年、北海道新聞社)12、127ページ。
(註6)副島髟F『ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ 上』「アイルランド人は白人社会のアイヌ」(2004年、講談社)91−101ページ

*関連事項を年表にまとめました。

日本

 

中国

 

 

ヨーロッパ

 

 

 

 

 

BC55

ローマ、ブリタニア上陸

 

後漢

25

 

57

倭奴国王後漢から金印を受ける

 

 

 

 

82

班固『漢書』

 

 

 

97-98

タキトゥス『ゲルマーニア』

 

 

 

238

卑弥呼親魏倭王

三国時代(魏・呉・蜀)

220

 

 

 

 

 

280

 

 

 

285

陳寿『三国志』

 

313

倭王賛、東晋に遣使

 

 

 

 

407

ローマ、ブリタニアから撤退

 

449

アングロ・サクソン族、ブリテン島上陸

478

倭王武、宋に遣使

 

476

西ローマ帝国滅亡

 

 

 

 

589

 

607

遣隋使

 

 

 

 

 

 

618

 

630

遣唐使

 

 

663

白村江の戦い

 

 

701

大宝律令

 

 

720

『日本書紀』

 

 

 

 

 

907

 

 

 

1271

1284

イングランド、ウェールズ併合

1274

文永の役

 

 

1281

弘安の役

 

1299

マルコ・ポーロ『東方見聞録』

 

 

 

1368