「0040」 論文 真のユダヤ史 ジューダス・マカバイオス―真のユダヤ人民衆による愛国的独立戦争物語(1) 鴨川光(かもがわひろし)筆 2009年8月11日
 

ユダヤ最初の実在王朝ハスモン王国

 みなさん。本当のユダヤ史、ユダヤ人(Jews)がいた、ということを知っていますか。本当のというからにはそうではないユダヤ人、ユダヤ史があるということです。

 そうです。私はあるひとつのユダヤ史を残してすべてのユダヤ人を切って捨てようと思います。

今私たちが知っている一般のユダヤ本に書かれているユダヤ史、ユダヤ人はすべてニセモノです。偽のユダヤ人です。

 それは、モーゼの出エジプトやダビデの作った王国に登場するユダヤ人。これは聖書のユダヤ人、ビブリカル・ジューダイズム(Biblical Judaism)といいます。

 カスピ海と黒海の間のコーカサス地方に実在した、カザール王国(Khazar)。そしてシオニストの作った現在のイスラエル(Israel)。私はこれらを切って捨てようと思います。

 聖書のユダヤ人は「うそユダヤ人」。

 カザール王国は「にせユダヤ人」。

 そしてイスラエル・シオニストは「いんちきユダヤ人」というふうに。

 他にも「ラビのユダヤ人」と「宮廷ユダヤ人(Court Jews)」がいますが、私はこれらも「汚いユダヤ人、くそユダヤ人」として切って捨ててしまおうと思います。

 ではその一つを残しての一つ。本当のユダヤ人、真のユダヤ史、ユダヤ国家とは何であったか。

 それはジューダス・マカバイオス(Judas Maccabaeus)という勇敢な人物によって打ち立てられた「ハスモン(アサモナイオス)王国」(Hasmonean Kingdom)なのです。

ジューダス・マカバイオス 

 この王国こそが、古代パレスチナに実在した、ユダヤ人が建国した歴史上初の唯一の王国なのです。ダビデ(David)がヒーローだなんて全部うそです。

 本当は紀元前二世紀にマティアス(Matthias)という男がいて、この人が外国勢力、それは当時の二大覇権国であったマケドニア人たちが作ったエジプトとシリアのことですが、それに従おうとする裏切り者たちを斬り殺し、五人の息子たちと共に民衆を引き連れて荒野に身を伏し、ゲリラ戦を行なって、セレウコス朝シリア(Seleucid Empire)を打ち倒したのです。

 さらに長年彼らの祭司階級であって、また徴税請負金貸し階級であったオニアス(Onias)家を追い出し、この一族の臣従によってユダヤはエジプトの属国にされていたのですが、長年付き合いのあったエジプトからも独立に成功した、というのが真実のユダヤ・ストーリーです。

 プトレマイオス朝エジプトの徴税権は、祭司階級のオニアス家やその親戚のトビアス(Tobias)家が独占的に払い下げを受けていたのです。

 そしてパレスチナの信仰厚き民、ユダヤ人は、プトレマイオス朝エジプト(Ptolemy)とセレウコス朝シリアの二つの大国の支配に受ける、二重の属国状態にあり、さらにオニアス家ら大祭司でありながら金貸し業をやっていた階級によるオリーガーキー(oligarchy)、寡頭支配を受けていたのです。これが真実です。

 それに対する本当の民衆、一般庶民の怒りが爆発したのがマカバイオス戦争(Maccabean Revolt)です。今から二一五〇年ほど前にユダヤ民衆の大反乱が起こったのです。

マカバイオス戦争

 そしておそらく史上稀に見る民衆の意思と信仰を代表した健全なる神聖政治、シオークラシー(theocracy)を確立することに成功したのです。

 マカバイオス(Judas Maccabaeus)というのはマティアスの長男のあだ名です。

 マティアスには五人の息子がいました。その中でも長男と次男と四男、ジューダス(Judas)、ジョナサン(Jonathan)、サイモン(Simon)の三人が力を合わせて、死を賭して戦い抜いた歴史が本当のユダヤ史の始まりです。

 父のマティアスは一年間ゲリラ戦を戦い抜きました。その後長男のジューダス、ジューダス・マカバイオスが父の遺志を継ぎます。この男こそ本当のダビデです。

 荒野に伏して民衆を率い、長期にわたってゲリラ戦を行ない、大国の巨大な軍隊を包囲撃退して、神殿、聖所を復活、民に活力を与えた本当のヒーローです。

 そして、金融支配のオリーガーキー(oligarchy)支配の象徴であった最後の大祭司オニアス三世の息子のオニアス四世を亡命先のエジプトから呼び戻すことはありませんでした。ジューダスは民衆から自分たちの大祭司として選ばれ、民を代表した真の神聖政体、シオークラシーを実現するのです。

 この歴史こそ、本当のユダヤ史であり、真のユダヤ人たちの活躍です。このことを本邦初めて明らかにしようと思います。

 まずはオニアス家、オニアッド・ファミリー(Oniad Family)というのがいました。彼らは自称ソロモン(ダビデの息子です)のころの最初の神殿があったときの最初の祭司とされるザドクを一代目とする正統な祭司の家系ということになっています。

 これを大祭司、グランド・マジシャン(grand magician)といいます。ユダヤ神権政治の正統な家系です。

 後にパリサイ派やサドカイ派といった連中が出てきて、今に続くラビ(rabbi)となります。ラビは祭司ではありません。学者であり、聖書解釈者、読み聞かせ人であり、平信徒、レイマン(layman)です。ですからユダヤ寺院、シナゴーグというのも神殿ではありません。ただの集会所、お茶飲み場、ロッジです。

 私はロッジ(lodge)、ハーミテイジ(hermitageフランス語でエルミタージュ、隠遁所、庵、いおり、隠れ家)という思想はすばらしいもので、宗教的本質を突いているものだと思うのですが、そのことに関してはまた後で述べます。

 その意味ではオニアス家というのは正統で正当な家系なのです。少なくともアレクサンダーがエルサレムを支配しに来たときに出会ったというジャドゥアという司祭がいて、そこから五代目のころにマカバイオスの戦争が始まっているので、このジャドゥアがオニアッド一代目といえるかもしれません。ジャドゥアの息子がオニアス一世です。

 彼らはパレスチナの有力者の筆頭でもあり、ほかにも親戚のトビアスというのがいますが、大祭司でありながらも金貸し、バンク(bank)を営んでいたのです。その中でも最も金持ちだったのがオニアス家だったのです。

彼らが何を元手にバンク、金貸し業を営み、財をなしたかというと、エジプトのプトレマイオス朝が毎年彼らの徴税権の払い下げ入札を行なっていて、その都度最も高い入札額でパレスチナの徴税権を落札し、徴税請負を行なってプトレマイオス朝に貢納していたのです。

 さらにそのお金で民の財宝を集め、金貸し業、バンクを行なっていました。

 こうして一部の家系にのみ財宝と権力を集中させ、大国の属国になると同時に、民衆支配を完了したわけです。すなわち、一部銀行家によるオリーガーキー支配があったというのが真実なのです。

 

フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』と『ユダヤ戦記』

 私はこの稿を書くにあたって参考にするのはフラウィウス・ヨセフス(Yosef Ben Matityahu)(西暦三七年〜一〇〇年ごろ)という紀元一世紀にいたユダヤ人歴史家です。紀元後六六年から七〇年にローマに対するユダヤ人の大規模な蜂起が起こったのですが、そのときの指揮官であった人です。

 紀元前後のユダヤ人の動向を知るにはこのヨセフスが欠かせません。実は聖書以外の資料として、最も代表的なものはこのヨセフスが書いた『ユダヤ古代誌』と『ユダヤ戦記』なのです。

 それとイエス・キリストの同時代人としてフィロン(Philon Alexandrinus)、あるいはフィロ、フィロスといったりしますが、アレクサンドリアにいたユダヤ人がいます。

 この二人はイエス(Jesus)のことを書いていません。イエスはあれだけの人なのだから、二人が知らないわけがなく、少なくともパリサイ派やエッセネ派の流れの中に位置づけられる人物であったはずです。しかしイエスは書かれていない。この二人が書いていないということは歴史上いなかったということになるのです。

 ヨセフスとフィロンは当時のパレスチナとユダヤ人のことを知る上で重要な人なのです。

 ヨセフスを知らないでユダヤ人のことは語れません。あらゆるユダヤ古代史本でヨセフスを引用していないものはないのです。

 オニアス家の話に戻ります。

 確かに彼らは金持ちで、パレスチナの地における正統な支配者でありました。ですから彼らが正統な支配家系であるということも書いておきます。

 ユダヤの王や戦士、預言者のことはあらゆる本に詳しいのでそれらは書きません。市販のどの本も聖書解釈か近現代のシオニスト関連のものばかりですので、そちらをお読みください。

 私は本質的なことしか書きません。ユダヤの正統大祭司階級とマカバイオス戦争、そしてラビ列伝というほとんど日本で知られていない重大な事実を中心にユダヤ人を追いかけてゆきます。

 彼らオニアス家が正統の祭司であるというのは、聖書においてソロモン(Solomon)が初めての神殿を作ったときに、ピネハス家のザドクという人物が任命されたことに由来します。(フラウィウス・ヨセフス著『ユダヤ古代誌』第三巻 筑摩書房 ちくま学芸文庫 一六―一七ページ)

 それまではイタマル(Itamar)一族という人たちが大祭司でした。ソロモンというのは、聖書のユダヤ人の中で最大の王で、ダビデの次の二代目の王です。この聖書の中の祭祀家系のことはレビ記に書かれています。

 オニアス家といいましたがエンサイクロペイディア・ブリタニカではこのオニアスの名称を採用しています。歴史上初めてわかる祭司がオニアス二世だからです。だから私もオニアス家、またはオニアッド家と呼ぶことにします。

 本によってはザドク(あるいはツァドク、Zadok)家とするものもあります。一代目のザドクからとってザドク家です。後にサドカイ人という人々が出てきますがサドカイ、サドゥーシーズ(Sadducees)というのもこのザドクに由来します。

 しかし本当はこのヨセフスの記述によるとピネハス(Phinehas)家というのが正しいようです。

 以上の祭司階級というのも聖書の中のレビ族(レヴァイト、Levite、聖書中の祭司階級のこと)の家系として歴代誌の中にも書かれています。そこで少し聖書のユダヤ人について基礎的な知識をさっといっておこうと思います。

 

聖書のユダヤ人をさっと見ていく

 モーゼがエジプトから奴隷を連れてきてパレスチナでダビデが王国を作り、次のソロモンのときに最盛期を迎えて、南北に分裂します。北のイスラエルはアッシリア(Assyria)に、南のユダはバビロニア(Babylonia)に滅ぼされます。

 大切なのはバビロニアのネブカドネザル王(Nebuchadnezzar)によってユダの首都エルサレム(Jerusalem)が陥落し、祭司階級を中心に、首都のバビロンに連れて行かれたということです。これがバビロン捕囚、ザ・バビロニアン・エグザイル(The Babylonian Exile)といいます。ダンスグループのエグザイルの由来はこれです。

 このあとバビロニアがペルシャによって滅ぼされるとキュロス(Cyrus)やダレイオス(Darius)といった王によって帰還が許され、三回に分けてエルサレムへ祭司たちが戻されます。

 第一回目がシェシュバツァル、二回目がゼルバベル、三回目がエズラとネヘミア。彼らによって神殿建設が始められます。この神殿をソロモンの神殿に対して第二神殿といいます。この第二神殿時代と一般に呼ばれる時代こそが、歴史上最初で最後のユダヤの時代なのです。

 この四人は聖書中に出てくる人物で、エルサレムに神殿を再建するための行政長官のような人たちです。エズラだけは民間の人間で祭司と律法学者をあわせたような人です。この人が後のラビに続くとされています。このことはラビのユダヤ人を書くときに再説します。

 この時期にも当然オニアッド家に続く正統な大祭司階級の家系は綿々と続いていました。

 ネブカドネザルに捕囚された大祭司はアザリア(Azaria)という人で(前掲書 二七三ページ)、ヨセフスがザドク以降、初めて大祭司を明確に取り上げるのはこの人からです。

 そしてペルシャ王ダレイオスによって、第二回の神殿再建事業をゼルバベルとともに任されていたのがアザリアの孫エシュアという人です(前掲書 三四三ページ)。

 この二人が聖と俗のコンビです。気になるのがこのときユダヤ人の財務官ミテレダスという人物で(前掲書 三一六ページ)、彼にペルシャ王キュロス(Kyros)はネブカドネザルがソロモン神殿から奪ったとされる財宝を返還したとされています。

 この聖と俗のコンビの次がエズラ(Ezra)とネヘミア(Nehemiah)で、ここで第二神殿が完成し、聖書の口伝、読み聞かせが始まって、聖書の「歴史」は終わりです。預言者の予言もこのころ止みます。

 

大祭司をトップにいただいた金融オリーガーキー支配

 ヨセフスの書いた聖書のユダヤ人についての記述で非常に重要な事実が書かれていました。

 「エズラはエルサレムに到着すると、ただちに祭司一族である財務官らに聖なる財宝を引き渡した」(前掲書 三四六ページ)

 「その統治形態は少数貴族制であったが、それはアサモナイオス一族(筆者注記 ハスモン家のこと)の子孫が王として支配するまで、大祭司が国家の長だったからである」(前掲書 三四〇ページ)

 この記述は動かぬ歴史的証明です。

 これはこういうことです。エンサイクロペイディア・ブリタニカには、当時のエルサレムのユダヤ人は、最も富裕であると共に政治権力を持っていた祭司階級に支配されていた。その中でもオニアッド家は最も金持ちの家系であった、とあります(Encyclopedia Britannica: Judaism 三八八ページ)。

 彼らが大祭司であり国家の長として民衆を聖俗両面で支配していた。さらにその国家の長がプトレマイオス朝によって払い下げられた徴税請負役人だった、ということなのです。

 それはプトレマイオス朝の属国、というよりも属州として、プトレマイオス朝からライセンスを受けた一部の特権的階級による「少数貴族制」だったということです。ヨセフスの『ユダヤ古代誌』からの引用文の訳は少数貴族制となっていますが、これはオリーガーキーというのがもとの言葉です。

 さらにブリタニカには、彼ら少数の階級が管理していた例の第二神殿は、事実上「バンク」であった、とはっきり書かれています。そして民の私有財産がそこに預けられていたとあります。

 これこそが歴史上初めて浮かび上がったパレスチナ、特にエルサレムのユダヤ人たちの実態だったのです。一部の徴税請負人たちが財宝を独占して、祭司階級として、神殿、テンプルをバンクに変え、金貸しを行っていた、ということなのです。

 完全なる理想的なオリガルヒ、オリーガーキーです。後にヴェネチア(Venice)やオランダ(The Netherlands)で行われた、もっとも悪辣な統治形態の雛形がここにありました。プトレマイオス朝は各地で徴税入札を行なっていたのですから、エジプトからバビロニア、ペルシャに至るまで、古代からこのことが当たり前に行なわれていたのだろうと思います。これは人類のテーマかもしれません。

 おそらくはピラミッドやシュメールのジグラートは神殿であり、バンクだったのでしょう。聖俗財による民衆支配の象徴であり、ペナントだったのだろうと思います。

 いずれにせよ私は史上最初の金融オリーガーキーの雛形、プロトタイプ、原型の尻尾をつかみました。

 あとはこの「神殿」で、売春や嬰児の生贄が行われていたかどうかです。おそらくやっていたでしょう。少なくとも動物の生贄は行われていました。

 

ヨセポスの徴税請負物語

 さて、歴史上初めて登場するユダヤ人を確定しなければなりません。先ほどアレクサンダー(紀元前四世紀)の時代にジャドゥアという人物がいたといいましたが、ユダヤの歴史はバビロン捕囚以降、ペルシャ、アレクサンダー時代に至るまではっきりしません。伝承の部分が大きくて歴史的に確定できないのです。

 ユダヤ人というのはアレクサンドリア、もともとはエレファンティネ島といいますが、ここに巨大なユダヤ人傭兵駐屯地があったという以外わからず、気がついたら彼らはプトレマイオス朝の支配を受けていました、という登場の仕方なのです。

 そして歴史的に初めてその存在が確定できるのは、ジャドゥアから数えて六代目のオニアス二世からなのです(紀元前二四五年、大祭司に即位)。なぜならこの人がプトレマイオス朝に対してちょっとした事件を引き起こし、それが皮肉なことにこの当時のオリエント世界の徴税支配のあらましを明らかにしてしまったからなのです。

 このオニアス二世という人は頭の悪い人であったらしく、エジプトから請け負っているはずの徴税権からの収入をエジプト王に貢納することを拒み、プトレマイオス五世を怒らせてしまいます。この行為が愛国的なものであったかどうかはわかりません。

 このときにオニアス家の次くらいに金持ちであったトビアス家のヨセポス(ヨセフス、ジョゼフ)という男がいて彼はオニアス二世の甥でした。

 さてこのヨセポスは非常に人間的度量の大きな男だったようで、事態を収拾するためにエジプトに赴きます。そこでプトレマイオス王をたちまちのうちに丸め込み、帰り道のコイレ・シリア、フェニキア、サマリアなどの徴税権を王から手に入れてしまいます。

 ヨセポスという男は非常に好意的に『ユダヤ古代誌』に書かれているのですが、その記述を見ると全くあくどい、口のうまい、頭のよい、恐ろしい男です。

 プトレマイオス朝が行なっていた徴税請負権入札の話はこのトビアスの話に出てきます。(前掲書 五四―六〇ページ「オニアスの甥ヨセポスの徴税請負物語」)

 

(引用開始)

 さて、各都市における徴税請負権の競売される日がめぐってきて、各国の高位の有力者はそれぞれに入札に応じた。

 ところが、コイレ・シリアからの税とフェニキア、ユダヤおよびサマリアからの税の総計が八〇〇〇タラントン(筆者注記 英語ではタレントtalentといいます)で落札されようとしたとき、突然ヨセポスが王の前に進み出て、入札者たちが、あらかじめ低価格で競り落とせるよう話し合いをしていたことを責め、自分ならばその倍額でも応ずること、また税金の滞納者からの没収財産は、従来徴税権の中に含まれるものとして取り扱われてきたが、それも王に直接返還しよう、と約束した。

 王は、自分の歳入が増加すると思えたので、この申し出を喜び、徴税権を彼に売ることを認めようと答えたが、しかし、いったいだれが彼の保証人となるのかと尋ねた。

 これにたいする彼の答は、きわめて賢明なるものだった。

 「もちろん、わたしは、王が信頼される最高の品性をそなえた人物を保証人として申し出るつもりです。」

 王が、それはだれか、とさらに質すと、彼は答えた。

 「陛下。それは余人ではございません。わたしのために保証にたち、かつ互いに相手の損失を負われる方は、王ご自身と王のお妃とでございます。」

 結局、王は、この申し出に大笑いをしながら、事実上は保証人なしで彼に徴税を請け負わすことになった。(前掲書五八ページ「オニアスの甥ヨセポスの徴税請負物語」)

(引用終わり)

 これではいまひとつ何のことかわからないと思います。実に口のうまい男です。徴税権を最も高い値段で買うといって、さらに没収財産、つまり差し押さえの現物を王に引き渡すというのですから。

 これでは王は自分の歳入が増加すると思えたというのも無理はありません。大喜びでこの口のうまい男をもてなしたでしょう。

 私の分析ではこれはこういうことです。競争入札、おそらくはヨセポスの言い分である談合があったというのも本当の話でしょうけれど、ヨセポスのやり口の真相は、競り相手を出し抜いて王に取り入ったということなのです。

 王が保証人をしたくだりの意味が皆さんよくお分かりにならないかと思います。実にわかりにくい。

 この徴税権購入代金は後払いです。つまり、徴税額から毎年決まったお金を宗主国エジプトに貢納するというシステムです。

 それでは自分が徴税に成功すればただで権利を手に入れることができるということです。それには相手が必ず税を払うという「保証」が必要です。

 ここにトビアスの「私のために保証にたち、かつ互いに相手の損失を負われる方は王ご自身と王のお妃でございます」という言葉が生きてくるのです。

 トビアスは王を担保に入れたのです。

 つまり徴税の後ろ盾、権力を保証にしていればいくらでも苛烈な取立てができる。相手を殺してでも。それで王を後ろ盾として、王がヨセポスと王自身の保証人です、といったのです。

 これが主権、ソーヴリィンティ(sovereignty)の本当の意味、苛烈なる徴税保証というのがソーヴリィンティの真の意味です。平安時代の地頭のやり口とおんなじです。

 ソーヴリィンティ、王の権力による徴税の後ろ盾を得たヨセポスはアシュケロンという街でさっそくそれを実行します。アシュケロンで税の支払いが当たり前のように拒否されると、直ちに町の有力者を逮捕、処刑し、王との契約どおりに財産を没収して約束どおりに王に引き渡したのです。

 これに喜んだ王は完全にヨセポスの後ろ盾となり、つまり、完全にソーヴリィンティを預けてしまいます。任してしまいます。

 これに勢いづいたヨセポスは各地で街の有力者(つまりトビアス家やオニアス家らオリーガーキーのライバルたち)を逮捕、処刑し、莫大な金を集め、王に贈り、自らもその富を享受したのです。

 これがこの時代のパレスチナで起こった真実なのです。

 

オニアス三世、エジプトの庇護の下平和と繁栄を享受する

 さて、オニアス二世とトビアス家ヨセポスの話の顛末はこれで終わりです。

 少しさかのぼることになりますが、これから新時代を画する出来事が起こります。オニアス二世の孫のオニアス三世の登場です。

 プトレマイオス朝の庇護のもと、ユダヤはオリーガーキー(oligarchy)―寡頭体制、一部の特権的エリーティスト独占金融支配体制―でありながら、伝統的文化と習慣を保持して、ヨセポスの大規模な集金のおかげで繁栄した平和な日々を送っていました。

 セレウコス朝の勃興でユダヤを含むギリシャ化が進んでいました。ギリシャ化はヘレニズム(Hellenism)といわれますが、本当はマケドニアニズムといったほうがいいのです。

 ギリシャといってもアテネやスパルタのギリシャではなく、もっと北の奥のほうのマケドニアのギリシャ人であって、彼らがアケメネス朝ペルシャ(Achaemenid Persian Empire)を征服して、オリエント一帯の「ギリシャ化」が進んだのです。アリストテレスもマケドニア王室に仕えていました。

 この時期のユダヤはエジプトの影響の下シンクレティズム(syncretism)が進んでいました。シンクレティズムとは混合宗教という意味です。

 ヤーウェ(エホバ、ゴッド)を太陽神ラーに見立てるというような、日本の神仏習合、垂下神道のオリジナルです。

 このままエジプトの影響下にいたら宗教の混合がかなり進んでいたであろうとブリタニカには書かれています。(三八七ページ)

 オニアス三世はプトレマイオス朝庇護のもと平和に繁栄を享受している中で大祭司に就きました。実質的に生まれながらの本当の王であったといっていいでしょう。

 このときエジプトと並ぶ地域覇権国であったシリアのセレウコス朝の王はセレウコス三世フィロメトルといって、アンティオコス三世大王の子で「ありとあらゆる犠牲を払ってでもユダヤを厚遇した」実に親ユダヤ的な「よい王」でした。(ジューウィッシュ・エンサイクロペイディアより)

 この王をある男がそそのかします。ユダヤの高官で祭司の一人にサイモン・ザ・ベンジャマイト(Simon the Benjamite)という男がいて、この男がこのセレウコス三世に、エルサレムの財宝を略奪しましょうと働きかけます。この試みは失敗に終わるのですが、シリアの王宮はベンジャマイトのこの過ちを許さなかった。これが後に尾を引いてゆきます。

 ここでいったんなぜユダヤがプトレマイオス朝の属国になったかということをお話ししましょう。

 

ユダヤがプトレマイオス朝の属国となったいきさつ

 アレクサンダー以後、エジプトからパレスチナに至る地域は、エジプトを支配したプトレマイオス朝(紀元前三二三―三〇)とシリアのセレウコス朝(前三一二―六四)が地域覇権国でした。

 プトレマイオス一世(前三六七―二八三)は、ユダヤ人の安息日にエルサレムの市中に入り、そのまま占領してしまいます。

 それでもエジプトはユダヤ人を厚遇し、首都のアレクサンドリアでは市民権すら与えます。

 そして多くのユダヤ人を守備兵に雇っていました。だからアマルナ文書にあるように、ユダヤ人用兵の大駐屯地がアレクサンドリアに築かれていたわけです。

 次のプトレマイオス二世フィラデルフォス(前二八五―二四六)は本の収集家で、有名なアレクサンドリアの図書館を作ります。

 フィラデルフォスはユダヤ人が独自の律法というものを持っているということを聞きつけて、ギリシャ語に翻訳させようとします。

 当時の律法、トーラー(モーゼ五書、旧約聖書)はアラム語で書かれていたとされています。キリスト受難を生々しく描いた映画『パッション』で使われていた言葉は英語ではなく、アラム語です。

 映画の字幕ではイエスとなっていましたが、実際にはヨシュア(ジョシュア、イェシュヴァともいう)と呼ばれています。イエスの本当の呼び名はヨシュアなのです。

 この時代ヘブライ語などは使われておらず、実際にはアラム語がパレスチナの公用語だったのです。アラム語というのは要するにシリア語で、私はこのシリア語こそが聖書やギリシャ思想を最初に解読した言葉なのだと思っています。

 このシリア・アラム語が媒介となって聖書とギリシャ思想が広まった、だからシリア語、そしてその中心地アンティオキアで現在に続く思想のベースが作られたのだろうと思っています。

 プトレマイオス二世は聖書、律法をアラム語からギリシャ語へ翻訳することを望みました。

 当時の大祭司エレアザロスはこのことを知って、プトレマイオス二世と取引をします。エレアザロスはオニアス三世の四代前の大祭司です。

 またか……とお思いになられる方もいるかもしれませんが、この時代ユダヤ人は、アレクサンダーの征服以降、世界に散らばっていました。この散らばったユダヤ人のことを「離散ユダヤ人、ディアスポラ(Diaspora)」といいます。

 大祭司エレアザロスはエジプトで奴隷になっていた同胞を解放してもらうのと引き換えに、七〇人の翻訳長老たちを派遣するという約束を取り付けました。このときに訳された聖書は「七〇人訳聖書、セプトゥアギンタ(Septuaginta)」といって、事実上最初の聖書です。ですから最初の聖書はギリシャ語で書かれたのです。

 いずれにせよシリア語からギリシャ語に聖書の思想が伝わり、シリア語からギリシャ思想がアラブ=イスラムに伝わったのです。

 エジプトのユダヤ人奴隷を解放するというのもモーゼの出エジプトを髣髴(ほうふつ)させる話ですが、そもそもこの時代に用兵や奴隷となっていたユダヤ人に市民権などを与えたというのが本当の話なのです。

 もう一方のセレウコス朝シリアのいきさつを話しましょう。

 セレウコス朝(前三一二〜前六四)の創始者はセレウコス一世ニカトールという人です。もうこのときからユダヤ人はここでも好待遇を受けていて、首都アンティオキアでの市民権はもとより政治的にも宗教的にも最大限の自由が与えられていました。

 世界史的な事件が起こったのはセレウコス朝第六代目、アンティオコス三世のときです。アンティオコス三世はパレスチナ支配を開始します。このときの業績のためにアンティオコス三世はアンティオコス大王と呼ばれます。セレウコス朝中興の祖です。

 そのためこの地域の覇権を握るためにエジプトのプトレマイオス四世、五世と戦います。戦いの結果はアンティオコスの勝利に終わりますが、その後プトレマイオス五世と友好条約を結び、なぜかアンティオコスは娘のクレオパトラをプトレマイオス五世に嫁がせます。

 そして娘の持参金として占領したコイレ・シリア、サマリア、ユダヤ、フェニキアをエジプトに与えてしまいます。

 そしてこの地域の貢納金目当てに徴税権の入札が行われ、あのトビアス家のヨセポスの話になるわけです。

 こうしてユダヤはエジプトのプトレマイオス朝の属国として繁栄し、平和を享受していきます。

オニアス三世登場

 そうした中でオニアス三世が登場します。トビアス家のヨセポスのところで登場したオニアス二世(これが歴史的に本当に確定できるユダヤ人の王、大祭司だと私鴨川は主張しておきます)を継いだのがシモン二世といって、これには三人の子供がいました。その中の一人が正統としてのオニアスを名乗り、大祭司になります。

 エジプトのプトレマイオス五世といいセレウコス三世といい超がつくほどに親ユダヤ的で、両国王はともに仲がよかった。

 その中でオニアス三世はこれまでの伝統どおりにプトレマイオス寄りの外交政策を採り、ユダヤ的伝統のために努力をした王でした。

 ところが新たにアンティオコス四世エピファネスがシリア王になると、親エジプト的なオニアス三世は無理やりに退位させられ、兄弟のジェイソン(ヤソン)が大祭司に就かされました。

 ジェイソンは親ギリシャ的な最初の大祭司となり、ギリシャ的政治支配のさきがけとなりました。

 オニアス三世はというと、息子の四世とともにエジプトに逃れていきます。エジプトでは厚遇されるのですが、この顛末は後で述べます。
しかしジェイソンは自分を大司祭にしてもらった新たなシリア王エピファネスになぜか嫌われてしまい、同じオニアス三世のもう一人の兄弟で、よりギリシャ志向の強いメネラオスにとって代えられてしまいます。

 なぜジェイソンが王の不興を買ったのかはわかりません。ただこの人はギリシャ的なユダヤ人であったにもかかわらず、大衆に人気がありました。

 不穏な空気がただよう中、アンティオコス・エピファネスは対外積極行動を起こします。とはいっても、彼はそもそもユダヤに領土的な関心があったわけではなかったようです。

 そしてなぜこの男が狂信的なほどギリシャ好きだったのかもわかりませんが、その影響力は強く、ユダヤの中にも改革派というのが現れて、彼らが自らギリシャ化、ギリシャ好きとなって、エピファネスに協力することになります。

 エピファネスは、もともと先代から友好的であった国にもかかわらずエジプトに対して野心を示し遠征を開始します。先代から仲のよかった、あのトビアス家のヨセポスが仕えたプトレマイオス五世はすでに亡くなっていて、プトレマイオス六世フィロメトルと戦い、勝ってしまいます。

 しかし、このときエピファネスはエジプトから跡形もなく追い立てられてしまいます。それは当時勢力を増しつつあった新興国ローマによってエジプトから手を引くように命じられたからです。

 後の歴史が証明するように、地中海派遣を狙っていたローマはエジプトに野心がありました。

 ローマを恐れていたエピファネスはエジプトをあきらめ、帰途ユダヤに向かいます。これが第二回ユダヤ遠征(前一九六年)といわれています。

 そしてその二年後、エピファネスは本格的にエルサレムの占領に乗り出します。

 なぜエピファネスがユダヤに興味を抱き始めたのか。それは新しく大祭司になったメネラオスがエルサレム神殿に山と積まれた財宝をシリアの宮廷にばらしてしまったからです。

 そしてこのメネラウスを担ぎだしたのはどうやらあのヨセポスのトビアス家だったようです。このときはもうヨセポスは死んでいていません。

 神殿の財宝をなぜトビアス家が外国に対して明らかに出来たのかはもう皆さんご存知になれるかと思います。

 そして神殿の財宝はたとえ周辺諸国から略取したものであっても国家の資産であることに変わりありません。この財宝を大きくしたのはヨセポスであり、彼がこのユダヤ最初の国家的繁栄のもとを築いたのです。

 一部の金融エリーティストのオリーガーキー支配による国であったとはいえ、国家的繁栄のもとである貴重な資産であったのです。

 このときユダヤの中ではシヴィル・ウォー、内戦が起こります。

 ユダヤ人、ギリシャ人の両大衆に支持されたジェイソン派と、富裕な貴族、トビアス家の担いだメネラオス派の争いが起こります。

 ただしこの両派はともにギリシャ的ユダヤ人で改革派にあたります。この改革派というのが何なのかはっきりしませんが、ギリシャ語とギリシャの神々とギリシャ競技を取り入れたい人々のことだといっていいようです。ですからここに信仰や宗教の要素は非常に薄い。あくまで政治、権力レベルの争いです。

 律法にもとづいた生き方に従っている保守派はこの場合かやの外です。

 一時、大司祭になったジェイソンは、シリア王エピファネスのエルサレム攻撃の間隙をぬってエルサレムに返り咲きます。このとき彼は大衆の歓声に迎えられます。

 一方のメネラウス、トビアス一派はアンティオコス・エピファネスのもとに赴き、完全にギリシャ人になりきることを約束した上で力を借り、アンティオコスは刺客を放ってジェイソンを暗殺してしまいます。

 このことを大衆は非常に悲しがったようで、それほどなぜかジェイソンは人気がありました。ギリシャ人にもユダヤ人にも人気がありました。なぜだか理由は全くわかりません。

 ジェイソンはヨセフスの『ユダヤ古代誌』の中ではイエススと書かれています。ジェイソンという名前は彼自身が自分をそう呼んでいた名前で、本名はイエスス、イエス、ジョシュアなのです。『ユダヤ古代誌』つまり紀元前後のパレスチナの歴史に出てくるイエスはジェイソンなのです。

 そして殉教というものがこのとき始まります(Encyclopedia Britannica: Judaism)。

 メネラオス派、つまり内部協力者によって扉を内側から開けられたエルサレムはたちまちのうちに占領されてしまいます。

 このときのエピファネスの司令官たちのやり方、略奪が余りにも苛烈であり、後の大事件の引き金となります。

 シリア軍はエルサレムの城壁を破壊し、彼らに抵抗するものを手当たり次第に殺していきます。そして神殿の財宝を目の当たりにすると、彼らの協力者さえも殺してしまい、財宝を略奪、つまりエジプトの庇護のもとに利殖を極めた最後の国家資産を奪われてしまいます。

 オニアス三世はこのことをわかっていたのでしょう。先のわからないシリアに協力するよりも、より信頼関係を築けるエジプトの下で国家が繁栄していくほうがより正しい道であるということを国家の長としてわかっていた。トビアス家が集めた国家資産が奪われる危険も知っていて、シリアに近づかなかった。

 ヨセポスがいかに残酷な手段で周辺諸国から集金したものであるとしても、国家としてのユダヤは潤い、ユダヤ民衆も潤っていました。地域での金融覇権国として安定した日々を送っていたのです。

 シリア軍は神殿を略奪した後、神殿を見下ろせる場所に堅牢な要塞を作って守備隊を置きます。

 そして、アンティオコス・エピファネスはユダヤ人の律法を停止し、神への生け贄をささげること、ユダヤの習慣を行なうことを禁止します。さらにこともあろうにエルサレムの祭壇で豚を殺し、ゼウスの像を建てさせてしまいます。

 この神殿と祖国の習慣の侮辱が多くのユダヤ人の反感を買い、ある者は従ったが、多くのユダヤ人が抵抗したためひどいやり方で虐殺されてゆきます。

 十字架が登場するのもこのときで、殉教というものが登場したのもこのときです。その先駆けが先ほどのジェイソン=イエスス、イエスだったということになるのです。

(つづく)