「0041」 論文 真のユダヤ史 ジューダス・マカバイオス―真のユダヤ人民衆による愛国的独立戦争物語(2) 鴨川光筆 2009年8月17日

 

ジューダス・マカバイオス登場―“ジューダス・ザ・ハマー”

 さあいよいよジューダス・マカバイオスの登場です。  

 ホメロス(Homeros)やヴェルギリウス(Vergilius)、ミルトン(Milton)がその叙事詩の中で必ず「歌え!ヘヴンリー・ミューズ!」と叫んで、詩を始めていた気持ちが今の私にははっきりわかります。

 そんな少し韻文的な気持ちを込めて、古代のある時代に生きた父子と、全世界の善良なユダヤ人にこの文章を捧げたいと思います。

 アンティオコス・エピファネス(Antiochos IV Epiphanes)の軍隊や役人たちが、エルサレムや各地で行った暴虐な仕打ちは、その土地の善良で、人々から信頼されている人や、高貴な精神をもった人々の怒りに満ちた抵抗精神を日に日に高めていくことになりました。

 そんな最中、モディン(モダイス)という村に、マティアス(Matthias)という年老いたプリースト、祭司がいました。マティアスは日々伝わってくるエルサレム(Jerusalem)の惨状を深く悲しみ、「汚辱にまみれて生きるより、祖国のために死んだほうがよい」と五人の息子たちに言い聞かせておりました。この五人の息子たちがこの稿の主人公です。

マティアス

 その中でもジューダス、ジューダス・マカバイオス(Judas Maccabaeus)とジョナサン(Jonathan)、サイモン(Simon)の三兄弟が力を合わせて、シリアの強大な軍隊に素手で抵抗していくのです。

 モディンの村にアンティオコス・エピファネスの命令を執行するため、役人と軍隊がやってきました。そのときの顛末はフラウィウス・ヨセフスとその名訳文の方が皆さんの耳によく届くことでしょう。

(引用開始)

 ところがたまたま王の命令をユダヤ人に強制するため、王から任命された役人たちがモダイスの村へやって来て、住民に命令どおりの方法で、犠牲をささげるようにと命令した。

 そしてマッティアスが、いろいろな点、とくにすぐれた子供たちを持っていることで一般から尊敬されていたので、役人たちは、まず、彼に最初の犠牲を捧げるように進め、こう言った。「もしおまえが犠牲を捧げれば他の村民もおまえにつづくであろう。そうすれば、おまえは王から名誉をあたえられることになろう」と。

 しかし、マッティアスは、「たとえ他の人びとが、恐怖心やご機嫌とりのために、アンティオコスの命令にしたがっても、自分と息子たちが、先祖伝来の礼拝のやり方を捨てるようなことはけっしてしない」と言ってそれを拒絶した。

 彼が話し終えたとき、一人のユダヤ人が進み出て、人々の中央で、アンティオコスの命令どおりに犠牲を捧げた。これを見たマッティアスは、怒りに燃え、幅広の短剣をもった息子たちとともにその男に襲いかかってこれを切り捨てると、彼らに犠牲を強要した王の将軍アペレスを、彼の連れてきた少数の兵士ともども殺してしまった。

 そして彼は、異教の祭壇を覆すと、大声で叫んだ。

 「祖国の習慣を守る熱意をもち、神の礼拝を守ることに熱心な者は、わたしの後にしたがえ」と。

 彼は、こう言い終えると、全財産を村に残したまま、息子たちとともに荒野にはいって行った。他の多くの人びとも、彼と同じ行動を取り、妻子を連れて荒野に逃れ、そこの洞穴で生活をはじめた。

 王の将軍たちはこれを聞くと、そのときエルサレムの要塞内にいた兵士をできるだけ多くくり出して、これらのユダヤ人を荒野の中に追いもとめた。

 そして、彼らに追いつくと、悔い改めて彼ら自身の利益になる途を選び取るように、また自分たちが、戦争の法にしたがって、彼らを取り扱う必要のないようにしてほしい、と説得につとめた。

 しかし、ユダヤ人は、その言葉を受け入れるどころか敵意さえ示したので、兵士たちは安息日を選んで攻撃を加え、洞穴にいる彼らを焼き殺した。というのは、彼らは、安息日には反抗どころか、洞穴の入り口を塞ぐことすらしなかったからである。すなわち、律法が彼らにその日に安息していることを要求しているため、彼らは、どのような困難な立場におかれても、この安息日の権威を破ることは希望せず、その日には、敵に反抗することさえ慎んだのである。

 こうして約一〇〇〇名の人びとが、妻子ともども洞穴内で窒息死したが、多くの者は、マッティアスのもとへ逃げ、彼を自分たちの指導者に選んだ。

 そこでマッティアスは、安息日といえども敵と戦うべきであると彼らに教え、もし律法を厳守するあまりその日に戦いを放棄するなら、それは、自分自身を敵にまわすに等しい行為といえる。なぜなら、自分たちの敵は、その日だけを選んで攻撃を加えてくるのに、抵抗しないならば、自分たちは全員、戦わずして絶滅してしまうより仕方がないではないか、と説明した。

 マッティアスは、こう言って彼らを納得させたが、わたしたちの間では、以後今日にいたるまで、もし必要とあれば、安息日といえども武器を取ることにしている。

 さて、こうしてマッティアスは、自分の周囲に大きな兵力を集め、異教の祭壇をことごとく引き倒し、罪を犯したユダヤ人を捕らえればすべて殺した―彼らの多くは、マッティアスに対する警戒心から、近隣の民族の中にまぎれこんでいた―。(『ユダヤ古代誌』第四巻八二ページ―八四ページ)

(引用終わり)

 このような劇画、映画のようなことが本当に起こったのか、と思えるほど実に生々しい描写で、この後、三男のサイモンが父の遺志を継ぐまで血沸き肉踊るような事件が続きます。どのユダヤ本を見てもこの反乱のことは実に生き生きとした、事件を活写した描写ばかりです。

 マティアスは一年間、この本当の民衆ゲリラを率いた後病死します。そして五人の息子たちにこういい残します。

(引用開始)

 息子たちよ。

 私の生命はまさに終わろうとしているが、わたしの精神だけは残していく。

 どうかおまえたちは、それを大切に守る立派な番人となり、おまえたちを生み、おまえたちを育てた人の目指したことを片時も忘れることなく、祖国の習慣を守りぬき、いまや死滅の危機にある古くからの統治形態を再建してほしい。

 また、自分の意思であれ、他から強制されてであれ、律法や祖国を裏切るものの肩を持つことはかりそめにもしてはならない。

 さらに、お前たちは、わたしの息子たるにふさわしい立派な人間として、どのような権力や強制にも屈せず、必要とあれば、律法のためにいつでも死ぬ覚悟を持ってほしい。

 そして、おまえたちがそのような気持ちでいれば、それを見ておられる神はおまえたちを忘れ給うようなことはなさらず、お前たちの立派な行為をめでられて、お前たちの失ったものを返して下さるであろう。また、お前たちがだれをも恐れず、お前たち自身の慣習を尊重しながら暮らしていける自由を、おまえたちに取り戻して下さるであろう。

 たとえ、わたしたちの肉体は死すべき運命にあっても、わたしたちの行為を人びとの記憶の中に残すことによって、わたしたちは、不死の高みにまで達することができる。わたしがおまえたちに望むのは、おまえたちが常にこのことを脳裏におき、無上の光栄と最大の困難をもとめて、よし自分の生命を失うことがあってもけっしてたじろがない、ということである。……(中略)

 おまえたちは、勇気と力のあるマッカバイオスをおまえたちの軍の指揮官としなさい。彼は、わたしたちユダヤ民族の復讐をとげ、敵を処罰するだろう。しかし、軍を、公正で敬虔なものとしなさい。そうすれば、お前たちの威力は増すだろう。(『ユダヤ古代誌』八五―八六ページ)

(引用終わり)

 私はこの名訳文を読んだとき、子供のときによく見た八犬伝とか真田十勇士、忠臣蔵とかの数々のあだ討ち物語を思い出しました。実に私たちの心情に訴える訳文で、この訳者も、やはり古い人情的なもので育っているから、実に筆が乗っている感じがします。

 兄弟や僕たちのいわゆる仇討ちの原型、プロトタイプ(prototype)というのはこのマカバイオス戦争(マカベアの反乱、マカービアン・リヴォルト、Maccabean Revolt)なのではないか、そう今思っています。

 そうです、この戦いは「マカバイオスの戦い」といいます。

 紀元前一六八年、長男のジューダス・マカバイオスがマティアスの指揮権を引き継ぐのです。

ジューダス・マカバイオス

 長男ジューダスはその勇猛果敢な性格から、マカバイオス(マカビー、マカベアともいいます)、鍛冶屋とか鎚という意味のあだ名で呼ばれていました。でもこれでは何のことだかわかりません。

 実はマカバイオスというのはハマカバイオスといってハンマー(hammer)のことです。ジューダス・ザ・ハマー(ハンマー)(Judas the Hammer)ということです。

 私鴨川光はジューダスに世界で初めてこの名前をつけて今この世の中に復活させます。ジューダ・ザ・ハンマーといっているのはありますが、ジューダス・ザ・ハマーは私の命名です。

 ああ、ようやくわかった。有名なイギリスのジューダス・プリースト(Judas Priest)というグループはこのジューダス・マカバイオスのことをいっているのです。

ジューダス・プリースト

 彼らの出世作『スクーリーミン・フォー・ヴェンジェンス(Screaming for Vengeance)』というアルバムは一九八二年にリリースされましたが、まさにマカバイオス戦争の復讐戦、復讐の雄叫びのことを言っているのです。冒頭のヘリオンという曲を聴いてみてください。

http://www.youtube.com/watch?v=il1etwBDCIs
Judas Priest - The Hellion/Electric Eye - Riding on the Wind

 この曲に表されたように、まさに力強く、尖った、熱い戦いの火蓋が今斬って落とされたのです。

 ジューダスたちの支持層、というより共に戦った人々は、農民と都市に住む一般住民でした。これに対してシリアの影響下にあったギリシャ化したユダヤ人、ヘレナイザーズ(Hellenizers)は富裕な都市市民でした。要するにトビアス家らの金融エリーティストのことです。

 エリート(elite)ではありません。エリーティスト(elitist)です。エリートというのは官僚や学者のトップにもいわれますが、貧乏な芸術家であれ、本当に才能のある人間のことをいいます。ゴッホも諸葛孔明もエリートといいます。

 私の今いっているのはエリーティストといって一部の超然した人間たちのことです。彼らは法の外にいることを旨としているので必然的にオリーガーキーを意味するのです。エリートと混同してはいけません。

 ジューダスらはこうした人間たちの住むパレスチナのギリシャ化都市に容赦のない攻撃を加えていくのですが、これは彼らの文化、宗教的な理由からのものではなく、政治的理由からのものだったとエンサイクロペイディア・ブリタニカにあります。

 ジューダスらは一人一人の人間としての力を賭して戦った、というのが本当で、決してトーラー(Torah)、彼らの律法の力を借りて戦ったわけではありませんでした。

 律法の力、信仰の力、ヤーウェの力といった宗教的理由の戦いではなく、純粋に人間として、政治的、愛国的な理由から、自らの「民族、文化、伝統」といった素朴なアイデンティティを守る戦いだったというのが彼らの本当の姿です。

 このことははっきりしています。偶像を崇拝する異教のユダヤ人たちもジューダス側に立って戦ったという証拠があるからです(エンサイクロペイディア・ブリタニカより)。

 実はこのときスパルタ(Sparta)やローマ(Rome)が協力を打診してきたという事実もあり、オリエントの国際関係が、ギリシャ的シリアの覇権(hegemony)からローマへとパラダイム(paradigm)が移行している最中の出来事でもあったのです。歴史のターニング・ポイントに位置する重要な戦いであったということもいえるでしょう。

 虫けら、アリのようなユダヤの民衆が自らの意思で抵抗し、反乱を起こしたということの重大さを知ったアンティオコスは激怒し、政務代行者としてリュシアス(Lysias)という者を派遣します。

 そしてリュシアスの率いる数万の敵の精鋭を見たジューダスは兵士たちを励まし、鼓舞します。

(引用開始)

 同士よ。

 おまえたちにとって、今ほど勇気と危険の蔑視を必要とするときはない。

 なぜなら、今おまえたちが勇敢に戦えば、おまえたちは、それ自体万人に愛されている自由を回復しうるばかりか、おまえたちが望んでいる、神に崇敬を捧げる権利すら与えられるからである。

 すなわち、おまえたちがこの自由を回復し、幸福で祝福された生活を取り戻すか―彼が言おうとしたのは、立法と父祖の習慣に合致した生活のことである―あるいは、卑怯未練な戦いの後に、恥ずべき運命を甘受して、おまえたちの民族の子孫を根絶やしにするか、それは、現在のおまえたち自身にかかっている。だから、どうか奮いたってもらいたい。

 ここで戦わぬ者もやがては死ぬべき運命にあるということを心に銘記してほしい。そして、もしおまえたちが、自由、祖国、律法、宗教等の貴い目的のために死ぬのならば、おまえたちは永遠の栄光を獲得することになるということを堅く信じてもらいたい。

 では、戦う準備をして、それぞれの決意を固めよう。

 明け方には、もう敵と向かい合っているのだ。(『ユダヤ古代誌』九〇―九一ページ)

(引用終わり)

 こうしてジューダスは粗末な装備で兵を率い、敵の不意をつく奇襲攻撃を仕掛け、敵を敗走させます。そしてアンティオコスの将軍たちを何度も打ち破り、ついにエルサレムに凱旋します。

 しかし、エルサレムに着いてみると、神殿の荒れ果てた姿に心を痛め、神殿を徹底的に再建し、清めつくします。

(引用開始)

 彼は、神殿を注意深く清め終えると、新しい漆器類 什器類―すべてが黄金でできた燭台、テーブル、祭壇等―を運び入れ、扉に幕を吊るし、扉自体も取り換えた。彼はまた、汚された燔祭用の祭壇を取り壊し、鉄で刻まれていない、自然石でできた新しい燔祭をたてた。そして、人びとは、マケドニア人がアペライオスと呼ぶキスレブの月の二五日に、燭台の灯をともし、祭壇に香をたき、テーブルにパンを供え、新しい祭壇にすべての燔祭を捧げた。(中略)

 そこでユダス(鴨川注記:ジューダスのこと)は、神殿の犠牲の再奉献を八日間にわたり、同胞の市民とともに祝った。

 彼は、楽しい行事は何ひとつ省かず、人びとに高価で素敵な犠牲をふるまい、頌歌とハープの演奏で神を讃えて人びとを喜ばせた。

 彼らの慣習の復活があまりにも楽しく、しかも長い中断の後、意外にも自分たちの手で礼拝を守り権利を得たというので、彼らは、今後子孫たちは神殿での礼拝の復活を毎年八日間にわたって祝う、という規則をつくった。(『ユダヤ古代誌』九四―九五ページ)

(引用終わり)

 この祭りはハヌカの祭り(Hanukkah)といって現代に伝わっています。

 どうでしょう。自分たちのあるべき生活を取り戻したユダヤ人たちの喜びが生き生きと伝わってきませんか。

 暗く、複雑で、面倒くさいイメージの現在のユダヤ人とはぜんぜん違っています。祖国のために勇敢に戦い、健全な明るさ、素朴さに満ちた本当の普通の姿をしたユダヤ人が目に浮かびます。

 この後、ジューダスとその兄弟は各地でアンティオコスの軍隊を打ち破ってその名声は高まり、彼の軍隊は強大になって行きました。

 この報告を聞いて、アンティオコスは病気となり、紀元前一六四年。失意のうちに没します。

 息子のアンティオコス五世ユーパトル(Antiochus V Eupator)がこれを引き継ぎ、リュシアスとともにエルサレムへの攻撃を行なって、長期にわたる神殿での篭城戦が始まりました。

 しかし、シリア国内での政情不安の一報を受け、ジューダスと講和を結んで本国へ引き返すことになります。

 もともとシリア王ユーパトルは父のエピファネス同様、ユダヤ律法の停止にも、領土にももともと関心を持っていませんでした。彼らの目的はあくまでもエジプトでした。

 そしてことの元凶はメネラオス(Menelaos)であったことに気づき、ジューダスたちと取引をします。メネラオスさえ殺せばシリア王に反乱を起こす意思はないというジューダスたちの主張を聞き入れ、メネラオスをシリアに連れ帰って処刑します。

 しかしその後を受けて大祭司に選ばれたのはアルキモス(Alcimus)という男でした。アルキモスは大祭司の家系ではありませんでした。しかもこの男はシリア王ユーパトルによって選ばれたのです。ですから、ユダヤはまだこのころシリアの属国に過ぎませんでした。この時点ではユダヤ人たちは律法の自由を認められただけです。

 また、この報を受けて、本来の大祭司オニアス三世の子、オニアス四世は立場をなくします。

 オニアス四世は、マカバイオスらが勝った暁には当然自分に祭司の地位が戻ってくると思っていたので、がっくりときたようです。彼はジューダスの率いるナショナル・パーティーの勝利を望んでいたので、そのショックは相当大きかったのでしょう。(Jewish Encyclopedia: Onias III)

 それにしてもオニアス三世と四世の立場というのがよくわかりません。彼ら二人はとにかく反シリアであり、それもエピファネスのギリシャ的シリアに抵抗していたことは確かです。

 やはり国家資産に目をつけたシリアに脅威を覚え、エジプトのもとで国の財産を守っていくことが得策であること、そのために、国のために反乱を起こす者に対し、同じ国家とジューダイズムの意識の点で、共感、エンパシー(empathy)を持っていたのでしょう。

 オニアス四世はエジプトのプトレマイオス六世のもとを訪れ、王妃クレオパトラ三世から、レオントポリスという土地を賜ってそこに神殿を作り、政治亡命、ポリティカル・アサイラム(political asylum)といいますが、政治的にはそういう立場でエジプトに受け入れてもらいました。

 この土地はナイル・デルタ、三角洲地帯にあり、昔から数多くのユダヤ人が住んでいました。

 オニアスのこの神殿内では生け贄、サクリファイスがささげられていて、これをさしてジューウィッシュ・エンサイクロペイディアのザ・ランド・オブ・オニアスの項ではカルト(cult)と書かれています。ヘリオポリスはザ・ランド・オブ・オニアスと呼ばれるようになりました。

 一方シリアではデメトリウス(Demetrius)という男が国を乗っ取り、ユーパトルとリュシアスを殺してしまいます。デメトリウスはセレウコス四世フィロパトルの子なのですが、ということはエピファネスの兄弟であり、現王ユーパトルのおじに当たります。

 この男の下にユダヤの改革派、つまりオニアス家を裏切ったトビアス家を中心とした富裕な都市住民たちと、彼らによって新しく祭司にしてもらったアルキモスがやってきて、ジューダスら兄弟たちの所業をデメトリウスに訴えにいきます。

 怒った新王デメトリウスは新たにバッキデス(Bacchides)という将軍を送り込みました。しかし、このときの戦いでもジューダスは大勝利を収め、アルキモスも死んでしまいます。

 そしてようやく本当のユダヤの人々はジューダスに自分たちの大祭司の職を与えます。

 この大祭司の職はシリアやエジプトに認められたものではありませんでした。ユダヤ民衆の自発的行為として我らがジューダスに贈られたものなのです。

 それでもこのとき、唯一ジューダスとその兄弟と国であるユダヤを認めた国がありました。

 ジューダスはこのときローマ人が強大な軍事力を持っていることを知り、小アジア(アジア・マイナー、Asia Minorといいます)、イベリア(Iberia)、カルタゴ(Carthage)、ギリシャ(Greece)、マケドニア(Macedonia)を制圧したということを耳にしました。地中海のほとんどを勢力圏に収めたのです。

 そこでジューダスはローマに使者を送って、ローマの元老院(セナト、セネターズ、Senates)とユダヤとの間で、友好同盟条約を結びました。

(引用開始)

 ユダヤ国民との友好同盟条約に関する元老院の法令。

 ローマ人の支配下にある者は、何びとといえど、ユダヤ国民に戦争をいどんではならず、またユダヤ民族と交戦中の者に、穀物、船舶および財貨を供給してはならない。

 さらに、もしユダヤ人に攻撃を加える者があれば、ローマ人は、できるかぎりの援助をユダヤ人に与えるであろう。またローマ人を攻撃する者があれば、ユダヤ人は、ローマ人にたいし同盟国としてのいっさいの支援を送るであろう。

 なお、ユダヤ国民がこの同盟条約にたいし追加または削除を望む事項があれば、それはローマ市民と協議の後、両者の意見の一致をまってなされるが、いかなる追加が行われても、それは有効である。(『ユダヤ古代誌』一一八ページ)

(引用終わり)

 なんとなく日英同盟を思い出だしてしまいますが、典型的な同盟条約です。当時のローマはカルタゴを消滅させ、地中海、つまりイタリア半島からエーゲ海の覇権を確立していました。

 その結果、残りはエジプトということになるわけですが、そこにいくまでの陸路の要衝であったパレスチナに新国家を育てて、暴れ者のシリア・セレウコス朝を抑えようとしたのでしょう。

 事実この後の歴史はそのとおりに進んでいきます。エジプトはアウグストゥス(Augustus)によって倒され、ユダヤはこの三〇年後ローマ自身の手によって滅ぼされます。

 このときのユダヤは新たな覇権国ローマの世界戦略の中に位置づけられたのです。彼らは新たなパラダイム・シフト(paradigm shift)の時代の只中、小さな船を漕ぎ出したのです。

 ジューダスらの戦いは、ユダヤ国家の世界デビュー(debut)でした。

 ジューダスはこのあとほんの少数の軍勢を率いてバッキデスと一戦を交える羽目になり、ついにやられてしまいます。

弟のジョナサンはジューダスの遺体を敵から引き取り、故郷のモディンに葬ります。「彼の死を痛む人々の嘆きは長く続き、また慣例に従って公的な栄誉が与えられ」ました。(『ユダヤ古代誌』一二二ページ)

ユダヤはこのあとバッキデスによって再びマケドニア(つまりギリシャ人、セレウコス朝シリア)に支配を受けます。そこでジューダスの同志は弟のジョナサンのもとへやってきてこういいます。

(引用開始)

 ところでバッキデスは、こうした祖国の慣習を捨てた民族の生活様式を選んだ連中を集めて、彼らにユダヤの国の管理を任したのである。(鴨川注記:つまり祖国を裏切ったユダヤ人でシリア側に寝返ったやつら。改革派ユダヤ人。トビアス家。)

 そうなると、彼らは、ユダスの友人や同調者を捕らえてきては、バッキデスに引き渡した。バッキデスは、彼らに拷問などの責め苦を課してさんざんに慰んだ末、最後には殺してしまった。

 バビロン帰還以来、かつて経験したことのないこのような大苦難に見舞われ、同胞が悲惨な姿で次々に滅んでいくのを見たユダスの同胞は、彼の弟のヨナテス(鴨川注記:ジョナサンのこと)のもとへやってきた。そして、つねに同胞のことを念頭に置いて戦い、最後には彼らの自由のために死んだ彼の兄のように、彼も行動を起こし、特に今のような破滅的な状況に置かれているこの国民を、指導者なしで見殺しにしたりはしないでくれ、と懇願した。(『ユダヤ古代誌』一二五―一二六ページ)

(引用終わり)

 ジョナサンもこう応えます。

「人々のために自分もまた命を捨てる覚悟がある。」

 この言葉を受けて人々はジョナサンを新しいユダヤの指導者に任命しました。

ジョナサン・マカバイオス

 そして、ジョナサンも剣を取り、トランス・ヨルダン(Trans Jordan)に居を構え、数々の奇襲攻撃によって敵を打ち破り始めます。このとき同じ兄弟のヨアンネスが殺されたことを含め、数々の復讐戦、あだ討ちを兄に勝る勇敢さで戦い、勝利を収めるのです。

 このころシリアではデメトリウスとエピファネスの子アレクサンドロス・バラス(Alexander Balas)との内戦が始まり、再び内戦状態になります。

 ジョナサンはその数々の武勲のために名声が高まり、今度はデメトリウスとアレクサンドロス・バラスの両方から友好を持ちかけられて、綱引き時状態となります。

 まことに国際関係とは、リアル・ポリティーク(real politik)、二〇世紀の初頭にバランス・オブ・パワー(balance of power)と呼ばれた力関係で動くものだと実感できるのではないでしょうか。このときのパレスチナ情勢もこうした現実の力関係で動いていたのです。国際関係学、インターナショナル・リレイションズ(International Relations)の模範的教材といえるでしょう。

 シリア内戦はアレクサンドロス・バラスの勝利に終わり、バラスはエジプトと友好を結んで、一時的に平和が訪れます。

 ジョナサンは、紀元前一五二年、エルサレムの神殿で初めて大祭司の職務を行い、事実上シリアとエジプトに大祭司として認めさせることに成功しました。

 こうしてアルキモス死後しばらく空席であった大祭司職に、正式にハスモン家から大祭司が登場したのです。

 このあとエジプトとシリアは再び戦争状態となり、両王はこのときに死んでしまいます。

 シリアの新王デメトリウス二世は、ジョナサンにシリアの宗主権を認めさせた上で、ジョナサンとユダヤの正統、ソーヴリィンティを認めます。

 さらにジョナサンはローマとの同盟を再確認し、ラケダイモーン、つまりギリシャの最強国スパルタとも新たに友好条約を固め、国家安定の礎を築きます。スパルタはオニアス三世のときにすでに友好同盟を打診してきていました。

 スパルタは紀元前五世紀にギリシャの盟主であったアテネを破り、ギリシャでの覇権を確立したのですが、その後はアレクサンダーを生み出したマケドニアに覇権を奪われ、常に反マケドニアの姿勢を貫いていました。セレウコス朝シリアもプトレマイオス朝エジプトもマケドニア人です。ですからヘレニズムというのも本当はマケドニアニズムといったほうがいいのでしょう。このことは後に詳説します。

 ジョナサンはデメトリウスの武将トリュフォンの計略にかかり、捕らえられて殺されてしまいます。

 そして、ハスモン家の最後の生き残りとなったサイモンが立ち上がります。

 サイモンはジョナサンの死によって意気阻喪している人々を二人に勝るとも劣らない名演説を行い、民衆を鼓舞しました。

 エルサレムはといえばエピファネスの占領以来常に脅威にさらされていました。それはエルサレムの神殿を見下ろせる高地にシリア軍が堅牢な要塞を作っており、そこに守備隊を置き、さらに同じユダヤの同胞でありながら国を売った裏切り者の立場の人間たち、アルキモスやメネラウスらを支持したトビアス家ら改革派がそこに出入りしており、常にシリアに内情が監視されていたのです。

 そこでサイモンはこの要塞を包囲攻撃の末に占領し、徹底的に破壊した後、その高台も平らにならしてしまいました。これは三年もの歳月がかかったのですが、それほどにこの山はエルサレムの脅威になっていたのです。実はこれがあの有名なシオンの丘なのです。

 サイモンは紀元前一四〇年、神殿内の集会にて大祭司、王、軍の指導者の三権の長に正式に任命されます。シリアに貢納する義務からも解放され、ここについにユダヤ人たちの王国が正式に独立国と認められたのです。

 それはジューダスたちの父マティアスが最初に剣をとってから二六年の歳月が過ぎていました。ここに一民衆の力によって打ち立てられた国家でありながら、大祭司が政治と軍の長となるという、真のシオークラシー、真の神聖政体国家が誕生したのです。

 サイモンの後半生はローマとの同盟もあって平和なものになりましたが、女婿の陰謀にかかって暗殺されてしまいます。

 そして世襲となった大祭司を継いだのは、三番目の息子ジョン・ヒュルカノスでした。サイモンの死は自由の回復のために戦った本当のハスモン家の終焉を意味していました。

 

ジョン・ヒュルカノス―ユダヤ国家の終焉

 ああ疲れた。ここからはあまり書きたくないような、魅力のない話ばかりです・・・。

 やっとできたばかりの国家が内部分裂を起こし、大きな国に飲み込まれて消えてゆく姿を書かなくてはなりません。つまらないので、ざーっと事実を書いていきたいと思います。

 サイモンの息子ジョン(ヨアンネス)・ヒュルカノスは紀元前一三五年、大祭司となります。このときのシリア王はアンティオコス七世シテデスという人で、ヒュルカノスは彼と取引をし、シリアのユダヤに対する宗主権を認めた上で、ローマとのバランスを取って平和を享受します。

 そしてシテデスが死ぬとセレウコス朝は解体に向かい、ローマの属州への道を進みます。

 ヒュルカノスはといえば安心して領土拡大政策を採り、周辺の国エドム(イドマヤ)、アンマン、サマリアなどを次々と征服し、ユダヤ教を強制します。

 シリアのくびきが永遠に取れたユダヤ国家は、ヨルダン川東岸にまで領土を拡張し、パレスチナの地域覇権国への道を歩んで行きます。このヒュルカノスから二代後のヤンナイオスまでが史上唯一存在したユダヤ国家の最盛期だったのです。

 この平和の時代は、内紛の時代です。サドカイ派とパリサイ派という、いわば平信徒、レイマン(layman)で学生、学者たち、平信徒の権力闘争の時代でした。ハスモン王国はこの権力闘争によって基盤が揺らぎ崩壊してゆきます。それが亡国への道となるのです。

 まずヒュルカノスの時代に勢力を振るったのはサドカイ派、サデューシーズ(Sadducees)でした。

 サドカイという名前は聖書の中の王国ダビデの王国、ディヴィッド・キングダムで最初の祭司に任命されたオニアス家の先祖ザドク(ツァドクともいいます)にちなんでいます。つまりザドク、ユダヤ正統派の流れであると主張する一派です。

 だから政治的には政教一致の神聖国家(その実態は金融エリーティストのオリーガーキーですが)を目指すわけです。

 もともとオニアス家に由来を求めているので、大祭司制度を支持します。神殿、テンプル維持を主張します。その点で保守派とも言えるでしょう。大土地所有者で司祭の家系のもので構成されています。

 パリサイ派、パリッシーズ(Pharisees)は改革派で、政教分離主義者、セパラティスト(Separatist)という意味です。現代に通じるリベラルの最初の人々で、自然法学者レオ・シュトラウス(Leo Strauss)に通じています。

 ブリタニカにはノーマティヴなユダヤ人であるといういいかたをしていますが、これがよくわかりません。ノーマティヴ(normative)とは規範を自ら作って生活する標準的ユダヤ人という意味でしょう。しかしこの説、今はあまり支持されていないようです。

 しかし、紀元後七〇年にユダヤ戦争というローマに対する戦争が起こるのですが、それ以降このパリサイ人はまさに今に続く標準的なユダヤ人となります。このことはラビのユダヤ人を書く際に詳しく述べます。

 サドカイ派がオニアス家のザドクから続くユダヤ正統派の大祭司の流れを汲むのに対して、パリサイ派は学者、翻訳・注釈者、読み聞かせ人の流れを汲みます。聖書の中ではエズラがその最初に当たります。

 エズラは聖書の中の預言者列伝の最後あたりに出てくる人ですが、預言者ではありません。エリヤとかエゼキエルは預言者、ナービーですがエズラはそうではありません。ザドクのような大祭司でもありません。ペルシャのキュロス王の時代の人ですから実在の可能性もほかに比べたら高い。

 エズラは普通の人々、平信徒、ロッジ、集会所に集う人々の代表です。(ちなみにブッダは『スッタニパータ(Sutta Nipata)』のなかで集会に集う人を否定しています。)

 ですからこの集う人々、パリサイ人が後にシナゴーグを作るのです。シナゴーグ(synagogue)は寺院ではありません。聖所、サンクチュアリ、神殿、テンプルではありません。お茶のみ会合場所、ロッジ、ハーミテイジ(hermitage、フランス語でエルミタージュ)、何々庵のあん、いおりのことです。

 ここにオニアス家やトビアス家といった偉い祭司を呼んで、説教をしてもらうのです。ですから神殿を持たない今のユダヤ人は皆、平信徒、レイマンなのです。

 パリサイ人は聖書の中のバビロン捕囚から、マカバイオス戦争が起こる間に発生したハシディーム運動、敬虔主義者、パイアス・ピープル(pious people)の運動にその由来が求められます。

 ハシディームというのはスクライブズ(scribes)、つまりトーラー(モーゼ五書、律法、旧約聖書の最初のほう)の翻訳・注釈者で、これの読み聞かせ運動をやった人たちです。

 ですからユダヤ、ジューダイズム(ユダヤ教、ユダヤ思想)の正統派であるオニアス、ザドクの流れではなく、エズラの流れを汲むのが、パリサイです。

 彼らは中産階級のリベラルズ(liberals)なのですが、なぜかマカバイオス戦争には協力しました。彼らの支持基盤は都市や田舎を問わず、下層階級だったようです。ですから、彼らパリサイ人の協力は、大祭司ら支配層に対する下層階級との共闘だったのです。

 このパリサイ派が成功を収め、長い時間をかけて変貌を遂げ、現在のユダヤ人となるのです。

 ヒュルカノスが死ぬと、子供のアリストブロスが跡を継ぎ(紀元前一〇四年)、たった一年ですがガリラヤを征服して、領土拡張政策を続行します。

 アリストブロスのあとは弟のアレクサンドロス・ヤンナイオスが跡を継ぎます(紀元前一〇三年)。ヤンナイオスも政策を踏襲し、ヨルダン川東岸に勢力を拡大し、この時代、ユダヤ王国の領土は最大になります。彼はサドカイ派を徹底的に重用したため、パリサイ派の不満を増大させました。

 以上、安定期、最盛期の三人の主は領土拡大策をとり、サドカイ派の重用を推し進めていきました。

 

サロメ・アレクサンドラ―史上初の政教分離の女王

 ヤンナイオスが死ぬと(紀元前七六年)妻のサロメ・アレクサンドラ(Salome Alexandra)が女王となります。このときユダヤ王国は転機を迎えます。

サロメ・アレクサンドラ

 サロメはパリサイ派と和解します。そのためパリサイ派が勢力を盛り返し、権力を掌握します。

 その最も顕著な例が、この当時のラビの長である二人がともにパリサイ派となったことです。このことは非常に重要です。ラビのユダヤ人を書く際に述べます。

 そしてついに、たぶん史上初です。政教分離が実現します。サロメが女王として国を統治し、子のヒュルカノス二世が大祭司となったのです。

 この史上初の世俗と聖俗(セキュラーとセクレッド)の分離は、七〇年のユダヤ戦争で王国が消滅するまで続きます。イエスのときにヘロデ王が登場しますが、このときはヘロデが王でカヤパが大祭司です。

 サロメが死ぬと(紀元前七六年)ヒュルカノス二世が王となるのですが、サドカイ派が担ぎ出した弟のアリストブロス二世と内戦状態となります。

 ここにローマのポンペイウス(Pompeius)が介入します。

 紀元前六三年。ポンペイウスはヒュルカノス二世とアリストブロス二世の仲裁者、アービトレイターとしてエルサレムの神殿に入ってくるのですが、このときを持ってユダヤ国家はローマのパペット・ステイト(puppet state)、傀儡国家となります。(Encyclopedia Britannica: Judaism 三九三ページ)

 このときイドマヤ(エドム)の代官であったアンティパテルという男が出てきます。イドマヤというのはユダヤに隣接したパレスチナの一国で、ヒュルカノス一世のときに征服され、ユダヤ人ということになった人々です。

 ユダヤの近隣国のことを少しいっておくと、ユダヤの北がサマリアとギレアデ。北の海側がフェニキア―これは今のレバノンにあたります―で、南の海側が現在のガザに当たるペリシテ、東側にエドムとアンマンとモアブがあります。今のヨルダン王国です。アンマンはヨルダンの首都に名を残していますね。

 アンティパテルはヒュルカノス二世に自分の進言が取り入れられたことで、王の片腕のような形でハスモン家に浸透してゆきます。

 このときのローマはシーザー(Caesar)、ポンペイウス、クラッスス(Crassus)による第一次三頭政治といわれる時代の末期で、互いに権力闘争を行いつつありました。

 ローマの地中海支配の最終目的はエジプトとナイル川の支配でした。そのためには陸路の中継地に当たるシリアはどうしても征服しておかなくてはなりません。そのためにハスモン家を支援し、ユダヤを地域覇権国に持っていくことで、シリア、セレウコス朝を崩壊へ導いた、というのが大きな政治、国際関係上の視点です。

 ローマは、アンティオコス・シテデスのあとセレウコス朝に内紛が起こり、破滅への道を歩みだしたのを見て、いよいよユダヤというパレスチナ覇権国を属国、属州化させるための方針へと転換していくわけです。

 ポンペイウスもシーザーも元老院もローマ内部では対立をしていますが、対外的にはユダヤを征服するという点で一致している、というのが冷酷な歴史的視点です。ユダヤの両陣営は、シリアを征服したポンペイウスに取り入ろうと躍起になるわけですが、情勢を見通したアンティパテルはローマにいるシーザーに取り入ることに成功します。

 そして、自らはジュデア、つまりローマから見た属州としてのユダヤの名前、そのジュデアの知事、行政の長に任命してもらい、ヒュルカノス二世は大祭司と認められ、ローマの元老院からも数々の栄誉を授かります。

 シーザーにもユダヤに有利な法令を出してもらうことで、時代の趨勢に乗った、彼の現実世界維持の中で生き残ります。

 ユダヤの王という称号、つまりジューダスらが命を賭けて作り上げた独立王国の長としての称号はポンペイウスによって廃止されました。ここにハスモン王国は終わりを告げ、ローマの属州となったのです。

 乱暴で恐縮ですが、ヒュルカノス、アリストブロス、アンティパテルは三者共々ローマによって処分されてしまいます。

 残ったのはアンティパテルの息子のヘロデ(Herod)です。

 

ローマ行政長官、プロキュレイターズたちによる「懐柔と挑発」

 ヘロデ(ヘロッド、Herod the Great)というとイエス・キリストの時代のヘロデが有名ですが、あれはヘロデ・アンティパスといって、これからお話しするヘロデ大王の息子です。

 

ヘロデ大王

 ヘロデはローマの元老院によってユダヤの正統な支配者と認められて、ハスモン家の血を引くマリアムネと結婚して、ユダヤの正統な統治者としての地歩を固めます。

 ヘロデは第二神殿を建て直します。エルサレムに現存する「嘆きの壁」というのは、このヘロデ大王の作った神殿の一部です。ただし祭られていたのはローマ皇帝アウグストゥスであり、ローマは皇帝を神とするカルト崇拝を強制してゆきます。

 ヘロデはパリサイ派の政教分離政策を踏襲します。ですから政治にかかわらない限り、人々の信仰は守られていました。これは私鴨川が思うに、「政治にかかわりたかったら、汝の信仰を捨てよ」ということになる、そうなるわけです。それが政教分離の本当の狙いなのだと私は思います。このことは更なる追求をしてゆきます。

 ヘロデ大王の死後、領土は三人の息子たちに分割されました。長男アケラオスはユダヤ、サマリア、イドマヤ、次男ヘロデ・アンティパスはガリラヤ、末の弟ピリポ(フィリップス)は北東地方を任されます。

 このアケラオスの治世に、次のローマ行政長官による懐柔と挑発というユダヤ支配の雛形が作り上げられます。

 いずれもエルサレムの神殿における挑発的事件で、神殿に添えられたローマを表すワシのマークであるとかアポロンやローマ皇帝の胸像を取り除こうとした民衆とそれを力で抑えようとしたアケラオスの対立を利用したものです。

 ローマは老獪にも民衆の気持ち、ユダヤの習俗を尊重するという態度をとり、民衆の要望を受け入れる形でアケラオスを追放してしまいます。

 やっぱり書くのが嫌だなあ、気が進まない・・・・・・と思っていたのですが、やはりここら辺の事実は重要であることに改めて気づきました。やはりもうちょっとしっかり書いてみようと思います。

 このときつまりヘロデ大王の死後から力を持つのが、ローマから派遣された行政長官、プロクラトゥール(プロキュレイターズprocurators)といわれる人々です。

 初代のユダヤの行政長官はコポニウスという人で、ユダヤの人口調査を行おうとして、人々の反発を買いました。

 人口調査というのは、今も昔もその本当の目的は民衆から強制的に徴税することが目的です。ですから民衆の反発を買うのも当然のことです。そしてユダヤの属州化を最終目的に置いている行政長官側からしてみれば、徴税可能人口、その概算をつかむことはその第一歩です。

 どうもこのローマ支配が始まったころのユダヤ民衆の最後の反乱は、結局は税の取り立てに対する反発であったというのが私の考えです。少なくとも、ハスモン王国の間、ユダヤ人たちは外国からの徴税請負人のくびきからは自由で、オリーガーキー支配から完全に独立を遂げていたのです。外国から自分たちの資産を奪われることも、自ら差し出すことはなかったのです。

 日本版ブリタニカにはこのように書かれています。

 「ユダヤ人が自らの要求に基づいて自らの支配者をローマの力で廃した(鴨川注記:アケラオスのこと)というこの一事は、結果的にはユダヤ人のローマの行政長官に対する政治的独立の最後のよりどころを失うことになった。ローマの助力に訴えるというマカベア王朝の犯した誤りは、その論理的結末に到達した。」

 ジューダスからサイモンの三兄弟が独立を勝ち取るために、当時の国際関係を上手に利用したということは、地中海からメソポタミアにいたる当時の「世界」情勢の中で、新興国ローマに上手に利用された、少なくとも双方の理解の一致という点で、当時のパレスチナの歴史が決定した、というのが私の考えです。

 アケラオスの弟、ヘロデ・アンティパスは、洗礼者ヨハネ、ジョン・ザ・バプティスト(John the Baptist)の首を切ったサロメの逸話や、キリストを処刑したときの王ということなどで有名ですが、ユダヤ国家の歴史にとってとりたてて重要ではありません。

 やはりこのときは、ローマの行政長官、プロキュレイターの時代です。もっとも有名な人はキリストをユダヤ人の進言によって処刑したポンティウス・ピラト(Pontius Pliate)です。ピラトは様々な映画で何も悪いことをやっていないイエスを処刑するのはしのびないと、良心の呵責に悩む、まともな文明ローマ人として描かれていることが多く、聖書中でも好意的に描かれています。

ポンティウス・ピラト

 しかし実際は「ピラトがことごとく民衆の感情をいらだたせ、ついには民衆に反抗を決意させるに至った」ということをヨセフスやフィロンは指摘しています。(『ブリタニカ百科事典』五七六ページ)

 ピラトのやったことはエルサレムの神殿に、ローマ皇帝の胸像を搬入したことです。鳥生氏が「古代通史序論」(副島隆彦の論文教室『〇〇二四』論文)にて指摘していますが、ローマというのは変な国で、皇帝そのものを神として崇めよ、という古代オリエント、ギリシャ、エジプトのどの歴史を見ても非常に得意で独特な宗教を持っていたことです。

 ブリタニカはこのことを「ア・カルト・ワーシッピング・ジ・エンペラー(a cult worshiping the emperor)」皇帝崇拝カルトといっています。

 この後も古代のローマ行政長官がローマ皇帝神格化という政策のもと、神殿の侮辱を続けたため、ユダヤ民衆の中から最後の愛国的衝動が生じます。

 この事態はヘロデの孫、ヘロデ・アグリッパという人がユダヤの王で、親ローマ、パリサイ擁護の姿勢を踏襲していて、民衆にも人気があったようです。

 そこで、ヘロディアンズ(Herodians)という政治グループが生まれました。これはローマに貢納、臣従しながらヘロデ王家を中心にユダヤ国家を維持、保存していこうという党派です。

 これに対してズィーロット・パーティ(zealot party)というのが生まれました。ゼロタイともいいます。ズィール(zeal)というのは熱心な、献身的なという意味ですがこの英単語はもともとこのゼロタイから来ています。

 彼らは戦闘的で、ローマに臣従せず抵抗運動を始めました。彼らの戦術はゲリラであり、ローマに臣従する人間を誘拐し殺してしまうという戦法をとりました。これをさしてスカーリィ(アサッシン、暗殺者)とも呼ばれました。有名な死海のそばのマサダ(Masada)の砦を作ったのも彼らです。

 彼らのジューダイズムの根幹は愛国であり、ナショナリズム(Nationalism)でありました。そのためなら血を流すこともいとわず、殉教も辞さないという堅牢な姿勢をとりました。『ユダヤ古代誌』の著者フラヴィウス・ヨセフスも一応この一派です。

 紀元六六年秋。ついに彼らズィーロットが蜂起し、エルサレムからローマ軍を放逐し、ローマを打ち破るという事件が起きます。これが第一次ユダヤ戦争です。

 しかしローマはウェスパシアヌス将軍と息子のティトゥスを派遣し、ヨセフスの率いる反乱者を潰走させます。このときゼロタイたちはマサダの砦に三年も立てこもるのですが、最終的に全員自殺の道を選び全滅します。七〇年、エルサレムは落城します。

 このときユダヤ人国家は歴史から正式に姿を消しました。「嘆きの壁」を残して。

 この最中、ある重要な人物がローマ軍に包囲されたエルサレムから密かに抜け出してきます。

 私は、このマカバイオス、ハンマーたちの話が終わったら次に「ラビのユダヤ人Rabbinic Judaism」の歴史を書かなくてはなりません。その最初の一人であるヨハナン・ベン・ザッカイ(Johanan ben Zakkai)という人物がローマ軍に投降し、将軍に取り入ってその寛大な計らいでもって、ヤブネ(ヤムニア)というところに学院を作ってもらったのです。ここがユダヤ教、タルムード研究の最初の拠点になります。

 私には、フラウィウス・ヨセフスもそうですが、この二人はどちらもユダヤ人を裏切った人物だとしか思えません。ヨセフスはローマの保護のもとにこの歴史を書いていたので、だからローマに好意的記述が出てくるのです。ローマの側もふんだんに公式文書、元老院の決議や行政官の報告などをヨセフスに提供したのでしょう。そのためヨセフスの著作はこの紀元前後の資料として一級の価値があるのです。

 問題なのはヨハナンで、この男はこれからタンナイムというパリサイ派から続くタルムード研究集団の最初の人物で、ユダヤの国と神を放棄した人物です。その最初の行動からすでにユダヤ人らしくない。 だから私はラビを「にせユダヤ人」というのです。ラビ列伝はこの後書きます。

 エルサレムが陥落してもパレスチナの各地にはズィーロットの残党がまだたくさんいて、各地で蜂起が絶えませんでした。

 そのもっとも大きなのがローマ五賢帝といわれる繁栄時の皇帝たちの二番目のトラヤヌス帝のときに小アジアのキレナイカで起こった反乱で、ルーカス・アンドレアスという人物がメシア、救世主、セイヴィアー(Savior)と目されて、小アジア一帯に暴動が広まりました。

 そしてハドリアヌス帝がトーラー、律法を公に教えることとユダヤの習慣を禁じたことで、最後の蜂起が起きます。

 これが第二次ユダヤ戦争(紀元一三二―一三五年)です。

 このときヨハナン・ベン・ザッカイの次のラビ、史上最も偉大なラビと目されるアキバ・ベン・ヨーゼフ(Akiba ben Joseph)が現れ、サイモン・バル・コフバという男をメシアとして立て、三年にわたって死に物狂いの戦いを開始します。

アキバ・ベン・ヨーゼフ

 しかしその甲斐もなく二人はローマ軍に捕らえられてしまいます。ローマ兵は捕らえた二人を惨殺し、ズィーロットたちも全滅してしまいます。

 その結果、エルサレムはキリスト教徒に開放され、ユダヤ人は立ち入りを禁じられます。

 ここに古代のある時期、約三〇〇年の間実在した本当のユダヤ人によるユダヤ国家の歴史は永遠に幕を閉じたのです。

 マティアスとジューダスらマカバイオス三兄弟が命をかけて勝ち取った政治的、民族的独立と自由は歴史から永遠に消えてなくなったのです。

(終わり)