「0042」 論文 ガオン・サーディア・ベン・ヨーゼフ―偉大なるラビ列伝 鴨川光(かもがわひろし)筆 2009年8月20日

 歴史のパラダイム・シフトの渦の中で、ある王国が夢と消えました。これまで私が語ってきた歴史はヘレニスティック・ジューダイズム(Hellenistic Judaism)といって、ヘレニズムという歴史の一時代に現れた地域覇権国の興亡です。ある王国が紀元をまたいで三〇〇年間存在し、消滅していった、その事実を書いてみたのです。

 これ以後ユダヤに歴史はありません。これからはカテドクラシー(Cathedocracy、編者注:ラビがユダヤ社会を支配すること)の時代に入ります。

 その前に、ヘレニズム(Hellenism)ということを概観しておかなくてはなりません。ヘレニズムという言葉、概念は一九世紀ドイツのドロイゼン(J.G. Droysen)(一八〇八―八四年)という歴史家によって発明、命名されたものだそうです。このことを指摘したのは鳥生守氏です。私は鳥生氏の業績、ヘレニズム概念の再批評、再発見に賛辞を送ろうと思います。後付の発言で大変恐縮なのですが、ユダヤ史を書いている中で、私はどうしてもヘレニズムという言葉を使いたくない、使えないという何か変な違和感を覚えていました。

ドロイゼン

 ですからできる限り「ギリシャ化」という言葉、これはヘレナイズという言葉の訳としてなのですけれども、このギリシャ化という言葉を使ってきました。

 そこでヘレニズムという言葉をぶった切ってやろうと思います。

 ユダヤ史はビブリカル・ジューダイズム(Biblical Judaism)、ヘレニスティック・ジューダイズム(Hellenistic Judaism)、ラビニカル・ジューダイズム(Rabbinical Judaism)、そしてモダーン・ジューダイズム(Modern Judaism)という四区分で出来ています。

 ビブリカル・ジューダイズム、聖書のユダヤを私は使わない、無視する、ということは述べました。この文章の基本路線です。

 私はマカバイオスに焦点を当ててこれまで書いてきましたが、もっと大きな視点で書き直す必要に迫られるでしょう。それはヘレニズムという時代のことです。私は鳥生氏の指摘を受けて、このヘレニズムの時代というものを葬り去ろうと思います

 ヘレニズムではない、マケドニアニズム(マシードニアニズム、Macedoniaism)というのが今に続く二千数百年間の世界を作ったのです。

 そんなのギリシャ化ではないか、といわれるかもしれませんが、そうはいきません。今に続く時代を作ったのは確かにギリシャ人ですが、それは同じギリシャとはいってもマケドニアという都市国家群のかなりはしっこのほうに現れた国によるギリシャ風オリエント改革なのです。彼らはギリシャらしい伝統と歴史をもったアテネやスパルタとは違います。

 ペルシャ戦争(Persian War)で勝ったアテネは都市国家群の盟主となります。その後スパルタとアテネは激突し(ペロポネソス戦、Peloponnesian War)、一時スパルタ(Sparta)が正当なギリシャの盟主となります。

 マケドニア(Macedonia)はこの間戦争に参加せず、自国の勢力を拡大していきました。そしてスパルタの国力の落ちたのを見て、ギリシャ国家群を勢力下においたのです。

 しかもマケドニアはペルシャ戦争にはペルシャ側として参加したのです。ペルシャの旗色が悪くなるとギリシャ側についたのですから、これはギリシャとはいえません。都市国家でもありません。

 ですからマケドニアは、アレクサンダー(Alexander the Great)もアリストテレス(Aristotle)も含めて非常に怪しい、裏のある国です。

アレクサンダー大王

 ギリシャの盟主になったのではなく、飲み込んで、すべての都市国家群を併呑して覇権を握ったマケドニアはアレクサンダーによって今に続く歴史を創始したのです。

 彼の「東西融合」によってギリシャ文化、思想が地中海から日本にまで伝わってきました。しかしこれは芸術文化的なものはいいとしても、それ以外はマケドニア人の作ったものであって、本来の正統なギリシャ的なものではないのではないかと私は疑っています。

 何かそれまでエーゲ海(Aegean Sea)周辺で営まれてきた取り止めのない伝統と文化が、マケドニアという田舎国家の王家を使って東側に広めていったという壮大な実験だったのではないか、そう私は疑っています。

 アリストテレスの思想も大きくは、弟子のアレクサンダーによって東側に広まる下地が作られたのです。そしてアリストテレス自体、マケドニア王家に仕えていたではないですか。

アリストテレス

 ですから鳥生氏の言うように私もヘレニズムという言葉を使わない、マケドニアニズムという言葉に変換します。これは私の作った言葉です。この当時の時代を表す正確な言葉です。

 紀元前後の歴史を見てみれば見るほど、シリア、エジプトも結局はマケドニア人の王家による支配であったことは明白です。

明白なのにギリシャ人とかヘレニズムという言葉を使う。これはいけない。ヨセフスも、ユダヤ人は長期に渡ったマケドニア人の支配のくびきから脱出することが出来たと言っているのです。

 それで本来の正統なギリシャであるスパルタと、それを正統に受け継いだとされるローマの力を借りることが出来たのです。

 マケドニアは四回に渡ってローマからの攻撃を受け、紀元前一四八年にローマの属州に組み込まれるのです。マカバイオス戦争はちょうどこのころに起こっています。

 ですからユダヤというのは小さくはシリアとエジプトという同じマケドニア王朝の中の小競り合い、キャッチボールの中で翻弄されながら、大きくは西に向かった正統なギリシャの伝統を受け継ぐスパルタとローマ、東に向かったマケドニアニズムのパラダイム・シフトの中にあった国だったのです。そしてローマに飲み込まれて消滅したのです。これは歴史的に自然な流れであったのです。

 ローマの行政長官からしてみれば「お前たちをマケドニア人から開放してやったのは、俺たちローマ人なんだぞ。だからそろそろその分け前を返してもらおうか」と言ったところなのだろうと思います。

 それでも金融によってユダヤ人を豊かにしてあげたグランド・マジシャンであるオニアス三世や真の愛国的行動によって自由を獲得したマカバイオスたちは、どちらも私は正しかったと思います。

 

それでもジューウィッシュ・カテドクラシーは故郷の東へ進む

 ユダヤの国家は消滅しましたがそこから秘密に抜け出した人々によってユダヤ思想、ジューダイズムはカテドクラシーとなって東へ進みます。この動きは九世紀にいたってイスラム教へと流れ込み、イベリア半島に移った後ライン河を下って、ドイツ、オランダへと伝わって行きます。

 それは一七世紀、宮廷ユダヤ人たち(Court Jews)によって三〇年戦争が起こされて、ドイツがズダズダに引裂かれるという事件が起こります。それで私のユダヤ史の仕事は終わりです。ロスチャイルド(Rothschild)が出てくるのはその後です。ロスチャイルド本は山とあるので一八世紀以降はそちらをお読みください。

 これまでのユダヤは大祭司(グランド・マジシャン)を中心にしたシオークラシー、神権政治の中で生きていました。これからはそれとは違った、カテドクラシーの中でジューダイズムは生き続けます。パリサイ派であり、ラビたちの時代の始まりです。

 彼らは司祭ではありません。実は神殿(テンプル)も聖所(サンクチュアリ)も持っていません。あるのは集会所だけです。ここでお茶を飲みながら皆でおしゃべりをしたのです。そして時たま祭司を呼んで聖なる言葉、律法、トーラーを教えてもらいました。

 この集会所というのは、私は、本当はよい思想だと思います。浄土真宗中興の祖である蓮如がなぜああも人を集めることが出来たのか。それは寺ではなくどこでもいいから人が集まる場所に人を呼んで、珍しいお茶やお菓子を出して、何でもいいから貧しい普通の人々におしゃべりをさせたのです。

 難しい教えを説いたのではない。ただ、その人の悩みを発露させたり、面白いことを話させたり、とにかく何でもいいから話せ、話さないと始まらない、そういった思想だったのです。

 ユダヤのシナゴーグも、フリーメーソン(Freemason)のロッジも、イエズス会(Society of Jesus、Jesuits)の、日本の新興宗教も、ゴルフのカントリークラブのロッジもすべてこの集会所の思想です。これをロッジといいます。

 ロッジというのはもっというと庵、いおり、あん、のことです。何々庵というお茶屋さんや旅館があったりしますが、これもそもそもはいおり、ロッジです。庵というのは英語でハーミテイジといいます。

 一〇数年前にアメリカでユナボマー(UNABOMBER)というのがつかまって、その犯人がハーミットだったという記事がマスコミをにぎわしたことがあります。ユナボマー(ボンバー)はは大学や航空会社に爆弾を送りつけて人を殺傷するという罪を犯した人です。

ユナボマー(テッド・カジンスキー)

 犯人はロッキー山脈のふもとにぼろぼろの掘っ立て小屋を建ててみすぼらしい格好をして一〇何年も住んでいました。彼を指してハーミットといいました。

 ハーミット、ハーミテイジとは本来はこういったことを指すのです。庵というのは本来、草ぼうぼうのところで草を束ねてそこに暮らしたことをいいます。完全な世捨て人です。

 そう、世を捨てて、世を忍んで人々が集まるところ、それをハーミテイジhermitageといいます。フランス語でエルミタージュ。ロシア皇帝エカテリーナ二世が作ったエルミタージュ、今は美術館ですが、冬宮はもともと政務のわずらわしさを離れて、学者や哲学者、芸術家や画家、詩人を集め、お茶やお酒、珍しい食べ物を持ってきて、好きな人だけが集まって話をするところとして建てたのです。だからエルミタージュ、「隠れ家」などと一般に言われるものではなくて、世捨て人の集会所なのです。

エルミタージュ美術館

 ここに宗教の本質があります。宗教とは本当は完全に世を捨てて、現実を捨てて、ふらふらと物乞いをしながら生きることです。ブッダもキリストも弟子たちとともに野に出でて、浮浪者と同じ生活をしていたのです。そして皆で集まって話した。これがハーミテイジです。

 お講、無尽、相互銀行というのもこれと同じです。集まった人々、集う人々の間でお金を回した。宗教思想も金融ももとはこれ。ユダヤ人もイスラム教徒も同じユダヤ、イスラムの間では利子を取らない。

 貸して、いやあげるだけです。これが進行とお金の本来あるべき姿なのです。イスラム金融というのも結局はこれでしょう。

 ただブッダもキリストもすごかったのは、彼ら自身が弟子を集めたわけではない。集まった、集めたわけではない。ただ人が勝手についてきたのです。だから弟子なんていう言葉も本来はないのです。

 ただ先達(先生、先輩)がいて、それについていきたかった。ただそれだけです。ダンテの『神曲』の中でダンテがヴェルギリウスの事を先達と呼び(そのように訳されています)、彼に手を引かれるように煉獄、地獄を見て回る、この感じです。これが正しい。

 ブッダは集う人々というのを戒めています。集ってはいけないと。だからブッダもイエスも現実の中で本当に天国を見出したのでしょう。悟っていたのでしょう。これが二人のすごいところです。

 ですから私は歴史的にイエスの存在を認めない立場ですけれど、イエスが好きです。彼のようになりたいと思ったりします。ですから信仰のレベルでは私はイエスもブッダも信じているのかもしれません。

 

エズラ―律法を「立て直した」、宗教・リリジョンを創造した人

 宗教というのは、本、聖書、正典がなければだめです。スクリプチュアー(scripture)といいます。ですから大蔵経、三蔵を持つ仏教も宗教です。この宗教のことを経典宗教、リヴィールド・リリジョン(revealed religion)といいます。

 神、真実の言葉が顕現したことをリヴィール(reveal)、レヴェレイション(revelation)といいます。啓示と言います。宗教というのはこのリヴィール、レヴェレイションが見える形に用意されていてはじめて宗教なのです。

 そして世界初の啓典は「アヴェスター(Avesta)」なのです。だからゾロアスター教こそがオリジナルの宗教で、後はまねかもしれません。ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche)はゾロアスター(Zoroastrianism)に到達しました。これがニーチェのすごいところなのです。

 いや、やはりそれよりも古い「ヴェーダ(Vedas)』のほうが最初で、ヒンドゥー(Hinduism)のほうが最初かもしれませんが今のところゾロアスターが最初の宗教ということで認定されています。

 ですからゾロアスターがアケメネス朝ペルシャの時代にユダヤ教に影響を与えたということは想像に難くないのですが、今のところ私にはわかりません。

 ですから私はユダヤのトーラーを決定したエズラ(Ezra)を宗教創造者としてこの文章を書いていきたいと思います。

 ラビのカテドクラシーといいましたが、カテドクラシーとは律法学者の指導政治という意味です。ユダヤはオニアッド家のオリーガーキーから、ハスモン家のシオロジー、そしてラビたちのカテドクラシーへと変化していったのです。これが真実の歴史です。

 ラビのカテドクラシーの歴史は紀元前四〇〇年ごろのエズラにさかのぼります。書記エズラなどといわれますが、彼はスクライブ(scribe)です。書学生、写字生、学生、学者、平信徒、レイマン、律法の読み聞かせ人です。正統の大祭司ではないということを再度強調しておきます。

エズラ

 そしてエズラは聖書のユダヤ人、ビブリカル・ジューです。実在したかどうかはわかりません。あくまで伝承です。しかしどうやらペルシャの役人か何かだったようですから、ペルシャ史を見れば登場するかもしれません。実在の可能性はほかの聖書の登場人物よりも高い。

 彼はトーラーの正典化をおこなったとされています。いや、これもはっきりしません。モーゼ五書といわれるトーラー(創世記、出エジプト、レビ、民数記、申命記)という旧約聖書の最初の五章は紀元前七世紀には成立していたとかいわれます。

 少なくともエズラは聖書の中で演壇に立ってモーゼの律法を人びとの前で読み上げ、熱狂を巻き起こしたとあります。(ネヘミア記八章四節)

 このときに読み上げたのは研究者の間で「祭司法典」プリースター・コデックス(Priester Kodex)と呼ばれるものらしいのです。P法典と呼ばれます。これがなんだかよくわかりません。

 ペルシャにおいてすでに祭司階級が宗教的祭儀の訓練を受けていた時代にさかのぼるということらしい。(ポール・ジョンソン著『ユダヤ人の歴史』上巻一五一ページ)

 この資料がいったい何なのか私にはわかりません。いずれにしろエズラはラビ、パリサイ系譜の最初の人物であるということはどの本でもいわれています。

 『原典新約時代』というほんの巻末に詳細なラビの系譜図が載っているのですが、ここでもまずエズラから始まっています。

 私はこのエズラからゆっくりとパリサイ・ラビの系譜をたどっていきたいと思います。

 宗教という言葉はない、ありません。宗教はエズラから作られた、といいましたが、これは宗教というのは、リリジオン(religion)という言葉が、「もとで」という言葉が元で、そこに当てはめただけの言葉です。

 ではリリジオンとは何かというと、リreというのはアゲイン、もう一度とか、もとに戻って再度という意味です。真ん中のリッジligは法ということです。つまり、法典、聖書、正典をきちんと編纂して作り上げようというのが正しい理解です。

 私は受験のとき、出る単にこのように書かれていたのを読んでわけがわかりませんでした。暗記の理解のためにわざわざ語源を載せていたと思うのですが、ますますわからなくなりました。そしてその意味をわかっている人はまずいないだろう、いないはずだと思います。

 リリジオンというのはエズラ(あるいはゾロアスターの司祭)らのこの作業をいうのです。バビロンからエルサレムに戻ってきちんと正典とは何かをはっきりさせよう、そのための法典編纂作業、それが宗教、リリジオンなのです。

 その意味でこのリリジオンというのは人間の本性に根ざしたとはいえない、実に恣意的なものなのです。自然法ではない、その本質は人為法、ポジティヴ・ロー(positive law)なのです。「神の言葉を編纂する。神の言葉を借りて」という前提、ポスチュレイト(postulate)から出発した人為・人定法なのです。このことを私は日本でただ一人だけ見抜きました。

 聖書の中でエズラはすでに「神の言葉」を朗読しています。ですからもうモーゼ五書はあったということになっています。一説には紀元前六三二年に正典とされたといわれています。(ポール・ジョンソン著『ユダヤ人の歴史』上巻一五三ページ)

 これはどうだかわかりません。あくまで聖書内での話ですから、私はエズラ共々これを切って捨てます。正典とは何かというとまずモーゼ五書、トーラーが中心で、次にネイヴィーム。これはエリヤ、エゼキエルといった預言者たちの言葉です。

 ヨシュア、士師記、サムエル、列王記を中心に、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルがその周辺にあって、ホセア、ヨエルなどの一二人の預言者が加わります。

 その次にケトゥヴィーム、諸書が加わります。詩篇、箴言、ヨブ、雅歌、ルツ、コレヘト、エステル、ダニエル、エズラ、ネヘミア、歴代記上下です。

 これらが紀元後ヤブネというところの評議会で最終的に決定されたのです。このことは後で述べます。

 ですから正典以外の部分もあって、これを外典とか偽典、アポクリファといいます。アポクリファ(Apocrypha)というと出所の怪しい文書という意味で使いますが、本来は意味が違うようです。

 新約の最後にある黙示録のことをアポカライプス(Apocalypse)といいますが、これと関係があるのでしょう。

 外典はトビト、ベン・シラ、バルクなどがあってマカバイオスもここに含まれます。ですから私はこのマカバイオスの話は意図的に除外されたものだと思います。

 ポール・ジョンソンには紀元前三〇〇年頃、つまりアレクサンダーの頃に正典化作業は完了したとありますが(『ユダヤ人の歴史』上巻一五三ページ)、私はこれを支持します。

 歴史、特に今に続く歴史はアレクサンダーから始まるのです。はっきりするのはアレクサンダーからなのです。

 それ以前にもエジプト、ギリシャ、アッシリア、ペルシャ、バビロニアなどの歴史はありましたが、それらはもう過去の話なのです。今我々と関係がある出来事はすべてアレクサンダーから始まるのです。キリストからではありません。

 ですからアレクサンダーが東征を始めた紀元前四世紀半ばから歴史をカウントしていけばしっかりとした全体像が見えるのです。このことを私は日本で初めて主張します。

 つまり今の歴史はマケドニア人が始めたのです。

 正典化作業を誰がやったのかというのはわかりません。記録に残っていません。いろいろといわれるのは大会堂の長老たちとか、書記たちとか大祭司たちだとかいわれますが、どれも的を射ていません。

 ただいえるのは、歴代誌の中に「書記の氏族」(歴代誌二章五五節)というのがいて、これは正しい。これこそがラビでありパリサイの先祖です。これをスクライブズ(scribes)、筆写作業者たちといいます。ソーフェリウムといって、ラビの歴史はここから始まります。ソーフェリウムというのはペルシャの官僚の役職だったようです。

 先にいっておくとラビと法典編纂作業の歴史には層があって、まずソーフェリウム、次にズーゴート、タンナイム、アモライム、ゲオニム、と続きます。これを追っていきましょう。

 ソーフェリウムは以上のようにペルシャかバビロンにいた祭司、役人たちが、祭司法典をもって口伝し、筆写作業をやった人たちで、名前がわからず、伝承でしかありません。スクライブズという人たちがいた、そして紀元前三〇〇年頃にはトーラーがあった、ただそれだけです。

 エズラは聖書の人です。もう一人伝承上の人物がいて、義人シモン(シメオン、Simon、Simeon)という人がいます。サイモン・ザ・ジャスト(Simon the Just)といいます。とにかく「いい人」で、人々から尊敬された人がいたらしい。

 歴史的にはオニアス家の大祭司とされていて、オニアス一世の子でジャドゥア(オニアス家一代目)の孫、シモン一世(紀元前三一〇〜二九一年か三〇〇〜二七〇年)か、オニアス二世の子シモン二世(紀元前二一九〜一九九)といわれています。この二人のうちシモン二世は歴史的に実在を認定できます。歴史的に確定できるのがオニアス二世だからです。

 もう一つ、先の大会堂の人々、大集会、グレート・アッセンブリー(Great Assembly)という伝承があります。これが今のシナゴーグにつながるのですが、これも本当でしょう。つまり集う人々、ロッジだからです。そしてシナゴーグの遺跡もアレクサンドリアなどで多数発見されています。ただいえるのは、彼らはスクライブズだったということです。

 スクライブズ、ソーフェリウムの最後が義人シモンといわれていて、彼がソコーのアンティゴノス(Antigonus of Soko)に橋渡しをしたといわれています。

 彼は三世紀前半の人で名前のわかる最初のパリサイ人でなぜかギリシャ名を持っています。ギリシャ名を持った最初のユダヤ人でもあるということです。

 ただしあくまで後に述べるミシュナの伝承でしかなく、これも歴史上の人物ではありません。

 ソコーの次からははっきりしています。時代はハスモン家の時代です。パリサイ、スクライブズたちはマカバイオスたちに協力したということは述べましたから、少なくともアレクサンダーから紀元前一五〇年ごろまでに、スクライブズ、ソーフェリウムは実在しました。しかし勢力はかなり小さかったようです。

 時代は下ってサイモン・マカバイオスの子、ヒュルカノス一世の時代。このとき次の世代ズーゴート(zugot)というのが出てきます。

 これをいう前にサンヘドリン(Sanhedrin)に触れなければいけません。このサンヘドリンとズーゴートに現代の世の秘密があります。この二つが明らかにデモクラシー(democracy)、民主制を作ったのです。私はこの隠された真実に気づきました。

 皆さん。世界中でヒットした、映画の『ダ・ヴィンチ・コード(The Da Vinci Code)』や『天使と悪魔(Angels and Demons)』などを見ている場合ではありません。誰にでも手にとれる開示された歴史を見るだけで真実は明らかなのです。

 ではこのサンヘドリンのことを語りましょう。

 サンヘドリンというのはシッティング・トゥゲザー(sitting together)、アッセンブリー(assembly)、カウンシル(council)という意味で、大会堂、大集会と同じものです。先に述べた大集会、グレート・アッセンブリー=ロッジ、ハーミテイジ、スクライブズたちの集まり、という伝承でしかないものが、歴史的に姿を現したものです。

 サンヘドリンとは、要は裁判所、法廷のことです。これが現在の法廷の原型です。

 よくユダヤ本では議会などと訳されます。しかしこれは違います。議会、つまりセナト、セネターズ、エルダーズ(elders)、長老たち、元老院というのはやはりローマに原型があります。ということはマケドニア的ギリシャ、つまり偽ギリシャではなく、アテネ、スパルタ型の本当の議会が元であるはずです。

 ところがサンヘドリンは違います。これは法廷です。映画『パッション(The Passion of the Christ)』をはじめとしたキリスト受難の映画では長老たちが大騒ぎしているシーンがありますが、あれがサンヘドリンかというとどうもわかりません。あの光景はやはり大集会、アッセンブリーなのでしょう。

『パッション』

 サンヘドリンはそれをシステマタイズ(systematize)、組織化したものなのです。

 まずグレート・サンヘドリン(Great Sanhedrin)というのがあります。これは今の最高裁判所です。グレート・サンヘドリンのメンバーは七一人いて、そのトップにナシ(nasi)というのがいます。

 このナシというのがこれから力を持ってきます。ナシとはチーフとかプリンス、リーダーという意味です。

 後にユダ・ハ・ナシ(Judah Ha-nasi)というタルムードの中心を完成させた学者系譜の超大物が登場しますが。この男はジューダー・ザ・プリンスと呼ばれたほどの人で、常にナシ、プリンスと呼ばれていました。その時代にはサンヘドリンはなくなってしまうので、ナシという地位はなく、勝手に名乗っていただけです。あるいはあだ名でしかありません。

 ナシの二番手に当たるのが(アヴ)ベト・ディン(Av Beit Din)という地位です。この二つを正副議長と呼ぶ向きもあるので、便利なのでとりあえずこう呼んでみます。

 ズーゴートとは二組で対になる学者のトップたちで五回変わりました。全部で五組いたということです。

 サンヘドリンにはレッサー・サンヘドリンがあって、これが地方裁判所にあたります。

 重要なのは、サンヘドリンは紀元前一九一年までは大祭司がトップを務めていた、管理していたという記述があることです。エクス・オフィショウ・ヘッド(ex officio head)とジューウィッシュ・エンサイクロペイディアにあります。ところがそれ以降サンヘドリンは大祭司に信をおかなくなり、紀元前後にはナシという地位が大祭司とは独立した、神殿に併設しながら独立した地位を確立します。これはイエズス会とローマン・カトリック、ヴァチカンの関係とそっくりです。

 サンヘドリン、つまりナシのオフィスはホール・オブ・ヒューン・ストーン(Hall of Hewn Stone、切り出した石)と呼ばれ、エルサレムの神殿の北側の城壁に作られ、半分は神殿の中に、半分は外に作られていました。つまり外側から神殿内部に通じていたのです。

 大祭司がサンヘドリンを管理できなくなった紀元前一九一年。このときの大祭司はあのオニアス三世です。

 それにすげ替えられたのがヘレニスティック・ジューの最初である、あのジェイソンです。つまりジェイソンはシリア王エピファネスによって任命されたかもしれませんが、彼を名指ししたのはサンヘドリンに集う人々だったのです。

 これでオニアス三世とジェイソンが追い落とされ、歴代のハスモン政権がサドカイを重用した理由がわかりました。

 マケドニアによって今の世の歴史が世を開けたとき、バビロニアにいたスクライブズたちが集い、集会をシステマティックにし、パリサイ派となり、サンヘドリンを乗っ取ったのです。

 このスクライブズたちがなぜパリサイ、政教分離、世俗聖俗分離主義、「政治に関わりたかったなら信仰を捨てることだな」という思想集団となったのでしょうか。

 まずスクライブズたちからハシディーム(Hasidic Jews)という集団が生まれました。これはパイエティスト(Pietismus)という意味で、敬虔主義者と訳されます。

 このパリサイの発端の人々は大祭司とサドカイ人と相容れませんでした。

 前にも述べましたが、彼らはトーラーとそれ以外の慣習法である口伝、オーラル・ロー(Oral Law)―これがタルムードとなって行きます―だけが権威であって、それ以外のもの、大祭司、政教一致のシオークラシーを認めなかったのです。

 彼らが律法と口伝への敬虔な思いを持って登場したのは実は「世俗のこと、政治に関わりたかったならば信仰を捨てよ」という正反対の姿勢、アティチュード(attitude)があったからです。アティチュードとは思想上の人の態度、姿勢という意味です。

 これを私鴨川は見抜きました。

 リベラルの本質はこれです。リベラルの元祖はハシディーム、パイエティスト、敬虔な信仰態度を主張する人々なのです。

 だから近代になってモーゼス・メンデルスゾーン(Moses Mendelssohn)らのハスカラ運動(haskalah)と実にそっくりなのです。

モーゼス・メンデルスゾーン

 これに対してサドカイ派は富裕な大土地所有者たちで、大祭司支持の保守でした。

 マカバイオス戦争は民衆による戦いという性格が強く、だからこのときスクライブズたちはマカバイオスに協力したのです。

 といってもスクライブズたちの戦いへの寄与はほとんどなかったようで、ヘロデ大王のときですら六〇〇〇人ぐらいしかいなかったようです。

 大祭司オニアス三世は、サンヘドリンの信用を失い、トビアス家らシリアのマケドニアンと結んだ改革原によって追い落とされたのです。ハシディーム、スクライブズの理想通りです。

 しかし、人気のジェイソンが初めてのマケドニアよりの大祭司に選ばれます。この点がスクライブズの視点から見ると受け入れられなかったのです。

 次にメネラオスが大祭司に選ばれるわけですが、どの道富裕な大土地所有者やトビアス家ら改革派金融業者の利益を代表するだけでした。

 そこで一般の人々の怒りが爆発し、マカバイオス戦争となるのです。

 ところがマカバイオス戦争が終わり、サイモン・マカバイオスの子、ジョン・ヒュルカノスの安定期になると、彼によってパリサイ派は追い落とされます。

 それもそのはず、ハスモン王国はオニアッド・ダイナスティーよりも健全な、本当のシオークラシーだったからです。

 このあたりからパリサイ人が歴史的に登場してきます。スクライブズたちの反撃です。

 ジョン・ヒュルカノスの時代、サンヘドリンが登場します。サンヘドリンがいつから歴史的に確定できるかというとこの頃です。

 ヒュルカノスの二代後のアレクサンドロス・ヤンナイオスまでは、ハスモン王国の法廷は大祭司、つまり君主であるハスモン家の長が仕切っていました。そしてヤンナイオスのときまでサンヘドリンの正副議長、ズーゴートはサドカイ派が占めていました。政教一致の大祭司制支持の彼らですから当然のことです。

 おかしくなるのはヤンナイオスが死んで妻のアレクサンドラが王となった紀元前七六年です。

 ソロモンの女性名を持ったサロメはパリサイ派と和解し、サンヘドリンの正副議長の両方にパリサイ派を起用します。

 イェフダ・ベン・ダバイとシメオン・ベン・シャタハという人物です。この二人が歴史上初めて名前が確定できるパリサイ人です。初めて登場した初めてのパリサイ人なのです。

 特にシメオン・ベン・シャタハの方はサロメの子ともいわれており、パリサイの指導者となりました。つまり、初めて登場したナシ、プリンスです。

 このナシが後にバビロンに移り、ディアスポラ・ユダヤ人の長、エグザラーチ(exilerch)、「離散の王子」を圧倒していくのです。

 この二人はズーゴート三代目です。ここからがラビの歴史の開始です。

 サロメが王となり、子のヒュルカノス二世に大祭司の地位を譲ったというのは以上のようなわけがあったのです。サロメのこの決断こそパリサイ派の思想が現実になった瞬間だったのです。

 サンヘドリンという名もこのときにつけられました。それまではカウンシル・オブ・エルダーズ(council of elders)、長老会議。つまりセネターズ(Senators)、ローマ式の議会、元老院だったのです。その議長をヒュルカノスらが務めていました。

 そしてパリサイ派はサンヘドリン正副議長ズーゴートを独占することでサンヘドリンを支配下に治めました。

 すると王をも法廷に召喚し、裁判にかけることができるのだと主張し始めるのです。(ポール・ジョンソン『ユダヤ人の歴史』上巻二六二ページ ジューウィッシュ・エンサイクロペイディア「サンヘドリン」)

 パリサイの思想は普遍であり、平等、自由が原則です。個人に尊厳を置くということを最初に主張した、とポール・ジョンソンは述べています(前掲書 二六五ページ)。

 なぜそうなのか。それは「神の声が法廷における真の判事であるから、すべての人間は、王も、大祭司も、自由人そして奴隷も、神の法廷において平等だ」からなのです(前掲書 二六四ページ)。

 現代に続く思想、自然権(natural rights)、人権(human rights)、アニマル・ライツ(animal rights)、環境(environment)にいたるまで、その基本的思想を一貫して主張し、作り上げてきたのがパリサイ人の系譜なのです。リベラル、そして自然権の元祖なのです。

 ですからパリサイは長、リーダーとか王、大祭司、プリンスといったものを当然嫌います。そこで私が新たに発見した事実があります。

 この後サンヘドリンは副議長ベド・ディンが力を持ち、乗っ取られていきます。

 ベド・ディンとはハウス・オブ・ロー(House of Law)とかヘッド・オブ・ザ・コート(Head of the Court)といって、法のマスターのことです。ですから神という前提、ポスチュレイトを作ることで、法治支配を完成させることなのですが、それは法を握った人間がすべてを支配するという意味なのです。

 つまり一部の人間がアバーヴ・ザ・ラー(above the law)、法の外、上にいる人たちなのです。ここから学者たちによる集団指導制、カテドクラシー、あらたなオリーガーキーが始まるのです。

 それをゆっくり見ていきましょう。

 サンヘドリン正副議長ズーゴートは二対五組続きました。その三対目のときに歴史的にパリサイ、スクライブズがはっきりと現れ、それはパリサイと和解したサロメ・アレクサンドラの時代でした。

 パリサイはサンヘドリンを支配下に置き、ハスモン王朝の健全なるシオークラシーを解体し、政教分離を実現しました。シメオン・ベン・シャタハがパリサイの指導者であり、最初のパリサイ派、スクライブ、平信徒の系譜です。元祖です。

 ここから二代後のズーゴートが子の後の歴史を決定付けます。

 シェンマイ(Shammai)(紀元前五〇年ごろ―三〇年ごろ)とヒルレル(Hillel)(紀元前六〇年ごろ―紀元一〇年ごろ)という二人です。

 シェンマイは厳格主義です。ですからトーラーの文言の細部にこだわり、そうでなければ全体の意味が失われるという立場です(前掲書 二一二ページ)。これはサドカイと同じ主張です。書かれた正典、トーラーのみしか認めないという実に正当な立場です。つまり正統派なのです。

 ですからシェンマイは神殿だって認めるし、大祭司も認めるはずなのです。この反パリサイ的な人々は時代時代に必ず現れます。古代のサマリア人、サドカイ、カライ派といった人々です。

 シェンマイの系譜はその後みなザドク(Zadok)を名乗るのです。ザドク一世、二世という風に。

 そしてシェンマイ派は主流から外され、サドカイとともに紀元七〇年のユダヤ戦争後跡形もなく消え去ってしまいます。

 シェンマイのライバルがヒルレルです。ヒルレルはイエスの師匠といわれています。

 ヒルレルはバビロニアからやって来ました。「バビロニアのヒルレル(Hillel the Babylonian)」と呼ばれます。

 ヒルレルこそはパリサイの、スクライブズの、平信徒の、読み聞かせ人の正統派であり、最初の大物です。

 これから後のカテドクラシーの系譜はすべてこのヒルレルから続くものです。

 ヒルレルの主張は「律法の精神を正しく認識すればよい」(前掲書 二一二ページ)という一見カテキズム(Catechism)、教理主義とは正反対なことをいいます。実にリベラルです。

 そして「ユダヤ人と改宗者すべてに律法が順守できるように心をくだいた」(前掲書 二一二ページ)という普遍主義を唱えた人であります。

 ヒルレルの言葉。「あなたにとって好ましくないことを隣人になさぬようにしなさい。」

 ヒルレルはシェンマイとは正反対の性格で温厚な、実にやさしい人で人気もあったようです。この言葉や主張を聞いて思い出すのはあの人、イエスです。

 普通にもたれているイエスのイメージに実にそっくり。この人がイエスなのではないかと思えるほどです。しかし一般にいわれるのは、イエスはこのヒルレルの弟子であり、頻繁にヒルレルの言葉を繰り返したというものです。

 これでイエスはパリサイの系譜であり、その中でも主流のヒルレルの系譜なのです。

 ただしイエスが非難したのはパリサイ人というよりも「偽のパリサイ人」(前掲書 二一一ページ)であり、神殿でありました。ここにイエスが正統なパリサイであり、ロッジ、ハーミテイジ(ハハミームともいいました)だったという根拠があります。

 当時の神殿が金貸し場、バンクであったことはオニアス三世の時代からそうであったことが明らかです。(そしてここで様々な儀式をやっていた、あるいは売春をやっていたかどうかは今のところ私にはわかりません。)

 この金貸し行為をイエスは嫌ったのです。金貸し屋たちを偽パリサイ人といったのです。パリサイの思想、それ自体は私は素晴らしいものだと思います。その恩恵を今の私たちは受けて暮らしています。

 小さな文言にこだわる厳格なサドカイ、シェンマイ派よりも、ハシディーム、つまり心根から敬虔な気持ちを持ちましょうといったパリサイの主張は正しいのです。

 しかし、ヒルレルのこの主張は、実に危険なものでした。

 パリサイの伝統的主張である口伝、つまりトーラーの註解と長い伝統的な生活に根付いた慣習を重視するというものです。これがサドカイたちから嫌われたのです。

 ですからパリサイ派はヒルレル登場以前、ヘロデ大王から徹底的に攻撃されました。このときのズーゴートは五対のうちのの四対目で、ヒルレル、シェンマイのひとつ前です。

ヘロデ大王

 王をも法廷に召喚できる、トライアルにかけられるとするサンヘドリン、パリサイの主張は歴代ハスモン王朝の王から嫌われました。それはシオークラシーの崩壊を意味するからです。

 サロメ・アレクサンドラのときにそれは実現しますが、ヘロデ大王のとき、パリサイにとっての反動が起こります。

 ヘロデ大王はサンヘドリンの指導的メンバー四六人を処刑します。このときのズーゴートは四対目のアブダルヨンとシャマヤという人でした。

 ヘロデ大王はパリサイの政教分離主義を逆手に取ります。

 政教分離主義の本質は「信仰を守りたければ政治、国家のことに関わるな」ということです。それでも神=法の前の平等を唱えるパリサイはヘロデ大王すらも裁こうとしました。

 歴代のハスモン王は自ら大祭司となることでサンヘドリンを押さえつけようとしてきました。これをエクス・オフィショウ(ex-officio)といいます。

 ところがヘロデ大王はパリサイの分離主義を踏襲し、自らは大祭司になることはなく、大祭司の任命解任権を王権の一部に取り込むのです。(前掲書 一八七ページ)

 そして宗教指導者の地位を官僚機構の中にぶち込んで、かえって王権から分離してしまいます。こうすることによってサンヘドリンは宗教裁判のみを扱うだけの存在となるのです。これが後にローマ法とぶつかり合い、イエスの事件が起きる原因となるのです。

 その意味でヘロデ大王はやはり優れていました。このヘロデ大王というのは、大体は中興の祖につけられます。ですからユダヤ国家はローマの属州でありながらジョン・ヒュルカノス治世以来の大繁栄を享受するのです。

 しかしヘロデは宗教指導者を離散ユダヤ人、ディアスポラ(パレスチナ以外の地域のユダヤ人。主にアレクサンドリア、アンティオキアそしてバビロンに定住していた)から迎えます。

 これが裏目に出てしまいます。特にバビロンは最大のユダヤ人定住地域で、そこから迎えられたのが先ほどのヒルレルだったというわけです。

 これ以降ユダヤ・カテドクラシーは徐々にエルサレムからバビロンへ移動していきます。その布石となるのがヒルレルなのです。

 ヒルレルはナシになります。つまり、シェンマイ派に勝ちます。そしてヒルレルの後、ユダヤ国家にとっての大事件、第一次ユダヤ戦争(紀元六六年〜七〇年)が起きるのです。

 フラウィウス・ヨセフスが「参加した」ことになっているユダヤ戦争のことはマカバイオスのところで述べました。

 このときに重要なのはヒルレルの弟子であったヨハナン・ベン・ザッカイ(Yochanan ben Zakkai)という大物がいたということです。

ヨハナン・ベン・ザッカイ

 

最初のラビ、ラバン・ヨハナン・ベン・ザッカイ

 ユダヤ戦争という壮絶な祖国防衛戦争によってユダヤは国家として事実上滅び去ります。

 これによってこれまで伝統を伝えてきた保守層が消滅します。

 保守層というのは大土地所有者たちであり、祭祀家系の上流階級でした。彼らが七〇年のエルサレム崩壊によって消え去ります。そして当然のごとくサドカイ派もシェンマイ派も歴史から消えます。(前掲書 二五一ページ)

 そして大切なことはサンヘドリンもこのとき消えてなくなってしまったのです。あのグレート・アッセンブリーから続く読み聞かせ人の集会、ロッジ、ハーミテイジが消えてなくなった。

 これでユダヤは国家ともどもその伝統も何もかもなくなってしまった。そう、それは本当です。何もかもなくなった。残ったのはただの人たち。そこにいる人たちだけになったのです。これが一八世紀まで続くのです。

 もう一回ユダヤ戦争がありますが、その後ユダヤ人は歴史から消えてなくなったのです。本当の、正真正銘の、オニアス三世が国富、ナショナル・ウェルス(national wealth)を奪われまいとし、ジューダスらが命を賭けて隷属から解き放ってあげたあのユダヤ人は永久に消えてなくなったのです。

 残ったのは本。スクリプチュアーだけ。

 この本、トーラーを持って逃げ出した人がいました。

 そう、逃げ出したのです、こっそりと。

 燃え盛るエルサレムからある高級平信徒が抜け出しました。高級平信徒というのはサンヘドリン副議長、ベド・ディンのことです。

 このときのベド・ディンがラバン・ヨハナン・ベン・ザッカイ(紀元前三〇年ごろ―紀元九〇年ごろ)です。初めてラバン、つまりラビという言葉がつけられています。彼からがラビなのです。今に続くラビの始まり、ラビニック・ジューダイズムの始まりです。

 

ヨハナン・ベン・ザッカイとは何者か

 ヨハナンは偽ユダヤ人、ユダヤ人の裏切り者の最初の人です。

 ヨセフスのことはもういいません。彼もまた故国を捨てた人であることはいいました。

 ヨハナンはユダヤ・カテドクラシーの歴史上最初の人であり、彼が律法学者、読み聞かせ人の指導制を始めたのです。

 彼はズーゴートとタンナイムの橋渡しの人物だといわれていますが、それは当たり前の話。このユダヤ戦争でサンヘドリンが消えてなくなったのですから、正副議長ズーゴートもいないのです。

 その副議長ベド・ディンであった彼はその名前を取って「ベド・ディン」という導師評議会を作りそこからタンナイムという新しい世代が始まるのです。(『ユダヤ人の歴史』二四九ページアブラム・レオン・ザハル著 明石書店)

 タンナイムとは「テナー(tenor)」という意味で「繰り返す」「教える」という意味ですが、これは「口伝を繰り返す人」というのが正しい意味です。口伝なのですから繰り返し教えるのは当たり前です。

 ですからユダヤの口伝、慣習法はこの時代はまだ文書化されていません。そして彼から始まるタンナイムの仕事とはまさにこの慣習法、口伝を文書化するという途方もないことだったのです。

 これがサンヘドリンを引き継いだベド・ディン、コート・オブ・ローの仕事なのです。

 ヨハナンは燃え盛るエルサレムから逃げ出して、ローマにお願いしてエルサレムの西の海岸地帯にあったヤブネ(ヤムニア、ジャムニア)にベド・ディンを作りました。このかたわらには鳩舎があり、ベド・ディンは「ぶどう園」と呼ばれていたのです。これは修道院モナスタリー(monastery)の始まりでしょう。

 ヨハナンは、シメオン・ベン・ガマリエル一世と共同で全パレスチナに布告を出し、サドカイに対する戦いを始めました。サドカイつぶしです。サドカイのハラハー(ハラホート)―パリサイたちの口伝、慣習法に従って出された判例集―に反対し、サドカイの司祭が自らの法にもとづいて判決を下すことに反対しました。

 エルサレムの崩壊の時、伝承によればヨハナンは棺おけに入ってエルサレムを抜け出し、ローマ軍に投降したそうです。そして後に皇帝となるヴェスパシアヌス将軍に、預言者イザヤの言葉を引いてこう言ったそうです。

 「聖所レバノンは、偉大なるお方によって滅びる運命にある」と。こうして彼はヤブネに留まり、口伝研究の学院を作るのを許されたそうです。

 ヨハナンの弟子たちの言葉によると、ヨハナンは神秘的教義、エソテリック・ドクトリン(esoteric doctrine)、ミスティシズム(mysticism)を追求していたそうです。これが何を意味するのかはわかりません。

 ヨハナンはソロモンの言葉を次のように解釈していたというのが残っています。

 「お前たちが神に対して半シュケルすら惜しんだから、己の敵の支配者に一五シュケルも払うことになったのだ」と。これはレビ記第三節にある、レビ人二七三人分のお金を払わなければならないという部分に似ています。

 ヨハナンの神秘主義研究は正典編纂作業とともに後代に受け継がれていきます。

 ローマに保護されたヨハナンのもとトーラー以外のものを正典として加える作業が行われました。

 ここからトーラーへの追加作業の歴史が始まるのです。といっても紀元六〇年ぐらいで終わるのですが。ヨハナンはトーラーに預言書、詩篇、知恵文学を追加しました。つまり今ある旧約聖書を作り上げたのです。

 こうして彼ら学者集団、平信徒、レイマン、読み聞かせ人たちによってユダヤは、雲をつかむような実体のない世界で存続していくことになります。

 この「学頭」たちも正当とそうでない者たちの間で分裂が起こりました。ヨハナンの同志、ガマリエル家系との戦いです。

 ガマリエルはヒルレル系パリサイの正統だと主張します。ガマリエルはヒルレルの孫で、そのさらに孫のガマリエル一世はヨハナンの同期でしたが、ヨハナンの死後一世の子ども、ガマリエル二世はヨハナン一党をヤブネから追放します。

(終わり)