「0052」 論文 ユダヤ人の歴史 第一章(2) 鴨川光筆 2009年11月3日

 

フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』

 紀元前後のパレスチナ・ユダヤ地域の基本的歴史資料は、フラウィウス・ヨセフス(Yosef Ben Matityahu、Titus Flavius Josephus)の『ユダヤ古代誌』(Antiquities of the Jews)である。

ヨセフス

 フラウィウス・ヨセフスとはユダヤの名門の出身である。紀元六六年、ローマ総督の度重なる宗教的侮辱と挑発に激怒したユダヤ人は、ローマに対して反乱を起こす。これを第一次ユダヤ戦争(First Jewish–Roman War)という。このときにユダヤ側の司令官として反乱を指揮したのが、フラウィウス・ヨセフスである。

 ヨセフスはローマの将軍ウェスパシアヌス(Titus Flavius Vespasianus)に投降した後、ローマの保護を受け、『ユダヤ古代誌』と『ユダヤ戦記』(The Wars of the Jews)という歴史書を書き上げる。この二つの歴史書こそ、紀元前後のユダヤ、パレスチナ地域を正確に叙述している第一級の資料である。

ウェスパシアヌス

 ウェスパシアヌスは、後にローマの皇帝になったほどの人物である。フラウィウス・ヨセフスはウェスパシアヌスの手厚い保護を受け、ローマに残された貴重な資料をふんだんに提供されて、正確なユダヤ史を書き上げた。このため『古代ユダヤ誌』には、元老院の決議文書や条約締結に関する公文書が数多く引用されている。

 ユダヤ関連の本の大半は、このヨセフスの歴史書を多数引用している。ヨセフスなくしてユダヤ人のことは語れない。それほどに歴史的に重要な人物なのである。

 先に述べたオニアス三世は、紀元前二世紀に実在した王である。ヨセフスによれば紀元前二世紀のユダヤ国家は「大祭司が国家の長」であり「その統治形態は少数貴族制(oligarchy)だった」という。

 この大祭司であり国家の長であったのが、まさしくオニアス三世(Onias III)のことなのである。これを裏付けるように、ブリタニカにも次の記述がある。

 「古代エルサレムのユダヤ人は、最も富裕であると共に、政治権力を持っていた大祭司階級に支配されていた。その中でもオニアス家は最も金持ちの家系であった」というものである。(Encyclopedia Britannica: Judaism、三八八ページ)

 オニアスは大祭司であり国家の長であった、そうして民衆を聖俗両面で支配していた、ということがこの記述で明らかにされている。オニアス家の民衆支配は、プトレマイオス朝の王権によって裏付けられ、エジプトの属国としてその姿を歴史に表したのである。

 

オニアス家―金貸しの大祭司家系

 

 このオニアス家とはいったい何者だったのであろうか。

 再度言うが、オニアス家はユダヤ王国の正統な(legitimate)大祭司の家系である。何を持ってオニアス家が正統だと言えるのか。

 それは彼らの律法がそう規定しているからである。歴史に始めて姿を現したユダヤ人は、すでに律法(Torah)という彼らの生活を律する法を持っていた。律法とは旧約聖書のことだと考えればよい。

 聖書の中には先にも述べたレヴィ記という章がある。レヴィ記とは、祭司の職務を細かく規定した章である。その中にオニアス家の系譜がずらりと書かれている。それによるとオニアス家は聖書のユダヤ王国三代目の王ソロモン(Solomon)の時代にまでさかのぼる。

ソロモン

 ソロモンは莫大な財を成した大王で、巨大な神殿を建てたことで有名である。ソロモンは神殿を管理する大祭司として、ピネハス家(Phinehas)のザドク(ツァドク、Zadok)という人物を指名する。これ以降ザドクの子孫が、ユダヤの大祭司として認められてきたのである。大祭司家系をツァドク家と記述している本も多い。

 このレヴィ記の系図を引き継いで、フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』には、オニアス三世にまで続く系統が書かれている。

 だがこれらの大祭司は聖書の中に登場するユダヤ人でしかなく、伝承に基づいた文学作品の一部であるから、歴史的に特定することは不可能である。

 ではオニアス家が実在した、という歴史的証明の輪郭がはっきり浮かび上がってくるのは、いつからなのであろうか。

 

なぜ私はアレクサンダーから歴史を書こうとするのか

 

 ギリシャ文化を継承したマケドニア王国のアレクサンダー大王(Alexander the Great)が、東方へ遠征を始めたのは、紀元前三三四年である。アレクサンダーが紀元前三二三年、バビロンで没することによってその大事業が終了する。

アレクサンダー大王

 私は、このアレクサンダーから今に続く世界史が始まったと考えている。少なくともこのユダヤ・パレスチナの出来事はこの頃ようやく聖書から離れて、新たな世界のパラダイムに乗ってスタートする。

 では、それ以前の歴史とは何の歴史であったのか。それはアケメネス朝ペルシャ(Achaemenid Empire)の歴史であり、新バビロニア(Chaldea)、エジプト(Egypt)、アッシリア(Assyria)の歴史である。

 私はこのユダヤ王国は無かった、という立場をとっている。少なくとも歴史的にユダヤ王国を確定することは困難を極める。

 今から三、四〇〇〇年前のこの時代に登場するユダヤ人は、あくまで聖書のユダヤ人である。それはアブラハムでありモーゼであり、ダビデ、ソロモン、そして預言者たちである。聖書の中に登場するユダヤ人を、私はその歴史的存在としては否定する。聖書のユダヤ史とは文学的解釈でしかないからである。

 アブラハム(Abhraham)はミタンニ王国(Mitaanni)の人物であり、孫のヤコブ(Jacob)はエジプトに突如現れた「海の民」であるとか、ヒクソス(Hyksos、訳者註:古代エジプトに住んでいた人々)であるといった解釈は成り立つであろう。しかしそれはあくまでアナロジーであり、比較であり類推である。聖書というのは、エジプトやバビロンに残されたさまざまな伝承を集めた文学なのである。文学的解釈は、学問的に分析・統合することとは違う。

エイブラハム

 

聖書のユダヤ人を研究したければ祭司文書―プリーストリー・コーデックスを読むべきだ

 

 ただし旧約聖書のレヴィ記には重要な学問的価値がある。旧約聖書はユダヤ人の律法、つまり法典である。この律法の書は、ユダヤ人が新バビロニアに捕囚された紀元前六〇五年以降に編纂が始められ、紀元七〇年頃、アキバ・ベン・ヨーゼフ(Aqibha ben Joseph)によって完成されたと言われている。アキバはラビの中のラビといわれた人物である。

ヨーゼフ

 では聖書とは何を元にして編纂が開始されたのであろうか。

 聖書は文献的には四つの資料からできている。ヤーウィスト資料(Yahwist、Jehovah)、エロイスト資料(Elo?him)、申命記(ドイトロノミスト、Deuteronomy)資料、そして祭司資料(Priestly)である。それぞれ頭文字をとってJ資料、E資料、D資料、P資料という。

 レヴィ記はこのP資料を基に作られている。P資料とはプリーストリー・コーデックス(Priestly Codex)、祭司写本という。これはどうやらアケメネス朝ペルシャの文書専門の担当役人、ソーフェリウムが使っていた公文書であったらしい。ソーフェリウムとはスクライブズ(Scribes)、書字生という。

 この祭司文書をエズラが持っていたのである。エズラはアケメネス朝の役人であったらしい。エズラは紀元前五世紀、新バビロニアを征服したアケメネス朝ペルシャの許しを得て、捕囚ユダヤ人のエルサレムへの帰還事業を推進した人物である。このエズラが新しく神殿を建て、エルサレムで民衆に向かって、律法の書を読み聞かせたことからユダヤ思想が始まる。

 ただしこのエズラもまた聖書の中の人物なので、歴史的存在として特定するのは困難である。

 いずれにしろ聖書を解析するのであるならばこのP資料、プリーストリー・コーデックスを土台にしなくてはならない。

 だから私は、アブラハムからバビロンにいたるユダヤ人の文学のことは書かない。私の仕事はユダヤ人を歴史的に確定することだけである。

 ユダヤのことを歴史のことだけに限定すると、これまで様々なユダヤ本で軽視されてきた大祭司という家系が自ずと浮かび上がってくる。この大祭司こそ、ユダヤ王国の「国体」というべき存在なのである。その大祭司の最初がジャドゥア(Jadoua)という大祭司で、アレクサンダーがパレスチナ遠征のときに出会ったとされる人物である。

 

オニアス家がなぜ歴史的に特定できるのか

 

 このジャドゥアから新たにオニアス家の家系図が始まる。ジャドゥアからオニアス三世に至るまでの間には六代の大祭司がいる。しかしここに至ってもまだ伝承の部分が多くて、ユダヤ人の存在はどうしてもはっきりしない。

 オニアス三世のお父さんは、紀元前二二〇年に即位したシモン二世(Simon II)と言う人物である。シモン二世は、聖書の続編「ベン・シラの書(Wisdom of Ben Sira)」の中で賛美されている人物である。

 「ベン・シラの書」の著者は、紀元前一八〇年頃これを著し、名をエルサレム学舎の長イエスという。紀元前一八〇年ということは、シモン二世の子オニアス三世の治世(紀元前一九八年〜紀元前一七四年)と一致する。イエスの子は、プトレマイオス六世エウエルゲデスの治世にアレクサンドリアに来てこの書を翻訳している。

「ベン・シラ」が含まれている聖書続編とは外典とも言う。聖書外典はカトリックでは正典と認められているのだが、プロテスタントとユダヤ教は認めていない。実は「ベン・シラ」は外典の中でも最大のもので、これこそが外典の中心というべきものなのである。「ベン・シラ」は、著者と翻訳者、著作時期と翻訳の年代が明確で、古代ユダヤ教文書の中でも例外的な文書である。

 「ベン・シラ」に登場するシモン二世は、義人シモンとも呼ばれている。英語でサイモン・ザ・ジャスト(Simon the Just)と言われる義人シモンは、半分伝説上の人物であり、人々からの尊敬を集めていた人物だったと言われている。著者イエスも、シモン二世に最大の賛辞を送って書を終えている。だがシモン二世が本当に存在した人物であるのかというと、それもはっきりしない。

 ジューウィッシュ・エンサイクロペディアによると、義人シモンだと言われている人物は四人いる。一人はジャドゥアであり、もう一人はジャドゥアの孫シモン一世である。もう一人は、後に登場するサイモン・マカバイオス(Simon Maccabaeus)という人物である。

 だがシモン二世が義人シモンである確率は高い。なぜならシモン二世の治世は、ユダヤ史上最初の繁栄期だったからである。繁栄期の王である大祭司シモン二世が民からの賞賛を受けていた、というのは想像に難くない。そしてシモン二世の歴史的実在は、その父オニアス二世によって裏付けられる。ユダヤ最初の繁栄は、シモン二世の父オニアス二世から始まるのだ。

 オニアス二世は、紀元前二四五年大祭司に即位する。なぜオニアス二世によってシモン二世が実在を裏付けられるのか。実はこのオニアス二世によって、この当時のユダヤ、エジプト、パレスチナのあらましが、歴史的に初めて浮かび上がってくるのである。

 

ヨセポスの徴税請負物語

 

 オニアス二世は宗主国プトレマイオス朝に対して、ちょっとした事件を引き起こす。この事件が、当時のオリエント世界の徴税支配の全貌を明らかにしてしまう。

 このオニアス二世という人は、頭の悪い人であったらしい。エジプトから請け負っていたはずの徴税収入をエジプト王に貢納する義務を拒み、プトレマイオス五世を怒らせてしまう。

 このとき突然ヨセポスという男が現れる。ヨセポスはオニアス家の親戚のトビアス家の出身でオニアス二世の甥であった。

 ヨセポスは事態を収拾するために、急いでエジプトに赴く。彼はプトレマイオス王をたちまちのうちに丸め込み、エジプトからの帰り道、ユダヤの周辺地域の徴税権を王から手に入れることに成功する。

 ヨセポスという男は実に好意的に『ユダヤ古代誌』に描かれているが、その記述をよく見てみると、非常にあくどい、口のうまい、頭のよい、恐ろしい男である。

 プトレマイオス朝が行なっていた徴税権請負入札は、このヨセポスの話に出てくる。「ヨセポスの徴税請負物語」と題されたその一説には、ヨセポスがいかにしてプトレマイオス王に取り入ったのか、という話のあらましが描かれている。

 さて、各都市における徴税権請負の競売される日がめぐってきて、各国の高位の有力者はそれぞれに入札に応じた。

 ところが、コイレ・シリアからの税とフェニキア、ユダヤおよびサマリアからの税の総計が八〇〇〇タラントンで落札されようとしたとき、突然ヨセポスが王の前に進み出て、入札者たちが、あらかじめ低価格で競り落とせるよう話し合いをしていたことを責め、自分ならばその倍額でも応ずること、また税金の滞納者からの没収財産は、従来徴税権の中に含まれるものとして取り扱われてきたが、それも王に直接返還しよう、と約束した。

 王は、自分の歳入が増加すると思えたので、この申し出を喜び、徴税権を彼に売ることを認めようと答えたが、しかし、いったいだれが彼の保証人となるのかと尋ねた。

 これにたいする彼の答は、きわめて賢明なるものだった。

 「もちろん、わたしは、王が信頼される最高の品性をそなえた人物を保証人として申し出るつもりです。」

 王が、それはだれか、とさらに質すと、彼は答えた。

 「陛下。それは余人ではございません。わたしのために保証にたち、かつ互いに相手の損失を負われる方は、王ご自身と王のお妃とでございます。」

 結局、王は、この申し出に大笑いをしながら、事実上は保証人なしで彼に徴税を請け負わすことになった。前掲書五八ページ「オニアスの甥ヨセポスの徴税請負物語」

 読者の皆さんはこれではいまひとつ何のことかわからないと思うので、解説を加えようと思う。

 ヨセポスは実に口のうまい男だった。徴税権を最も高い値段で買うと言って、さらに没収財産、つまり差し押さえの現物を王に引き渡すと言う。

 この話を聞いて王は自分の歳入が増加すると思えた、というのも無理はない。大喜びでこの口のうまい男をもてなしただろう。

 私の分析ではこういうことである。競争相手たちの間で談合があった、というヨセポスの言い分も本当の話だったであろう。ヨセポスは競り相手を出し抜いて王に取り入ったのである。

 王が保証人になったくだりの意味は実にわかりにくい。しかしここがヨセポスの逸話の肝要である。

 この徴税権購入代金は後払いである。徴税額から毎年決まったお金を宗主国エジプトに貢納する、というシステムである。代金後払いならば、先に徴税を行ってしまえばよい。

 自分が徴税に成功すれば、ただで権利を手に入れることが出来る。ただしそれには、相手が必ず税を払うという「保証」が必要となる。請負には必ず保証、後ろ盾が必要である。

 ヨセポスの「私のために保証にたち、かつ互いに相手の損失を負われる方は王ご自身と王のお妃でございます」という言葉がここに生きてくる。

 これはヨセポスが王を担保に入れたということなのである。

 徴税の後ろ盾、王の権力、パワーを保証にしていればいくらでも苛烈な取立てができる。相手を殺してでも正義を実行出来る。「錦の御旗」は自分のほうにある。それで王を後ろ盾として、王がヨセポスと王自身の保証人ですと言ったのである。

 これこそが主権の本当の意味である。主権とはソーヴリィンティ(sovereignty)という。王権と言い換えてもいい。その国の真の持ち主ということである。だがソーヴリィンティの真の意味は、「苛烈なる税の取立てを保証してくれる者」なのである。

 平安、鎌倉時代の地頭のやり口と同じである。地頭も朝廷や幕府の後ろ盾を背景に苛烈に取立てを行った。「泣く子と地頭には勝てない」ということわざが残っているほどに地頭は恐ろしかったのである。

 ソーヴリィンティ、王の権力による徴税の後ろ盾を得たヨセポスは、アシュケロンという街で早速それを実行する。アシュケロンで税の支払いが住民から当然のように拒否されると、直ちに町の有力者を逮捕、処刑し、王との契約どおりに財産を没収して王に引き渡してしまう。

 これに喜んだ王は、完全にヨセポスの後ろ盾となり、ソーヴリィンティをすっかり預けてしまう。パレスチナの徴税を完全にヨセポスに任してしまったのである。

 これに勢いづいたヨセポスは、各地で街の有力者を逮捕、処刑し、莫大な金を集め、王に贈り、自らもその富を享受した。

 この徴税請負の顛末こそが、この時代のパレスチナで起こった真実なのである。

 

大祭司でありバンカーズであったオニアス家

 

 このヨセポスの話は、プトレマイオス朝の商務担当高官の記録としてゼノン・パピルスという文書にも残されている。この逸話によって、オニアス二世から子の義人シモンの歴史的存在の信憑性も確かなものとなる。

 重要なのは、徴税請負という事業が古代から行われていた、ということもはっきりしたということだ。徴税請負とはこのとおり、宗主国の主権によって裏付けられているのである。ここに宗主国と属国の関係とは、宗主国の主権を担保にした主従関係である、という事実が歴史的に初めて提示されたのである。主従関係こそが国際関係の基本なのだ、ということを私たち日本人は理解しなくてはならない。

 このヨセポスの大集金活動のおかげで、ユダヤ王国は大繁栄する。

 ではヨセポスの徴税によって作られた資産はこの後、いったいどうなったのであろうか。この莫大な資産は、エルサレムの神殿に預けられていたのである。オニアス家はエルサレム神殿の管理者であった。大祭司とは神殿のスーパーバイザーでもあったのである。

 エンサイクロペイディア・ブリタニカには次のような重要な記述がある。オニアス家が管理していた神殿は、事実上バンクであったという。これは神殿の実際上の機能は、一般庶民の私有財産管理だったということである。(Encyclopedia Britannica: Judaism)

 オニアス二世が貢納を拒絶したのはなぜなのかわからないが、オニアス家もプトレマイオス朝から徴税を請け負っていたことは事実である。

 彼らの神殿に預けられていた民の私有財産というのは、オニアス家が徴収した民の税金のことである。プトレマイオス朝の保証を得て、民の財産を預けさせる形で税を徴収していたのだ。

 おそらく民から預かった財産、財宝の借用書を発行していたのだろう。これが紙幣の原型であり、国債である。古代ユダヤ人の存在を証明する古いパピルス文書の断片群には、お金の借用書や証文が無数に残されている。

 このようにして紙幣、マネーを流通させることによって、排他的特権を持った少数の貴族たちが大多数の民衆を支配していたのである。

 この体制を寡頭政治、オリガーキーという。

 

オリガーキー―少数の人間が楽に儲かる仕組み

 

 フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』には、もうひとつ重要な記述がある。「当時のユダヤの政体は少数貴族制であった」という箇所である。この「少数貴族制」とは寡頭政治のことを意味している。

 紀元前三〇〇年から二〇〇年に至るユダヤの状況は、あらゆる歴史資料を導入しても、まったく判然としないと言われている。しかしこのヨセフスの記述には、はっきりとした当時のユダヤの有様が描かれている。ユダヤ人たちは、大祭司をトップにいただいた寡頭政体による支配を受けていたのである。いや、「寡頭」とか「少数貴族」という言葉ではこの政体の本質は表され得ない。

 寡頭制、オリガーキーの本当の意味は、フュー・トゥ・ルール(few to rule)という。オリの部分がフュー「少数の」で、ガーキーがルール「支配する」を表している。「少数による支配体制」が正しい意味である。

 オリガーキーとは、古代ギリシャのスパルタが採用していた制度である。アリストテレスの『政治学』によれば、オリガーキーとは僭主制(tyrant)、民主制(democracy)に並ぶ三大悪政である。数の上では民主制の対立概念である。少数の持てる物が国政を預かった場合、オリガーキーと呼び、大多数の持たざる者が国政を預かったときに民主制となる。両者ともに本質的には独裁的傾向を帯びるという共通性を持つ。

 この少数の者たちが多数を支配するためには「排他的特権」がなくてはならない。オニアス家にとってこの特権は、プトレマイオス朝のソーヴリィンティである。王権による裏づけによって、彼ら持てる少数の者が、持たざる多数を排除する特権を享受出来るのである。

 高級クラブやホテルのことをエクスクルーシヴ(exclusive)=排他というが、寡頭制とはまさにこのイメージである。

 この大勢の者たちを少数が支配する道具が、金融と近代法、そして議会制民主主義なのである。だが紀元前二世紀にはまだ、民を支配するための法も、議会制民主主義も完成していない。ユダヤ人は、彼らの生業である金融業をスムーズに運べるように、近代法の確立に努めた。紀元七〇年、ユダヤ国家が滅びた後、約一〇〇〇年の歳月をかけて近代法の基礎工事に取り掛かったのである。 

 では近代法の無かったこの当時、ユダヤ人の金融業を正当化したものは何であったか。それが先に述べたプトレマイオスの王権、ソーヴリィンティである。オリガーキー支配というのは、必然的に宗主国の代理店国家という側面を持つのである。そうすると王権を担保に入れた宗主国と属国との相互依存関係が出来上がる。

 国際関係が複数の国家による関係で成り立つ、というのはそもそも幻想である。北朝鮮の問題を解決するための六ヵ国協議であるとか、日英同盟解消後の四カ国同盟などは本質的にはどのような「関係」でもない。国際関係というのは、宗主国と属国の二国間関係でしか成り立たない。そして宗主国の主権をバックにした属国の地域民衆支配のために徴税を請け負う、という形が国際関係の本質である。それは現在の日米安全保障体制がそうであり、かつては日英同盟がそうであった。

 だから徴税を請け負う側の属国も、委託する側の宗主国も、お互いを手放したくない。

 請け負う側の属国の立場は、必ずしも弱いというわけではない。宗主国の主権が属国にとっての徴税保証、担保として機能している限り、徴税は上手く行き、両国の関係も良好である。その間はむしろ属国のほうが、立場が強い。国同士が絶妙なパワー・バランスを保っていられるからである。ここにエクィリブリアム・セオリー(equilibrium theory)という思想が登場する。これも後に詳しく述べようと思う。

 

請負という言葉の本当の意味

 

 請負の本来の意味は、王権を担保に取るという行為が示すように極めて悪辣である。

 請負のもとの言葉はアシューム、アサンプション(assumption)という英語である。アシューム(assume)というのは仮説、仮定をもとに物事を始めよう、という意味である。これは人為人定法の思想である。人為法というのは、人間が作った法という意味であり、自然の法の対立概念である。この世にあるすべての成文法が人為法である。

 法の前提となる真理、真実は人間が勝手に作って、その上に法体系を築き上げていこうと言うというのがアシュームの意味である。

 物事を請け負う際に「なぜ私に徴税を請け負う根拠があるのかわかりません。法的根拠なんかまったくありません。私にやらせた結果がよくなるのかどうかもわかりません。それどころかいっそう悪くなるかもしれません。それでも私がやります。王権を私に預けてください」ということなのである。

 アシュームにはもうひとつ別の意味がある。それは強奪、簒奪という意味である。何を強奪するのか。読者の皆さんは、ここまでくればもうお分かりかと思う。主権や王権を奪い取るのである。請負、アシュームの本当の意味は、少数の者たちが宗主国、あるいは自国の主権を勝手に簒奪するということなのである。王権を担保に取るとは、簒奪、強奪行為を意味するのである。

 王権を簒奪することによって徴税を請け負う。そのため支配地の民一人一人をお金に換算し、納税額を算定することができたのである。

 この時代はすでに金貨と銀貨が流通し、神殿を中心にした貨幣経済が浸透していた。神殿をバンクにするというのはギリシャ人の発想である。オニアス家は、このギリシャ起源の神殿バンク・システムを踏襲したのである。

 あとは民一人一人が一生懸命働いて、お金で交換できる価値―財とサービス―を生み出してくれたらそれでよい。請負とは、奴隷という労働力所有よりもはるかに割がいいのである。だからユダヤ人は伝統的に奴隷を嫌ったのである。各地に奴隷解放にまつわる伝承や、歴史的記録が残っているのは、そのためである。

 モーゼの出エジプトや、バビロンからエルサレムへの帰還をペルシャに許された逸話がまさにそれである。しかしそれらは当然はっきりしない。

 オニアス家以前のユダヤ人の存在は、エレファンティネ・パピルスという古文書によって明らかにされている。エレファンティネとはナイル・デルタ地帯の島で、アレクサンドリアのもとの地名である。

 それによると、大多数のユダヤ人は紀元前二、三世紀頃、アレクサンドリアで奴隷労働をしていたらしい。ユダヤ人の集会所の考古学的最初の証拠も、この時期のエジプトに存在する。これが歴史的に現れる最初のユダヤの民の姿である。オニアス家の歴代の大祭司は、この奴隷を解放して欲しかったのである。

 紀元前二七五年に大祭司に即位したオニアス家第四代のエレアザルは、プトレマイオス二世フィラデルフォスにアレクサンドリアの同胞たちを解放してくれるよう懇願していたと、ヨセフスは書いている。文書化された最古の聖書「七〇人訳聖書、セプトゥアギンタ」はプトレマイオス六世が、アレクサンドリアの奴隷を解放してくれたお礼に作られたものなのである。

 ユダヤの大祭司たちは、ユダヤ人を隷属の身から解放し、一人一人のタレントに応じて納税をさせたかったのである。古代ユダヤは、徴税請負に基づいたオリガーキー支配であったとはいえ、実に先進的な考えを持っていた国だった。人は人質であり、価値であり、宝だったのだ。

 

奴隷は大切にしよう―オニアス三世はよくわかっていた

 

 大祭司オニアス三世はこのことをよく理解していた。奴隷というのは労働力の所有でしかなく、お金がかかりすぎる。管理が面倒くさい。いじめすぎると暴れだす、逃げ出す、文句をいう、甘やかしたら怠ける、優しくしたら情が移る。実に面倒くさい。そこで人をお金に換算して、人間を間接的に支配する、という発想が生まれたのだ。

 人の価値を知っていたオニアス三世は、支配民たちを大切にした。いじめすぎてもだめ。手厚く保護しすぎてもだめ。ほどほどのバランスを保って身分相応の生活をさせてあげよう、そう考えたのである。これが金融オリガーキーの本当の姿なのである。

 ここにユダヤの陰謀とか、神秘的なものは入り込む余地はない。金融オリガーキーは実にはっきりとしたシステムであった。

 人民はオニアス家にとって大切な労働力であり、お金の価値をせっせと作り出してくれる大切な国家資産だった。

 この平和と繁栄を享受していたユダヤ王国は、紀元前二世紀、オリエント世界全体を揺るがす大事件に巻き込まれることになる。

(つづく)