「0054」 論文 サイエンス=学問体系の全体像(1) 鴨川光(かもがわひろし)筆 2009年11月16日

 

 今は歴史ブームなのだという。歴女(れきじょ)、歴史マニアの女性などもいて、史跡巡りに夢中なのだそうである。特に戦国時代ブームで、戦国武将が登場するパチンコがあるほどに、歴史ブームは、空前の活況を呈している。歴史検定試験というのもある。

 私を含めて一般人が歴史小説やNHKの大河小説に夢中になって、歴史マニアになることは無邪気なものである。ところが、歴史を専門にするということは、一応アカデミックな範疇(はんちゅう)にはあるということになってはいるのだが、果たして歴史が近代学問、モダーン・サイエンス(modern science)に入るのかどうかという問題がある。

 副島隆彦氏は、主著のひとつ『決然たる政治学への道』(弓立社、ゆだちしゃ)にて、歴史学や文学は厳密にいって科学=学問の範疇に入らない。あれは人文、ヒューマニティーズ(humanities)である、と述べている(一七九ページ)。

            

『決然たる政治学への道』(「副島隆彦の学問道場」の書籍頒布コーナー、頒布番号「35」でお求めいただけます。こちらからどうぞ)

 ヒューマニティーズのひとつである歴史学は「人間が歴史的に積み上げてきた、過去の文化遺産についての調査研究」であり、学問に入らないのは不都合なので、仕方なく学問制度上入れられているに過ぎないという。

 しかしこのことは副島氏の勝手な考えなどでは決してない。これとほぼ同様なことがこれまでの知識の集積を網羅した、イギリスのエンサイクロペイディア・ブリタニカEncyclopedia Britannica のザ・ソシアル・サイエンスという章の冒頭に書かれているからだ。

(引用開始)

 History is regarded by many as a social science, and certain areas of historical study are almost indistinguishable from work done in the social sciences. Most historians, however, still consider history as one of the humanities. It is generally best, in many cases, to consider history as marginal to the humanities and social sciences, since its insights and techniques persuade both.

(訳)

 歴史学も社会科学のひとつだと考える向きもしばしば見受けられる。確かに歴史学におけるいくつかの研究は、社会科学の業績を使用したものがあり、それらを社会科学と切り離すことはできない。しかし、歴史家のほとんどは、歴史学は人文のひとつだと考えている。歴史学は、多くの点から考えて、社会科学と人文の境目に位置する学問分野だ、と見なせばよい。なぜなら、歴史学の成果と研究のための方法や技術は、社会科学と人文の両方で使うことができるからだ。

(引用終わり)

 

 これが正しい歴史学の定義である。歴史学というのは日本の大学制度では文系学部のひとつで、経済学や政治、社会学らと同様に、社会科学だという風にとらえられている。

 しかし正しくは、ヒューマニティーズ、人文の中の一部門である。歴史学者自身がそのように考えているのである。

 副島氏のこの『決然たる政治学への道』がなぜすごいのか。それは第七章において学問の正しい体系を提示しているからである。同書は弓立社というところから出版されており、今ではなかなか一般の手に入りにくい。私自身も街の図書館で手にして始めて知ることが出来た。

 私が副島氏とそのファンや支持者とのやり取りを見ていると、どうもおかしいと思うことがある。副島氏にメールを送ったり、掲示板で発言をしたりしている人々の文章を読んでいると、どうもこれは学問体系の基本的知識が抜けているのではないかと思うことがたびたびある。

 「社会科学である歴史学の〜」といった根本的な間違いが、多くの発言の中に今でも絶えない。「南京大虐殺は唐智生将軍がオープンシティにしなかったから起こった、云々〜」。

 それもそのはず。この『政治学への道』は、言っては失礼なのだが、マイナーな出版社から出ており、たぶん都心の大きな書店にも置かれていないからである。だから、大多数の人々が副島理論の核心部分を読んで理解するという機会が失われているのである。

 そこで私は私の文章を読んでくれているほんのわずかな人たちのためだけにでも、同書の主要部分を紹介しようと思います。副島理論が世界的水準にあるということはすでに証明された事実である、ということをブリタニカで補強説明し、読者の皆さんに提供しましょう。

 

学問の体系

 

 同書の一七四ページに「本当は学問の体系はこのようになっているの図」というのがある。それによる世界基準の学問体系は(T)神学、シオロジー(theology)と(U)学問、サイエンスと(V)文学=人文で出来ており、神学と学問は対立しているとなっている。文学は人文と同義で、下等学問、またの名をリベラル・アーツ(Liberal Arts)であるという。

 学問、知識の体系は、神学と学問の大きな対立構造にある、というのが世界基準だという。

 ここで面白いのは、哲学と数学は学問ではない、ということである。この二つは神学の範疇であり、神学の下にある兄弟のような存在である。

 副島氏はこのことをウェブサイト「副島隆彦の学問道場(ウェブサイトへはこちらからどうぞ)」内の『今日のぼやき「001」』にも書いている。哲学は何の具体的事実による証明もいらないものであり、学問=サイエンスではない。この哲学とはなんであるかということは後に詳述しようと思う。

 哲学は中世ヨーロッパで現代のモデルとなった大学制度が出来たとき、その中心の学であった神学を補佐する役割として哲学部が置かれた。哲学は神学のはした女、ハンド・メイデンといわれた。

 (U)の学問=サイエンスの四角い囲みの中には、自然学問、ナチュラル・サイエンス(natural science)と社会学問、ソーシャル・サイエンス(social science)とが書かれている。

 これがいわゆる日本の大学受験制度の理系、文系の枠であるかといえばそうではない。ここには本来理系に入るべき数学科も、文系に入るべき哲学科、法学部、文学部もない。

 副島氏が言うには科学とは学問のことであり、これは自然学問と社会学問に分けられる。その中で自然学問は大きく四つ、物理(physics、フィジクス)、化学(chemistry、ケミストリー)、生物学(biology、バイオロジー)、医学(medical science、メディスン、メディカル・サイエンス)という範疇で構成されており、社会学問は、経済学(economics)、政治学(political science)、社会学(sociology)、心理学(psychology)で出来ていると述べている。このことは一七二ページ、「Science(科学=学問)の体系表」にも明らかにされている。

 そして(V)に文学=下等学問=人文という四角い枠がある。ここに「人文とはもともと、生活の知恵、及び古文書や石碑を解読すること」と書かれている。

 一七九ページとあわせて考えると、人類が過去に文字として書き残したものを解読すること、という意味である。そして副島氏は、この意味では文学、歴史は明らかにヒューマニティーズである、と述べている。先に挙げたブリタニカのソーシャル・サイエンスという部分にも、そのように書かれている。

 

ヒューマニティーズとは「七科の学」である

 

 ここまで来ると、日本の大学制度がおかしいという副島隆彦氏の主張は、一貫性を帯びてくる。科学と対立(今は同盟を結んでいる)しているはずの哲学が文学部の下に入って「文学部哲学科」などということはありえない。すべての科学=学問の思想的基盤を作る哲学が、下等学問である人文=文学の一部門のわけがない、ということになる。

 そして早稲田大学にある文学部心理学専修というのはなぜか昔から人気があるが、あれも学問体系上トンチンカンなことということになる。社会科学の一部門である心理学が文学部の下に来るはずがない。

 ついでに法学も日本の大学では経済学と並んで、社会学問、文系学科の中に組み込まれているが、これはおかしい。法はサイエンスではない。「法学」とは本来「@神に関わらないこと、かつ、A科学(学問)に関わらないことで、B現実の人間世界(俗世、セキュラーという)の争いごとに決着をつける正義判断(Justiceジャスティス)のことであって、学問ではない。」(一八一ページ)と副島氏は述べている。

 科学とは自然界や人間社会の中で何かを発見するものであり、発見とは発明よりも価値のある上位に位置するものである。だから法というのは何かを発見出来るものではない。自然法の発見とか、人定法の話は別の機会に譲ろうと思う。

 そうすると法は先の図の三つの四角、神学、学問、人文のどれにも入らない、きわめて特殊な存在なのだということがわかる。

 ただし、比較法学、コンパラティヴ・ロー(comparative law)というのがあって、これは社会学問として認められている。このことを含め、副島氏の理論を検証してみよう。

 現在の大学制度というのは中世ヨーロッパで作られている。法学で有名なボローニャ大学(University of Bologna)や医学で有名なサレルノ大学(University of Salerno)、そして総合大学ではケルン大学(University of Cologne)が典型であるという。しかし本当は、こうした制度は中世イスラム、そしてその前のササン朝ペルシャのネストリウス派キリスト教徒が作っている。

 そして大学とはまず神学が中心でその下に法学、医学、哲学からなる四つの学部で出来ていた(同書一八四ページ)。さらにそれらを学ぶ基礎としてヒューマニティーズがあり、リベラル・アーツ、七つの自由学科として置かれていた。

 このことはエンサイクロペイディア・ブリタニカ第二五巻、ザ・ヒストリー・オブ・ウェスターン・フィロソフィー、七四三ページに書かれている。

 それによると、七つの自由学科とは聖ヴィクトワールという修道院の僧侶たちが一一、一二世紀ごろ発展させたものであるという。

 僧侶の一人ヒューが、「ティーチング(ディダスカリコン)」(一一二七年)という論文の中で、「理論・実践的諸学問(サイエンシズ)とザ・トリヴィアム(the Trivium)、ザ・クワッドリヴィアム(the quadrivium)」という言葉を残している。

 ザ・トリヴィアムというのは三自由学科で、副島氏の言うように文法(grammar、グラマー)、修辞学(Rhetoric、レトリック)、弁証法(dialectic、ダイアレクティーク)のことである。

 ザ・クワッドリヴィアムが残りの四科で、算術(Arithmetic、アリスメティック)、音楽(music、ミュージック)、幾何(geometry、ジオメトリー)、天文(astronomy、アストロノミー)であると書かれている。

 これがいわば日本の大学一、二年で学ぶ「一般教養」(ぱんきょう)と呼ばれているもので、形式だけ導入されている。しかしこれは、小学校で習う算数と国語のことである。小学校の算数とは計算と図形のことなのだからまさに算術と幾何を合わせたものである。

 

科学―自然科学が生まれるまで

 

 副島氏は同書で、自然科学は物理、化学、生物のことであり「医学も一応ここ」としている。一七二ページの表で医学は別枠になって入るが、この四つを自然科学の主要な領域であるとしている。

 副島氏はその裏づけとしてノーベル化学賞(物理・医学生理学・化学賞。生物学賞は分子生物学として医学に含まれる)を挙げているが、これも氏の独断的なものではなく、ブリタニカできちんと裏づけのとれるものである。

 副島氏の主張した学問の大きな枠組みを、科学の発展段階を追いながら、しつこく補強していこうと思います。

 『ザ・ニュー・エンサイクロペイディア・ブリタニカ』(第一五版)マクロペイディア第二七巻にはザ・ヒストリー・オブ・サイエンスという章がある。ここの三六ページからザ・ライズ・オブ・モダーン・サイエンスという項が始まる。ここに科学史の世界的基準となるあらましが書かれている。

 以下からがブリタニカのサイエンス・ヒストリーである

 一四世紀のイタリアで、テクノロジーに対する時代の政治的要請から新しい職業としてエンジニアたちが登場してくる。彼らは実際的な問題に直面する際にさまざまな困難に遭遇し、解決の糸口を見つけようと苦しんでいた。

 その中から現れたのがレオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)である。ダ・ヴィンチら技術者たちは自然の真実を知る必要に迫られる。そんな状況の中で彼らは、どれだけの本を読もうと実際に経験したものにはかなわないという事実に直面する。

レオナルド・ダ・ヴィンチ

 ブリタニカ(マクロペイディア)第二五巻フィロソフィーの章(七四八ページ)には、ダ・ヴィンチが前提として掲げた次の三つの命題が書かれている。

(引用開始)

 (1)経験こそは私の主人である。経験の作者が誰であろうともかまわない。私は私自身が経験したことを私の主人となす。この主人に私はあらゆる私の主張したいことをぶつけるのだ。

  (2)活動しているあらゆる物体の運動を観察しなければならないことを考えると、器具や機械によって得られた知識ほど質の高い、われわれに役立つものはない。

 (3)数学的に導き出され証明された知識を適用出来、それに基づいたもの以外確実といえるものはない。

(引用終わり)

 ダ・ヴィンチの掲げたこの三つの命題はそれぞれ(1)が経験主義、エンピリシズム(empiricism)、(2)が機械論、メカニズム(mechanism)、(3)が数論的説明、マスマティカル・セオリー(mathematical theory)という近代学問が必要とする要件へと発展していくのである。

 副島氏は科学とは自分が経験したものでなくてはならず、そこに数学が適応できなくてはならないということを述べているが、上記の部分はまさにそのことを言っている箇所であろう。

 このダ・ヴィンチの掲げた科学の三命題ともうひとつ時代を動かした事件がある。それが一四九二年のコロンブス(Christopher Columbus)による新世界、アメリカの発見である。この大事件が、クラウディオス・プトレマイオス(Claudius Ptolemaeus)の宇宙論を大きく覆すことになる。

        

クリストファー・コロンブス    プトレマイオス

 プトレマイオスによると、地球には大陸は三つだけであり、それはヨーロッパ(Europe)・アジア(Asia)・アフリカ(Africa)である。聖アウグスチヌス(St. Augustinus)もこれを認めており、「そうでなければ人間は地球の反対側をさかさまに歩かなくてはならないだろう」と述べている。

 ということは一五世紀当時だけでなく、教父アウグスチヌスが生きていた時代(西暦三五四〜四三〇)の四,五世紀には地球が丸いということは知られていたことになる。

 いずれにせよコロンブスの新世界発見によってキリスト教公認の宇宙観が崩れ始める。

 

ヘルメス・トリスメジストス

 

 ブリタニカのザ・ライズ・オブ・モダーン・サイエンスには近代学問成立の三つ目の要因としてヘルメス・トリスメジストス(Hermes Trismegiste)を挙げている。

 キリスト教世界に対する疑問によってこの時代すでにアリストテレス(Aristotle)やガレノス(Galen)など、古代ギリシャ研究もようやく活発化することになる。

     

アリストテレス         ガレノス

 しかし、そうした古代文書の研究によってルネッサンスの活動に決定的に影響を与えたのは、膨大な「ヘルメス文書」だとブリタニカは述べている。

 「ヘルメス文書」とは伝説上の祭司であり預言者、賢人であるとされているヘルメス・トリスメジストスという人物によって書かれたものだといわれている。この人物はアイザック・ニュートンも心酔したということが取りざたされている。

    

ヘルメス        ニュートン

 ヘルメスの主張はこうである。

 「人間はただ合理的動物(rational animal) として作られたわけではない。人間は人間自体が創造者として神の姿そのままに作られたのだ。そのためには、火と蒸留と錬金術的操作によって自然を拷問にかけ、責めさいなんでやるのだ。そうすることで自然の秘密が明らかになるであろう。自然の秘密を暴くことに成功したあかつきには、人間は生老病死といった苦悩から自由の身になるであろう」というまさに人間宣言である。

 このトリスメジストスの言葉が後に次のように解釈し直される。

 「科学と技術によって人間は自然を屈服させ、意のままに操ることが出来るようになる」

 これがサイエンスの近代的考え方となるのである。この解釈がそれまで何世紀分もの遅れをとっていた西洋の東洋に対する優越への布石となる。

 コペルニクスが出てくるまでにこのような3つの重大な要因があったわけである。

 

ザ・サイエンティフィック・レヴォリューション―コペルニクス

 

 ブリタニカ三七ページのザ・サイエンティフィック・レヴォリューション(The Scientific Revolution)はコペルニクス(Nicolaus Copernicus)から始まる。

コペルニクス

 コペルニクスは一四七三年生まれで、その死の間際に『天球の回転について』(On the Revolutions of the Celestial Spheres)が出版される(一五四三年)。この中でコペルニクスは宇宙の中心に地球ではなく太陽を据える。この後に地動説と呼ばれる宇宙の大転換によって、それまでその複雑さのゆえに混沌となりがちだったプトレマイオスの宇宙の無駄が省かれ、優美でかつ簡潔な太陽系が生まれる。

 天文学者たちを長年惑わせ苦しめてきたのは惑星の逆行運動であった。特に火星がそれである。地球を宇宙の中心に据えた天動説では、なぜ火星がそれまでの進行方向から反転し、逆行するのかということの説明がつかなくなってしまうのである。

 そこでプトレマイオスの宇宙には、惑星が公転軌道上で何もないところを軸にしてグルグル回転しながら運動をするという仕組みが作られている。ブリタニカはこれを指して、「プトレマイオスの宇宙システムにうまく収めんがための桁外れの発明の才」(プロディジャス・インジェニュイティ、prodigious ingenuity)だと評している。

 ところが地球が火星の内側を走っているととらえれば、火星の逆行運動はいとも簡単に説明がつく。地球が火星を追い抜けばいいのである。それによって火星は地球から見たら急に方向を変えて動いて見えるのである。電車が電車を追い抜くときと同じ現象である。ただし、地球が火星を追い抜くためには内側の惑星の公転周期が短い、外側の惑星よりも速いスピードで太陽の周りを回るという証明が必要だが、これにはケプラー(Johannes Kepler)まで待たなくてはならない。

ケプラー

 もうひとつは明けの明星、暁の明星の問題があった。金星は春には明けの、秋には宵の明星といって、常に太陽と一緒に上り下りする。決して太陽の反対に現れることはない。この謎も太陽を中心に据えた宇宙システムで簡単に説明がついた。

 金星(と水星)の軌道は地球の内側にあり、より太陽に近いところを回るとするだけで、この疑問も解消されてしまったのである。

 コペルニクスはポーランド人であり、トルンという町に生まれている。彼の最初に入った大学はクラクフ(クラコウ)大学(Jagiellonian University)という。この都市は東ヨーロッパ系ユダヤ人、アシュケナージ色の強いところである。コペルニクスは神学を学ぶために大学に入った。

 一五〇一年にはパドヴァ大学(University and Padua)というところに入学する。ここは来たイタリアにあり、解剖学研究の牙城であった。解剖学研究の祖ヴェサリウスがいたからである。ガリレオもここで学んでいる。

 しかしこれで宇宙の問題がすべて解消されたわけではなかった。地球の自転の問題がある。

 地球が自らの軸を中心にして回転するというのなら、地球上にいる人も木々もすべての物が振り飛ばされてしまうではないかという問題である。

 恒星の視差(ステラー・パララックス)の問題もある。天球に張り付いているはずの恒星は、どうして一定の場所に止まったままなのか。シリウスやオリオン座のリゲル、ベテルギウスといった瞬く星は、惑星と違って動かない。季節によって見える位置が変わるだけである。

 地球が動いている(自転、公転を含めて)というのなら、どうして構成の位置が変わらないのか、おかしいではないかということである。

 プトレマイオスの宇宙観は、地球を中心にして、その周りをクリスタルで出来たいくつかの天球が取り囲んでいる。惑星の軌道はこのクリスタルの天球に張り付いていて、天球の回転とともに地球の周りを回ると考えられていた。これをクリスタライン・オーブcrystalline orbという(リーダース英和辞典)。

クリスタライン・オーブ

 そのオーブの一番外側に恒星が、張り付いていたと考えられていたのである。

 コペルニクスは、恒星たちはあまりに遠く離れているので、視差が存在しないという説を支持した。そして、広大な宇宙にはただ何にもない広がり、エンプティ・スペースがあるだけだという考えを認める。

 ここに神、ゴッドの存在の問題が関わってくる。それではなぜ何の目的で、神は何もない広大無辺な広がりの中に人間を放り出したのか、というということになる。

 アリストテレス的宇宙観に基づいた社会階層の中では、ダンテ(Dante Alighieri)が『神曲』(La Divina Commedia)の中で表した世界を捨て、コペルニクスを受け入れることは危険なことであった。宇宙をユークリッドの作った平坦なものに置き換えるということは、自らの政治生命と聖職者としての道を捨て去ることを意味した。

 

ティコ=ブラーエ、ケプラー、そしてガリレオ

 

 ブリタニカ三七ページの見出しにはこの三人の名が挙げられている。コペルニクスの新たな思想はこの三人によって裏付けられていく。

 デンマーク人ティコ=ブラーエ(Tycho Brahe、一五四六年〜一六〇一年)は16世紀当時、これまでの誰よりも正確な天体観測データを持っていた。このティコ=ブラーエの精密な観測によってクリスタライン・オーブの透明な壁が突き破られることになる。

      

ブラーエ        スーパー・ノヴァ

 一五七二年、ティコ=ブラーエは超新星(スーパー・ノヴァ、super nova)を観測する。このカシオペア座で起こった超新星はティコの星と呼ばれている。

 ティコは自分がいかに多くの正確な観測データを持っていたとしても、その事実とは別に、アリストテレスの宇宙の普遍性、ヘヴンリー・パーフェクション(heaven perfection)を信じていた。ところがその精密な観測があだとなって彼自信の信念が揺らぐことになる。

 ティコは視差の精密な測定から、この超新星が惑星軌道の外にあることを確認する。本来惑星以外の恒星たちは、外側のクリスタライン・オーブの張り付いたまま動かない(歳差運動という一〇〇年に数度の差が観測されるものを除いて)はずであった。そこに大きな変化が起こったわけである。

 これによってティコは「長い間受け入れられてきた完全なる天上界の普遍性という信念に反して、天井にも変化は起こりうるということを確信した。(『西洋思想事典』平凡社 一巻 二五九ページ)

 一五七六年ティコはフレデリック二世によって現在はスウェーデン領になっているベーン島の領主に任ぜられると、そこに天文台を作る。ここでの彼の二三年間にわたる天体観測データはガリレオの天体望遠鏡発明以前のものでは最高のものとなる。

 一五七七年、再び天文学上の大事件が起こる。それまで彗星、ほうき星というのは、月下界、つまり月の軌道より下にあるものと考えられてきた。アリストテレスによれば彗星は地球から立ち上った蒸発物が月下界で爆発したものであった。(『西洋思想事典』平凡社 一巻 二五九ページ)

 しかしこのとき出現した彗星を観測した結果、視差が全く見当たらなかったのである。視差というのは右目と左目では物体の見える位置のずれが生じるように、同じものを移動してみた場合、位置のズレが観測されるというものである。月下、つまり月の軌道の内側で地球に極めて近い位置に生じた現象であるならば、その日のうちに視差が観測されるはずであった。

 この結果、彗星という現象は、月の外側の軌道上で起こらなくてはならなかった。するといくつもの惑星の軌道をすり抜けていく彗星は、クリスタライン・オーブ、惑星軌道の「ガラス球」を次々と突き破っていなければならない。しかしそんな衝突は観測されなかった。

 これによってこれまでの天球のからくりが全く架空のものであることがはっきりし、諸天体は以後、天球によらずに天界を移動できるようになった。(『西洋思想事典』平凡社 一巻 二五九ページ)

 しかし、ティコは、それでもコペルニクスの宇宙を完全には受け入れられず、一五八八年『ティコの体系』を発表する。ティコによると、地球は動くことなく、全宇宙の中心のままであり(著者注記:これは先の地球が動けばすべての物が振り落とされるという疑問にいまだ誰も答えていなかったからである)、その周りを回る太陽の周りをさらに惑星たちが回るというモデルを考案した。ティコは一五九七年ベーン島を追われ、プラハに移った。

 コペルニクスの宇宙に決定的な数学的証明を与えたのがティコの弟子、ヨハネス・ケプラーである。

 ケプラーはチュービンゲン大学でコペルニクスの地動説を知る。一六〇〇年、プラハで死ぬ直前のティコ=ブラーエの弟子となる。ケプラーに与えられた研究課題は火星であった。

火星

 火星というのはマーズ、アレスといって、その血と火の色を彷彿させる赤さから、昔から不吉な星と考えられていた。不吉というのは何もその色のことだけではなく、この星だけが目立っておかしな動きをするからであった。それがバック・アンド・フォース・ムーヴメンツ(back and forth movements)、火星の逆行運動である。

 この現象がなぜ起こるのか。プトレマイオスの宇宙観ではどうしても説明がつかず、先のあのサーカスのように複雑な宇宙体系になったのである。

 火星はその人を惑わす運動からプラネット、惑星、遊星という言葉の元となった星である。この星の謎を解き明かすためにはどうしても長期にわたった正確な観測データが必要であった。このデータをティコ=ブラーエは一五年分持っていたのである。

 火星は1.88年、地球の686.98日で太陽を一周するから、約八周分のデータを持っていたことになる。

 ケプラーが得意だったのは数学で、この才能がティコの精密なデータとの見事な一致を見ることとなる。(ケプラーも生活のために占星術をしていたのは興味深い。)

 ケプラーが試行錯誤を繰り返した末、火星はどうしても円軌道を描いているという封にはならなかった。そこで楕円軌道にして計算をし直すと、ティコのデータとぴたりと一致した。

 そこでケプラーは後に「ケプラーの三法則」と呼ばれるうちの第一法則を導き出す。「惑星の軌道は二つの焦点を持つ楕円軌道であり、そのうちのひとつの焦点が太陽だ」とするものである。楕円(エリプス、オーヴァル、oval)という考え方によって初めてコペルニクスの宇宙が事実の集積と数学のタッグよって科学的に証明され、アリストテレス、プトレマイオスの宇宙が崩されることになったのである。

 だがこの楕円軌道を描くという事実がケプラーの科学的業績なのではない。楕円であることの重要性は、さらに次の第二法則によって示されることになる。

 第二法則は「面積速度一定の法則」と呼ばれる。「惑星を動かす力(著者注記:これはニュートン以後重力として知られるようになる)は太陽から働いており、それは太陽からの距離に反比例して近いほど大きい。」(岩波科学事典 39ページ)

 このことの意味は、太陽に近ければ近いほど惑星のスピードは速い、ということである。現在の私たちであれば、引力で引っ張られて、その後、慣性(イナーシャ、inertia)が働いて、となるが、ケプラーはそれらの考えが出てくる前の人である。

 コペルニクスのところで出てきた「内側の惑星が外側の惑星を追い抜けば、惑星=火星の逆行は説明できる」という考えは、天動説では説明され得ぬ現象だった。コペルニクスが説明できたのは金星と水星が地球の内側の軌道にあるということだけである。内側の惑星は必ずしも外側の惑星よりも早いとは限らなかった。

 ところが第二法則によってこれが科学的に数学的に証明されたのである。ケプラーの第二法則の本当の意義は、内側の惑星、つまり地球は火星を追い抜くというものなのである。

 それでもまだ火星で証明された法則は他の惑星(ハーシェルが天王星を発見するまで、惑星は肉眼で観測できる土星までの五つに限られていた)に当てはまるのかという問題があった。これを解消したのがケプラーの第三法則であった。

 第三法則は「任意の惑星がその楕円軌道を一周するのにかかる時間の二乗と、その太陽からの平均距離の三乗とは、どの惑星でも同じ比」であるとする(『西洋思想大事典』一巻 二五九ページ)。

 これによってすべての惑星は楕円軌道を描き、内側の惑星ほど、太陽に近ければ近いほど速い、ということがはっきりと証明されたのである。

 アリストテレス・プトレマイオスの宇宙へのボディブローは、ガリレオ(Galileo Galilei、一五六四〜一六四二)によって決定的になる。

   

ガリレオ・ガリレイ   『星界の報告』

 ガリレオの功績として最大のものは、天体望遠鏡の発明である。一六〇九年、その前年にオランダで発明されていた望遠鏡で天体の観測を行ったガリレオは、一六一〇年「星界の報告」(sidereus nun cius)を著し、自らの発見を発表した。

 ガリレオは、月には多くの山々がそびえたち、くぼ地(クレーターと月の海)が多いことを明らかにする。これにより月の表面が完全な球であるという考えは崩れた。また土星には二つの耳がついていた。これは当時発明されたばかりのガリレオの望遠鏡ではそのように見えたわけである。

 

(つづく)