「0056」 論文 サイエンス=学問体系の全体像(3) 鴨川光筆 
2009年12月11日

 

燃焼理論、コンバスチョン・セオリー(Combustion Theory)―絞首台にかけられた徴税請負師ラヴォアジェから化学は始まった

 

 物理学の弟、化学は、一七七七年フランス人アントワーヌ・ロラン・ラヴォアジェ(Antoine-Laurent de Lavoisier)が燃焼の真実を発見したことから始まる。

アントワーヌ・ラヴォアジェ

 それまでは、物が燃えるのは熱素、フロギストン(phlogiston)というものが放出されるからだと考えられていた。ところがリンや硫黄が空気中で燃えた場合、重さが増す、ということにラヴォアジェは気づく。これではフロギストンは、マイナスの重さを持たねばならないことになる。

 ラヴォアジェは「硫黄やリンが燃えるとその重量が増加するのは”空気”を吸収するからだ」という仮説(hypothesis)を立てる。(『世界科学事典』二巻 二〇一ページ)

 この仮説を元に、ラヴォアジェは画期的な実験を行う。彼はレトルト(retort)と呼ばれる人魂のような形のガラスの器具に、水銀をはじめとしたさまざまな有機化合物を入れて燃やし、生成する二酸化炭素と水の重さを量ってその組成を決定した。

 この実験をグラヴィメトリック・アナリシス(Gravimetric Analysis)、有機定量分析という。この方法論、メソドロジーこそが革命的であった、とブリタニカには書かれている。(二七巻 三九ページ)

 自然学であったフィジクスや錬金術を、近代学問に生まれ変わらせたものは、このメソドロジーに他ならない。

 ラヴォアジェにこの革新を与えたのは、ニュートンの『光学』オプティクス(Optics)であった。オプティクスが化学現象に方法を与えた、とブリタニカには書かれている。

 オプティクスの方法論とは次の通りである。

(引用開始)

 the Optics、published in 1704, in which he showed how to examine a subject experimentally and discover the laws concealed therein. Newton showed how judicious use of hypothesis could open the way to further experimental investigation until a coherent theory was achieved. The Optics was to serve as the model in the 18th and early 19th centuries for the investigation of the heat, light, electricity, magnetism, and chemical atoms.

 『光学』は一七〇四年に出版された。この本の中で、ニュートンは、検体に隠された法則を、実験によって発見できるやり方を明らかにしている。

 ニュートンによれば、正しく考え抜き、よく検討した後、しっかりとした仮説を打ち立てて実験を行う。その結果、研究はよりいっそう前進する。そのような過程を経て、はじめて論理的に一貫した理論が完成する。

 『光学』は一八、一九世紀に行われた熱、光、電気、磁気、原子の研究に学問的モデルの役割を果たすことが出来た。(『エンサイクロペイディア・ブリタニカ』 第二七巻 三九ページ)

(引用終わり)

 ニュートンの代表作は『プリンキピア』がもっとも有名であるが、学問全体に大きな方向性を与えたのは『光学』である。『光学』の意義は上記にあるように、仮説、ハイポセシスを立てることである。これを立てるのと、立てないで行き当たりばったりに実験を行うこととでは、質が大きく異なってくる。

 この点を小室直樹氏は「解を問題にしなかった鄭和(ていわ)と、目的にしたマゼランの航海」の質の違いで論じている。

 鄭和は中国明の時代のイスラム商人で、大艦隊を率いてアフリカのマリンディ(アフリカの北東地域の海岸地域。ソマリアのあたり)にまで到達した。しかし鄭和には、航海上の疑問を解決するための考えがあったわけではなかった。だから彼の壮大な航海も、その後すぐに忘れられてしまい、歴史が変わる様なことはなかった。

鄭和

 しかしマゼランの場合、それまで新大陸、この場合南アメリカ大陸には、海峡が存在するのかしないのかという「解」を求めての航海だった。結果的に海峡は見つかり、マゼランは海峡に名を残すこととなった。(『数学嫌い人のための数学』 東洋経済 二八〜三四ページ)

 このように何らかの疑問、考え=仮説を持った上での証明行動(実験、観察、探検、調査)は研究調査をいっそう前進させるのである。

 この仮説に基づいた研究法というニュートンの方法論に基づいた業績こそが、ラヴォアジェの真髄であり、化学の父であるという所以である。

 ラヴォアジェは有機定量分析実験の結果、「燃焼は空気の一部である。燃焼をたすける気体と物質とが結合することである」と結論付ける。(『岩波科学大百科』 一二六二ページ)

 さらに、どの化学変化においても、実際に天秤棒で重量を測ってみると、反応する物質の姿は変わっても、総重量は普遍であるという「質量不変(保存)の法則」、ザ・ロウ・オブ・コンサヴェイション・オブ・マス(マター)、The law of conservation of mass/matter」を打ち出した。これによって、化学反応は元素を変化させることはなく、元素の量は常に一定量である、という概念が確立した。

 そして空気中には燃焼をたすけるガスがあり、それを酸素、オキシジェン(oxygen)と名づける。(酸素自体はすでにプリーストリが発見していた。)

 ラヴォアジェは近代学問の方法「疑問、仮説(考え)、証明(実験)、結論」という四つの手順を、他の分野に適応した最初の人物であった。(このうち疑問と考えの部分が哲学という)

 一・リンを燃やすと重さが増すというフロギストンという常識に対する「疑問」
二・燃焼をたすける気体と物質が結合するのではないかという「仮説」
三・有機定量実験という「証明」
四・燃焼は空気の一部である。燃焼をたすける気体と物質とが結合することである、という「結論」

整理するとこのようになる。

 すべての近代学問は要約すると、この手順で行われる。これに第三者の証明行動である「追試」テスティフィケーション(testification)が加わる。

 ラヴォアジェは一七六八年、国税庁の徴税請負人となる。当時のフランスは政府が民間の会社に徴税を委託していた。

 ラヴォアジェは革命の指導者の一人であるジャン・ポール・マラー(Jean-Paul Marat)に告発され、一七九四年、革命委員会の手で裁判にかけられ、ギロチンで処刑される。

ジャン・ポール・マラー

 ダヴィッドの絵で有名なマラーは、実は科学者であり、意外に思われるかもしれないが、彼の仕事はかなりしっかりとしたものであったという。マラーは、パリの科学アカデミーの入会をラヴォアジェによって阻止されたことへの恨みがあったという説もある。

 

生物学の父はカール・フォン・リンネ

 

 生きているもの、リヴィング・マター(Living Matter)の研究は物理学や化学に比べて大きく出遅れていた。有機体、生物、オーガニズムは無生物に比べてはるかに複雑だったからである。ハーヴィーによって生命は、実験によって研究することが可能であることが示されたが、彼の業績は二世紀の間立ち止まったままであった。(『ブリタニカ』二七巻 四一ページ)

 生物学は大きくは二つの源流をたどることが出来る。医学と博物学である。この章では医学の発展のことはすでに述べたので、博物学を詳しく述べていこうと思う。

 ニュートンによって確立された、自然界を体系付け分類していこうという方法論は、一七、一八世紀の生物研究分野においても支配になっていた。

 博物学は植物学、ボタニー(botany)から始まる。それはそのまま生物学も、植物学から始まったことを意味する。

 植物学は古くからあり、薬草を調べるという医薬の観点で行われていた。東洋でも本草学(ほんぞうがく)という名前で親しまれてきた。

 博物学とは植物学、動物学、鉱物学、岩石学、地質学、古生物学などの総称で、「世界中の生物や民族や地理を探検調査する学問」である。(『決然たる政治学への道』 二一三ページ)

 本当はナチュラル・ヒストリー(Natural History)、自然史という。これはサイエンスが生まれる前、自然学はナチュラル・フィロソフィー(Natural Philosophy)といったが、それと対をなす用語であった。

 ミュージアム・オブ・ナチュラル・ヒストリー、「博物の博物館」などという施設もあるので、いまや博物という言葉は意味を成していない。だから自然史博物館と名のっているところも出てきている。(『生物学の歴史(上)』 八杉龍一 NHKブックス 一六ページ)

 一六世紀になると、ドイツを中心に「植物学の父」と呼ばれる人々が現れ、世界中から採取された植物標本を記述し、精細な図を描き始める。これは一五世紀に始まった大航海時代と歩みを同じくし、探検家たちの手で収集された、膨大な標本が世界中から寄せられるようになっていた。

 世界中の土着の動植物は多様であり、その数も非常に膨大であることがわかり、それまでの単純な分類法、タクソノミー(Taxonomy)では手に負えなくなっていた。

 生物学・植物学はこの分類法からスタートを切る。実は一七世紀すでに、アントニ・ファン・レーウェンフック(Antoni van Leeuwenhoek)によって顕微鏡(microscope)が発明されていた。それによって精子やバクテリア、細菌の存在も確認され、一気に細胞学から現代の分子生物学へまっすぐに進む道もあったのだが、生物学は約二世紀の間、いったん分類学という回り道をする。

    

レーウェンフック   レーウェンフック作の顕微鏡

 一八世紀、この分類法をはじめて学問的に確立したのが、スウェーデンの植物学者カール・フォン・リンネ(Carl von Linne)である。生物学はこのリンネから始まる。

リンネ

 リンネは属と種を持って生物を分類する二命名法、バイノミアル・ノーメンクレイチャー(binomial nomenclature)を考案する。リンネはこの方法を『自然の体系』という著書で発表し(一七三五年)、その分類のこれまでにない革新的正確さでヨーロッパ中を驚かせた。

 リンネは植物の分類に雌雄蕊体系(しゆうずいたいけい)、セクシュアル・システムという方法を用い、花のおしべの数とその状態を調べて、計二四綱に分類する。

 現在の生物学上の分類は、大きいほうから「界、門、綱、目、科、属、種」という風に分けられるが、これをはじめて行ったのがリンネである。

 たとえば犬のことをカニス・ファミリアリスといい、狼をカニス・ルプスという。二つともカニスを共有しているがこれを属といい、ファミリアリスとルプスが種である。人間にもホモ属サピエンス種と名づけ、それ以外の高等サルは霊長目とした。動物を六種類に分けたのもリンネである。

 「一八世紀における動物・植物の新種発見の急増に伴い、リンネの分類体系の価値は急速に認識され、それは彼の晩年にはほとんど世界的に採用されるにいたった。」(『世界科学事典』一巻 一九八ページ)

 リンネによって生物学は、本草学的な実用と好奇心の世界から、近代学問としての発展の素地を作ったのである。リンネの分類法によって方向性が明確になった生物学が向かった発展への道は、進化論であった。

 

進化論−ダーウィンによって生物学はサイエンスになった

 

 生物学、バイオロジー(biology)という言葉を作ったのはフランスの博物学者ジャン・バプティスト・シュヴァリエ・ラマルク(Jean-Baptiste Pierre Antoine de Monet, Chevalier de Lamarck)であった。

ラマルク

  ラマルクの功績は、動物界を脊椎動物(Vertebrate)と無脊椎動物(Invertebrata)に二分したことである。

 一八〇一年『無脊椎動物の体系』を発表し、インセクタと蠕(ぜん)虫類、ヴェルメス(ミミズのような種類)を無脊椎動物と呼んだ。

 ラマルクは種は不変ではなく、それ以前に存在した単純な種からより複雑な生物に進化するという、内的な傾向を持っているという考えを表明した。

 ラマルクは、環境の変化が習性の変化をもたらし、それに伴ってからだのある部分は必要ゆえに発達し、不要ゆえに消失することもあるということを示そうとした。(『世界科学事典』一九二ページ)

 これを「獲得形質の遺伝」と「願望による器官の変化」という。(『生物学を開拓した人たちの自然観』 竹内均 ニュートン・プレス)

 これはキリンの首が長くなったのは、馬のような動物が高い木の上にある木の実を食べようとして、長い時間をかけて首が長くなったとか、水の上に浮かんで泳いでいるうちに鳥の足に水かきが出来た、といった話である。

 こうしたプロセスが長い間続けば新種が生まれるであろうとした。

 しかし、この説はいくぶん疑似科学的であり、ラヴォアジェ以前の化学に頼らざるを得なかったため、こうした現象が起こる動因があいまいであった。そのためラマルクは激しい批判に見舞われることとなる。

 反進化論の強力な急先鋒は、ジョージ・キュヴィエ(George Cuvier)であった。

キュヴィエ

 キュヴィエは比較解剖学者であり、また古生物学者でもあった。この二つの分野もまた生物学を発展させた学問領域である。比較解剖学は、動物の骨格などを人間やその他の動物と比較することで相似、類似といった生物学上の基本的用語を生み出し、古生物学、パレオオントロギーは進化論につながっていく。

 キュヴィエは指、ひずめ、爪、歯などの動物の各器官を比較検討した末、リンネの分類にはなかった門という分類を創設し、動物を四つの門、すなわち脊椎動物、軟体動物、関節動物、植物的動物(放射動物)に分けた。(『世界科学事典』 四八ページ)

 キュヴィエはこの四つのグループは極めて異なっているため、直線的な上昇的分類の図式にはまとめられず、単一の基本的原型が徐々に完全化されてきたという、一連の歴史に組み込まれうるとは認めがたいと指摘した。四つのグループには発生過程には相互連関はなく、進化論には反対した。(『西洋思想大事典』 第二巻 五五四ページ)

 キュヴィエがその代わりに持っていた思想は「天変地異説」であった。

 キュヴィエは、地質学者であり古生物学者でもあった。(つまり生物学がないこの時代は、ニュートンまでが自然哲学者であったように、リンネも、ラマルクもキュヴィエも博物学者であった。)

 キュヴィエは地質研究を行っているうちに、現存種とは異なる化石が次々と発見されるという事実に直面し次のような説明を行った。

 

(引用開始)

 歴史上数度の天変地異があり、そのたびごとに生物種が減少して、地球上における種の構成が現存の状態に近づき、最後の天変地異、すなわち『創世記』に述べられている大洪水によって、現在の状態になったというのである。彼にとって、生物種が減ることはあっても、新たな種が誕生することは決してありえない。(『世界科学事典』 第一巻 五〇ページ)

(引用終わり)

 

 それまで前進主義、変遷主義などと呼ばれていた生物の進化思想は、キュヴィエによっていったんは滅ぼされた。しかし古生物学者であったキュヴィエの精細で膨大な化石動物の記載は、進化論の進展に寄与することとなった。

 一八五九年、ダーウィンの『種の起源』(自然淘汰による種の起源、すなわち適者の生存、The Origin of Species)が出版されると、生物学の分野のみならず、「西洋の知的文化の多くの側面に革命的な衝撃を与えた。」(『西洋思想大事典』 二巻 五五五ページ)

   

ダーウィン     『種の起源』

 進化論がそれまで受けていた大きな制約は二つあった。それは進化が起こったという、うまく統一された一群の証拠を生み出すことが出来なかったことと、進化が起こったという、実証可能な説明を定式化できなかった、という制約であった。(同書 五五四ページ)

 ダーウィンは、種が変化したことを示す膨大なデータを集め、進化論をメカニズムとして提示し、検証可能な理論に仕立て上げることに成功した。

 ダーウィンの理論とは、自然淘汰、ナチュラル・セレクション(natural selection)である。

 地球上に生息する種は、すべてはるか昔からゆっくり変遷してきたものである。変異が遺伝しうる生物集団に自然淘汰が働き、生存競争する中でその集団を利すれば繁殖し、足かせとなれば減少する。

 自然淘汰によって、生息条件にうまく適応できる種は改良され、適応できない種には絶滅がもたらされる。(同書 五五五ページ) 

 ダーウィンが生物学史上、リンネ以上に重要視されるのは、生物学を神学から完全に切り離すことに成功し、博物学から独立した学問、サイエンスとして成立させたことにある。

 ダーウィンは生物の進化をデカルト以来続くメカニズム、機械論的に説明し、リンネ以来続いていた人為的分類に頼ることなく、自然淘汰、ナチュラル・セレクションという自然本位の言葉で説明した。

 ダーウィンの鮮やかな説明によって、生物学者たちは、それまでの擬似神学的な思考の枠組みから自由となり、種の創造に関する聖書の物語にも、ノアの箱舟の物語にもかかずらわる必要がなくなったのである。

 

生物学のフィールド

 

 先にも述べたとおり、生物学の研究領域はあまりにも膨大で、他の学問と重複する分野も多く、単一の学問としてはっきりと成立しているとは言いがたい。その証拠として副島氏も前掲書で語っているが、ノーベル化学賞三分野の中に、生物学賞はいまだ含まれてはいない。生命・人体を研究する医学生理学賞や分子生物学のように、化学や物理学の中で評価されてしまうからである。

 最後に、ブリタニカ一四巻の目次(一〇六九ページ)で表されている、生物学の領域を示しておきます。

 生物学の研究領域は、形態学(モーフォロジー、morphology)、生理学(フィジオロジー、physiology)、分類学(タクゾノミー、taxonomy)、生物物理学(バイオフィジクス、biophysics)、生物化学(バイオケミストリー、biophysical chemistry)、遺伝学(ジェネティクス、genetics)、優生学(ユウジェニクス、eugenics)、エコロジー(生態学、ecology)である。

 (そのほかに一つの生物種ずつの分け方として、動物学、植物学などがあり、人間を調べる学問としては、自然(形質)人類学、フィジカル・アンソロポロジーphysical anthropologyがある。)

 現在の生物学は、大雑把に言えば、大きく広がる方面と、小さい方面との二つに向かっている。大きいほうはエコロジー、生態学で、自然環境の生態系、エコシステムを研究する。約二〇年前からエコ、エコ言われるのはこのことである。

 エコとは環境のことではないから注意が必要である。環境とはエンヴァイロンメントであって、普段われわれが意識しているのは、環境にやさしいことをしよう、エンヴァイロンメンタル・フレンドリー(environmental friendly)という考えのことである。

 エコそれ自体は、決して環境保全を目的としたものではない。ひとつの山なりサヴァンナなりをダーウィンの自然淘汰理論をもとにして、ひとつのシステムとして見るものである。自然環境の中にも、システムが存在しているかどうかを検証するという、気の遠くなるような学問的試みなのである。

 システムとは、自然や人体や社会をひとつの系、バランスの取れた力学的構造、メカニクスとして見ることである。システムの代表は鉄道(レイルロード・システム)と血液循環(ブラッド・システム)である。血管のどこかが詰まったり、電車の一本でも遅れたりしただけで、全体のバランスが崩れ、支障が出てしまう、それがシステムの本当の意味である。

 論理学上はコロラリーといって、必然的な原因結果の繰り返しを言う。ここからニュートンのエクィリブリアム・セオリー(equilibrium theory)につながっていく。

 生物学で小さく向かうほうは遺伝子学である。これは分子生物学や優生学、社会生物学や行動心理学とともに、副島隆彦氏の『属国日本論をこえて』(五月書房)の中で興味深い理論展開がなされている。

 学問、サイエンスは神学や迷信(スーパースティション)との分離という側面を持ちながら、同時に、自然界と人間界を、無機的で空虚なバランスの取れたシステムと見るか、有機的組織体、オーガニズムと見るかの大きな対立としても見ることが出来る。

 次の章では、ニュートン・ワールドに対するドイツ人の有機的反攻を述べて、自然学問の稿を締めくくろうと思います。

 

ロマンティック・リヴォルト(Romantic Revolt

 

 ブリタニカのサイエンスの項目で、一九世紀までの歴史の最後に来るのが「ロマンティック・リヴォルト」である。(その後は二〇世紀のアインシュタインが来てサイエンスは終了する。)

 ロマンティック・リヴォルトという言葉は日本ではほとんど耳にしない。この呼び方はイギリスからの呼称であり、一種侮蔑的な呼び方なのであろう。

 副島氏は「ロマンティックというのは現実を見ないバカという意味だと欧米ではなっている」とどこかで述べている。この意味でイギリス側からドイツの哲学者を呼んだ呼び名であろう。

 ロマンティックというと一九世紀初頭に始まった文学と音楽の芸術運動、ロマンティシズム(詩人のゲーテやシェリー、作曲家のシューマンやワークナーがそう。それ以前の音楽はクラシック・ミュージックという)と関係がありそうだが、ブリタニカでは一切その時代の芸術運動には触れていない。

 ロマンティシズムの発生源は、あまりにも多く複雑である。芸術運動にも哲学、学問の世界においても共通しているのは、ニュートニアンの大勝利に対する反発であった。学問の世界のロマンティシズムは、科学の発展に重大な影響を及ぼしたということである。

 ブリタニカが焦点を当てているのはイマニエル・カント(Immanuel Kant)である。

カント

 カントは、原子や光、電子のような、実体を知覚出来ないものを、直接圧扱うことが出来るのだというニュートニアンたちの思い上がりに対して挑戦する。

 カントは、人間が知ることが出来るものは「力=フォース(force)」だけであると主張する。この考えを認識論の公理とし、カンティアン(カント主義者)たちは、フォース、力は特定不変の粒子の中に含まれている、とみなさずに済むようになる。

 さらにこの公理によってカンティアンらは、粒子と粒子の間に存在する空間を重視した。彼らの主張によれば、空間から粒子を完全に取り除いてしまえば、ただ空間だけが広がっているだけである。つまり力、フォースは粒子の中にあるのではなく、空間に広がっているものなのだ、ということだった。

 ニュートニアンの粒子説とカントニアンの空間説。これは現在も続く、光の粒子説対波動説の対立に先鞭をつけるものだった。

 力が存在するのは粒子の中である、というニュートンの考えの本質はこうである。

 力とは、惑星なり太陽なり、どんどん小さくしていって原子なりといった実態のあるものが持っており、お互いが力の遠隔作用で引き合う。そしてすべてがバランスの取れた状態で系、システムが出来る。空間には力を媒介にするようなものは何もなく、ただ空虚な世界が広がっているだけである。

 世界をメカニクス、力学、システム、系で考えようというのがコペルニクスからの科学の流れである。

 副島氏は『決然たる政治学への道』(一七八ページ)の中で、ノーベル物理学賞とは「宇宙、スペースの構造と生成についての研究成果に与えられる」と述べている。一般に物理とは、力を研究するものだと思われているが、それは物理の本質を言い当てていない。

 物理、フィジクスとは副島氏のいうようにスペース、空間を研究することが目的なのである。それを説明する手段が力学、メカニクスなのである。その流れはこれまでブリタニカで述べてきたとおりである。

 であるからカントの考え方は、これまでの物理学の発展を覆す大問題であった。当然反論が起こる。それはもしこのような「空間の公理」が正しいというのなら、エネルギーはいったいどこにいるのか、どこにとどまっているだろうか。

 そこで生まれたのが「エネルギー保存・変換の法則」と「場の理論、フィールド・セオリーfield theory」なのである。これは学問の進歩に大きな飛躍となった理論である。フィールドとは「場、圏、界」などと呼ばれ、重力圏、電界、磁場が代表的なフィールドである。

 この二つの理論によって彼ら反ニュートニアンたちは、ロマンティックと呼ばれるようになったのである。いったいそれはなぜなのだろうか。

 ロマンティックたち自身は自らのことをネイチャー・フィロソファーと呼んでいた。ナチュラル・フィロソファーではニュートンまでの「自然哲学者」になってしまうからである。

 彼らをロマンティックたらしめたものはシステム、メカニクスといった空虚なサイエンスの歴史とは正反対の考えによるものである。

 ロマンティックの考えとは、空虚であるはずの宇宙、スペースには力、フォースのネットワークが存在し、このネットワークによって宇宙=コスモスはひとつの統一したまとまり、個体、ユニティ(unity) になっているのだとする考えである。

 この統一体である宇宙=コスモスの中では、力=フォースは全てお互いに相関関係にある。その結果、普遍的な広がりである宇宙=ユニヴァースには、広大無辺な広がりを持つ有機的組織体、オーガニズムの面を持つということになる。

 完全な統一体、ザ・ホール(the whole)は部分の総計よりも大きい。であるから、真実を明らかにする方法はニュートンのような分析をすることではなく、統一体のほうをこそ考えることなのであるとする。

 これに反してハンス・クリスチャン・エルステッド(Hans Christian Orsted)は、自然界にある力同士はお互いに何の関連性もないことを明らかにした。

エルステッド

 化学物質が互いに強い連関を示すこと(化学親和性、ケミカル・アフィニティ)や、電気、熱、磁力、といったそのものは、一つ一つそれぞれが引力や反発力といった、根本的な力が別々に顕現したものでしかない、と主張する。

 しかし、一八二〇年彼は、電流がワイアーを流れる時、近くにある磁気を帯びた針を引き付けることを発見し、電気と磁気には相関性があることを発表した。

 この発見はマイケル・ファラデー(Michael Faraday、一七九一〜一八六七年)によって受け継がれる。彼は電気と磁力エネルギーの変換作業に生涯をささげ、ついにはフィールド・セオリーの基礎を作り上げる。

ファラデー

 ファラデーの発見によれば、システムの中に存在する力は、システム全体に行き渡っている。粒子の中にだけ偏って存在しているわけではない、というものである。

 ファラデーによってエネルギー変換の法則の問題は解決されることとなる。しかし、まだエネルギー保存の法則の問題が残っている。

 あるエネルギーが他のエネルギーに(電気が光や熱、磁力に)変換されるというのは、すでに証明されている。しかしエネルギーが変換される際に、何か失われるものがあるのではないかという反論が持ち上がった。

 ファラデーはこれにこう答える。「特定量の化学物質は、特定量の電気「力」によって分解される。」

 エネルギー保存の法則はこの後、ジュール、マイヤー、ヘルムホルツらによって受け継がれる。ファラデーを含め「ネイチャー・フィロソファー」たちは、実験を第一に考える人々であった。彼らはその後も優れた実験操作によって、エネルギー保存の法則を確かめていった。

 一九世紀になるとネイチャー・フィロソファーの得意な実験領域は、数学の著しい進歩の恩恵を受けることになった。

 熱の研究は熱力学、サーモダイナミクス(thermodynamics)に、ニュートンらが主張していた光の粒子説は数学的に洗練された波動説にとって代わられた。電磁気の研究はトムソンとマックスウェルの数学によって昇華された。

 ではエネルギー保存の法則はいったいどうなったのかというと、熱力学の第二法則によってその可能性が証明されたのである。

 熱力学の法則とは、ものを温めるとき、加熱してもよいし、摩擦などの方法で力学的な仕事を加えてもよい。摩擦によって温めた場合、力学的なエネルギーは失われるが、代わりに物体の温度が上がる。このとき摩擦による力学的エネルギーはなくなったのではなく、形を変えて内部エネルギーとして物体に蓄えられている、というものである。(『岩波科学百科』 九一八ページ)

 このエネルギー保存の法則と、熱力学の第二法則のおかげで、自然界、フィジカル・ワールドがどのようなものかが、複雑だが簡潔な数学形式の力を借りて、完全に理解されたように思えた。

 数学の著しい進歩によって、さまざまなエネルギーの力学的変換が、ある根源的なエーテルの世界で起こった現象であると説明されるようになったのである。

 ここまでがブリタニカによるモダン・サイエンス・ヒストリーである。最後に二〇世紀の生が残されており、そこではアインシュタインの特殊相対性理論、スペシャル・セオリー・オブ・リレティヴィティが登場する。

 そしてアインシュタインは一九〇五年、相対性理論によって、エーテルとエーテルにのみ頼っていた物理学を破壊した、と書かれている。

 それほどに、それまでの科学界はどうしても発見されることのない、仮説上の物体の属性「エーテル」理論に頼るようになっていたのである。

 アインシュタインはそのような風潮の中で、ニュートンから続く新たな光の粒子説である相対性理論を発表し、物理学の再定義を迫ったのである。

 サイエンスは現在でもニュートニアンたちの空虚な宇宙、メカニズム、システム、光の粒子説と、ロマンティクらの有機的宇宙、オーガニスティック・コスモス、空間の場の理論、光の波動理論との対立が続いている。

 自然学問の歴史はこれで終わりである。次は社会学問、ソーシャル・サイエンスの全体像と歴史を述べていこうと思います。

 

(つづく)