「0060」 論文 サイエンス=学問体系の全体像(4) 鴨川光筆 2009年12月21日

 

 副島隆彦氏は、著書『決然たる政治学への道』の一七〇ページで、「日本の大学制度がおかしい」と題して、サイエンスが西洋では、本来どのようなものとしてとらえられているかを述べている。

 副島氏によれば、西欧では「自然科学」と「社会科学」を分けて考えてはおらず、人文を含めて一まとめでサイエンス、学問=科学だと考えるという。日本の大学制度、受験制度にあるような文系理系というような分け方自体が、そもそも存在しない。

 サイエンスとはラテン語でスシエンザといい、「知の学」であると副島氏は述べている。 副島氏の「知の学」というのは、極めて正しい言葉の意味であることを示している。

 OED(オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリー)を引くと、サイエンスはスシーレ(scire) というラテン語動詞から来ており、「知る、トゥ・ノウ(to know)」という語源が書かれている。ブリタニカでサイエンスの歴史を調べても、近代になるまでサイエンスという言葉は「知識」という意味で使われている。

 それに対して「哲学、フィロソフィー(philosophy)」というのは、学ぶ楽しさ、知ることの楽しさ、喜びというのがもとの意味で、副島氏は、愛知県の愛知が哲学の正しい意味だという。この語源の話は、本稿を全て終えた後により詳しく述べます。(著者注記: 副島氏は学問道場「今日のぼやき」の最初で、サイエンスとナチュラルの語源のことを述べている。副島氏は、サイエンスの「スシ」の部分は、本来、神のことをあらわすと述べ、流出論との関係を示唆しているが、その考えを私は正さなくてはならない。)

 ではソーシャル・サイエンスとは何か。私たち日本の「文系」制度ではこのようになっている。法学部、経済学部、文学部(大体この三つが大学の中心)、そして商学部。総合大学と呼ばれる大学なら、この四つがどこの大学でもあって、商学部だけがお金のことにかかわる実学だから、蔑まれて、偏差値ランクも一段下に見られている。それでいて就職率は高い。

 法学部は企業の総務に入り、経済学部は営業、文学部は元来、女の行くところで、花嫁修業の一環であった。田舎に帰って中学校の先生か、公務員になるしかなかった。この四つのほかに、経営学が商学部か経済学部にくっついていたり、政治学が経済学部と一緒になって政治経済学部などと呼ばれていたりする。政治学部のみというのはまずない。

 心理学や哲学は文学部の一部門になっている。歴史学は文学部と一緒になっている。これだけは正しい。

 そのほか外国語学部、国際関係学部、観光学部、社会学部などが大学の特色としておかれている。最近は総合政策学部などという学部があるが、情報処理やコンピューター関係のことをやるだけのことだろう。

 

社会科学部という摩訶不思議

 

 それで、私の知り合いに非常にたくさん卒業生がいるので恐縮なのだが、どうしても言わなくてはならない。早稲田大学には社会科学部がある。少し申し訳ないのだが、これに関して少し悪口を言わなければならない。

早稲田大学社会科学部の入る建物

 社会科学部というのは、いったい何のことを言っているのか。早稲田大学には、政治学科も心理学科も存在する。だから社会学、ソシオロジー(sociology)学部を創設したのかと私は思っていた。しかし大学のホームページを開いてみると、英語表記はスクール・オブ・ソーシャル・サイエンシズ(School of Social Sciences)となっている。

 早稲田大学当局が言うに、社会科学部は、「社会科学の総合的、学際的な教育・研究」をするとあった。これはいったい何を言いたいのか。社会学を主として学ぶところではないというのはわかった(著者注記:社会学や社会学に関係する科目が開講されている)。では、社会科学、ソーシャル・サイエンシズを全てか、複数の領域に渡って専攻しようというのであろうか。これは出来ないことではない。それはそれで価値のあることである。しかし、実際にはこうである。

 英語版のページを見ると、社会科学部は一九六六年に午後に授業が始まる学部として創設され、それまであった夜間開講の学科、第二政治経済学部、第二法学部、第二商学部を統合したと書かれている。つまりまじめな夜間学生が通っていた大学の二部を、文学部だけ残して一つにまとめただけのことであった。

 しかもここにある通り、四つの日本の代表的な文系学科がきれいにまとめあげられている。さすがに文学部だけは、社会科学ではないことに気が引けたのであろう、早稲田の文学部は第二文学部として夜間に収まっている(二〇〇七年に文化構想学部に改組される)。心理学もここに入っている。

 この夜間学部をまとめあげて、社会科学部なるものを作り上げたことに、副島氏のいうとおり、日本の大学制度、学問の全体のおかしさが象徴されている。

 

では本当の社会科学、ソーシャル・サイエンスとは何か

 

 副島氏は前掲書、一七一ページにて次のように述べている。

(引用開始)

 「自然科学」に対抗して、「社会科学」と名乗ったのが、(d)「経済学」と(e)「心理学」と(f)「政治学」と(g)「社会学」である。この四つは、戦後、アメリカで、「行動科学」のところで述べたとおり巨大な進歩発展を遂げた。アメリカ人学者たちは、ヨーロッパの伝統的な学問世界に対抗して、自分たちの「人間および社会についての学問(科学)」の華々しい成果を誇って、これを「行動科学」と呼んだのである。(『決然たる政治学への道』 一七一ページ)

(引用終わり)

 副島先生の本や言論を、きちんと理解している人たちには、いまさらと思われるかもしれないが、この四つが社会科学、ソーシャル・サイエンスである。一七二ページの表ではこれに言語学が足されている。そして法学はというと、これは経験学問であるからサイエンスではない、と書かれている。商学に関してはコメントがない。

 これが本当であるかどうか、私はこの本を初めて読んだとき、早速ブリタニカで調べてみた。

 ブリタニカ(マクロペイディア)二七巻、三一六ページにはソーシャル・サイエンシズの章がある。ここには社会科学の歴史と、各分野に関する長大な論文が載っている。先の四分野が中心になって発展していったことも、詳細に書かれていた。

 三二〇ページには「独立した専門分野の発展」と題して、社会科学の領域が述べられている。そこには社会科学の一分野、つまり学問、サイエンスとして確立した順番に即して並べられている。それによると次の順番で社会科学は発展していった。

 一・経済学(エコノミクス、economics)、二・政治学(ポリティカル・サイエンス、political science)、三・社会学(ソシオロジー、sociology)、四・社会心理学(ソーシャル・サイコロジー、social psychology)、五・社会統計学(ソーシャル・スタティスティクス、social statistics)と社会地理学(social geography)(ソーシャル・ジオグラフィー)、この五分野である。

 さらに目次を見ると、これとは違った区分けがなされている。以下が現在確定した、正しいソーシャル・サイエンスの知識である。

一・文化人類学―カルチュラル・アンソロポロジー(cultural anthropology)
二・社会学―ソシオロジー(sociology)
三・経済学―エコノミクス(economics)
四・政治学―ポリティカル・サイエンス(political science)
五・国際関係学―スタディ・オブ・インターナショナル・リレイションズ(study of international relations)
六・比較法学―コンパラティヴ・ロウ(comparative law)

 心理学はどこへ行ったのか。疑問に思われる方も多いかと思う。じつは心理学は、学問としては完全に認められているとはいいがたい。ブリタニカで心理学を探しても見当たらず、サイコロジカル・エクスペリメンツ(pshycological experiments)という、あくまで実験の部分でのみ認められており、メソドロジーの試行錯誤の渦中にある。このことは小室直樹氏もいたるところで発言しており、ブリタニカは副島氏の言葉を裏付けるものとなっている。

 目次の中で心理学は、ソシオロジーの中に関連分野として社会心理学が、犯罪学(刑事学、クリミノロジー、criminology)と一緒に入れられている。

 ではここから社会科学がどの様にして築きあげられてきたのか、その歴史と思想を自然科学で見てきたように、順を追って述べて生きたいと思う。

 

ソーシャル・サイエンスの源

 

 副島氏は、社会科学は一九世紀に始まったという。厳密にいってこれも正しい。正式に承認された独立した学問として成立し始めたのは、一九世紀である、とブリタニカは「社会科学の歴史」の冒頭で述べている。

 しかし、社会科学が取り扱う問題、人間、国家、モラルといった分野に関する関心は、古代ギリシャにさかのぼる。この時代のギリシャの合理主義者、ラショナルズ(rationals)の気質がなければ、現在の社会科学は存在しなかったであろう、とブリタニカには書かれている。

 この気質が復活した理性の時代、ザ・エイジ・オブ・リーズン(the Age of Reason)の一七、一八世紀に、社会科学の萌芽がある。

 社会学問の取り扱う問題―国家、経済、宗教、道徳、人間自身など―は、もともとは中世の哲学=神学が取り扱っていたもので、ブリタニカはそれを、中世哲学がばらばらに分かたれた姿であると述べている。

 その中でも特に、トマス・アクィナス(Thomas Aquinas)の『神学大全、スンマ・セオロジア(Summa Theologiae)』が、人間と社会思想の統合を果たしたという。その思想の内容は、現在の社会、経済、政治、人類学などの学問のもとになったと考えられる。

       

トマス・アクィナス     『神学大全』

 しかし、社会学問の取り扱う領域は、神学と深く結びついており、人間のマインドや社会行動に関する思想や著作は、ルネサンスや自然科学に関することよりも、教会の監視がはるかに厳しかった。このような束縛が、社会学問がサイエンスとして確立されるのを遅らせる原因となった。

 一七、一八世紀になると、二つの理論がソーシャル・サイエンスの成立に大きな役割を果たす。一つは「構造という思想、ジ・アイディア・オブ・ストラクチャー(the Idea of Structure)」である。構造という考えは、近代になってからホッブス(Thomas Hobbs)、ロック(John Locke)、ルソー(Jean-Jacques Rousseau)の著作の中に初めて登場し、国家の政治構造に関して言及する際に用いられた考え方である。

    

ホッブス     ロック     ルソー

 この構造思想は一八世紀に広まりだし、政治、社会、経済構造に関する諸概念の土台となる。

 二つ目の思想は「発展的変化(developmental change)」である。これは一九世紀の社会進化論の原型となる。

 これを唱えたルソー、コンドルセ(Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet)、アダム・スミス(Adam Smith)は、「現在は過去の副産物であり、長い発展の結果である。それは偶発的に起こったものでもなければ、神によるものでもない。人間社会に内在している条件や原因によって作られたものだ」と主張した。

   

コンドルセ      アダム・スミス

 この思想を受けて、一九世紀になると、新しい知性と哲学の新傾向が始まる。ブリタニカにはソーシャル・サイエンスに影響を与えた、三つの思想傾向を挙げている。その一つがポジティヴィズム(positivism)である。

 ポジティヴィズムというのは簡単に言えば、人間が前提を作ると言うことである。前提、ポスチュレイト(postulate)、プロポジッション(proposition)、アクシオム(axiom)、何でもいい。前提と呼ぼうと、条件、公理、公準と呼んでも全て同じ。人間が神を作るということである。これ以上疑問、質問が出てこないように前提を限定し、スタート地点を作るのである。だから定義、ディフィニション(definition)が大切になる。数学が優れている点はここにある。

 ポジティヴィズムとは、実証主義などと今でも訳されているが、意味不明である。じつはこのことも、副島氏は執拗なほどに主張してきた。「前提主義」、「人定(人為)主義」と訳すべきであろう。実証主義という言葉は、最早期限切れである。この言葉を使った人間は、もはや相手にしなくてよい時期に来ている。

 この方法論、メソドロジーが自然科学の証明過程で花開き、同様の方法を社会現象や道徳価値、諸制度の解明に導入されることになったのである。

 人間の社会行動を、科学的に扱うという考え方を導入したのは、オーギュスト・コント(Isidore Auguste Marie François Xavier Comte)である。一八三〇年から一八四二年にかけて出版された『実証哲学講義』(Cours de philosophie positive)の中でコントは、人間の学問を実現しそれは必要不可欠であるということを論証する。

    

コント       『実証哲学講義』

 さらに、人間を生物学的動物であるという前提で、生物学が成し遂げようとしたことと同様に、人間を社会的存在として研究する目的で、ソシオロジー、社会学という言葉をコントは考案した。

 コントの時代、一九世紀になるまでは、サイエンティスト(scientist)と呼ばれるよりもフィロソファー(philosopher)のほうが好まれていた。コントによってポジティヴィズムが称揚されたことで、サイエンスは本格的に哲学と袂を分かつこととなる。

 二つ目はヒューマニタリアニズム(humanitariansim)である。人道主義と呼ばれるこの思想は、厳密に定義すると「思いやりの組織化(institutionalization of compassion)」である。

 社会学問の究極的な目的は、社会的福祉と、道徳と社会の条件の向上と結びついており、これまで家族や村のような、限られた地域にのみ存在していたそれらを、社会に拡張しようという意図があったと考えられていたのである。

 三つ目は、進化論である。といっても、ダーウィン(Charles Durwin)の『種の起源』から始まった、生物学を学問にした進化論ではなく、それとは別の源を持った社会進化論である。その源とはコント、ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer)、マルクス(Karl Marx)である。彼らの社会進化論は、ダーウィンの進化論よりも先に始まり、すでに完結していた。

     

ダーウィン      スペンサー   マルクス

 この社会進化論が社会学、ソシオロジーの誕生に大きく貢献する。進化論は一九世紀を貫く大理論で、その影響力は中世の「三位一体理論、トリニティー(trinity)」に匹敵するものだったのである。

 こうした古代から中世、ルネサンス、理性の時代を通じて醸造されてきた思想が、一九世紀に臨界点に達し、人間と社会の学問への理想と衝動は、一挙に爆発することとなる。

 

経済学―最初の社会学問

 

 まず、一番に「独立したサイエンス」としての地位を獲得したのが、エコノミクスである。ブリタニカ二七巻三四三ページには、経済学が取り扱う問題は何かが述べられている。

 小室直樹博士は、「経済学の研究対象は明確に資本主義だけである」と数々の経済関係の著書で述べているが、ブリタニカには「経済学の研究対象は、価格(price)である」と書かれている。正確には「価格を決定する力(the forces determining prices)」を分析することである、と述べている。

 財やサービスのみならず、それらを生み出すリソース、つまり「人材の価格=賃金(wage)」をも研究対象にする。

 経済学の研究領域は、大きく三つの分野に分かれている。マイクロ(ミクロ)経済学(micro economics)とマクロ経済学(macro economics)、そして発展経済学(development economics)である。

 マイクロ経済学は個人を扱い、消費者、会社経営者、商人、農民といった個人の行為を取り扱う。マクロ経済学は集団を扱う。国全体の収入、総雇用、総投資額の規模に着目する。

 三つ目の発展経済学は、経済活動を支える考え方と制度、発展過程を研究対象とする。そして経済成長に必要な要素と、それが公共事業によってどの程度操作できるのかを研究領域とする。

 これら三つのフィールドにまたがって、次のような学問領域が存在する。国家財政、貨幣、金融、国際交易、労働経済、農業経済学、産業組織である。

 経済学者の仕事は、政府による政策の影響度を計り、評価することだと書かれている。政府による政策とは、税、最低賃金法、関税、利子率の変更、国家予算の変更である。

 三四三ページの終わりから、経済学の歴史が始まっている。ブリタニカによれば、経済学の誕生は一七七六年、アダム・スミスの『国富論(諸国民の富)』 (An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations )が出版されたときである。この一八世紀は古典的政治経済学、クラシカル・ポリティカル・エコノミクス(classical political economics)の世紀である。経済学はまだ完全に独立した学問ではなかった。

『国富論(諸国民の富)』

 一五世紀から一八世紀にかけて、経済国家主義、つまり重商主義思想、マーカンティリズム(merchantilism)が巻き起こる。それに対してフランスで重農主義、フィジオクラシーが起こる。富が生み出され、価格、地代、利子、賃金を操作する際に、彼ら重農主義者、フィジオクラット(physiocrat)とアダム・スミスが「発見」した―と彼らは考えていた―自治と自己規制が、経済学の独立した学問としての基礎となった。これが古典政治経済学である。

 

アダム・スミス

 

 アダム・スミスは重商主義者の保護主義を攻撃し、自由貿易という信念を掲げる。そして、人間の活動を支配するのは、自由企業制度の活動であると考えたのである。

 競争社会では、多数の中にいる個人は、価格決定に多大な影響を与えている。アダム・スミスが好んで使った言葉、「市場における見えざる手(the invisible hand of the market)」は、個人の意思とは無関係であるとした。

 この「手」によって人間の経済行為が客観的にとらえられ、経済学の独立した学問への道が開かれたのである。

 このインヴィジブル・ハンドのことを「神の見えざる手」と、いつの間にか呼んでいる人間がいる。しかしこれは「市場の見えざる手」ではなかったか。ブリタニカにはゴッドという言葉は見当たらない。

 アダム・スミスもニュートン同様、近代人として神への不用意な言及は避けている。

 スミスは市場の自由に任せておけばよい、政府は介入するな、という自由放任主義、レッセフェール(laissez−faire、レイッ・ビー・フリー let it be free )を標榜する。自由放任主義は後に、デイヴィッド・リカード(David Ricado)に受け継がれ、トマス・ロバート・マルサス(Thomas Robert Malthus)、ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)、アルフレッド・マーシャル(Alfred Marshall)、アーサー・セシル・ピグー(Arthur Cecil Pigou)へと連なる「古典派」を形成して現在に至ることになる。(『経済学をめぐる巨匠たち』 二九ページ)

    

リカード      マルサス   ミル

   

マーシャル     ピグー

 この古典派によって、脈々と受け継がれてきたスミスの基本思想は、自由市場に任せておけば、「最大多数の最大幸福」は自ずと達成される、というものであった。経済の?栄を求めるならば、市場を開放し、規制を一切行わないこと。自由市場経済を実現すれば、社会は「最大多数の最大幸福」を達成できる、というスミスの主張は、一大ブームを引き起こす。(『経済学をめぐる巨匠たち』 三〇ページ)

 スミスは他に二つ、済学上の重要な思想を生み出している。経済学が研究する主題は「モノの価格(あるいは価値)」、プライスとヴァリューがどのようにして生み出されるのか、価格を生み出す力=フォース(force)は何なのか、である。

 スミスは、モノの価値は「それを作るためにどれだけの労働を要したかによって決まる」、という学説を打ち出す。これが「労働価値説(labor theory of value)」である。

 この労働価値説はリカードに受け継がれ、さらに後年マルクスの理論的中核となるが、徹底的に攻撃され、一九世紀末にはマルキストたちは学問の世界から排除されることになる。労働価値説には「労働の換算率」をどのように決めるのか、という問題があった。これはマルクスのところで述べる。

 もう一つは、モノの価値はその「効用、ユーティリティ(utility)」によって決まる、という考えである。これは「人々がそれをどれくらい欲しているか」ということである。しかし効用理論は、スミスを受け継いだはずの古典派自身から「水とダイヤモンドの効用」を例にとって攻撃を受け、いったんは死滅する。(前掲書 三三ページ)

 「水とダイヤモンド」というのは、「ダイヤモンドは使い道も限られているし、生活必需品ではないが価格はものすごく高い。一方、万人が求め、日々必要としている水は安い」という意味である。(前掲書 三三ページ)

 この効用説は後に、マージナリスト(ワルラス、メンガー、ジェヴォンスら効用学派)らによって復活させられ、労働価値説とともに、経済学が独立した学問として成立する一助となる。

 

デイヴィッド・リカード(David Ricado

 

 経済学は簡単に言えば、古典経済学派によって打ち立てられた一般均衡理論、ジェネラル・エクィリブリアム・セオリー(general equilibrium theory)VSケインズ(John Maynard Keynes)の理論の拮抗図式で語ることが出来る。この二つの学派に至るまでに登場した、最重要な学者とその理論の積み上げを、ざっと追っていきさえすれば、経済学発展の全体像が明らかになってくる。

 私はこの項を執筆するのに、小室直樹氏の『経済学をめぐる巨匠たち』(ダイアモンド出版 二〇〇四年)を合わせて引用していく。この本は小室氏の一連の経済本の中でも、とりわけ人物に焦点を当てているので、わかりやすい仕上がりとなっている。

『経済学をめぐる巨匠たち』

 本書を読んでいると、私が今土台としているブリタニカ二七巻のソーシャル・サイエンスを、小室氏が引用していると思える部分が、たびたび出てくる。

 そこで私は、ブリタニカの引用をベースに記述して、そこに小室氏の同書の該当部分を付け加え、併記する。これによって、小室氏の言論をドグマとして鵜呑みにするのではなく、素人ながらも、ジャーナリズム的手法で氏の言論の検証作業が可能になるであろう。

 経済学の父がアダム・スミスなら、その理論的礎を築いたのは、デイヴィッド・リカードである。(『経済学をめぐる巨匠たち』 三〇ページ)

 学問=科学というのは、理論モデルを作ることが出来なくてはならない。ブリタニカはリカードを、「経済モデルの概念の発明者」だとしている。

 リカーディアン・システムの中心部は、以下の通りである。

 限られた土地で生産された食料を増産すると、生産にかかる費用が上昇する。そのため経済成長は、遅かれ早かれ行き詰まりを見せることになる。

 この主張の芯になったのは、マルサスの『人口論』である。マルサスによれば、現在行われている食糧供給には限界があり、人口の増加は、この限界点に達しようとする傾向がある。そのため賃金は必然的に下がっていく。これがリカードの経済システムである。これと全く同様のことを小室氏は、同書の三〇ページで述べていた。

 賃金が下がったことはいいのだが、余剰人口を潤すために、さらに資本と労働力を投下せねばならず、肥沃さに欠ける土地を耕作するしかなくなってしまう。こうして、生産性の増加が漸減するという「収穫逓減(しゅうかくていげん)の法則」が起こり、比例的に利潤の上昇は阻まれる。

 リカードは、土地の生産性の価値低下を解決するためには、外国から穀物を輸入すればよいと考えた。リカードの考えには、イギリスが工業製品に特化して、それを輸出させたいという理由が根底にあった。

 リカードが見出した経済学上の大発見は、「比較生産費法則(ひかくせいさんひほうそく)」(law of comparative costs)である。これは一般に、「比較生産費理論」(theory of comparative costs)と呼ばれている。(前掲書 三九ページ)

 また、比較優位説(理論)(theory of comparative advantage) ともいわれている。

 商取引で生まれる利益は、国家間同士の生産費の差ではなく、国内での生産費の差で決定している。だとすれば、他の国よりも比較的より効率的に生産できる製品に特化して、それ以外のものを輸出すればいいではないか、となる。

 そこで、どんなものでもイギリスよりも効率的に生産できるインドには、衣料の生産だけに特化させて、イギリスの工業製品を買わせよう、という理屈がたつ。(小室氏も経済事典も、インドの例ではなく、たびたびイギリスとポルトガルのワインと織物の例を引き合いに出す。)

 ブリタニカは、この主張の美しさは次の点であると述べている。

 もし全ての国が、領土内の労働力から最大限の利益を揚げられたら、世界の総生産高は自給自足をしている国がある場合よりも、間違いなく上回る。

 リカードの理論は、一九世紀の自由貿易理論の水源となる。「リカードは経済学のパンテオン神殿に列せられよう」、ブリタニカはそう締めくくっている。

 

ジャン・バプチスト・セイ(Jean-Baptiste Say)―作ったモノは全て売れる

セイ

 ブリタニカには載っていないが、小室氏の著作では、フランスの経済学者ジャン・バプチスト・セイがリカードに関連付けられている。

 小室氏はセイと表記しているが、岩浪の『経済学事典』など経済専門書を見ると、セーと書いてある。フランス語の発音では ay や ai と綴られたとき、「エ」となるので、本来は「レオン・セ」が正しい。私はここでは英語的に「セイ」としておく。少なくとも「セー」とはならないはずである。

 小室氏によれば、リカードの打ち立てた様々理論の中でも、比較優位説と並んでもう一つ重要なのが、「セイの法則」(Say's Law, Loi de Say)であり、これを彼の理論の中心に据えたことだという。

 セイの法則とは、「市場に供給されたモノは必ず売れる―という驚くべき法則」である(前掲書 四三ページ)。これは総供給に等しいだけの総需要が生まれるという、「デマンド・オン・サプライ(demand on supply)」の思想である。

 セイの法則とは「販路説」という。「生産物は生産物によってのみ買われ、供給は必然的にそれに合う需要を作り出す」という説である。(『経済学事典』 七六二ページ)

 これによって彼は、一般過剰生産を否定し、部分的過剰生産を主張した。つまり、大半のものは売りに出せば売れるということである。

小室氏の言うセイの法則は、正しくは「供給は自らの需要を作り出す」という。これはジョン・メイナード・ケインズによって定式化されたものである。(『経済学事典』 八〇三ページ)

 セイの法則をもう少し詳しく述べておこう。産出物の総需要価格は、総供給価格に等しく、貯蓄と投資は恒等式であらわされる。生産の増大につれて、需要も増加し、生産物供給を全て吸収できれば、資源をいっそう活用していっても問題ない。生産物供給がこれ以上増大できないところまで来ると、完全雇用が達成し、ついに均衡が達成する。

 セイの法則は、確かに自由貿易を推奨する、古典経済学の枠の中にあり、後の一般均衡理論の入り口だった。

 

ドイツ歴史経済学者たちからの挑戦を受ける

 

 古典経済学は、次の限界効用学派、ザ・マージナリスト(the marginalist)たちによって近代学問への道を歩むことになるが、その前に彼らは、経済の非法則性を唱えた二つの学派からの挑戦を受けることになる。

 その一つがドイツにおける、歴史経済学派、ヒストリカル・エコノミスト(historical economists)たちの挑戦である。この学派は、歴史史料編纂から発生してはいるのだが、純粋にそういうわけではなく、先に述べた社会進化論からの影響のほうが大きかった。

 進化論は、社会学問を生み出した三つの基本思想(ポジティヴィズム、ヒューマニタリアニズム、進化論)のうちの一つである。

 この学派の学者として挙げられているのは、ヴィルヘルム・ロッシャー( Wilhelm Roscher)とカール・クニース(Karl Knies)である。小室氏と経済学事典は、フリードリッヒ・リスト(Friedrich List、一七八九〜一八四六)を挙げている。先の二人はリストを受け継いだ人物である。

    

ロッシャー    クニース    リスト

 彼らの主張によれば、経済行為には古典学派が言うような、普遍性と時間を超越した永久性(timelessness)などはありえない。これは古典派によってほとんど公理といってもよいものになっていた。小室氏によれば、歴史学派は、リカードらの打ちたてたどの国にも共通する一般法則、というものは存在しないと主張した。

 歴史経済学は、フランスとイギリスの自由貿易によって、後進国とされたドイツの官僚とブルジョワが担っていた。リストはアメリカに亡命して、祖国の経済統一のための研究を行うが、受け入れられず自殺してしまう。(『経済学事典』 一三一七ページ)

 経済学事典によれば、「ドイツにおける資本主義の発展は、ドイツらしい仕方で行われなければならず、過去の伝統と結びついていなくてはならないから、その理念は歴史学の研究方法を適用すること以外からは見つけられないとされた。これが歴史学派経済学の誕生である。」(『経済学事典』 一三一七ページ)

 彼らの経済政策は、一八四八年に起こった三月革命(フランスのルイ・ナポレオン=ナポレオン三世によって、ルイ・フィリップ王朝が倒された事件の余波)以降、実行に移された。その後、ビスマルクによって、中部ヨーロッパ=ミッテル・オイローパに、強大な統一ドイツが生まれたことで、歴史経済学者の政治的使命は達成される。その後歴史学派出身のマックス・ウェーバー(Max weber)が自己批判を行い、歴史学派は衰滅した。(筆者注記: もともとドイツという国境を画定するような「国」は存在しない。ドイツとは、ライン川以東から、ポーランド・ロシアぐらいまで、南はアルプス、バルカン半島の北までの土地と、そこに住む「民族、フォルクス(volks)」のことである。ミッテル=ミッド・オイローパ=ヨーロッパが本当の正しいドイツを表現している。その周りの国は、その地域のことをジャーマン=英語、アルマーニャ=フランス語と呼ぶ。ドイツ人による国の呼び名は、ドイッチュラント「わが郷土」である。)

 副島氏は近年このミッテル・オイローパという、その呼び名の持つ意味の重要性を強調している。日本にも、一五〇年前「県」が無理やり誕生したが、これはアメリカのフェデレーションモデルであろう。「県」とは別に、常陸の国とか紀州といった、日本のもともとの地域名がある。ドイツをミッテル・オイローパと呼ぶことは、それと同じことで、国の本来の姿を認識するために大切な言葉なのである。

 イギリスの本来の呼び名は、ブリテンでありこれは、ブリテン島とフランスの左上に突き出ているブルターニュが一つのセットである。オランダはネーデルランド=ニーザーランド=ペイ・バ(フランス語)といい、全て「低い土地」という意味である。「低地ドイツ」といってもいい。

 これに対して、シーボルトは自分がドイツ人であることを隠すために、それを逆手にとって、「私の出身は高地オランダである」といったのである。つまりドイツは中部ヨーロッパの高地であり、オランダはその低い地方というだけで、同じドイツ系が多く住んでいる地域ということである。

 副島氏のこの主張は、ただの言葉の言いかえではない。副島氏の言葉の意味をどれだけの人が重く受け止めているのか、筆者の私は疑問に思っている。

(つづく)