「0064」 論文 「スピリチュアリズム」の改稿原稿(2) 原岡弘行筆 2010年1月3日

 

 二〇〇五年九月一一日の“小泉郵政クーデター選挙”では、スピリチュアリズムを信じる層が狙い撃ちにされた。いわゆる「B(ビー)層(そう)」(小泉内閣を支持した層。具体的な政治や経済ことはわからない人たち)である。落としやすいところを落とすというのが、マーケティングの基本だ。スピリチュアリズムは良くも悪くもイメージだけの世界である。オーラも前世も守護霊も、すべて目で見えない、手で触(さわ)れないものである。論理的な根拠がなくても、「いい感じ」だと思えば信じてしまう。みんなが「いい」というものは、何となく「いい」と思ってしまう。ここを電通につけ込まれた。小泉純一郎首相(当時)をヒーローに仕立て上げ、逆に郵政民営化に反対する議員たちは改革に反対する抵抗勢力であると、メディアを使って徹底したイメージづくりをしていった。その結果、自民党は、歴史的な大勝利を収めた。

小泉純一郎

 今回の民主党政権の誕生も、政権交代というイメージ操作が成功したからである。スピリチュアリズムを信じる層(B層)が、こぞって民主党に投票した。論理的に考えて、民主党がいいと判断してしたわけではない。自分の頭で考えることを放棄した人々を、支配者とその手先は簡単に洗脳でき、利用できる。これもスピリチュアリズムの負の側面の一つである。

 こうしたスピリチュアリズムの悪い部分を乗り越えるにはどうしたらいいのだろうか。古代インドでバラモン教が人々の精神を支配していたとき、当時の人たちはどうしたのだろうと思いをめぐらせてみた。すると、一人の人物の姿が浮かび上がってきた。その人物とは、釈迦(ゴータマ・シッダルタ、Gotama Siddhattha)である。

釈迦

 仏教は紀元前五〇〇年ごろ(二五〇〇年前)に、当時のインドを席巻していたバラモン教に対抗するために釈迦がつくりあげた宗教である。仏教(ブッディズム)(ブッダの教え)はバラモン教とは違い、霊魂の実在を認めない思想である。霊や死後のことを口にするのは、釈迦本来の仏教ではない。
二九歳で出家し釈迦は、厳しい修行の末、三十五歳で菩提樹の下で瞑想をし、ついには悟りを開いた。自分一人が悟るだけの人なら、他にもいただろう。釈迦が今でも尊敬されているのは、自らが悟りで得た知恵を人に教えたからだ。

 釈迦は、当時のインド社会を覆っていたカースト制度を打破したかった。人々を差別の恐怖心から解放したかった。そのためにひとり立ち上がった。仏教は人民救済思想である。今ではインドの貧困層の多くは、仏教徒である。このことは、今年五月のインドでの選挙のときに明らかになった。

 バラモン教に対抗するためには、仏教が最高なのである。現代でいえば、スピリチュアリズムに対抗するためには、釈迦の教え(特殊日本化した仏教ではなく、釈迦本来の仏教)を学ぶことが最も理にかなっている。当時のバラモンたちと釈迦による霊魂が実在するかしないかをめぐる対立を考えると、スピリチュアリズムの思想の輪郭がはっきりするというおまけもある。

 今は大不況なのに、物質の面では十分豊かである。モノはあふれている。その結果、物の値段(価格)はどんどん下がっている。同じように、パソコンやインターネットの発達によって、仮想世界(人間の脳がつくり出した、情報によって五感を刺激するだけの実体のない世界)がどんどん広がっているため、情報もあふれている。私たち人間が日々接する情報の量は、加速度的に増大している。現実世界と仮想世界の境目は、どんどん曖昧になっている。

 その結果、現在の日本では、アニメ・マンガ・ゲーム・小説・ドラマ・映画といった物語(ストーリー)の世界で、スピリチュアル(霊的)な概念は当たり前のように使われている。人間は死んでも霊として存在し続けることや死んだらあの世(死後の世界)に行くことは、物語の世界では王道になりつつある。今ではむしろ、「死んだら終わり」という世界観の方が珍しい。これらの作品では平気で死者の霊からのメッセージ(言葉や想い)が送られてくる。平安時代(安倍晴明の時代)と変わらない世界に私たちは生きているのだ。

 そもそも霊とは何か。霊とは、ピカチュウである(図2)。自分がそこにピカチュウがいると思えば、その人の世界にはピカチュウがいる。逆にぬいぐるみのピカチュウを買ってきても、ピカチュウがいることにはならない。いくら実体があっても、その人がそのぬいぐるみをピカチュウだと思えなければ、その人にとっては存在しないのと同じだ。人間は五感を通して世界を認識しているからだ。

図2 ピカチュウ

 実は、人間もピカチュウと同じである。人の記憶は、時間の経過とともに薄れていく。時が経てば、いつかは忘れてしまう。その人のことを忘れれば、その人の存在は消えてしまう。ピカチュウ(その人)がいなくなったら辛くてさみしいことである。

 そこで人類は墓をつくるようになった。それは、死んだ人が生きていた証(あか)しを残すためだ。墓参りに行けば、少なくともその時間は、その人のことを思い出すことができる。こうして人類は死を乗り越えてきた。こうした成仏(じょうぶつ)できない(完全に消えられない霊魂がいつまでもこの世をさまよっている)世界が、宗教を成り立たせている。

 現実世界に希望をもてなくなった人たちが、仮想世界に逃げ込んでいってしまっている。仮想世界は実体のない世界である。そこはスピリチュアリズムと実に相性がいい。目の前に迫ってくる自分の死から逃げるために、スピリチュアリズムの世界に飛び込んでいく人も多い。そこは、ゲームと同じ仮想(イメージだけ)の世界である。

 あとはそこに、どれだけ臨場感(リアリティ)をもたせられるかにかかっている。ピカチュウが人気のキャラクターであるのは、あたかもそこに本当にピカチュウがいるかのように思いやすいキャラクターだからである。「おかあさん」やハムスターを彷彿(ほうふつ)させるふわふわとした温かい感触がいい。「こんなのあり得ない」と思われた瞬間に、その存在は消える。

 世の中全体がスピリチュアル化していく流れは、誰にも止められない。これは霊魂が実在することや、生まれ変わりの思想を皆が認めるようになるということではない。人間の脳には、どうやら爆発的に広がっていく仮想世界と現実世界との区別が自分自身ではつけられないらしい。

 情報の量が増えれば増えるほど、誰かの脳に侵入して情報(記憶)を書き換えることもできるようになりつつある。かつてのオウム真理教や電通がしているように、膨大な、価値のない(自分たちにとっては洗脳することによって利益が得られる)情報を次から次へと流せばいい。そして、本当に大切な情報はどんどん見えなくなっていく。少しでも油断すると、あっという間に「奴隷(奪われる側)」の世界に引き込まれてしまう。

 こうした時代を生き抜くためには、わかりやすいスピリチュアリズムばかりでなく、仏教のような少し難しいことを考えるのは有効なことだ。この文章も私なりに私のまわりの世界の因果関係を考えて書いている。スピリチュアリズムがじわじわと浸透してきている今だからこそ、なぜ二五〇〇年前のインドで、釈迦という男がたったひとりで立ち上がったのかを考えたい。安易な思想に身をゆだねることでは誰も救われない。自分の頭で考えることだけが、自らを救う。

 大切なことは、「宗教をなめない」、ことだ。宗教は恐ろしいものなのである。教義に「異端の者を殺せ」とあれば、忠実な信者であればあるほど、人殺しをする。宗教は恐ろしい。二一世紀を生きる上で、これまで以上にこの認識が大切なものとなる。

 最後に、私たちがスピリチュアリズムから学べることは何だろうか。それは、ネーミングの重要性だ。日本ではオウム事件後、「霊媒師(れいばいし)」から「スピリチュアル・カウンセラー」に名前を変えたことで大成功した人がいる。「オーラの泉」の江原啓之氏だ。「霊媒師」と聞くといかにも怪しい。それが、「スピリチュアル・カウンセラー」と名乗ることで、突然なにかやさしくて温かそうな感じになる。しかし中身は変わっていない。やっていることは同じだ。変えたのは名前だけだ。「スピリチュアリズム」も以前は「心霊主義」と訳されていた。この名前だとさすがに抵抗感がある。おかしな世界に行ってしまった感じがする。それが名前を変えたことで、今ではスピリチュアリズムの話を公然としても批判されることがなくなった。それほど世の中の風潮は変わった。

 今の日本で霊媒師たちが布教(金儲け)に成功した最大の要因は、実は「スピリチュアリズム」「スピリチュアル・カウンセラー」というネーミングを思いついたことにあったのだ。名前ひとつでここまで変わる。言葉は大切である。良くも悪くも、言葉が成功と失敗を決めてしまう。「初めに言葉ありき」という聖書(バイブル)の言葉は重要だ。

(了)

 

【参考文献】
蔭山克秀 『パワーUP版 センター試験 倫理の点数が面白いほどとれる本』 中経出版、二〇〇八
小室直樹 『日本人のための宗教原論―あなたを宗教はどう助けてくれるのか』 徳間書店、二〇〇〇
ジョージ・オーウェル 『一九八四年[新訳版]』 早川書房、二〇〇九
『世界大百科事典』 平凡社、一九八五
ソーン、ヴィクター 『次の超大国は中国だとロックフェラーが決めた(上・下)』 副島隆彦編訳、徳間5次元文庫、二〇〇八
苫米地英人 『洗脳―スピリチュアルの妄言と精神防衛テクニック』 三才ブックス、二〇〇八
苫米地英人 『スピリチュアリズム』 にんげん出版、二〇〇七
香山リカ 『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』 幻冬舎新書、二〇〇六
橋本治 『大不況には本を読む』 中公新書ラクレ、二〇〇九
ピアス、アンブローズ 『新編 悪魔の辞典』 岩波文庫、一九九七
森田健・山川健一 『運を良くする―王虎応の世界』 アメーバブックス、二〇〇九

 

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『大百科事典』、平凡社、1985年6月

(引用はじめ)

れいこん 霊魂 soul, sprit

 身体にひそむと信じられる超自然的な存在。人間だけでなく万物にひそむとされるときはアニマanimaといわれる。また古代ギリシアでは、プシュケーという霊魂概念が知られている。このプシュケーやアニマはもと<気息>を意味したが、そこから、この目に見えない超自然的存在を生命の原理とする考えが発達し、やがてそれを神的実在とみなしたり、人格や精神の根源とする概念が生じた。キリスト教神学にいう聖霊、ウパニシャッド哲学のアートマンなどがそれである。一方、霊魂には身体や事物を基盤としてそこに自由に出入りする機能があるとみなされてきた。一般に精霊や生霊や死霊と呼ばれる存在がそれである。この考えは未開宗教や古代宗教において多く見られ、E.B.タイラーによると、とくに未開人はこのような霊魂(アニマ)の存在によってな夢や幻覚や失神や死の現象を説明しようとしたのだという。また、それらの遊離し漂白する精霊や生霊を操作したり駆使したりすることによって、治病や託宣や呪詛を行う呪術・宗教的な職能者もあらわれた。

 霊魂の考え方には、東南アジアなど多くの民族にみられるように複霊観をとる場合があるが、中国の魂魄観などもそれである。さらに遊離した霊魂が鳥の姿をとるという鳥霊魂の信仰もひろく世界に分布しており、エジプトの墓に描かれている鳥(バー)、あるいは日本の神話で日本武尊(やまとたける)が死後白鳥になったという話などはその一例である。ところで仏教は原則として、その無我説の立場から霊魂の存在を説かなかったが、浄土教思想の勃興とともに、死後における往生の主体の問題が提起され、それをめぐってやがて霊魂の存在を暗に認める立場をとるようになった。日本では古く霊魂のことを<たま>といい、<たまふり>や<たましずめ>などの鎮魂儀礼が重要視された。それは遊離しやすい状態の<たま>を身体につなぎとめるための呪術であったが、他方、遊離した<たま>はときに怨霊を含む御霊(ごりょう)や物の怪けに変貌して、生きている者に危害を加えると信じられた。また<たま>は最高の形態としては神霊を意味し、祈願・供養の対象として崇拝された。一般に日本では、人の死後、その死霊は祖霊を経て神霊になるという観念が強く抱かれてきた。不浄の霊(荒霊あらみたま)から清浄な霊(和魂にぎみたま)への浄化の過程が意識されたのであり、そこに日本人の間に根強い先祖崇拝の基盤があるといえよう。

山岸 哲雄

 

【霊魂】霊魂の行方―超心理学における死後生存仮説

 古来、世界各地で、人間の死後には霊魂が残り、生き続けるという信仰が見られるが、それを科学的に検証しようとする試みが起こったのは比較的最近のことで、イギリスにおける心霊研究協会の設立(1882)に端を発していると言える。当時欧米で流行していた交霊会で霊媒が起こす心霊現象を手がかりに死後生存を証明しようとする研究者の中には著名な学者も少なくなかったが、死後生存仮説にある程度そったデータは得られたものの、批判者を納得させるだけの結果は得られなかった。その後現在に至るまで、死後生存を証明しようとする超心理学的な研究は決して少なくないが、1950年代に、現存のあらゆる人間や事物が情報源になりうるとする<超ESP仮説>という、死後生存仮説の強力な対抗仮説が登場したこともあって、精力的な研究が続けられてはいるものの、死後生存の証明は極めて難しいとされている。

 現在、超心理学の中での死後生存の研究は、霊媒現象mediumship、霊姿体験apparition、肉体離脱体験out-of body experience、前世記憶reincarnation memory、臨終時体験deathbed observation、ポルターガイスト現象Poltergeist phenomenaの研究などがある。このうちポルターガイスト現象は、生存中の発動者agentが確定できない一部の例を除いては、念動による現象と考えられているが、超ESP仮説を棄却しうる証拠は得られていない。霊媒現象や霊姿体験の研究では、従来からの記述的研究法以外に、最近、主観的な判断をある基準をもとにあえて得点化し、それを統計的に処理して、意味のある結果が得られたかどうかにより、そうした現象や体験が事実であるかどうかを検討しようとする試みが行われるようになってきた。肉体離脱体験は、昔から死後生存の有力な証拠とされてきたもので、偶発的ないし意図的に、肉体から自己の一部が抜け出し、自身の肉体を外部からながめたり、遠方に出かけ、そこで起こっている現象を正しく報告したりする体験であるが、その生理学的な研究によると、夢見の状態と生理学的には区別がつけがたいとするものが多く、この現象は、夢見に近い体験に超感覚的知覚が加わったものなのか、あるいては事実人間の一部が肉体を抜け出すものなのか判断しがたい。前世記憶という現象は、昔から知られている。生まれかわりという信仰と関係する現象である。中には催眠により年齢を遡行させてこの種の記憶と思われるものを誘発させたものもあるが、多くは幼少期に自発的に語られる偶発的な現象である。アメリカ、バージニア大学のスティーブンソンIan Stevensonは、生まれかわりを思わせる事例を、東南アジアを中心に世界各地から2000例近く収集し、それに厳密な検討を加えている。前世記憶の中には、習ったはずのない言語を話す異言現象xenoglossisが見られるものもある。臨終時体験とは、巷間でよく聞かれる、人間が死ぬ間際に、すでに死亡している近親者を見るなどの体験である。アメリカ心霊研究会のオシスKarlis Osisらの研究によれば、インドとアメリカという異質な文化圏でほぼ同質の現象が見られていたという。生者の中には発動者が特定できないポルターガイスト現象は、ポルターガイスト現象全体の何割かを占めているが、死後生存研究としてのこの方面の難点は、その現象が死者によるものであるという、死後生存の証明にかかわる点の実証がきわめて困難なことである。

笠原 敏雄

 

こころ 心

 知、情、意によって代表される人間の精神作用の総体、もしくはその中心にあるもの。<精神>と同義とされることもあるが、精神がロゴス(理性)を体現する高次の心的能力で、個人を超える意味をになうとすれば、<心>はパトス(情念)を体現し、より多く個人的・主観的な意味合いをもつ。もともと心という概念は未開社会で霊魂不滅の信仰とむすびついて生まれ、その延長上に、霊魂の本態をめぐるさまざまな宗教的解釈や、霊魂あるいは心が肉体のどこに宿るかといった即物的疑問を呼び起こした。古来の素朴な局在論議を通覧すると、インドや中国をはじめとして、心の座を心臓に求めたものが多いが、これは、人間が生きているかぎり心臓は鼓動を続け、死亡するとその鼓動が停止するという事実をよく理解していたためで、<心>という漢字も心臓の形をかたどった象形文字にほかならない。心を心臓とほとんど同一視するという点ではヨーロッパでも同様で、英語のheart、ドイツ語のHerz、フランス語のcoeurなどすべて心を心臓の両方を意味するのも、そのなごりと思われる。ただし、医学思想の発展をみた古代ギリシア・ローマ期では、ヒッポクラテスが<脳によってわれわれは思考し、見聞し、美醜を区別し、善悪を判断し、快不快を覚える>と記して以来、心の座を脳や脳室に求める考えが支配的になり、この系譜はルネサンス期をへて19世紀初頭のF.J.ガルの骨相学にまで及んでいる。

 心の問題を身体的局在説の迷路から解き放ち、思惟を本性とする固有の精神現象として定立したのはフランスのデカルトで、彼がいわゆる松果腺仮説を提出したのも、心身の問題をそれで説明しようとしたものにほかならない。心が固有の精神現象であるなら、その成立ちや機能を改めて考える必要があり、17世紀後半からの哲学者でこの問題に専念した人は多い。心を<どんな字も書かれていず、どんな観念もない白紙(タブラ・ラサtabula rasa)>にたとえば経験論のロック、心ない自我を<観念の束>とみなした連合論のD.ヒューム、あらゆる精神活動を<変形された感覚>にすぎないと断じた感覚論のコンディヤックらが有名で、こういう流れのなかからしだいに<心の学>すなわち心理学が生まれた。ただし、19世紀末までの心理学はすべて<意識の学>で、心の全体を意識現象と等価とみなして疑わなかった。その後、ヒステリーなどの神経症で、意識されていない心のなかの傾向に支配されて行動することがS.フロイトらにより確かめられ、こうした臨床観察や夢の分析を契機として心の範囲は無意識の分野にまで拡大され、同時に、エス(イド)、自我、超自我といった層構造や、エディプス・コンプレクスなど各種の<観念複合>、投影(投射)や抑圧などの防衛機制がつぎつぎと見いだされた。こういう視点に立つかぎり、現代の心の概念はひじょうに複雑化しているといえるが、心という素朴な主観的イメージそのものは未開人と文明人とでそれほど違っているとも思えない。

宮本 忠雄

 

【哲学における<心>の概念】

 ここでは主として哲学の観点から<心>の疑念の変遷と、この概念をめぐる今日の問題状況とを概観する。心とはふつう身や物と対照される言葉であるが、哲学の世界でも事情は変わらない。大観すれば古代以来の西洋哲学の展開を通じて、身−心あるいは物−心の関係をめぐって二つの考えかたが交錯し対立しながら現代に至っている。一つの傾向は心を身体と物体との連続あるいは親和の関係でとらえ、他方はその間の非連続と対立関係を強調し、身体的・感覚的な存在次元を超える理性的な精神活動にもっぱら注目する。発生的な順序では第1の見方が古く、心あるいは魂に相当するギリシア語の<プシュケー−psyche>(ラテン語ではアニマanima)は、原義においては気息(息)を意味し、生きた人間の身体に宿ってこれを動かし、死に際を察してその身から離れ去る生気のごときものを指す言葉であった。しかしアテナイを中心とする古典期のギリシアでは、もうひとつ別の用法がすでに一般化している。すなわち、感覚、欲望、情念のような感覚的機能とは異なる、まったく理性的な精神作用の主体を指す言葉としてもこれが用いられた。この意味のプシュケーは理性を表すヌースnousに近く、ラテン語ではこれに対応するのはメンスmensあるいはアニムスanimusである。プラトンの諸対話編にはこの第2の型の霊魂観が典型的に表現されており、理性的な霊魂の不滅が真剣な哲学的議論の主題になっている。アリストテレスの≪霊魂論≫も、プラトンと同じく、心の理性的・超越的な存在正確を強調したが、それと同時に人間の心的生活が、たとえば栄養摂取や感覚−運動の機能に関して植物的・動物的な生命活動と連続するという一面も見逃さず、総合的・調和的な心理学説をつくり上げている。

 こういう古典ギリシアの哲学的霊魂観がやがて霊肉二元のユダヤ・キリスト教的な宗教思想と結びつき、西洋の思想的中核を形成するに至る。西洋近世における自然科学の勃興とその後の発展は、アニミスティックな自然観を退け、全物質界を法則認識の対象として客観化する認識態度によってもたらされてきたが、そういう思考法を培ってきたのもこの霊肉分離の宗教的・哲学的な伝統であったといわれる。この観点から見るとき、17世紀前半の代表的体系であるデカルト哲学の歴史的意義は大きい。それは伝統的存在論の物心二元の枠組みによって、科学的な世界観の基本構造を明確に表現している。ただしデカルトの場合も、感覚や意志行為を考察する場面では、心身の分離ならぬ合一が明らかな経験的事実として認められていた。そこで分離と合一という、心身関係ないし物心関係の一見矛盾する二側面を統一的に説明することがデカルト説を継承する人々の課題となり、ひいては近・現代を通じての哲学の重要問題となった。その間の注目すべき展開としてカントは、物質現象と実在的・因果的な関係に立つ<経験的>な主観と、物的・心的な全現象をおのれの対象とする<超越論的>な主観とを峻別し、これをもって彼の批判哲学の基本見解とした。この見解はもとより霊魂観の第2の類型に属するが、カントのあとをうけたドイツ観念論の哲学は精神主義ないし理性主義の傾向をされに徹底させ、あらゆる現象の多様を超越論的主観のうちに吸収し、あるいはこの源泉から発出させる唯心論の形而上学として展開した。

 しかし心に関する哲学的第1類型もまた根強い伝統となって今日に及んでいる。ことに19世紀後半から20世紀はじめにかけては、実証主義ないし科学主義の立場をとる人々の間で心理現象の唯物論的説明や、進化論に基づく自然主義的解釈が盛んであった。現代の哲学的状況を見ても、これまで心の哲学の主流を形成してきたデカルト的二元論や超越論的観念論に対して、大勢としては批判的である。これら古典的学説の基礎仮定に対する批判の作業が重要な哲学的認識の確立につながった例として、まず挙げるべきはメルロー・ポンティの≪知覚の現象学≫(1945)であろう。これは超越論的哲学も経験主義哲学もひとしく閑却した身体の意義を、現象学的考察の対象として初めて主題化した労作である。意志の諸現象はみな身体という、客観であると同時に主観でもある両義的な存在の世界へのかかわりとして解釈されている。また言語分析の方法によるものとしては、G.ライルの≪心の概念≫(1949)がデカルト的二元論の批判に成果を収めたが、より根本的・持続的な意義をもつのはウィトゲンシュタインの≪哲学探求≫(1953)で、伝統的な心の概念の根底である私的言語の見解に徹底的な吟味を加え、<言語ゲーム>や<生活形式>を基本概念とする新たな哲学的分析の境地を開いている。これらに共通するのは心にまつわる理論的先入見を取り除き、生活世界の経験に立ち返って心の諸概念をとらえ直そうという態度である。これらを継承しつつ、関連する諸科学の研究成果をも踏まえた心の総合的認識に達することが現在の哲学的課題であろう。

黒田 亘

(引用終わり)

 

『日本人のための宗教原論―あなたを宗教はどう助けてくれるのか』、小室直樹、2000年6月、徳間書店刊

(引用はじめ)

精神世界という宗教

 マックス・ヴェーバーは、宗教はエトス、行動様式であると説いた。

 宗教というと、普通の人は神や仏が必要だと思っているが、そんなことはない。いるいないに関係なく、行動様式たりえれば宗教である。儒教には天という超存在があるだけで、神も仏もいないし、仏教にしても仏はいないと平気でいっている。

 キリストだ、ヤハウェだというのではなく、例えば宇宙意志などという抽象的な言い方や、自らの魂を信仰するとか、いま流行りの精神世界的な世界観や、自らの魂を神とする考え方というのも、宗教として律することができる。

 本来、仏や神というのも仮の名前に過ぎないのである。ユダヤにはヤハウェという神がいて、キリスト教にはイエスがいて、イスラムにはアッラーという神がいる、という認識がそもそも間違っていて、いってみれば絶対の創造者のことをそれぞれがそう呼んでいるに過ぎない。であるから、それが宇宙意志だろうが、魂だろうが、精神世界だろうが、信仰対象になり、宗教であることに変わりはないのだ。(388〜389ページ)

(引用終わり)

(終わり)