「0068」 論文 サイエンス=学問体系の全体像(7) 鴨川光筆 2010年1月19日

 

ニコロ・マキャベリ(Niccolo Machiavelli)―政治学のコペルニクス

 政治を神学から切り離したのは、ニコロ・マキャベリ(一四六九〜一五二七年、イタリア)である。ブリタニカによれば、マキャベリは「政治哲学を完全に世俗化(secularize)した人物」である。マキャベリは、メディチ政権が崩壊した後の、共和制フィレンツェ政庁(つまりはデモクラティックな政権)の書記官であった。フィレンツェ共和国の書記官と言うのは、行政官であり、外交官でもある。

  

マキャベリ    『君主論』

 マキアヴェリはルネサンス期のイタリアで、いかにして権力闘争が行われたかを明らかにし、人々に衝撃を与えたのである。

 マキアヴェリの思想は、人間性への徹底的な悲観主義(pessimisism)、現実主義(realism)に満ちている。マキアヴェリにとって、権力(power)のみが国家の成り立ちと存続を支える柱であった。(『西洋思想大事典』 一巻 二二六ページ)

 マキアヴェリの政治学上の功績は、「国家、ステイト(state)」の近代的意味を確定したことである。それまでは国家を表す言葉として他にも、英語のコモンウェルス(commonwealth)、フランス語のリパブリーク(republic)が競合関係にあった。しかし、この二つは明らかに、デモクラティックな傾向を帯びた言葉である。(『西洋思想大事典』一巻、二二六ページ)

 政治思想を世俗のものとし、主権国家を表す語「ステイト」を確定した業績をして、筆者である私、鴨川は、マキアヴェリこそが政治学上のコペルニクスであると思う。

 マキアヴェリは「ステイト」(イタリア語では、stato あるいはキヴィタス civitas)の定義を著書『君主論』第一章の冒頭に書いている。マキアヴェリは明確にステイトを「支配権=ドミニオン(dminion) 」であると述べている。

 ドミニオン(dominion)とは『オックスフォード・アドヴァンスド・ラーナーズ・ディクショナリー』(OALDと言う)を引くと、authority to rule, control と簡潔に語義が書かれている。ここに書かれている「人々を支配、統治する権威、権力者」とは、まさしくマキアヴェリが第一章冒頭で行った定義そのものである。岩波の『君主論』ではドミニオンは「支配権」と訳されている。

 マキアヴェリ自身は、ドミニオンのことを「人々の上に政治権力を行使すること」と述べている。

 ドミニオンを本当の『オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリー』(これがOED)で引くとこのようにでている。

"The power or right of governing and controlling; sovereign authority; lordship, sovereignty; rule, sway, control, influence"

 「人々を支配、管理する権力、権限。主権(国を支配する権限)を持つ権威。統治権を持つ君主たること。主権。統治、支配、影響力を行使すること。」

 この定義の中にはっきりと sovereignty とあるではないか。このように「ステイト」とは、「主権国家」のことであることがはっきりするのである。この定義を行ったからこそ、マキアヴェリは政治学のコペルニクス的回転を成し遂げたと言っていいのである。

 定義の中に「スウェイ(sway)」という言葉があって、これは「人を左右する、権力を振りかざす」という意味も持っている。いずれにしろこの中に、「権力」「統治」「影響力」「権威」「支配」「主権」という現代の政治上学の基礎的なキーワードが含まれているのだ。

 

 常用二次熟語の再定義―OED、オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリーの効用

 少し外れるが、私鴨川は『オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリー』を使って日本語の常用二字熟語を定義しなおそうと考えている。中学受験予備校の講師をしていた関係から、八年程前から少しずつ行っている。

 その際、『オックスフォード』だと言っても注意が必要である。あくまでもOEDという一連の「オックスフォードの辞典」のマスターピースをもとにして行うことが大切である。

 「オックスフォードの辞典」とはオックスフォード大学出版局(オクスフォード・ユニヴァーシティ・プレス、OUPという)が刊行している「一連の辞書」と言う意味である。

 一般に『オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリー』(Oxford English Dictionary)とはOEDと呼ばれるが、これは全一二巻からなる大辞典である。それ以外にもオックスフォード大学出版局が出版している辞書は複数ある。

 日本の一般書店の辞書コーナーでお目にかかる、一般に言う「オックスフォード英英辞典」は、『コンサイス・オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリー』(Concise Oxford English Dictionary)と『オックスフォード・アドヴァンスド・ラーナーズ・ディクショナリー』(Oxford Advanced Learners’ Dictionary)と『オックスフォード・ディクショナリー・オブ・イングリッシュ』(Oxford Dictionary of English)である。

 それぞれ頭文字をとってこのように呼ばれる。

『コンサイス・オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリー』=COED
『オックスフォード・アドヴァンスド・ラーナーズ・ディクショナリー』=OALD
『オックスフォード・ディクショナリー・オブ・イングリッシュ』=ODOE

このようになる。

 見てわかるように「オックスフォード大学出版局刊行辞典」を使ったからと言って、OEDを引用したことにはならない。『コンサイス』や『ラーナーズ』からの引用をOED、Oxford English Dictionary のように明記してはいけない。それは嘘をついたことになる。呼び名が違うからと言うわけではない。それは次のような理由による。

 先の四つの辞書であるが、これは一見すると『コンサイス』が「ミニ・オックスフォード英英辞典」で『ラーナーズ』が「学習者用辞典」、『オブ・イングシッシュ』は「オックスフォード辞典」のように見える。しかしそれは全くの誤解である。

 一つずつ説明する。まず『オックスフォード・ディクショナリー・オブ・イングリッシュ』はいかにもオックスフォード英英辞典の貫禄十分であるが、これはOEDをもとにして作られてはいない辞典である。全く新しい辞典であり、いわばオックスフォード版『コリンズ・コウビルド』(Collins Cobuild)である。

 『アドヴァンスド・ラーナーズ』は、もともと戦時中日本で作られたイディオム辞典である。アルバート・シドニー・ホーンビー(Albert Sydney Hornby)という来日英語教師が、『イディオマティック・シンタクティック・ディクショナリー』(Idiomatic Syntactic Dictionary)という名前で一九四二年、開拓社というところから出版した辞書がもとである。これが後にオックスフォード大学出版局の手に渡って『ラーナーズ』となったのである。

 この『ラーナーズ』は非常に便利な辞書で、簡潔な定義の仕方が実にわかりやすいという特性を持っている。

 それもそのはずである。ラーナーズという辞書の種類はそもそもが「英語国民以外の人のための辞書」だからである。だから簡潔なのである。

 もっとはっきり言うと、『ラーナーズ・オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリー』は「日本人のための日本人による辞書」である。「学習者のための辞書」なんかではない。

 ラーナーズとしては他に『コリンズ・コウビルド』のものが有名で使いやすい。ただしコウビルド自体が現代的な簡潔な定義を売り物にしている辞典である。手にとって使いやすい程度のよさしかない。

 このオックスフォードのラーナーズを入り口にして、熟語の定義に迫るというのは試みとしてすばらしいことである。しかし、それでは本当の意味に迫ることは決して出来ない。

 上記のドミニオンの定義を明らかにしたところでも、それは明らかである。OEDになって、はじめてソーヴリィンティという言葉が定義として出ている。外国人向けのラーナーズの定義にソーヴリィンティが出てきては、辞書作成の本義、「簡潔さ、わかりやすさ」から外れることになるからである。

 三つ目の『コンサイス』がOEDの縮小版だといっていいかもしれない。ただし私は使ったことがない。OEDが大きくて面倒だというならば、『ショーターズ・オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリー』を使えばよいのである。全一二冊の巨大な辞書がたったの二冊にまとめられているからである。

 『ショーターズ・オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリー』(Shorter’s Oxford English Dictionary)の場合、辞書の大部分を占める例文が削除されている。OEDの価値は語源と文献学的価値の高い例文集である。膨大な文献辞典なのである。だから定義と語源を見つけるのが簡単で、実にいい辞書である。

 これをもう少し縮小して作れば他の「オックスフォードの辞書」はいらない。いやそのままでも十分である。

 「OEDの効用」は、後にブリタニカに続いて詳しく述べていこうと思う。

 

君主制しか認めないマキアヴェリ

 マキアヴェリの話に戻る。マキアヴェリは、基本的には、アリストテレス(Aristotle)、プラトン(Plato)の分けた六つの政治制度のカテゴリーに則って理論を展開しているが、彼の眼中にあるのは、君主制と共和制のみである。マキアヴェリの政治思想は、一人か多数という明快な単純さで出来ている。

 ただし『君主論』という題名で明確にされているように、マキアヴェリは現実に存在する政治制度としては事実上、君主制だけしか認めていない。

 マキアヴェリによれば、君主は、有力者の好意か民衆の好意のどちらかで生まれる。少数の有力者と多数の民衆の対立によって生まれる政治は、「君主制」か、「自由」か、「放縦」か、この三つがマキアヴェリの目撃した現実の政治である。

 ルネッサンス期のフィレンツェの内政外交に深く関わっていたマキアヴェリは、政治を完全に俗なもの、人間の汚らしい欲望にまみれた現実的なものとして見ざるを得なかったのである。

 この現実志向の政治姿勢によって、それ以前の国家と政治を神の世界の延長であるとするトミイズム的な政治思想は世俗世界から完全に分離された。

 トミイズムとはトマス・アクウィナス(Thomas Aquinas)の思想のことである。『神曲』の中で描かれたダンテの世界観も大きくはこの思想の中にある。

 マキアヴェリの人間への失望がうかがえる一説がブリタニカに引用されている。非常に印象深い言葉なので紹介しておきましょう。

 

(引用開始)

 Since this is to be asserted in general of men, that they are ungrateful, fickle, false, cowerds, covetous, and as long as you succeed they are yours entirely: they will offer you their blood, property, life, and children when the need is far distant; but when it approaches they turn against you.

 人間についてこのことは言えるだろう。人間は恩知らずで、気まぐれで、うそつきで、卑怯者で、強欲である。ですから閣下、世が上手く治められている限りは、民は皆あなたのものです。民の欲望がまだかなえられそうにないうちは、閣下に、血も、財産も、命も、子どもでさえも差し出すでしょう。しかし、彼らが満たされそうになると途端に貴殿に背くことでしょう。

 Since the desires of men are insatiable, nature prompting them to desire all things and fortunes permitting them to enjoy but few, there results a constant discontent in their minds, and a loathing of what they possess.

 人間の欲望は飽くことを知らず、その生まれつきの強欲のため、人間はどんなものをも欲しようとする。財を成すものもいるが、その数は僅かである。故に人間の不平は尽きることがなく、何もかも足りないといっては自らの境遇が嫌でたまらなくなるのである。

"Encyclopedea Brittanica: Macropedea: Political Philosophy"、翻訳は筆者)

(引用終わり)

 

 このような悲観的な人間観はプラトン、アウグスチヌス(St. Augsutine)によってすでに述べられているが、全く救われない人間の本性を直視したマキアヴェリは王に、「ライオンの強さとキツネのずる賢さを兼ねた暴君として振舞うべきである」と忠告した。

 この意味でマキアヴェリはアリストテレス、プラトンのような中道(中庸、エクィリブリアム)を嫌う。どっちつかずの態度を取る支配者は滅びる、ということを知っていたからである。支配者は好機をつかんで勝ち馬に乗らなくてはならない。都市は暴君に支配されるか、さもなくば滅ぼされるか、という徹底した二者択一こそが、為政者のとる最善の道であることを説いたのである。

 為政者にはモラルも信仰も不要なのである。政治の究極的目的は、国家の安全確保と領土の拡大なのだから、支配者はモラルを超えた存在でなくてはならないのである。

 アクィナスやダンテの作った宇宙観と違って、マキアヴェリの政治学はあくまでも生存のための戦いである。この透徹した現実主義こそが、政治哲学を世俗の思想へと導いたのである。

 

ホッブズ、ロック、ルソー=政治学のティコ、ケプラー、ガリレオ

ホッブズ(Thomas Hobbs)―恐怖との契約が人間を拘束する法である 

 トマス・ホッブズ(一五八八〜一六七九年)の生きた時代は、イギリスの政治史にとって激動の時代であり、政治上、学問上ともにエポックメイキングな時代であった。

  

ホッブズ     『リヴァイアサン』

 ホッブズはガリレオ、デカルト、ハーヴィーと同時代人であり、実際に彼らと少なからぬ交流を持っていた。

 このホッブズによって政治哲学は神学からいっそう切り離された近代思想として歩み始める。

 ホッブズは神学を「聖書という確かな足と形而上学という妖怪である」と攻撃している(『リヴァイアサン』第二巻、四八〇ページ 解説)。 そして団体権、階層性、神の拘束力への中世的優先権を破事実上壊してしまうのである。(『西洋思想大事典』四巻、三六四ページ)

 ホッブズは国家=ステイトを、神が作り給うたものではなく、人間が作り出したものであると初めて主張する。神が自然を創ったように、国家=ステイト=コモンウェルスは人間によって作られたものだと主張したのである。

 この強く巨大な人工物にホッブズは「リヴァイアサン」と名づける。リヴァイアサンとは旧約聖書のヨブ記に出てくる怪物の名前である。聖書の中で神はこのリヴァイアサンを「地上に比肩するもののない、恐怖を知らぬ被造物であり、全ての獣の上に君臨するものである」とヨブに述べている。

 

ホッブズ問題とは何か

  副島隆彦(そえじまたかひこ)先生は、『決然たる政治哲学への道』(弓立社、二〇〇二年)で、「ホッブズ問題」というものに触れている。「ホッブズ問題」は、近代政治思想の幕開けと言える、避けて通ることの出来ない非常に重要な思想である。この問題を詳しく述べてみようと思う。

 ホッブズの思想の基盤は自然法である。

 「人類の私服と悲惨に関する彼らの自然状態について」(『リヴァイアサン』第一三章)と題する一節で、ホッブズは、「人間はその本性から平和を望まざるを得ない」、と言っている。

 ホッブズによれば、人間は生まれながらに平等である。知力体力ともに差があるとしても、五十歩百歩である。このほとんど差のない人間には望みにも差がなく、互いに抱いている同じような望みがかなわない事を知る。そして互いに不信を抱くようになる

 お互いが敵であることを知った人間は、自分の安全を確保しようと先制攻撃を仕掛けて、自分を脅かす力が他の人間に生じないように敵を支配しようとする。

 ホッブズはこの争いの原因を、人間に根ざした本性に由来するとしている。その本性とは、利権を得ようとする競争心であり、安全を求めようとする不信と他人の評判を買おうとする誇り(グローリー)である。この三つの本性から人間は暴力に働きかけようとする。

 こうしてあの有名な「万人の万人に対する戦い(bellum omnium contra omnes、the war of all against all)」という「ホッブズの命題」が生まれるのである。

 「ステイト」の外にある人間は、自分たちを威圧する共通の権力を持たないためにこのような戦争状態にある、というのが「ホッブズ問題」なのである。

 万人が互いに戦争状態にあると、不便が生じる。そこには勤労もなければ、航海、耕作、財貨、建築、移動用の動力も、学問も文学もない。人間の技術が皆無の状態である。あるのは消えることのない恐怖と暴力による死の危険だけである。

 お互いが不信に満ち、いつでも奪い、殺してしまおうと思っている状態では、何をやるにも不正なものはない。正邪(right and wrong)、正不正(justice and injustice)の観念自体が存在しないからである。

 さらに所有の観念も、支配(ドミニオン)の観念すら存在せず、私のものとあなたのものの区別もない。

 こうして人間は死への恐怖から快適な生活を得たいがために、勤労への意欲へと駆り立てられる。快適、便利な生活がしたいという希望が、人間にお互いの平和への協定を結ばせるのである。

 ホッブズは自然法を「理性によって発見された一般法則である」とする。しかし、ホッブズにとっての自然法の土台は、恐怖(fear)である。

 ホッブズの自然法は「平和を求め、それに従え」という自然の命令であり、生命維持と平和を獲得するための人間の義務、拘束である。

 ここから自然権が生まれる。ホッブズの自然権とは、あらゆる手段を使って敵から身を守るための自由である。防衛の自由と平和への義務。これがホッブズの主張する自然権と自然法である。

 ホッブズは自然権を捨てよという。進んで自分のほうから放棄せよという。なぜならば互いに自己の生命維持のためあらゆる手段を使っていいのであるならば、永久に戦争のままだからである。

 ここに契約、コントラクトcontract(コンパクトcompact、または信約=コヴナントcovenant)という思想が生まれる。人々は互いに契約を行うために、一つの権力を設定し、自分たちの自然権を引き渡す。こうして、人間たち双方の上に君臨する権力があって始めて契約は保証されるのである。

  ホッブズのいう自然とは決していい意味で言っているのではない。人間の野蛮な、非文明状態のことを言っているのである。

 この点でホッブズはアリストテレスと正反対の思想を持っていた。アリストテレスは、人間は他の動物と違って「政治的動物である」と主張するが、ホッブズは人間の本性は、「非社会的である」としている。

 だからホッブズは自然法も、それ自体は人間の法として正しいものとして評価しているが、誰も守るはずのない「ザル法」だと考えている。

 人間に平和を守らせようと戒めているこの「ザル法」を守らせるためには、各人の持つ(生命を守るための当然の権利)自然権を、一人の人間かまたは複数の人間による合議体=アッセンブリー(assembly)に与えてしまって「守ってもらう」ことだと考えた。

 こうして群衆の意思は一人格に統一され、この巨大な権力は自分たちを統治してくれる権威となる。これが「国家=コモンウェルス=ステイト」なのである。

 このスーパー・パワー(super power)こそが主権者=ソーヴリィンといい、威嚇と恐怖によって人間たちに平和と安全を戒め、自然法を執行させるのである。

 ホッブズはこの巨大な人格を「あの偉大なリヴァイアサン(Leviathan)」と名づけた。

 後にホッブズは無神論者、エイシーイスト(athiest)と呼ばれ、人間の本性を悪意に満ちた表現で貶めたとして非難され、著書『リヴァイアサン』は多くの人々に恐れられたのである。

 しかし、ホッブズの思想はそれまでのシティ・ステイトでしかなかった主権国家を全ての国民、ピープルにまで広げた「ソーヴリン・ネイション・ステイト=主権国民国家」の実現に正当性を与えたのである。

 

(つづく)