「0082」 論文 サイエンス=学問体系の全体像(10) 鴨川光筆 2010年4月26日
ロックはニュートン、アダム・スミス同様、神を持ち出さない
私のルソー論は、副島隆彦著『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』(以降、『覇権アメ』という略称を使う。講談社刊、一九九九年)の第四章「法をめぐる思想闘争と政治対立の構造」をたたき台にしている。
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この本は簡潔にアメリカ政治と法哲学が網羅されている。政治学を研究するものにとっては必読の書である。
本稿の目的は、ブリタニカを参照することで、学問の全体像を網羅することである。それゆえ私は、必然的に副島氏の主張に対して補足修正をする、という使命を帯びていると考えている。
私は政治哲学の歴史を書くにあたり『覇権アメ』を読み直して見て、どうしても気になった部分がある。それは一九五ページの一節である。人間は「天 “Heaven” あるいは神の摂理 “Divine Proidence” から “ナチュラル・ライツ(natural rights)” を与えられている」という副島氏の考えを述べた部分である。
私は、これは間違いであると考えている。ジョン・ロック(John Locke)の『市民政府二論』(Two Treatises of Government)をどう読んでみても、自然権が神から与えられたとは読めないからである。
ロック ニュートン アダム・スミス
ロックはアイザック・ニュートン(Issac Newton)、アダム・スミス(Adam Smith)同様、神の存在を前提としてはいない。それがいるかいないか、神の「存在論、オントロギー(ontology)」は議論の対象外としている。それとは別にして、「ナチュラル・ライツという権利(=自分の命を守る自由)を、人間は生まれながらに自然に持っている」とロックは述べたのである。
『市民政府二論』がロバート・フィルマー(Robert Filmer)の「王権神授説(Divine Right of Kings)」への反駁の書であることからも、副島氏のこの一節は、ロックの主張であるとは言えないのである。
フィルマー
アダム・スミスの「市場の見えざる手(Invisible Hand)」にしてもそうだが(副島氏は「神の見えざる手」としている)、ロックもニュートンもアダム・スミスも、神の存在論とは別にして、それが在るかどうかの是非は別として、人間社会や自然界の事実からスタートしているのである。
哲学を神聖(ディヴァインdivine、セクレッドsacred)なものからセキュラー(secular)、世俗のもの、人間に属するものとしたことが、彼ら「モダーン・サイエンティスト(modern scientists)」の近代性なのである。学問を「神の手」から切ったと言う事実が重要である。
ブリタニカにもこのような紛らわしい一節がある。
“He (著者註:ロックのこと) defends the propertied classes both against a ruler by divine right and against radicals.”
これを誤読すると、「ロックは資産階級を神聖な権利によって、統治を行う者と急進派から守った」となる。これでは何を言っているか全くわからない。
by divine right を defend にかけて「神聖な権利で資産階級を擁護した」などと、支離滅裂な文脈で読んでしまったらお終いである。この「ルーラー、統治者」とは一七世紀スチュワート朝の絶対君主のことを指しているのである。
これをきちんと訳すとこのようになる。
「ロックは資産階級を擁護した。ロックの攻撃の矛先は、資産階級を脅かす絶対君主である。絶対君主が述べるには、自分の地位と権力は神から授かったものであり、そのおかげで国を統治する権利がある、などとしている。ロックは身分制度の廃絶や私有財産の禁止を主張する急進的思想を持つ人間も、絶対君主と同様に、資産階級の権利を脅かすものとして批判した。」
上記の文章の中にある「ディヴァイン・ライト」とはジャン・ボダン(Jean Bodin)やフィルマーらの主張する、神授された王権の事を指す。その最初の継承者はアダムであるという。一七世紀当時としても途方もない主張であり、同じく一七世紀、フランス・ブルボン家の太陽王ルイ一四世(Louis XIV de France)の宰相ジュール・マザラン(Jules Mazarin)もその唱道者であった。
ボダン マザラン
この新奇な思想に反駁を加えることにより、ロックは政治思想を神学から切り離した。ロックの近代性はそこにある。
エドマンド・バーク―「永遠の相のもとの保守」 ”アンダー・ザ・エターナル・アスペクト”
副島氏は主著『覇権アメ』一五二ページから、「自然法と自然権の対立」と題して、現代アメリカの法思想の対立の大きな枠組みを提示している。
その対立とは、これまで私が述べてきたロックの「創始した」と言われる自然権派と、これから述べるエドマンド・バーク(Edmund Burke)の自然法(Natural Law)派の対立である。自然権派のことをロッキアン(Lockean)、自然法派のことをバーキアン(Burkean)という。
バーク
私はこれからエドマンド・バークのことを述べなければならないのだが、困ったことにバークのどこを読んでも、「自然法」と言う文字が見当たらないのである。
バークの主著と言うのは『フランス革命の省察』(一七九〇年) Reflections on the Revolution in Franceである。現在は岩波文庫で上下巻に分けられて出版されている。
この本を読むと、バークは「古来からの」という言葉は頻繁に使っているのだが、自然法、ナチュラル・ローという言葉をどこにも使っていないのである。
ナチュラル・ローはおろか、バークは古来から(本当に古代からという意味で)積み上げられてきた人定法(Positive Law)の積み上げであるイギリス法こそが、大切な先祖からの遺産であり、家産なのである、と述べている。
ただしイギリス法、コモン・ローの根底にあるのは自然法である。ここが厄介なところであり、後に人定法派であるジェレミー・ベンサム(Jeremy Bentham)が登場するのは、イギリスの人定法の積み上げが自然法だからである。ここで混乱してはならない。
ベンサム
私鴨川は、副島氏の発言を修正、補足していかなくてはならなくなる。これが厄介なのである。『覇権アメ』でバークに触れている箇所、一九六から二〇五ページを注意深く読んでみると、バーク自身が自分は自然法派だと言ったとは書かれていない。
バークが言ったのは「この世に在るもの、在るがままに在るもの、それら全てを認める」ことだと書かれている(二〇四ページ)。これをバークは、自然法と言う言葉は使わずに「永遠の相の下における」、「自然の秩序そのもの」だと言ったという。この言葉が重要である。
バークはウィッグ原理の大成者である。これをしてアメリカに渡った自由主義者たち、ウィッグ(イギリスの自由党側の系譜を受け継ぐ人々。後に一応アメリカの共和党になった、と言うことになっている)たちが、自分たちはバーキアンだと名乗ったのだ。
ところが、アメリカの憲法も共和党も、そもそもがロックの思想に基づいて成立したのである。アメリカは本来ジャン・ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau)の人権思想を認めて成立した国ではない。
ルソー
そもそもイギリスのウィッグの思想の根本は、バークではなく、ロックによって打ち立てられたのである。だからいくらアメリカの建国の正統を受け継ぐ共和党保守本流が、自分たちはバーキアンであり、ロッキアンではない、などと言っても通らない。
『覇権アメ』一五六ページに、アメリカの建国の父たちは、ロックの思想を嬉々として「アメリカ独立宣言(U.S.Declaration of Independence)」に採用し、コンスティチューショナルな権威、憲法文の中で保障、宣言された諸人権となった、と書かれている。
さらにブリタニカ一四巻九九六ページには、「ウィッグたちの精密に構築された憲法の教義は、ロックによって(これまで述べてきたような、イギリス国民の共通感覚を付与されて)表された」と書かれている。
だからバーキアンなどという自然法支持派というのも、アメリカ人が勝手に作ったものだと言わざるを得ないのだが、その前にバークの残した言葉で大切なものがある。それは前に述べた「永遠の相の下における」という言葉である(『覇権アメ』二〇四ページ)。
これは副島氏によれば、もとはラテン語のスブ・スペキエ・アエテルニタティス sub specie aeternitatis という。
私は直接副島先生から聞いたのだが、その時先生からものすごい顔でにらまれた。『覇権アメ』の中にすでにこの言葉が書かれているからである。知識人に対してこのような不用意な質問をすることほど恥なことはない。講演会や掲示板、メールでの大半の質問は私のような勉強不足である。
それでも私は、このラテン語の言葉を意味も分からず、大半の「弟子」のように鵜呑みにするようなことはしない。私は言葉をきちんと解釈するすべを知っている。
スブ・スペキエ・アエテルニタティス sub specie aeternitatis とは英語で、アンダー・ジ・エターナル・アスペクト under the eternal aspect と呼ぶのである。このことを直感的に分からなくては、欧米語の語学力はない。
ラテン語を英語に直しただけではないか、などと言ってはならない。西洋の言葉を、二次熟語やラテン語から英語やドイツ語、フランス語など我々になじみの欧米の言語に置き換えることで、言葉の定義をしっかりかみ締めることが重要なのである。
「アンダー・ジ・エターナル・アスペクト」、これを直訳したものが「永遠の相の下の」なのである。
ところがバークの前著を読んでみてもこれが見当たらない。そこで、バークの思想をブリタニカで概観していくことから本章を始めようと思う。
アイルランド人であるバーク
ブリタニカ・マクロペディアのバークの項は非常に少なく、簡潔に過ぎる。そこでミクロペディアのバークの項(六五一〜六五二ページ)を合わせて参照しようと思う。
バークは一七二九年、アイルランドのダブリン生まれである(一七九七年没)。英国の国会議員を歴任した著名な政治家であり、政治思想家でもある。
彼の政治家、政治思想家としての著しい活動の時期は、一七六五年から九五年の間であり、政治思想史の中でも重要な位置を占めている。バークは、フランス革命で実権を握ったジャコバン派(Jacobins)に反対し、リベラルでありながらも保守主義の擁護者として登場する。
バークは一七四四年、ダブリンのトリニティ・カレッジ(Trinity College)に入学する。
トリニティ・カレッジ
私、鴨川は文学部出身なので、この学校の名はよく記憶している。アイルランド人作家、ジェイムス・ジョイス(James Joyce)の出身校である。三位一体=トリニティを学校名にしていることから分かるように、この大学はカトリックの大学である。
ジェイムス・ジョイス
アイルランドという土地柄、北アイルランド以外にアングリカン・チャーチ(英国国教会、Anglican Church)やプロテスタント(Protestants)系の大学はあるはずがない。アイルランドに関して詳しく知りたい方は、副島氏の映画本二冊を参照してください。
アイルランドの名門トリニティ・カレッジの出身でありながら、バークはプロテスタントである。アングリカンであるかどうかはわからない。そうでありながら、トーリー(王党派、本当の英国保守、Torys)に対抗するウィッグ(自由党)の旗手なのだから、バークというのは本当に訳が分からない。曖昧で、一貫性のない人物である。
バークの一貫性の無さは、ブリタニカでも論争の対象であると書かれている。バークは政治哲学に関するまとまった書物を一冊も著すことなく、根本的信条を表わすこともなかった。ただ個別の問題のみを取り扱うだけで、生涯で出版したのはおびただしい数のパンフレットだけであった。
バークの思想の一貫性のなさ
バークがウィッグというリベラルの立場でありながら、君主や貴族、そしてその財産保持を擁護するという立場をとったのは、一見すると矛盾であり、バークの一貫性の無さと映るかもしれないが、実はこれはこれまで述べてきたトマス・ホッブズ(Thomas Hobbs)、ロックの思想を真っ直ぐに受け継ぐものなのである。バークの正統さに関しては後に述べる。
ホッブス
バークは一貫しない。怪しいのは彼が本当は純正のアイリッシュで、カトリックなのではないかという疑いである。もしそうであるならば、バークはすでに近代になっていた一八世紀末のイギリスにおいて、ニコラウス・コペルニクス(Nicolaus Copernicus)、アダム・スミス、ロックらが積み上げてきた「世俗化、セキュラライゼーション(secularization)」という大きな流れに、心の底では違反していることになる。
副島氏も、「バークという人間は、結局アイルランド出身だから、裏のあるよく分からない人間である」とウェッブ上でも述べているし、私自身、副島氏本人の口から直接聞いた。
ブリタニカ・ミクロペディア六五二ページにはこのように書かれている。バークは、英国が採用していたアイルランドへの経済に関する規定と罰則規定の緩和を主張し、アイルランドは英国から独立した独自の立法府(つまり議会)を持つように措置を講ずるべきである、と主張していた。
この点でバークは一貫している。バークのアイルランド寄りの姿勢は、自分の選挙区の有権者の離反を招きかねず、バーク自身もカトリックなのではないか、という嫌疑が掛けられかねなかったが、それを承知の上でアイリッシュの政治経済的独立を一貫して主張していたのである。
私のアイルランド論
私鴨川の見解だが、バーク Berkeという名前自体、アイリッシュ独特の名前なのではないだろうかと思っている。ブリタニカのバークの見出しのページには、同じくバークという名前の著名人が何人か載っているが、その中にロバート・オハラ・バーク(Robert O'Hara Burke)という名前があった。
ロバート・オハラ・バーク
この「オハラ」はアルファベットで O'Hara と綴るが、「小原さん」ではない。『風とともに去りぬ』(Gone With the Wind)のスカーレット・オハラ(Scarlett O'Hara)のオハラである。あの映画は実はこてこての”アイリッシュ映画”なのである。あれほどまでにアイリッシュかと思わせるほどにこてこてである。それを見抜けぬようではアホである。
スカーレット・オハラ(ヴィヴィアン・リー)
舞台となったタラという土地の名前が、アイルランドの土地の名である。そして主人公のヴィヴィアン・リー(Viivan Lee)。このヴィヴィアンというのもアイリッシュ名である。他にもヴィヴィアン・キャンベル(Vivian Campbell)というアイルランド人の著名なギタリストがいる。
「オー」 O' というのもアイリッシュの名前であるようだ。他にもオー・ヘンリー(O. Henry)という作家がいるのはご存知であろう。オニール(O’Neill)というのもそうである。オブライエン(O'Brien)もそう。これがポピュラーなブライアン(Brian)と言う名前になったのだろう。
このロバート・オハラ・バークという人は、アイルランドの最もアイルランド的である土地、ゴールウェイ(Galway)出身である。ゴールウェイというのはアイルランド島の西側にあり、地理的・歴史的に英国色の強いダブリンの正反対に位置する。
ダブリンの対岸がリヴァプール(Liverpool)であり、ここで生まれたジョン・レノン(John Lennon)、ポール・マッカートニー(Paul McCartney)らはアイルランドから出稼ぎに来た二世か三世である。リヴァプール人というのは「リヴァパドリアン(Liverpudlians)」と呼ばれ、このパドルを省略して「パディ(Paddy)」という蔑称が付けられた。
ジョン・レノン ポール・マッカートニー
この出稼ぎパディたちは、ロンドンなどの都市に出てきて浮浪者となった。そんな彼ら[はいきなり「かご」=ワゴン(wagon)に乗せられて、そのまま遠いオーストラリア(Australia)まで運ばれ、自分たちの手で、自分たちの収容される刑務所を作らされた。そこがオーストラリア西岸のパース(Perth)であり、この監獄は博物館となって今も残されている。
アイリッシュを乗せたカゴのことを「パディ・ワゴン(paddy wagon)」という。だからアイリッシュのことをパディと言うのだ。オーストラリア人というのはアイリッシュということになる。
『オズの魔法使い』のオズとはオーストラリアのことである。オーストラリア人を指す「オージー(ausie) 」が「オズ(Oz) 」になったのである。あの映画に出てくる緑色は、アイリッシュ・カラー(Irish color)である。グリーンといったらアイルランドに関連した何かを指す。これらの内容は副島氏の映画本を読んで参照してみてほしい。
ちなみにポール・マッカートニーの「マック」の部分の綴り Mc と言うのも、これ以上ないほどの典型的アイリッシュ・ネームである。
あのマクドナルドの「マック」のことである。マクドナルドの綴りも McDonald で小さいcがある。マクドナルドの本社はシカゴ(Chicago)であり、シカゴはアイリッシュ移民色の強い町である。リチャード・デイリー(Richard Daley)らのシカゴ・マシーン(Chicago Machine)の多数派はもともとはアイリッシュである。
マックイーン(McQueen)、マッカーシー(McCarthy)、マッケンジー(McKenzie)、マグワイア(McGwire)、マケイン(McCain)、マクビー(McBee)など小さいcを持つ「マック」と言う名前に注意するといい。どの名前も「私は先祖をアイルランドに持っています」と名乗っているようなものだ。
「マック」とは英語の「何々ソン、son 」、息子、子孫のことである。
ところでマッカーサーの場合はどうかと言うと、マッカーサーはMac と綴るのでアイリッシュではない。これはスコットランド系(Scottish)の名前であり、地主、ジェントリー(gentry)、貴族である。だからマッカーサーは貴族意識が強く、アメリカ人からあまり好かれなかった。
しかも「マック・アーサー(Mac Arthur)」(伝承上のブリテン、アイルランドの王様、アーサー王の子孫)などと名乗っている。
ちなみにビートルズの中でもリンゴ・スター(Ringo Starr)だけはユダヤ人である。リンゴ・スターはかなり成功してからも、メンバーの中でも一番貧しい地域からしばらく引っ越すこともなく、ひたすら小金をためていた。というのもユダヤ人コミュニティの出身の人間だからであろう。リンゴ・スターは人脈だけはすごく、解散後に大スターばかりを集めた『RINGO』というソロアルバムを出した。
リンゴ・スター エプスタイン サリヴァン
ビートルズのマネジャー、ブライアン・エプスタイン(Brian Epstein)はユダヤ人であり、アメリカでの成功のきっかけを与えたエド・サリヴァン(Ed Sullivan)もユダヤ人である。
このアイリッシュを上手く利用したユダヤ人との関係は、マーティン・スコセッシ(Martin Scorsese)の『グッド・フェローズ(Good Fellows)』(原題はグッド・フェラス)に生き生きと描写されている。
スコセッシ
いずれにしてもバークはアイリッシュであり、カトリックであった可能性が非常に高い人物である。
バークの思想―バーク自身がロッキアン
バークの主著は『フランス革命の省察』である。この本を読んで、またさらにブリタニカを読めば読むほど、バークはロッキアンではないかとしか思えなくなる。読めば読むほどロックの主張「自然権を立法府に預けよ」という思想をバーク自身が踏襲しているとしか思えない。
バークの思想を一言で言うと「先祖から受け継いだ生活習慣、言葉、そして財産はきちんと受け継げ。それが自然の衝動だ」ということである。
しつこいようだがバークをいくら読んでも自然法、ナチュラル・ローという言葉そのものは出てこない。ブリタニカには「人間の感情と精神の生活は宇宙の秩序の中で調和する。これがナチュラル・インパルス(natural impulse)である」とバークは述べたのだとだけ書かれている。
このナチュラル・インパルス―「自然の衝動」そのものに、自制、自己批判が存在し、徳のある生活、精神的生活もナチュラル・インパルスが源であるとする。ナチュラル・インパルスがあるからこそ、社会であれ国家であれ、人間の能力を完全に実現しながらも、コモン・グッド(common good)、共通の善(公共の福祉、パブリック・ウェルフェアpublic welfare)を行うことも可能である。だからルソーの思想、社会民主制にもつながらないことはない。
この考え方は、あの夏目漱石の作品の中心テーマであるエゴイズム(egoism)のことである。国、社会と自分のエゴイズムの対立と矛盾は自然の衝動によって解消される、ということをバークは言っているのである。
日本でのバーク研究は戦前戦後を通じて、どちらかと言うと日陰であり、決してメインストリームとなるようなことはなかった。
しかし、九〇年代後半から日本の保守言論人の旗頭である渡部昇一氏が『正論』等の雑誌の論文で再評価を行い、バークを称揚し、バークにわずかながら光が当たるようになった。二〇〇〇年に岩波文庫の『省察』が復刊されたのも、この時の渡部氏が『正論』等の保守論壇誌で行った、バーク宣伝の賜物である。
以来バークはいわゆる伝統を守る保守であって、反リベラル、反革命、反前衛の代表のように考えられるようになった。
バークは革命に大賛成である―バークはリベラルなのか保守なのかという議論に終止符を打つ
しかしバークは本質的に革命には賛成である。左翼、学生運動の嫌いな渡部昇一氏がいくらバークの保守思想を評価しようとも、バークは革命支持者でなくてはおかしいのである。バークは反革命などではない。
バークは今で言う「(永遠の相のもとの)保守」ではあるが、本質的には自由主義者、リベラルズ (Liberals )である。
ブリタニカにはバークが自然(nature)、 自然秩序(natural order) について触れていることが書かれている。バークの自然秩序とは、歴史の過程と、時を経て積み上げられてきた慣習と社会的業績への深い尊敬の現れであるという。よく分からない。
これが「自然のまま、在るがままのものを認めよ」という部分である。「永遠の相の下の保守」はここに由来する。
日本の「リベ保守」はこれが好きなのである。バークのこの思想を、そのまま日本に当てはめたのである。事の真実、真相はどうあれ、日本の歴史、伝統習慣をそのものとして受け入れ認めよ。それが日本、日本らしさだ、と言いたいのである。
日本の伝統とは何かと言うと、天皇と言うことになる。日本の「リベ保守」は天皇好きになるのである。
ところが当の「リベ保守」本家のバーク自身はこう言うのだ。
“Therefore social change is not merely possible but also inevitable and desirable.”
(著者訳: したがって、社会変革は可能なだけではなく、不可避であり望ましいものである。)
伝統を大切にするはずのバークの理論によれば、社会変革もまた時間をかけて積み上げられてきた人間の業績ということになる。変革、革命もまた尊敬すべき歴史の過程、人類の業績だということだ。
バークがリベラルなのか保守なのか、今でも論争が尽きないのはこの部分が原因である。バークはさらに条件をつける。
社会変革には賛成だが、それは「安定した習慣的な社会生活の広範囲に、余計な干渉をしないこと」という条件のもとで行われなくてはならない。
バークは、思想というものは社会改革のツールだと考えている。思想が社会に果たす役割は、あくまで特定の事柄のみに限定されるべきである、と考えている。
ある思想がフランス革命で行われたような「先を見越した大掛かりな計画(a large speculative scheme)として実行に移されるのは間違いである。このような実行計画、スキームは安定した社会生活への余計な干渉となるだけだ、と述べている。
この「計画」で実践された「思想」とはルソーの思想のことであろう。
バークが言おうとしている事は、日本の「リベ保守」のような短絡的なものではない。バークにとっては、革命も人間の営みの蓄積であり、業績であるのだから、それも伝統の形成の一部である。だから社会変革に賛成なのである。ただしそれはあくまで限定的で、具体的なことに限るべきだとバークは言っている。
バークはロックと同様の思想立場なのだが、ロックのような抽象的な考え方は嫌いである。なぜなら、社会契約のような抽象的な考え方や先を見越した実行計画が、人間が長い時間をかけて構築してきた社会を解体する恐れがあるからだという。
ブリタニカはバークのいう社会の基本構造を、ファブリック(fabric)と述べている。習慣や信仰全てを含んだ社会の基本的枠組みのことである。
だからバークは人権思想(この頃はヒューマン・ライツhuman rightsと言わずに、ライツ・オブ・マンrights of manと言っている)も、人民主権=ポピュラー・ソーヴリィンティpopular soveringty(ルソーの述べたピープルにまで拡張された主権、リパブリックrepublic、ポリティpolity、社会民主制)も認めていない。
バークによれば、少人数による支配であれ、多数によるものであれ、人間が自分の意思で統治をする権利など存在しないという。これはルソーのジェネラル・ウィルGeneral Willのことであろう。少人数でも、多数によるものでも関係ない。「抽象的な思想と、単なる数による支配の論理」では、民主制は危機に陥るとバークは主張する。
バークの思想は貴族制がその本質である
ここで注意してほしいのは、バークは一応民主制、デモクラシー(democracy)を前提としていると言うことである。これまで私たちが見てきた西洋の政治思想の本流に、バークがいると言うことが分かるであろう。
この時代の「イギリスの保守」とは「王党派、ロイヤリストRoyalists」であるべきである。これに対して、君主を支持していたホッブズやマキァヴェリでさえも、本質的にはリベラルなのである。彼らは民主制が気になってしょうがない。
バークの民主制とは、「世襲貴族が責任を持ち、抑制の取れたリーダーシップを発揮しなければならない制度」のことである。これは見事に現在のアメリカ共和党の民主政治のことを表している。
バークはロックの思想を正統に受け継いだ、ウィッグの大成者なのである。だが、ここで実にややこしい印象を受けるのだ。リベラルなのか保守なのかが実に曖昧なのである。
バークの思想では社会民主制とはならない。つまり本当の、全てのピープルを含んだ「福祉的な民主制(welfare social democracy) 」にはなり得ない。(ウェルフェア・ソーシャル・デモクラシー、これが真実の民主制。私自身の意見ではない。)
バークの思想は実は「貴族制、アリストクラシー(aristocracy)」である。この思想がアメリカに渡って、「金持ち利益の誘導党」である共和党となったというのは必然である。
バークの民主制,貴族制はシチズン(citizen)とピープル(農民も含む)だけの政治である。政治はシチズンと貴族がやるから、ピープルは立法府に主権を預けよ、ということである。
立法府、リプレゼンタティヴ(representatives)、代議員は貴族とシチズンが務める。だからロック、バークの思想、ウィッグ思想は本質的に「貴族制、アリストクラシー」である。
日本の「リベ保守」の正体も貴族制、寡頭制(オリガーキー oligarchy)を支持する集団である。これは本人たちも気づいていない。知るわけがない。西洋近代史がイスラム(Islam)、中世を経て古代から連綿と続いているということを無視して、現代の政治、政治思想を語ることは出来ないのだ。
『フランス革命についての省察』
一貫性の無さを指摘されているバークであるが、それでもバークの主著『フランス革命の省察』を読むと、バークの主張の一貫性はなるほどはっきりしている。
『フランス革命についての省察』は、もともと、ユニテリアン派牧師であるリチャード・プライス(Richard Price)という人物が行った『祖国愛についての講説』への反論として書かれた。
プライスの演説は、フランス革命におけるバスチーユ監獄襲撃事件が起こった四ヵ月後の一七八九年一月四日、旧ユダヤ人街の非国教徒派の礼拝堂で行われた。おそらくはシナゴーグのことだろう。
このプライスの演説はロンドンの名誉革命協会主催で行われたものであり、ここでプライスはフランス革命を擁護する。
このときまでエドマンド・バークは、フランスで起きた事件(この時はまだ革命と呼ばれていない)に対する自己の態度を留保していたが、プライスの演説の内容を受けて激怒し、反革命の態度を固めた。
バークが激しく反応したのは、『祖国愛についての講説』の中のプライスによる三つの主張である。
プライスの主張は「我々の支配者を選択し、彼らをその非行を理由に放逐し、我々自身のための政府を作る」というものである。
プライスはさかのぼること約百年前の一六八八年、イギリス名誉革命で、イギリス国民はこの三つの基本的権利を獲得したと主張した。
これはプライスがフランス革命を称揚し、その基本理念となったルソーの「人間の権利、ライツ・オブ・マン」と「一般意思、ジェネラル・ウィル」を踏襲して、その百年前に起こったイギリスの名誉革命に当てはめたものである。
バークはこの三つの権利を読んで、「前代未聞の権利の章典」(『フランス革命についての省察(上)』岩波文庫 三五ページ)だと述べ、プライスら革命協会が、勝手にイギリス国民全体の名で発表したものだ、として激しく非難した。
バークの考えは正しい。人権と一般意思はロックの思想ではない。イギリスの名誉革命はロックの思想に基づいている。ルソーの考えが、イギリス革命の宣言の中で一度たりとも述べられたはずがない。
バークによれば、「イギリス流の自由は本質的に継承財産」である(『フランス革命についての省察』 六一ページ)。政府、統治機構は先祖から子孫への信託、トラスティーズ(trustees) だと言うのがバーク思想である。
『フランス革命についての省察』の精髄はプライスの三つの主張への反論部分である。プライスの三つの主張は、イギリス憲法の誤解である。
プライスは、イギリス国王の王冠の継承は、国民の側に選ぶ権利があると主張した。フランスにおけるルイ一六世の王位からの放逐は、これをもって合法であると主張するのだが(三一ページ)、考えてみれば実に大胆不敵な主張である。
バークはプライスを「人権の大僧正」だと切り捨てて、このような国王放逐の権限が、一二世紀に勢威の絶頂期にあったローマン・カトリック教皇による、国王追放以上の蛮勇であると述べた。
この事件は教皇インノケンティウス三世が神聖ローマ皇帝の帝位をめぐる争いに介入し、オットー四世やイギリスのジョン王を破門にしたことを指している。
ヨーロッパがまだ一つの時代、中世ヨーロッパは、ローマン・カトリックの教皇が中心であり、教皇があってこその西ヨーロッパである。まだフランスもイギリスもドイツもイタリアもスペインも存在しない。そんな絶大な権力を持っていた教皇以上の権限を使うことを指して「人権の大僧正」と言ったことには一理ある。
(つづく)