「0092」 論文 サイエンス=学問体系の全体像(16) 鴨川光筆 2010年6月22日

 

サン・シモン、オーギュスト・コント―ここがポリティカル・サイエンスとの分岐点

 一九世紀になると自然科学の急速な発展に刺激されて、社会科学を作り上げようという熱狂が高まってくる。

 政治学を哲学からサイエンスへの入り口へと導いたのは、クロード・アンリ・ド・ルヴロワ・ド・サン・シモン(Claude Henri de Rouvroy Saint-Simon、由緒正しい貴族だから異常に名前が長い)と、オーギュスト・コント(Auguste Comte)である。

  

サン=シモン   コント

 ブリタニカでは、この二人のところで、ようやく政治哲学(Political Philosophy、ポリティカル・フィロソフィー)と政治学(Political Science、ポリティカル・サイエンス)が分かれ始めている。二つはここで分岐し、現在まで並走を続けている。ポリティカル・フィロソフィーは現在も存在している。

 ブリタニカは、サン・シモン(一七六〇年〜一八二五年、フランス)がモダーン・ポリティカル・サイエンス(modern poliical science)の「スターティング・ポイント」だとしている。サン・シモンは、シャルル・フーリエ(Francois Marie Charles Fourier) とともに、ユートピア社会主義者(Utopian Socialists)として著名である。

フーリエ

 サン・シモンは、一八一三年、モラルと政治はポジティヴ・サイエンス(positive science)と成り得ると唱え、『人間の科学に関する覚書』(Memoire sur la Science de l'Homme)等の著作の中で、「観察された事実(observed facts)に基づき」、諸個人の有機的全体存在としての社会を含む「人間の科学」を実証科学にし、これに基づいて社会を再構成すべきである、と主張した。(『政治学事典』 弘文堂 五八八ページ)

 サン・シモンが、政治哲学上、それまでの哲学者と異なって画期的だったのは、まず産業革命(Industrial Revolution)を評価した、最初の政治哲学者だったことである。彼が産業革命、科学技術の発展を称揚した理由は、貧困層の困窮条件を和らげることが出来る、と考えたからである。

 「各人がその能力によって、各能力がその仕事によって」遇される能力=業績主義に乗っ取り、「社会の最大多数をなす、最も貧しい階級の改善」を究極目的と説いた。(サン・シモン著『産業階級の教理問答』 『哲学思想事典』 岩波書店 五八八ページから引用)

 簡単に言えば、統治を完全に実現するためには、民主制でなくてはならず、「最大多数」を最も幸福に(快楽に)生活させるためには、生活を便利(ユーズフル、ユーティリティ)にするテクノロジーに頼ればいいと考えたのである。

 上記のサン・シモンの思想は、古代から続く「民主制実現の可能性」の流れに乗っていること、「功利主義(utlitarianism)」の思想に基づいた考え方であることが分かる。サン・シモンの思想は、ヨーロッパの政治思想の基本思想であり、本流である。

 ベンサムの言う「最大多数の最大幸福」は、サン・シモンの言う貧しい人々、一般ピープルのことである。これは当然のことであろう。

サン・シモンのユートピアとは、金融寡頭制の可能性をはらんでいた

 サン・シモンの思想の怖いところは、テクノロジー社会を推し進めるのは政治家ではなく、「金融業者、バンカーズ(bankers)」と「行政官、アドミニストレイターズ(administrators)」、つまり官僚による統治によって完成する、と述べているところである。

 サン・シモンは、決してこの二者だけを望んでいるのでは無い。大土地所有者、僧侶たちなど、アンシャン・レジーム(ancient regime)といわれる、旧体制の支配層を社会から取り除いて、詩人、文学者、科学者、技術者、画家、芸術家といった才能のある人間たちに権力を握らせれば、社会は豊かになっていくとも述べている。

 サン・シモンは、バンカーズと行政官僚は、王、貴族、政治家をしのぐ力があると述べている。これはアリストテレス、プラトンの作った、六つの政治制度のカテゴリーを覆すものである。金融寡頭制、フィナンシャル・オリガーキー(financial oligarchy)と呼ばれるものであり、中世のヴェネチア(Vienna)で行われていた政治システムを示唆する考え方である。

 これは、法の埒外(アバーヴ・ザ・ロー、above nthe law)にいる、金融勢力の増長を予言する思想であり、一九〜二〇世紀においてロスチャイルド(the Rothchilds)、モルガン(the Morgans)、ロックフェラー(the Rockefellers)らが、各国で「円卓会議(round table ラウンド・テーブルという)」という非合法、非公式の有力者会議を作っていた。それらが後の太平洋問題評議会(Institute of Pacific Relations, IPR)や、CFR(Council of Foreign Relations カウンシル・オブ・フォーリン・リレイションズ、外交問題評議会と訳されている)などを設立していったことに、つながって行く思想である。

 この実働部隊は、アルフレッド・ミルナー(Alfred Milner)やセシル・ローズ(Cecil Rhodes)、トーマス・ラモント(Thomas Lamont)らモルガン、クーン・ローブ(Kuhn Loeb)系の人物であり、このことは、クリントン(Bill Clinton)元大統領のジョージタウン大学(Georgetown University)時代のメンター(指導教授)であった、キャロル・キグリー(Carroll Quigley)博士が『悲劇と希望』(Tradigy and Hope)の中で詳細に述べている。

     

ミルナー     ローズ     ラモント   キグリー

 サン・シモンの思想は、それでもヨーロッパの正統の流れの中にある。サン・シモンのユートピアという思想は、基本的に「管理・監視社会」のことで、ベンサムの考案した監獄「パノプティコン(Panopticon、中央監視体制の牢獄)」の思想からつながっている。だからサン・シモンも「ア・ユナイテッド・ヨーロッパ(a United Europe)、連邦ヨーロッパ」を望んでいたのである。

  

パノプティコン     フーコー

 この福祉的社会民主制(Social Welfare Democracy)の連邦ヨーロッパを、現代フランス第一知識人であったミシェル・フーコー(Michel Foucault)は『監獄の誕生』(Surveiller et punir, naissance de la prison)であるとして、同著作で理論を展開した。

 連邦ヨーロッパとは監視された、緩やかな監獄でありながら、それでも「戦争の絶えない主権国民国家、ザ・ウォーリング・ネイション・ステイツ(the warring nation states )」より優る(よりマシだ)、という思想なのである。

 これはトマス・モア(Thomas More)の書いた『ユートピア』(Utopia)とは異なる。一説によればトマス・モアの『ユートピア』は南米インカで行われていた、優れた政治システム紹介の書であったようである。

トマス・モア

 社会学者であるエミール・デュルケム(Emile Durkheim)は、サン・シモンを実質的な社会学の祖と見なしている。ハイエクはサン・シモンの弟子たちの思想を、社会主義の旧約聖書だと書いている。このサン・シモンの弟子で秘書であったのが、オーギュスト・コントである。

デュルケム

 

オーギュスト・コント―社会学とポジティヴィズムの大成者

 政治学が、いよいよモダーン・サイエンスの入り口に差し掛かることになったのは、オーギュスト・コントの功績である。コントは社会学、ソシオロジー(sociology)の名付け親である。

 なぜコントが、政治学をサイエンスに近づけたといえるのか。それは、彼がポジティヴィズム (positivism)の祖だからである。ポジティヴィズムとは、正確にはポジティヴィズム・アンド・ロジカル・エンピリシズム(positivism and logical empiricism)という。

 ポジティヴィズムというのは、後に哲学を説明する時に詳説するが、簡単に言えば「人間がスタート地点を作る」という意味である。スタート地点とは、「前提、提言命題、プロポジッション(proposition) 」のことである。

 この「ポジット(posit)」とは、ポジション(position) のポジットであり、何かを「置く、プット(put) 」という意味なのだ、という議論が「学問道場」いずれかの掲示板で、副島先生と弟子のどなたかでなされていたことを記憶している。

 一見難解に思える西洋思想を用語から簡単に解きほぐしていくということは、実に有効な手段であると、私鴨川は激しく認識している。私はこの議論を読んだ時、「ああ、先を越された」と嘆いたことも記憶している。

 しかし、私を含めての話だが、学問道場内でのたいていの議論は、その重要性、価値の高さにもかかわらず、途中であきらめられてしまって、その後の議論は潰えてしまう。実に残念なことなのである。

 だから私は、この「学問の全体像」と並行して、そろそろ西洋思想の用語を、複数の辞書を用いながら、簡単に解き明かしていく作業を始めようと思っている。私にはその方法論(methodology)がしっかりとあります。おそらく私にしか出来ないだろうと思っている。

コントの「三段階の法則」と「諸学の分類」―現代の学問の考え方の大枠

 このポジティヴィズムという、人間が前提を「置く(ポジット、プットする)」という思想は、ベンサムから続く思想であるが、その大成者がオーギュスト・コントなのである。

 コントはサン・シモンの弟子であり、秘書でもあった。後に二人は喧嘩別れすることになるが、二人は共著『社会再組織に必要な科学的作業のプラン』(Plan des travaux scientifiques nécessaires pour réorganiserla société)の中で、次のように主張する。

 「政治は、社会物理学(social physics、ソーシャル・フィジクス)となり、その目的は、進歩という不変の法(unchanging law of progress) を発見することである。」

 サン・シモンとの共同作業によってコントは、人類の知性の発展段階を「三段階の法則(the law of three stages)」として提唱する。コントのポジティヴィズムは、この考え方の前提に立っている。

 三段階とは「シオロジカル・フェイズ(theological phase、神学的段階)」「メタフィジカル・フェイズ(metaphysical phase、形而上学的段階)」「ポジティヴ・フェイズ(positive phase)」である。

 「シオロジカル・フェイズ」とは自然現象を超自然的力、神の力によるものと考える、知的段階である。「メタフィジカル・フェイズ」は生命の変遷を非人格的力、神秘的性質を持つもの(オカルト・クオリティーズ occcult qualities)、生命力(ヴァイタル・フォーシズ vital forces)、エンテレキー(entelecy、内的に完全な原理、生命力)から生ずるものと考える。

 そして「ポジティヴ・フェイズ」。これがこれから語ることとなる、モダーン・サイエンスの大前提、ポジティヴィズムという社会学問の公理(axiom)となる。

 コントの提唱した「ポジティヴ・フェイズ」という思想とは、こういうことである。

 コントは「レギュラリティーズ(regularities)、法則性(law)」という言葉を使う。サイエンスとは、自然と人間社会の事実を観察し、何らかの規則性(レギュラリティーズ regularities )を発見する。その法則性を、言語によって、それが何であるかが分かるように記述する。これをディスクリプティヴ・ロー (descriptive law)とする。

 ベンサムのところで述べたが、これは一種の「コーディフィケーション(codification)、成文法化」である。世俗の法律を正式に条文化するように、学問的な法則を、きちんと「条文化する」のである。これが、サイエンスとしての自然界、人間社会の把握段階、ポジティヴ・フェイズである。

 「自然界や人間社会で起こった現象を解き明かし、その法則を言葉で説明する」というのは、「具体的で個別的な事柄を、一般法則の中に組み込むこと」である。これがコントのポジティヴィズムである。

 コントは「諸学の分類」という作業を行う。これは数学を土台にして、天文、物理、化学、生物学というふうに、「学問のヒエラルキー、ピラミッド」を積み上げて行き、その頂点に自分の作った社会学がある、とするものである。

心理学は現在の学問分類でも、正式な独立した項目とはなっていない

 コントの学問ヒエラルキー(hierarchy)は、現在のモダーン・サイエンス体系の大枠となっている。心理学がないのは、心理学は生物学と社会学の一部だとコントが考えたからである。

 ブリタニカの分類でも、心理学は独立した見出しとはなっていない。サイコロジカル・エクスペリメンツ(psychological experiments)という項目があるだけである。「ソーシャル・サイエンシズ(social sciences)」の項目でも、社会学の一部として、ソーシャル・サイコロジー(social psychology)、社会心理学があるだけである。

 実際、現代社会においても、心理学は社会学の一部であり、また大脳生理学の発達を待って、心理学の研究がなされている事実からも、生物学、あるいは生理学、フィジオロジーの一部と考えられている。私鴨川は、それでも一応、影響力を無視できない心理学を、独立した学問領域としてあつかう。

 コントは心理学の実験の一つ、イントロスペクション(introspection、内観法)をあまり信用していなかった。内観法とは、心理学の祖とされているヴィルヘルム・ヴント(Wilhelm Max Wundt)が考案した方法で、自分自身で自分の精神状態を観察するという、主観性の高い分析法である。

 コントが一貫して主張したのは、客観的観測(観察)、オブジェクティヴ・オブザヴェーション(objective observation、これが二〇世紀のビヘイヴィアリズム behavirorism、行動主義の研究方法の原理となっていく)と、実験(experiment、エキスペリメント)、抽象化(abstraction、アブストラクション)であった。

 コントは政治学、ポリティカル・サイエンスを社会学と関連付けて、社会改革、政治改革の実行計画の一つとして考えていた。政治学上の実験は、これまで至るところで「起こって」きたが、それは物理や化学で行われてきたものとは「似ても似つかぬもの」である、という言葉をコントは残している。

 それは政治学では物理学のように変数、ヴァリアブルズ(variables)をコントロールすることが不可能だからである。

 このコントの言葉が重要である。学問、モダーン・サイエンスとは、条件を設定し変数を統御、コントロールが出来なくてはならない。これが数学的に証明すること、エンピリカル・ポジティヴィズム(神ではなく、人間が公理、原理、前提、出発点を決めること)を表す。

 コントの言葉通り、変数を自在に扱えない政治学にとって、モダーン・サイエンスまでの道のりは遠い。

 コントの政治思想は本質的に、師匠のサン・シモンと変わらない。

 コントの思想とは、社会は銀行家とテクノクラートが支配し、ヨーロッパは一つのヨーロッパ(コントの場合、ア・ウェスタン・リパブリック a Western republic という言葉を使っている)になるのがいい。主権国家同士の戦争は、なんとしても避けたい、という思想であった。

 なんの偽善的思想もなく、現実を直視した結果、現代を生きる我々の世の中を、見事に言い当てている言葉ではないかと思う。

五〇年、一〇〇年レベルで思想が生まれる西洋のものすごさ

 コントという人は、どうも浮かばれない人生を歩んだ人のようである。サン・シモンは名門の貴族の出身である。フランス革命の後は、財産を没収されて不遇の人生を歩んだが、この頃からフランスでは、ルソーのような平民の身分でありながら、学問、思想、芸術などで成功を収める(不遇の身でありながら、業績を成就する)人々が現れてきたことが印象に残る。

 他にもフーリエがそうである。フーリエなどは、行商人の息子で、丁稚であった。ルソーに似ている。低い身分でありながらも、革命では相当に痛い目にあったらしい。フーリエは山川の世界史の教科書や参考書などでは、サン・シモンと並べられて同等の扱いを受けている。

 なぜそのような、学のない人間が、貴族やブルジョワなど社会的地位の高い思想家と肩を並べて、その後一〇〇年以上も影響力を保持し続けているのか。この事実が、西洋の近代、そして中世からの、壮大な思想の流れのすごいところなのである。

 思想の大河を意識した思想であるならば、それが誰が書いたものであろうとも、西洋の知識人たちふるいにかけられるのである。いかにブラックストーンがその時代の法律の権威であろうとも、後の影響力では「法書生くずれ(金持ちだが)」のベンサムの足元にも及ばない。ミルは東インド会社のサラリーマンだった。

 西洋の思想家や文学者は、中世や近代初期にはトマス・モアのような大法官自身(法務大臣と最高裁の裁判長を合わせたような人)が思想家だったが、一八世紀ぐらいになると、本当にどこぞの馬の骨か、と思えるような人の思想が、その後は大思想として評価されだしていく。

 現代の政治経済人名カタログや、政治思想カタログ作りも非常に重要なことであるが、やはりその根底には、西洋思想史の一五〇〇年(中世のアウグスチヌスから。本当はイスラム・ユダヤ思想、ギリシャ、ペルシャ、エジプト、インドの思想から続いている)の壮大な潮流(ストリーム streamという。人間を表す時はストリート street)を無視しては、本当にただの切り張りに過ぎなくなってしまう。貴重な現代の政治経済の有力者の仕分け作業が、単なる紳士録になってしまう。

 政治哲学、ポリティカル・フィロソフィーの歴史はここで終わりである。最後に、西洋思想史の重要性に関して、副島氏の「学問道場」内「重たい気持ちで書く掲示板」でのある読者とのメールのやり取りで、非常に貴重な副島氏の言葉があるので、それを転載しておきたい。

(転載貼り付け開始)

  ヨーロッパには、近代以降(すなわち500年前から)、50年に一 度、100年に一度の、大天才というか、大思想家が現れて、その人物 が書いた大著(たいちょ)が、ヨーロッパ中の知識人に次第に広まり、 絶賛されて、その本を中心にして、ヨーロッパ近代社会の議論の枠組み を作りました。

  そういう50年に一度、100年に一度の大思想書は、ラテン語で書 かれて、それで、ヨーロッパ中の知識人の眼力と判定に掛けられて、評 価を下されたのです。

  スピノザや、デカルト、そして、カント、ホッブズ、ジョン・ロック 、ライプニッツ、ヒューム=バークリーなどどがそうです。そのあとは 、ヘーゲルで、20世紀にはいるとハイデガーがそうでしょう。カール ・マルクスの思想もそういう理解をすべきです。

  「ヨーロッパ中で一世を風靡(ふうび)する本(思想)となること」 というのが、大事なことです。17世紀からは、デカルトのように、バ ルガー・ラテン(俗ラテン語から生まれた、土俗化したフランス語とい う当時の土人語で書くようになった者もいます。

  デカルトはラテン語で書けたのですが、わざと俗語のフランス語で書 いたのです。ローマ教会(カトリック)からの弾圧が怖かったので、「 仮面のフィロソファー」と言われます。

  それらは、50年に一度、100年に一度の大著(大思想の本)とい う判定を受けて、ヨーロッパ中の知識層の人々の間に広まった思想なの だ、ということが大事なことなのです。

  このことを、日本人(東アジア人)である私たち、後進の知識層の人 間が知ることが大事なのです。中国の各王朝(歴代中華帝国)の中で、 「洛陽(らくよう)の紙価を高めた」という漢訳仏教書や儒教の大著が 現れて、それを日本人の国家エリートたちが、一冊、今のお金にして5 00万円とかで輸入して、ありがたがって、「内容を読めたふりをした 」というのも、この仕組み(構造)と同じです。

(中略)

  ヨーロッパ近代の政治思想(モダン・ソート modern thoughts )の 大きな流れと、その枠組みを知らない人間たちは、無力です。ですから 、私の主著の『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』をし っかりと読んで、頭の中に、その土台であるヨーロッパ近代政治思想の 全体像もそれとなく正確に理解しなければいけません。

(「副島隆彦の学問道場」内「重たい気持ちで書く掲示板」「[332] 宇根康裕(うねやすひろ)君とのやりとりの文を載せます。私の「ヨーロッパの近代と、近代思想について」論です」から転載)

(転載貼り付け終わり)


 副島先生のウェッブでの発言を転載するのは、恐れ多いものがあるのですが、最早、副島隆彦の思想はパブリック・プロパティである。我々の共有財産なのだ。

 副島氏の思想に関する議論は非常に重要で、上記の掲示板では読者との間で盛んに取り交わされていて、それこそ膨大な量に上る。

 だから(私の文章を読みに来て頂いている人は、真面目に思想を勉強しようとしている、バカになってしまった現代日本社会では、非常に貴重な人々ですから、これには当てはまらないけれども)、副島氏から、無為無益な金融情報ばかりを手に入れようとばかり考えていないで、ワード検索や過去ログ探して、副島氏の政治、哲学、歴史に対する考え方をきちんと勉強しなさいよ。本当に貴重な、重要な文章が存在するのです。

 その意味で、政治哲学の最後にふさわしい副島氏の文章を転載しておきました。

(つづく)