0093」 論文 『ユダヤ・コネクション』の書評 鴨川光(かもがわひろし)筆 2010年6月30日 

 ウェブサイト「副島隆彦の論文教室」の管理人の古村治彦です。今回は、鴨川光氏の専門分野の一つであるユダヤ人論の名著の書評を掲載します。リリアンソールの著書『ユダヤ・コネクション』は、アメリカにおけるユダヤ系アメリカ人たちの影響力の大きさを描いています。

 

 私はジョン・ミアシャイマー、スティーヴン・ウォルト著『イスラエル・ロビーI、II』(副島隆彦訳、講談社刊)の訳出作業に参加しました。『イスラエル・ロビー』の中で、ユダヤ系の人々や組織がアメリカの外交政策決定に深くかかわっている様子に愕然としました。この『ユダヤ・コネクション』でもユダヤ系の人々や組織がアメリカの政策に影響を与えている様子がよく描かれています。

『イスラエル・ロビーI,II』      ミアシャイマーとウォルト

 ユダヤ系の影響力は現在のオバマ政権でも見られるものです。リリアンソールは、こうしたユダヤ系の影響力を見抜いた、卓越した人物であると言えるでしょう。イスラエル、アメリカの政治について関心を持っている方には大変興味深い文章です。

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アルフレッド・M・リリアンソール著『ユダヤ・コネクション』―ユダヤ・ロビーの現代的古典

 私が今回、紹介する『ユダヤ・コネクション』(The Zionist Connection: What Price Peace?)という本は、戦後から現在のユダヤ問題に関する古典である。著者のアルフレッド・M・リリアンソール(Alfred M. Lilienthal)は、ユダヤ人であるけれども、生粋のアメリカ国民である。

リリアンソール

 著者紹介には、コーネル大学、コロンビア大学ロースクールを卒業した後、国務省に勤務していた人物とある。第二次大戦中は中東で従軍し、戦後、一九五三年、『リーダーズ・ダイジェスト』に「イスラエルの旗は私の旗ではない」という論説が掲載され、世界的な反響を呼んだという。

 一九六八以降『ミドルイースト・パースペクティヴ』という月刊誌を刊行。国連認定のニュース・レポーターである。私が論評する『ユダヤ・コネクション』は、裏表紙の英語の表記では、一九七八年が初版であるらしい。三交社というところから一九九一年に出版された日本版は、宇野正美氏によって翻訳された一九八二年の第三版であるようだ。

 この本を読んだきっかけは、五年前、副島先生からユダヤ史、ユダヤ思想、ユダヤ教(これらをジューダイズム Judaismという)の全体像、全貌を徹底的に洗い出すように言われたからである。

 現代のイスラエルに関する具体的な問題を調べるため、図書館で検索した結果、見つけたのがこの本なのだが、ユダヤに関する知識のない私にはかなり衝撃的な内容であった。

 ベングリオン(David Ben-Grion)、モシェ・ダヤン(Moshe Dayan)、ベギン(Menachem Begin)、ラビン(Yitzhak Rabin)、ゴルダ・メイア(Goldah Me'ir)といった、歴史の教科書や、私の子どもの頃のニュースでなじみのある人物が出てくるのだが、私がそれまで持っていたイメージは、アインシュタイン的な、弱い、よれよれしたユダヤ人ヒーローのイメージであった。

   

ベン=グリオン ダヤン     ベギン     ラビン

メイア

 ところが、この本を読むと、そのようなイメージが一掃してしまう。天地をひっくり返されるとはまさにこのことだ、という感想を持った。簡単に言うと、あまりにも残虐なユダヤ人のイメージというものを持たざるを得なくなったのだ。

 私たちが持つ、アラファトを筆頭にしたイスラム・パレスチナの戦士というのは、子供を含めて皆テロリスト集団であり、ハイジャック、空港占拠、ビル爆破、機関銃乱射、自爆、とありとあらゆる卑劣な手段を使う、恐ろしいイメージであった。今でもほぼ九割の日本人は、そのようなイメージを持っているであろう。

 ところがこの本では、それは全くの正反対であることが、赤十字や各国の派遣団の証言によって明らかにされる。イスラエル兵のほうがテロによって、国家を建国し、ナチスのSSや、いわゆる「南京大虐殺」の描写そのもの、いやそれすら凌駕するほどの、実に凄惨な証言が網羅されている。

 アメリカのマイノリティであるユダヤ人が、なぜアメリカで力を握ることになったのか。アメリカに張り巡らされたユダヤ・コネクションというものの存在を、初めて明らかにした部分から紹介しようと思う。

アメリカの政治システムを知り尽くしたユダヤ・コネクション

 リリアンソールは本書の三章において、アメリカの政治システムがユダヤ・コネクションを利する仕組みとなっていることを、ロビー団体と、投票者行動の面から数量的に解明している。

 シオニストたちはどのようにして政治的成功をつかんだのか。それは彼が全米に張り巡らせたユダヤ・コネクションによって、アメリカの政治システムを徹底的に利用したことに由来するのである。(一一七ページ)

 なぜアメリカで六〇〇万人(全人口の三パーセント)しかいないユダヤ人たちが、しかもそのほとんどが、そもそもシオニズム(Zionism)を支持していなかったのに、勢力を拡大したのか。アメリカはなぜ少数のイスラエル系ロビー団体の「圧倒的な影響力に左右されている」(一一七ページ)のか。

 リリアンソールは、アメリカの代議政治にその根源を求めている。代議政治といってもこの場合は、アメリカの大統領選挙人団制度(プレジデンシャル・カレッジ presidential college)のことを指している。

 アメリカの選挙は、多くの選挙人を獲得した候補者が大統領に選ばれる。一つの州で、共和党、民主党の候補者のどちらかに、一ユニットとして与えられる。

 より多くの州を勝ち取ればよいのだが、それには「わずか二七〇名の選挙人」を確保すればよい(一一七ページ)。リリアンソールは「これはよく組織された圧力団体(pressure group)に、強力な取引材料を提供し、その立場を強化する」としている。いわばアメリカの政治制度の弱点である、と主張している。

 これはJ・S・ミルの主張した、アメリカのデリゲート(delegation)思想の弱点そのものであろう。デリゲートとは、代議制、レプリゼンタティヴ(representative)とは異なる。

 デリゲートとは「特命派遣制」という。一般ピープルからの「遣い」なのである。アメリカの議員は、一般ピープルからの命令を受け、それには逆らえない、という思想である。ここから「多数者の専制」という考えをJ・S・ミルは提唱している。

 リリアンソールの指摘は、ミルの「多数者の専制(tyranny of the majority)」という本来は矛盾した考え方を、いとも簡単に解きほぐすものである。

 ユダヤ人の六パーセントはニューヨーク、カリフォルニア、ペンシルヴァニア、イリノイ、オハイオ、フロリダの六つの州と、一六の都市に集中しているという。そこには一八一名の選挙人がいる。つまり、当選に必要な選挙人の六七パーセントがここに集中しているわけである。

 この人数を「シオニストのような少数は、グループがブロック投票の弱みに付け込むことによって、有力なキャスティング・ボードを握る」のだという(一一八ページ)。

 なぜこのような少数のユダヤ人が、二億に上るアメリカ人を動かすことが出来るのだろうか。ユダヤ人口は、この本が出版された一九七八年までは、六〇〇万人という統計が出ている。

 九〇年代初頭まで、アメリカ商務省センサス局による統計調査である『アメリカ・データ総覧』には、六〇〇万人となっている。これは人口の三パーセントである。

  この少数の人々が、どのようにして当時二億七〇〇万人の人口を動かすことが出来たのか。この問いにリリアンソールは、第二章「張り巡らされたユダヤ・コネクション」の中で答えている。それによれば、シオニストの成功は数ではなく、「権力、パワー」であるという。この「パワー」を作ってきたものが、ユダヤ・コネクションである。

 リリアンソールは彼らの「パワー」を、ユダヤの「種族的な団結心および、非ユダヤ人に対する驚くべき牽引力」だと定義している(八一ページ)。

 私たち日本人、そしておそらくはほとんどの国民にとっても驚きであったと思えることは、アメリカのユダヤ人の多くは、そもそもイスラエルの建国に反対していたのだ。

 アメリカのユダヤ人は一七世紀から、大体五回の移民の波を経て形成されてきた。その大きなものは一九世紀末のロシアのポグロム、二〇世紀のナチス、戦後の東ヨーロッパの共産化から逃れてきた人々である。彼らをアシュケナージ(Ashkenazi)という。ほとんどが東ヨーロッパ人である。

 こうした人々が、見たことも聞いたこともないようなパレスチナこそが「わが祖国」である、などとは思っても見なかったことであり、移住をしたいなどとは考えたこともなかった。

 ところがシオニストたちは、アメリカのそれほど信仰深くないユダヤ人や、ユダヤ人を親や先祖に持つ「ユダヤ系」の人々の心に付けこむことによって、アメリカ全土に結束力の高いユダヤ・コネクションを形成したのである。

(引用開始)

 第二次大戦後、ユダヤ人の民族感情の中に、イスラエル主義という広い支持を集めた運動が、急速に台頭してきた。それは、さまざまの形の「イスラエルの友人たち」を含んでいた。ユダヤ・コミュニティやユダヤ・コネクションは、ナショナリズム的な目標を達成しようとするワシントンで、最も強力なロビーに征服され、操られてきた。

 組織力とかその広がり、浸透度という点で、シオニストたちの組織・機構の右に出るものはない。事前、政治、宗教、教育、文化など、あらゆる分野のシオニスト組織が、いっせいに力を合わせて、あらゆるアメリカのユダヤ人たちから、金と全面的な政治支持をとりつけるのだ。誰一人としてその要求からまぬがれることはできない。

 多くのユダヤ人たちは、「シオニスト」だというレッテルを貼られることについては、あまり快くは思ってはいない。しかし、さまざまな形のイスラエル主義者になることによって、その要求を支持することになる。もちろん、同じユダヤ人だという心理的なつながりは、無視することが出来ない。

 セム人(セマイト semite)という言葉は、反セム人(反ユダヤ)という言葉と同じように、しばしば旧くからの陳腐な決まり文句、「かつてユダヤ人であったものは、つねにユダヤ人である」に訴えかける。これはぎりぎりのユダヤ人、すなわち、片親がユダヤ人か、両親がユダヤ人でもユダヤ教やユダヤ人の伝統的な社会生活には、ほとんど縁のない人々をも、イスラエル主義者のランクに含めるのに役立っている。

 ユダヤ主義やユダヤ教から離れれば離れるほど、それだけいっそう、その人間はイスラエル国家を支持することで、その埋め合わせをしようとする。ユダヤ教のラビ(牧師)たちや、ユダヤ人の宗教的指導者たちは、ユダヤ教から離れてしまうユダヤ人の増加を、重大問題として警告してきた。

 その離教者の数が彼らをおののかせているのだが、それは正規のユダヤ教儀式を遵守する人々が少なくなり、信仰抜きで結婚する人々が増え続けていることで、いっそう現実性を帯びている。しかし、宗教的無に逃げこめば逃げこむほど、ヤーヴェ崇拝の代償としてのイスラエル国家への、転向崇拝が強まっていく。

『ユダヤ・コネクション』 (八一〜八三ページ)

(引用終わり) 

 シオニストらは、こうした心理的、宗教的、種族的無関心を利用することで、アメリカ全土に政治ネットワークを張り巡らすことに成功した

 少数でありながら、組織化されたユダヤ人票がスウィング・ヴォウト(swing vote)、浮動票を握ったおかげで、一八二四年のジョン・クィンシー・アダムス、一八七六年のラザフォード・B・ハイズ、一八八八年のベンジャミン・ハリソンは、当選したという。彼らは有力な対抗馬より、一般投票では少数派だったのである。(一一六ページ)

 リリアンソールは、特に一八八四年のクリーヴランドの当選を詳しく取り上げている。ニューヨーク州の大統領選で民主党のクリーヴランドは、一般投票で五六万三〇一五票を獲得し、わずか一〇〇四票差で、共和党の対立候補のジェームズ・G・ブレーンを破った。わずか五〇三人が対立候補のブレーンに投票していたら、クリーヴランドは落選している。

 クリーヴランドはニューヨーク州の選挙人団を全て獲得したが、ここはユダヤの大票田である。ニューヨーク・シティには二〇〇万のユダヤ人が、ニューヨーク州には二二〇万人が住んでいた。

 ワシントンのいかなるロビーよりも、「ユダヤ人票ブローカー」ほどに細かく組織され、しっかり足場を固めているものはいない。(一一八ページ)

ユダヤ・コネクションの代理人となったヘンリー・ジャクソン上院議員

  リリアンソール氏は、このイスラエル・ロビーが、アメリカ議会に及ぼしてきた七〇年代当時の事実として、二人の上院議員を例に取り上げている。一人はワシントン州選出の民主党議員ヘンリー・ジャクソン(Henry Jackson)、もう一人はジェームズ・フルブライト(James Fulbright)上院議員である。

  

ジャクソン    フルブライト

 ヘンリー・ジャクソンは、ユダヤ団体からの政治献金目当てに、イスラエル支援の言動をとる政治家として描写されている。ジャクソンの選挙区ワシントン州には、ユダヤ人はほとんど住んでおらず、中東からは六〇〇〇マイルも隔たっている。ジャクソンは自分の議論の裏づけとして、イスラエルを必要とはしていなかった。(一二七ページ)

 ジャクソンは一九七〇年、「防衛力調達項五〇一項の草案」を議会に提出した。この草案は、イスラエルに信用貸付をする包括的権限を、大統領に与えるものであった。この権限を大統領に与えることによって、イスラエルはアメリカから、無制限に軍事力を購入出来ることになる。

 この権限はアメリカ国家としては、直接の利害がないばかりか、ジャクソン自身の信条、議論、選挙区の利害にもならないものであった。

このジャクソンの行為に対して、ジョン・マコーマック(John McCormack)上院議員は、次のように発言した。

 「四二年間に渡る私の上院議員としての生涯の中で、権限付与や経費割り当てにおいて、この種の言い回しが使われたことを私は見たことがない」(一二七ページ)。

 マコーマック議員は、献身的なシオニスト支持者であった。ジャクソンの提案は、シオニストの目から見ても行き過ぎの感があったのである。

 それ程に、このほとんど「慈善事業、利他」としか思えないような、ジャクソンの要求は突出していたのである。ニクソンはこの権限を使って、イスラエルに五億ドルを供与した。当時の固定された円ドルレートを考えれば、三六〇倍すればいいのだから、当時の円にして一八〇〇億円である。

 ジャクソンは大統領を目指していたようである。一九七二年の大統領選の争点の一つであった、ソヴィエトからのユダヤ移民のための再定住援助措置に対してジャクソンは、二年間で二億五〇〇〇万ドルを要求している(一二八ページ)。

 結果はエドモンド・マスキー(Edmund Muskie)議員による、八五〇〇万ドルに決まったが、これでもイスラエル・ロビーの「やりすぎ」という声が上がっている。

マスキー

 引き続いて同年ジャクソンは、米ソ通商条約に「ジャクソン―ヴァニック修正事項」を追加する。これはソヴィエトにいるユダヤ人に課せられた、海外移住制限の撤廃を求めたものであった。当時の米ソはデタントの流れにあったため、フォード大統領はこれを拒否した。

 これに対してジャクソンは、ユダヤ人の海外移住促進を求めて大騒ぎを始めた。さらに、米ソ間で長い間交渉を重ねた末に締結した条約が、ソ連によって拒否されるという結果を招いたという。(一二八ページ)

 このようなヒステリー気味のジャクソンの大騒ぎに対して、当然疑問が湧き上がる。サウジアラビアの駐米大使ジャシル・バルーティは、ジャクソンを評して「ユダヤ人よりももっとユダヤ的で、シオニストよりももっとシオニスト的だ」と発言した。(一二九ページ)

ユダヤ・コネクションの集中砲火にあったフルブライト上院議員

 ジャクソンとは逆に、シオニスト批判によって失脚した議員として、あの「フルブライト奨学金」で有名な、フルブライト上院議員が取り上げられている。

 フルブライトは一九七三年当時、上院外交委員会の議長であった。一九七三年一〇月七日に、CBSテレビの『フェイス・ザ・ネイション』の放送中、次のような発言を行なって、イスラエル・ロビーの激しい怒りを買った。

 「イスラエル人たちは、両院の政策をコントロールしている。(中略)合衆国上院のおよそ八〇パーセントは、完全にイスラエルを支持している。」(一三三ページ)。

 また、一九七三年の第四次中東戦争で、米ソ両国が双方の援助を止めさせるべきかどうか意見を求められた時には、「援助を止めるべきだ」と述べるとともに、「イスラエル人が上下院をコントロールしているために不可能である」と述べ、「イスラエル人は八〇票のうち七〇票を持っている」と言い放った。

 シオニスト・ロビーは一九七四年五月の民主党の予備選で、大量の金をフルブライトの選挙区であったアーカンソー州につぎ込み、ライバル議員のデール・バンパース知事を支援した。『シカゴ・トリビューン』によると(一三五ページ)、このお金は、アーカンソー州の中央部すら買えたであろうという規模であったらしい。これによってフルブライトは、予備選で敗れ去り、引退に追い込まれてしまう。

 アメリカにおける「ユダヤ・コネクション」の力を描いている箇所として、第二章の一部を取り上げたが、現代のイスラエル、ユダヤ人たちのロビー活動に関心がある人は、是非本書を一読して欲しい。

シオニストたちはパレスチナ人がいることを「知らなかった」

 何よりもこの本で私が驚いた箇所は、第一章「イスラエルはパレスチナで何をしたか」(五一である〜七八ページ)。ここには日本人にはなじみの浅い、イスラエル独立から第四次中東戦争までの経緯が、現地で起こった具体的な事件報告を織り交ぜて、詳しく書かれている。

 一九四八年五月に、イスラエルの一方的な独立宣言が出されると、パレスチナのシオニストたちは指導権を握り、アメリカと世界世論の支援を受けて、パレスチナの支配を拡大していく。

 当時のパレスチナでのユダヤ人の人口比は、総人口の三三パーセントであり、土地の所有比は全国土のたった七パーセントであった。リリアンソールは「これは記録の問題であり、この国連の数字が論議の対照になったことは一度もない」としている。彼は(彼に限らず、欧米の著述家は)数字、統計を重視している。

 この章を読んで私が意外に思ったのは、シオニストらイスラエルの建国に関わったリーダー達は、パレスチナには住民がいることを知らなかった、ということである。

 ゴルダ・メイア、レヴィ・エシュコル(Levi Eshkol)、マックス・ノルダウ(Max Simon Nordau)、そしてイスラエル初代首相ダヴィッド・ベングリオンもパレスチナ人を「知らなかった」のである。彼らは、パレスチナにはわずかなアラブ人とベドウィンがいるに過ぎず、その他にはわずかな農地があるだけで、後は砂漠だけだと思っていたのである。

  

エシュコル    ノルダウ

 しかし、ベングリオンたちがパレスチナに到着して見たものは、パレスチナ人と、長い年月を経て作られたたくさんの村落の存在だったのである。この事実にベングリオンは「ひるんだ」という。(五三ページ)

 当初ベングリオンら自由主義者の一派は、少なくともアラブ人と話し合う意思を持っていたという。それがなぜか排他主義(ショーヴィニズム Chauvinismかジンゴイズム Jingoism。原初では著者がどちらの言葉を使ったかは分からない)が、シオニストたちのドグマとなる。(五六ページ)

「イルグン団」の計画的テロ行為―悪名高い「デイア・ヤイシン事件」

 一九四八年、イスラエルは計画的なテロを開始して、パレスチナ難民が逃亡し始めると、イスラエル政府は、パレスチナ人に対する不当なプロパガンダを開始する。「パレスチナ人は自発的に逃げ出した」「本来はユダヤ人のものであった土地を、不法占拠していた」といった具合である。

 本当はテロによって、アラブ人を追い出したのである。テロといったらアラブ人、イスラム原理主義(Islamic fundamentalism)が頭に浮かぶことであろう。七〇年代はハイジャックだった。しかし、現在、アラブ人のお家芸のように思われているテロを先に始めたのは、実はシオニストのほうだった。

 リリアンソールは、パレスチナ難民問題の責任は、はっきりとシオニストたちの軍事力のせいであるとしている。

 それは特に、後のイスラエル首相ベギン率いる「イルグン・ツヴァイ・レウミ(Irgun Tzvai Leumi)、自由の戦士たち」のせいである。これは「イルグン団」と一般的に言われている。イルグン団はスターン団と並ぶユダヤ・テロリスト組織である。

イルグン団

 イルグン団の行なったテロリズム、虐殺行為として著者は、三つの事件を取り上げている。九五名の英国人将校とアラブ人を殺害した「ダヴィデ王ホテル事件」、英国人軍曹をリンチの末、首を吊るした「ナタニア事件」。

 最も紙面を割いているのが、「デイア・ヤイシン村事件」事件である。これはまさに、いわゆる「南京大虐殺」として描写される事件や、ベトナム戦争で米軍が行なって国際的に非難された「ソンミ村事件」にそっくりである。

(引用開始)

 一九四八年四月九日、デイア・ヤイシンの小さな村が襲われ、二四五名の婦女子と老人が殺され、死体は井戸に投げこまれた。この村は、エルサレムの西の岩だらけの岬に位置し、それまで、エルサレム近郊の争いや暴動に巻き込まれないように努めていた。

 デイア・ヤイシンは、ユダヤ人の攻撃を挑発するようなことは何もなかったし、周りのユダヤ人たちとは一種の協定を結んで平和に暮らしていた。

 村人たちはときにはユダヤ機関にも協力しており、ユダヤ人の新聞によれば、村人たちは村からアラブ人の戦士を追い出したこともあったのだ。イルグンとスターン団が合同でこの村を襲った日は、イスラムの安息日に当たっていた。

 攻撃に対して、デイア・ヤイシンの男たちの最初の抵抗が止むと、住民の全てが広場に集められた。そして壁に向かって並ばされ、射殺された。

 ラリー・コリンズとドミニク・ラピエールの『おお!エルサレム』によれば、この村の有力者の娘は「一人の男が、九ヶ月の身重だった私の姉の首に弾を打ち込みました。それから、その男は肉きりナイフで姉の腹を裂きました」と証言した。

 生存者たちの話によると、これらの二つのテロリスト・グループの女性メンバーたちも、男たちに劣らず野蛮な仕打ちを行なった。殺し屋たちは人を殺し、物を略奪し、最後に女たちを強姦した。

『ユダヤ・コネクション』 六〇〜六一ページ

(引用終わり)

 エルサレムのアラブ人たちの説得を受けて(イギリス当局は調査を拒否した)、国際赤十字は各国から調査団を派遣した。そのうちのスイス赤十字代表、ジャック・ド・レニエの証言が引用されている。

 ここを読むと、「デイア・ヤイシン事件」は南京事件などのように、偶発的な混乱要素が無視できない中で起こった事件ではなく、イルグン団が、計画的・組織的に任務を実行していたことがうかがえる。

 レニエは最初に現地に赴いた調査団である。彼によれば、自分が到着した時にはまだテロリストたちは、自分たちの仕事を貫徹していなかったという。以下がジャック・ド・レニエの証言である。

(引用開始)

 最初に私は、人々がいたる所で走り回り、家に押し入ったり出たりするのを見た。彼らはステン銃やライフル、ピストル、長い飾りナイフなどを身につけていた。彼らは半分、気が狂っているように見えた。

 私は一人の美しい娘が、まだ血の滴っている短剣を手にぶら下げているのを見た。私は叫び声を聞いた。イルグンのドイツ人メンバーは説明した。「我々はまだやつらを掃討中だ」。私が考ええたことといえば、これは私がかつてアテネで見たナチス親衛隊(SS)とそっくりだ、ということだった。

 さらにド・レニエはは恐怖の思いで記している。「私はその若い女が、小屋の入り口の階段に恐怖のあまり身をすくませている、一人の老人と女性を刺し殺すのを見た」。 

(同書 六一ページ)

(引用終わり)

 私にとってはソンミ村事件、「南京大虐殺」とそっくりの光景である。あるいは中国人が日本人に働いたとされる「通州事件」ともそっくりである。

 こうした虐殺に関する証言というのは、注意深く取り扱うべきで、吟味が必要である。さもなくば怖いもの見たさの、一種の「オカルト本」や「陰謀理論書」になってしまう。

 ド・レニエも南京事件のとき証言者、記録者として取り上げられるラーベであるとか、マギー神父と同等の人物かもしれない。両者は、ともにその証言の信憑性を疑う声が上がっている。

 それでもド・レニエの目撃した死体は、事実として認められるであろう。彼は、水溜めに一五〇体の遺体があり、その周辺に四、五〇体の遺体があったのを目撃したという。総計で二五四人が殺され、そのうち一四五名が女性で、そのうちの三五人が妊婦であった、としている。

 赤十字の人間が、死体を野放しにしたままだったとは考えにくい。自分たちである程度は処置したはずである。少なくとも相当数の死体が散らばっており、武装したイスラエル兵がいたということは事実であろう。

 赤十字はその当時の公式のデータがを公表しているはずである。本来ならば、そのデータを掲載して欲しいものである。それで、いわゆる陰謀系、オカルト系のレイベリングは確実に逃れられるのである。

パレスチナの古くからの村々がブルドーザーでならされた

 以降、シオニストたちはパレスチナの村落の破壊攻撃を開始する。

 その言い分はこうである。パレスチナ人たちは土地を所有はしていたが、何をすることもなく、土地を開拓してこなかった。ただわずかなみすぼらしい農場があるだけである。(六一ページ)

 これは全くのウソである。当時のパレスチナは、時代と地域の文化に合わせて開発されて来た村落があり、勤勉なパレスチナ・アラブ人のコミュニティが、国中に散在する町や村で生活していた。イスラエル人がやったことといえば、この開発された村々を破壊しただけであるという。

 では、一九四八年以前のパレスチナはどうであったか。もともとパレスチナには一五の地区に四七五の村があったという。ここには、移動するアラブ部族のことは含まれていない。

 一九四八年以降、この四分の三にあたる三八五の村が完全に破壊された。六四ページには、一五の地区名と、破壊された村との数字の表が掲載されている。それによると、エルサレムでは三三の村落のうち、二九が破壊されている。ベツレヘムやガザなど七つの地区では残った村落はゼロ。完全に根こそぎにされている。

 破壊された三八五の村落は、「墓地や墓石まで含めて文字通り、ブルドーザーで根こそぎにされてしまった」のである。

 これ以降、シオニストたちは捕虜の拷問や、知識人たちの不当逮捕や追放などジュネーヴ協定によって禁じられている、占領地の住民に対する抑圧を続けてきた。

 イスラエルは拡張主義を推し進め、イルグン団の後継者たちによって組織された「グーシュ・エムニーム」という恐ろしい先頭集団によって率いられた。彼らはまさにユダヤ原理主義集団といってよく、「聖書の啓示を通して、ユダヤ人はパレスチナ全土に対する権利を有し、イスラエルは全占領地を保持しなければならない」と主張する集団である。リリアンソールはグーシュ・エムニームを「擬似神秘主義的な超排外主義運動」と位置づけている。(七六ページ)

 グーシュ・エムニームの指導者は「スターン団」の一員であったゲウラ・コーヘン夫人である。スターン団はイルグン団とともにデイア・ヤイシン村の虐殺に加わり、国連の調停委員フォルケ・ベルナドッテ伯と多くの英国人将校を殺害した。(七六ページ)

イギリスが結んだ三つの協定―「三枚舌外交」

 以来、アラブ諸国とイスラエルは四度の中東戦争でぶつかり合い、そのほかにも様々な国際テロ、ハイジャックなど世界をまたにかけた制裁、報復合戦を現在に至るまで続けており、全く止みそうな気配がない。

 こうした果てしのない報復は、果たしてどちらが悪いのか、どちらに同情するべきなのだろうか。『ユダヤ・コネクション』は反シオニストの立場で書かれているから、これを読んだ感想はアラブに同情することになろう。

 歴史的事実を追ってみても、昔からずっと住んできた住民のいる地域を無碍に攻撃を仕掛けて、自分たちが住むというのは、どう見ても正当性を見出し得ない。

 ここではシオニズムに対する批判や、アラブ対ユダヤという民族対立の問題は控えたい。ましてやイスラムとユダヤ教といった宗教対立の問題は本書のテーマではない。勘違いしている人が多いかと思うのだが、中東紛争は本質的に宗教紛争ではない。

 ことの発端は、イギリスの外交にある。イギリスがアラブ、シオニスト、フランスと個別に結んだ三つの協定がある。その三つとは「バルフォア宣言(Balfour Declaration)」、「フセイン―マクマホン書簡(Hussein-McMahon Correspondence)」、「サイクス―ピコ協定(Sykes-Picot Agreement)」である。

 まず、一八九七年、シオニズムの父テオドール・ヘルツル(Theodor Herzl)の呼びかけによって、スイスのバーゼルで第一回世界シオニスト会議が開催される。このときに初めて「公に認可され、法的に承認されたパレスチナにおけるユダヤ人郷土の設立」が宣言された(三三ページ)。

ヘルツル

 注意しなければならないのは、この当時シオニストたちは、「ユダヤ人国家」ではなく「圧迫や迫害のない郷土」を作る、というのが当初の趣旨であった。つまるところ、最大でもカナダのケベックのような、自治州を目指したのだろう。

 一九一八年、シオニズムに理解の深いロイド・ジョージ(Lloyd George)が英首相となり、外相にアーサー・ジェームズ・バルフォア(Arthur James Balfour)が就任した。一九一七年、ユダヤ人のナショナル・ホーム建設に、英政府は積極的支援姿勢を示し始め、閣議の承認を得て、英国外務大臣バルフォアから、ライオネル・ロスチャイルド男爵宛に書簡が送られた。(『ユダヤを知る事典』 滝川義人 東京堂出版 一三二ページ)

 

ジョージ    バルフォア

 これが「バルフォア宣言」として、今日知られる書簡である。この中で、英国政府はユダヤ人のためのナショナル・ホーム設置に好意を抱き、最善の努力をすることを表明した。

 重要なのは「パレスチナの外に住むユダヤ人と、パレスチナの中に住むアラブ人の地位を保護する」という一節である。

 リリアンソールはこれを「シオニズムを認可するに際しての重要な制限条項であり、シオニストへの白紙小切手ではなく、条件付の債権であった」と述べている(三四ページ)。バルフォア宣言は、ユダヤ国家設立趣意書なのではなく、アラブ人の地位を保障するための書簡でもあった。この書簡は一九一七年一一月二日に公表された。

 その二年前の一九一五年、イギリスはアラブのナショナリストたちへも働きかけていた。この当時、今のエジプト、シリア、ヨルダン、レバノン、イラク、サウジアラビアといったアラビア諸国はまだ存在せず、全てオスマン・トルコ領内に含まれている。

 トルコに対して宣戦布告したイギリスは、アラブ人たちに連合国側について戦って欲しかったし、少しでも中立を望んでいた。

 当時のアラブの盟主は、現ヨルダン王家ハーシム家の祖であるフセイン・ブン・アリー(Hussein Boom Ali)であった。彼はマホメットの子孫としてメッカの太守(シャリフ)の地位に就いていた。

 イギリスの国防大臣ハーバート・キッチェナー卿(Lord Herbert Kitchener)は、一九一四年一〇月、フセインにメッセージを送り、連合国側につくように働きかけた。フセインは同意しながらもこれを受け入れ、イラク、シリアのナショナリズム・リーダーたちに声をかけ、一九一五年五月二三日、「ダマスカス議定書」に同意した。これはアジアのアラブの領土の独立と、英国との防衛同盟を求めた協約であった。

キッチェナー

 次いで、一〇月二四日英カイロ駐在高等弁務官サー・ヘンリー・マクマホン(Sir Henry McMahon)が、フセインとの間で全八通の書簡を取り交わす。

マクマホン

 この中で「英国は”特記された地域”を除いて、フセインによって提案された境界内の全ての地域で、アラブ人の独立を認め、支援する」と表明した(三六ページ

 リリアンソール氏は、同書三六ページで「パレスチナはこのとき英国が独立を誓約した中に、明白に含まれている」と述べている。そして『ユダヤを知る事典』(東京堂出版)一三三ページには、フセインに約束したアラブ国家が、パレスチナに建設されるものではないということを、マクマホンが証言した、と書かれている。実に曖昧な文言の取り交わしがなされていたわけである。

 さらにバルフォア宣言に先立つ一年前の一九一六年五月九日、英国はフランスとロシアの間で秘密協定を結んでいる。「これをイギリスとフランスの代表者の名前を取って「サイクス―ピコ協定」という。これは第一次大戦後のオスマン・トルコ分割の取り決めであった。

 これによって、大雑把ではあるが、戦後イギリスはイラクを、フランスはシリアを手に入れた。それ以外は英仏の勢力範囲としながらも、一応アラブ人の独立を認めている。

 肝心のパレスチナはどうかといえば、フランスが要求していたが、イギリスに退けられ、国際管理地域とされた。リリアンソール氏は「パレスチナの最終的な未来は不確定のまま残された」としている。(三八ページ)

 一九一八年四月二七日、後のイスラエル初代大統領ハイム・ワイツマン Chaim Azriel Weizmann(初代首相はベングリオン)は、フセインの息子ファイサルを訪れ「シオニストはパレスチナにユダヤ政府を創立するために活動しているのではない」と約束した。(三九ページ)

ワイツマン

 翌年一月、ワイツマンとファイサルは「ロンドン協定」を取り交わす。この協定は、英国がアラブの独立を尊重する、という公約を果たすことを条件に取り交わされた。

 ところが一九二〇年五月六日、イギリスはファイサルとの約束を忘れて、大シリアの分割を進める。大シリアとは今のシリアとその沿岸部であるレバノンと、その南のパレスチナのことである。フランスはシリアとレバノンを手に入れ、国際管理地域にされていたはずのパレスチナは、イギリスのものとなった。(四〇ページ)。

 フセインの二人の息子、ファイサルとアブドゥラはそれぞれイラクとヨルダンの国王になったが、結局イギリスはアラブ人を裏切ったのである。(四〇ページ)

 ここまでがパレスチナ問題の経緯である。

 こうして全てを整理してみると、利を得たのはイギリスとフランスである。シオニスト・リーダーたちとアラブのナショナリストたちは、完全に裏切られた形となっている。

 しかし、第二次大戦後の現実を見てみるとこの三者は、それぞれ自分たちの利益を手に入れている。一番儲けたのはシオニストたちで、バルフォア宣言の中にも保障されていなかった、国家としての独立を勝ち得たのである。住民としての長い歴史がありながら、未だに独立出来ていない地域がまだたくさんあるにもかかわらず、ユダヤ人たちはほぼ未知の新居住地で、戦後三年で独立してしまった。

 アラブ側はどうかといえば、最終的には全ての地域がオスマン・トルコ、その後英仏から独立している。そもそもアラブ人たちは、オスマン・トルコ領内で、数百年間自由と自治を保障されていたので、性急な独立の必要はなかったのである。

 アラブのリーダー達は顔をつぶされたが、イギリスと協定を結んだハーシム家の息子たちはイラク、ヨルダンの王家となった。ヨルダンは現在もそうである。

 結局一番かわいそうなのは、もともといたパレスチナの住民ということになる。これが現在のパレスチナ難民問題につながっていった経緯である。

(終わり)