「0095」 論文 チャールズ・シルバーマン著『アメリカのユダヤ人』の書評 鴨川光 2010年7月22日 

 

チャールズ・シルバーマン著『アメリカのユダヤ人』―ごく普通のユダヤ人の実像

 私が今回評論する本は、チャールズ・E・シルバーマン(Charles E. Silberman)の『アメリカのユダヤ人』(明石書店、二〇〇一年、武田尚子 たけだなおこ 訳)という本である。原題は、A Certain People: American Jews and their Lives Today(『ある民族:アメリカのユダヤ人、今日のその生活』)という。

『アメリカのユダヤ人』

 アメリカで一九八五年に出版され、日本では一九八八年にサイマル出版会から刊行されている。

 シルバーマンは、一九二五年にアイオワ州で生まれたユダヤ系アメリカ人二世である。シルバーマンの両親は、一九〇〇年前後にやってきた、ロシア系とポーランド系移民であるという。典型的なアシュケナージ(東欧系ユダヤ人)である。

ユダヤ人に関する基礎知識―セファラディ、アシュケナージ、カザール、ドイツ系ユダヤ人

 世界のユダヤ人は大きく、セファラディ(Sephardim)とアシュケナージ(Ashkenazim)の二つの集団に分かれている。

 セファラディとはスペインという意味で、紀元前からバビロニア(Babylonia)、パレスチナ(Palestine)、アレキサンドリア(Aledxandria)に集住していたユダヤ人が、紀元後北アフリカとイタリア半島を中心に、西地中海に移動し始め、中世から一五世紀まで、スペインの王宮とヴェネチア(Venice)、ジェノヴァ(Genoa)などの財務官などになって仕えていた人々である。

 これに対してアシュケナージとは、大雑把に言えばポーランドとロシア移民である。東欧からロシアの西の端の広大な地域には、紀元千年くらいから大量のユダヤ人が住んでいた。

 ポーランドのクラクフ(クラコウ)や、チェコのボヘミアなどは「ユダヤ人の故郷」といわれたところである。ドイツ系、ポーランド系、ロシア系の名を持つアメリカ人は、ほぼこのアシュケナージである。

 アシュケナージは実は、一〇世紀ごろ、カスピ海と黒海付近のコーカサス地域に実在したトルコ系遊牧民族の国「カザール王国」の末裔(まつえい)なのではないか、という説がある。

 このユダヤ人たちが一九世紀末、帝政ロシアで起こったユダヤ人排斥の波であるポグロム(Pogrom)と、二〇世紀のナチスの台頭によって、アメリカに逃れて来た。

ポグロム

 ユダヤ人のアメリカ移民は五波に渡って起こった。最初は、一七世紀にブラジルに到着したセファラディ。第二波は、一八世紀にドイツのライン川一帯(ラインラントとかウェストファーレン州という。英語ではウェストファリアという)から移住してきた「ドイツ系ユダヤ人」である。

 この後にやってきたのがアシュケナージである。第三波がロシア系のアシュケナージ。第四波がポーランド・東欧系アシュケナージである。戦後にヨーロッパとロシア各地から逃れてきたユダヤ人が第五波である。

 私がこれから論評する『アメリカのユダヤ人』は、筆者の両親の世代である第三波と第四波のアシュケナージ移民が、戸惑いながらも自らのユダヤ意識を忘れて、アメリカ人として同化しようと努力して来た軌跡である。

 この本の中で最も重要なのが、一九六七年に勃発した第三次中東戦争(通称「六日戦争」)前後の異常な事態である。

第三次中東戦争

持たずに済んだユダヤ意識

 「六日戦争がもたらしたもの」と題したこの章(二六〇ページ)には、私たち日本人が全く知らない、勘違いしやすい、ユダヤ人に対する偏見を解消してくれる事実が描かれている。

 一九三〇年代、筆者のシルバーマンは、まだユダヤ的雰囲気を色濃く残したニューヨーク(New York)のアッパーウェストサイド(Upper Westside)で育っている。

 伝統的ユダヤの習慣に包まれた環境で育った子供時代の著者は、ユダヤ人としての意識をわざわざ持つ必要がなかったという。筆者の通っていた小学校でも、クラスメートは、三、四人を除いて全てユダヤ人であった。(二五三ページ)

 筆者は、当時の都会育ちのユダヤ人の雰囲気を伝えるために、社会学者ネイサン・グレイザー(Nathan Glazer)という人物の指摘を取り上げている。グレイザーによれば、都会に住む人は、一切のユダヤ人組織に関わることなく、完全にユダヤ人的生活をすることが出来たらしい。

ネイサン・グレイサー

 親たちは子供たちをユダヤ的習慣になじませるために、ユダヤ教会(Synagogue シナゴーグという)や、ユダヤ人コミュニティ、あるいはヘブライ語学校に通わせる必要がなかった。子供たちはただユダヤ人の友達を持ち、ユダヤ人の食べ物を食べ、ユダヤ的慣習や文化のパターンに従うだけでよかった。(二五三〜二五四ページ)

 都市でのユダヤ人居住区は「インナーシティ(Inner City)」だった。いわば「スラム街(slum)」である。小さな地区に一つの民族が固まって、ただ自分たちの慣れ親しんだ文化習慣の中で過ごせばよかった。

 ところが、第二次世界大戦が終わると、大半のユダヤ人家族は郊外に移り住むことになった。このユダヤ人たちの事情は違っていた。

郊外の「普通の」ユダヤ系アメリカ人家族の生活が始まった

 たしかに郊外にも、古くからのユダヤ人居住地はあった。しかし、そこでのユダヤ人の隣人たちは、同じ少数民族である人々、アイルランド人(Irish)、イタリア人(Italian)、ポーランド人(Polish)であった。アメリカでは主流とはならないカトリック(Catholic)であり、労働者階級である。アウトサイダーの程度もユダヤ人と同じであった。いわば仲間だったのである。

 しかし、郊外に住んでいた隣人は、アメリカの「普通の人々」であった。隣人が突然「アメリカ人」になったのである。

 「アメリカ人」というのは、いわゆる白人、イギリス系白人であり、プロテスタント(Protesntant)のことである。ワスプ(WASP White Anglo-Saxon Protestant)などと呼ばれる。

 彼らはアメリカ社会では、インサイダーである。社会階級ではユダヤ人よりも上位にいなくとも、「上位の地位」だったのである。つまり、職を求める、あるいは学校へ入る際に、差別を受けることなど全く意識することのない人々という意味である。

 この環境の中でユダヤ人は、気詰まりで居心地が悪かった。必死になって隣人に受け入れられようとしなければならなくなったという。(二五五―二五六ページ)

 これまでになかった「アウェー」環境にさらされることになって、彼らはユダヤ人であるという強い自意識、はるかに強い宗教性で再定義されざるを得なくなった。

 自らがユダヤ人であることについて考えたことのない人、ユダヤ人であることを拒絶した者、反宗教的なユダヤ人、幾年もユダヤ教会に足を踏み入れたことのない人が、突然教会に行くようになったり、組織を作り始めたりした。

 アメリカのユダヤ人たちは、都市から郊外に移り住む際、よりユダヤ人くさくない生き方を思い描いていた。しかし、ユダヤ人から離れようとした結果、彼らが郊外で直面した現実は、より「ユダヤ人らしい生き方」を発見することであった。

 自分たちのユダヤ性を意識し始めた彼らは、会衆が増え始めたこともあって、壮麗なシナゴーグとコミュニティ・センターを建て始める。

 この現象を説明するためにシルバーマンは、社会学者のマーシャル・スクレア(Marshall Sklare)という人物の言葉を引用している。

 スクレアによれば、新しい建物の伝えるメッセージは「ユダヤ人はもはや、恐怖に脅える少数派として行動する必要もない、富や業績を堂々と示してもよい」というものであった。「ユダヤ人社会の存在を全体としての社会に布告することによって、新しい建物は、ハイツのユダヤ人が隠れ場から出てきたことを表明していた。その建物のいわんとしているのは、ユダヤ人は今、平等者として受け入れられなくてはならない」ということだった。

 ユダヤ人たちは、アメリカ社会に何としても溶け込もうと努力してきた。それがある程度実現されると、今度は、自分たちがユダヤ人であり続けたいと思うようになっていた。ユダヤ人たちは、自らユダヤ人であることを示すかのように、ユダヤ人コミュニティの諸制度に正式に加盟し始めたのである。

 ここで問題が起こる。ユダヤ人として生きようと決意をしたのはいいが、彼らにとって、最も重要なことは何であったか。それは、自分たちの子供がユダヤ人として生きることだった。

 これまでアメリカ人に同化しようとして生きてきた親の世代は、子供たちに教えなくてはならないユダヤ人の習慣に関する知識が、まるでなかったのである。

ユダヤ的感情とは宗教とは無縁の「自然な感情」であった

 このことに関してシルバーマンは、ハリー・ガーシュ(Harry Gersh)という人物の興味深い文章を引用している。

(引用開始)

 「子供はいったいどうして自分がユダヤ人であり、それが何を意味するのか知るだろうか。家中を探し回って在庫調べをしてみる。家内を安息日のろうそくをともしてお祈りをするわけじゃなし、私には祈祷用の肩掛けさえない。メズーサ(祈祷文を内蔵した金属板、入り口につけられる)もドアから除かれている。こうなるといったい、われわれが話して聞かせることと、たまさかのユダヤ料理を除けば、息子はいったいどうやってそれを知るのだろう?」

 それは大半のユダヤ人の両親が投げかけた疑問だった。答えはたいてい同じであり、子供たちを日曜学校か、午後のヘブライ語学校に入れることであった。授業料の払い方の建前からして、それはまたユダヤ教会に加入することをも意味していた。(二五八ページ)

(引用終わり)

 ハリー・ガーシュの言葉は、ユダヤ人たちユダヤ教によって結びつくことによって、古代以来、一枚岩的な存在であったという、先入観を打ち砕くものである。ガーシュによれば、ユダヤ人の親たちのユダヤ教に関する知識は、九割が感情的なもので、事実は一割だという。

 ユダヤ人の親たちが身に付けた「ユダヤ人的感情」とは、生まれ育った環境がそうであったからそうなのだ、という範囲を超えることはない。ユダヤ人としての感情とは、「昔風の大家族と、民族の寄り集まった居住区の生んだ無意識の産物」(二五九ページ)だったのだ。

 現代に生きる戦後の日本人として、私自身のことと照らし合わせてみよう。

 私、鴨川の父親は、生きていれば今年七四歳になる。父は七人兄弟の下から二番目であった。私は今年四三であるが、すぐ上の親の世代はもう大家族で、五人以上は当たり前であった。五人では少なすぎる感があったらしい。親戚なども、大体は近くに寄り集まって住んでいたし、いくつかの親族集団が固まって「近所」というものを作っていた。

 その感じをユダヤ人(イタリア系、アイリッシュなど、全てのアメリカ人はそうであったろう)は持っていただけなのである。こうした自然な営みを土台にした「ご近所」の一体感が、著者のシルバーマンの子供の世代からは、ニューヨークの大都市に散らばっていくことで、消えていったのである(五九ページ)

ユダヤ人的であることは「感じ悪いこと」

 郊外に移り住んだユダヤ人たちは、ユダヤ教の宗教教育をほとんど受けてこなかった。そのため、子供たちの質問に答えることも、ユダヤ教の知識を説明してやることも出来なかったのである。そこで、子供を日曜学校や、ヘブライ語教室に通わせて、自分たちがユダヤ人であるという意識を身に付けさせようとした。

 親たちが子供に望んでいたのは、子供たちがユダヤ教徒になることではなかった。あくまで民族としての意識を持って欲しかった、ただそれだけである。つまり、ユダヤ人と結婚をし、ユダヤ民族の縁が絶えることのないようにすることだったのである。

 面白いのは、ユダヤの親たちは、子供たちにあまり「ユダヤ人過ぎぬように」ということを、ラビや校長たちに骨を折って訴えたということである(二五九ページ)

 ここには、「早くアメリカ人に同化しなければならなかった」という親の世代の心境との複雑な絡み合いが存在する。アメリカのユダヤ人にとって、人前で自分がユダヤ的であるのを示すことは「感じの悪いこと」だったのである。

 この筆者の親たちの時代である一九二〇年代、ユダヤ人はアメリカ人になろうとして、自分たちがユダヤ人であるという事実を克服しようとしていた。シルバーマンは、テレビ・プロデューサーのヘンリー・モーゲンソー(Henry Morgenthau)という人物の言葉を引いて、当時の親の在り方を描いている。

 モーゲンソーによれば、ユダヤ人であることは、子供たちの前では決して口に出してはならぬことであったという。モーゲンソーが五歳の時、友達に宗教は何かと尋ねられ、「僕の宗教って何よ?」と母親に聞いたらしい。すると母親は、「お前はアメリカ人だといいなさい」とだけ返され、後は何も答えてくれなかったという。(一七ページ)

 この時代の彼らの基本的なしつけルールは「しい!静かに!」だったという。つまり他人の注意を引かぬようにしなさい、目立たぬようにしなさい、ということであった(一八ページ)。

 「感じよく」というのはどういうことか。ユダヤ的なものを人前で見せないようにする、ということであった。注目すべきなのは、アメリカのユダヤ人は、たとえラビであろうとも、「感じよくすること」が当たり前だと思っていたのである。

 ヤムルカ帽(yarmulke)、あのラビたちの被る、ベレー帽を小さくしたような帽子を人前で被ったり、電車の中でヘブライ語の本や、ユダヤ問題を論じた英語の本を読んだりすることでさえ用心していたという。

  

ヤムルカ帽    ヤムルカ帽を被る小泉元首相

 ユダヤ教正統派のラビであっても、一歩外へ出るとソフト帽を被ったという。もし人前でヤムルカ帽を被ったら、近隣の住民や家族からも「感じが悪いですよ」とやんわりと諭されたという。

 ところが彼らのユダヤ的でなくなろうという姿勢は、一九六七以後、逆転していくことになる。これを指して、ネイサン・グレイザーという人物は「ユダヤ教は、子供たちのために再創造されている」(二六ページ)と主張する。

 モデカイ・カプラン(Mordecai Kaplan)という人物は「ユダヤ人こそユダヤ主義の中心である」と述べた。これはユダヤ教解釈の「コペルニクス的転回(Copernican principle)」である。

 カプランによれば、「ユダヤ教はユダヤの民のために存在したのであり、ユダヤ民族がユダヤ教のために存在したのではない」という。つまり、ユダヤ人の意思の実現のためにユダヤ教、ユダヤ思想があるのだという、ユダヤ史上初めての驚くべき解釈を行なったのである。

 このことは論争を巻き起こしたようだが、いずれにせよ、アメリカのユダヤ人はこれまでもそのように振舞ってきただけだという現実があった。

第三次中東戦争―「六日戦争」―が全てを変えた

 ユダヤ人のためのユダヤ教を求め始め、ユダヤ人意識を目覚めさせる土壌が広がり始めた時、それを決定的にする出来事が起こる。第三次中東戦争(Six-Day War)の勃発である。

 アメリカでの(そしておそらくは世界での)「ザ・ホロコースト(the Holocaust)」とはこのときに始まる。大戦中、ナチによる行為だったとされるホロコーストとは、一九六七年以降に大々的に世界に広まった。それ以前はユダヤ人にとっても他人事で、忘れられた出来事だったのである。

 第三次中東戦争は一九六七年に起こったイスラエル対エジプト(Egypt)、シリア(Syria)、ヨルダン(Jordan)同盟軍による全面戦争である。戦闘は六月五日に始まり、六月一〇日にイスラエル勝利で決着がついたことで、「六日戦争」と呼ばれている。

 この一一年前、シナイ半島でエジプト軍とイスラエル軍がぶつかり、それと同時に起きたスエズ動乱(Suez Crisis 書評者注記:エジプトVSイギリス、フランス。エジプトのナセル(Gamal Abdel Nasser)大統領によるスエズ運河国有化をめぐる戦い)を合わせて第二次中東戦争という。

 この時、イスラエル軍はシナイ半島(Sinai Peninsula)に進出した。イスラエルは、シナイ半島とヨルダン、アラビア半島に挟まれる格好になっている。シナイ半島とアラビア半島の間にティラン海峡(Strait of Tiran)いう小さな海があり、その北のほんの小さな部分がイスラエルの南の出口である。

シナイ半島

 イスラエル軍は、海峡の突端のシャルム・エル・シェイク(Sharm ash-Shaykh シナイ半島南端)とガザ(Gaza Strip)を国連緊急軍の管理下に置くことを条件に、一一年間撤退していた。この条件の下、ティラン海峡でのイスラエル船舶の自由航行が保障されていたのである。

 当時のエジプト大統領ナセルは、一九六七年五月一七日、国連軍の撤収を要求すると、当時の事務総長ウ・タント(U Thant)は、なぜかあっさりと同意してしまう。ナセルはエジプト軍をシナイ半島(そもそもエジプト領土)のイスラエル国境に、七個師団(兵力一〇万、戦車九〇〇両)を展開し、ティラン海峡の封鎖宣言を出してしまう。イスラエルの南部は、一挙に不穏な空気に包まれる。

  

ウ・タント    ナセル

 この頃、ヨルダン河西岸(West Bank 今のパレスチナ自治区)は、ヨルダン王国の領土となっていた。一九六五年、この地にPLO(Palestine Liberation Organization パレスチナ解放機構)が誕生し、イスラエルへのテロを開始していた。イスラエルは、北部ではシリアとゴラン高原(Golan Hights)で国境を接していて、シリアはここから眼下のフーラ盆地を砲撃していた。

 この三国は相互防衛条約を結び、五月二〇日、ナセルは「イスラエルを完全に破滅させることが目的である」と宣言する(二六二ページ)

 イスラエルはこれに対して、二三万の軍勢と、戦車二〇〇〇両、七百機の空軍機を三側面に配備する。六月五日早朝、イスラエル空軍機は基地を発進し、七時四五分、爆撃を開始した。

 この先制攻撃によって、エジプト軍は三四〇機のうち、三〇九機を失い、イスラエルが制空権を獲得。一挙に機甲師団がシナイ半島を驀進(ばくしん)し、六月八日、スエズ運河東岸まで到達した。

 ナセルの誤情報に乗せられて、イスラエル攻撃を開始したヨルダンは、勢いに乗ったイスラエル軍の返り討ちに遭い、ヨルダン川西岸、エルサレム(Jerusalem)旧市街から放逐される。

 ゴラン高原越しに砲撃を交わしていたシリアとイスラエルは、六月九日、ついに機甲部隊が激突し、一〇日、シリア軍は敗走、イスラエル軍はゴラン高原を占領し、すべての戦闘が終結する。

 こうした緊張と危機感の高まりと、イスラエルの電撃的圧勝に幕を閉じた「六日戦争」が、アメリカ・ユダヤ人に与えた衝撃は深く、このときをもってアメリカ・ユダヤ人のある一つの時代が終わりを遂げたのである。

アメリカのユダヤ人は「自分たちがいかにユダヤ人であるか」ということを知らなかった

 シルバーマンは二六四ページから、六日戦争に対するアメリカのユダヤ人の反応と、意識の変化を克明に記している。

 最初は心配と緊張で見守っていたユダヤ人たちは、中東情勢が刻々と事態の非常さを増していくにつれ、「いらだちと落ち着きのなさが、はっきりと目立ってきた」という。

 彼らは家庭のテレビと街角でのラジオに釘付けとなり、それまでのイスラエルに対する無関心が消し飛び、単なる知的好奇心ではなく、数ヶ月前には考えられなかったほどに、感情的に関心を示していった。次の引用は、そのときのユダヤ人の心情を色濃く物語っている。

(引用開始)

 「当時はわれわれの多くが、我々の生命が天秤にかけられているように感じた。それもこの国に住む者の命だけでなく、聖書の中のあらゆるもの、ユダヤ人の歴史の全てが危機に瀕していると。ユダヤ人六百万人が死んだ時黙って見ていた世界は、ここの友人を除けばまたもや黙りこくっている。私たちは心配でへとへとに疲れ、恐ろしい孤立感を味わっていた。私は自分が、どれほど深くユダヤ人であるのか知らなかったのだ。」(二六四〜二六五ページ)

(引用終わり)

 これは、エイブラハム・ジョシュア・ヘッシェル(Abraham Joshuah Heschel)という人物の言葉で、シルバーマンによれば、現代最高の精神的指導者であるという。

 彼の最後の「自分がどれほど深くユダヤ人であるのか知らなかった」という言葉が、当時のユダヤ人の心境と境遇をよく表している。

一九六七年以前はホロコーストも知られていなかった

 一九六七年以前のアメリカのユダヤ人たちは、イスラエルを慈善の対象としかみなしていなかった(二六五ページ)。またホロコーストに対しても、たいした注意を払っていなかったのである。

 若干の人間が、ホロコーストに対して、防ぎきれなかった事件であり、少数の人間しか救出できなかったことに罪悪感を覚えた程度であり、ほとんど他人事、戦争の中で起こったらしい、非現実的な一事件としか見なしていなかったのである(二六三ページ)。これはおそらく世界中の人々がそうであっただろう。

 大半のアメリカのユダヤ人たちは、自分自身の生活に忙しく、アメリカ社会の周辺から主流へと、社会的地位の向上と、アメリカ人への同化という興奮に突き動かされていたのである。

 この時期のアメリカのユダヤ人差別として、代表的作品は映画『紳士協定(Gentleman's Agreement)』である。この映画の中では、ユダヤ人はいい企業には入れなかったり、子供が理不尽ないじめにあったりと、当時の生活の中での差別が扱われている。画期的な映画であるが、それは特に取り立てて、ユダヤ人だけが特別な存在として描かれていないところが素晴らしい。

『紳士協定』

 イタリア系、ポーランド系のアメリカ人同様、アメリカに同化しようと努力しているにもかかわらず、種族の違いという、理不尽な差別に苦しむ姿が描かれている。実に立派な映画である。当然ホロコーストや、シオニズムは出てこない。ジューダイズムでさえ深刻に取り上げられていない。

 一九六七年以前のアメリカでは、ユダヤ人たちはホロコーストのことはほとんど口に出すことはなく、ホロコーストに関するものを読んだり、子供に教えたりすることはなかったという(二六三ページ)。

 自らの出自をなるべく考えないようにしていた、アメリカのユダヤ人の「伝統」は、一九六七年六月を境に消えていくこととなる。

アメリカのユダヤ人にとってイスラエルは「われら」になった

 六日戦争前夜の緊迫した状況が、テレビやラジオでアメリカ国民に伝えられ始めると、アメリカのユダヤ人は自分の運命が、イスラエルとともにあると感じ始め(二六六ページ)、それまでの種族的無関心を埋め合わせるかのように、はっきりとした政治行動をとるようになっていった。

 ユダヤ人は歴史的に、どの国にあっても「皇帝(ツアー Tsar)を批判するな」(二六六ページ)という言葉を肝に銘じていて、自らの民族的利益に与するような政治活動をすることなど、ご法度であった。

 ユダヤ人はつねに「アンチ・セミティズム(anti-Semitism)」の発生を恐れてきた。それゆえユダヤ人は、公共の場でのプロテスト運動を慎み、人目につかぬ所で行動することを好んだ。

 また現在に至っても常に言われ続け、ユダヤ人問題の一つとして考えられている問題、「二重の忠誠心(dual royalty)」を持っているのではないかという疑いに対しても敏感で、用心深く行動していたのである。

 穏健な「大人しい」「気遣いに富んだ」ユダヤ人の日常生活の姿勢はこの時を境に一変し、彼らは「情熱的で、騒々しい群集」と化してしまった(二六六ページ)。

 シルバーマンはレオナード・フェイン(Leonard Fein)という人物を引用し、当時のユダヤ人の行動の変化を記録している。

(引用開始)

 「われわれは完全に平静を失ってしまった」とレオナード・フェインは書いた。「われわれは請い、願い、要求し、侮辱し、脅し約束した。われわれは攻撃的で、せっかちで、気むずかしかった」

 ユダヤ人はまた、もっと習慣的な反応も示した。戦争が始まった時、彼らはユダヤ教会へ集まった。それは祈るためというより、他のユダヤ人とともにいて、イスラエルを支援する金を貢ぐためであった。

 「アメリカ・ユダヤ人にできることは、金を送ることしかないかに見えた。そして彼らはこれを、犠牲を払って行なった」。

 修辞的な誇張はあるが、ルーシー・ダビドビッチはこう書いた。ユナイテッド・ジューイッシュ・アピールのイスラエル緊急救援基金に金を出した五〇パーセントくらいのユダヤ人にとって、金を寄付することは単なる慈善行為ではなかった。それはイスラエル存続の戦いに加わること、受け身の傍観者ではなく参加者になるための方法だった。

 事実、多数のユダヤ人がまるで金の郵送では安易すぎるといわんばかりに、寄付金を自分で募金事務所へ運んできた。自らで向くことで、彼らは、肉体的に戦いに参加していると感じているかのようだった。(二六七ページ)

(引用終わり)

 一九六七年五月を境に、イスラエルはアメリカのユダヤ人にとって「彼ら」から「われら」になったという。ユダヤ人たちは、イスラエルというそれまでは縁もゆかりもなかったはずの中東の小国の危機によって、自らがユダヤ人であるということを認め、アメリカ人に同化することを自らの宿命であるとしたそれまでの態度から、急激な転回を行なったのである。

 ユダヤ人国家存亡の戦いに「参加した」ということを機に、イスラエルとのアイデンティティは確実なものとなり、充足感と誇りの源となった(二七〇ページ)。

イスラエルは「孤立した犠牲者」でなければならない

 イスラエルの全面的勝利の後、アメリカ国内では政治家と教会指導者を中心に、イスラエルに対する怒りと批判が巻き起こった。

 特に全国教会会議という団体が、ヨルダン部分のエルサレムをイスラエルが一方的に併合したことを非難したことが取り上げられている(二七二ページ)

 この地域は、本来はパレスチナ住民のための地区であり、パレスチナが国家として設立されるべきであった土地を、いまだ主権の存在が曖昧な地域を、ヨルダンが実行支配していたに過ぎなかったのである。

 ここに一九六五年、PLOが出来て、このすぐ隣の地域からテロ活動が始まった。イスラエルからしてみたらたまったものではない。イスラエルがヨルダン川西岸地域を占領することは、非難されるべきことかもしれないが、それはヨルダンにもともとの責任がある。

 イスラエルからしてみれば、領土的野心のない地域を隣国が実行支配し、その結果テロ活動の拠点となり、挙句の果てにヨルダン軍が国境沿いに集結させられたのである。

 イスラエルがパレスチナを占領した理由は、領土拡張主義の結果ではなく、もともとは自国の安全保障のためであったと考えられる。

 アメリカのユダヤ人はこの時期、盟友と信じていた友人たちが急に自分たちに背を向け始めたと感じたという(二七三ページ)。ユダヤ人は犠牲者であって欲しかったという、イメージにそぐわない戦いをしたからなのであった。

 ユダヤ人は孤立無縁な中、敵の大群に囲まれたまま、事態が悪くなって大量の難民を出して欲しかったという筋書きを、大半のアメリカ人たちは望んでいたらしい。

 そうすれば、世界各国から同情の雨が降らされることになったであろうに、あまりにも鮮やかな大勝利に終わってしまったため、犠牲者であるべきイスラエルのイメージにそぐわないのだ、とエリー・ヴィーゼル(Elie Wiesel)は主張した。

エリー・ヴィーゼル

ホロコーストはまだ存在していなかった

 エリー・ヴィーゼルの主張に関しては、どうも言葉そのままに受け取れるものではないが、それでもこの当時の彼は、「ホロコーストの実体験記だ」とされる、小説『夜』(Night)が、アメリカではほとんどの出版社に拒否されるという憂き目を味わっていた。

 現在の彼の評価とこの時代とでは、異なった視点から見なければならない。まだ、ホロコーストを商売に出来る身分ではなかったのである。ホロコースト産業自体も存在していなかった。全ては一九六七以降に始まったのである。

 本書は日本版にしても四〇〇ページもある大著である。書くべきことはまだまだ枚挙のいとまがないが、これくらいで終わりにしておこうと思います。

 私がこの本に関して書評を書こうと思ったのは、一九六七年を境に全てが変わったこと、それ以前のユダヤ人は、決して軽くない差別に苦しみながらも、アメリカに同化しようと努力を続けていた「普通のアメリカ人」であったこと、そして、普通のユダヤ人から見た中東問題の、決して偏りすぎることのない報告を紹介したかったからです。

 反イスラエル、反シオニズム的な書物や、果ては陰謀理論のほうが売れるし、正直、面白い。

 しかし『ホロコースト産業』(The Holocaust Industry)の著者、ノーマン・フィンケルシュタイン(Norman G. Finkelstein)同様、正直な普通のユダヤ人の記録というのは、立場がどちらであれ決して軽んじてはならない、歴史的価値を持っています。

ノーマン・フィンケルシュタイン

 佐藤唯行(さとう ただゆき)氏や滝川義人(たきがわよしひと)氏のような、ユダヤ代理人ではないかと思えるような人々の著書からは得られないものがあるのです。

佐藤唯行

 私たち日本でユダヤ問題に関心のある人は、ユダヤ人自身の書いた本を読むべきだと思います。それらの集積が、現代のユダヤ、イスラエル、シオニズム、ホロコーストといった問題に横たわる、大きな真実を明らかにすることにつながっていくのです。

(終わり)