「0094」 論文 サイエンス=学問体系の全体像(18) 鴨川光筆 2010年8月9日

 

ポリティカル・サイエンス(Political Science)、四つのメソドロジー―方法論

 ついに「科学の仲間」になった政治学。しつこく政治学のことを論じます。科学、学問は「方法、メソドロジー(methodology)」です。これから話すことは、現在の私たちが目の前で見る、そして、私たち自身の政治意識そのものなのです。

 現在の私たちの政治意識とは、一九二〇年代から五〇年代に打ち立てられた、理論と方法なのです。私たちにとっての目の前の「政治」とは、九〇年前から、戦後となった六〇年前にほぼ完成した理論がもとなのです。実に若い学問的理論の線に沿って、現代の私たちは生きているのです。

ビヘイヴィアリズム―行動主義

 ブリタニカは、現代の政治学の研究法、メソドロジーの紹介で「ポリティカル・サイエンス」を締めくくっている。その後に二〇世紀の理論が書かれているが、私はおおよそ一九五〇年代(ということは第二次大戦前までに完成した理論や思想ということ)までのことを述べることにしている。

政治学のメソドロジーは、次の四領域にまたがっている。

一・ビヘイヴィアリズム(Behaviorism)、二・システム・アナリシス(System Analysis)、三・利益団体・エリート・政党(Interest Groups, Elites, Political Parties)、四・政治姿勢と政治行動の分析(Analysis of Political Attitude and Political Action)、この四つである。ビヘイヴィアリズムはまだ説明していなかった。三と四は、ベントレーの集団理論の成果である。

 まず、ビヘイヴィアリズムを説明する。ビヘイヴィアリズムとは、行動主義と訳され、アメリカでは最も説得力のある理論として登場した。行動主義の方法論がアメリカで急速に発達したのには、六つの原因が考えられるという。

 まず、シカゴ学派による刺激があったこと。そして、一九三〇年代、ヨーロッパの学者たち(ドイツ人が中心)の大量移民。彼らには社会学の学問背景があり、社会学と政治学の関連性を主張した。ビヘイヴィアリズムとは、もともとは社会学の理論である。

 次に、第二次大戦中、政治学者たちが、大量にアメリカの政府機関に登用されたことがある。それから、これが現在でもアメリカ政治の特徴であるのだが、政治行動の研究費援助を様々な財団や、基金が行った影響があった。これがブルッキングスなどのシンクタンクになっていったのである。財団の起源に関する研究は、ユースタス・マリンズの『ワールド・オーダー』に詳しく書かれている。

 そして、政治学へのビヘイヴィアリズム最大の成果でもある、投票行動の調査法の発達。最後に、行動科学、ビヘイヴィアラル・サイエンスに共鳴した「社会科学研究評議会」(ザ・ソーシャル・サイエンス・リサーチ・カウンシル The Social Science Research Council)という団体のトップによる働きかけ。以上の六つが、行動主義の発達に寄与した原因として指摘されている。

 この六つの原因を、ブリタニカでは「全米政治学会」(ジ・アメリカン・ポリティカル・サイエンス・アソシエイション The Political Science Association)の元会長の言葉であるとしている。

 副島氏の『覇権アメ』一五二〜一五三ページには、このドイツからの大量学者移民のことが興味深く書かれている。

 それによると、一九世紀のドイツこそが、近代ヨーロッパの学問が完成した国であり、圧倒的な優秀さを誇ったドイツの学問制度が、アメリカに輸入されるようになったのだという。

 彼らドイツの学者たちは、当時学問の後進国であったアメリカに舞い降りてきた「ホワイト・ゴッズ(white gods)」と呼ばれた。彼らの持ってきた、ビヘイヴィアリズムという方法論をマスターしたアメリカ人たちは、やがて一九五〇年代になると、「行動科学、ビヘイヴィアラル・サイエンス」として自立・独立運動を開始し、「これで自分たちは、ようやくヨーロッパの諸学問の、長い伝統を乗り越えることができたぞ」という熱狂が沸き起こった。

 物理学のサイエンスとしての成功以来、ヨーロッパではこれまで見てきたように、新しい分野にサイエンスとしての可能性が見出されるたびに、熱狂が起こったことがブリタニカには書かれている。

 化学や生物学の際にも同じような熱狂が起こった。これをサイエンティフィック・エンスジアズム(scientific enthusiasm)、アカデミック・エンスジアズム(academic enthusiasm)という。このような時、エンスジアズム(enthusiasm)という言葉が使われる。

 副島氏が『属国日本論を越えて』で行った、アメリカのソーシャル・サイエンス革命の話は、ブリタニカのこれまでの内容からも裏付けられる、歴史的事実なのである。

システム・アナリシス―政治を体系、システムとして分析する方法

 二〇世紀に発展を遂げたビヘイヴィアリズムは、学問的刺激に満ちた、膨大な量の研究成果を生み出し、最初の四半世紀を終えた。

 ビヘイヴィアリズムによって引き出された政治思想は、「政治はプロセス、過程である」というものである。「個人と集団が、止むことなく相互作用を引き起こし、統治を取り巻く膨大な量の政治活動として噴出したのだ」という仮定である。

 「何だ、そんなことか」と思わないでほしい。現在に生きる私たちが当たり前のように思っていることは全て、一九世紀末からの「社会科学者」によって積み上げられて来た成果なのである。

 このビヘイヴィアリズムの成果に、「システム」という考え方が適応される。「政治はシステムである」という考え方は、一九五〇年代に生まれた思想である。

 もともとはヴィルフレッド・パレートの提唱した政治思想だが、サイエンスとしては、パレートの提唱から半世紀待たねばならなかった。

 サイエンスとしての政治システム思想は、個人も集団も、その研究対象として扱わない。

 一九五三年、デイヴィッド・イーストン(David Easton)という政治学者が『政治システム』(The Political System)という著書の中で、「政治を、社会全体のシステムの一部として捉える」という考えを発表する。

イーストン

 政治システムとは、「政策立案過程(ポリシー・メイキング・プロセス policy making process)」のことである、とイーストンは提唱した。政治とは、社会政策の立案と実行で成り立っているという、現在では当たり前とも言える考え方を、イーストンは初めて提唱したのである。

 イーストン独特の政治行動の判断基準は、「権威、当局による価値の社会への割り当て、オーソリテイティヴ・アロケーション・オブ・ヴァリューズ(authoritative allocation of values)」である。ラズウェルにとっての政治学は、様々な価値を社会に行き渡らせることであった。この点でイーストンの政治学理論は、ラズウェルとは異なっている。

 「権威による価値の社会への割り当て」は次のようにして成立する。

 まず、「政治家、国への要求」を、政治システムへの「入力、インプット(input)」と考える。この要求(陳情など)が「政治的決断と実行」という形で、政治システムからの「出力、アウトプット(output)」へ変換されるのだ、という考えである。つまり、政治システムは、カネ、権力、地位という形で見返りを与えるということである。これが「社会への権威からの割り当て」という考え方である。

 

 ポリティカル・サイエンスというのは、事実をいかに抽象的に捉え、理論化するかにかかっている。これに対して、これまで見てきたようなポリティカル・フィロソフィーは、倫理的価値観の割合が非常に大きい。

 ポリティカル・フィロソフィーというのは、「〜であるべきだ」という理想的価値を述べるのだから、結果的に「きれいごと」(私、鴨川はこの言葉を軽々しく使うのは嫌いだが)なのである。

 これに対して、ポリティカル・サイエンスというのは、サイエンスであるから事実、社会で現実に起こっていることを観察し、それを基にして理論を立てるので、「汚らしいこと」を扱うのである。サイエンスとは、この「汚らしいこと」をいかに「きれいに」ではなく、いかに「抽象化して」理論に組み立てることが出来るかにかかっている。

 「政治家への陳情(毒まんじゅうも含む)」を「インプット」、政策の実践、すなわち「(税金、予算の)バラまき」を「アウトプット」としたことが、まさにそれである。

 私鴨川は、学問、サイエンスというのは、ニュートン以来「エクィリブリアム」が数学的に成立した時に生まれるのだ、ということを提唱してきた。エクィリブリアム(equilibrium)というのは、自然や社会での現象にバランス・オブ・フォース(力のバランス、均衡 balacne of force)が存在しているのではないか、という理論である。これを「系、システム」という。

 この「系、システム」の発見によって、ある分野がモダーン・サイエンスとして独立できるのである。

 政治学はその点、まだまだ学問としては遅れていて、モダーン・サイエンスとしては成立していない、ということになるのだが、それでも現在は、各種の膨大な統計データの集積に支えられて、かなりの近代化がなされている。遅れた学問とは到底いえないレベルであり、モダーン・サイエンスへの道を、ものすごいスピードで突き進んでいる印象がある。

 図書館に行って、各種の統計データを見てみるといい。複雑な統計技術の進歩とともに、データの集積結果である専門書の山、その一部が、どこの図書館でも、私たちのような、ほんの普通の人であっても、いつでも閲覧が可能な状態で所蔵されている。

 副島先生は、「理論と現実は違う、などと日本人は言うが、欧米の近代学問は、理論が先で、それにそってポリシー・メイキングを行うのだ、理論を軽んじてはいけない」ということをどこかで述べていた。

 政治学もまた、副島氏の言うように、膨大な理論とデータを携えて、政策として政治学上の仮説と実験、観測を実践しているのである。だから政治学を遅れた学問だ、といって省みない行為は、愚かなことなのである。 

 私、鴨川がこの政治学を書く際に最初に述べたが、政治学の研究対象は(もともとは)「主権(あるいは国家)」である。しかし、このシステム・アナリシス理論の登場によって、こうした伝統的(倫理的なニュアンスの言葉が多い)用語に取って代わり、新しいヴォキャブラリーが大量に追加されることになった。

 政治学への新ヴォキャブラリーとは、「インプット」「アウトプット」「フィードバック」「サーキュラー・ループ」「ネットワーク」「レジティマシー・シンボル」「インフォメーション・ストーレイジ・アンド・リトリーヴァル」「ポリティカル・スペシャライゼーション」「インテレスト・アーティキュレイション・アンド・アグリゲーション」「クラスター・ブロックス」「ゼロサム・ゲーム」「マクロポリティクス」「マイクロポリティクス」といった言葉である。

 こうした用語が、他の学問や統計学から引っ張られてきて、政治学に導入されることになった。ほとんどが、社会学と文化人類学からの借用である。

 問題なのは、ほとんど日本語になっていない、日本語の訳語確定作業が追いついていないことでる。後で文化人類学について述べるが、一九七七年に、日本で初めての『文化人類学事典』(ぎょうせい 一九七七年)が完成した際に、索引作成の作業が相当に困難を極めたらしい。

 というのは、数十人いる文化人類学者たちの用語の翻訳が全く統一しておらず、学問上はすでに定義づけがなされている用語の一つ一つに、一人ひとりが勝手に言葉を当てはめていっただけだったという。

 文化人類学者らは、世界の僻地に散らばるものだから、七〇年代当時のこともあって、連絡が全く取れず、索引作成作業は相当大変だったらしい。そういったことが『文化人類学事典』後書きや、序文に書かれている。

 政治学に至ってはどうだろうか。上記の言葉など、未だにそのまま使われているのではないか。マクロ、ミクロ、フィードバックといった言葉など、そのままではないか。

 おかげさまで、日本におけるサイエンスとしての政治の認知度など、とてつもなく低い。集団理論、行動主義などは、実際には我々の生活に根ざしている理論ばかりであるのに。

 これから私は、文化人類学、社会学、社会心理学を書くが、この三つの分野は調べるのが本当に楽である(ただし書くのは死ぬほど大変)。図書館や書店のどこに行っても、簡単にその分野の本が見つかって、実によく整理されているからである。

 この三つの分野は、六〇年代から八〇年代にかけて実によく流行った。私も大学一年のとき三つとも一般教養でとったことがある。男子が九割の大学であったのに、周りを見回すと女子学生ばかりであった。

 政治学の本など、どこかの大学の「法学部政治学科」や「政治経済学部政治学科」の学生(一年生か、一般教養課程の終わった三年生)用に書かれた、「ガイダンス」的なものばかりである。それに対して、政治関係の本、政治評論家(この分野だけは、文学者、エッセイスト、心理学者、美術評論家、漫画家、普通の人、詩人、外人、主婦と、ありとあらゆる人が書いている)は膨大な量である。これでどうやって、現代の日本、世界の政治を本当に理解出来るというのか。

 政治学は実は学問のトップ、支配者である(このことを本サイトにも寄稿している山田宏哉氏は、まだ大学生の時の二〇〇三年に主張していたことは秀逸であった、と私鴨川は今でも思う)。にもかかわらず、日本での大学の学部では、「政治学部」などどこにも存在しない。経済学部(早稲田の政経)か法学部(東大法学部政治学科)と一緒になっているであろう。

 近代的な政治観と政治制度を持っている国であるならば、きちんと学部として独立した「政治学部、ファカルティ・オブ・ポリティカル・サイエンス(faculty of political science)」がなくてどうするというのだ。ここに日本の外務省は、アメリカの政治研究をやらせてもらえず、副島氏の『覇権アメ』の盗み見をせざるを得ない、という現状があるのだと思う。

 あまりにもお粗末な日本の現状である。戦後、アメリカによる政策的なものであろう。日本人は政治オンチにして、次代を担う、世界レベルの本物の学問的知識を携えた政治家、政治学者など、育てたくないのだろう。事実はどうであるか分からないが、日本人の政治意識のレベルの低さは事実である。

利益団体、エリート、政党

 政治学の方法、メソドロジーの三つ目は「政治に関わる団体、集団」の研究である。おそらく現在、政治、政治学に関心と関わりのある人々にとって、ほとんどがこの領域を問題にしていることであろう。

 「利益団体、エリート、政党」の研究は本来、システム分析の枠内での研究だったのだが、全く独立した発生過程を踏んで、発展してきた領域である。

 まず「利益団体と政党」だが、システム分析の中では、この二つの「集団」は、さまざまに絡み合い、集積された利権の「代理人、エイジェンシー(agency)」として描写されてきた。システム分析のところで述べた「インプット(政府政治家への要求)」を「アウトプット(政治的決断と実行)」へと変換する「代理人」だと考えられてきたのである。

 しかし「利益団体、政党」の分析は、ビヘイヴィアリズムよりも先、一九二〇年代にはすでに登場している。一九三〇年代から五〇年代に、ベントレーの一連の著作が発表されると、団体と政党の研究の一般法則化、理論化が図られた。つまりベントレーの「集団理論」が、この研究領域に適応されたのである。

 「エリート」の研究のほうは、一九三六年、シカゴ・スクールのラズウェルの著作『インフルエンシャルズ(実力者)』(Influentials)が発表された時に始まる。

一九五〇年代、アトランタ、シカゴ、ニューヨーク、ニューヘイヴンなどで「コミュニティ、共同体」の研究が開始されると、エリート研究はその最先端を行くようになった。

 これらの政治学の研究領域は、社会学においてすでによく知られたものであったが、政治学においては、特別な重要性を持つものとなった。その理由は、民主制の価値観、デモクラティック・ヴァリューズ(democatic values)が脅かされるのは、エリートが存在している可能性があるからだと思われたからである。

 なぜエリートの研究がアメリカで始まったのか。それは、アメリカには「エリートはいない」という、大きな仮定がある。これがアメリカの伝統的な民主政治の倫理なのである。

 二〇世紀の政治学者は、いかなる価値観にも、束縛されない(ヴァリュー・フリー value freeという)学問を打ちたてようと宣言した。しかし、アメリカの政治学者は「アメリカにはエリートはいない、いてはいけない、いるはずがない」という倫理観に向かって、突き進もうとする傾向がある。

陰謀理論について、私、鴨川の若干の意見

 エリート、あるいはエリーティストという集団がアメリカにいないはずがない。一九世紀半ばから勢力を伸ばしてきたロックフェラー、モルガン、ハリマンといったアメリカの財閥系を中心にした、金融、石油財閥が二〇世紀の世界の覇権を握ってきた。このことは周知の事実である。

 CFRや様々なシンクタンク、大学や財団といった知的エリートも、ブルー・ブラッドといわれるジェイームズ・ベイカーら「アメリカの貴族」もすべて、クーン・ローブやピーボディといった、もとはロスチャイルド系のアメリカでの代理人から始まっている。

 こうしたことを初めて世に問うたのは、エズラ・パウンド(T・S・エリオットに並ぶモダニズムの詩人)の弟子、ユースタス・マリンズの『民間が所有する中央銀行』(日本での出版は一九九五年 面影橋出版 絶版)である。この本はFRB成立の過程を、初めて明らかにした書物である。

 未だにこの本が絶版のままになっているというのが、日本のエリート研究のお粗末さを表している。この本とクリントン元アメリカ大統領のハーバード大学でのメンターであった、キャロル・キグリー博士の『悲劇と希望』は、アメリカのエリート研究の古典である。

 そして、エリート研究というのは、結局は「名士の人名カタログ」となるのだが、それを地道に、精密に行っている現在日本の研究者たちがいる。

 この領域は、リンドン・ラルーシュ(Lyndon H. LaRouche)から始まった「陰謀理論」の領域でもある。陰謀理論、すなわちコンスピラシー・セオリー(conspiracy theory)というのがアメリカにはある。きちんとした理論がある。

ラル―シュ

 だが私は、そうしたきちんとした陰謀理論というのはキャロル・キグリーやユースタス・マリンズ、アントニー・サットンぐらいしか知らない。

 いわゆる「ユダヤ陰謀論」であるとか、「闇の組織の〜」であるとか、「フリー・メーソンの〜」といった「陰謀説」として幅を利かせている「噂話」の類など、こうした政治学研究領域とはまるで関係のないものである。

 また、きちんとした書物であるにもかかわらず、「闇の〜」「悪の〜」「〜の世界征服」「〜の世界権力の陰謀」などといった題名を付けて、売ろうとする出版社がいる。

 最近では、ハロー・バイバイというお笑いコンビの関暁夫(せきあきお)という人物が、「都市伝説」と名うって、フリー・メーソンを中心にした、与太話を流布している。

関暁夫

 「信じるか信じないかは、あなたしだいです」などと、思わせぶりな決めフレーズを使っている。彼の流布している話は、すでによく知られた話であって、九〇年代に千葉のプロテスタント牧師である、「小石泉(こいしいずみ)」という人が流布した話の焼き直しである。千円札の野口秀雄の片目は「フリー・メーソン」のシンボルの目と同じである、といった説である。

 こうした「面白ければいいじゃないか」という怪談話を聞くような姿勢で、「陰謀説」をもてあそぶ、というのはばかげていることだ、ということをエリート研究者である中田安彦氏は、数年前に主張していた。この予言的な主張は、現在の私たちにとっての警鐘であったと、高く評価されねばならない。

 エリート研究というのは、集団理論、システム・アナリシス、ビヘイヴィアリズムといった長い歴史を持った、現代政治学理論のしっかりとした土台がある。このことを、私、鴨川は説明してきた。

 こうした思想を理解しないでエリートを語ると、闇の力が世界を支配している、といった「極北の陰謀説」といった与太話に陥ってしまうのである。コールマン博士であるとか、デーヴィッド・アイク、日本では中丸薫や、最近ではベンジャミン・フルフォード氏(出世作『ヤクザ・リセッション』や『日本がアルゼンチンタンゴを踊る日』は素晴らしかった)までも、この路線で本を売っている。

フリー・メーソンであろうとも、「集団理論」で説明が可能である

フリー・メーソン(Free Mason)というのは、「メーソンリー(Masonry)」あるいは「マソニック(Masonic)」という。フリー・メーソンなる言葉は使わないのだと、私は副島先生の一連の著作を読んで初めて知った。

「マソニック」というのは「石工(いしく)組合」のことである。西洋では大理石などで家を建てる。つまり西洋の「大工組合」のことである。ということは、その人的つながりは古代からあり、ヨーロッパ全土はおろか、ペルシャ、インドのほうまで広がっているに決まっている。

 もともとはバビロンがマソニックの勢力の中心地であり、ペルシャからローマに覇権が移動する過程で、地中海全土に広まったのだ。

 それが文明の伝播によって、北ヨーロッパに広がったのだ。これは文化の伝播理論、「グランド・ディフージョニズム(Grand Diffusionism)」という文化人類学上の基本理論である。

 これほど広範にわたる組織が、単一な組織であるはずがなく、もしそうであっても、様々な集団が入り乱れて、利権争いも壮大なレベルであろう。

 アメリカの共和党でも七派に、日本の自民党でも四つの派閥に分かれていたのだ。これでも大雑把な分け方である。マソニックが一枚岩であるはずがないではないか。

 古代から世界にまたがる集団が、闇の組織であって、まとまって世界征服をもくろんでいる、などというのは不可能であろう。その中に、ある時期、ある国や地域で、また別の秘密結社のような集団が現れて、ある先導者や理論が表れて、ある国や地域の政治経済を混乱に陥れた、というぐらいは考えられる。

 いずれにしろ、秘密結社を解き明かすにしろ、現代政治学では集団理論やビヘイヴィアリズム、政党、圧力団体といったことから、切り込んでいかなくてはならない。それがこの約一〇〇年にわたって、数々の人間の目にさらされて判定されてきた理論なのである。

 そうした学問的土台を無視すれば、こうしたエリート研究は、秘密結社、ユダヤの陰謀、果ては爬虫類人、宇宙人、UFO、惑星X、ニビル星、といった荒唐無稽だといわれても仕方がないものとなってしまう。よく考えてみなくてはならない。

政治家の姿勢と有権者の投票行動

 「政治家の政治姿勢と、有権者による投票行動」。これこそがビヘイヴィアリズムの最大の研究成果である。

 政治家の政治姿勢というのは、政治綱領(せいじこうりょう、プラットフォーム)、マニフェストで表される公約がそうであり、ある政治家が利権の配分先をどこにするのか、という政治判断がまたそうである。

 有権者による投票行動というのは、選挙の翌日の新聞に世代別、地域別、年代別、男女別などに分けた、得票率の統計データで表されるものである。これが正式な出口調査の結果であろう。

 この二つこそが、現在の私たちが新聞、雑誌、テレビなどで見る政治そのものである。私たちにとって、最も馴染み深い領域である。つまり、私たちにとっての政治とは、ビヘイヴィアリズムという思想を土台にした政治理論を元に積み上げられてきた、学問的データなのである。

 私たちにとって、これまで見てきたような政治学上の理論は、一見生活には何の関わり合いもないかのようであるが、実は私たちの生活、自分自身の政治意識、社会意識そのものなのである。現在の私たちの政治意識は、一九世紀末から積み上げられてきた、史上最新の科学理論なのである。

 特に第二次大戦後、世論調査と有権者の投票行動の分析、そして統計技術が洗練され、新しい調査概念が発展した。その結果、政治家と有権者の行動を、ビヘイヴィアリズムという方法論から分析してみようという試みが、一般化したのである。

 書店や図書館で、様々な統計データの書物があるのを見てみるといい。いかに現在の世の中、特に私たち人間の動き、活動が、様々な技術を用いて数値化され、計量されているかが分かるはずである。

 それらは、一九世紀に、サン・シモン、オーギュスト・コントらが提唱したポジティヴィズム(人間が仮説、前提を立てて、観測可能な事実を集積して、量的に観測結果を提示して、記述すること)の実践なのである。元をたどるとベンサムである。

 それほどの大きな思潮の中に、私たちは存在し、私たちの活動の膨大なデータ化がなされている、その最中なのである。

 世論調査と政治姿勢、投票行動の研究は統計技術の向上によって、飛躍的に進歩し、政治学は歴史上、最も学問、サイエンスへと接近することになった。

だがそれでも政治学は、一九二〇年代にメリアムが設定した地点からは、著しい距離が離れたままである、とブリタニカは結んでいる。

 メリアムは政治学を、真に学問にした人物である。メリアムは一九二〇年代に、観測、計測、統計を推進すること、観察可能な事実から経験的に政治を研究することを掲げ、「サンプリング・メソッド」「サーヴェイ・データ」を導入し、現在のアンケート、統計のもとを作った人物である。

 これほどまでに膨大な、現代社会の数量化がなされているにもかかわらず、まだまだ政治学は本当の学問としては成就されていない。その道のりもまだ遠いのである。

 これで、社会学問の中の政治学は終わりです。政治学はマキアヴェリで世俗化され、ホッブズ、ロック、ルソーによって近代への布石が打たれ、ベンサムからコントまでに「学問、サイエンス」への準備段階を経て、二〇世紀、社会学の方法論を取り入れて、ベントレーとシカゴ学派によって一応「サイエンス」となった、それまでの過程をお話しました。

 政治学と言うのは、実は学問の中の帝王です。あらゆる学問は、たとえ物理学であろうとも、政治・政治学の影響を受ける。その現実を理解しなくてはなりません。

 ですから、政治学のところだけは、アリストテレスを少しお話して、近代政治哲学から歴史と思想を追ってきたわけです。本当は、中世のトマス・アクィナスなども話さなくてはいけないのですが、それは後に「哲学、フィロソフィー」をお話しする際に書きます。

 次はソーシャル・サイエンスの残り三つ、「文化人類学」「社会学」「社会心理学」をお話しします。この三つの学問は、現在の私たちの思考を形成してきた非常に重要な学問です。

(つづく)