「0098」不定詞とは何を定めていないのか 高野淳(たかのじゅん)筆 2010年8月17日

 ウェブサイト「副島隆彦の論文教室」管理人の古村治彦です。今回は、高野淳氏の論文をご紹介いたします。高野氏は副島隆彦先生が翻訳されました『イスラエル・ロビー』の下訳作業に参加された英語翻訳の専門家です。

 高野氏は本論文の中で、日本語に翻訳された言葉の中でその内容が理解されていない言葉である「不定詞」についてまとめています。何が「不定」なのか、について高野氏は詳細に論じています。高野氏の論じる幅の広さには驚かされるばかりです。そして、不定詞とは動作の主を限定しない、抽象的な用法であると結論付けています。

 高野氏の論考は私たちが考えることをしなかった不定詞という言葉について、真摯に取り組み、分析した、高野氏らしい緻密な論文となっています。是非、お読みください。

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infinitive
word origin:infinitives, from Latin infinitus; because the verb is not limited by person or number
Longman Dictionary of Contemporary English5thedition

訳:不定詞(不定形)infinitive(インフィニティブ)
語源:ラテン語のinfinitusに由来するinfiitivesが語源。人称や数による限定を受けていない動詞の形であるためこういわれる。

 

1.翻訳用語をもうすこしどうにかしてほしい

 明治期以降に輸入された学術用語や専門用語には、字面(じづら)からはその意味するところがよくわからないものがある。あるいは間違った連想に向かってしまいかねないものがある。私の場合いくつかその例をあげれば、「形而上学(けいじじょうがく)」、「帰納(きのう)」、「演繹(えんえき)」、「弁証法(べんしょうほう)」、「功利主義(こうりしゅぎ)」、「合理主義」、「〜主義」などである(註1)。

 思想や哲学の分野の用語はそもそも抽象的であったり、複雑であったりするため用語も難解になるのはしかたがないのだろうか。いや、難解に感じてしまう理由はその思想なり哲学なりが生まれた背景知識(個人の生い立ちから文化の違いに至るまで)や歴史的経緯(翻訳の経緯も含め)を知らないこと(知らないままに訳されたこと)が大きい。西洋起源の物事の文化的背景を知らないということは、われわれが劣っているということではない。西洋文化の背景などあちらのお家事情に過ぎない。だが意味不明な用語を長い間放置することはやはり害悪が大きい。

 思想や哲学など「高尚な学問」ばかりでなく、「数学」や「英文法」などの「受験科目」にも納得のいかない不可解な用語がたくさん使われている(たとえば「方程式」、「幾何学」、「無理数」、そして、今回とりあげる「不定詞」や「仮定法」などの「法」など(註2))。ところが、学生時代に(特に受験生。あるいは学者であっても)こうしたことを疑問に感じそれを探究してみようとする者はほとんどいないはずだ。「用語などという一番の入口のところで悩んで立ち止まってしまっては遅れをとって敗者になってしまう」という恐怖感が無意識のうちにすり込まれてしまっているのだろう。

 明治以来、学問は他者との差別化(立身出世)の手段としかみなされてこなかった。ともかく学生は意味不明の用語であってもそのまま受け入れて進むしか道がない。まして、昔の偉い先生が考えた用語であってみれば、自分の頭で考え直してみることもない。大急ぎで自分たちの知らない学問を輸入した時代はいざしらず、その後100年以上もたった今日の人間が思考停止のままというのではやはり知的怠慢が過ぎると言える。

 納得いかない用語に出会ったら、まずチェックすべきは翻訳(翻訳の経緯も含めて)である。しかし、翻訳語の字面(じづら)はあっているのに真に意味するところがわからない場合はどうすればよいだろう。字面の先に隠れて見えない背景情報を洗い出すことだ。このとき歴史をたどりその起源にさかのぼってみること(水源探索)が有益であると私は考えている。もう一つは、異質なものや似て非なるものと比べてみることだ(わき見)。一つのものだけを見ていて煮詰まってしまったとき思わぬ突破口を見いだせることがある。

 これから、英文法の「不定詞」という言葉をとりあげる。はじめに名前の由来を探り、その氏素性(うじすじょう)を見きわめる。そこから、それが扱う意味領域を照らしだし、意味不明無味乾燥だった不定詞という言葉に息を吹き込んでみたい。それによって学生諸氏に目先の点取り技術ではない、知る楽しみ・学ぶ楽しみに目覚めてほしいというのが本小論の遠大な(身の程知らずの)意図である。

2.「不定」といわれても日本人にはピンと来ないわけ

 私の場合、「不定」という言葉を聞くと、「定冠詞」「不定冠詞(Indefinite Article)」という別の文法用語との関係が気になる。また「住所不定」、あるいは同じ音の「不逞」などというなんとなく悪い連想に飛んでしまいがちだった。このような語感の問題は100%個人的なものにすぎないが、本来の意味を知らないと、字面からの印象によってあらぬ方向にイメージが向かってしまうという例くらいにはなるだろう。

 御存知のとおり不定詞はinfinitive(インフィニティブ)の訳語である。infinite(インフィニット)には「無限」という意味がある。これはfinite(限定)に否定の接辞in-がついたもので、「限定のついていない」という意味だ。試みにランダムハウス英語辞典を引いてみると次のように出ている。

infinitive
n.¡文法¢不定詞[形]:動詞形の一つで,主語と数・人称の一致を行わないもの;

 この説明では、なぜこれを不定詞[不定形]というのかまだ十分に伝わらない(註3)。冒頭に掲げたロングマンの辞書にあるように、「不定」の「不定」なるゆえんは「限定を受けていない」動詞の形ということである。何による限定かといえば「人称・数」の限定である。人称・数とは英語では「私、あなた、その他」の3通り、数は単数・複数(Iに対してweなど)の2通りあるので全部で6通りある。「

 「不定詞」とはこの人称・数の指定を受けていない動詞の形ということになる。逆に言えば「定」とは「人称・数」を「限定すること」で、誰の動作かを具体的に(英語の場合は今行っている、あるいは過去に行われた具体的事実として)示す形のことである。

 人称の限定などということになぜこだわるのだろうか。それを浮き上がらせるために動詞の活用というものから見てみよう。動詞がいろいろ形を変えて文の中で使われることを活用という。英語で動詞の活用といえば(do-did-done)のように三基本形というものを覚えさせられる。一方、英語では6通りの人称に対応して存在するはずの人称変化(これも動詞の活用形である)は、be動詞は別として三人称単数現在に-sがつく形だけになってしまった。過去形は各人称で全部同じ(人称変化していない)。未来形という動詞の活用形はない。このほか、動詞が形を変えたものに動名詞-ingや分詞(現在分詞、過去分詞)がある。これらも人称変化はしないが、こちらは動詞が名詞あるいは形容詞となったためと考え、ひとまずここでは除外する。

 ところがイタリア語、フランス語、スペイン語、ドイツ語、ロシア語などでは動詞の人称変化はちゃんと6通りある(註4)。これらの言葉を学び始めた人は、英語は楽でいいなと感じた人もいるはずだ。英語では、イタリア語、フランス語、スペイン語、ドイツ語、ロシア語などと比べると人称変化はあっさりしていている。不定詞を考える上で欠かせない人称変化であるから、これが徹底しているラテン語(イタリア語、フランス語、スペイン語などのご先祖様で、英語にも大きな影響を与えている)をモデルに動詞の活用の中での人称変化を見ておこう(註5)。

 動詞は「語幹(=語根+接辞)+語尾」に分けられる。接辞とは、時制や法Mood(後述)を示す部分である。この語幹に、誰が行ったのかを示す人称変化(ラテン語では、主語が動作を行ったのか、主語に動作が行われたのかを示す「態」(英語でいう能動態と受動態)の違いで人称語尾が変わるため全部で人称6×態2=12通りに変化する:能動一人称単数、能動二人称、・・・、受動一人称単数・・・受動三人称複数となる)の語尾が乗っかる。こうして文中で使われる形ができる。不定詞(不定形)は人称を示す語尾の代わりに、人称を示さない(不定の)語尾を付けたものと考えてもよい。

 Moodとは「ある命題に対して、話者が抱く心的態度」(児馬修『ファンダメンタル英語史』ひつじ書房、1996、p.58)であり、もはや日本語にもなっている「ムード」のことだ。「〜な態度での記述」「〜な気分での記述」「〜の色合いの付いた記述」くらいの意味だった。直説法とは、「話者の思い入れを込めずに動作をありのままに素直に記述した」形というくらいの意味だ。Moodはラテン語のmodus(方法・様式・あり方・態度)から来ている。このため「法」と訳されたのだろう。ここで時制(時称とアスペクト)と法について図にまとめてみた。ここには英語で不定詞が担う領域についても先取りして示した。

ヨーロッパ語動詞の活用

 

 ラテン語に比べるとその直接の子孫であるイタリア語、スペイン語、フランス語ですら形が崩れているといわれる。まして英語となると時制などもずいぶん錯綜してしまったようだ。完了進行形などという名称がわかりにくいのは英語の特殊事情といえる(註6)。ほかにも上述のように、動詞の人称変化が三人称単数現在形に-sがつく形だけになってしまったことも英語の特殊事情である。be動詞はI am,you are, he/she is, we are,you are,they areと一番大きく変化するがそれにしても、areは4つの人称区分に共通である。このように英語では不定詞と現在形(三人称単数を除く)との区別がつかないので不定詞であることを示す目印がないとわかりにくくなった。後で述べるように不定詞にtoがついたのはこうした事情と深くかかわっていると思われる。

 日本語文法では動詞の活用は「未然形・連用形・終止形・連体形・仮定形・命令形」という切り口で整理されている。しかし日本語の動詞は人称変化しない。これこそ「不定詞」の「不定」なる言葉の意味がつかみにくかった理由だった。

 動詞が人称によって全部違う形をとると、動詞の形を見ただけで誰の動作であるかがわかる。このためイタリア語やスペイン語(あるいはその祖語のラテン語)では主語を省いても意味が通じる(フランス語ではつづりこそ人称変化するものの、発音上区別が付かないものが出てくるため、主語は省略できないようだ(註7)。ドイツ語やロシア語でも人称変化は徹底していないため主語は省けないと思われる(註4))。このイタリア語やスペイン語のような例をみると、誰がその動作をしたのかは主語でなくても表し得ることがわかる。

 「日本語に主語はいらない」と言われることがある。これは、すこし誇張された表現だが、場面設定、状況、文脈などにより誰の動作かわかり切っている(と日本語の話者が考える)場合は、誰がやったかという情報をことさらつけ加える意味は薄くなる。また、たとえば「朝起きた」という文だけがあった場合、「特に断りのない場合は、通常、文の書き手が動作の主体である」という暗黙の前提(あんもくのぜんてい:表だってはっきりと示されてなく、意識もされていないが多くの人が共有している前提)がある。

 場面設定もなく、暗黙の了解もなければ、この1文だけでは日本語だって誰が朝起きたのかを伝えられない。私ではなく、山田さんが朝起きたということを伝えたい場合には、少ない努力で混乱なく伝えるためには主語を付けた方がいいに決まっている。ちなみに日本語の動詞は人称変化しないと言ったが、たとえば「する」ではなく「なさる」というような敬語表現は人称変化のような役割を果たしていると言える。これによって誰の動作か区別できることがあるからだ(註8)。

3.英語で不定詞が担う領域

 以上で、「不定詞」の「定」の意味はつかめた。ここからは、この「不定詞」の氏素性(うじすじょう)が不定詞の受け持つ役割(意味領域)にどう関係してくるか見てみよう。英文法の教科書・参考書をひもとくと多くの場合、不定詞には、名詞用法、形容詞用法、副詞用法があるという説明があり、副詞用法では「目的・結果・原因・理由・条件・仮定」などの意味上の区別が説明される。受験生はあれこれ考えずただ覚えればいいことになっている。だが、「不定詞は誰の行為かを限定していない形」という本質を頭にいれておけば各用法も素朴なイメージで捉えることができる。

 ある動作を、いつ誰が行ったか(行っているか)を指定すればそれは事実の報告になりうる。動詞の人称変化と時制変化はこの情報を動詞の形の中に組み込んだものだ。もちろん動詞の活用でしかこれが示せないという意味ではない。不定詞はこの「誰が」の情報を持っていないので、誰かによって為されたという具体性・事実性が弱まる。このため、不定詞は抽象性を帯びてくる。そして動作そのものについて言及する場合に用いられる。動作そのものに言及するということは、それが名詞になるということだ(名詞用法)。名詞であるからには、主格(「〜することが問題だ」などの場合)や目的格(対格)(「〜することを望んでいる」などの場合)になれる。

 ここで「格」というものを説明しておこう。日本語では格助詞(「が」「の」「に」「を」「から」など)を名詞の後に付けることで示す。英語では主に動詞に対する語順で示している。一方ラテン語やロシア語では、名詞の形(語尾)を変えることで示している(格変化)。これは名詞の中に格助詞が溶け込んでしまったようなものと考えればよい。

 固有名詞ですらBrutus「ブルータスは」がBruteブルーテ「ブルータスよ」のように変形してしまう。Brutまではどの格でも共通なのでBrutus「Brutブルートは」Brute「Brutブルートよ」と考えてもよさそうだが、名詞によって変化パターンが違うところに格変化語尾と格助詞の違いがある)。日本語でもたとえば「これ+は」が「こりゃ」とくっついた場合などはこれと近い(註9)。

 英語ではこの格変化も簡略化され代名詞(I,my,me)以外の名詞では所有格を表す「’s」しかなくなった。このため、語順が「格」を表すようになった。語順が大事な情報になったのである。また日本語の助詞のように前置詞の役割も大きくなる。

 ラテン語では不定詞が名詞として使われる場合は主格と目的格の二つだけで、その他の場合(たとえば属格:英語でおよそ所有格に相当する)は動名詞が担当したという。(逸見喜一郎『ラテン語の話』、大修館書店、2000年、p. 216)。英語では、不定詞は方向、目的などを示す前置詞toの目的語にもなったという。to不定詞のtoが前置詞であった証拠として、前置詞toは目的語として与格(「〜に」の形)をとるので不定詞も与格の形に語尾変化していたことが挙げられている。やがて、名詞の格変化が消えていったため、to+動詞の原形という今のto不定詞の形になっていったという(児馬修『ファンダメンタル英語史』ひつじ書房、1996、pp.102-103)。

 不定詞が(〜するために)という「目的」の意味を示すという由来をさらにさかのぼってみよう。サンスクリットの文法書にはこうある。「不定詞(tumum;Infinitive)は基本的には、行為・動作の目的を表し、‘〜するため、〜すべく、〜すること’などの意味で、能力(〜できる、能力がある、〜にふさわしい)、意欲(欲する、〜しようとする)などをあらわす語と供に用いられる。」(菅沼晃『新・サンスクリットの基礎[下]』平河出版社、1997年、p.491)。この例では、いずれもまだ行われていない動作(誰かによって為された動作ではない)を指す場合に使われている。事実の報告ではない領域と相性がいいという不定詞の性格がよくあらわれていないだろうか。

 不定詞の形容詞用法というのは、日本語でいう動詞の連体形のような使われ方だ。動詞を形容詞化したものは「分詞」と言われる。英語では現在分詞、過去分詞があり、名前のとおり現在分詞は現在の動作、過去分詞は過去の動作(受動態の意味にもなる)を示す。英語では未来分詞がないので、不定詞はここでも「〜するべき○○」などのように「まだ実施されていない動作」の領域を主に分担すると推測できる。

 意志、願望、可能性などの思いをこめて動作を記述する場合がある。ラテン語ではこれらを表す場合には接続法現在(上述のように「法」とは話し手の態度を反映させた表現)という形が使われた(註10)。英語では、動作にこうした意味を込める場合には助動詞を使ったりする。不定詞もこの領域と相性がよいはずだ。「be+to 不定詞」の形は、文法書では「(1)予定(2)義務・命令(3)運命(4)可能(5)if-節で目的」のように説明されている(江川泰一郎『英文法解説 改訂三版』金子書房、1991年、pp.320-321)。これらの例はいずれも事実として確定した動作を示すものではない。もっとも、もともとはこんなにはっきりと意味区分があったわけではないだろう。文脈のなかで自ずとそういう意味にとれるので整理のために分類したと言ったほうが近いといえる。

 動名詞と不定詞の使い分けという問題についても考えてみよう。不定詞は動作を抽象的に扱う場合の形だと既に述べた。また、不定詞は誰かの動作を確定した事実として記述したものではないため、まだ実現していない動作を示す場合と相性がよさそうであることも述べた。一方動名詞-ingはどうであろうか? 現在分詞と動名詞はもともと違う形であったが後に音が同じになってしまったため意味も似通ってきたのだという(児馬修『ファンダメンタル英語史』ひつじ書房、1996、p.109)。

 そして、現在分詞とは、「主動詞と同時に行っている動作を表」すものである(逸見喜一郎『ラテン語の話』、大修館書店、2000年、p. 204)。こうした事情から不定詞と動名詞の使い分けが生じてきた。to不定詞と-ingの意味の違いとしてよく取りあげられる以下の有名な文例(註11)は確かに説明にはちょうどよい。

I stopped to smoke.  たばこを吸おうとして止まった。(たばこを吸うことは、まだ私の行為として確定していない)

I stopped smoking.  たばこを吸う動作を止めた。(その時までたばこを吸っていた)

 あるいは、動詞の目的語として、不定詞だけをとるもの(「不定詞だけを目的語とする動詞(1)要求・希望(2)意図・決心(3)賛成・援助・約束(4)期待(5)準備(6)敢行(7)その他」(江川泰一郎『英文法解説 改訂三版』金子書房、1991、pp.363-364))の説明もこの不定詞の素性で考えると理解できる。

4.まとめ

 不定詞の不定とは、誰の行為であるかを定めていない(示していない)という意味であった。そのため、不定詞は動作について抽象的に語る場合に使われ、動作そのものを指す名詞として使われる。名詞としては主格や目的格として使われ、前置詞toの目的語にもなった。不定詞は誰の動作なのかを示さない形であるため事実として確定していない動作を指す場合に使われる。サンスクリットでも目的、可能、意欲などをあらわす語とともに使われていたという。

 英語では不定詞の形と現在形(三人称単数を除く)の区別がなくなったこともあってか、「目的」を示すような場合に前置詞toが使われた。これが一般化してto不定詞という形になった。一方動詞を名詞化したものに動名詞がある。動名詞は現在分詞とはもともと違う形であったが後に同じ形になった。このため動名詞では現在分詞の「主動詞との同時性」という性格が強くなった。こうした生い立ちの差から、動名詞と不定詞の分担の違いができてきた。

 以上が私の理解した英語の不定詞の素性・本質である。

(以上)

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(註1)漢字の「形而上」とは「形の上にあるもの=物質を超えたことがら」といった意味であろう。「形而上学」について(山口義久『アリストテレス入門』筑摩書房、2001年、p.102)から引用する。

(引用開始)

形而上学と訳されるのは、メタピュシカ(metaphysica)という名称である。
本来この名前は「タ・メタ・タ・ピュシカ」(ta meta ta physica)であったと伝えられる。

「タ」は冠詞であり「メタ」は「あとに」という意味なので、この語句の意味は「自然に関するもの(ピュシカ)の後のもの」であり、編集されたときに自然学的著作の次におかれたことから、そのように呼ばれるようになったと考えられる。

 ところが、後世になって、その名称が「メタピュシカ」と短縮されたあとで、その本来の意味は忘れられ、「自然学を超えたもの」という意味で受けとられるようになった。

(引用おわり)

「弁証法」dialecticは「対話法」、「問答法」とでも訳したほうがよかったと思われる。小林標『ラテン語の世界』(中央公論社、2006年、p.53)には英語のdialect(方言)の説明として次の記述がある。

(引用開始)

英語のdialect「方言」はギリシャ語起源で元来は「会話・討論」の意味だが・・・

(引用おわり)

「功利主義」utilitarianismについては、根尾知史「ユダヤの商法を弁護したベンサムの思想」(副島髟F編著『金儲けの精神をユダヤ思想に学ぶ』祥伝社、2005年、pp.173-174)を参照。

「合理主義」rationalism のratioは副島髟Fによって日本人にわかるように説明された。rationalismは「割にあうならやる」という態度。

「〜主義」-ismは、「〜ならではの」考え方・行動のし方(Marxism「マルクスならではの考え方」)、あるいは「めっちゃ〜にこだわる態度」くらいのくだけた言い方のほうがむしろわかるのではないか。(ただし、個々の-ismがどういう主張をしているかの理解は別問題である)

(註2)「方程式」については宇沢弘文『好きになる数学入門1 方程式を解く−代数』(岩波書店、1998年、p.1)を引用する。

(引用開始)

『九章算術』という1世紀に頃書かれた中国の古い数学書がありますが、方程式はその書物の「方程」という章の題名からとったものです。方程という言葉は重さを比べるという意味です。方程師という中国の古い職業がありました。方程師は天秤を肩にかついだり、車に積んで歩いて、ものの重さをはかることを専門としていました。

(引用おわり)

「幾何」については、薮内清『中国の数学』(岩波書店、1974年、p.147)を引用する。

(引用開始)

「マテオ・リッチ(Matteo Ricci)は1601年から北京に滞在、布教することを許されたが、その周囲には、解明的な漢人学者が集まった。彼はまず当時の高官、徐光啓の助けを得て『幾何原本』六巻を訳出しこれは万暦三十五年(1607)に刊行された。幾何(ジーホ)はgeometryの音訳であって、幾何学の語源はこの書に由来する。」

(引用終わり)

したがって「幾何」という漢字の意味を探っても無駄である。日本語式に「キカ」と発音すれば音としても遠ざかる。

「無理数」rational numberは「整数の比(ratio)で表せない数」という本質をつかむことが大事で「無理」に思想的神秘的な意味を探る必要はない。

「不定詞」についての私の探究は、副島髟F『英文法の謎を解く』(筑摩書房、1995年、p.84)から始まっている。
(引用開始)

この「不定詞」というのは、どうも日本語訳が致命的にまずい。・・・「なぜ、不定詞かって?そんなことは用法(機能・役割)的に分かればいいんだ」ということになり、それで日本人はみんな「分かった」振りをする。

(引用おわり)

(註3)英文法書、あるいは不定詞について言及している英語関連の本がどのくらいあるのか見当もつかないが、私の狭い探索範囲内で、不定詞の「不定」とは何かに答えているものとして次があった。
岸田隆之・早坂信・奥村直史『歴史から読み解く英語の謎』「Q.17変化せず「一定」なのに、なぜ「不定詞」というのか」(教育出版、2002年、pp.31-32)
大津由起雄『英文法の疑問』「なんで「不定詞」って言うの?」(日本放送出版協会、2004年、pp.50-56)

また、ラテン語についての本であるが、次のものがあった。小林標『ラテン語の世界』(中央公論社、2006年、p.75)

(引用開始)

また、英語ではto seeという形を伝統文法で不定法と呼ぶこともあったが、今では不定詞と言う。それは動詞の一変化形ではあっても法の一種ではないからである。ただ、ほとんどの人にその理由が理解不可能であろう「不定」という言葉は残った。これもラテン語での用法のせいなのである。ギリシャ語、ラテン語の文法では「〜すること」の意味の形は法の一種であるという考え方があった。そして、他の法とは異なって、その意味は決定できぬ不定のものであると説明されてmodus infinitivusという名称がつき、それが英語にそのまま使われたのであった。

(引用おわり)

私はこの最後の説明は腑に落ちないのだが。

(註4)たとえば、イタリア語のlavorare(働く)の直説法現在形は次のように人称変化する。
(私はio)              lavoro 
(きみは、あなたはtu)        lavori
(彼はlui、彼女はlei、あなた様はLei) lavora
(私たちはnoi)            lavoriamo
(きみたちは、あなたたちはvoi)    lavorate
(彼らは、彼女らは、loro)       lavorano

ドイツ語では、動詞の現在形で一人称複数と三人称複数と不定詞が同じ形。
ロシア語では、動詞の過去形は人称によってではなく、主語となる名詞の性・数によって変化する。

(註5)ラテン語の動詞の活用についての説明は、大西英文『はじめてのラテン語』(講談社、1997年)を参考にした。

(註6)田川健三『書物としての新約聖書』(勁草書房、1997、p.568)

(引用開始)

ヨーロッパ語の時制は、周知のように、狭義の「時」(現在、過去、未来)と、相(アスペクト)と呼ばれるものがある。後者は、基本的には、完了と未完了(日本語ではしばしば「不完了」とも書かれる)の二つである。動作がその時点において完了しているか、継続中であるかの違いである。つまりヨーロッパ語の時制はこの両者を組み合わせて、六通り存在することになる。(現在未完了、現在完了、・・・・・)。ところが英語ではこのうち未完了の意味が非常に曖昧になった。本来、完了でない動詞の形は未完了なので、英語のいわゆる現在形、過去形はヨーロッパ語の本来からすればそれぞれ現在ないし過去の未完了、すなわち動作の継続、進行を意味するはずである。従って、理屈から言えば、これとは別にわざわざ進行形なるものを発明する必要はなかったのだ(現に、他のヨーロッパ語では進行形なるものは存在しない)。ところが、英語では動詞の未完了の意味が曖昧になったために、動作の継続中であることを強調するために別に進行形が必要になったのである。この点に限らず、英語という言語の動詞のテンスが我々にしばしば曖昧で、わかりにくいのは、ヨーロッパ語の本来整ったテンスから奇妙にずれたり重複したりするからである。

(引用おわり)

(註7)小林標『ラテン語の世界』(中央公論社、2006年、p.58)

(引用開始)

amareの子孫であるフランス語の動詞aimer「愛する」の現在変化を学んだ人にはすぐわかることだが、人称と数に応じて綴りの形を変えていても、発音に関しては一人称二人称複数を除いては同じである。・・・だから、フランス語では英語と同様に主語を、つまり別の単語を、明示しなければ意味が表せなくなっている。

(引用おわり)

(註8)藤井貞和 『古文の読みかた』(岩波書店、1984年、p.16)

(引用開始)

どの動詞が女主人=中宮定子の動作をあらわし、どの動詞が侍女たちの動作をあらわしているのでしょうか。これを知るのには敬語というものが手がかりになります。おおよそのところが敬語というものによって、判断できるのです。

 それは、古文の地の文に、敬語というものがちりばめられていて、現実の身分関係を反映しているからで、それで身分の一番高い中宮定子などはすぐにわかるのです。

(引用おわり)

(註9)金田一春彦『日本語セミナー・五 日本語のあゆみ』(筑摩書房、1983年、p.144)には次のような例が載っている。

(引用開始)

薩隅方言では、名詞に助詞が融合して「柿を」がカキュ、「口を」がクチュのようになっている。

(引用おわり)

(註10)大西英文『はじめてのラテン語』(講談社、1997年、pp.244-249)

(註11)酒井邦秀はstop to smoke とstop smokingの区別など文法として教えなくても、これらがある程度の長さの文章の中に置かれたならば文脈から自ずと意味の区別がつくはずだと唱えている。酒井邦秀『どうして英語が使えない?』(筑摩書房、1996年、pp.219-221)

(終わり)