「0107」 翻訳 習近平(しゅうきんぺい)次期中国国家主席の側近になるであろう人々について 古村治彦(ふるむらはるひこ)筆 2010年10月26日

 ウェブサイト「副島隆彦の論文教室」管理人の古村治彦です。今回は、習近平中国国家副主席が国家主席になる時に、中央政界に抜擢されるであろう人々について分析した文章をご紹介します。

 著者のアリス・ミラー氏はスタンフォード大学フーヴァー研究所の研究員です。中国研究家のベテランで、CIAの中国専門コンサルタントをしていた時期もあります。また、アジア各国に居住していた時期も長く、日本に住んでいたこともあります。

 今回ご紹介する論文には、習近平がこれまでのキャリアの中で関係を持ち、現在、高位の職に就いている人々が多数紹介されています。この中から、2012年以降、習の側近として活躍する人たちが出てくるでしょう。ただ、ポスト習になるような人物たちは、第五、第六世代の若手たちの中から出てくるでしょう。第五、第六世代についてご紹介した論文はこちらでご覧いただけます。

 それでは拙訳をお読みください。

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習近平の側近候補分析:どこでどのようにして知り合ったか?(Who Does Xi Jinping Know and How Does He Know Them?)

アリス・ミラー(Alice Miller)筆
チャイナ・リーダーシップ・モニター(China Leadership Monitor)
2010年春号 No.32

 1990年代の江沢民(Jiang Zemin)、2000年代中盤の胡錦濤(Hu Jintao)、2人が中国の最高権力者となり権力基盤を固める際、彼らがそれまでのキャリアの中で関係を持った人々を中央の重職に登用している。江沢民が登用したリーダーたちは、「上海ギャング(Shanghai Gang)」と呼ばれた。胡錦濤が北京に連れてきた人々は、「団派(Youth League clique)」と呼ばれている。本論文では、習近平(Xi Jinping)が25年間の地方勤務で共に働いた人々を分析する。習近平が胡錦濤の次に中国の最高指導者になるとすると、習近平について来ると思われるこれらの人々は習が権力基盤を固める上で重要な役割を果たすだろう。

    

江沢民      胡錦濤       ケ小平

●権力基盤を固める

 ケ小平亡き後、江沢民と胡錦濤が中国の最高指導者となった。2人が最高指導者となる際には、彼らと長い間関係のあった人々が重職に抜擢されてきた。そうすることで、権力の基盤は固められると考えられてきた。彼らは最高指導者の支持者となる人々だった。最高実力者に登用された人々は、全く異なるグループに属していた。その名前が示す通り、江沢民の側近グループである「上海ギャング」は、上海と周辺の省の出身者で固められていた。江沢民は1985年から1989年にかけて上海市長と上海市共産党委員会書記を務めた。上海ギャングには次のような人々が含まれていた。

 曽慶紅(Zeng Qinghong、そけいこう)は江沢民の側近のトップであった。曽慶紅は1989年に江沢民と共に北京にやって来た。そして、1993年から1999年にかけて、中国共産党中央弁公庁主任を務めた。この役職は、各方面に手回しを必要とする難しいものだった。呉邦国(Wu Bangguo、ごほうこく)は、1990年代初頭、上海市の党幹部となり、1994年には党中央書記処書記に任命された。2003年からは全国人民代表者会議常務委員長を務めている。黄菊(Huang Ju、おうぎく)は、上海市長や上海市党幹部を歴任した。さらに1994年から2002年までは中国共産党中央政治局員となった。姜春云(Jiang Chunyun、かんしゅんい)は、山東省の幹部だったが、1994年に党中央書記処書記に抜擢された。賈慶林(Jia Qinglin、かけいりん)は、福建省の党書記や省長を歴任し、1996年に北京市長となった。1997年には党中央政治局員に任命された。朱鎔基(Zhu Rongji、しゅようき)は1987年から1991年まで上海市長を務めた。同時期、江沢民は、上海市党書記をしていた。朱鎔基は1991年に国務院副総理に任命され、1998年には首相となった。しかし、朱鎔基を江沢民の側近グループに入れない方が良いだろう。

      

曽慶紅      呉邦国     黄菊      姜春云

  

賈慶林       朱鎔基

 その名前が示す通り、胡錦濤の「団派」は、地域ではなく、組織を基盤としている。胡錦濤は、中国共産主義青年団(Communist Youth League)と中国青年連合会(All-China Youth Federation)のトップを1982年から1985年まで務めた。胡錦濤の側近は次の人々である。

 李克強(Li Keqiang、りこっきょう)は、温家宝(Wen Jiabao)首相の跡をついで首相になると見られている。李克強は、胡錦濤が共青団と全国青年連合会のトップを務めていた時期、彼の下で働いていた。李源潮(Li Yuanchao、りげんちょう)は現在、中国共産党組織局長を務めている。彼は1980年代中ごろに胡錦濤の下、共青団の幹部をしていた。汪洋(Wang Yang、おうよう)は現在、広東省の党書記をしている。広東省は中国で最も豊かな省である。汪洋は、1980年代半ば、胡錦濤の出身地である安徽省の共青団に勤務していた。劉延東(Liu Yandong、りゅうえんとう)は現在、中国共産党中央統一戦線部長である。劉延東は、1980年代、胡錦濤の下で、共青団中央書記処書記、全国青年連合会主席を務めていた。令計劃(Ling Jihua、りょうけいかく)は、中央弁公処主任であり、胡錦濤の個人秘書である。胡錦濤の跡を受けて中国共産主義青年団第一書記となった。

    

李克強     李源潮    汪洋   劉延東    令計劃

 2012年から2015年にかけて習近平が胡錦濤から中国の最高指導者の地位を譲られるとすると、習は、自分と何らかの関係を持つ人々を高い地位につけることで権力基盤を固めようとするだろう。習は少なくとも3つのグループから人材を登用すると考えられる。一つ目のグループは、「太子党(princelings)」と呼ばれるグループである。太子党とは、中華人民共和国建国につながる革命のために戦い、建国以降、40年間中国の政治を牛耳った政治家たちの子どもたちのことだ。「太子党」は、巷間言われているような一枚岩の派閥ではない。ジョージ・W・ブッシュやアル・ゴアも二世政治家であるが、彼らがこの20年間、アメリカ政治でやってきたことと、太子党がやってきたことには違いはないと私は考える。毛沢東時代、太子党の親たちは重職に就いていた。彼ら太子党の人々は、子どもの時からお互いを知っていただろうし、文革時代、大変な苦難を同じように経験したことだろう。習近平にとって、子ども時代からのつながりを持つ人々は、中国の最高指導者になるにあたり、重要な存在になることだろう。

 第二のグループは、現在、習近平が就いている地位を通じて関係を築いた人々である。2007年の第17回党大会で、習近平は中国共産党中央書記処第一書記と中国共産党中央党学校長に任命された。2007年以降、党中央第一書記に以前のような注目が集まっている。党中央第一書記は党務全般を取り仕切っている。以前、第一書記は、中央書記処で政策調整の役割を果たしていた。現在、政策調整の機能は中国共産党政治局常務委員会に移っている。習近平は、第一書記という立場上、無数の会議や委員会に出席し、党務全般に対処している。また党内の学習キャンペーンのスローガンを策定している。2008年2月から2010年2月までの学習キャンペーンのスローガンは、「科学的発展コンセプトを学ぼう」というものだった。

 党中央党学校長として、習近平は中国全土からやって来る現在、そして将来の党の幹部となる人材の育成に必要な授業内容を精査し、決定している。第一書記、党学校長の2つの役職を通じて、習近平は多くの党幹部と会い、能力を判定する機会を得ている。党幹部は「第五・第六世代」の人々である。彼らの中から習近平に抜擢され、関係を構築し、共産党内部にネットワークを構築する人々が出てくる。共産党が支配している政治システムにおいて、党務を取り仕切ることは権力を掌握するための、昔ながらの方法である。旧ソ連のスターリンとフルシチョフがそうだった。ケ小平は1954年に中国共産党中央書記処総書記になり、1956年から1966年にかけて国務院副総理となった。胡錦濤は、2002年から中国共産党中央書記処総書記を務めているが、党内権力の掌握するにあたり、1999年から2002年にかけて党中央書記処第一書記と中央党学校長の経験は大いに役立った。

 第三に、習近平は、25年に及ぶ地方勤務で知り合った人々を登用することで権力基盤を固めるだろう。彼の地方勤務の経歴について詳細を以下のようにに紹介する。

1983−1985年:河北省
・正定県共産党委員会書記

1985−2002年:福建省
・1985−1988年:アモイ市第一副市長、アモイ市共産党委員会常任委員
・1988−1990年:寧徳県共産党委員会書記、福建省軍区寧徳地方共産党委員会書記
・1990−1996年:福州市共産党委員会書記、福州市人民代表会議常務委員長、福建省軍区共産党委員会第一書記
・1995−2002年:福建省党委員会副書記
・1999−2002年:福建省長
・2001−2002年:福建省共産党常任委員

2002−2007年:浙江省
・2002年:浙江省長代理、浙江省共産党委員会副書記
・2002−2007年:浙江省共産党委員会書記

2007年:上海
2007年3月−10月:上海市共産党委員会書記

 これから取り上げる人々は、習近平が地方の指導的な地位を歴任していたときに共に働いていた人々である。彼らは地方政府や中央政府で徐々に出世してきている。確かに、過去の一時期、共に働いたからと言って、習近平とこれから登用されるであろう人々が政治的な信念や目的を共有していると考えることはできない。しかし、これから取り上げる人々の中には習と信念や目的を共有している人々もいるだろう。彼らは2012年に習近平が党中央書記処総書記になるとき、注目しておかねばならない人たちである。

●習の側近になるであろう人たち

 習近平が地方勤務をしていた時代に知り合った人々はいくつかのグループに分けることができる。彼らは現在、政治的に、また政策決定において重要な役割を果たしている。その中で最も重要な人々は地方幹部、金融・銀行の幹部、大企業の幹部たちだ。

■地方幹部

 地方の党幹部や省長、副省長を務めているリーダーたちは、中央で指導的な職に就く有力な候補となる。地方から中央へと出世の階段を駆け上がる人間たちがいる。一方で、改革開放が始まって、中央で将来を期待される人間たちが、中央で出世する前に、数年間を地方で過ごし、経験を積むということも行われている。過去に習近平と共に働き、現在地方の幹部となっている人々は、習が権力基盤を固めるために必要なネットワークを構成していると言って良いだろう。

◆天津市

黄興国(Huang Xingguo、こうこうこく):天津市長(2008年−)、第17期中国共産党中央委員会委員候補。黄興国は習近平が浙江省の副省長や党委員会副書記を務めていた時期に彼の下で働いていた。黄は1954年生まれ。張高麗(Zhang Gaoli、ちょうこうれい)の跡を受けて天津市共産党委員会書記となるだろう。天津市共産党委員会書記は通常、中国共産党中央政治局員も兼ねる重職だ。張高麗は現在64歳で、近々、天津市共産党委員会書記から転出するか、政治の世界から引退することになるだろう。

何立峰(He Lifeng、かりつほう):天津市共産党委員会副書記(2009年−)。1984年アモイ大学卒業。卒業後、アモイ市政府の財政部副部長と部長を歴任した。同時期、習近平は、アモイ市共産党委員会副書記と副市長を務めていた。習が福建省の共産党委員会や省政府に異動した後、何立峰は福建省内の大都市、広州、福州、アモイの党書記を歴任した。1955年生まれ。黄興国と同じく、何立峰も天津市か中央で出世することだろう。

  

黄興国        何立峰

◆重慶市

凌月明(Lin Yueming、りょうげつめい):重慶市副市長。1996年から1999年にかけて福建省政府弁公処副部長を務めた。1962年生まれ。2012年には50歳となる。凌は「第六世代」のスターとなるだろう。

周慕氷(Zhou Mubing、しゅうぼひょう):重慶市副市長。周慕氷は、習近平が福建省長をしていた時、中国商工銀行福建支店長を務めていた。1957年生まれ。2012年には55歳となる。

  

凌月明        周慕氷

◆浙江省

 呂祖善(Lu Zushan、ろそぜん)は2003年から浙江省長を務めている。呂祖善は、習近平が浙江省共産党委員会書記を5年間務めた際、第一副書記を務めた人物である。呂は現在64歳であり、あと1、2年で政治の世界から引退する可能性が高い。それは、地方の党書記や省長の定年は65歳という規定があるからだ。しかし、現在、呂の下で副省長をしている5人は、習近平とも働いた経験を持っていて、年齢も若く、2012年に中央のポジションに抜擢される可能性が高い。

  

呂祖善(右)      陳加元          茅臨生

陳加元(Chen Jiayan、ちんかげん):浙江省副省長(2003年−)。1953年生まれ。2012年には59歳となる。

茅臨生(Mao Linsheng、かりんせい):杭州市副市長(1999−2004年)。浙江省副省長(2003年−)。1954年生まれ。2012年には58歳になる。

    

金徳水      盛昌黎      王永明

金徳水(Jin Deshui、きんとくすい):浙江省副省長(2004年−)。1951年生まれ。2012年には61歳になる。

盛昌黎(Sheng Changli、せいしょうれい):浙江省副省長(2002年−)。1949年生まれ。2012年には63歳になる。

王永明(Wang Yongming、おうえいめい):浙江省副省長(1999年−)。1950年生まれ。2012年には62歳生まれ。

◆福建省

 黄小晶(Huang Xiaojing、こうしょうしょう)は第17期中国共産党中央委員会委員候補である。習近平が福建省長をしていた1990年代半ば、副省長を務め、習の跡を受けて2004年から福建省長を務めている。1946年生まれであるため、この1、2年で引退する可能性がある。黄小晶の下の副省長2人はまだ若く、中央に昇進する可能性が高い。

  

黄小晶         張昌平   袁●(=栄にくさかんむり)祥(右)

張昌平(Zhang Changping、ちょうしょうへい):1954年生まれ。2012年には58歳になる。福建省副省長(2006年−)。2000年にはアモイ市副市長と共産党委員会副書記、2002年にはアモイ市市長と共産党委員会書記を歴任した。

袁●(=栄にくさかんむり)祥(Yuan Rongxiang、えいえいしょう):第17期中国共産党中央委員会委員候補。1990年代半ば、習近平が福建省長を務めていた時、福建省政府財政部に勤務していた。その後、福州市政府に移った。2005年以降、福州市共産党委員会書記と福建省共産党常務委員を務めている。

■金融・銀行業

 福建省で出世の階段を上っている時、習近平は中国の大銀行の3名と知り合った可能性が高い。

李礼輝(Li Lihui、りれいき):中国銀行頭取兼取締役会副議長(2004年−)。1997年、アモイ大学経済学部卒業。1988年から1994年まで中国工商銀行福建支店副支店長、1994年から2002年まで中国工商銀行副頭取を歴任。1952年生まれ。2012年には60歳になる。

劉明康(Liu Mingkang、りゅうめいこう):第17期中国共産党中央委員会委員候補。現在、中国人民銀行取締役会議長兼中国銀行業監督管理委員会委員長。1988年から1993年まで中国人民銀行福建支店長、1993年から1994年まで福建省副省長を歴任。1946年生まれ。劉明康はここ1、2年で引退する可能性がある。

王永利(Wang Yongli、おうえいり):中国銀行香港支店副支店長。習近平が福建省長を務めていた最後の2年間、王は中国銀行福建支店長を務めた。1964年生まれ。2012年には58歳になる。

  

李礼輝       劉明康         王永利

■ビジネス界

 習近平は、福建省と浙江省で指導的な地位に就いていたとき、ビジネス界の人間たちと働いた経験を持つ。彼らは、現在、中国の大企業のトップとなっている。

李振群(Li Zhenqun、りしんぐん):2000年以降、香港にある中国移動通信(チャイナ・モバイル)の取締役、副社長、COO(最高執行責任者)を歴任。中国移動通信は世界最大の電話会社で、2010年の契約者数はおよそ3億6千万人。李振群は、1984年から1988年までアモイ市郵便・電話部部長を務めていた。同時期、習近平はアモイ市の共産党委員会書記をしていた。

郭則理(Guo Zeli、かくそくり):2006年まで厦華電子(Xiahua Electronics)の統括責任者、2006年以降は厦華電子の取締役である。厦華電子はHDテレビ生産を主とし、技術革新で定評がある。習近平が1985年にアモイ市共産党委員会書記になる前、郭則理はアモイ市経済特区の中国人民解放軍の代表を務めていた。1985年から1994年まで、郭則理は厦門(アモイ)特貿公司統括副責任者を務め、1995年に厦華電子に移った。

    

李振群      郭則理    黄永達    南存輝   王天普

黄永達(Huang Yongda、こうえいたつ):華能国際電力(Huaneng Power International, Inc.)の社長。2002年から2004年まで統括責任者を務める。2002年から204年にかけて浙江省の電力会社であるZhejiang Zhe Da Integration and Control Limited Companyの統括責任者を務めた。同時期、習近平は浙江省長を務めていた。黄永達の下にいる副社長である王暁松(Wang Xiaosong)もまた2002年から2004年にかけて浙江省の電力会社に勤務していた。

南存輝(Nan Cunhui、なんぞんき):正泰電気(CHINT Group)社長(2003年−)。正泰電気は中国最大規模の民間企業である。正泰電気は、動力機械、動力ハードウェア、電子部品、電気製品を製造している。正泰電気の本社は温州市にある。温州市は資本主義の激しい競争の中心地となっている。正泰電気傘下の太陽光発電のアストロエナジー・ソーラーはソーラーパネル生産をけん引している。南存輝は浙江省工商業連合会の副会長を務めている。現在の会長である鈕守章(Niu Shouzhang、じゅうしゅしょう)は1925年生まれで、もうすぐ引退するだろう。南は数年以内に浙江省工商業連合会の会長となるだろう。南存輝は1963年生まれで、2012年には49歳になる。

王天普(Wang Tianpu、おうてんふ):中国石油化工集団公司社長(2004年−)。2003年、浙江大学で博士号を取得。1962年生まれ。2012年には50歳となる。

■国務院の各省庁

 国務院の各省庁に勤務している、下記の3名は習近平が福建省と浙江省に勤務していた時代に知り合った可能性が高い。

鄭立中(Zheng Lizhong、ていりっちゅう):第17期中国共産党中央委員会委員候補。2005年以降、国務院台湾事務弁公室副室長を務める。鄭立中は福建省でキャリアを積んできたので、台湾問題に関わっている。福建省は台湾と深いつながりがある。1979年から2005年にかけて、鄭立中は、福建省で財政と鉱山に関する仕事に従事してきた。この時期、習近平はアモイ市共産党委員会書記、福建省共産党委員会書記、福建省長を歴任した。1951年生まれ。2012年には61歳になる。

姜成康(Jiang Chengkang、かんせいこう):工業情報化省共産党委員会幹部。1994年から2002年にかけて工業情報化省国家煙草専売局の副局長、2002年から2008年にかけて局長を務める。同時に(2002−2008年)中国国家煙草公司の社長を務めた。2008年に国務院の機構改革が行われ、国家煙草専売局は工業情報化省に吸収された。煙草は福建省が一大生産地となっている。姜成康は福建省の煙草専売局支局から中央へと出世していった。1950年生まれ。2012年には62歳となる。

鐘山(Zhong Shan、しょうざん):国務院商務部副部長。浙江省副省長(2003−2008年)。2008年に国務院商務部副部長に任命される。1955年生まれ。2012年には57歳になる。

    

鄭立中      姜成康     鐘山

■学術

 習近平は福建省と浙江省の教育部門のトップたちと交流を持っているものと考えられる。

潘云鶴(Pan Yunhe、ばんいかく):中国科学アカデミー副委員長、中国科学アカデミー共産党委員会副書記(2006年−)。1995年から2006年にかけて杭州市にある浙江大学学長を務めた。1946年生まれ。

楊衛(Yang Wei、ようえい):浙江大学学長(2006年−)。浙江大学に移る前は、2年間、清華大学航空宇宙学部長を務めた。清華大学は習近平の母校である。楊衛は1954年生まれで、2012年では58歳である。

呉敏生(Wu Minsheng、ごびんせい):福州大学学長(2002年−)。清華大学機械工学部で教鞭を執った。習近平は、1974年に、機械工学部と関係の深い清華大学化学工学部を卒業した。

    

潘云鶴     楊衛       呉敏生

●政治局コネクション

 2012年、習近平は党中央の総書記となる。その際、個人的につながりがある人々を登用して権力基盤を固めようとするだろう。習は2007年以来、中央で地歩を固めているが、地方で培った経験が役立っている。1990年代、習近平は、福建省副省長と福建省共産党委員会副書記を務めていた。彼のすぐ上にいたのは、賈慶林で、彼は1993年から1996年にかけて福建省党書記を務めていた。賈慶林は、1996年、陳希同事件で揺れる北京市の共産党委員会書記に抜擢され、1997年には、第15期政治局委員にも任命された。習近平は賈慶林の手足となって働いた。1999年に発覚した遠華密輸事件では賈慶林と賈慶林の妻・林幼芳(Lin Youfang、りんようほう)に類が及ばないように動き、事件の拡大を防いだ。

 1990年代末、習近平は福建省共産党委員会にいたが、その時、福建省長をしていたのが賀国強(He Guoqiang、がこっきょう)である(1996−1999年)。1999年、習は賀の跡を受けて福建省長となった。賀国強は2002年から2007年まで中国共産党中央組織局長を務めた。賀国強のひきによって習近平は浙江省共産党委員会書記に抜擢され、2007年には中央政界に進出することができたと言える。共産党中央政治局員の王兆国(Wang Zhaoguo、おうちょうこく)は、1987年から1990年にかけて福建省長を務めていた。その時期、習近平は寧徳県共産党委員会書記をしていた。張徳江は2003年に広東省共産党委員会書記に任命された。それまでは浙江省共産党委員会書記をしており、彼の後任は習近平だった。

  

賀国強        王兆国

 2003年から2007年まで、習近平は浙江省共産党委員会書記を務めていた。その時期、習は政治局員たちと知り合う機会を持った。政治局員たちはたびたび浙江省に視察に訪れていた。李長春(Li Changchun、りちょうしゅん):2003年5月。賀国強:2003年5月。黄菊:2004年1月。呉官正:2005年7月。呉儀(Wu Yi、ごぎ):2005年11月。賈慶林:2005年11月。曽慶紅:2006年4月。曽培炎(Zeng Peiyan、そばいえん):2006年5月。

    

李長春       呉儀         曽培炎

 2001年には、福建省共産党委員会書記だった宋徳福(Song Defu、そうとくふく)と習近平が共同で、元全人代常務委員長・党中央政治局常務委員の喬石(Qiao Shi)が春節の時期に福建省に滞在際していたのを接待した。2005年、全人代の年次大会において、浙江省の代表団を率い、胡錦濤とグループ討論を行った。2006年の年次大会では、温家宝とグループ討論を行った。2003年4月、習近平は、浙江省の代表団を率いて、ウルムチに向かい、「経済・社会発展共同フォーラム」に参加した。このフォーラムは、浙江省と新疆ウイグル自治区の共同開催であった。新疆ウイグル自治区の代表は共産党委員会書記で中央政治局員だった王楽泉(Wang Lequan、おうらくせん)だった。

    

宋徳福     王楽泉      喬石

 大学同窓生のネットワークについて見ていく。習近平は多くの指導者を輩出した清華大学を卒業している。清華大学の卒業生には、胡錦濤国家主席、呉邦国全人代常務委員長、呉官正(Wu Guanzheng、ごかんせい)中国共産党中央規律検査委員会書記がいる。全員、現在の中国共産党中央政治局常務委員である。中国共産党中央政治局委員で言うと、元国務院副総理兼中国共産党中央統一戦線部長だった劉延東は習近平の学部(化学工業学部)の先輩である。劉は、1970年に、習は1974年に卒業している。

(終わり)