「121」 論文 ユダヤ人の歴史第一章(2) 鴨川光筆 2010年12月19日

●ユダヤ人とは何者か

 「ユダヤ人と聞いて何を思い浮かべる?」という質問を不特定多数の人にしてみた。

 するとまず返ってきた答えがアンネ・フランク(Annelies Marie Frank )だった。ヒトラーによって収容所に送られた可哀想な人たち、というイメージである。

  

アンネ・フランク

 それは正しい。そのイメージは間違いないと私も思う。ユダヤ人は長い歴史の中でなぜかいじめられ続けて来た。今でもいつ彼らに迫害の危機が襲ってくるかわからない。

 可哀想なだけではない。ユダヤ人のもう一つ大切なイメージは貧しいということである。ジャコモ・プッチーニ(Giacomo Puccini)のオペラ「ラ・ボエーム(La Boheme)」には、貧しいボヘミアンの生活が描かれている。

「ラ・ボエーム」の一場面

 「ラ・ボエーム」には詩人のロドルフォとお針子のミミを中心に、貧しくても陽気に助け合って人生を楽しむ善良な若者の姿が描かれている。ボヘミアンもユダヤ人である。

 ほとんどのユダヤ人はミミやロドルフォのように善良で、お金に困っている普通の人々なのだろう。その点は私たち普通の日本人とは何も変わらない。

●ユダヤ人は本当にカネに汚いか

 世界的に最も広く言われ続けているユダヤ人に対する風説は、カネに汚いということである。

 このことが現在の私たち日本人にはあまり知られていない。ユダヤ人はいつもお金のことばかり考えている。すべてをカネで解決しようと考えている。これがユダヤ人の一般的なイメージである。

 では本当にユダヤ人とはカネに汚いのであろうか。

 これも実は真実だとはいえない。本当はカネにまつわる汚いことは、皆ユダヤ人が請け負わされてきた、というのが正しい。汚いことは歴史的に全部ユダヤ人がやらされてきたというのが真実なのである。

 ではなぜ貧しいはずのユダヤ人がお金のことにタッチ出来たのであろうか。

 中世のユダヤ人は、ヨーロッパ各国の様々な隔離政策によって、貧しい地域に住まわされていたはずである。ユダヤ人が宮廷の出入り商人にはなれた、ということまでは理解出来るとしても、なぜ金融業が営めたのか。仮にも王の財産や国庫を管理出来る立場になど、到底成り得るはずがない。にもかかわらず、なぜユダヤ人たちは各国の財務を担当できるまでに出世できたのであろうか。

 それらはユダヤ人が、中世から着実にお金の学問を積み上げてきた成果なのである。ユダヤ人は、今から二〇〇〇年前までちゃんとした国家を持っていた。ローマやエジプト、シリアに承認された、きちんとした独立国家を持っていたのである。それが崩壊した後、約一〇〇〇年の時間をかけて、国家に代わるカネという思想を着実に作り上げてきたのである。

●なぜ私はユダヤ人のことを書かなければならないか

 ここで私は、なぜユダヤ人のことを書かなければならないか、という意思表明をしておこうと思う。

 ユダヤの歴史を紐解けば、日本の近代史の本質が明らかになるからである。私のユダヤ史を読んでいただければ、現在老若男女を問わず塗炭の苦しみを味わわされている日本人が、将来に向かって進むべき道もはっきりするだろう。

 私の描くユダヤ史は、私が先達として仰ぐ副島隆彦氏の理論、属国理論をベースにしている。属国理論とは国際関係学の根本的理論である。

 国際関係学とは、大きく一〇の領域に分けられた近代学問の中に位置づけられ、確固とした地位を持ち続けている学問である。インターナショナル・リレイションズ(International Relations)というのがもとの言葉である。

 文字通り国家間の関係を解析する学問だが、その根幹となるのは覇権国と属国との関係である。国家間の関係の本質は力関係に他ならない。つまり小さな国は大国に占領されるなり、お金を払って守ってもらって、属国にならなければ生き延びられない、という現実からスタートした考えなのである。

 覇権国と属国以外のもうひとつの国家生存の方法としては、覇権国間のバランスの谷間に立って、上手に国家を運営して行く方法がある。これはバランス・オブ・パワーと言って、一九世紀に打ち立てられた思想である。

 この国際関係学の教科書的お手本とも言えるのが、古代ユダヤ王国なのである。

 古代ユダヤ王国の歴史は、三つの時代に分けられる。最初はプトレマイオス朝エジプトの属国となっていたオニアス王朝(Land of Onias)。中期がローマ、シリア、エジプトのバランス・オブ・パワーの間で生き延びたハスモン王朝(Hasmonean)。この王朝は、小国が完全独立を達成した歴史上稀有な例で、パレスチナの地域覇権国にまで成長する。そして最後がローマの属州として、かろうじて生き延びていたヘロデ王朝(Herodian Dynasty)である。

 ユダヤ王国は紀元前後をはさんだ約三〇〇年間、激しい覇権国交代の中生き延びた王国だった。この古代ユダヤ王国がまさしく、一五〇年前英国の肝いりで誕生した日本近代史の雛形なのである。

 ユダヤ王国はエジプトの属国として歴史に登場する。紀元前二〇三年、セレウコス朝シリア(Seleucid Empire)が新たな地中海覇権国として、エジプトの征服に乗り出す。

 その遠征途中、エルサレムの神殿に蓄積されたユダヤの国家資産が、シリアの脅威にさらされる。時の国家元首オニアス三世は、国家の財宝をシリアに明け渡すのを拒否した。そのためシリアの王朝とその協力者たちによって、オニアス三世は殺害されてしまう。

 オニアス王朝の後を受けて登場したハスモン王朝は、シリアの無法を自力で排除し、独立を勝ち取る。さらに当時新興国として勢いのあったローマの力を借りて、パレスチナの地域覇権国として認められ、未曾有の繁栄を謳歌する。

 しかしユダヤ王国の繁栄は長くは続かず、当時共和制から帝国へと変貌を遂げたローマの属州にされ、紀元一三〇年、歴史から永久に消え去ってしまう。この王国は伝承や文学ではなく、きちんとした歴史上の古代国家として実在した、ユダヤ人の手による唯一の王国なのである。

 この国家盛衰のあり方が、明治から戦後の日本のあり方と奇妙に一致する。

 日本も一九世紀に、当時の世界覇権国であったイギリスによって近代化がなされ、日露戦争を戦わされて国際的にデビューする。昭和以降は、東アジアの地域覇権国として名を馳せることになる。

 日本はその後、新興国アメリカに叩き潰されて戦後を迎え、経済的盛衰を経て現在に至っている。中国の元主席江沢民が、「日本はあと二〇年もすればなくなる」と発言したことがある。しかし今の日本を見ていると、江沢民の話を軽く受け止めることはできない。

江沢民

 六〇年間アメリカの属国として仕えさせられたあげく、本当にアメリカとともにズブズブと沈んでいってしまうのではないか、という気がしてならない。

 その実例が古代ユダヤにある。弱小国や中規模の覇権国というのは、世界史上様々なところに存在したであろう。しかし、現在の私たちが生きる世の中につながる、歴史の二〇〇〇年紀が始まって以来、初めて小国の生き延びる道を提示したのが、ユダヤ王国だったのである。

 ユダヤ王国こそは国際関係学のお手本であり、日本のような中型の潜在的地域覇権国のプロトタイプである。

ユダヤ史とは何か

 世界的に認定された、ユダヤ史の基本的知識を提示しておこうと思う。エンサイクロペイディア・ブリタニカのジューダイズム(Judaism)の章を見ると、ユダヤ史は次のように四つに区分されている。

 一・聖書に描かれた文学上のユダヤ人(ビブリカル・ジューダイズム、Biblical Judaism)
二・ギリシャ風文化のユダヤ人(ヘレニスティック・ジューダイズム、Hellenistic Judaism)
三・ラビによる集団指導制度下のユダヤ人(ラビニカル・ジューダイズム、Rabbinical Judaism)
四・近代のユダヤ人(モダーン・ジューダイズム、Modern Judaism)

あらゆるユダヤ史はこの四つの区分で記述されている。この四つを認識せずには、ユダヤを語ることは出来ない。

 私たちが書店で普通に入手できるユダヤの歴史は、すべて一と四を中心に描かれている。一はダビデやモーゼが登場する聖書の文学である。聖書は歴史ではない。アレクサンドリアやバビロニアで生まれた人類創生から始まる様々な物語が、四つの古代資料に基づいて叙述されたものだ。

 四の「近代のユダヤ人」とは、ロスチャイルド家のことである。ロスチャイルドに関しては、いまさら私が書く隙間がないほど数多くの書籍が出版されている。広瀬隆氏の『赤い盾』をはじめとして、詳細な近代ユダヤ史がすでに存在している。

 それ以外には、ホロコーストやシオニズムに関するユダヤ現代史も無数にある。

 私は様々なユダヤ史の書籍や資料を調べていくうちに、これらの時代のユダヤ人をいくら詳細に描いても、ユダヤの本当のことは分からないことに気がついた。聖書を読んでも近代のユダヤ史を調べても、ユダヤの最も肝心なことは分からない。ユダヤ人が金融、律法、国家を強く追い求めた理由を明らかに出来ないのだ。

 では本当のユダヤ人像を明らかにしてくれるものは何であろうか。それは二と三の「ギリシャ風文化のユダヤ人」と「ラビによる集団指導制度下のユダヤ人」である。

 この二つこそユダヤ人の金融思想史であり、大国と属国の国際関係の雛形を提示してくれる絶好の素材なのである。この二つの時期のユダヤ史について詳しく端的に書かれている本は、まったく存在しない。

 しかしユダヤ人の本当の歴史はここにある。そしてここには明治時代以降の日本と、戦後の日本史の実像を解き明かす鍵が隠されている。私がこれから書こうとする真のユダヤ史は、現代の日本の有り様をはっきりと映し出す鏡となるであろう。

 ではユダヤ人がいつ歴史に登場するのか、ユダヤ人とはそもそも何者だったのか、ということから述べていこうと思う。

●フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』

 紀元前後のパレスチナ・ユダヤ地域の基本的歴史資料は、フラウィウス・ヨセフス(Yoseph Ben Mattithyahu)の『ユダヤ古代誌』(Antiques of the Jews)である。

フラウィウス・ヨセフス

 フラウィウス・ヨセフスとはユダヤの名門の出身である。紀元六六年、ローマ総督の度重なる宗教的侮辱と挑発に激怒したユダヤ人は、ローマに対して反乱を起こす。これを第一次ユダヤ戦争という。このときにユダヤ側の司令官として反乱を指揮したのが、フラウィウス・ヨセフスである。

 ヨセフスはローマの将軍ウェスパシアヌス(Vespasian)に投降した後、ローマの保護を受け、『ユダヤ古代誌』と『ユダヤ戦記』(War of the Jews)という歴史書を書き上げる。この二つの歴史書こそ、紀元前後のユダヤ、パレスチナ地域を正確に叙述している第一級の資料である。

ウェスパシアヌス

 ウェスパシアヌスは後にローマの皇帝になったほどの人物である。フラウィウス・ヨセフスはウェスパシアヌスの手厚い保護を受け、ローマに残された貴重な資料をふんだんに提供されて、正確なユダヤ史を書き上げた。このため『ユダヤ史』には、元老院の決議文書や条約締結に関する公文書が数多く引用されている。

 ユダヤ関連の本の大半は、このヨセフスの歴史書を多数引用している。ヨセフスなくしてユダヤ人のことは語れない。それほどに歴史的に重要な人物なのである。

 先に述べたオニアス三世は、紀元前二世紀に実在した王である。ヨセフスによれば紀元前二世紀のユダヤ国家は「大祭司が国家の長」であり「その統治形態は少数貴族制だった」という。

 この大祭司であり国家の長であったのが、まさしくオニアス三世のことなのである。これを裏付けるように、ブリタニカにも次の記述がある。

「古代エルサレムのユダヤ人は、最も富裕であると共に、政治権力を持っていた大祭司階級に支配されていた。その中でもオニアス家は最も金持ちの家系であった」というものである。(Encyclopedia Britannica: Judaism三八八ページ)

 オニアスは大祭司であり国家の長であった、そうして民衆を聖俗両面で支配していた、ということがこの記述で明らかにされている。オニアス家の民衆支配は、プトレマイオス朝の王権によって裏付けられ、エジプトの属国としてその姿を歴史に表したのである。

●オニアス家―金貸しの大祭司家系

 このオニアス家とはいったい何者だったのであろうか。

 再度言うが、オニアス家はユダヤ王国の正統な大祭司の家系である。何を持ってオニアス家が正統だと言えるのか。

 それは彼らの律法がそう規定しているからである。歴史に始めて姿を現したユダヤ人は、すでに律法という彼らの生活を律する法を持っていた。律法とは旧約聖書のことだと考えればよい。

 聖書の中には先にも述べたレヴィ記という章がある。レヴィ記とは、祭司の職務を細かく規定した章である。その中にオニアス家の系譜がずらりと書かれている。それによるとオニアス家は聖書のユダヤ王国三代目の王ソロモンの時代にまでさかのぼる。

 ソロモンは莫大な財を成した大王で、巨大な神殿を建てたことで有名である。ソロモンは神殿を管理する大祭司として、ピネハス家のザドク(ツァドク)という人物を指名する。これ以降ザドクの子孫が、ユダヤの大祭司として認められてきたのである。大祭司家系をツァドク家と記述している本も多い。

 このレヴィ記の系図を引き継いで、フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』には、オニアス三世にまで続く系統が書かれている。

 だがこれらの大祭司は聖書の中に登場するユダヤ人でしかなく、伝承に基づいた文学作品の一部であるから、歴史的に特定することは不可能である。

 ではオニアス家が実在した、という歴史的証明の輪郭がはっきり浮かび上がってくるのは、いつからなのであろうか。

●なぜ私はアレクサンダーから歴史を書こうとするのか

 ギリシャ文化を継承したマケドニア王国(Kingdom of Macedonia)のアレクサンダー大王(Alexander the Great)が、東方へ遠征を始めたのは、紀元前三三四年である。アレクサンダーが紀元前三二三年、バビロンで没することによってその大事業が終了する。

アレクサンダー大王

 私は、このアレクサンダーから今に続く世界史が始まったと考えている。少なくともこのユダヤ・パレスチナの出来事はこの頃ようやく聖書から離れて、新たな世界のパラダイムに乗ってスタートする。

 では、それ以前の歴史とは何の歴史であったのか。それはアケメネス朝ペルシャの歴史であり、新バビロニア、エジプト、アッシリアの歴史である。

 私はこのユダヤ王国は無かった、という立場をとっている。少なくとも歴史的にユダヤ王国を確定することは困難を極める。

 今から三、四〇〇〇年前のこの時代に登場するユダヤ人は、あくまで聖書のユダヤ人である。それはアブラハムでありモーゼであり、ダビデ、ソロモン、そして預言者たちである。聖書の中に登場するユダヤ人を、私はその歴史的存在としては否定する。聖書のユダヤ史とは文学的解釈でしかないからである。

 アブラハムはミタンニ王国の人物であり、孫のヤコブはエジプトに突如現れた「海の民」であるとか、ヒクソスであるといった解釈は成り立つであろう。しかしそれはあくまでアナロジーであり、比較であり類推である。聖書というのは、エジプトやバビロンに残されたさまざまな伝承を集めた文学なのである。文学的解釈は学問的に分析・統合することとは違う。

●聖書のユダヤ人を研究したければ祭司文書―プリーストリー・コーデックスを読むべきだ

 ただし旧約聖書のレヴィ記には重要な学問的価値がある。旧約聖書はユダヤ人の律法、つまり法典である。この律法の書は、ユダヤ人が新バビロニアに捕囚された紀元前六〇五年以降に編纂が始められ、紀元七〇年頃、アキバ・ベン・ヨーゼフによって完成されたと言われている。アキバはラビの中のラビといわれた人物である。

 では聖書とは何を元にして編纂が開始されたのであろうか。

 聖書は文献的には四つの資料からできている。ヤーウィスト資料、エロイスト資料、申命記(ドイトロノミスト)資料、そして祭司資料である。それぞれ頭文字をとってJ資料、E資料、D資料、P資料という。

 レヴィ記はこのP資料を基に作られている。P資料とはプリーストリー・コーデックス、祭司写本という。これはどうやらアケメネス朝ペルシャの文書専門の担当役人、ソーフェリウムが使っていた公文書であったらしい。ソーフェリウムとはスクライブズ、書字生という。

 この祭司文書をエズラが持っていたのである。エズラはアケメネス朝の役人であったらしい。エズラは紀元前五世紀、新バビロニアを征服したアケメネス朝ペルシャの許しを得て、捕囚ユダヤ人のエルサレムへの帰還事業を推進した人物である。このエズラが新しく神殿を建て、エルサレムで民衆に向かって、律法の書を読み聞かせたことからユダヤ思想が始まる。

 ただしこのエズラもまた聖書の中の人物なので、歴史的存在として特定するのは困難である。

 いずれにしろ聖書を解析するのであるならばこのP資料、プリーストリー・コーデックスを土台にしなくてはならない。

 だから私は、アブラハムからバビロンにいたるユダヤ人の文学のことは書かない。私の仕事はユダヤ人を歴史的に確定することだけである。

 ユダヤのことを歴史のことだけに限定すると、これまで様々なユダヤ本で軽視されてきた大祭司という家系が自ずと浮かび上がってくる。この大祭司こそ、ユダヤ王国の「国体」というべき存在なのである。その大祭司の最初がジャドゥアという大祭司で、アレクサンダーがパレスチナ遠征のときに出会ったとされる人物である。

●オニアス家がなぜ歴史的に特定できるのか

 このジャドゥアから新たにオニアス家の家系図が始まる。ジャドゥアからオニアス三世に至るまでの間には六代の大祭司がいる。しかしここに至ってもまだ伝承の部分が多くて、ユダヤ人の存在はどうしてもはっきりしない。

 オニアス三世のお父さんは、紀元前二二〇年に即位したシモン二世と言う人物である。シモン二世は、聖書の続編「ベン・シラの書」(Sirach)の中で賛美されている人物である。

 「ベン・シラの書」の著者は紀元前一八〇年頃これを著し、名をエルサレム学舎の長イエスという。紀元前一八〇年ということは、シモン二世の子オニアス三世の治世(紀元前一九八年〜紀元前一七四年)と一致する。イエスの子は、プトレマイオス六世エウエルゲデスの治世にアレクサンドリアに来てこの書を翻訳している。

 「ベン・シラ」が含まれている聖書続編とは外典とも言う。聖書外典はカトリックでは正典と認められているのだが、プロテスタントとユダヤ教は認めていない。実は「ベン・シラ」は外典の中でも最大のもので、これこそが外典の中心というべきものなのである。「ベン・シラ」は著者と翻訳者、著作時期と翻訳の年代が明確で、古代ユダヤ教文書の中でも例外的な文書である。

 「ベン・シラ」に登場するシモン二世は、義人シモン(Simon the Just)とも呼ばれている。英語でサイモン・ザ・ジャストと言われる義人シモンは、半分伝説上の人物であり、人々からの尊敬を集めていた人物だったと言われている。著者イエスも、シモン二世に最大の賛辞を送って書を終えている。だがシモン二世が本当に存在した人物であるのかというと、それもはっきりしない。

 ジューウィッシュ・エンサイクロペディアによると、義人シモンだと言われている人物は四人いる。一人はジャドゥアであり、もう一人はジャドゥアの孫シモン一世である。もう一人は、後に登場するサイモン・マカバイオスという人物である。

 だがシモン二世が義人シモンである確率は高い。なぜならシモン二世の治世は、ユダヤ史上最初の繁栄期だったからである。繁栄期の王である大祭司シモン二世が民からの賞賛を受けていた、というのは想像に難くない。そしてシモン二世の歴史的実在は、その父オニアス二世によって裏付けられる。ユダヤ最初の繁栄は、シモン二世の父オニアス二世から始まるのだ。

 オニアス二世は、紀元前二四五年大祭司に即位する。なぜオニアス二世によってシモン二世が実在を裏付けられるのか。実はこのオニアス二世によって、この当時のユダヤ、エジプト、パレスチナのあらましが、歴史的に初めて浮かび上がってくるのである。

(つづく)