「123」 論文 ヨーロッパ文明は争闘と戦乱の「無法と実力の文明」である(3) 鳥生守(とりうまもる)筆 2010年12月31日

 ヨーロッパ文明は争闘と戦乱の「無法と実力の文明」である。異教徒とはもちろんのこと、同じ宗教同士、同じ国民同士、同じヨーロッパ人同士であっても、平和に共存しながらお互いに共生していくことができないのである。本当に、地中海・ヨーロッパの歴史をたどると、血で血を洗う殺し合いと争闘の連続であり、只々あきれ果ててしまう。

 副島隆彦先生は、ウェブサイト「副島隆彦の学問道場」内の重たい掲示板(2010.12.1)において「メディチ家とミケランジェロの話をして、メディチ家が、ローマカトリック教会(ローマ法王)の「支配の思想」と闘って、ルネサンスなるものを始めたのだ」と言っています。副島先生の書き込みは、こちらからどうぞ。

 私は気がつきませんでしたが、そうすると、ルネサンス(Renaissance)はメディチ家(The Medici Family)が推進したことになるのでしょうか。だとすると、それを見て周りのヨーロッパの有力者たちが競争心から対抗してメディチ家の真似をし、文学・芸術作品の量産現象となります。確かに、文学・芸術作品などの量産現象というのは、ただなんとなく生ずるものではなく、誰か(例えばメディチ家)が強力に推進していなければ起こるはずがありません。これはおっしゃる通りメディチ家(コジモとその孫のロレンツォ)が行なった真っ当な文明化の推進が存在したのでしょう。今後機会があればその観点からの検討も行ないたいと思います。

 ところがローマ教皇(法王、Pope)は、そのヨーロッパ文明化推進主体のメディチ家を潰そうとした。ということは、ローマカトリック教会は有力者が育つと、その有力者と協力し合って文明を推進・構築していけばいいのに、どうもそういうことをしない。そして逆に、育った有力者をこれといった落ち度もないのにその既得権を取り上げて次々と潰しにかかる。

 つまりローマカトリック教会は次々と子分取り替えていくという構図が浮かび上がってきます。それではいつまでたっても本当の文明と秩序は形成されず、割拠・戦乱の世界のままとなってしまいます。そういうことをローマカトリック教会(法王)が行なってきたようである。これはローマカトリック教会の「分断して統治せよ(Divide and Rule)」なのでしょう。とすると、ヨーロッパ世界の割拠・戦乱の主たる原因と責任は、ローマカトリック教会にあることになります。

 まだまだ十分解明したわけではありませんが、そのことは十分に考えられます。これはヨーロッパ(ローマカトリック教会)の宿痾(しゅくあ、持病)だと思います。その構図の証拠は、少しは得られています。ここのところの解明は機械があれば後日、あらためて行ないたいと思います。

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●レコンキスタ(国土回復運動)とはどういうことだったのか

 日本ではあまり知られていず、あまり重要視されていないかもしれないが、ヨーロッパには「レコンキスタ(国土回復運動、Reconquista)」という運動があった。これはイベリア半島がイスラーム教徒に征服され始めた七一一年から、イベリア半島からイスラーム教国家を追い出した一四九二年までの、実に八〇〇年間の運動とされている。

レコンキスタ

●ルネサンス最盛期にレコンキスタの完成した

 今述べたように、レコンキスタ(国土回復運動)が完了したのは、一四九二年一月二日とされている。この日、最後のイスラーム教国家ナスル朝(Nasrid dynasty)グレナダ王国(Kingdom of Granada)のアルハンブラ宮殿(the Alhambra)が明け渡され、イサベラ女王(Isabella I)とフェルナンド王(Ferdinand the Catholic)の「王旗」が塔に掲揚され、イスラーム教徒の国王がアフリカに亡命したのであった。ここに、イベリア半島から異教徒を追い出す長い国土回復運動(戦い、再征服)が完成したというのである。

  

イザベラ女王     フェルナンド王    コロンブス

 その明け渡しの光景を、イタリアのジェノヴァ生まれでポルトガルのリスボンから七年前(一四八五年)にやってきたコロンブス(Columbus、一四五一〜一五〇六)は外国人として、そして同じキリスト教徒として遠くから眺めたようである。コロンブスはそのことを、第一回航海日誌の序文に書き記している。スペインではこの数カ月後に、ユダヤ教徒追放令(異端審問令)が出された(三月三十日)。その後、コロンブスはようやく七年間も請願し続けてきたインディアス航路開拓(アメリカ発見)事業の許可と援助が決まった(四月十七日)。そして、八月三日の夜明け前に出航したのである。これは、あのルネサンス時代の推進・立役者でありフィレンツェの実質上の王であったロレンツォ・デ・メディチ(一四四九〜九二)が死んだ年であった。

 従って、レコンキスタの完成は、ルネサンスの最盛期(一四五〇年代〜一五三〇年代まで)での出来事である。当然、それはルネサンス時代に大きな影響をもたらしたはずである。ローマ教皇(法王)も喜んだはずである。ところが、このようなことを述べる歴史家はあまりいないようである。当時西ヨーロッパはカトリック教一色であり、その意味で西ヨーロッパはひとつである。レコンキスタの完了は、芸術・文芸の量産と大航海時代の開幕と同時代であった。だからそれらは相互関連していたはずであり、レコンキスタはその時代の空気を大きく形成したはずである。

 だからルネサンスを考える場合も、大航海を考える場合にも、レコンキスタの影響を考えておかなければならないと思う。

●レコンキスタの理念は間違っている

 レコンキスタの理念はただ失地の再征服、国土回復の運動であるという、子供にでも判るきわめて単純なものだ。

 現在スペイン、ポルトガルがあるイベリア半島は、八世紀初頭にイスラーム教徒に占領され、以後イスラーム教国家が建設された。イベリア半島がイスラーム教徒の地になったのである。そこでキリスト教徒側の西ヨーロッパは、その直後から、失地回復のための戦いを開始したというのである。

 ところが一口に、イスラーム教徒に征服され、西ヨーロッパはそれを追い払って回復したと言っても、史実は、西ヨーロッパ(イベリア半島)の西ゴート王国(四一五〜七一一)はたった一〜二年で征服されたのに、回復するのには八〇〇年ほどもかかったのである。それが現実である。だからレコンキスタには、八〇〇年前の失地を回復するという意味が含まれていることになる。

 言葉としては、すなわち形式論理的には、八〇〇年前の失地回復ということは可能である。歴史学者などからそういわれてもそれほど疑問を感じない。しかし、現実としてよく考えてみた場合に、八〇〇年前の失地回復とは果たして意味があるのだろうか、という問題がある。

 「八〇〇年も前の出来事」というとどういうことか、考えてみよう。今から八〇〇年前は、西暦一二一〇年である。日本でいえば、鎌倉時代初期である。「順徳天皇、後鳥羽上皇、源実朝将軍」の時代である。年号は、承元四年のようだ。我々はそのころの出来事によって、自分の行動や生き方を決定するだろうか。過去の歴史は現在の生き方の参考の一部にはなるが、過去と同じ行動をすることはほとんどありえない。ましてや最新鋭の武器をそろえての戦争である。八〇〇年前はおろか、何百年前あるいは何十年前起こった理由によって戦争を行なうことは普通絶対にありえないだろう。さらにイベリア半島の場合、イスラーム教徒によってすぐれた文化と繁栄がもたらされていたのである。それをいつまで経ってもしつこく攻めたてて壊そうとするのは、本来であればあってはならないことである。

 ヨーロッパ史ではこのように、八〇〇年も前の領有権を主張する権利が、その八〇〇年後にもあるかのようなヨーロッパの言い分(歴史観)を認めている格好である。これはおかしい、間違った考えである。こんな言い分が通るならば、アメリカの地は(五〇〇年前までは)インディオたちの地だったから、白人はアメリカの地から立ち退くべきだということになってしまう。インディオたちの文明は偉大であり不当に破壊されたけれども、それでもそんなことを言うべきではない。そんなことを言っていたら再度の大混乱になってしまう。そういうことはあってはならないし言うべきではないのだ。

 ところが、西ヨーロッパのイベリア半島の地での(レコンキスタの)場合は、何百年前の復讐ということが実際に行なわれ、いまだにその論理(理屈)が通っている。今でもヨーロッパの歴史家の多くはそういう主張をしているようだ。ほとんど疑問に思われていない。これは異常ではないだろうか。ヨーロッパの歴史家の多くがそのように言っているのだから、彼らの言い分を容認するのであろうか。しかし、そのような間違った命題(テーゼ)の安易な容認はすべきではない。

 ヨーロッパの歴史家の書く(実際彼らは、常に書き直しをしているようだ。そして多くの場合、悪い方向に書き直している気がする)歴史の多くは、彼ら自身の意図に沿って書かれているので、論点が狭く設定される場合が多い。その場合に狭い観点からの間違った命題(テーゼ)が導き出されるのだ。それは一応理屈としては子供でも分かるほど単純明快な命題が多いから、スッと世界中の真面目な読者たちを取り込むのではなかろうか。それは計算ずくであろう。

 以上述べたように、レコンキスタは異常な理念・考え方であり、間違いである。だから、この間違った理念が放置され続けることは人間の歴史によい結果をもたらすはずはない。必ずや悪い結果を生むに違いないのである。ローマカトリック教会の西ヨーロッパはこれによって、ますます間違った文明に向かって進むことになったのである。

●イベリア半島のレコンキスタの評価

 西洋史学者の会田雄次は、レコンキスタについての評価を明確に書いている。ここまで明確に評価している歴史家は珍しいのではないだろうか。次にそれをみてみよう。

(引用はじめ:『世界の歴史7・近代への序曲』中央公論社、一九六一年)

 国土回復運動(レコンキスタ)は、国王や領主、農民までも含めた運動 であったが、その過程を通じ指導的な力を持ったのは、王とイダルゴと呼ばれた騎士たちであった。この騎士たちは下級の領主であり、同時に牧羊経営者でもあった。それがアラビア人との長いあいだの接触によって商業的利潤追求の精神と、長い戦闘によって好戦的で何事も闘争と掠奪で解決するやり方とを身につけた。

(中略)

 アラビア人の支配は、ヨーロッパ的な民族精神からみてはどうだかしれないが、公平にみると、それはイベリアに他の同時代のヨーロッパよりはるかにすぐれた文化と繁栄をもたらしていたといえる。彼らは米や、さとうきび、棕櫚(しゅろ)、ざくろ、桑をもちこみ、潅漑用の水路網を施設完備させた。牧羊は改善され、毛織物工業が栄えた。商業が盛んになり、ガラスや毛織物、金属工業、製紙業が栄え、都市は繁栄した。教育制度は完備し、数学をはじめ自然科学や哲学、文学が進歩し、グラナダの「赤い宮殿」アルハンブラ宮殿をはじめ、各地にみごとなイスラーム寺院、宮殿が建てられた。

 このアラビア政権を倒したスペインやポルトガルの国土回復は、支配下 にあったヨーロッパ人にイスラーム教徒からの自由を与えたが、そのかわり残虐苛酷な王と領主の支配とをもたらすことになったのだ。徹底的な掠奪によって都市は破壊され、耕地は荒廃し、逃げられなかったムーア人は奴隷化して生産意欲を失ってしまった。強力な王権にひきいられた狂暴と文盲と欲望と狂信の王国が、こうしてヨーロッパの歴史の檜舞台に登場する。(一八一〜一八二ページ)

(引用おわり)

 つまり、イベリア半島で実際に起こったことは、

 一.イスラーム教徒は侵略・征服した地に、同時代のヨーロッパよりはるかに優れた文化と繁栄をもたらした。

 二.キリスト教徒は再征服・国土回復をした地に、都市の破壊と耕地の荒廃、そして狂暴の王国をもたらした。

ということであると、会田は記しているのである。

 そして、会田は同書で次のようにも書いている。「スペインのイダルゴ(騎士)たちは、何百年ものあいだ殺戮(さつりく)のためにのみ生きるよう訓練されてきた、平和な勤労にはまったく縁遠い連中である。奸計、謀略、戦闘技術、武術のかたまりで、当時これほど恐ろしい人間は、世界中ではヨーロッパ、なかでもこのスペイン、ポルトガル以外には存在しなかったであろう。スペイン、ポルトガルの両国がまたたくまに世界を席巻(せっけん)した理由はこういうところにあったと思われる」(一九七〜一九八ページ)。「アラビア人の富を吸いきって、もはや掠奪するものがなくなったイダルゴたちのすさまじい精力と貪婪(どんらん)な目は、自分の欲望を満たす新しい黄金の世界を懸命にさがし求めていたのである。冒険と戦闘と掠奪との夢を追って」(一八二ページ)。つまり、スペイン、ポルトガルの恐ろしい騎士たちが大航海の主役だったというのである。

 アメリカ(西インド)のインディオたちは当時、特別に平和の民であり、あまり知られていないが、平和ゆえに文明が非常に高度に発達していた。またその平和ゆえに武器、武具の発達はほとんどなかった。ヨーロッパに比べれば、子供のおもちゃのような武器しか持っていなかったのである。そこへコロンブスのインディアス航路開拓(アメリカ発見)によって、狂暴で貪婪なスペインのイダルゴ(騎士)たちが、黄金や真珠などを求めて押しよせたのである。

 結局、その大航海は、「大航海の時代、スペイン人はアメリカに、掠奪と搾取と人殺し以外の何ものをももたらさなかった。スペイン人が一切を掠奪し終わると、こんどは搾取がはじまった。植民地は全部王領になったが、スペイン人は私腹もぞんぶんにこやした。豊富な金銀鉱はとくに目をつけられた。悲惨な労働がはじまった。反抗すれば撲殺(ぼくさつ)され火あぶりにされた。鉱山では酷使や出水や落盤のため無数の人が死んだ。鉱山の入口は死者と、それを群がり食う禿鷹(はげたか)でうずまり、反乱をおこした村や町でほ住民が皆殺しにされた。こうしてインディオの人口は激減し、ジャマイカやキューバなどでは、一六世紀の中ごろまでに全住民が死に絶えたのである。こうして労働者が足らなくなると、アフリカからニグロが移入された」(前掲書、一九八〜一九九ページ)ということだったのであり、レコンキスタはこのような大航海に繋がっていったのだった。

 ポルトガルはイベリア半島でのレコンキスタには参加せずに、西アフリカを南下する航海にいそしんでいた。イスラーム教徒たちがそこから交易で入手している黄金や象牙、奴隷を武力で強奪するのが目的だった。この西アフリカ海岸南下の百年で、ポルトガルは航海術を習得することになった。この南下は喜望峰発見につながった。またこの南下はスペインのレコンキスタの側面援護ともなった。もっともポルトガルとスペインは非常に仲が悪かったようであり、意図した援護ではなかったかもしれない。

 このようにスペイン、ポルトガルの騎士を通じて、レコンキスタと大航海はつながっているのである。会田はそれをきっちりと理解し指摘している。会田はそれ以上の言及はしていないが、私の見解では、このイダルゴ(騎士)の狂暴と狂信の精神はルネサンスのヨーロッパにも浸透していたのであり、その精神はその後も近代、現代になっても払拭されず、今日に至っているのである。後で判るように、スペインのイダルゴ(騎士)たちはまた、ギリシア・ローマ、ローマカトリック教会の血を受け継いでいるのである。

 私はこの会田のレコンキスタ評価に、基本的に賛成である。なお付け加えることがあるとすれば、中東文明(イスラーム文明)の偉大さだろう。だが限られた紙数では、このような会田の行ったまとめになるだろう。

 ということでレコンキスタの評価は、以上のとおりとなる。だがしかし、このまとめだけでは論理的・理論的に理解できても、実感としては理解できないのではないか。実感として理解できなければ、その歴史的教訓を現代の実際の生活に生かすことはできない。

 そこで、この歴史を振り返ってみようと思う。しかし八〇〇年間にも及ぶ事柄なので、記述はどうしても長くなりがちになるだろう。従ってなるべく短くなるように述べることにする。

 それでは、イベリア半島を征服したイスラーム教徒をみるために、まず中東文明それからイスラーム教の起こりとその後の経過をみてみることにする。

●中東文明およびイスラーム教の起こりとその後の経過

 イスラーム教は中東で起こった。イスラーム教は中東文明のうえに出来上がった宗教である。イスラーム教の基部には中東文明が存在しているのである。そこで、中東史から述べることにする。宮崎正勝『早わかり・中東&イスラーム世界史』(日本実業出版社、二〇〇六年)に従いながら記すと次のようになる。

 「中東」という言葉は、第二次世界大戦後に一般化した国際政治上の地域概念だ。広義の中東は、西のモロッコから東のイラン、アフガニスタン、北のトルコまでを含んでいる。狭義の中東は、広義の中東からリビア以西とアフガニスタンが除かれる。一九世紀後半にイギリスは、自国の位置を基準に植民地だったインドをはさんで、最もヨーロッパに近いオスマン帝国の支配地を「近東」、イラン、アフガニスタンを「中東」、中国を中心とする東アジアを「極東」と呼んだ。やがて西アジアから北アフリカにいたる地域が合わされて「中近東」と呼ばれるようになり、第二次世界大戦の時にイギリス軍の作戦用語となったことから、「東南アジア」という地域名と同様、戦後世界で用いられるようになった。つまり、「中東」はヨーロッパを基準にした呼び名であり、ヨーロッパが世界に植民地を拡大したイメージを引きずっているのである。そして日本ではヨーロッパの歴史観の影響を深く受けているので、中東は非文明、未開文明というイメージがある。

 しかし、この地域では五〇〇〇年前に世界に先駆けて都市の建設がなされ、最古の文明が形成されている。世界中を眺めても中東に勝る歴史の蓄積をもつ地域はない。それだけに、歴史のプロセスは重厚で複雑であった。そして中東は後で述べるようにユーラシアとアフリカにまたがる世界大交易圏、世界大商業ネットワークをつくりあげたのである。非文明、未開文明などではないのである。副島先生は、二〇〇三年七月の早稲田大学での講演において「今でも四大文明である。中東はその中でもイラク(メソポタミア)が世界の中心である」と言っていた。これは大切な視点であると思う。

 ヨーロッパ文明による現代文明は、「自由」貿易を押し付けようとする。これによっては各国の経済は破壊されてしまう。これでは貿易(交易)は続かなくなる。世界大商業ネットワークが形成されることはない。現代のヨーロッパ・アメリカ文明では、そうなっている。だから、現代文明は中東文明よりも勝っているとは言えない。むしろ中東文明の方が勝っていると言えるのである。いつのころからか正面衝突の武力(軍事力)では勝てなくなったが、文明度においてはいまだ中東の方が上である。ヨーロッパ・アメリカ文明はいまだ、文明の域に達していない。各国が共存・共生する商業ネットワークが構築できるようになれば、私はその文明を認めるつもりであるが、ヨーロッパ・アメリカ文明は残念ながらそうなってはいない。一時はそのようなネットワークが形成されているように見えたこともあったが、それは長続きせずに一時的のことであった。ヨーロッパ・アメリカ文明は、中東のような人間の多様性を認める文明でないこと、それが、ヨーロッパ文明が中東文明よりも劣る理由である。

 アフリカ大陸の三分の一を占めるサハラ砂漠(The Sahara)、パレスチナ地方のシリア砂漠(Syrian Desert)、アラビア半島の四分の一を占めるルブアルハリ砂漠(The Rub' al Khali)などは、いずれも中東に含まれる。中東では、渇きとの戦い、水と緑への渇望の歴史が五〇〇〇年続けられてきた。水が得られなければ農業もできないし、都市をつくることもできない。中東の大乾燥地帯では豊富な水が社会形成の基盤だった。ナイル川、チグリス川・ユーフラテス川など、半砂漠地帯を流れる河川の流域は豊富に水が得られる例外的な地域であり、そこにエジプト文明やメソポタミア文明などの大文明が形成されたのも当然のことであった。イラン人は、紀元前八世紀ころ(アッシリアが帝国をつくる頃)から乾燥地域で生活用水、農業用水を確保するために人工的な地下水路(カナート)をつくつて湧き水や山麓の雪解け水を引く方法を考え出した。三〇メートルから五〇メートル間隔に竪穴を掘って地下水路を掘り、それを何キロもつなげたのである。こうした灌漑(かんがい)法は、アフリカを含む中東全体に広がった。「カナート」は最長で五〇キロ以上続くものもあり、建設・管理の専門的職人がいた。例外的にトルコ半島(アナトリア)は半乾燥地帯であり、地中海、黒海、カスピ海の沿岸地帯は夏にも雨が降り、アラビア半島南部のイエメン地方もモンスーンの影響で雨に恵まれた。そのため、これらの地域は、他の乾燥地域に見られない多様な物産を産出した。しかし大部分の地は、冬にわずかに雨が降るだけの砂漠・荒れ地で、ヒツジ、ヤギ、ウマ、ラクダなどの群居する性質を持つ家畜を飼って生活する遊牧民の生活の場であった。彼らは生活に必要な穀物を交易で手に入れる必要があり、中東では古い時代から商人の活動が活発だった。砂漠に強いラクダを使い、オアシスを結ぶ商人をペルシア語のカールバーン(「隊商」の意)から「キャラバン(caravan)」と呼んだ。一頭のラクダが積める荷物は二七〇キロ程度だが、後には一〇〇〇〜五〇〇〇頭のラクダを連ねる大キャラバンも組織されるようになる。

中東の地図

 中東には、「陸の海」ともいうべき砂漠の連鎖、世界最長のナイル川(the Nile)、チグリス川(the Tigris)・ユーフラテス川(the Euphrates)の流域の大沖積平野、隣接する中央アジアの大草原、世界最大の「内海」地中海(the Mediterranean Sea)、ペルシア湾(Persian Gulf)、それに紅海(Red Sea)、黒海(Black Sea)がある。大沖積平野に成立した古代エジプトとメソポタミアの二大文明は、遊牧民の活躍もあって一体化し、周辺の砂漠、草原、海洋と結びついて広大な歴史舞台をつくりあげていく。歴史が複雑になるのも、無理からぬことである。多数の民族の交流、交易、戦争、移住などで中東の古代史が他の文明より気が遠くなるほど複雑だった。黄河流域の中国文明は長江流域に広がったが、万里の長城の建設に象徴されるように遊牧世界を遠ざけ、周期的に繰り返される黄河下流地域の大氾濫もあって、海洋世界との関わりが薄い文明であった。私たちから見ると大舞台で繰り広げられた中国の古代史も、中東の古代史と比べると、限定された地域の歴史だったのである。ヒマラヤ山脈などでユーラシア中央部と隔てられたインドの文明も同様であった。インダス川流域からガンジス川流域に中心が移動し、デカン高原へ、ベンガル湾から東南アジアヘの文明の波及もあったが、地理的に限られた動きだったのである。

(つづく)