「124」 論文 ヨーロッパ文明は争闘と戦乱の「無法と実力の文明」である(4) 鳥生守(とりうまもる)筆 2011年1月7日

 ウェブサイト「副島隆彦の論文教室」の管理人、古村治彦です。2011年初めの論文掲載にあたり、新年のご挨拶を申し上げます。明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 2011年2月20日には、「副島隆彦の論文教室」開設2周年を迎えます。ここまで、多くの皆様に掲載論文をお読みいただきましたこと、厚く御礼申し上げます。今年も少しでも質の良い論文を掲載できますように精進してまいります。

 ここで一言申し上げます。「副島隆彦の論文教室」に関し、「副島隆彦先生のファンが勝手に先生の名前を使っているサイトである」、もしくは「ただの副島先生のファンサイトだろう」ということをおっしゃる方々がおられます。本サイトは、ホームページにも掲載しておりますように、副島先生の「弟子たちの論文発表の場を作りたい」というお考えを受け、私、古村が作成し、管理運営を行っております。本サイトはファンサイトや名前を勝手に使ったサイトではございません。

 最後になりましたが、本年が皆さまにとりまして実り多い年となりますように、衷心から祈念申し上げます。


静岡県熱海市玄岳から望む富士山(2011年1月4日、撮影:古村治彦)

2011年1月7日 古村治彦(ふるむらはるひこ)拝

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●南部イラクで成長したメソポタミア文明

 人類最古の文明は、チグリス川とユーフラテス川の間の沖積平野(「葦(あし)の多い地域」の意味で「シュメール(Shumer)」と呼ばれた)に築かれた。文明の担い手となったシュメール人は、神々の奴隷として人間がつくられ、家畜や穀物も神に与えられたと考えた。「メソポタミア(Mesopotamia)」は、ギリシア語の呼び名であり、現在のイラク(Iraq)である。「メソポタミア」はヨーロッパの造語で、アラビア語では「河岸の地」、「低地」の意味で「イラク」と呼ばれた。

チグリス川・ユーフラテス川の位置

 二つの川の水源は北部の標高二〇〇〇メートルのトルコの山岳地帯にあった。雪解け水が南東に流れてペルシア湾に注いだが、二つの川の下流地帯は沼沢地帯で運河や灌漑設備で結ばれ、多くの大麦を産出した。ところが雪解け水はたびたび突発的な洪水を起こし、畑や都市を押し流して人々を苦しめた。メソポタミアには、砂漠、荒れ地などから次々と遊牧民、山岳民が侵入し、都市や国が興亡を繰り返した。そのために商業などは発達したが、異なる生活習慣と価値観を持つ部族が入り混じったことから、社会秩序を定めるのが極めてむずかしかった。「契約」により社会をまとめるしかなかったのだ。

 前一八世紀に全メソポタミアを統一した古バビロニア王国の第六代王ハンムラビ(Hammurabi)は、前文と二八二条からなる「ハンムラビ法典(Code of Hammurabi)」を制定し、「目には目を、歯には歯を」で有名な同害復讐法の原則により秩序を確立した。この法は後にユダヤ法に引き継がれるなど、中東全体に大きな影響を与えている。「ハンムラビ法典」は中東における法の原型である。

  

ハンムラビ王     ハンムラビ法典

●ナイル川が育てた巨大なエジプト文明

 イラクと並んで中東の歴史をリードした大農業地域が、エジプトの世界最長のナイル川の三角洲と中流の川沿いの土地だった。現在のエジプトの国土の九割は砂漠で、数年に一度しか雨が降らず、ナイル川流域のカイロでも年間降雨量はわずか三センチに過ぎない。上流のエチオピア高原に毎年定期的(六月中旬から十月下旬)に降る雨が1か月かって地中海に流れ込むために、流域では徐々に水かさが増す緩やかな洪水が毎年繰り返され、豊かな「黒い土」を流域に堆積させた。

ナイル川の位置

 前三〇〇〇年頃からナイル川が育んだ文明は、川と密接に結びついていた。毎年、洪水がはじまる時期に東の地平線上に明けの明星が定期的に現れることからつくられた太陽暦(solar calendar、一二回の月の満ち欠け(三六〇日)と収穫後の五日を一年とする)や、川辺に生える二〜三メートルに成長するパピルスという葦からつくる一種の紙とその上に書く象形文字(hieroglyph)、パピルスでつくつた帆船、ナイル川の氾濫の後で畑を復元するための測量術(幾何学のもと)などが生み出された。

  

ヒエログリフ         オベリスク

 太陽神ラーのシンボルがオベリスク(obelisk、方尖柱〔ほうせんちゅう〕)であり、ラーの子である王が天に昇る祭壇が現在八〇基残されているピラミッド(Pyramid)である。エジプトがアラブに征服されたのは六四〇〜六四一年以降のことであり、それから数世紀かけてアラビア語・イスラームが多数派になった。ナイル川の「黒い土」は一貫して中東最大の穀倉地帯であり続けたのである。

●砂漠の大規模交易のセンターだったシリア

 歴史的に「シリア(Syria)」と呼ばれる地域は、実は広大な地域を指した。北はトルコ南部、南はヨルダン南端、東はユーフラテス川、西は地中海に接していた。直線で国境が区切られた現在のシリアは、フランスの委任統治時代につくられたのである。いまから三〇〇〇年ほど前にこの地域で活躍した砂漠の商業民が、半遊牧生活を送るアラム人(Aramaeans)だった。

シリアの地図

 メソポタミアとエジプトを結ぶシリア砂漠を、ラクダを使って往来するアラム人の言葉(アラム語)は、古代の中東全体の共通語となっていた。現在の英語のようなものである。シリアの中心は南西部のバラダー川南岸のダマスカス(Damascus、現在の人口約二二〇万人)で、五〇〇〇年前にはすでに都市が形成されていた、現存する世界最古の都市である。ダマスカスは、メソポタミアとエジプト、アラビア半島とアナトリアの東西南北を結ぶキャラバン貿易の拠点となり、周辺のオアシスでつくられた農作物の集散地として栄え続けた。

ダマスカス

 中東の陸路のセンター、シリアは、交通の便がよかったこと、経済的に富裕だったことが災いして、前八世紀にアッシリア、前六世紀には新バビロニア、前六世紀後半にペルシア帝国(アケメネス朝)、前四世紀にアレクサンドロス帝国、前一世紀にローマ帝国の支配下に入った。やがてシリアは、ローマ帝国とパルティア(Parthia)の緩衝地帯となり、二〜三世紀には砂漠の交易都市パルミュラ(Palmyra)が両帝国の商品の取引・交流の場となった。パルミュラにはパルティアを経由して絹などのシルクロードの物資が流人し、「シルクロードの終点」などといわれたが、二七三年にローマ帝国により滅ぼされた。

パルミュラ

 なんと、ローマ帝国は交易都市を滅ぼしたというのだ。ローマ帝国は取引・交流を拒否したことになる。どうしてそんなことになるのか、歴史家はその原因と実態を明らかにすべきであろう。イスラームの創成期にアラブ人が主な交易先としたのがシリアの中心都市ダマスカスであり、七世紀にアラビア半島からの遠征がなされた時にも真っ先に征服の目標とされた。シリアは経済の中心地だった。

●豊かな農耕地帯であるアラビア半島南端のイエメン

 アラビア半島南部のイエメン(Yemen)地方はモンスーン(季節風)の影響で、中東には珍しく雨に恵まれた地域で、「アラビアフェリックス」(幸運のアラビア)と呼ばれた。イエメン地方は豊かな農耕地帯であっただけではなく、紅海経由でシリア、東アフリカ、ペルシア湾地域などと、商業都市のアデンを中心に大規模な貿易を行った。とくに東アフリカ、アラビア半島南部で産出される乳香(にゅうこう)や没薬(もつやく)といった香料は、特産品としてエジプト、メソポタミアで珍重された。乳香などは、アラビア半島西岸地方を通って、ラクダを使ったキャラバンによりシリア地方経由でエジプト、メソポタミアに送られた。

イエメンの地図

●中東と地中海の接点、異質な空間のレバノン

 古代に地中海航路を切り開いたフェニキア人(Phoenician)の生活の場となったレバノン(Lebanon)は、東地中海沿岸の長さ約二一七キロ、幅四〇キロから八〇キロの細長い海岸平野で、急峻なレバノン山脈によりシリアと隔てられていた。農地に恵まれない古代フェニキアの人々は、レバノン杉(Lebanon Cedar)で建造した帆船により中東と地中海を結びつけ、地中海を横断する大航路を切り開いたのである。レバノンは、地中海と親密であった。

  

レバノンの地図        レバノン杉

 レバノンの歴史は基本的にはシリアとともにあったが、山脈で隔てられていたために多くの宗教集団の避難場所になり、さまざまな民族が流入してきたことで多民族が混在する現在のレバノンの特徴をつくりあげた。レバノンは前六四年にローマに征服され、シリア州の一部としてローマ帝国に組み込まれ、キリスト教化が進んだ。六三〇年代、アラブ人に征服されるが、一一世紀にはイスラーム教シーア派のドルーズ派(The Druze)が定住、キリスト教のマロン派(The Maronite Church)と勢力争いを展開した。

  

ドルーズ派の人々          マロン派の教会

 一〇九九年から一三世紀までは十字軍(The Crusaders)の支配下におかれた。一六世紀になるとオスマン帝国の支配下に入り、一九世紀中頃までマロン派とドルーズ派の勢力争いが続いた。マロン派は、キリストが人性を持たず神性しか持たないとする立場に立つレバノン固有のキリスト教で、礼拝用語は主にアラビア語だった。現代では、イランの支援を受けたシーア派原理主義組織ヒズボラ(Hezbollah)のイスラエル攻撃、それへの報復としてのイスラエル軍の進攻が繰り返されることで混乱が再発した。長年の戦争で首都ベイルート(Beirut)をはじめ、レバノン全土は荒廃され尽くしてしまった。

●三大宗教の聖地パレスチナのエルサレム

 イスラエルを中心とする地中海沿岸地域は、ローマ人がユダヤ人の反抗をしずめ、この地域を強圧的に支配して「パレスチーネ」(ペリシテ人(俗人)の土地)と呼んだことから「パレスチナ」と呼ばれるようになった。古い呼び名は「カナン(Canaan)」である。アジアとアフリカをつなぐルートの中心に位置するパレスチナには、前三〇〇〇年頃からカナン人が住んでおり、エジプト、メソポタミア、シリアの影響を受けて独自の宗教を成長させた。ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教は、彼らの信仰の影響を受けている。紀元後六年、パレスチナはローマの属州となる。

ローマ人は苛酷(かこく)に税を取り立て、ユダヤ社会の慣行を無視した。ローマの歴史家タキトゥス(Cornelius Tacitus)が、「ローマ人は廃墟をつくってそこを平和と呼ぶ」と指摘したように、帝都ローマの華美な生活を支える属州民の負担は極めて重かったのである。属州ユダヤでは、熱心党を中心にローマとの戦いが断続的に続けられたが、第一次ユダヤ戦争(六六〜七〇年)、第二次ユダヤ戦争(一三二〜一三五年)に敗北。とくに死者五八万人を数えたとされる第二次ユダヤ戦争後、生き残ったユダヤ人は奴隷とされ、以後ユダヤ人のエルサレム立ち入りが死刑をもって禁止された。故郷を失ったユダヤ人は、ローマ帝国内外の諸都市に移住した。それを「民族離散」(ディアスポラ、Diaspora)と呼ぶ。ちなみにこの地がローマ人に「パレスチナ」と呼ばれるようになるのも、この時期のことである。

エルサレム

 エルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教という三つの一神教の聖地になつた。エルサレムにはユダヤ教徒地区、キリスト教徒地区、イスラーム教徒地区、アルメニア人地区が設けられて長い間共存が続いてきたが、第二次世界大戦後のイスラエル建国で、パレスチナではイスラエルとパレスチナ人の激しい抗争が続いている。ここでもヨーロッパ文明が介入してくると共存が崩れた。エルサレムにはウマイヤ朝(六六一〜七五〇)により四方から眺められイスラームの力を誇示する岩のドームが建てられ、イスラームの第三の聖地となった。

●交易のための巨大回廊であるシリア砂漠とアラビア砂漠

 中東では、エジプトとメソポタミアの二大農業地域の間に砂漠を中心とする広大な荒れ地、草原が存在している。アラビア半島北部からシリア南東部に広がり、地中海とユーフラテス川に囲まれた「シリア砂漠」、北部の「ナフード砂漠」、南部の「ルブアルハリ砂漠」が三分の一以上を占めるアラビア半島は、広大な砂漠地帯をなしている。アラビア半島は現在、世界で最も人口密度の「低い」地域である。中東の砂漠で家畜として用いられているのがヒトコブラクダ(体高約二メートル、体重四五〇〜六九〇キロ)である。ちなみに中央アジアで使われているのはフタコブラクダ(体高一・八〜二メートル、体重四五〇〜六五〇キロ)である。

ヒトコブラクダ

 ヒトコブラクダは、いまから五〇〇〇年前に家畜化されたと考えられており、文明誕生期からの古い家畜である。砂漠の周辺で遊牧民が家畜として飼育したほか、長時間水分を補給しないで移動できたため、ラクダは「砂漠の船」として商人たちにも利用されるようになった。いまから三千数百年前にシリア砂漠でラクダを使って商業を行った最初の商業民族がアラム人である。彼らは、シリアの都市ダマスカスを中心に中東を股にかけて広い範囲で活躍した。そのためにアラム語は広大な中東諸地域を統一したペルシア帝国(アケメネス朝)の公用語となり、アラム文字は、アラビア文字など中東各地の文字の源になった。パレスチナでも、アラム語が伝統的なヘブライ語に代わって使われるようになる。キリスト教の創始者イエスもアラム語を話していたといわれ、『旧約聖書』の一部分もアラム語で書かれた。アラム語は、七世紀にアラビア砂漠から出て来た同じ砂漠の民アラブ人が中東を征服した後、アラビア語に押されて衰退する。商業言語のアラム語が宗教言語のアラビア語に主要言語の座を譲ったのである。

●中東の外郭をなすアナトリア、イラン高原、アフガニスタン

 中東の外郭部分には、アナトリア(小アジア)、イラン、アフガニスタンの三つの高原、山岳地帯があり、周辺地域から中東を隔てていた。現在のトルコ共和国の国土の大部分を占めるのが、平均高度約七五〇メートルの「アナトリア高原」である。エーゲ海、地中海、黒海などの沿岸地域では山岳が沿岸まで迫っており、アナトリアの農地は一五%から二〇%に過ぎず、地中海世界の一部分であった。周囲を山に囲まれた中央アナトリア高原(中心はアンカラ)は、年間降雨量約三六センチの半乾燥地帯で、草原や穀物畑になっている。東部山岳地帯は、チグリス川、ユーフラテス川の水源である。

 「イラン高原」は、東はアフガニスタン、パキスタン西部、西はザグロス山脈、北はエルブルズ山脈で囲まれた標高五〇〇メートルから一五〇〇メートルの盆地状の高原、荒れ地、砂漠で乾燥している。面積は約二六〇万平方キロでアラビア半島の約半分だが、農業に適さず、「カナート」と呼ばれる人工の地下水路が発達した。イラン高原に住んでいる人々の約半分が中央アジアからやっで来たイラン人(ペルシア人)で、クルド人やアラブ人なども混在している。イラン人は、前六世紀から後七世紀までの約一〇〇〇年間、中東を支配した民族で、中東がイスラーム化した後もアラブ人と対抗する勢力として反発・協調を繰り返してきた。現在もシーア派に結集して民族的独自性を保っている。

イランの地図

 「アフガニスタン」は、北部のアムダリア川の河谷、南の砂漠を除き、四分の三が山地である。最も広大な山脈はヒンドゥクシュ山脈でインド世界(現在のパキスタン)との境界をなしている。南の「カイバル峠(Khyber Pass)」は、歴史的に頻繁に利用されたインド世界への出入り口であり、中央アジアからインド世界への侵入路でもあった。北部を流れるアムダリア川の北は、「マー・ワラー・アンナフル」(川向こうの土地)とアラビア語で呼ばれ、イスラーム世界の外部と見なされた。広大なオアシスに恵まれ、シルクロードの中心となった西トルキスタン(現ウズベキスタン)である。イラン、アフガニスタンは中央アジアの遊牧民が中東に侵入する際の経路となっていた。

アフガニスタンの地図

●アッシリア(Assyria、前九世紀〜前六一二)により統一に向かった中東

 中東の歴史は、エジプトとイラク(メソポタミア)の大農耕地帯を中心に展開された。しかし、周囲を砂漠と海に囲まれ孤立したエジプトと、周辺の砂漠や草原、山岳地などから多くの民族が侵入し、興亡を繰り返したメソポタミアは、それぞれ対照的な道筋をたどった。メソポタミアでは商業が発達し、「民族のるつぼ」といわれるように多民族が侵入を繰り返すプロセスを経て強大な国の出現を見た。まず、紀元前一五〇〇年頃に中央アジアから侵入したインド・ヨーロッパ系遊牧諸族(ヒッタイト人、ミタンニ人など)が馬に引かせる軽戦車をもたらしたことで武器が飛躍的に進歩し、大規模な戦争が繰り返されるようになつた。前一五三〇年頃に古バビロニア王国が滅ぼされると、インド・ヨーロッパ語族の国がイラクとトルコに並立する混乱時代に入る。その影響はエジプトにも及び、ナイル川のデルタ地域も約一〇〇年間外部民族に占領され、エジプト社会も中東の歴史に組み込まれることになった。

アッシリアの地図

 前九世紀、イラク北部の商業民アッシリア人が台頭する。彼らは、二頭立ての戦車や騎兵を含む強力な軍隊を組織して、多くの都市を無残に破壊し、抵抗する場合には都市の前に死骸を積み上げるなど厳しい戦争を繰り返し、前七世紀にはイラク、エジプトの二大農耕地帯を統一する大帝国を打ち立てた。しかし、アッシリアは被征服地に苛酷な税を課し、各地の伝統、慣習、宗教などを無視する集権体制をとったために、諸民族の間に反乱が広がり、前六一二年に滅亡した。その後中東世界では、「エジプト」、イラクの「新バビロニア」、イラン高原の「メディア」、小アジアの「リディア」の四国が分立する時代が50年以上続いた。

●イラン人が建てた最初の大帝国アケメネス朝(前550〜前330年)

 前六世紀にイラン高原からエジプトにいたる中東の複雑な諸社会を統一し、一〇〇〇年以上もの期間支配し続けたのがイラン人である。「イラン(Iran)」という名称は、前四世紀にアレクサンドロス大王の東征に参加したギリシア人が、イラン高原に住む人々が自らアーリア(ペルシア語化したサンスクリット語で「高貴な」の意味)人と称していると伝え、イラン高原をアリアーナ(「アーリア人の国」の意)と称したことによる呼び名である。歴史的にイラン人はペルシア人と呼ばれたが、それは彼らがイラン高原西部の地をペルシス(現在のファルース地方)と呼び、その地方から勢力をのばし大帝国を樹立したことによる。ちなみにペルシスは、パルース(「馬に乗る人」の意味のラテン語)による。アラビア語では「P」を用いないためにファルースに変化した。

 中東の歴史を大きく変えた立役者は、「アケメネス朝(Achaemenid Empire)」だった。王朝を開いたのは第五代キュロス王(前五五九年に即位)であり、前五二二年に即位したダレイオス一世の時代には、東はインダス川流域、西は北アフリカのリビア、北はシルダリヤ川、南はペルシア湾にいたる全中東を支配下に収めた。ダレイオス一世は全領土を二〇余の州に分け、中央からイラン人のサトラップ(総督)を派遣して支配したが、メソポタミア社会の伝統を踏襲して柔軟な支配を行い、諸民族の伝統的風習や信仰を尊重した。その結果、アケメネス朝の中東支配は二〇〇年間維持された。

アケメネス朝の版図

 ギリシアの歴史家ヘロドトス(Herodotus)が、首都スサから小アジアのサルデスにいたる約二四〇〇キロの幹線道路(王の道)の存在を指摘しているように道路網が整えられ、後にローマ帝国が模倣した立派な駅伝制が敷かれて中央と地方が結ばれていた。大道路網は、情報伝達や軍隊の素早い移動に大きな役割を果たした。イラン人の総督は、中東各地の支配層を下級役人とし、金、銀で税を徴収した。王のもとに集められた銀(金は銀の一三倍で換算)は、年に約三六万七〇〇〇キロにも達したとされる。ダレイオス一世(Darius I)が帝国の権威を誇示するために帝国各地から資材と職人を集めて建造したのがイラン南部のペルセポリス(ギリシア語で「ペルシア人の城塞」の意味)の大宮殿で、聖地とされた。宮殿は国家的祭儀の場でもあり、「謁見の間」への階段には、貢ぎ物を持って祭に集まるエジプト、インド、エチオピアなどの属州民の浮き彫りが施されている。帝国は、マケドニアのアレクサンドロス大王の遠征軍に都を落とされ、前三三〇年に滅亡した。

●イランから来たパルティア(前二五〇〜後二二四)

 「ヘレニズム時代」とは、前四世紀半ばにアレクサンドロス大王がペルシア帝国(アケメネス朝)を征服してから前1世紀後半にローマ帝国によりアレクサンドロスの後継者が建てたエジプトが統合されるまでの、地中海地域と中東地域でギリシアの文化と学術が支配的だった時代とされる(前三三〇〜前三〇)。「ヘレニズム(Hellenism)」とは、ギリシア語でギリシアを「ヘラス」と呼んだことに由来し、「ギリシア風」の意味である。たしかにアレクサンドロスが築いた帝国はアケメネス朝を上回る大領域に及んだが、彼の死によりたちまち分裂した。部下たちがエジプト(プトレマイオス朝)、シリア(セレウコス朝)などに建国するが、中東の大領城を支配する力をセレウコス朝は持たず、前三世紀頃からアフガニスタンにバクトリア、イランにパルティア、小アジア西北部にペルガモン王国が独立して勢力を弱めていった。

 ヘレニズム諸国が衰退した時、中東世界の再編の担い手となったのがイラン高原から現れた「パルティア」だった。スキタイ系の騎馬遊牧民で、イラン風の衣裳をまとい、イランの言葉を話す優れた馬の使い手、弓の名手で、従来のワラグツに代わり馬の足につける蹄鉄をつくり出した遊牧民の国(アルサケス朝、中国名は安息)である。パルティアの騎馬軍は戦時にしばしば馬で逃げるふりをして、振り向きざまに矢を射って、見事に敵を倒した。パルティアは本当の王朝名は「アルサケス」(安息)だが、中東でほ農耕社会を侵略した外部勢力と見なされ、発祥地の名で呼ばれるのである。パルティアは、前二五〇年頃に王国を建て、前一世紀には西はイラクのユーフラテス川から東はインダス川、北は中央アジアのアムダリア川から南はイント洋にいたる大領域を支配する帝国となつた。このイラン人の帝国は、後三世紀まで約五〇〇年間続く。前一世紀の中頃から、パルティアは小アジア東部とアルメニアの帰属問題でローマ帝国との間に激しい戦闘を繰り返し、一歩も引けをとらなかった。強国だったのである。

 当時、地中海周辺を支配していたローマ帝国に対し、パルティアはシルクロードなど内陸の交易路を支配した。同国で信仰された太陽神ミトラの伝播は、パルティアの通商の活発さを物語っている。ローマ帝国では民衆の間に軍神ミトラスの信仰が広まり、中東で誕生したキリスト教と一、二を争う大宗教になった。東方では仏教との融合が進み、ミトラは未来仏の弥勤(ミロク)となった。シルクロードを通って弥勤は唐帝国(六一八〜九〇七)に伝えられ、朝鮮半島の新羅や飛鳥時代の日本でも盛んに信仰されることになった。

(つづく)