「127」 論文 アーサー・ケストラー著『ユダヤ人とは誰か―第13支族、カザール王国の謎』(宇野正美訳、三交社、1990年刊行)(1) 鴨川光(かもがわひろし)筆 2011年1月28日

●カザール王国、セファラディー、アシュケナージについて

 この本は、アーサー・ケストラー(Arthur Koestler)が一九七六年に『第十三支族―カザール帝国とその遺産』(The Thirteenth Tribe: The Khazar Empire and its Heritage)というタイトルで発表した。

『ユダヤ人とは誰か―第13支族、カザール王国の謎』

アーサー・ケストラー

 カザール王国(Khazar)というのは、七世紀から一〇世紀の間にカスピ海から黒海の北側の、コーカサスとボルガ川の辺りに実在した、トルコ系遊牧民族の国である。その東側は現在のウクライナに当たる地域である。

カザ―ル王国の版図

 このカザール王国は、キリスト教国のビザンチンとイスラム教国に囲まれていたため、どちらにも服従させられることなく、独立を保つ選択として、ユダヤ教に改宗したと言われている。

 一〇世紀にロシアの台頭によって滅びてしまったが、重要なのは、その後彼らが移住したのが、ハンガリー、ポーランド、バルト海沿岸のリトアニア、そして現在のベラルーシ、ウクライナ辺りにまたがる「東方のヨーロッパ」だったということである。

 この地域は一〇世紀に王国が滅んだ後、現在に至る千年間、かれらカザール系ユダヤ人の一貫した居住地域だったのである。カザール系というのはすなわち、パレスチナ出身のいわば「本物のユダヤ人」ではなく、非セム系のトルコ系「白いユダヤ人」ということである。これを指して、「偽ユダヤ人」などと言われている。

 ユダヤ人というのは大きく二つに大別される。このことを普通の日本人は、はっきりと認識しなくてはならない。

 一つはスペイン系の「セファラディー(Sepharadi Jews)」である。これはイベリア半島のイスラム王朝、後ウマイヤ朝以来、アンダルシア地方のコルドバを中心にして、カスティリャの宮廷に仕えていた社会的・教育的地位の高いユダヤ人である。アンダルシアというのは、スペインの地中海側の地域である。

セファラディーの人々

 その後、彼らはスペイン王フェルナンド(スペイン語でエルナンド)とイザベラの治世に、スペインから追放されてしまう。これが一四九二年の話で、この後ヨーロッパ各地へバラバラになってしまったのを、聖書の故事にならって「離散(Diaspora、ディアスポラ)」と呼ばれている。この年はコロンブスのアメリカ大陸発見の年でもある。

 隣国のポルトガルは、カトリック国でありながら新教国のイギリス、オランダと同盟を結んでいたこともあって、ユダヤ人はそちらに逃れるのであるが、スペインの影響力の下、一四九七年に再度追放されてしまう。

 この時に移住先として彼らが選んだのが、オトマントルコ、ナポリ(イタリアの南半分)、そしてオランダであった。一六世紀末にオランダは近代国家として独立し、世界の海洋覇権を一瞬握りながらも、すぐにイギリスに受け継がれる。セファラディーは、二〇世紀に日本軍に壊滅的打撃を受けるまで、東アジアやアメリカ、インドにいたる世界的な海洋帝国をイギリスが築けるようになった、原動力となった人々である。

 もう一方のユダヤ人とは、ドイツ系の「アシュケナージ(Ashkenazi Jews)」である。こちらは通常ラインラントを西端としたヨーロッパ中部から、東欧のポーランド、ウクライナからロシアのユダヤ人のことを指す。一般的には「東欧系ユダヤ人」とか、「ドイツ系ユダヤ人」と言われている。

東ヨーロッパの地図

 ヨーロッパでのユダヤ人の「ディアスポラ」は、一一世紀の十字軍のユダヤ人迫害に端を発する、西ヨーロッパ諸国からの段階的な完全追放であった。この時、東欧のユダヤ人は含まれない。

 イギリスで一二九〇年、フランスで一三九四年に完全追放が行われた。ドイツでは追放は行われず、都市の旧城郭の外側に作られたゲットー(ghetto)という区画に押し込められた。

ゲットー

 歴史の皮肉ながら、このゲットー中から後に「宮廷ユダヤ人(Hofjuden、ホフユーデン)」と呼ばれる事実上の宮廷の財務官、財務大臣が生まれ、三十年戦争以降のヨーロッパの命運を握るようになってしまうのだ。

 なぜ地位の低いユダヤ人が、そこまでの力を持つようになったのか。ユダヤ人は商工業が禁じられていたために、「高利貸し」や「治金業者(ゴールドスミス、シュミット)」という業種しかできなかった。「お金の扱いの上手かったユダヤ人は、最終的に一国に支配者(領主、諸侯、皇帝そしてローマ教皇)に対する債権保持者となった」、一般的にはそのように言われている。

 本書でアーサー・ケストラーは、この近代を揺るがすこととなった「アシュケナージ」といわれる人々、とくにシオニズム運動からイスラエルの建国に至る、現代のユダヤ人達の大半は、実は、コーカサス地域出身のカザール人であると述べている。

 重要なのは、本書は「東欧のユダヤ人は、十字軍以降東へ向かったユダヤ人の子孫である、アシュケナージとはラインラントを中心としたドイツ系ユダヤ人である」という、これまでの通説を一蹴した論文でもある。

 現代のイスラエルの大半は、一九世紀から二〇世紀初頭にかけて、東欧・ロシアから移住してきたユダヤ人であるので、シオニスト運動に起因する現代のイスラエル国民は、聖書の民とはほぼ関係のない「偽ユダヤ人」である、ということにもなる。

(転載貼り付け開始)

「三交社ウェッブサイト」より http://www.sanko-sha.com/sankosha/editorial/books/items/102-7.html

アーサー・ケストラー著 宇野正美訳
ユダヤ人とは誰か 
第十三支族 カザール王国の謎
ISBN4-87919-102-7 C1022
本体 1,922円(税別)  四六判上製 320頁
選定図書: 日本図書館協会選定図書

  原書タイトル:
The Thirteenth Tribe
The Khazar Empire and its Heritage
by Arther Koestler

(転載貼り付け終わり)

●ユダヤ人は西ヨーロッパから東に渡った証拠はない―移住ルートは常に東から西である

 本書のハイライトは、第六章「カザール・ユダヤ人と『真のユダヤ人』」である。ここで筆者は、西ヨーロッパのユダヤ人がライン川から、東側の地域、さらにその向こうのポーランドに渡ったというこれまでの通説を、人口の記録から否定している。

 西ヨーロッパのユダヤ人とは、フランスとドイツにまたがるラインラント地域のユダヤ人である。ラインラントとは河口を現在のオランダに持ち、現在のドイツ・フランス国境から少しドイツ側に入った地域から、フランス側領土に上流へと遡るライン川沿岸地域のことである(現在の区分でいえば、オランダ、ウエストファーレン(ウェストファリア)州、ヘッセン州、ラインラント・プファルツ州、アルザス地方のこと)。

西ヨーロッパの地図

 この地域には、古くからユダヤ人の共同体があったと言われる都市が集中している。ライン川の北から、ケルン、マインツ(ここからライン川支流のマイン河に沿って、西に一〇キロほどのところがフランクフルトである)、ヴォルムス、シュパイヤー、ストラスブール(ドイツ語でシュトラスブルグ)などである。

ドイツの地図

 特にマインツ、ヴォルムス、シュパイヤーがラインラント、つまりドイツ・ユダヤ人の集住地域である。

 これらの都市は、ローマ帝国時代の植民都市に起源を持っている。ユダヤ人はすでに紀元前のバビロン捕囚以降までには、地中海沿岸地域、すなわち小アジアからシリア、パレスチナ、エジプトに散らばっており、かなり大きなユダヤ人社会が存在していた。

 しかし、ラインラントのユダヤ・コミュニティーは、このローマ帝国の植民都市に由来を持つ地域であるから、少なくとも今のところ、ローマ時代以降に起源を持つものであるといえる。

 このラインラントから西のフランスでは九世紀以降、北のノルマンディーから南のプロバンス、地中海にいたるまでユダヤ人コミュニティーが存在した記録があるという。このノルマンディーから、一〇六六年征服王ウイリアムについてイギリスに渡った一団も存在した。

 これまでの見解では、一一世紀以降に十字軍から始まった、一連のユダヤ人迫害・虐殺事件が引き金となって、ユダヤ人が東欧に移動したということが言われていた。この常識は、ケストラーによって打ち破られてしまう。

 ケストラーは次の事実を挙げている。一〇世紀に、カスピ海から黒海にかけて存在したカザール王国が消滅したのと時を同じくして、その北西地域へ「ディアスポラ開始以来、未曾有の高密度でのユダヤ人の出現」(二四〇ページ)が確認されているとし、「カザール国からの異住民が、ポーランド内のユダヤ人口の増大に貢献した」(二四〇ページ)ということが、歴史学者の一致した見解であるとしている。

 これまでは「カザールの歴史については、ほとんど何も知られていなかったため、東ヨーロッパにどこからともなく出現した多数のユダヤ人の出所が(カザールの)他には考えられず、つじつまの合いそうな(ドイツからの移動という)仮説をでっち上げていた(二四八ページ)」ということなのである。

 この仮説の検証としてケストラーは、ラインラントとイングランドに渡ったユダヤ人の追放・虐殺時の人口の、圧倒的少なさを上げている。

 まずイングランドである。ここでは一二九〇年に、エドワード一世によって「ユダヤ令」が出されて、ユダヤ人は完全追放になるのだが、この時までのイングランドでのユダヤ人人口は、二五〇〇人を越えることがなかったという(二四二ページ)。これは、驚くべき少なさである。

 このユダヤ人の立場というのが非常に面白い。そのことをケストラーは、歴史学者バロンを引用して述べている。

(引用開始)

 彼らはイギリスでは「王室御用達高利貸し」という身分に遇せられた。その主な仕事というのは、政治経済の投機事業に資金を貸しつけることであった。この高利貸し達は、高利によって莫大な富を築いた後は、王室の利益のためにいろいろな形で、その富を吐き出させられた。彼らは完全な王室の庇護の下に置かれ、その裕福な生活はかなり長い間続いた。

 その豪華な住居や衣服、強大な発言力などに隠されて、彼らの置かれている危険極まりない状況には誰も気付かなかった。しかしその間にも、各階層に渡る負債者達の憤りは、少しずつ蓄積されていたのであった。

 やがて不満のつぶやきは極限に達し、まず一一八九〜九〇年の暴動が起き、一二九〇年には、とうとうユダヤ人は国外追放とされてしまった。

 この二〇〇年余りの間のイギリス・ユダヤ人の隆盛のごとき登場、そして急激な衰亡は、一〇〜一五世紀の全西ヨーロッパのユダヤ人の運命を鮮やかに描き出している。(二四一〜二四二ページ、ケストラーによるバロンの引用)

(引用終わり)

 このバロンという人は、ユダヤの歴史の権威なのであろう。さまざまなユダヤ史の本に引用されているし、「エンサイクロペディア・ブリタニカ」の「ジューダイズム」の章のビブリオグラフィー(参考文献一覧)にも、最初に挙がっている。

 ユダヤ人は、その「数の少なさとは不釣り合いに大きな、ユダヤ人の社会的経済的影響力(二四二ページ)」を持っていたのである。

 もともとは非ユダヤ人の商人階級の勃興ゆえに、高利貸ししか出来なくなったのであるが、この「王室御用達高利貸し」というのは、支配者(君主、王、領主)に、徴税権を持つが故に、彼らにしか借りることの出来ない高利で貸すことによって、最終的には徴税権までも奪い取ることが出来たという、これは実は現在でも変わらぬ真実なのだが、相当に旨みのある商売なのである。

 この状況は西ヨーロッパ(イギリス・フランス・ドイツ)共通のものであった。これは当時、ユダヤ人人口が爆発していた、建国されたばかりのポーランドの状況とは相当異なっていたのである。

 しかも、ポーランドのユダヤ人は宮廷に使える身分ではなく、下層中産階級に属しており、熟練工や馬車やなどを営む庶民の中に根を張っていた。

 いずれにせよ、このイングランドのユダヤ人が、集団として東ヨーロッパに移動したとしても、ほとんど影響のない勢力だったのである。イングランドからの難民は、対岸のフランスに移動したようである。

 フランスでは、一三世紀にやはりラインラント地方に、初めてユダヤ人定住の記録が見つかる。彼らもまた、一三〇六年にフィリップ四世の極秘法案によって、フィリップの版図外に追い出される。この時脱出した先はプロバンス、ブルゴーニュ、アキテーヌなどであり、フランスからポーランドはおろか、ドイツにすら渡ったという記録はないという。

(引用開始)

 「フランス・ユダヤ民族が、まさに崩壊の危機に瀕していたこの時代にも、ドイツのユダヤ人人口がフランスからの流入によって、その数を増したという記録は、まったく残されていない。」とミエセスはのべている。(二五〇ページ)

(引用終わり)

 この後フランスは、一七世紀まで事実上のユーデンライン(judenrein)、つまりユダヤ人の存在しない地域であったわけである。(一七世紀は、スペインから逃れてきたセファラディムと、アルザス併合によるドイツからのユダヤ人の流入があっただけである。)

 最後のドイツ・ラインラントであるが、最も東であり、東欧系ユダヤ人アシュケナージがドイツ系といわれているし、十字軍のユダヤ人虐殺が行われたところでもあるので、最もユダヤ人難民が発生した可能性があるという点で、一番重要である(二四四ページから)。

ラインラントの地図

 ラインラントのユダヤ人は、一〇世紀頃にはいたという記録がある。これはローマ時代に、イタリアのルッカから移動したらしい。一二世紀のユダヤ人旅行家ツデラのベンヤミンの記録によれば「これらの地域(ラインラント)には、多くのイスラエル人がおり」とあるが、ケストラーはこの「多くの」という、何様にも解釈の出来うる「数のあいまいな表現」に注目し、「実はかなり少ない数であったようである」という仮説を、二つの事実によって証明している。

 一つ目は、ラインラントの都市といっても、「多くの」ユダヤ人が本当に住んでいた可能性があったのは、せいぜい二つか三つあるかどうかという程度だったということである。

 ユダヤ人が住んでいた可能性のあるラインラントの都市とは、フランス側ではトレブ、メス、ストラスブール、ドイツ側は南からシュパイヤー、ヴォルムス、マインツ、ケルンのことである。

 このマインツに十世紀から一一世紀にかけて、ゲルショム・ベン・ユダ(Gershom Ben Judah)というラビがいて、一夫多妻制の禁止を含む布告を出した。

 この布告の追加条項に、緊急の際にはどの条項も「ブルゴーニュ、ノルマンディー、フランス、およびマインツ、シュパイヤー、ヴォルムスから選ばれた一〇〇人会議によって、取り消すことが出来る(二四五ページ)」とされている。

●「ドイツのユダヤ人」とはヴォルムス、シュパイヤー、マインツの三都市だけ

 注意して欲しいのは、この文言のなかで触れられている都市は、マインツ、シュパイヤー、ヴォルムスであって、ブルゴーニュ、ノルマンディーは都市の名ではなく、広範な地域に広がる地方だということである。

 フランスの地方であるわけだから、その人口に対するユダヤ人の比率は、ごく少ないということなのである。しかも、先にのべたように、フランスから東ヨーロッパに渡ったという記録は残されていない。

 他の教会の記録も、ヴォルムス、シュパイヤー、マインツの三都市だけしか挙げられていない。それらのことからケストラーは、「一一世紀のラインラントでは、この三都市以外のユダヤ人コミュニティーは、まだ取るに足らない程度の存在であった(二四六ページ)」とひとまず結論づけている。

 この三つの都市だけが、ユダヤ人コミュニティーと言えるほどに、まとまった人口が確認出来るところだったということなのである。それ以外の都市は、たとえユダヤ人が住んでいたとしても、地域の全人口に対して、「存在している」と言い切れる数ではなかったのだ。こうして、ケストラーはユダヤ人居住地のドイツの三都市以外の可能性を切り捨てていく。

●しかもその人口は二四〇〇人だけ

 次にこの三つの都市における総人口が、いったいどれくらいのものであったか、ということがある。この証明のためにケストラーは、十字軍による死傷者数を挙げている。

 第一回十字軍は、一〇九六年に始まって、ライン川を南から北上していった。アブラム・レオン・ザハルの『ユダヤ人の歴史』によれば、フランス側のストラスブールでは、ユダヤ人への襲撃は全く報告されていない。

 同書によれば、その後ドイツ側三つの都市の、一番南にあるシュパイヤーでは、キリスト教の司教が司教館にユダヤ人をかくまうなどしたため、十字軍側にとっての成果はなかったようである。

 十字軍は、ライン川をさらに北上してヴォルムスにたどり着いた。「改宗か死か」という選択を迫られたヴォルムスのユダヤ人側からは、集団ヒステリーが起こり、多くの集団自殺、殉教が起こってしまう。

 この時の総数は、他殺を含めて約八〇〇人であったという。次の都市マインツでも同じようなことが起こった。結果、死者は九〇〇人から一三〇〇人であったらしい。(二四七ページ)

 ケストラーは、再びバロンを引用して「この両都市でのユダヤ人総数は、死者だけの人数とされている数より、さほど多かったとは考えられない」と述べ(二四七ページ)、次のような結論を下している。

(引用開始)

 ということは、ヴォルムスとマインツで生き残ったユダヤ人の数は、それぞれせいぜい二〇〇〜三〇〇人程度にすぎなかったはずである。それにもかかわらず、この二つの都市(及び三番目としてシュパイヤーが挙げられるが)のみが、先のラビ、ゲルショムの布告の中で言及されるに値する大きさだったのである。(二四七ページ)

(引用終わり)

 この二つの証明からまとめて結論づけられるのは、次の通りである。

(一)ユダヤ人の大きな人口密集地域は、ヴォルムス、マインツ、シュパイヤーにしかなかった。

(二)この地域のユダヤ人の総数は、最大に見積もっても二四〇〇人しかいなかった。つまり、ラインラントには、十字軍による「大量殺戮」と集団自殺の前ですら、ユダヤ人は三〇〇〇人もいなかった、ということになる。

(三)この時に、ユダヤ人が東ヨーロッパへ逃れていったという可能性に対してもケストラーは、シモン・デュブノブという「十字軍難民説」を支持する学者を引用して、否定している。

(引用開始)

 「ユダヤ史にとって非常に重要な意味を持つ、この(東ヨーロッパへの)移動の状況に関し、詳しい記録は一切残されていない」(二四八ページ)

(引用終わり)

 さらに、ケストラーは、東ヨーロッパ・ユダヤ人の起源を説く第二の鍵だと長らくいわれていた「黒死病(Black Death)」すなわち、ペスト被害による大量脱出も、クッチェラという人を引用して反証している。

●ペストの流行もユダヤ人とは関係ない

 黒死病は、一四世紀半ばに、タタール人(モンゴル人)の攻撃によってもたらされたものとされている。一四四八年から一四五〇年の三年間に、ヨーロッパ人口の三分の一から四分の三を消し去ったと言われている。

 ヨーロッパの人口減が元に戻ったのは、一六世紀になってからだという。ラインラントのユダヤ人にいたっては、ただでさえ数の少なかった上に、ペストを撒き散らしたり、井戸に毒を撒いたりしたという流言飛語にさらされたため、ペストを生き延びても虐殺され、生き残ったのはほんのわずかだったということになる。

(引用開始)

 民衆は、運命から受けた打撃の恨みを、ユダヤ人を―疫病から逃れたユダヤ人に、火と剣をを持って―撃つことによってはらしたのである。

 最近の歴史学者の研究によると、ペストが去った後のドイツには、ユダヤ人は事実上一人も残っていなかった、と言ってよいほどの状態だったらしい。

 今我々が結論として言えることは、ドイツではユダヤ民族は歴史上一度も富み栄えることが出来なかったし、大きなコミュニティーを築き上げることも出来なかったということである。

 このような状況下にあったドイツのユダヤ人コミュニティーが、現在(一九〇九年)ドイツ・ユダヤ人の一〇倍の人口を持つ、ポーランド・ユダヤ人の基盤を作ることが、果たして可能であったのだろうか

 東ヨーロッパのユダヤ人の祖先が、西ヨーロッパ、特にドイツからの移住民であったとする説が、これまで一般に受け入れられてきたという事実は、なんとも理解しがたいと言わねばなるまい。

(引用終わり)

 十字軍の後、ドイツのユダヤ人の人口は多くても三〇〇人。その後、黒死病による被害と迫害で生き残った者の数は、微々たるものであったろう。少なくともポーランドを初めとして、ハンガリー・ロシア・ウクライナという広範囲に、かなりの人口密度をもって散らばっていた、東欧ユダヤ・コミュニティー勢力図に貢献した、というに値する数ではありえないと言えるだろう。

 ケストラーによれば、この黒死病によるユダヤ人の出ドイツ仮説を裏付ける証拠は、皆無である。そしてこの時のユダヤ人の生き残りの道は、ドイツの脱出ではなく団結して砦に立てこもったり、敵意の少ない地域にかくまってもらったりするしかなかった。

 この後のラインラントには、事実上ユダヤ人コミュニティーは消滅し、以後二〇〇年間、スペインを除く西ヨーロッパ全域は「ユダヤ人に汚されていない土地(ユーデンライン)」であったという。

(著者注記: 一六、一七世紀にオランダの方から入ってきたユダヤ人はセファラディムで、スペイン系であり、系統の違うユダヤ人である。)

 ケストラーは、居住都市、人口、資料という観点から、一五世紀頃、ユダヤ人が東ヨーロッパに移動し、ポーランド建国の基盤になったという勢力も、移動の証拠もない、という結論に達している。

 アシュケナージというのは、人口移動の点からはドイツ・ラインラント系ではないということになる。現在のアシュケナージと言われている人々は、ドイツとは何の関係もないということとなる。

●アシュケナージ達の作り出したイディッシュ語は、ドイツ語とは何の関係もない。

 次に言語の面で、ケストラーは自分の仮説を論証していく。一般にスペイン系のセファラディーは、スペイン語とヘブライ語の混成語といわれる「ラディノ語(Ladino)」を使うと言われている。これに対し、アシュケナージは、ドイツ語とヘブライ語のあいの子である「イディッシュ語(Yiddish)を作り出したと言われている。

 二六一ページの解説によれば、イディッシュ語とはユダヤ教の礼拝に使われる言葉で、ホロコースト以前は日常の話し言葉であったようだ。現在では、(当時の)ソ連とアメリカの伝統主義者の間で話されているだけだという。

 イディッシュ語はヘブライ文字を使ってかかれ、中世ドイツ語以外にスラブ語や、それ以外の言語が入って作られたものであると言われているが、ケストラーはここでドイツ語の借用が、本当に多いのかどうかという疑問を提示し、仮説の証明を行なう。

 まずは「どこの地方のドイツ方言が、語彙の中に入っているのか」という点である。ケストラーはここでミエゼスの引用を行なっている。ミエゼスは、それまで軽視されていたイディッシュ語を学問的に検証し、「語彙、音声、統語法を、中世の主なドイツ語方言のいくつかと比較研究した(二六二ページ)」人物である。

(引用開始)

 フランスと国境を接する地域のドイツからの言語要素は、イディッシュ語にはまったく見られない。J・A・バラスがまとめたモーゼル−フランコニア語起源の語彙リストからは、ただの一語もイディッシュ語に入っていないのである。

 もう少し西部ドイツの中心に近い、フランクフルト周辺の言語も、イディッシュ語に入らなかった。つまり、イディッシュ語の起源に関する限り、西部ドイツは除外されてよい

 では、ドイツ・ユダヤ人は昔々、フランスからライン川を渡ってドイツへ移住してきたという定説が、間違っていたということなのだろうか?然り。ドイツ・ユダヤ人―アシュケナージ―の歴史は、書き直されなくてはならない。

 歴史の間違いは、しばしば言語学の研究によって訂正されるものである。アシュケナージはかつて、フランスから移住してきたとするこれまでの定説も、訂正を待つ歴史の誤謬の一つである。(二六二ページ)

(引用終わり)

 フランコニアというのはフランスのことであるから、ラインラントのユダヤ人がフランスからドイツに移住してきたという説は、言語の見地からは否定できる、ということである。これはライン川よりも西側の地域のことであろう。

 さらに、ライン川の東側をもっと行った地域、フランクフルトとは、ライン川の東側支流であるマイン側沿岸にある、中部に近いところである。ここにもイディッシュ語の語彙は見当たらないという。(フランクフルトとは正式名称を「フランクフルト・アム・マイン(Frankfurt am Main、マイン河畔のフランクフルト)」という。)

 ということは、フランスからドイツ中部あたり、つまり旧フランク王国の版図には、もとからユダヤ人はいなかったし、通説のようにユダヤ人がライン川を渡って、東に移動したということはないのだ、ということの言語学的証明である。

 ではイディッシュ語に含まれているドイツ語は、一体何なのだという事になる。ミエセスによればそれは実は「東中部ドイツ方言」なのであるという。

(引用開始)

 ミエセスは、イディッシュ語に最も大きな影響を与えたのは、いわゆる「東ドイツ方言」であると指摘している。この方言は、一五世紀頃まで、オーストリアのアルプス地方および、バイエルン地方で使われていたものである。つまり、イディッシュ語に入ったドイツ語は、東ヨーロッパのスラブ・ベルト地帯に接する、東部ドイツのものだったのである。(二六三ページ)

(引用終わり)

 イディッシュ語のドイツ語は、西部ラインラントとは全く関係がなく、東部のスラブ系民族の言語と関連性がある。ということは、イディッシュ語は、東ヨーロッパ(おそらくはポーランド、チェコ=ボヘミア)で独自に発達した言語であり、西部からの大量の人口移動がなかったとしたら、ここに元々住んでいたユダヤ人独自の言語だった、ということになる。

 ポーランドを中心とする、東ヨーロッパに元々住んでいた「ユダヤ系民族」、少なくとも一〇世紀以降定住していた「ユダヤ人」とは、紛れもない「カザール・ユダヤ人」である。イディッシュ語は、カザール移民の生み出した言葉なのだ。これで言語学的に西ヨーロッパにユダヤ人が渡ったことは、証明出来ないことがわかったし、東西ユダヤ人の間には、何の関連性も見出せないということになるのだ。

 それでは、なぜ東ヨーロッパに、カスピ海沿岸コーカサス地方にいたはずのカザール人が住んでいたのか。それは、一〇世紀のポーランド建国に深く関係しているのである。そのためには、まずカザール王国の歴史を簡単に振り返り、カザール王国の崩壊と、それによって大量の住民達が、どこへ移動したのかを見てみなければならない。

(つづく)