「128」 論文 アーサー・ケストラー著『ユダヤ人とは誰か』(2) 鴨川光筆 2011年2月4日
●カザール王国の歴史
カザ―ル王国の版図
ここでカザール王国の歴史を簡単に述べておく。
カザール人とは、トルコ系の種族であり、おそらくは五世紀にアジアの草原地帯から生まれでた民族である。
この「トルコ人」というのは、紀元一世紀頃、中国が放逐したフン族(匈奴だと言われる)に始まる民族である。これを発端として、数世紀に渡る西方への民族移動が始まったのだが、五世紀頃にはこれらの諸民族が「トルコ人」と呼ばれたわけである(四二、四三ページ)。
この頃のカザール人は、まだフン族(Hun)の支配下にあり、フン族の長アッチラ(Attila)の死後、東ヨーロッパに権力の空白地帯が生まれた。その後の六世紀に、コーカサス地帯の北方地帯で周辺の民族を吸収しつつ、頭角を現していったという。
七世紀にはおそらくは、初めてのトルコ人国家「西トルコ帝国=突厥(著者注記: とっけつ、トルキスタン。これに対して、中国のウイグル自治区は東トルキスタン)」に支配される。
この時、トルコ人支配者が使用していたカガン(khaan、著者注記:ハガンとも言う。おそらくはモンゴルの正統であるハーンと同じものだろう)といわれる称号を、後にカザール王国も採用することとなった。
七世紀といえば、東アジアにおいても巨大な仏教帝国「唐」ができたころで、この唐を支配していた鮮卑人もトルコ系民族である。
唐帝国の版図
トルコといえば今の小アジア(アジア・マイナー Asia Minorと言う。アナトリアAnatoliaという地名である)のことを思い浮かべるが、東アジア史を見ると、この西の外れにいるはずのトルコ人は、しつこいくらい登場する。
実はこのトルコ、つまりトルコ人が、伝統的に住んでいた地域トルキスタンとは、今の中国のウイグル自治区が東の外れであり、中央アジア全域が「トルコ」なのである。あのネパールを支配している王族も、トルコ人である。トルコというのはモンゴルと同義である。
この当時の中東の三大国は、ビザンチン、ササン朝ペルシャ、西トルコ(西突厥)で、このうちササン朝はアラブ・イスラム帝国に取って代わり、西トルコも部族単位に崩壊してしまう。この時、西トルコ最強の実戦部隊だったカザールは、イスラムの軍隊の進撃を何度も食い止め、北方から東ヨーロッパに渡るルートの入り口である、コーカサスの地(カスピ海と黒海の間)の防衛に成功する。
東欧の地図
こうして八世紀に、周辺のマジャール人とブルガール人を吸収して、事実上の王国が登場するにいたったのである。
マジャール人はハンガリー人であり、ブルガール人はブルガリア人である。この二つの民族も、カザール人と共に、元はトルコ系民族であり、ボルガ河の辺りにいたのである。
八世紀の間カザールは、イスラムの攻撃にさらされるが、七三〇年にアビダヤルの戦いで、イスラム軍を完全に打ち負かす。この頃に、ビザンチン帝国とカザールの王カガンとの間に縁組みが成立し、ローマ皇太子とカザール王女の間に出来た子供が、ビザンチン皇帝レオンであるという。つまり東ローマ帝国の皇帝にはカザール人がいたことになるのである。
(著者注記: ローマ皇太子というのはビザンチン帝国皇帝の皇太子のことである。ビザンチン帝国とか東ローマ帝国などというが、ビザンチン帝国は正式には「ローマ帝国」であり、古代ローマから切れることなく正統に継承してきた帝国である。実は、この二〇〇〇年紀に、千年以上続いた最長の国はビザンチン帝国である。次が、約五百年続いたイスラム王国のアッバース朝である。)
●カザールは世俗と聖俗の二人の支配者がいた
カザール王国の首都は、ボルガ河河口のイティルというところにあった。興味深いのは、カザールの王制である。カザールには、カガンとベク(bek)という支配者がいる。
(引用開始)
称号をカガンというカザールの王についていえば、彼は四ヶ月に一度しか人前に姿をあらわさない。人々は彼を大カガンと呼ぶ。
彼の副官はカガン・ベクと呼ばれる。ベクは軍隊を指揮し、補給し、国家の問題を処理し、人前に出て戦いを指揮する。近隣の諸王は彼の命令に服する。彼は毎日、カガンの御前に伺候する。その時には尊敬と謙譲を表すため裸足で、手には木の棒を持つ。お辞儀をし、坊に火をつけ、燃え尽きると王の右側の玉座に座る。
ベクに次ぐ地位にいるのはクーンドール・カガンと呼ばれ、その次はジャウシグル・カガンと呼ばれる。
習わしとして大カガンは、人々と付き合わず、話もせず、今述べた人々以外に会うことも許さない。人を逮捕したり、放免したり、罰を与え、国を治める力は、彼の副官カガン・ベクのものである。(七四ページ)
(引用終わり)
つまり実質的権力は、副官であるベクが握っていて、大カガンはその上に君臨する権威である。ベクが宰相であり、カガンが王であるということも出来るが、ナンバーワンが名誉職的象徴であり、ナンバーツーが政治と軍事の実権を握るという体制は、日本とそっくりであることにもケストラーは触れている。
(引用開始)
カガンに聖性が付されていることは見逃せない。議論の余地のない点である。最終的な犠牲を伴うかどうかはべつとしてもである。彼は尊敬されるが、事実上は隔離され、人々から切り離され、最後にたいそうな儀式をもって葬られる。
国家の問題は軍の指揮も含めて、ベク(時にはカガン・ベクと呼ばれる)によって処理され、ベクはすべての権力を振るう。この点では、アラブ史料も現代の歴史学者も一致しており、現代の学者はカザールの統治システムを普通「二重王制(ダブル・キングシップ)」といっている。カガンは宗教上の力を、ベクは世俗の権力を代表するのである。
カザールの二重王制は、これまでスパルタの両頭政治や、トルコのいくつかの部族に見られるような、外見はよく似た二元指導制と比較されてきた。しかし、この比較は適切ではないと思われる。
スパルタの二人の王は、各々二つの指導的家系の子孫であり、同等の力を持つ。遊牧民部族の二元指導制については、カザールの人の場合のように、基本的な機能の分担をしていたという証拠がない。
もっと妥当な比較は、中世から一八六七年までの、日本の統治システムである。そのころの日本では、世俗的権力は、集中的に将軍の手中にあり、ミカドは遠くから聖なる象徴として崇められていた。
(引用終わり)
日本とユダヤの共通点は、面白いほど沢山ある事が知られている。それを「日ユ同祖論」といって、「失われた十氏族」探しと結び付けられて、沢山の本が出版されている。このカザール王制のユニークさは、日本にしか類似点を見出せない歴史的事実である。だから祖先が同じであるとか、一三番目の氏族として、日本に逃げてきた、ということにはならない。
こうして国家を作り上げたカザール人達は、八世紀、突如ユダヤ教に改宗する。なぜユダヤ教に改宗したのか。それは宗教的な理由ではなく、八世紀の中東情勢を背景にした、政治的動機によるものである。
この当時、アラブに征服された国や、キリスト教国家であったビザンチンでは、歴代の皇帝がユダヤ人迫害を執拗に行なっていた。ユダヤ難民がコーカサスに断続的に訪れていたため、彼らがカザールにユダヤ教とアルファベットを伝えたのである。このためユダヤ教の教義自体は、カザール人にすでに知られていた。
しかし、国家としてユダヤ教に改宗するという前例のない行為は、当時の中東情勢、つまりキリスト教勢力であるビザンチンと、イスラム勢力であった西カリフ国(ウマイヤ朝)の二つの勢力に、二極化していたことが背景にある。
カザールは、この二つの国家の間にあって、第三勢力としての自立的立場を維持しなければならなかった。
しかし、ビザンチンとウマイヤ朝の進んだ一神教の教義に対して、遊牧民のシャーマニズムでは時代遅れで太刀打ちできない。そこで一神教の宗教を選ばざるを得なくなるのだが、だからといってイスラム教、キリスト教のいずれをも選択することは、どちらかの国の従属国とならざるを得なくなり、独立が保てなくなってしまう。
そこで、両者に共通の教義を持つ「中立」の宗教、ユダヤ教を採用するにいたったのである。さらに、ユダヤ教を選ぶことによって、両者に対する優位をも確保することが出来たのである。それについて、カザールの王ヨセフのわかりやすい説明が取り上げられている。
(引用開始)
イスラム国とビザンチンからの使者の改宗要請に対して、カザールのブラン王は、策略を用いた。王は論者を一人ずつ召集し、キリスト教徒に、他の二つの宗教のうちどちらが真理に近いかとたずねた。キリスト教徒の答えは「ユダヤ教」だった。王はイスラム教徒にも同じ質問をし、同じ答えを得た。またしても中立主義が勝利したのである。(一一一ページ)
(引用終わり)
この文章は、スペインのコルドバ・イスラム教国(後ウマイヤ朝)の宮廷ユダヤ人であった、ハスダイ・イブン・シャプルートに宛てた手紙の中に記されているものである。
この書簡は、カザール王国が本当にコーカサス地域に実在したことを物語る、重要なものなのである。ハスダイは、事実上の財務・外務大臣という、非常に高い地位に上り詰めた最初のユダヤ人であり、その名声はカロリング朝、神聖ローマ帝国、ビザンチン(つまり東欧以外)に鳴り響いていた名宰相である。
つまり、ユダヤ教というイスラム、キリスト両宗教の「公分母」を選ぶことによって、常に二対一という優位に立つことになるわけである。こうして政治的理由によって、ユダヤ教に改宗することで、コーカサス地域において勢力バランスを保つことが出来るようになった、というわけである。
この書簡の中で更に興味深いことは、彼らのユダヤ教はカライ派に似ている、ということである(一一七ページ)。
カライ派とは、八世紀にペルシャで生まれたユダヤ教原理主義で、クリミア半島に伝わった。カライ派は、旧約聖書の中の最初の五章である「モーゼ五書」と言われる部分(これをトーラー Torahという)だけを、信仰の対象とする。その意味で原理主義だと言われる。トーラーの細かい注釈書である「タルムード(Talmud)」は、異端の書として排撃した。
カライ派は今でもこのコーカサス地域に、集落単位で存在しているらしい。カライ派の指導者は、アナン・ベン・ダヴィッドという人である。
この運動に対抗して論陣を張り、カライ派を叩きのめして、ユダヤ教のメインストリートから追い出したのが、バビロニアの学院長サアディア・ベン・ヨーゼフ(Saadiah Ben Joseph)である。
バビロニアは、タルムードを完成させ、ユダヤ教学問の中心になっていた。当時のユダヤ教学問の権威をガオン(複数形をゲオニム)というが、サアディアはその中の代表格で、「信仰(啓示)と理性」の統一を、紀元前後のアレクサンドリアの哲学者フィロン以来、初めて述べた人で、後のマイモニデスやトマス・アクィナスの思想の元になった人物なのである。
このバビロンに、カザール人達の使節が訪れて、タルムードをカザールに持ち帰っていたらしい。カザール王ヨセフのハスダイ宛の返信書簡の中には、初代ブラン王の後のオバディア王の時に、タルムードを取り入れたことを示唆するような記述がある(一一七ページ)。
さらにヨセフは、カザール人の系図にも触れている。ヨセフの言によれば、カザール人の先祖はノアの三人の息子セム(Shem、黄色人種)、ハム(Ham、黒人種)、ヤペテ(Japheth、白人種)のうちヤペテであるという。
またさらにそのヤペテ孫で、トルコ人の祖トガルマの子孫であり、さらにその一〇人いる子供、ウイグル、ドゥルス、アバール、フン、バシリイ、タルニアフ、カザール、ザゴラ、ブルガール、サビルのうち七番目のカザールの子孫であるのだという(一一六ページ)。
その他にも、カイロの「ゲニーザ」という、エジプトの古いシナゴーグの隠し場所で発見された資料や、一二世紀スペインのユダヤ人旅行家、トゥデラのベンヤミンによる証言、一一世紀の著名なユダヤ詩人イェフダ・ハレヴィの詩「クザーリ(=カザール)」などで、カザール王国の存在が確認されている。
カザールの首都はイティル(Itil)というところだが、その他にも重要な拠点としてサルケルという砦がある。この砦は九世紀にバイキングの一派であるルス人(Rus)の侵略を食い止めるために、ドン河下流に作られた砦である。
(著者注記: ルーシとも言う。ベラルーシという言葉に残っている。白いロシア、「白系ロシア」という意味である。大相撲の大鵬は、白系ロシア人である。)
このロシアという言葉の元となったルス人の台頭によって、一〇世紀にカザールは衰退し、首都を攻略され、九六五年に、独立国家としては終了する。
最終的には一三世紀、モンゴルのバトゥによって完全に一掃されてしまうまで、事実上民族集団は存在していたのだが、この時代までの約三世紀の間にカザール人達は、東ヨーロッパに移動し、二〇世紀にまで存在し続けた巨大ユダヤ・センターを築き上げることになったのだ(二一二ページ)。それは現在の、ウクライナ、グルジア、ベラルーシ、リトアニア、ハンガリーそしてポーランドにいたる、広大な地域に渡っている。
(著者注記: この地帯を『ユダヤ歴史地図(明石書店)』の著者マーティン・ギルバートは、「ユダヤ人強制集住地域」という、巨大な地域として記している。現在のチェコであるボヘミアからウクライナのあたりまでの、広大な地域は、アシュケナージ・ユダヤ人の故郷だという説がある。ケストラーの本書のテーマでもある。ナチの強制収容所がこの一体に集中していた事実は、何の偶然であろうか。)
●カザール人達のポーランド、ハンガリー移住、東欧での繁栄、人口爆発
九世紀から断続的に行なわれた「カザール・ディアスポラ」(カザール人の離散)の影響で、ハンガリーにカザール人が移住したという形跡が見られることを、本書第二部の中の「ハンガリーにおけるカザール・ユダヤ人の影響」で述べている。
(引用開始)
カザール国滅亡のかなり以前に、カバールと呼ばれるカザール人のいくつかの部族が、マジャール人と合流してハンガリーに移住している。
さらに一〇世紀には、ハンガリーのタクソニー大公が、カザール移民の第二陣を彼の領地に迎え入れている。また二世紀後の一一五四年には、ユダヤ法を遵守する軍隊が、ダルマチア(ダルメシア犬の産地)でハンガリー軍と共に戦っていたと、ヨハネス・シンナムスというビザンチンの年代記作者が記している。
ローマ時代からの「真のユダヤ人」も、少数はハンガリーに住んでいた可能性はあるにしても、現代のハンガリーのユダヤ人の大部分は、ハンガリー古代史で活躍したこのカバール−カザール人を祖先としていることには、ほとんど疑いの余地はないだろう。(二一四ページ)
(引用終わり)
この時代のハンガリーは、カザール王国のカガンとベクと同じような二重王制(ダブル・キングシップ double kingship)を敷いていて、王とユラあるいはグラという称号を持つ将軍とで、二分されていたらしい。
この後一三世紀には、国王アンドルー二世の王室財務官として、テカというユダヤ人がいたということが確認されている。ここでもまたしてもカザール・ユダヤ人は、財務担当をしていたわけである。
さらにこのカザール移民は、ドナウ側上流アルプス地域にも移住していたようで、この地域からオーストリアのユダヤ人コミュニティーもローマ時代からのものではなく、カザール人の西寄りルートの分岐であるという。
オーストリアは九五五年頃までは、カバール・カザール人のハンガリー統治下にあって、二二人のユダヤ人君主がいたという記録がある(二五九〜二六〇ページ)。
このハンガリーへ移動したユダヤ人は、ルーマニアやウクライナへ移動した流れと共に、ポーランドへ移動した大集団の分岐としてとらえられるべきであるという。
カザール人の大部分がポーランドへ移住したというのは、ポーランド建国の時期と、カザール王国の砦サルケルの陥落時期が、ほぼ一致していることからも見て取れる。
ポーランドはいくつかのスラブ系民族が同盟を結び、最強であったポラン人が中心となって、九六二年に建国された。サルケル砦が陥落したのも九六二年である。(二二〇ページ)
初代王はビャストという人物だが、言い伝えによるとビャストを推薦したのはアブラハム・プロコウニクという富裕なユダヤ商人であったという。
ポーランドのユダヤ人は、一四世紀のカシミール三世の治世から大発展・繁栄を遂げていく。この時代に勅令が発せられて、ユダヤ人はシナゴーグ、裁判所、学校の設立や土地の所有、職業選択の自由をみとめられるという、当時のヨーロッパのユダヤ人事情から見ると、非常に寛大な処遇が与えられることとなった。(二二四ページ)
このシナゴーグは、キリスト教会よりも立派で、高く聳え立ち、壮麗な外観だったことを、当時のローマ教皇が嘆いている(二二五ページ)。こうしてポーランドには、カザール人がかなりの数住んでいたことが論証される。これを裏付けるために、ケストラーは大雑把ながら、非常につじつまの合う数字を挙げている。
(引用開始)
まず数に関してであるが、これはまったく信用するに足る情報がない。アラブ側の資料によると、イスラム―カザール戦の時のカザール軍は、三〇万人とされている。これはかなり誇張された数字であるとして、割り引いて見積もっても、当時のカザール全人口が少なくとも五〇万人はあったと考えられるであろう。
イブン・ファドランは、ボルガ・ブルガール人のテントの数を、五万としている―ということは、総人口が三〇万人から四〇万人ということになろうか。これは、カザールの人口規模とほぼ同じである。
一方で、一七世紀のポーランド・リトアニア王国内(著者注記: 両王国とも、地域覇権国であった)のユダヤ人の数が、最近の歴史学者によって五〇万人と推定されている。(これは全人口の五パーセントにあたる)。
これらの数字は、カザール人の、長期にわたってじわじわと進行した、ウクライナ経由ポーランド・リトアニア着の民族移動についての歴史的事実と、さほど矛盾をしていない。
彼らの移動はまず一〇世紀末、サルケル砦(とりで)の滅亡と、ピャスト王朝出現のころに始まり、モンゴル侵入の時代には加速がついた。そして一五世紀には一応、移住完了となった。
この頃までに、草原地帯はすっかり無人と化し、カザール人は地の表から拭い去られたかのように見えたのであろう。(二二六ページ)
(引用終わり)
カザール人達は、ウクライナ経由でポーランドに達し、約五〇〇年をかけてカスピ海周辺からの移動定住を繰り返して、五〇万の人口が移動したということが書かれている。カザール最盛期の五〇万という数字が、一七世紀にはほぼ同数であるということを述べているのである。
そして「ユダヤ百科事典」の「統計」の項によれば、一六世紀の全世界でのユダヤ人の数は約一〇〇万人であったという。ということは中世の頃にユダヤ人は、その半数がカザール人であったということになる。(二三七ページ)
こうしてポーランドを中心とした、中世東ヨーロッパのユダヤ人コミュニティーの中心は、人口の面からまたもや西からではなく、東から来たカザール人によるものだったということを、ケストラーは論証しているのだ。
カザール・ユダヤ人は、東欧でも収税吏や金貸しなどという、排他的地位に就いていたようだが、西ヨーロッパと違うのは、シュティトゥルというコミュニティーを形成していったことである。
シュティトゥルとは、西ヨーロッパにおけるゲットーのような、都市の旧城壁の周辺に建てられた狭苦しい場所ではなく、半農半都市の自給自足の田舎町のことで、ポーランドとリトアニアに限られていたという。これが大都市と農村部を結び付けるネットワークとして、ポーランド国中に張り巡らされる。(二三二ページ)
こうしてカザール・ユダヤ人達は、東ヨーロッパで繁栄し、一九世紀までに爆発的に人口が増加したのである。
ポーランド分割後の帝政ロシア領土内部には、巨大なユダヤ人集住地域が作られている。これはカスピ海のクリミア半島の辺りから、バルト海沿岸にわたって、南東から北西に伸びていて、今のウクライナ、ベラルーシを中心とした地域になる。
第二次大戦後ポーランドは、ドイツ側に領土が移動させられたので東にずれてしまい、現在の地図に照らし合わせた場合、ユダヤ人集住地域にポーランド領土は入らない。この地図は、明石書店から出版された、『ユダヤ歴史地図』と照らし合わすことで確認出来る。
この地域で一九世紀末に、ユダヤ人に破壊と暴力行為を行なう「ポグロム(Pogrom)」が始まるのだが、この時のユダヤ人難民が、アメリカへの初めてのユダヤ大量移民であり、シオニズム運動によるはじめてのパレスチナ移民へとつながるのである。戦後のイスラエルへの移民も、主にこの地域の人々である。一般にこれらの人々はドイツ系ユダヤ人「アシュケナージ」と呼ばれている。
ポグロムの様子
ところが、これは間違っている。現在主流である大多数のユダヤ人は、これまで見てきたように、東ヨーロッパのカザール人である。人種的にも宗教的にも、先祖をパレスチナに持つ「本当のユダヤ人」とは関係がない。
この場合の「本当の」というのは、「セム」という種族的な言葉で呼ばれる「くくり」であり、宗教的には聖書のカナン(パレスチナ)にモーゼが、神から約束されたように定住した先祖を持つ人々である、ということになっている。
ユダヤ人とはもともと、バビロン(今のイラクのバグダッドのそば)やアレクサンドリア、パレスチナに最も多く定住し、少なくとも紀元前六世紀の「バビロン捕囚、バビロニアン・イグザイル(Babylonian Exile)」後の離散によって、地中海沿岸に散った人々である。これを「ディアスポラ」という。バビロン捕囚とその後のユダヤ人の神殿建設の伝承は、歴史的事実なのかどうかは、定かではない。
バビロニア捕囚の様子
「ドイツのユダヤ人」とは、誰のことか。ローマ時代の後、イタリア半島の付け根であるジェノヴァやヴェネチアから、アルプスの三本の峠を越えて、ライン川岸地帯(ラインラント)にたどり着き、細々とした小コミュニティーを作って生きてきた真っ当な人々のことである。
●結論
アーサー・ケストラーが、簡潔に数字と言語の点から、証拠を挙げて論証していることからわかるのは、次の三つである。
「言語と数値から、大量のユダヤ人がライン川地域から、東ヨーロッパに渡った証拠はない」
「大量のユダヤ人がカスピ海・黒海地帯から、西へと移動したことは、言語・歴史・数値からその形跡がある」
「現在の大部分のユダヤ人は、カザール人を先祖に持つ」
現在その九〇パーセントを占めるといわれ、イスラエルで優勢であるアシュケナージ・ユダヤ人は、ラインラントとは何の関わりもないということになる。ドイツ系ユダヤ人や宮廷ユダヤ人とは、アシュケナージではないということである。
●現代のユダヤ問題
現代のユダヤ人の大半は、一九世紀末から戦後にかけて、ロシアやポーランドを中心にした東欧から移住して来たアシュケナージである。大半は北アメリカ(特にニューヨーク)とイスラエルに住み、一九六七年の第三次中東戦争以降に本格化した「ザ・ホロコースト(The Holocaust)」(ユダヤ人虐殺は、他の民族虐殺とは異なるものだという思想)の影響を受けている。
彼らは「アンチセミティズム」とは無関係の「白人」である。ユダヤ人やアラブ人を指すセム人(セマイト Semiteという)は白人ではない。白人には「人種差別」ということ自体が当てはまらない。人種差別とはレイシズムといい、黒人やアジア系に対して使われるものだ。
彼らの先祖、カザール人も「政治的にユダヤ人に改宗をした」というのだから、神に選ばれた人々ではないはずである。少なくとも聖書の民の子孫ではない。
カザール・ユダヤ人はそもそも、カスピ海から黒海、そこからバルト海の地域にいたる地域に住んでいた。この人々が一九世紀には、ライン川より東の地域にあふれていたわけである。ライン川の東側の地域とは、本来ユダヤ人がいなかった地域「ユーデンライン」という。
ユダヤ人がいたのはライン川の西側、ラインラントである。そこには少数のユダヤ人がつつましく生活していた。
ラインラントの地図
大きな歴史の全体像から考えれば、アシュケナージ・ユダヤ人の人口移動は、第二次大戦の直前まで続く。ヒトラーによるユダヤ問題の「最終解決」とは、ナチスから見ればカザール人の祖国帰還事業だったという見方がある。
ヒトラーによる「最終解決」とは、大量のユダヤ人を東ヨーロッパに列車で輸送したことを言う。この輸送は一般に「死の移送」と呼ばれる。戦後のヨーロッパ東西分割も、東ドイツがその昔カザール人が移住してきた地域の最西端であると考えると納得がいく。
こうした議論が「ユダヤ陰謀論」などで存在しているのかどうかは分からない。ただ、ケストラーの提起した問題は、シオニスト運動から現在に至るパレスチナ問題の、つじつまの合わない線をつなげることの出来る一つの仮説である。
●宮廷ユダヤ人出身のロスチャイルドとラインラント出身のロックフェラー
現在、世界の金融ユダヤ人勢力を二分するといわれているロスチャイルドとロックフェラーは、両者ともラインラント出身のドイツ系ユダヤ人である。アシュケナージではない。セファラディであるともいえない。
初代マイヤー・アムシェル・バウアー(Mayer Amschel Rothschild 後に屋号のロスチャイルドをつける)は、フランクフルト・ゲットー出身である。ゲットーとは、ラインラントのユダヤ人問題を解決するために、古い城壁の周辺に作られた狭い通路のような居住区である。
マイヤー・アムシェル・バウアー
フランクフルトとは、正式名称をフランクフルト・アム・マインといって、マイン河沿岸のフランクフルトという意味なのである。マイン河というのは、ライン川の支流であり、その付け根にユダヤ人が古くから住んでいた三大都市の一つマインツがある。マイヤー・アムシェルが、この地域の近くであるヘッセン州ハーナウ侯につかえ、その莫大な資産を管理運用していた。ハーナウ候の死後、その資産を相続し、ここからロスチャイルドの歴史が始まる。
一方のロックフェラーは、その先祖がフランクフルトの北のウェスト・ファーレン(英語ではウェストファリアといって、三十年戦争終結条約の名前となった) という地域の出自であるらしい。
ドイツにおいてはロッケンフェラーという名前であり、先祖達が住んでいたジーゲンやヴィードといった地名は、やはりこの辺りに今でもある。ただし彼らはゲットーに住んでいたのではなく、農民であったらしい。だから本当にユダヤ人であったかというと、これもまたはっきりしない。
この子孫が一六世紀頃から、アメリカのニュージャージーに移り住んで、そこで土地を手に入れて何代にもわたって定住していたのだ。
スタンダード石油を設立した初代ジョン・D・ロックフェラーの父親は、いわく付きの人物である。二つの名前を持っており、若いころは馬ドロボーをしたり、女性に暴行を働いて訴えられたりしたようである。ガンに効く薬を発明して「ドク」という愛称で呼ばれていた。
ロックフェラーがオスマン・トルコ出身のマラーノであり、セファラディの家系であるという説もあるらしいが、どう見てもドイツ系であることを考えると、セファラディとはどうもつながらないのである。
オランダ出身であり、ニューヨークから織物の行商をしにアメリカ全土を渡り歩いた「カーペット・バガー」であれば、セファラディを先祖に持つと考えられなくもない。セファラディは一四九二年にスペインを追放された後、ポルトガル経由でオランダに渡ったからである。この流れは世界の海洋支配の移り変わりとリンクしている。各国の財務官であったセファラディの高度な資産運用能力が、この三国を移動していったからである。
戦国時代の日本に来ていた西洋人が、種子島のポルトガル人から、ルイス・フロイスらのスペイン人、最後には長崎のオランダ人と付き合うようになったことともリンクしている。
ただウェスト・ファーレン というのは、ラインラントの北のウェスト・ファーレン州というところである。ここはウェストファリアという名前で有名なところである。オランダの独立が正式に承認された、ウェストファリア条約が結ばれたミュンスターという都市があるところで、スペインから逃れてきたセファラディと何らかの関係があるのかもしれない。いずれにせよ、いまだ状況証拠に基づいた憶測に過ぎない。
非常に大雑把ではあるが、彼らがその後のアメリカにおいて、東部エスタブリッシュメントを形成していったのであり、アメリカを金融支配してきた「金融ユダヤ人」なのである。少なくともアメリカの金融ネットワークの中心となった。
ロスチャイルドとロックフェラー、あるいはJ・P・モルガンやワスプ系財閥との関係は複雑であり、また別の機会に置く。ただ言えるのは、彼らはその出自、血統からは、カザール・ユダヤ人との関係はないということになる。
ということは、「金融ユダヤ人」(彼らの出自はアシュケナージやセファラディの「宮廷ユダヤ人」である)と「シオニスト・ユダヤ人」というのも宗教・血縁・人種のつながりはないのである。
こうした問題もまた別の書評で行なおうと思っています。
(終わり)