「132」 論文 私のガンダム論(4) 鴨川光(かもがわひろし)筆 2011年3月6日

●大友克洋と『幻魔大戦』―「ハルマゲドン接近!!」

 ロボットアニメの話に戻りましょう。ガンダム以後、ロボットアニメはアニメーターによって新しい命が吹き込まれていくようになります。それはもちろん金田さんが中心です。

 金田氏が最初にポピュラーなところで注目を浴び始めたのは、映画『幻魔大戦』です。あの宮崎アニメの『風の谷のナウシカ』もそうなのですが、幻魔大戦の映画化のほうが一年早い、一九八三年です。

『幻魔大戦』

http://www.youtube.com/watch?v=BO_ISJaJ5Sg
YouTubeから 幻魔大戦の予告編(これだけでも金田氏のすごさが分かります。)

 幻魔大戦はロボットアニメではなく、SF作家平井和正(ひらいかずまさ)原作のSF作品です。石ノ森章太郎のマンガで六〇年代に『少年マガジン』に連載されていました。八〇年代にはすでにSFマンガの古典的作品となっていました。

 石ノ森章太郎はギャグ漫画家ではなかったので、七〇年代でもまだ精力的にマンガ作品を発表していました。

 これに対して、赤塚不二夫氏は、七〇年代初頭にはすでに原稿が荒れてきて、ギャグが枯渇し始めていました。だから「がきデカ」や「すすめパイレーツ」の入り込む余地が出来たともいえるのです。藤子不二夫も新しいギャグマンガは書けなくなっていました。しかし幸運にも、七九年のドラえもんの再アニメ化によって、子供商売が出来るようになったので息の長い活動が出来たのです。それから、七〇年代にはすでに事実上、二人で別々にマンガを描いていたという理由もあるでしょう。

 「幻魔大戦」は、どちらかというと超能力者をフューチャーしたオカルト的な作品です。石ノ森章太郎は六〇年代から、特に七〇年代のUFO・オカルト・超能力・超古代ブームに乗って、様々なマンガを描いていました。トキワ荘のSF担当は石ノ森章太郎だったのです。

 私の四つ上の兄は、特に石ノ森章太郎が好きで、私が小学校に上がる前までにはすでに、家の中に石ノ森章太郎の単行本の山が出来上がっていました。石ノ森章太郎のマンガはとにかく古いのです。

 平井和正の方はあの『エイトマン』の原作者です。私としては『ウルフガイ』の作者であることがなつかしいのですが。石ノ森章太郎と組んで、こうしたマンガの原作に関わっていた作家です。

 一九八三年に『幻魔大戦』は突如、劇場アニメとしての公開が決定します。当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった角川春樹が製作し、原田知世(はらだともよ)が主題歌を歌っていました。監督は『銀河鉄道999』のりんたろうです。幻魔大戦は角川映画初のアニメーション映画でした。七〇年代後半から八〇年代前半の日本映画は角川映画中心に回っていて、若い角川春樹は時代の風雲児でした。

  

角川春樹               原田知世

 『幻魔大戦』はテレビアニメになったこともなく、それ程人気のマンガではありませんでしたし、古く、忘れ去られていたマンガだったのです。それでもSFファンを中心に『幻魔大戦』の評価は高かったのです。私は「何でこんな古いマンガが、いまどき映画になるのだろう」と思う半面で、満を持しての登場だったという感じもありました。

 製作スタッフにはそそうたるメンバーが名を連ねていましたが、この映画の目玉は何と言っても大友克洋(おおともかつひろ)によるキャラクターデザインでした。

大友克洋

 大友克洋のことを書くのを忘れていました。大友克洋は吾妻ひでおと並んで、ニューウェーヴ・マンガブームの火付け役です。絵のうまさは比べられませんが。

 大友克洋の絵のリアリティ、その見事さは、マンガ界屈指のもので、絵の最も上手い漫画家の三本の指に入ります。五本ではありません。三本です。他の二本は、池上遼一(いけがみりょういち)と星野之宣(ほしのゆきのぶ)です。この三人が上手いのです。

  

池上遼一           星野之宣

 池上遼一は『男組』、『傷負い人』、『クライング・フリーマン』などが代表作で、主に小池一夫(こいけかずお)を原作としたコンビの作品が有名です。漫画家というよりも劇画作家です。

『男組』

 池上氏はこれだけ絵が上手いのだから、おそらく芸大なり美大なりを卒業したのだろうと私は思っていました。ところが絵のキャリアは看板屋からのスタートで、後に、貸し本漫画家となり、水木しげるのアシスタントになりました。漫画家は皆そうかもしれませんが、絵のキャリアは完全なるたたき上げです。

 NHK朝の連続ドラマの『ゲゲゲの女房』の中にも、池上遼一をモデルにした絵の上手いアシスタントが登場しています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E4%B8%8A%E9%81%BC%E4%B8%80
ウィキペディアから 池上遼一の記事
http://www.ne.jp/asahi/ocl/irdb/
池上遼一データ・ベースというサイト(ここで絵を確認してみてください。)

 『ゲゲゲの女房』に登場するもう一人のアシスタントのモデルはおそらくつげ義春でしょう。つげ義春もこのブームに乗って、リヴァイヴァル的に、メインストリートに出てきましたが、あらゆる「通な」マンガ論に登場するので、いまさら私がいう必要もないでしょう。

 星野之宣は『ヤマタイカ』などが代表作であるらしいのですが、私は読んだことがありません。『ヤマタイカ』も星雲賞を受賞しています。星野之宣といえば短編集が面白くて、『サーベル・タイガー』とか『冬の惑星』が素晴らしいのです。題材も、聖書の話からSF、古代史など、中学生だった私は星野之宣氏の作品からいろんなことを学んだように思います。

『ヤマタイカ』

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E9%87%8E%E4%B9%8B%E5%AE%A3
ウィキペディアから 星野之宣の記事

 星野之宣といえば、もう一人、影響力のある人に、諸星大二郎(もろぼしだいじろう)がいました。諸星大二郎は、いわゆる「上手い」というのではなく、独特の画風と、不思議な「深い夢を見るような」漫画でした。

 諸星大二郎も星野之宣と同様『アダムの肋骨(ろっこつ)』などの短編集が素晴らしかった。

『アダムの肋骨』

 大友克洋の話からかなり脱線しましたが、八〇年前後の漫画の新しい流れで連想するのはこのようなところなのです。何でもかんでも手塚治虫を出せばマンガ論になるというものではないのです。

●大友克洋―アメリカン・ニューシネマの日本版のような漫画

 大友克洋といえば『AKIRA』とか『童夢(どうむ)』なのでしょう。八三年くらいなのでしょうか、「大友の(名前のほうを何と読めばいいか分からなかったので、おそらくファンは皆「おおとも」と呼んでいたのではないだろうか)新しいマンガは「ドーム」というらしい」という話が広がって、アメリカンコミックのような分厚い、大きな雑誌のようなサイズの大友マンガがここから始まったのです。

 それまでのモノクロなイメージの大友マンガが、なんだか大げさで、非現実的なものになったので、私にとってはどうも期待外れの感じがしました。以来「おおとも」は読んでいません。

 この時代、とにかく『マッドマックス』のような、核戦争後の無政府状態を題材にしたようなマンガや映画が多かったように記憶しています。あの『北斗の剣』もその部類でしょう。

 大友克洋といえば、七〇年代から書いてきた、日本の若者の現実、本当に日常の、つまらない、貧乏な若者の現実をドライに描いたマンガが八〇年代の、少しさめた時代になって、ようやく評価されだしました。

 そう、「おおとも」といえば、短編集なのです。『さよならにっぽん』や『ショート・ピース』『ハイウェイ・スター』そして『気分はもう戦争』です。それと初期のシリアスな短編集が評価されました。アメリカに空手修行に行く若者や、売れないロックバンド、ドラッグにおぼれる若者、といったつまらない日常を、精巧な画力によって、リアルに表現したところが斬新だったのです。

 「今につながる新しい」というのは、手塚治、トキワ荘漫画家や、円谷プロの特撮ものから発達してきた、「それまでのマンガ」とは異なったという意味です。その意味で「新しい」マンガを作ったのはこの大友克洋と吾妻ひでおです。

 この時代の寵児が、突如、『幻魔大戦』というマニアに長く読まれたマンガ(そして小説)のキャラクターデザインを担当したのです。しかもそれまで幻魔大戦の長く親しまれてきたキャラクターは、石ノ森章太郎の手によるものだったのです。石ノ森章太郎は角川春樹と共に映画の製作者です。

 その大友克彦のリアルなキャラクターが、あの金田伊巧氏のアニメーションで動いたのです。これが時代です。画期的な時代だったのです。

 「おおとも」の貧乏くさい、汗臭い、あまりにもリアルなキャラクターが、金田の独特のリズムで動いた。これに当時の若者は驚いたのです。

 『幻魔大戦』は、ほんの一瞬ですが、八三年の夏、社会現象になりました。映画の初日には徹夜の行列が出来、それを各映画館からラジオが中継するということまであったのです。私の兄は、夏の恒例の行事のように徹夜で並びました。

●竹宮恵子(たけみやけいこ)―異色の女性SF漫画家

 『幻魔大戦』が劇場公開された三年前の一九八〇年には、竹宮恵子の『地球(テラ)へ』というマンガがアニメ映画となって劇場公開されました。手塚治虫の「火の鳥」を連載していた「マンガ少年」(朝日ソノラマ)という雑誌に掲載されていましたが、ジャンプやマガジンといった少年誌に比べると、マイナー色の強い雑誌でした。そのためか『地球へ』は、一部のマンガファンの間で評判になっていたマンガなのです。

  

竹宮恵子        『地球(テラ)へ』

 しかも竹宮恵子氏は女性であるにもかかわらず、少年誌に書いていた。これは今でも珍しいことではないでしょうか。女性漫画家は女性漫画家独特の世界の中にあって、男性誌・少年マンガの世界とは異なった住人なのです。

 その住人であった竹宮氏はいきなりSFマンガを少年誌に書いたのです。そしてその評価も高かった。星雲賞のコミック部門が一九七八年に創設され、その最初の受賞作品が『地球(テラ)へ』だったのです。

 しかも一度もテレビアニメになっていないのに、その評価の高さからいきなり映画化されたという異色のマンガでした。当時は「宇宙戦艦ヤマト」と「銀河鉄道999」といった松本零士ブームでしたが、両方とも一度はテレビで放送されたアニメです。

 『地球へ』はこれとは別の流れのマニアのためのSFアニメブームの走りとなったのです。その翌年に公開されたガンダムと、その後の幻魔大戦はまさにその流れにあったのです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%AE%AE%E6%83%A0%E5%AD%90
ウィキペディアから 竹宮恵子の記事
http://www.youtube.com/watch?v=c4BWyb14SOs
YouTubeから 「地球へ」の予告編
(著者注記:私は少女マンガの線の細さが嫌いだったのですが、今見るとなかなかキャラクターがしっかりしています。ダ・カーポという夫婦デュオによるテーマソングがいい曲です。)

●「ハルマゲドン接近!!」

 『幻魔大戦』に戻ります。『幻魔大戦』といえばこの決め台詞「ハルマゲドン接近!」。このキャッチフレーズは一世を風靡しました。

 新約聖書のヨハネ黙示録にある、最終戦争「アーマーゲドン」は、元のギリシャ語か何かでは最初にHがついてハルマゲドンと言ったのでしょう。石ノ森章太郎氏は、この言葉を自分のSFマンガで七〇年代に、盛んに使っていました。響きがかっこいいので私も盛んに普段の会話で使っていました。

 石ノ森章太郎はアーマーゲドンといっていたのに、映画『幻魔大戦』では「ハルマゲドン」といい方を変えていました。私は何を急に、何をいまさら「アーマーゲドン」を言い出したのかなあと思いました。石ノ森章太郎の『幻魔大戦』には、その言葉が使われていた記憶がないのですが。

 それが『幻魔大戦』の映画の宣伝では「ハルマゲドン接近」などと決め台詞を観客に言わせて、ワイワイと盛り上がっていたことに、八三年当時高校生だった私は激しい違和感を持ったことを覚えています。正直今でも悔しい気持ちがいっぱいです。

 『幻魔大戦』の盛り上がりは、その年であっという間に立ち消えになったのですが、あのせりふだけが突如、一九九五年に復活したことに、私は再度驚き、というよりも、「大笑いして」受け止めたことがあります。ご存知「オウム真理教」です。オウムの幹部たちは当時の中高生ぐらいでしたから、私のこの文章で述べているようなSFアニメオタクの巣窟だったのです。私はあの一連のオウム報道ですぐに分かりました。

 今ではアルマゲドンといえばブルース・ウィリスの映画とエアロスミスのテーマ曲が浮かんできます。これも時代なのでしょうか。私の脳の中では、ハルマゲドンという言葉が四回に渡って時代の変遷と共に移り変わってきた言葉となっているのです。

 あの世界最終戦争やら、終末論やら、聖書の黙示録(アポカライプスといいます)に影響を受けたアニメやSFの世界を、まさかいい大人が本気で「ごっこ」していたとは。オウムが流行ったその当時(九五年ごろ)も、本当に笑わせてもらった。

●宮崎アニメの誕生は四〇年前の『ルパン三世』から

 宮崎アニメ。もういいでしょ、私が書かなくても、といいたいところですが、宮崎駿といえばなんでしょう。トトロ、もののけ姫、千と千尋、ポ、ポニョ。

 宮崎駿といえば『ルパン三世』。アニメの世界にルパン三世は欠かせません。確固とした地位があります。無視できません。だから書きます。私の言うルパン三世は、一九七一年に始まった「最初のルパン」です。

『ルパン三世』

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%91%E3%83%B3%E4%B8%89%E4%B8%96_(TV%E7%AC%AC1%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA)
ウィキペディアから ルパン三世第一シリーズの記事

 このルパンを本放送で見ていた私は、まだ四歳でした。かなり大人を意識した、子供が見るものとは「ちょっと違うな、見てもいいのかな」と思いながら兄と見ていたのですが、なぜか父親も一緒に見ていました。当然です。もともとルパン三世は大人が読むマンガとして、『漫画アクション』(双葉社)に連載されていたものなのです。

 ルパン三世も本放送を見ていた人は少なかったのではないでしょうか。七〇年代に五時半からの再放送が三、四回くらいはあったと思いますが、それからルパンは人気が出ていったのです。それが功を奏して、新作のルパン三世の映画が公開され、「今の」ルパン三世、パチンコのコマーシャルでも頻繁にやっているルパン三世の第二シリーズの放送が、一九七八年に開始されました。

 今私たちが目にするこのルパン三世は、第一シリーズとは全く違います。違うアニメといっていいものでした。何よりも違うのは、峰不二子です。なぜそうしたのか知りませんが、顔が変わって、声優も二階堂由希子(にかいどうゆきこ)から、増山江威子(ますやまえいこ)になりました。峰不二子の声が、バカボンのママの声になったので、今でもその違和感はぬぐえません。

峰不二子

 ルパンと宮崎駿が何の関係があるのかというと、宮崎氏の、いわばメジャーな作品第一号はこの『ルパン三世第一シリーズ』なのです。

 それでも宮崎氏がかかわったのは、途中からで、急にルパン三世がコミカルになり、色っぽい峰不二子がかわいらしくなったので、いやに見やすくなった印象が今でもあります。ルパンのキャラクターが皆、宮崎アニメのキャラクターになったのです。おそらく第一四話の「エメラルドの秘密」からでしょう。このときに登場した峰不二子は、色っぽいおねえさんの峰不二子ではなく、かわいらしいメルヘンチックな峰不二子だったのです。

 それ以前からも宮崎氏は、もちろん東映の社員としてアニメを作っていますし、その当時作ったアニメ『空飛ぶゆうれい船』(一九六七年)の巨大ロボットの破壊シーンは、学生時代の金田伊功氏に多大な影響を与えたそうです。(二〇一〇年八月にBSの番組で金田氏の特集が放送され、その中で披瀝されていた。)

 しかし、宮崎氏の「最初の作品」「宮崎アニメの最初」は『ルパン三世第一シリーズ』なのです。この後、一九七八年に『未来少年コナン』の放送がNHKで始まり、その圧倒的なスピード感に私は目をむきました。

『未来少年コナン』

 それでも七〇年代に宮崎アニメ、宮崎駿というのは世間的にはいないも同然でした。

 宮崎氏が本当にその姿を現すのは、一九七九年公開のルパン三世劇場版第二作『カリオストロの城』です。時代にも注目してください。一九七九年。ニューウェーヴ・アニメの夜明け直前です。この夏『銀河鉄道999』が劇場公開され、右も左もゴダイゴと松本零士一色の時代です。

『カリオストロの城』

 ですから『カリオストロの城』は『999』の人気にかき消されていました。わかりやすい999の感動と、足長オジサン的なルパン三世とクラリスとのドラマの感動の質は異なっていたのです。

 『カリオストロの城』の人気に火がついたのは、テレビでの再放送です。このクラリスがおそらくアニメ最初の「ロリコンの象徴」といっていいのでしょう。時代が進むにつれ、クラリスはメーテルに取って代わっていきました。お母さんのようなメーテルから、ロリータなクラリスにアニメ少女キャラクターのトレンドは移っていったのです。もう一人『未来少年コナン』のラナもそうです。現在のロリータ・アニメ・キャラクターは宮崎駿が作ったのです。本人にそのつもり無かったでしょうけれども。

●そして登場『風の谷のナウシカ』

 一九八二年か三年ごろ、私の兄が一冊のマンガのような、イラスト集のような、絵本のようなものを買ってきました。これが『風の谷のナウシカ』の単行本で、ナウシカが初めての世に出た姿でした。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E3%81%AE%E8%B0%B7%E3%81%AE%E3%83%8A%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%82%AB
ウィキペディアから 『風の谷のナウシカ』の記事

 この頃、アニメーターがマンガ(なのか、イラスト集なのか、絵本なのかはっきりしないような本)を書くことが始まって、漫画家なのかアニメーターなのかわからなくなるようなことが起こりました。安彦良和氏の『アリオン』やそのイラスト集もそれと同じような現象です。金田伊功氏も、イラスト集(というより原画集)を出しました。

 絵本にしか見えなかった『ナウシカ』が、いきなり映画になるとのことでした。そもそもナウシカなんて誰も知らないし、アニメなのかマンガなのかの線引きもはっきりしない。ただ「アニメっぽい絵本が、すでに映画に向かっての企画が進行中なのだ」ということだけが伝わっていました。

 『風の谷のナウシカ』は『OUT』に並ぶアニメ雑誌『アニメージュ』(徳間書店)で宮崎駿がアニメーターにもかかわらずマンガとして連載していたものです。そこからして私は脳が混乱してしまうのですが、大友氏のように漫画家がアニメキャラデザインをしたように、一瞬だけ漫画家とアニメーターが一つに混ざったような時代がありました。

 ナウシカが劇場公開されたのは一九八四年なので、八三年は制作の時期でした。私はその時期のことを覚えています。

 私の兄が専門学校を中退して、アニメーターになったのがその年の九月からです。練馬で極貧の生活をしながらのプロ生活を始めました。

 いわゆるアニメーターとは原画を書く人のことです。原画を描く時点で、登場人物に演技をつけるのです。ですからアニメーターには個性が要求されます。

 アニメーターは原画を任される前に、直接セル画を書く動画をやらなくてはなりません。兄も原画になる前に一年は動画をやっていました。動画も原画も出来高制です。その頃の動画は、一枚三〇〇円ぐらいだったと思います。

 ところが兄の話によれば、製作中のナウシカは一枚七〇〇円だというのです。一九八三年当時のアルバイトの時給もまだ三〇〇円か四〇〇円の時代です。いかにナウシカがすごいことかが当時高校一年生の私にも分かりました。

 それでナウシカが公開され、テレビでもかなり宣伝されました。徳間書店と博報堂が力を入れていたようです。『幻魔大戦』で原田知世(彼女もまた薬師丸ひろ子と並んで、ロリータ系のタレントでした。)が主題歌を歌ったように、制作側も時代の雰囲気を取り入れたのでしょう。ナウシカの主題歌の歌手に起用されたのは安田成美(やすだなるみ、とんねるずの木梨憲武きなしのりたけの奥さん)でした。ただし宣伝でしかテーマ曲はかからなかったと思います。

安田成美
 宮崎さん、いやだったのでしょうね。安田成美さんは両手でマイクを持って直立不動で、おぼつかない声で歌を歌っていました。「かぜのたに〜の〜なう〜しか〜」です。誰の起用だったのかわかりませんが、ロリータ的なものを意識した起用であることは、当時の私にははっきりと分かりました。

 ナウシカには宮崎氏が昔から注目していた金田伊功氏が、破格の扱いで参加を要請されました。ですから皆さん、宮崎アニメを見た人は全て金田氏のアニメを見たということなのです。現在のアニメを作ったのは金田氏だといっても過言ではありません。そして、ナウシカにはもう一人時代を画するアニメーターが参加していました。

●『超時空要塞マクロス』と庵野秀明(あんのひであき)

 一九八二年、ガンダム以来、初めて影響力のある作品が放送され始めました。『超時空要塞マクロス』です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E6%99%82%E7%A9%BA%E8%A6%81%E5%A1%9E%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%B9
ウィキペディアから 『超時空要塞マクロス』の記事
http://www.youtube.com/watch?v=LK5mHUTB0ig
YouTubeから オープニング

 それまでにも『イデオン』や『ザブングル』のように、アニメファンが多大な期待を抱き、失望させられたロボットアニメはあったのですが、マクロスは時流に乗っていたのでしょう、現在に至るまで続編が作られています。

(著者雑感:八〇年代前半はアニメブームの影響で、ロボットテレビアニメが復興し、良質のアニメがたくさん制作された時代でした。私個人は子どもの頃のマジンガーZ以来、それ程興味を持っていませんでした。それ程マジンガーZはすごかったのです。それなのになぜか「ゴールド・ライタン」というロボットアニメだけは見ていた。何体もの巨大ロボットが出てくるのですが、すべてライターなのです。何だったのでしょうか、あれは。)

 私は毎週見ていたのですが、ストーリーは全く覚えていません。とにかく変わったロボットアニメでして、まず日曜日の午後二時に放送していたことがおかしい。なぜこの時間に放送していたのでしょうか。見やすい時間だったことも確かです。日曜の午後ほどに退屈なテレビの時間はありませんでした。ゴルフと競馬の中継しかやっていなかったのです。この時間にアニメを放送するということは、後にも先にもマクロスくらいしかなかったのではないでしょうか。

 そして登場人物の「リン・ミンメイ」。中国系のアイドルが登場します。中国系のアイドルがテレビに登場したのは、アグネス・チャンとリンリン、ランラン以来のことではないでしょうか。

リン・ミンメイ

 劇中にアイドル歌手が登場し、それが物語の重要人物であるというのはマクロスが初めてでしょう。この人物が決定的な役割を果たすのですが、それ以上に、アニメとロリコン、そしてアイドルという、後に言う「オタク」の三要素がこのときに一体化したのです。

 ギャグマンガ以外のアニメには、常にシリアスなものを求めるという感覚の私は「いいのかなあ」という感覚でした。アニメのヒロインはおまけみたいなものだったのに、こんなに露骨にアイドルを出すというこの要素はのちに『クリィミーマミ』に受け継がれ、そして『エヴァンゲリオン』の「綾波レイ」へとつながっていきます。

 『マクロス』でデビューしたのが庵野秀明(あんのひであき)氏です。私の兄の話によれば、庵野氏は、マクロスのときはまだプロではないにもかかわらず、あっという間に動画から原画に移動し、とんでもない天才が現れたということだったようです。兄はまだ業界に入る直前でしたが、当時のことを回りの人間からそのように聞いたそうです。

庵野秀明

 庵野秀明氏はマクロスが終わった翌年の一九八四年、『ナウシカ』の制作スタッフに加わるために上京してきます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B5%E9%87%8E%E7%A7%80%E6%98%8E
ウィキペディアから 庵野秀明の記事

(つづく)