「133」 論文 私のガンダム論(5) 鴨川光(かもがわひろし)筆 2011年3月24日

『ドラえもん』も放ってはおきません

 子供のマンガ『ドラえもん』。なぜあれほどまでにドラえもんは大げさになっているのでしょう。「ドラえもんと恐竜大冒険」のような映画が次々と制作されている状況には、なんら新しい試みも、意欲も感じられない、金儲けの道具としか思えません。

  

『ドラえもん』            藤子不二雄

 『ドラえもん』。七〇年代には、全く忘れられていたマンガでした。 で人気があったのは『オバケのQ太郎』だったのです。オバQは、一九六六年にはすでに『少年サンデー』での連載が終わっていて、すでに二度のテレビアニメ化もされていました。一九六七年生まれの私が見ていた「オバQ」でも『新オバケのQ太郎』で、七二年のアニメです。不二家が提供でした。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%90%E3%82%B1%E3%81%AEQ%E5%A4%AA%E9%83%8E
『オバケのQ太郎』 ウィキペディアから
http://www.youtube.com/watch?v=cUEUfkir_4M
『新オバケのQ太郎』のオープニング YouTubeから

『オバケのQ太郎』

 そういえば、一九七〇年代の藤子不二雄は主にどこでマンガの連載していたのでしょうか。サンデーにはすでにオバQもパーマンもいません。藤子不二雄氏はこの時期『少年チャンピオン』に『魔太郎が来る』という、ものすごく暗いマンガを連載していたのです。救いようの無いくらい暗い、惨めで卑怯な、復讐マンガだったのですが、私は好きでした。考えてみれば、『ドラえもん』も『魔太郎が来る』も主人公がいじめられた人間に復讐をするという点では全く同じですね。

 ドラえもんなどは、小学館の『小学一年生』から六年生まである「小学館の学習雑誌」のどこかで不定期に連載していたのでは無いでしょうか。ドラえもんの「正式な」連載というのを私は知りません。『コロコロコミック』までは。

『コロコロコミック』

 いや、どうやら小学館の『よいこ』や『幼稚園』で一九七〇年、七一年に連載していたようです。当時私は三歳、四歳でしたので、この二冊は年間を通してとっていました。だから、ドラえもんの連載は読んでいたはずなのですが、覚えがありません。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%81%88%E3%82%82%E3%82%93
ウィキペディアから 「ドラえもん」の記事

『よいこ』

 『よいこ』は実によく出来た雑誌で、学齢前の四、五歳児用の雑誌でした。私は三歳の時、一九七〇年にとっていました。この雑誌でウルトラマンを知ったのです。テレビのヒーローものの特集がカラーで毎週掲載されていました。

 私はドラえもんが一九六〇年代にマンガの連載とテレビ放送があったものだと思っていたのですが、実際には七〇年に生まれたマンガだったのですね。当時、私の年齢の子供に合わせて作られたマンガだったわけです。

『ドラえもん』は『マジンガーZ』に殺されていた

 ドラえもんがテレビで放送されたのは、古いです。私自身、本放送がいつだったのか、全く知りませんでした。夏休みや冬休みに何度か再放送を見ていたので、自分の生まれる前のアニメだと思っていました。

 実は『マジンガーZ』の裏番組だったのですね。一九七三年、日曜日の放送だったのです。それではだめだ。誰も見るわけが無い。ドルショックとオイルショックで物価が上がり始め他当時は、世相がなんと開く暗く、世の中そんな、甘いマンガを見ているような気分じゃなかった。子供もそんな気分でした。何と言っても、マジンガーZの悲壮な戦いが、子供たちの目を奪い、日本のマンガを席巻していたのです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%81%88%E3%82%82%E3%82%93_(1973%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%A1)
ウィキペディアから ドラえもん (1973年のテレビアニメ)の記事
(この記事に書かれている「ガチャ子」というアヒル型ロボットが、ドラえもんのアニメに登場していたのを私は記憶している。このキャラクターが原作には無いこともなぜか知っていた。ということは、マンガのドラえもんもきちんと読んでいたのだろうか。それでもどうも覚えがないのです。)

 でも、この最初の『ドラえもん』の放送は、再放送でたびたび見ました。一九七〇年代には夏休みに昔のアニメが再放送されるという慣行があって、『ドラえもん』の再放送も、たまにありました。

 そのまま最後まで放送するのかと思ったら、いつの間にか途中でやらなくなったりと、なぜあんなに面白いものを放送しないのか不思議でした。

 原因は藤子不二雄氏が気に入らなかったために、放送局にたびたび警告を送っていたことだったようです。結構面白かったのですがね。

 アニメ『ドラえもん』は『オバQ』よりも面白い。でも、なぜか勿体ぶって放送されない。『オバQ』は、飽きるほど再放送されていたのに『ドラえもん』は見たくても見られない。『ドラえもん』新しいのか古いのか、連載もどこでされているのかはっきりせず、面白いのにとらえどころのない、半分忘れ去られたようなマンガだったのです。

七七年四月の『コロコロコミック』発売、七九年四月の『ドラえもん』の放送開始

 それでもドラえもんの単行本は、どこの本屋にもありました。小学館の「てんとう虫コミックス」といって、ドラえもんとオバQのためだけの子供用単行本として発売されていて、どんな小さい街の本屋にもありました。いまさら買うまでもないような感じで、どこの本屋にも置かれていました。

 七七年の秋、当時小学四年生だった私は、ある日、地元の本屋で、何かマンガを買おうと思案していました。

 その日は特に何を買おうかと決めておらず、特に読みたいマンガも思いつかなかった。ふと本棚に並んでいた『ドラえもん』を手にとって、立ち読みするでもなく、「ドラえもんでも買って帰ろう」と思って、何となく買って帰りました。

 今更『ドラえもん』でもないなあ、と思いながら、読んでみたらこれが面白い。面白くって読みふけってしまい、そのまま続けて別の巻を買いにもう一度本屋に行きました。この私の中だけのにわかドラえもんブームが私の家族にも飛び火し、兄も、母親までもがドラちゃんを読みふけることになりました。

 家には『ドラえもん』の七七年当時までに出版された単行本が全巻そろうことになりました。このドラえもんの単行本「てんとう虫コミックス」は、小学館の様々な雑誌に連載されていたものを編集したもので、ドラえもんとオバQのためだけのシリーズでした。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A6%E3%82%93%E3%81%A8%E3%81%86%E8%99%AB%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9
ウィキペディアから 「てんとう虫コミックス」の記事
(著者注記:この記事を読むと、てんとう虫コミックスは「コロコロコミック」の連載マンガも含めていたとありますが、それは七七年にコロコロコミックが創刊されて以降のことで、実際に店頭に並んでいた「てんとう虫コミックス」はほとんどがドラえもんとオバQでした。)

 普通は、連載している雑誌、『少年サンデー』なら「サンデーコミックス」とか、『少年チャンピオン』なら「チャンピオンコミックス」という形で出版されるのですが、『ドラえもん』に関しては、小学館のさまざまな雑誌で不定期に連載をしていたものだから取り止めがなく、このような形をとらざるを得なかったのでしょう。

 私の家は通学路の途中にあるために、学校帰りに友達が、用もないのに私の家に立ち寄って、『ドラえもん』を読んでから家に帰るという「日課」が起こり始めました。友達というわけでもない同級生までもがただ『ドラえもん』を読むために、私の家に来るようになりました。皆まっすぐに家に帰らず、私の家で一心不乱に「ドラえもん」を読みふけっているのです。

 そんなことが半年くらい続き、それであの『コロコロコミック』の発売となるわけなのですが、私の記憶違いかもしれません。『コロコロコミック』はてっきり七八年の春の発売だと思っていたのですが、七七年が発売年でした。

 私は、『ドラえもん』に散々はまった後に『コロコロコミック』が発売されたことを覚えているので、私が『ドラえもん』を買い始めたのは、その一年前の七六年の秋からだったようです。

 私は『コロコロコミック』の創刊号を発売日に買いました。「お、何だこの変な雑誌は」と思って手に取りました。ドラえもんが表紙で、やたらと分厚い、だけれども、辞書くらいの大きさのそれまで見たこともないような本だったので、思わず買いました。

 第一号はほとんどが『ドラえもん』の新作で、これはすごいと思って、大喜びで、大きな獲物を収穫したような感じで買って帰りました。第二号は少しドラえもんのページが減っていましたが、それでもドラえもんのための雑誌でした。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E5%88%8A%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF
ウィキペディアから コロコロコミックの記事

(著者注記:この記事の中の「藤子不二雄との関わり」の項を読むと、私の記憶とほぼ同じであることが分ります。ただし「本誌は小学館の学習雑誌へ掲載されたドラえもんの総集編の色合いが強い雑誌として創刊された」とありますが、創刊号と第二号に関しては、「てんとう虫コミックス」では読んだことのない話ばかりでしたので、最初に関しては書き下ろしだったのではないかと思います。あるいは、「てんとう虫コミックス」未収録の話をかき集めてくれたのでしょう。第三巻以降はたしかに「てんとう虫コミックス」に収録されたものと重複が目立ってきたので、上記の記述は正しいものといえるでしょう。)

 ところが三号以降、巻を下っていくうちにドラえもんが少なくなっていき、話もすでに「てんとう虫コミックス」での既出のものが多くなっていきました。

 子供ながらに、「何だこれは、サギだ」と思って、四号より後はもう買わなくなりました。子供は少ないお小遣いをはたいて好きなマンガを買うのです。そう簡単にはだまされません。

●私、鴨川光が世の中に『ドラえもん』を広めた!

 そんなわけで、コロコロコミックもドラえもんも、私鴨川光が世に広め、現在の国民的マンガにしていったのです。皆さん、わかりましたか?わかったら「ハイ!」と返事をしなさい。

 そうこうしているうちに、七九年の四月からドラえもんが、新たにテレビで放送されるということが「コロコロコミック」で告知され、私は待ちに待ったこの時がついにやってきたと、本当にうれしく思いました。

 確か春休みの最後の金曜か土曜日の夕方のほんの一五分くらいの放送でした。私は、初回の放送から手に汗握って、ものすごい気構えで見ていました。これで俺の育てた『ドラえもん』が日に当たる、そんな気持ちでした。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%81%88%E3%82%82%E3%82%93_(1979%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%A1)
ウィキペディアから 「ドラえもん (1979年のテレビアニメ)」の記事

 ところが私の育てたはずの『ドラえもん』と『コロコロコミック』が、私の手を離れて、一人歩きをするようになっていったのです。八〇年代の藤子不二雄ブームです。忘れられたはずの、昔の漫画家の、全国的な、いや、いまや世界的な復活です。

 その後の『ドラえもん』、そして藤子不二雄氏の活躍は皆さんご存知の通りです。『ドラえもん』だけではなく、『パーマン』や『怪物くん』など、忘れ去られていたはずの、昔のマンガがアニメとなって高視聴率をたたき出したのです。ほとんどはテレビ朝日で放送されて、一時はテレ朝の視聴率上位は全て藤子不二雄アニメだけになってしまったほどです。

  

『パーマン』      『怪物くん』

 いいですか、七〇年代に藤子不二夫氏は、暗〜い『魔太郎が来る』という復讐マンガを描いていたのですよ。マンガ界のメインストリートから外れかけた、「昔の」漫画家だったのです。

『魔太郎が来る』

 それが何ですか。世界的な漫画家になってしまった。ドラえもんはその後、何度も映画化され、「ドラえもんの恐竜何とか」とか「ドラえもんの何とか大冒険」みたいな、とにかく大げさなマンガになって行きました。育ての親の私に無断で。

 これはもう許しません。『ドラえもん』は七〇年代に、子供時代を送った私がターゲットであるマンガです。誰にも見向きもされていなかった、忘れ去られていたマンガだった『ドラえもん』を拾い上げ、救い上げ、周りの同年代の子供に広めていったのは、この私、鴨川光なのです。

 そんな私の気も知らず、大げさな、国民的、世界的なドラえもんは私の『ドラえもん』なんかではありません。そんな子、うちの子じゃありません。そんな子を育てた覚えはありません。出て行きなさい。

●子供ロボットのヒーローは『がんばれロボコン』だったのに

 子供が大好きなロボットとして思い出すのが『がんばれロボコン』です。ロボコンは石ノ森章太郎原作のロボットマンガで、一九七四年に実写で放送されました。アニメで制作してちょうどいいはずのマンガで、実写で作ってしまうと失敗する恐れがあったのに、見事に成功しました。これは、仮面ライダーやキカイダー制作のノウハウの集積だったのでしょう。

『がんばれロボコン』

 私はちょうど小学校一年生。毎回放送の最後にはロボコンがガンツ先生にその日の採点をされて終わるのですが、この感じが小学生達には自分の生活と一致していたこともあって、ロボコンは大人気になりました。

 ロボコンは本当に大ヒットした番組です。本来、子供に人気のあるずっこけロボットの地位はロボコンだったのです。ドラえもんなんかじゃなかったのです。

 ロボコンは、ロボコン以外にもロビンちゃんとかロボガリとかロボショーといった、全部で二〇いくつかのロボットが出演していて、一つの学級になっていました。どのロボットもそれまでの巨大でかっこいいものではなく、小さくて、丸っこい、つまり、自分たち子供をロボットに模したキャラクターだったことが受けたのです。(女の子のバレリーナロボットのロビンちゃんだけは気ぐるみではなかったけれど。)

 マジンガーZのところでメタル製のフィギュア「超合金」の話が出てきました。超合金は面白くなかった。精巧に作られた「サイボーグ一号」の後に出てきたおもちゃだったこともあるけれど、やはりマジンガーやゲッターロボが、ちっこい姿になっているというのが、どうもだめでした。私もマジンガーZを持っていましたが、あの迫力のあるロケットパンチがバネ式で「ピョンッ」と飛び出すのが、どうもイメージと違いました。かわいいマジンガーなどいらないのです。

 そこに現れたるはロボコンだったのです。超合金のあの小さいかわいいらしいシリーズに、ロボコンはぴったり。種類も豊富で、思わず集めたくなる。メタルの質感も、実写ロボットだったロボコンにはうってつけでした。

 これはかわいい、たのしい。ということで、超合金はロボコンシリーズのおかげで七五年に最高の売り上げを達成し、発売元のポピーはおもちゃ業界の頂点に達したそうです。

 私はというと、ロボコンの超合金を持っていたかなー、という感じです。七五年にはもうそのような子供の遊びは卒業したのです。だから友達が持っていたか、友達か兄が持っていたのでしょう。よく出来たおもちゃでした。

●ロボコン・カードとがんばれ猪木!

 しかし私は言いたい。ロボコンで本当に流行ったのは超合金ではありません。「ロボコン・カード」なのです。七四年に大流行しました。日本でカードものといえば「仮面ライダー・カード」が最初だと思うのですが、私はこれに乗り遅れ、しかも社会問題化してしまったため、集められませんでした。

 子供のカードの収集欲が満たされない状況の中に、ロボコン・カードが発売されたのです。しかもこのロボコン・カード、カードだけを売っていたのです。仮面ライダー・カードは、カルビーの「仮面ライダースナック」のおまけとしてついていたのですが、ロボコン・カードの場合は、カードだけ。これで欲しかったカードだけを集めることが出来るようになったのです。社会問題も起きずに済みました。何といっても、かわいいロボコンです。厳しい先生のキャラクターもいることですし、大人も安心してお小遣いを渡すことが出来ました。

 そして、当たりが出るとカードを入れることが出来るアルバムがもらえたのです。仮面ライダー・カードの場合は、広島にあるカルビーの工場まで当たりのカードを送らなければなりませんでした。これが手間でしたし、親に切手やら封筒やらをもらわなくてはいけない。許可をもらわなくてはいけない。とてもめんどくさかった。

 ところがロボコン・カードの場合、当たりが出るとその場でアルバムがもらえたのです。お店が常時アルバムを用意しているという仕組みになっていました。小さい地元の駄菓子屋にアルバムが置いてあって、オバちゃんにあたりカードを見せると、それがすぐにもらえた。当たりのカードもそのまま自分のものに出来たような気がします。気前がよい、手軽なロボコン・カードは大ヒットしました。

 ロボコン・カードのアルバムは、ビニールで出来たカードを入れる袋が横に二つつながっていて、厚紙の表紙がついている小さなアルバムでした。この手軽さが受けました。ロボコンにふさわしい、小型の横長アルバムだったのです。

 これを私は集めに集めた。カードは一袋に五、六枚入っていて、一袋二〇円ぐらいだったと思います。そこに私は大人買いを始めたのです。私はその点でも時代を先取りしていたのです。

 当時小学校一年生が、お菓子を買いに行くのに、一〇〇円はもらえませんでした。大体二、三〇円を持っていけば、かっぱえびせんぐらいは買えたのです。

 ロボコンのイメージがいいのか私の母親は、一〇〇円をくれました。私はそれまでお菓子などを買うためにもらえるお金は最高二〇円しかもらえず、ニクソンショックの時には急に物価が上がって、ベーゴマを買うのに四〇円もらおうとしたら、母親に烈火のごとく怒られたのです。

 ところがなぜかロボコンの時には一〇〇円をくれた。これが教育には悪かった。私は、毎日学校帰りにロボコン・カードを五袋も買ってきました。これだけ買うと必ず当たりの入った袋が一つか二つはあったのです。一袋にあたりカードが二枚入っていることもたびたびありました。ロボコン・カードは本当に気前がよかったのです。私はほとんど毎日のようにアルバムを頂きました。

 私が大学生の時バイトしていたコンビニに「ビックリマンチョコ」を大人買いしに来た小学生には何も言えませんね。だからあの時は子供の気持ちが分かる分、なおさらサディスティックに「一人三枚までです」と冷たく言い放つのが、快感だったのです。子供の教育のことを考えてです。うん。

 ロボコン・カードを私は学校に持ち込みました。それ以前には学校でメンコを流行らして、持ち前のテクニックで(時にトンカチという卑怯な手を使いながら)学校の友達から大量にメンコを奪い取り、メンコマフィアとなった私を、女子によって先生に言いつけられ、禁止されてしまっていたのです。ですから思う存分ロボコン・カードを流行らせました。

 何といったって、カードを集める楽しみは友達との取替えっこです。メンコのような殺伐とした、ギャンブルのような世界ではありません。自分の持っていないカードと相手の持っているカードを取替えっこして、コレクションを増やす。友達も増やす。これが楽しいのです。大人買いをし、アルバムを何枚も持っていた私は、再びカードマフィアとなって闇の世界に君臨し続けました。

 あの時大量にあったロボコン・カード。この頃には皆きれいに物を集める習慣がついていたので、今も残っていたらとんでもない値段がついていることでしょう。

 ロボコンはその後訳二年半もの長きに渡って放送されました。今だったらありえない長さです。それほどまでに、国民的アイドルになったというのに、その後、あっという間に忘れ去られてしまった。大抵、数年後にはリヴァイヴァルが始まって、続編などが作られるのに、しばらくは完全に消え去ってしまいました。リメイクは二五年もたった一九九九年です。

 予断ですが、今の私から下の世代、四三歳(昭和四二年生まれ)から三〇代半ばの世代は、プロレスが好きな人が多く、猪木を神と崇めている人がいます。

 じつはこの猪木が神になったのは、ロボコンのおかげなのです。

●ロボコンの勢いで見た「新日本プロレス」

 ロボコンが放送されていたのは一九七四年秋からの二年半、金曜日の七時半から現在のテレビ朝日(当時はNET、エヌ・イー・ティー、日本教育テレビ)で放送されていました。

日本教育テレビ(現・テレビ朝日)

 テレ朝はもともとは「教育テレビ」だったのです。朝日新聞が母体である故にか、本質的にお堅い局だったのですが、社名を変更した七六年辺りから雰囲気が変わってきました。(春には「徹子の部屋」の放送が始まり、秋には「欽ちゃんのどこまでやるの」が始まりました。「電線音頭」で話題となった「見ごろ食べごろ笑いごろ」の放送も同じ年です。)

  

「徹子の部屋」          「電線音頭」

 テレ朝といえば(そういえばドラえもんもテレ朝だな。お前らはロボコンを見捨ててドラえもんに走ったのか!)プロレス、そう当時新たに設立された団体「新日本プロレス」の中継を開始したことでも、特色のあるテレビ局でした。

 プロレスといえば力道山やジャイアント馬場の日本プロレスの中継が、テレビの草創期、全国的な盛り上がりとなりましたが、私の子どもの頃プロレスはもう完全に廃れていました。野球とバレーボールの時代でした。(私が一番最初に買ってもらったレコードは「サインはV」です。おそらく昭和六九年でしょう。)

 新日本プロレスは、七二年に日本プロレスを破門になったアントニオ猪木らによって設立された団体で、七三年からテレビ放送が始まっていたようです。

アントニオ猪木

 それに火がついたのは、『がんばれロボコン』を見ていた私たちの年代の子どものおかげなのです。

 NETのプロレス中継はロボコンのすぐ後、金曜日の八時に放送されていたのです。ロボコンは、ちょっと古い感じの日本人的、江戸っ子的、任侠的な正義感がテーマになっていた番組でした。基本は人助けで、正義感と人情味に溢れていたロボットだったのです。(よいことをしたら、ガンツ先生によい点をもらえるというシステムでした。)

 そのロボコンの正義感の勢い覚めやらぬまま、画面に猪木が出てきたのですからたまりません。若い頃の猪木は本当にかっこよかった、ストロング小林、坂口征二(さかぐちせいじ)、タイガー・ジェット・シンといったレスラーの第二の全盛期の始まりでした。

  

ストロング小林      坂口征二

 猪木の血だらけになりながらも敢然として敵に立ち向かっていく姿は、あのマジンガーZや宇宙戦艦ヤマトの姿に重なりました。仮面ライダー、ウルトラマン、これまでのヒーローの全てに重なりました。それが実際の人間となって、悪を倒すためにリアルなヒーローとして私たち子供の前に現れたのです。

 七〇年代後半のロボットアニメの廃れの原因は、猪木のせいであったかもしれません。アニメよりも実物のほうがすごいのです。これは仕方がない。同時期に長島が引退し、王選手がベーブルースの記録を抜いたという出来事も、ロボット・ヒーローを小さく見せた原因でしょう。

 私はその後、七六年にモハメッド・アリと猪木の異種格闘技戦を見るまで、約二年間だけプロレスファンでした。アリとの試合で猪木とプロレスへの情熱は私だけでなく、世間的にも少しさめたのでは無いでしょうか。それ以降のプロレスのことはあまり知りません。

 七〇年代後半のプロレスといえば、女子プロレスです。ビューティー・ペアやマッハ文朱(ふみあけ)の時代でした。やたらと私の父親が見ていました。女子プロは世のお父さんたちが見ていたのです。

ビューティー・ペア

 中学の頃、私の周りはなぜかプロレスファンばかりで、友達の家へ遊びにいけばやたらとプロレス中継ばかり見させられたのですが、私としては「いまだに猪木と馬場がリングに上がっている!」という印象でした。

 いずれにせよ、今の猪木があるのは、一つにはロボコンのおかげなのです。

http://www.youtube.com/watch?v=LHZnfh3o0gw&feature=related
猪木VSストロング小林 一九七四年
(若い頃の猪木は本当にかっこよかった。パチンコの宣伝でこの頃の猪木の姿が見られますね。) 

(終わり)