「140」 論文 ヨーロッパ文明は争闘と戦乱の「無法と実力の文明」である(10) 鳥生守(とりうまもる)筆 2011年5月15日

西ゴート王国の領域

 五六七年、南ガリアのナルボネンシス地方のリウヴァ公爵がアタナヒルドを継いでゴートの国王に就いて五年間統治した。ガリアに住んでいたリウヴァ(Luiva、在位五六七〜五七二)は、フランク族の勢力伸張を恐れて、自らはガリアから離れることを拒み、王位に就いて二年目にイベリアの統治を弟のレオビヒルドに委ねた。彼はフランク王国と対峙したということである。

リウヴァ

 レオビヒルド王(Leovigildo、在位五七二〜五八六)は、アタナヒルド王と別れた妻と結婚してイベリアの西ゴート王国を相続し、五七二年までリウヴァと共同統治した。レオビヒルドは一四年余りの統治の間、反乱や隣国の侵攻によって縮小していた西ゴートの領地を再び取り返して国民に称賛された。西ゴートに栄華をもたらしたのである。五七八年にレオビヒルドは、セルティベリア(タラコネンセ地方)のタホ川とグアディエナ川との交差する地点にレコポリスという自分の息子の名前を付した都市を建設した。その都市に素晴らしい建造物を立て、ゴートの特権階級のみを住まわせた。五七九年には、もう一人の息子エルメネヒルド(Hermenegild)をカトリック教徒であるフランク王国のシスベルトの娘と結婚させ、ガリア地方の統治権をエルメネヒルドに譲渡した。

レオビヒルド

 しかしエルメネヒルドはカトリックに改宗してセビーリャで国王就任を宣言した。そしてレオビヒルド王との間に五七九年から五八四年まで宗教戦争を起こした。レオビヒルドは、息子に勝ち、彼をバレンシアに追放した。息子エルメネヒルドはバレンシアで再び謀反を起こしたが、五八六年にタラゴナの近くで捕らえられて処刑された。国を二分したこの事件はゴート人にとって敵の攻撃よりも大きい痛手となった。レオビヒルド王の時代に国王の国庫に財産的余裕が生じた。彼は市民から収奪したものや、敵から略奪したものを中央政府の公金として蓄え、王国の公金を増やした最初の王でもあった。しかし彼自身が熱心なアリウス派であったために、息子のエルメネヒルドを初めとして多くのカトリック教徒を迫害し、多くの司教を追放した。

 さらに、ゴート族自身に対しても、いろいろな理由で多くの貴族や豪族のクビを刎ねあるいは国外に追放した。いずれにせよ、彼は王としての衣装をまとい、王として振舞って王座に座った西ゴート王国最初の人物であった。というのも彼以前の王は臣下と同じ服をまとい、同じ椅子に座っていたからである。レオビヒルド王は明らかに国民とは異なる存在であることを示した王であった。そして共同統治を含めて一八年間の統治の後にトレドで寿命を全うして死んだ。

 五八六年、レオビヒルドの死後、彼の息子レカレド一世(Recaredo、在位五八六〜六〇一)が王位に就いた。彼は修道院で教育を受けた慈悲深い善人として世間の評判が良かった。そして父と兄の骨肉の争いを目の当たりにして、セビーリャのレアンドロ司教の懇願を受け入れて、第三回宗教会議(五八九年)の場でカトリックに改宗した。彼は国民の大半をしめるカトリックへの帰依が国づくりのために必要と考えたのである。彼はカトリックを国教化して他のゴート族へも改宗を強いた。レカレド一世は、信仰の力で戦争にも偉大な成果を上げたと伝えられている。

レカレド

 レカレドは、平和を愛し、温和で、立居振舞は高貴で、顔立ちは気品に溢れ、その魂は穏やかであったとして国民の評価も高かった。レカレドのかもし出す雰囲気は、すべての人の心に影響を与え、悪人でさえ彼の慈悲に影響を受けた。彼の考え方も柔軟で、父親が国庫に集めた財産や教会の領地を元の所有者である貴族や豪族に返した。国民に対する徴税もしばしば免除した。さらに、裕福な人々には地位を、貧しい人々に土地を、極貧の人々には財貨を与えた。レカレドは、国民が至福を享受できるようにするのが良き統治であると考え、そのように努めた。ちなみにレカレド王および彼以降の西ゴートの国王は、ローマ皇帝を輩出した名門「フラビオ(Flavio)」家の姓を名乗るようになり、ローマ教皇の宗教カトリックへの帰依とあわせて西ローマ帝国の継承者を演じていた。彼の時代には、第三回トレド宗教会議(五八九年)が開かれたのであるが、それは第二回会議の五八年後であった。

 レカレドの改宗は西ゴート王国が宗教国家となるきっかけとなった。これによりアリウス派だったゴート市民もカトリックへの改宗が期待され、ゴートとイベロ・ロマノ族との対立の根元が絶たれることになった。彼はレオビヒルドが試みて果たせなかった国内宥和政策に成功した。ただし教会の戒律を受けてユダヤ人とカトリックとの婚姻については禁止する旨の規定を維持しており、国内融和もユダヤ人を排除したものであった。もっともアタナシウス派(カトリック)の性質からして、それは当然なことであった。また、ガリアのナルボネンシス地方は国教を守る屈強のゴート族の兵士と貴族が統治していたが、彼らは伝来のアリウス派の宗教を維持し続けた。彼らは実務的な武人であり中央の政府のユダヤ人排斥にも与しなかった。

 六〇一年、レカレド一世が死んで彼の息子リウヴァ二世(Luiva II、在位六〇一〜六〇三)が二年間統治した。彼は卑賤な母の子として生まれた。将来を期待されていたが、北方の武将ウィテリック将軍(Witteric)が、国内の不満分子を集めて反乱を指揮し、リウヴァが成人した後に彼を捕らえて右腕を切り取り、彼を王国から追放し、その後しばらくして殺させた。リウヴァは二〇歳であった。

ウィテリック

 六〇三年、カトリック改宗をこころよく思っていなかった北方の貴族に支持されて、ウィテリック(在位六〇三〜六一〇)がリウヴァ二世を殺して王位に就いた。彼はアリウス派の再興を唱えて国内主流派の反発を買い、国内に多くの敵をつくった。そして政敵を排除するため背後から大勢を殺した。しかしウィテリック自身も、六〇一年に開かれた晩餐会の食事の最中に、近衛兵の長官に殺された。そして彼の死体はトレド市中を引き回され、その後市外に放置された。

 六一〇年、ウィテリックの暗殺を指揮したグンデマル(Gundemar、在位六一〇〜六一二)がその後王位に就いた。彼は二年間統治したが、寿命を全うしてトレドで死んだ。

グンデマル

 六一二年、グンデマルの後を継いでシセブト(Sisebuto、在位六一二〜六二一)が王位に就いた。シセブトは、グンデマルの死後召集された貴族による王室会議で王に選出された。シセブト王は文化・芸術に造詣が深く、文芸活動を援助した。彼の時代に西ゴート王国の国民文化が育ったといわれている。他方、敬虔なカトリック信仰が災いしてか、ユダヤ人に対しては厳しく対処した。彼らがカトリックに改宗しなければ国外追放するとして強制的に改宗を迫り、改宗の証として洗礼や塗油式といった儀式への参加を求めた。それは形式的な儀式偏重の兆しであった。

 

シセブト

 六二一年にシセブトの後、幼かった彼の息子レカレド二世(RecaredoU、在位六二一)が王位に就くが、三カ月でスウィンティラ(Suintila、在位六二一〜六三一)に取って代わられた。スウィンティラは王室会議で承認されて王位に就いた。イシドーロ大司教ら教会側の勢力が国王の選出に大きな影響を及ぼした。スウィンティラは戦争を通じて大きな成果をあげたが、そうした強権発動の影で国内の多くの有力者の嫉妬をかっていた。とくに弟ヘイラを中心にした北方の貴族が反発した。スウィンティラの国内基盤が危うくなっているときに、ガリアの公爵シセナンド(Sisenando)が、スウィンティラを王権から追い出すために、フランク王国のダゴベルト軍の支援を要請した。そしてダゴベルト王(Dagoberto)にはゴート族の宝である重要な金の大皿を与えると約束した。その皿はトゥリスムンド王(在位四五一〜四五三)が、ローマの将軍アエシオから譲り受けた(実は奪い取った)という歴史的なゴートの宝で、金で五〇〇ポンド(一ポンドは一六オンス、約四五三・五九グラム)の重さがあった。

スウィンティラ

 ダゴベルトの配下の者がトロサのフランク軍を引き連れてシセナンドの滞在していたサラゴサまで来ると、シセナンド(Sisenando、在位六三一〜六三六)は同地で六三一年に王に選出された。ダゴベルトの配下の者はシセナンドから報償を受け取り、トロサの軍と共に帰った。しかしそれは約束の金の大皿ではなかった。ダゴベルトは話が違うとして、地方長官をシセナンドのもとに派遣した。しかしシセナンドは、二人の使節を殺して金の大皿を渡さなかった。ダゴベルトはシセナンドのもとに再度使節を派遣して、金の大皿のかわりに二〇万スエルドを要求し、シセナンドはそれを払った。シセナンドはフランク族の南進に備えてガリアに政庁を置き、首都トレドに出向かなかった。六三三年に第四回トレド宗教会議が開催されたが、スウィンティラを支持していた同会議でスウィンティラは国王の辞任を申し出て、シセナンドの国王就任が正式に認められた。シセナンドは約五年間王位に就いた。シセナンドの時代には、第四回トレド宗教会議(六三三年)が開かれた。それは第三回会議の四四年後であった。

 六三六年、国王は選挙によって選ばれるという第四回のトレド宗教会議(六三三年)の決議に基づいて、チンティラ(Chintila、在位六三六〜六四〇)が国王に選出された。チンティラは、前王と異なり聖職者に敬意を表し、第五回トレド宗教会議(六三六年)および第六回トレド宗教会議(六三八年)を召集して会議で国王の即位を宣誓するとともに、王はゴート族から選挙によって選ばれることを確認した。これは王の選出に教会も加わるということ、剃髪者、解放奴隷、帰化人は国王になれないことを意味した。また教会の王権への関与を強めたのは、特にこの時代に野心家が増えて政治犯が増大したことと連動している。チンティラは教会の権威を借りて王権および王の一族と忠臣たちに対する不可侵を守ろうとしたわけである。彼の時代には、第五回トレド宗教会議(六三六年)、第六回トレド宗教会議(六三八年)が開かれた。この頃からトレド宗教会議が頻繁に行われている。その第五回宗教会議は、第四回会議から三年後のことである。

チンティラ

 六四〇年、チンティラの四年間の統治の後、息子のトゥルガ(Tulga、在位六四〇〜六四一)王位を引き継いだ。彼は性格も立ち居振る舞いも優れた人物と評されたが、国王としての指導力を欠き、部下のキンダスウィント将軍に王位を奪われ、自らは僧籍に入った。

 六四二年、高齢のキンダスウィント(Chindasvinto、在位六四一〜六四九)が王位に就いた。その頃から王権と貴族と教会勢力が拮抗するようになり、各地で豪族が跳梁し、国内の治安が乱れた。キンダスウィントは将軍時代の軍事的才能を評価され、貴族に推されて王に即位した。彼は第七回トレド宗教会議(六四六年)を召集して教会の保護を唱えつつ、宗教会議を利用して国内の不満分子を粛清した。この政策はある程度成功し、国家財政を立て直し、貨幣の質を向上させて国王独裁のもとで内政が安定した。外交的にも武断政治を貫き、フランク族に対する警戒を怠らなかった。軍人の出身であったが国内の文芸も保護した。晩年には国王選挙制の規定を破棄して息子に王位を譲って自らは僧となり九〇歳で寿命を全うして死んだ。

キンダスウィント

 キンダスウィントという名前は、ゴートの言葉で「強い息子たち」という意味を有する。キンダスウィントは息子の王位相続を多くの貴族や僧侶によって保障してもらう必要があった。そのため政治犯に対する処罰を定めて宗教会議の場で王に対する不忠者を咎め、大勢を国外追放の刑に処した。しばしば国外追放に処した者を後から秘密裏に殺しさえした。そして追放者の妻子および財産を王に忠実な者たちに配分した。この王の乱心による処罰で、僧侶を含め国内の貴族の半数が粛清を受け、後年の歴史家は彼が「ゴート族の崩壊」をもたらしたと言うようになった。キンダスウィントは東ローマからもたらされた毒草を飲まされて何日も倒れている間に剃髪されたことを知って王の資格を失ったことを悟り王位を放棄して修道院で残りの人生を過ごした。キンダスウィントの独裁権力は教会勢力にも向けられ、国王が任命した裁判官の判決に従わない聖職者の処罰を規定した。これは聖職者の享受してきた特権への無視であり、国王に刃向かう反逆者は聖職者でも処罰することを意味した。その結果彼が召集した第七回トレド宗教会議(六四六年)には大勢の聖職者が出席をボイコットした。彼の時代には、第七回トレド宗教会議(六四六年)が開かれた。それは第六回宗教会議から八年後のことである。

 六四九年に王位を継いだレケスウィント(Recesvinto、在位六四九〜六七二)は就任早々北方バスク地方の攻略に成果を上げた。そして国民の平和と統合をめざして第八回トレド宗教会議(六五三年)において西ゴート王国で最も重要で、中世キリスト教王国に大きな影響を与えた「リベル法典」(「裁判法典」Liber Judicialis )を公布した。特にそれによって彼は国王の恩赦権を認めて、刑の軽減を認めないとする過去の規定を改め、多くの政治犯に恩赦を与えた。また第四回トレド宗教会議(六三三年)で規定されたユダヤ人に対する戒律を見直して復活させるよう宗教会議で唱えた。レケスウィントは二三年にわたる治世の後、六七二年に死んだ。彼の時代には、第八回トレド宗教会議(六五三年)、第九回トレド宗教会議(六五五年)、第一〇回トレド宗教会議(六五六年)が開かれた。第八回会議は第七回会議から七年後のことである。

 その後、不承不承に王位に就いたのはワムバ(Vamba、在位六七二〜六八〇)であった。彼の即位直後にバスク地方のイルデリコ王の反乱が起こった。ワムバは遠征してこれを倒したが、その間にガリア地方のパウロ公爵がフランク王国と組んで反乱を指揮した。カンタブリアに遠征していたワムバは、ただちに兵をそちらに差し向け電撃的に北方の反乱を治め、五三名にものぼる反乱軍の武将を捕らえた。その中には聖職者も含まれており、反乱が中央政府に反抗する地方の有力者の総意に基づくものであることを知らしめた。事件後反乱の芽を摘み取るためにガリアにおいて直ちに新しい地方長官を任命し、さらに同地のユダヤ人の追放を定めた。

 そして六七三年一一月、この事件を教訓としてトレドに戻ったワムバは、法律を公布して聖職者を含む全市民に徴兵の義務を課した。徴兵忌避者は国外追放と財産の没収の刑に処せられるとした。六七五年に開かれた第一一回トレド宗教会議(六七五年)では教義の混乱および聖職者の職権乱用やモラルの低下が取り上げられた。ワムバは教会に対して厳しく対処し、司教の任命にまで介入するようになった。彼の時代には、第一一回トレド宗教会議(六七五年)が開かれた。それは第一〇回会議から一九年後のことである。

 ある日、ワムバ王は毒草を飲まされ、瀕死の状態でいるときに髪をそり落とされ、気がついたときには修道服にまとわされていた。そのため彼は再び王座に座ることができなくなった。この失脚劇を指揮したエルウィグ(Erwig、在位六八〇〜六八七)が六八〇年に王位に就いた。トレドのフリアン大司教がエルウィグの即位を助けた。その期待に応えて、エルウィグは王位に就くと直ちに聖職者の徴兵の義務を解き、形骸化していたユダヤ人に対する法律を復活させた。いずれも、不正に王権を入手したエルウィグが弱い国内基盤を補うために教会にすがるためであった。多くの市民や聖職者がワムバが課した徴兵義務の不履行により追放および財産没収の刑に処せられていたので、エルウィグの出した恩赦令は大勢の復権を促した。しかし国民は飢饉に苦しみ民生は安定しなかった。彼の時代に、第一二回トレド宗教会議(六八一年)、第一三回トレド宗教会議(六八三年)、第一四回トレド宗教会議(六八四年)が開かれた。その第一二回会議は第一一回会議から六年後のことである。

 六八七年一一月、エルウィグ王の娘婿であるエルギカ(Ergica、在位六八七〜七〇一)が王に即位した。エルギカ王は賢明な王で、忍耐強く宗教会議を主催し、国内の多くの反乱を押さえ、十五年間統治した。しかしペストが蔓延し、飢饉が続いて、彼の治世下で国内の反乱や対立抗争が一層激しくなり、それを鎮圧する過程で多くのゴート人を迫害した。彼の時代に、第一五回トレド宗教会議(六八八年)、第一六回トレド宗教会議(六九三年)、第一七回トレド宗教会議(六九四年)が開かれた。

エルギカ

 七〇一年、エルギカの息子ビティーサ(Vitiza、在位七〇一〜七一〇)が王位を相続した。彼は共同統治時代をあわせると、一一年間統治した後、七一一年に寿命を全うして死んだ。彼は自惚れが強かったが、慈悲深くもあった。彼はエルギカが処罰し追放したものを免除して、彼らとの主従関係を再開した。エルギカが取り上げた土地も返却した。そして臣下を召集して、エルギカが強圧的に作らせた債務証書を彼らの目の前で焼いた。しかし飢饉による被害が蔓延し、国内は活気を失っていた。彼の時代には、第一八回トレド宗教会議(七〇四年)が開かれた。

 七一〇年、ビティーサの後、ロドリーゴ(Rodorigo、在位七一〇〜七一一年)が王として塗油式を受けて一年間統治した。ロドリーゴの父は王位を狙ったのでエルギガ王に目をくりぬかれ、コルドバに追放されていた。しかしその父はそこで大貴族出身の娘と結婚し、その間に生まれたのがロドリーゴだった。ロドリーゴは成長して立派な戦士となり、西ゴート貴族の支持を受けて王に即位した。しかしビティーサの息子アキラは、ロドリーゴの即位に満足せず、北アフリカを支配していたイスラーム教徒のムーサーの支援を求め、それがきっかけとなってキリスト教国滅亡を導いた。ロドリーゴは一〇万人の西ゴート兵を率いてイスラーム教徒軍と戦ったが、敗れることになる。

 以上が西ゴート王国(四一五〜七一一)の史実である。

西ゴート王国の領域

 何世紀もかけてスウェーデンからガリア・イベリア半島に移動して来た西ゴート族は、ワリア王(在位四一五〜四一八)の時代に南ガリアのトロサ(トゥールーズ)に国家をつくった。宗主国は西ローマ帝国である。その国家領土は拡大したり縮小したりした。宗主国西ローマ帝国が消滅したときは、エウリック王(在位四六六〜四八四)の「エウリック法典」の編纂やアラリック二世(在位四八四〜五〇七)の「アラリック抄典」編纂が必要であった。フランク王国による圧迫のため、アラリック二世(在位四八四〜五〇七)のときに、イベリア半島への本格的な移住が始められ、ゲサリック(在位五〇七〜五一一)の時代の五〇八年に、西ゴート王国はガリアの首都トロサを放棄した。そしてアタナヒルド(在位五五四〜五六七)の時代にトレドが首都として定着した。レオビヒルド王(在位五七二〜五八六)の時代に、西ゴート王国の王ははじめて王としての衣装をまとい、王として振舞って王座に座ったのであった。したがって、西ゴート王国の建国(四一五年)後、一六〇年以上経過してようやく本当の王国らしくなったというべきだろう。それまでは西ヨーロッパの地で運命に翻弄されながらただひたすら生きのびようとしてきただけだったのだ。そこには本当の文化国家や法治国家はなかっただろう。

 レオビヒルド王の息子であるレカレド一世(Recaredo、在位五八六〜六〇一)は第三回宗教会議(五八九年)の場でカトリック(アタナシウス派)に改宗し、これで西ゴート王国は宗教国家への道を歩み出したとされている。これは以後、王の洗礼、宣誓式、塗油式、ローマ教皇の使節の行事への列席、宗教会議開催などの儀式が整えられていくこと、もっとはっきりいえば儀式偏重になったことを言っているのだろう。そこにはローマ教皇の指導があったと思われる。それはそれ以後西ゴート王国が西ローマ帝国の継承者を演じたことに深く関係しているであろう。

 この改宗した頃から以後は、対外紛争はほとんど見られなくなり、国家内での権力闘争だけが顕著に見られるようになる。まるで対外戦争がなくなった分、国内紛争が増えたかのようである。第一身分(僧侶階級)と第二身分(軍人貴族階級)のなかで行われる政争である。それらの権力闘争はある意味で仕方ない面があるが、第三身分(その他の国民全部)の存在を無視し蔑ろにして行われるのであれば、国自体が荒廃する。西ゴート王国の場合は、第三身分を蔑ろにしたのであろう。エルギカ(Ergica、在位六八七〜七〇一)の時代から、飢饉が続いて、ペストが蔓延している。エルウィグ(Erwig、在位六八〇〜六八七)の時代には、国民は飢饉に苦しみ民生は安定しなかったという。

ところがのちにイスラーム教徒がイベリア半島にやってきて、ベルベル人たちが農民となって自作農を推進すると、農業生産は飛躍的に向上したというのである。第三身分を大切に扱えばこのように大地は富を人間にもたらすのである。このように圧倒的多数の第三身分を人間とみなさず虫けらの如く扱うこと、それが西ゴート王国のみならずヨーロッパにおける文明の大きな問題なのである。またそれが軍事国家の本質的な問題である。

 国家は軍事だけではなく、すべての産業や人間のすべての心の動きを、そういう全体を見渡せる能力を持っている必要があるのである。それら全体を見渡せてこそ、変化していくにしても国家は安定感をもつようになる。国家が単なる「暴力装置」でしかなければ、安定感を有する国家は成り立たないのである。西ゴート王国の歴史的変化はあまりにも激しすぎ、あまりにも視野が狭すぎる。理解が不可能なほどの激しい変化であり狭い視野である。これが西洋史の本当の姿なのだと思う。

 レケスウィント(Recceswinth、在位六四九〜六七二)の時代には、西ゴート王国で最も重要で、中世キリスト教王国に大きな影響を与えた「リベル法典」(「裁判法典」)が公布されたという。これこそは西ゴート王国が後世に残した最大の遺産だとの意見がある。『西ゴート王国の遺産』という本を書いた鈴木泰久氏もそう言っている。しかし第三身分を無視したままの法治であるならば、その法律には十分な意味があるはずはないだろう。法治国家であっても法律がよくなければ何の意味もない。むしろ悪法がつくられ、良さそうな法律でも悪用される場合が多くなるだろう。法律が整備されたからといって、無条件に文明化されるわけではない。現代の戦後日本においても、現代のアメリカでも、そのような悪法や悪用がだんだんと増えている。

 このような非文明的なイベリア半島をイスラーム教徒はたまたま征服することになり、その地に文明の花を咲かせたのであった。

(つづく)