「142」 論文 広島原爆を体験した祖母と放射能ヒステリア・ママたち(1) 鴨川光(かもがわひろし)筆 2010年5月29日

●そういえば忘れてた、私のばあちゃんの広島原爆での被爆の話―何も起こらなかったんですけど

 買占めクソ母のくだらない話をしようかと思いましたがその前に、もっと大切なことを思い出しました。

 私のおばあちゃんは戦前戦後と広島に住んでいました。昭和二〇年八月六日、広島に原爆が投下されたその当日は、広島の市内にいたのです。黒い雨も浴びました。放射線から放射能、ヨウ素、セシウム、放射能ヒステリーになっている人々が浴びたがっているすべてのものを「ガッツリ」、ナマで浴びたのです。

 結論から言うと、ばあちゃんは一昨年の夏、九五歳で亡くなりました。老衰だったそうです。原爆症はおろか、風邪らしい風邪一つ引かず、戦後の想像を絶する苦労を乗り越えて、天寿を全うしました。(というか祖母からも母からも苦労という言葉すら聞いたことがない。)

 繰り返し言いますが、本物の原爆の放射能の黒い雨を滝のように浴びて、六四年後、九五で、老衰で死にました。

黒い雨の跡が残る壁

 ばあちゃんだけではありません。母の話ですが、広島の日赤病院で看護婦をしていたおばも同じだったそうです。

 私は広島呉市生まれですが、母親の田舎、つまり私のおばあちゃんの実家は、広島の山のほうの農家です。

 ばあちゃんは戦前に結婚し、広島の市内へ移り住んでいました。母親が生まれたのは戦争の始まる直前の昭和一六年の秋で、戦争が始まるとすぐに田舎で育て、おばあちゃんは実家と広島市内を行ったり来たりする生活だったそうです。

 じいさんのほうは海軍だったようですが、結核をわずらって予備役となり、戦争の終わりごろは岡山に疎開していた。広島が全滅したと聞いて、そのまま亡くなったそうです。

 終戦の年に祖母は広島の実家(子供に旦那の結核をうつせないから。ペニシリンの実用化は戦後)で暮らしていて、昭和二〇年の二月には勤労動員として市内で働いていたそうです。家も市内にあったといいます。

●原爆投下の朝、バリバリになった汽車が広島市内から戻ってきた

 二〇年の八月六日の朝。その日祖母は買い出しか、勤労奉仕のために朝八時一五分の汽車に乗って広島市内に向かう予定でした。ところがいつまでたっても汽車が来ない。昼ごろになってようやく人が沢山乗った汽車が戻ってきたのですが、窓ガラスもバリバリで、車体は相当のダメージを受けた状態だったそうです。

 祖母は、これは何かあったなと思ったそうです。そのまま汽車に乗って市内に行ったら、駅の前の建物は二つのデパートを残して全て吹き飛ばされていた。

 汽車を降りると向こうのほうから「ほおづき」のような格好をした人間たちがよろよろと歩いてくる。「おばさん、水ない?」とそれこそ無数の人から声をかけられたそうです。後に様々な広島の惨状が明らかになるのですが、その日、原爆で壊滅状態になった広島市内に祖母はそのまま留まったそうです。

 この話は私の母からだけでなく、直接祖母から聞きました。私は小学校から中学校まで、毎年夏は広島で一月を過ごしていたので、何度もそういった話を聞いています。

 夕方になると、真っ黒い雨が降ってきたそうです。「夕方には、黒い雨が降ってきてねえ」と子供のころ祖母の口から直接聞きました。

 まさにこれは今「放射能ヒステリア(放射能シンデレラ)」の皆さんが浴びたくて浴びたくて仕方がない「放射能の雨」です。セシウムもヨウ素もたっぷりと含んだ、栄養満点の雨です。当時の現場のシーベルトの数値もどのくらいであったのか。様々な試算がありますが、本物の原爆の爆発です。チェルノブイリよりも強かったのではないでしょうか。

 母の話によれば、ばあちゃん以外にも私の叔母、叔父に当たる人やそのほかにも親戚、知人が当然のごとく広島市内に入っていました。しかし、原爆症であるとか、白血病であるとか、甲状腺異常というのは聞いたことがない。

 再度言いますが、私のばあちゃんは、一昨年の夏、九五で亡くなりました。老衰だったそうです。私の記憶からも、風邪すらも引いたのを見たことがない。夏には水を浴びて、「こうすれば冬に風邪を引かんで済むけんのお〜」と言っていた。放射能のほの字も出たことがない。

 昭和二四年に私の母の妹、つまり私の叔母が生まれました。内部被爆を受けた女の人は、子供にその影響が出るというのを聞いたことがありますが、叔母は今年六六歳になりますけれど、元気だそうです。私は子どものころから世話をしてもらっていましたが、甲状腺の異常だとか、内部被爆だとかという話は、全くどこか遠くの世界の話でした。全く健康です。六〇を越えて、年齢相応の病気をしたそうですが、原爆とは全く関係がありません。むしろ今回の地震の報を受けて、いろんなものを送ってくれた。こちらが今でも世話になってしまっている。アホや。

 その息子さんの、私のいとこになる人ですが、今は海上自衛隊員で、あの地震の直後、釜石に派遣されたそうです(釜石市の惨状はひどかったそうです)。私は子どものころ少し遊びましたが、全く健康でした。今も当然そうでしょう。

 そう、たとえ原爆が落ちた直後であっても、放射線の直撃を受けなければ問題はなかった人々ばかりだった。それを私は子どものころから、当たり前のように聞いて、身近にいた人々と一緒に暮らしていました。

 放射能ヒス(放射能ヒステリア)を起こしている人々の様子から見ると、原爆とは関係のない私だって被爆していることになる。祖母は原爆投下直後の爆心地近い広島市内と実家を毎日のように行ったり来たりしていたのですから。まだ四つになるかどうかの私の母親に、放射能汚染物質がべったりとついていたに違いありません。しかし、母も今年七〇になりますが、元気です。母の甲状腺異常など聞いたことがない。

 つまり、現在の放射線ヒステリア人間たちは、この私鴨川光をも被爆者と考えていておかしくない。殺すぞお前。

 私個人のことで言えば、アルコール汚染のほうが放射能よりも強いぞ。アルコールにも弱いので、アル中にもなれない。

 放射能のことを心配するなら、中国産野菜の農薬のほうが、やはり健康には害のあるレベルだと思うが。七〇年代の日本の野菜も、農薬まみれでくそまずかったが、それと同じ状況を今の中国は経験している。だから、そうは言ってもやはり、中国野菜の農薬濃度は高い。

 この写真はネット上で拾ったものですが、ここまで来たら諧謔(かいぎゃく)です。

 

 まさかこんな日が来るとは、と言う見出しがついていたのですが、笑えます。放射能ヒステリア・マザーズたちはこれでも食えよ。放射能より農薬のほうが安全だぞ。ドアホ。

●買占めを先導する「クソ母」

 続きです。続けてしょうもないことを書きます。

 今年三月一三日の日曜日、原発が爆発しました。その翌日、一四日の月曜日、電池と缶詰を買っておこうと地元のスーパーに行ってみると、案の定、私が買おうと思ったものは全て品切れ状態でした。その日、仕事で八王子の町を車であちこち移動していると、スーパーの入り口で、老人が行列をなしている。

 私はその現状に、今でも怒り心頭です。私は今現在、三月二五日金曜日の時点で、もう一週間以上納豆を食べていません。納豆ぐらいで愚だ愚だ言うな、ということではありません。

 不安に煽(あお)られて、生活用品を買い占めるというアホ行為。煽られてどうする。それでも大衆心理(そんなものが本当にあるのかどうか、まことに疑問だが)とはそんなものだ。しかし納豆と豆腐までもが買い占められ、現時点(二七日現在)でも品切れ状態なのです。どちらも生鮮食品です。どうするつもりなのです。

これは明らかに被災に具(そな)えた行為ではなかった。何とかしてあるものを持って非難しようとか、長期間こもっていられるように、食料を備えようという気持ちから出たものではない。

 これは私たちの日常感覚である「自分さえよければいい」「被災地なんか知ったことじゃない」という本性です。貧乏な、羊のような臆病庶民の本性です。私も自分を除外しようとは思わない。だから皆さん。お互いを責めないでください。「日本は一つ」というのは大嘘です。私もそうです。

 長友選手らがヨーロッパから「ニッポン、ニッポン」といって、「日本は一つのチームなんです」などというACのコマーシャルは何度見てもむかつきます。日本はバラバラです。せいぜい助けられるのは、無事な人一人だけです。せいぜい家族です。

ACのコマーシャルから

 それでも私は一二日から一週間の間は、本当に逃げようと思った。本当に深刻に考えました。ここが副島の弟子(この言葉は嫌いだが、仕方なく使っている。本当はピュピル pupil というしかない)の一人である私が、少しは普通の人とは違うところだろうと思っている。あの一号機の爆発映像を自分の生活と結びつけて、「本当にやばい」と思えるかどうか。ここがあの当時、私と私の身の回りにいる人たちとの違いだったと、本気で実感しています。

 あの時私は本気で逃げるか、母親だけを逃がすか、家にとどまって、窓にテープを張って、とろろ昆布を食べて過ごそうと思っていました。テープととろろ昆布は、店頭に沢山ありました。(とろろ昆布。大量に買い込んだので、今毎日食べています。ヨウ素131予防とは関係なく、とても美味い。)

 ああ、ついにアメリカの映画「ザ・デイ・アフター」を見たときのような事態が起こってしまうのだ。あの映画は私が中学時代の公開だったけれど、八〇年代、レーガン政権になったころ、やたらと核戦争とその後のような映画が作られていた。

「ザ・デイ・アフター」

 しばらくはボッカチオ(Giovanni Boccaccio)の『デカメロン(Decameron)』のように過ごすしかない(ああした核戦争映画の根底にあるのは、ヨーロッパ人たちの根底にあるペストへの恐怖とデカメロンを原型とした考え方であろう)。灰色をした放射能雲で空が覆われていくのを見上げながら、ずるずるととろろ昆布汁をすすっているのだろうかと(その時点でとろろを食べてももう遅いが)、漠然と一冬を過ごすような気持ちでいました。

(著者注記:「ザ・デイ・アフター」は核戦争後の世界を描いた一九八三年の映画。「デカメロン」はペストに襲われたときのヨーロッパ人が、家にこもって物語を話しながら過ごした話。)

 この買占め騒動は、そのような「冬ごもり」の発想とは全く関係がなかった。お米、缶詰と言った保存食から、ちり紙トイレットペーパー、紙おむつと等、南関東(東京都は南関東です)で安全なままでいる私たちには、今急激には大量に必要としないものを、強迫観念に駆られて(正確には強迫神経症。パーセキューション・メイニアック Persecution Maniacといいます。マニアック。一種の精神病、「キチガイ」、脳の病気)買い占める浅ましさです。

 特に、若い母親たちの浅ましさには目を見張ります。今の二〇代から三〇代の、子供を幼稚園にやっているわがままな有閑ママたち。実に腹が立つ。

 今の「ワカハハ」たちは、どうも自分の子供の健康の心配や、放射能の恐怖に駆られて買占めに走ったのではない。ただ自分たちが後々面倒くさくなるから、面倒だから、自分がわずらわしい混乱に巻き込まれたくないから、それだけの理由からです。おそらく馬鹿父もいるでしょうが。

●ペットボトルの水の買占め―こんな内陸の水道水は放射線に汚染されていない

 その翌週の三月二三日の水曜日からは、ペットボトルの水の買占めが始まりました。その週から「放射能汚染物質が水にもまぎれた」「水も放射能に汚染された」「水の放射能は野菜のように半減しない、煮沸してもだめ」といった報道がテレビで言われ始めたからです。

 私は、二三日に仕事の最中に、他の人に頼まれて(その人の奥さんから電話がかかってきて頼まれたから)、ペットボトルの水を買いにいくのを手伝わされました。あほらしいなあと思いながら、その日の三時ごろに近くのスーパーに言ってみると、すでに一人二本までに制限されていました。水を買うというその事自体が問題だったのではありません。一家庭一〇本ぐらい買っても、問題ではない。

 しかしこの様子は問題でしょう。



コストコという郊外型大型スーパーでの画像(これほど浅ましい、面倒くさい行為をよくもやれるもんだと感心してしまいます)

 おそらくはこのような感じのやり取りがあったのでしょう。

 「ねえ、今から騒動になるから買ってきてよ〜」と仕事中の旦那に泣きつき、ペットボトルの水を買いに行かせる。自分たちは朝からエアロビをやったり、ママ友らと連れ立ってファミレスでお茶を飲んだりしている。

 三月一二日から一九日くらいまでの、一刻の予断も許せない、あの一連の原子炉爆発が続いていた最中のことです。私は広い市内全域を毎日回っていたので、八王子中の主婦の様子を見ています。昼の住宅街の様子を見ています。他の市も町も同じでしょう。今の主婦は子供を守るという感じで、災害に対処しようとしていた様子は見られない。面倒くさいから、混乱に巻き込まれたくないから、それが彼女らの本質的な動機です。本気で逃げよう、籠(こも)もろうという後の無い姿勢は感じられない。

(つづく)