「149」 論文 歴史メモ・イスラームの秘密(1) 鳥生守(とりうまもる)筆 2011年7月24日

 昨年(二〇一〇年)九月四日に亡くなられた小室直樹氏は言う、「イスラームを知るものは祝福される。世界の宗教を理解するからである。世界そのものを知るからである。」(小室直樹『日本人のためのイスラム原論』集英社、二〇〇二年、二〇ページ)と。

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小室直樹
 副島隆彦氏が師と仰ぐ、戦後日本が生んだ大学者小室直樹氏のこの言葉に励まされて、私はイスラームについて勉強を続けることになるだろう。

 私はイスラームを勉強し始めたばかりで、そのさわりしか知らない。しかし日本人のほとんどは、イスラームをほとんどといってもよいほど知らない。だから、私がここでイスラームについて述べることは、まったく意味のないことではないだろう。

●改めて、なぜイスラームか?

 「イスラーム史を知らずして世界史を語るなかれ」(小室直樹『日本人のためのイスラム言論』)。イスラームは間違いなく人類の歴史と文明を推進し、繁栄させ、発展させた大きな原動力であった。過去はそうであった。未来もそうなるだろう。ただし現在はヨーロッパ文明の邪悪で強大な軍事力とその暴虐の前に、雌伏(しふく)すること百年であり、態勢建て直しのための静かな反省と宣教の最中である。

 顧みれば、私はイスラームを中学、高校の授業で習ってなんとなく知っているつもりであったが、今思えばぞっとするくらいイスラームについて何一つといってよいほど知らなかったのだ。私自身の個人的課題から世界史を見直すうちに、イスラームの果たした巨大な成果と業績の一部が垣間見えるようになった。いますぐイスラームを信仰(改宗)できるはずもないだろうが、イスラームを知れば知るほど、イスラームへの感謝の念が増してくる。そして人類はイスラームに感謝してもいいのではないかとの思いが日増しに強くなるのである。

 イスラームの教えとは何か。日本人のほとんどは(私もそのうちの一人だったが)それを全くと言っていいほど知らない。現在のほとんどの日本人は、社会経験が全くない時期に、受験勉強のためだけに、学校の授業の中で小耳に挟むだけである。それ以後は興味を抱くことがないまま人生を送り、老いていく。その間、何かの国際事件でたまたまイスラームのことを聞くことはあっても、日本人は欧米のマスメディアを通してそれを受信するので、欧米の目を通してしかイスラームを理解できない状態に陥っている。

 誰もが知っているように欧米は蛇蝎(だかつ)の如くイスラームを嫌っている。欧米のマスメディアが、イスラームを正しく報じることはないのだ。彼らによって、イスラームはどこかダサくてなんとなく恐ろしいというように報道される。かといって日本人は、そのさわりでもいいから本などで直にイスラームを調べようとしたり、イスラームを知っている人(日本人)の話に耳を傾けようとしたりもしない。したがって相変わらず、欧米とそれに隷属した日本のマスメディアを通してしかイスラームを見ていないのが現実である。これではイスラームを知ることは絶対にできるはずがない。

 「イスラーム教は絶好の宗教の見本。イスラーム教は感情豊かな現実宗教」(小室直樹『日本人のための宗教言論』徳間書店、二〇〇〇年)と小室直樹氏は言っている。本当にそうである。どうも、イスラームによって地球は美しくそして生き生きとし、人類は文明化し豊かに繁栄をしてきたようだ。イスラームは地球を開発するが、地球を痛めつけなかった。イスラームは、地球に優しく、人類に有益だった。日本の江戸時代の美しい景観も、知らず知らずのうちに、イスラームの世界史的波動によってその影響を受けていたのではないかと思う。

 これに対してヨーロッパ文明は、人類を(自国内でも自国外でも)傷つけ抑圧し、それはさらに地球さえも汚し痛めるものであった。ヨーロッパ文明の資本主義やデモクラシーや近代法は、貪欲で傲慢な一部の人間たちのためだけのものであったのだ。今でも万国の民を苦しめ、地球の空気や水を毒物や熱で汚染し、地球表土を傷め続けて、省みることもない。これは実に恐ろしいことなのだ。そしてその科学技術の悪用が今も進行しているのだ。地球人口の二〇世紀からの狂ったような急激な増加も、この文明が原因である。

 欧米と日本の一般国民たちがイスラームの真実を、その片鱗だけでも知り始めることになると、ヨーロッパ文明の非情さとデタラメさが露呈することになる。だから、欧米のマスメディアは、自分たち欧米の邪悪さが全世界に露見しないように、イスラームをできるだけ無視し、どうしても無視できない時には、ゆがんだ知識・情報を流して、イスラームを葬り去ろうとしているのである。だから大多数の日本人は一部の専門家以外は、イスラームを全く知らないか、誤ったイメージを描いているのだ。人々は、イスラームを知るためには、その壁を何とか乗り越えなければならないのだ。

 宮本雅行氏は、アラビア語について次のようなことを述べている。

(引用はじめ)

 現在、国連(国際連合)の公用語は六つである。それは、英語、フランス語、スペイン語、ロシア語、中国語、アラビア語である。ここになぜアラビア語が入るかと言うと、アラビア語を話す人が世界で多いのと、国際的な政治経済の場でアラブ諸国の果たす役割が大きいからである。

 同時に、アラビア語は、世界三大宗教(引用者注、仏教、キリスト教、イスラーム教の三つ)の一つであるイスラーム教の聖典『コーラン』の言葉として、また長い歴史を誇るアラブ・イスラーム文明をになう言葉として、アラブ世界にとどまらない大きな位置を占めている。

 日本ではアラビア語は、しばしば「特殊言語」の一つとみなされているようだが、言語学的には、いわゆる「セム語族」という大きな言語グループに属している。セム語族には、古くはあの有名なハムラビ法典が書かれたバビロニア語や、イエス・キリストが話していたとされるアラム語、あるいは現代語では、イスラエルのヘブライ語やエチオピアのアムハラ語など、さまざまな言語が属している。アラビア語は、いまだに明確な所属が定まっていない日本語よりは、ずっとその「特殊性」は低いといえる。(五ページ、言葉を少し変えたところもある)

(引用おわり:宮本雅行『はじめてのアラビア語』講談社現代新書、二〇〇三年)

 本来、これは国際社会常識の一つであり、現代人の基礎知識の一つであるべきだろう。だが、この基礎知識を持っている日本人はどのくらいいるだろうか。アラビア語は国際連盟の立派な公用語であり、イスラームの聖典『クルアーン(コーラン qur'an)』の言葉であり、アラブ・イスラーム諸国の公用語であるのである。本来は、こういう知識は毎日の報道番組を視聴していると自然に身につくべきである。しかし、われわれ日本人はテレビや新聞の報道に毎日接していても、このような重要な基本知識を得ることはできない。そのようになっている。ということは、日本人のほとんどがメディアの人間を含めて、こういう基礎知識を持っていないということだろう。このような基礎的な知識がなければ、ニューズ報道を正しく理解できるはずがないだろう。

 そういえば、国際ニューズは(国際ニューズに限らないが)、思い出したようにしか、報道されない。結局テレビや新聞は、国民に対して国際社会で起こっている真実を報道しようという気が全くないということである。近年、おかしな報道が数多くなっているが、おそらく一九二九年の世界大恐慌から一九三九年の世界大戦勃発までのかつての戦争誘導報道ぶりが、現在進行しているのだ。何かにつけ、危機を国民に植えつけようとする報道(話題)であふれている。

 本来であればマスメディアは、国連でどんな動きがあり、どのようなことが協議されているのか、簡潔にかつ正確に国民に報道すべきなのだ。しかし日本のマスメディアに限らず、欧米の大手マスメディアも、それをきちんと行うことはないのだ。欧米は今まで、真実情報を隠し虚偽情報を流して、世界人類を支配してきたから、いまさら真っ当な真実報道はできないということだろう。嘘をつき始めると、いつまでも嘘をつくことから逃れられなくなるのだ。

 ところで先ほども述べたように、大学者小室直樹氏は、次のように述べている。

(引用はじめ)

 大多数の日本人が知っている世界史は「世界の歴史」なんてものではない。これは、せいぜいがヨーロッパ史と中国史、それに、やっと二〇〇年のアメリカ史を少々加えたくらいのもの。こんな乱暴なものを文部科学省は「世界史」と称しているのである。

  大切なものを一つ忘れている。それはイスラームの歴史である。

  聖徳太子の時代(七世紀初め)から徳川家康の時代(一七世紀初め)ま での、一〇〇〇年にわたる繁栄のイスラーム史があるのである。

  イスラーム史を知らずして、世界史を語るなかれ。(三三二ページ、一 部他ページから)

(引用おわり:小室直樹『日本人のためのイスラム原論』)

 確かにイスラームによる一〇〇〇年の世界史があったのである。小室氏は、イスラーム世界は三度(あるいは四度)にわたってその盛時を迎えたとして、

 第一期は、ムハンマド(マホメット Muhammad)の死後、いわゆる「正統四カリフ」時代(六三二〜六六一年)。

 第二期は、いわゆるサラセン帝国(アッバース朝 Abbasid Caliphate)の時代(七五〇〜一二五八年)。

 第三期は、オスマン・トルコ帝国(Ottoman Empire)、サファビー王朝(Safavid dynasty)、ムガール帝国(Mughal Empire)の三国鼎立(ていりつ)時代(一五一〇〜一七三〇年)。

 さらに付け加えれば、第二期と第三期の間に、ティムール(タメルラン、Temur)大帝国の隆盛もある(一三七〇〜一五〇七年)。

というように、三つあるいは四つの時代をあげている。

 小室氏は、「ムハンマド(マホメット)は生前、奇蹟(きせき)を行わなかったが、彼の教えは世界史に奇蹟を起こしたのである」と述べ、世界の富と文物、知識がイスラーム世界に集中したと述べている。これは、イスラームが世界をひきつけ大文明を起こしたということである。

 あの山川出版社の社会人向けの本『もういちど読む山川世界史』(二〇〇九年)でも、次のように書いている。

(引用はじめ)

 7世紀のアラビア半島に成立したイスラーム世界は,その後,時をへるにしたがって拡大し,今日では東南アジアから西アフリカにいたる広大な地域がこの世界にふくまれる。イスラーム世界は,初期をのぞいて政治的に統一されることはなく、一〇世紀ころからは,シリア・エジプト,イベリア半島・北アフリカ,イラン,トルコ,インドなどの地域がそれぞれ独自の歴史的発展をとげてきた。しかし,一方ではイスラームという共通の信仰と法をうけいれることにより,一つの世界としてのまとまりをも維持してきた。この世界では,交易・巡礼・遊学などをつうじて人や物の移動,学術・情報の交流がさかんにおこなわれた。社会は開放的で柔軟性にとみ,さまざまな出自の人びとが民族の枠にとらわれることなく活躍した。ギリシア・ローマ・イラン・インドなどの古代文明の栄えた地に成立したイスラーム世界は,これら古代文明の伝統を継承して融合し,独自のイスラーム文化を発展させたのである。(七三ページ)

(引用おわり:『もういちど読む山川世界史』二〇〇九年)

 ヨーロッパ文明を絶対視する現代の歴史学の常で、ここでもギリシア・ローマを継承していることが最も強調されている。それは事実だが、そのことは実際にはそれほど重要でもない。そういう嫌いがあるが、政治的に分裂していても、イスラーム文明は国を越え帝国すら越えて、一つの世界としてまとまり、その「社会は解放的で柔軟性にとみ,さまざまな出自の人びとが民族の枠にとらわれることなく活躍した」というのは本当で、この部分が重要である。

 国家や帝国を越え、さらに民族の枠を越えているのだから、「イスラーム文化」ではなく、「イスラーム文明」なのである。そしてこれは全人類的であり、真の意味での「近代」なのである。(この本は社会人向けの本である。高校の教科書でも、このように書いているのだろうか。このように書いていれば良いのだが、それはあまり期待できない。また一冊で全世界史を書くというこの手の本は、世界史の目次のような存在にしか過ぎない。だからやはり、この手の本は、考えさせられる史料とはならない。)

 イスラーム軍は世界を征服していったが、むやみな破壊や殺戮は行わなかったようである。次に引用するのは、九八五年七月、イベリア半島の後ウマイヤ朝の将軍アル・マンソールが、キリスト教軍に対する劣勢を挽回するため、バルセロナ(当時は、フランク王国領であった)を襲撃したときの話である。

(引用はじめ)

九八五年七月一日、バルセロナの夏特有の蒸し暑い日であった。

「殿下、モーロ人(引用者注、イスラーム教徒軍、アル・マンソール軍のこと)の襲撃です!」

 徹夜の疲れで、ついうとうとしてしまったバルセロナ伯ブレイ(ボレール)二世(在位九四六〜九九二)は、部下の叫びに浅い眠りを覚まされた。

(中略)

「殿下、海上にも敵の艦隊が現われました!」

(中略)

 アル・マンスールは本気でバルセロナを襲撃するつもりなのである。

 (バルセロナ伯ブレイ二世の)家臣たちの意見は二つに分かれていた。一つは徹底抗戦である。もう一つは、イスラーム教徒の常として、降伏すれば建物を破壊したり人をむやみに殺したりはしないので、降伏すべきだとする意見である。敵が恐ろしいほどの大軍である上、海上まで封鎖された今、後者をとるしか道はないように思われた。(略)

  (バルセロナ側は降伏し)アル・マンスール軍は七月六日に入城した。 ところが、予想に反して、城壁と主な建物を破壊し、ありとあらゆる略奪 を行い、しかも、多くの人を捕虜として連行してしまった。一部は奴隷と するために、そして残りは身代金目当ての人質として。そして、戦法だけ はいつもどおりに、すなわち風のように襲ってきて、風のように去ってい ったのであった。

(引用おわり:田澤耕『物語・カタルーニャの歴史』中公新書、二〇〇〇年)

 後ウマイヤ朝(Caliphate of Cordoba、七五〇〜一〇三一)の末期の九八五年、アル・マンスール(Al-Mansur、勝利者という意味、正式名はムハンマド・イブン・アビー・アーミル・アル・マンスール Muhammad Ibn Abi Aamirらしい、九七六頃〜一〇〇二年まで後ウマイヤ朝の実権を握った)は「予想に反して」、バルセロナ伯領で破壊・略奪・捕虜連行を行ったという記録である。ということはイベリア半島では、イスラーム軍はそれまで約三〇〇年にわたって、(往々にしてローマ軍やヨーロッパ・キリスト教軍が行ったように、)不要な危害を加えてこなかったということである。この話はそのことを証明している。

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アル・マンソール
 なお、アル・マンソールは連戦連勝を重ねたのに、人気がなかったらしい。彼はそのほかに、戦争遂行のために増税をするという馬鹿なこともしている。彼は増税が必要なほど、戦争をやりすぎたのである。彼は、野蛮で人情が欠けていたのではなかろうか。ヨーロッパ人と争ううちに、敵のヨーロッパ人と同じような人格になったのではないだろうか。その前に、アブド・アッラフマーン三世(Abd ar-Rahman III、第八代アミールとして九一二〜九二九、初代カリフとして九二九〜九六一)が世界一輝ける豪奢なザフラー宮殿(花の宮殿 al-Mad? -nat al-Za-hira)をコルドバ近郊に建設したのだが、その贅沢三昧が後ウマイヤ朝滅亡の最大の原因でないかと、私には思われる。

 だから後ウマイヤ朝は、初代カリフが滅亡への道筋をつくったことになる。そして幼い第三代目カリフの後見人アル・マンソールがその滅亡に拍車をかけたのである。増税までして戦争に励んだのだから。アル・マンソールは、初代カリフが行った贅沢三昧によって、傲慢・野蛮な人間になった可能性もある。彼らは二人とも馬鹿だ。彼らは二人とも、イスラーム教徒を自任しただろうが、イスラームの教えに反しているのだ。(このように、イスラーム世界は指導者層がデタラメだったのだ。)

 ところで、鈴木董氏は、次のように述べている。

(引用はじめ)

 従来、アッバース朝の分裂・衰退以降のイスラーム世界の歴史は、イスラーム世界全体の停滞と衰退の歴史として描かれがちであった。とりわけ一三世紀中葉にモンゴルが侵入し、バグダードを征服してアッバース朝を滅ぼしたエピソードは、このような印象を強めた。また、一一世紀末にはじまる十字軍運動や、一五世紀末からの大航海時代も、イスラームにかわって西欧キリスト教世界が台頭したことの証左として語られてきた。

 しかし、事実は非常にことなっている。この時期にイスラーム世界は、対外的には活発に新たなフロンティアヘと拡大し、さらに広汎な地域をおおうことになる。また、対内的には、地域的多様性を包みこみながら、独自の文化世界として成熟の時代をむかえつつあった。そして、十字軍運動や大航海時代そのものが、繁栄をつづけるイスラーム世界の富と光輝に対する反応にほかならなかったのである。(三〜四ページ)

(引用おわり:鈴木董編『パクス・イスラミカの世紀』(講談社現代新書、一九九三年)

 イスラーム文明は政治的に分裂し、軍事的に敗北しても、拡大を続けたというのである。これは現代人(ヨーロッパ文明人)には考えられない不思議な現象だろう。

 また、次のようなエピソードもある。グラナダは、イベリア半島におけるイスラーム支配の地であった。

(引用はじめ)

 アラゴン王国のアルフォンソ一世(在位一一〇四〜一一三四)が勝利を収めていた時に、グラナダ地方のキリスト教徒は、イスラーム教教徒への恨みを晴らしてグラナダにキリスト教王国を建設することに希望を持っていた。彼らはアルフォンソ一世に何度も手紙や親書を書いてグラナダに来てほしいと懇願した。アルフォンソ一世は、まず状況を調べてみようと、屈強の兵隊一万二〇〇〇人からなる調査目的の部隊をグラナダ地方に派遣した。

(中略)

 この調査隊が調査を終えて帰還すると、彼らは、他のキリスト教王国に先んじてグラナダの地を獲得する必要があることを王に報告した。グラナダには、他のどの国にも勝る広大な平野、豊富な小麦、大麦、麻の収穫、それに豊富な絹、葡萄、オリーブ、その他ありとあらゆる果実に恵まれ、数多の泉、水路、頑丈な城塞等がそろっており、国民性は心優しく、市民生活は洗練されている。そして貴族には品格があり、その娘たちは美しいと王に報告した。その報告は、この祝福された地を征服することができれば、他のキリスト教王国を征服する際にも大きな助けとなるであろうとつけ加えた。(一五一〜一五二ページ)

(引用おわり:鈴木泰久『西ゴート王国の遺産』中公新書、一九九六年)

 この時代は、おそらく後ウマイヤ朝が滅亡して一〇〇年後であり、第一回十字軍(一〇九六〜一〇九九)と第二回十字軍(一一四七〜一一四九)の間であり、つまり、十字軍時代に突入した後の時代だ。キリスト教軍が隆盛しており、そしてイベリア半島のイスラーム社会は四分五裂の落ち目のときであった。キリスト教社会はこの頃には、おそらくイベリア半島での軍事的優勢で、確かな手ごたえと自信を感じていたのである。上記の引用は、その時代のグラナダのキリスト教徒を含む姿であると思う。ヨーロッパのキリスト教社会から見れば、落ち目のイスラーム社会において差別され税を多く徴収されていたキリスト教徒でも輝くばかりの文明人であったのだ。私はここに、イスラームの文明力を感ずる。

(つづく)