「151」 論文 歴史メモ・イスラームの秘密(3) 鳥生守(とりうまもる)筆 2011年8月7日

 

 この点でローマやヨーロッパが取り入れたキリスト教に、そしてユダヤ教にも重大な問題が出てくる。『聖書(バイブル)』がギリシア語で書かれているのである。ローマではラテン語は日用語にすぎなかったのであり、ローマの公用語はギリシア語であった。

 小室直樹氏は『聖書』はギリシア語で書かれたと言って、次のように述べている。

(引用はじめ)

 バイブルのテキストはギリシア語で書かれているのである。旧約、新約両方とも同様である。旧約は本来ヘブライ語で書かれていたはずなのに、ぐずぐずしているうちにヘブライ語の啓典はどこかへ散逸してしまった。そこでギリシア語の啓典を以て本来の啓典に代えるということになっている。新約は勿論もともとがギリシア語である。それ以前のイエスがしゃべっていたアラム語の啓典などはない。

 ユダヤ教は、ギリシアの影響を本来受けないものであったはずなのだが、いつの間にか受けてしまっていた。それは、ユダヤ社会にギリシアの論理が入ってきたところ、それがあまりにも優れていたので、その論理学をとり入れた、という次第である。

 もう一つ重要なことは、キリスト教がローマ帝国のなかにおいては例外的にギリシアの影響を受けないことでも特徴的だったことが挙げられている。イエス・キリストがガリラヤ湖の湖畔において説教したときなどは、少なくともギリシア哲学などは意識していなかったであろう。ところがキリスト教が、その後ヘレニズム世界を往来しているうちに、ギリシア思想の影響を大きく受けるようになった。

 そのため、キリスト教も神学としてみるとき、ギリシアの論理を用いて発達することとなった。

 また、勘違いしている人が多いので正しておくが、ローマ帝国の公用語というのはギリシア語であった。ラテン語というのはいわば日用語にすぎない。だからバイブルにもパウロの言葉として書かれているのはギリシア語である。この福音というのはすべての人のために書かれたとされている。すべての人という意味は、身分の高い低いというのは一切関係ないということだが、その表現として、「ギリシア人にも野蛮人にも」と書いてある。

 ローマ帝国においてはギリシア人とは文化を持っている人、野蛮人というのはギリシア人以外の人で、そのギリシア人以外の人々はみんな無学だと思っている。つまり、人種的にいえば私たちも無学でございます、とパウロが認めているのに等しい。

 したがってヘレニズム世界においては、論理学はギリシア論理学一辺倒となった。となれば、ヘレニズム世界の地に生まれたキリスト教が、ギリシア論理学の影響を受けるのは当然だということは明らかだ。(三三〜三四ページ)

(引用おわり:小室直樹『日本人のための宗教言論』)

 ギリシア語はインド・ヨーロッパ語系である。このキリスト教がギリシア思想の影響を大きく受けたのが非常に重要で、イエス・キリストの宗教がここでも非常に大きく変容したのである。神の啓示(言葉、教え)に対する信仰の宗教が、人間の論理判断の対象となり論理で説明できないところが削られていくのである。神や物体の存在は、人間の論理によって存在するのではない。それらは存在するから存在するのである。ギリシア語を使う人間は、その点がよく分からない人々なのだ。それは、ギリシア人はギリシア人以外の人々はみんな無学だと思っているからだ。

 だから、旧約も、新約も、聖書は神の啓示を重視していないのだ。論理重視となったからである。つまり、神や存在よりも、人間(ギリシア人)の納得性(論理)の方を重要視するようになったのだ。それによって神よりも人間の方が上位になり、神と人間の関係が転換したのである。だから、このギリシア語で書かれた『聖書』によって、キリスト教とユダヤ教はもともとの宗教とは似て非なる宗教に変容したのである。ムハンマド(マホメット)も、ユダヤ教もキリスト教も人間の手でゆがめられていると確信をもって主張している。全くそのとおりだったのであり、ローマやヨーロッパは、セム的な文化を考慮することなく、ギリシア思想で勝手に宗教を解釈したのである。

 つまり、ヨーロッパで広まったキリスト教は、看板に偽りありの、(神を畏れない、したがってそれゆえに神の下す戒律と神の慈悲・慈愛を感じることのない)表面だけの上っ面だけを取り入れた、中身が真逆になったデタラメ・捏造宗教だったのである。これが肝心である。

 ヨーロッパのキリスト教やユダヤ教は本質的には、無神論だったのである。だから、ヨーロッパの信者は、ただ教会に隷属させられるのみだったのである。ヨーロッパのキリスト教徒はただ悔い改めよと言われるだけであった。実質的に、悔い改めた後に何をすべきかを言われなかったのである。イスラームも悔い改めよと言うが、その後に多くの言葉で、こうすれば善いああすれば好いと神からの指示や助言があるのである。これが本当のセム的唯一神教のようだ。

 日本は明治維新以降、このヨーロッパから啓典宗教を学んだのだが、それはおかしなものを学んだということだったのだ。事実、小室直樹によれば、明治の代表的クリスチャンである内村鑑三(うちむらかんぞう)でさえ、キリスト教の教えを奇妙と認め、「これ(キリストの贖罪)はまた非常に奇態な教義でありまして、多くの人をつまずかせるものでございます」と言ったという。内村鑑三は困ったのであろう。

 しかし多くの日本人はいまだに、ヨーロッパやアメリカのキリスト教は真っ当な宗教だと思っている。わが日本の政治家や財界人、学界人、マスコミ人にもそういう人が多そうだ。名をなし財をなした彼らのほとんどは、ヨーロッパやアメリカのキリスト教に対して微塵も疑問がないような顔をしている。鈍感というか、卑屈かというか、愚鈍すぎる人々である。これらの人たちは、およそ指導者たるべき人々ではない。日本国民は、こういう人々を指導者として認めるべきではない。一刻も早く愚鈍な彼らをその地位から罷免することを考えないと、われわれ国民大衆の子孫たちがあまりにもかわいそうだ。

 日本人(日本教)は、神より人間を上位に置くので、無神論である。この点、ヨーロッパと同じである。この点で、日本人とヨーロッパ人は非常に似ているのである。ただしヨーロッパでは教会が思いつきの戒律をつくり、下層民に押し付け、下層民を神の下位においた。この点は日本とヨーロッパでは違う。だから本質においては、ヨーロッパ人も日本人も、最終的には宗教教義はまったく無関心なのである。宗教的言語の連関具合が(記号論理的に)一致すればよいのである。日本や欧米の自称キリスト教信者は、それを確認したり議論したりして、言葉のキャッチボールや謎かけなどをゲーム感覚でおこない、それを人生の楽しみとしているのかもしれない。

 ところでこの言語面の問題として、シーア派の問題が考えられる。シーア派はイラン人が多いが、イラン人の言語はペルシア語である。このペルシア語は、インド・ヨーロッパ語族に属し、文化的にギリシア語と基本が同じことになる。シーア派は内面重視の考えを持っているようで、これはギリシアの論理(人間の納得性)重視、ヨーロッパの内面重視に通じる考えである。この思想は、人間は神の僕になるという、ムハンマド(マホメット)のセム的唯一神教であるイスラーム教を逸脱する危険性を大きく持っている。ここに現在まで続いている、イスラーム内部の不幸な対立があるようだ。このことに注意が必要だ。

3.イスラームの教えは声にのせて行われる

 ムハンマド(マホメット)は、初めての啓示を受けた時、「読め! 創造なされた・・・」と言われたが、「読めません」答えると、死ぬほど締め付けられた。観念して言われたことを復唱してみると、次の復唱すべき言葉が続いたのである。すなわち、ムハンマドはこの啓示のとき、神の言葉を声に出して復唱することを要求されたのである。ムハンマドは、弟子たちや信者たち全員にその自分と同じことを要求するのである。

(引用はじめ)

 イスラームの聖典は、「読まれるもの/誦まれるもの(クルアーン)」という名の通り、朗誦と暗記を基本としている。ムハンマドは読み書きができなかった。彼は、大天使ジブリールから啓示を受け取り、ただちにそれを記憶したとされる。いずれにしても、弟子たちは、新しいクルアーンの章句だと言って彼(ムハンマド)が朗誦すると、すぐにそれを覚えていった。覚えた者たちは、他の者たちに読み聞かせ、聞いた者たちがさらに覚えるという方法で、聖典は広められた。(一六四ページ)

(引用おわり:小杉泰『興亡の世界史06・イスラーム帝国のジハード』)

 ムハンマド(マホメット)は生前、啓示された神(アッラー)の言葉をそのまま朗誦(復誦)して弟子たちに伝え、それを聞いた弟子が他の者たちに朗誦して聞かせる。それを聞いた者たちがまた他の者たちに朗誦していくという方法で、神から下された啓示は信者たちに即座に伝えられて行ったのである。ムハンマドの朗誦した神の言葉は、詩ではなかったが、頭に残りやすい、したがって記憶しやすい響きをもっていたのである。

 この朗誦は軍事に関するもの以外は、かなり大きな声で行われただろうと思う。否、できる限りの大声だったかもしれない。そして何度も朗誦が繰り返されもした。この方法だと、ほとんどすべての信者に、差別なく平等に神の啓示が伝えられることになる。神の啓示が幹部だけのものとならないし、無学文盲で無教養な者たちにも神の啓示が伝わるのである。さらに、神の言葉は無教養の人にも理解できる言葉を使っていたようだ。

 当時は本を入手できる人は特別裕福な人に限られていたわけで、ほとんどの人は文盲であった。そういう文盲の人々にも、聞く耳もつ人なら隠し事なく伝わったのである。この口からの発声を使った伝達方法は、公明正大であり、どんな下部構成員にまでにも分け隔てなく公平に伝えられる最も良い方法であるだろう。これによって、誰もがムハンマドと同レベルの情報を得られるのである。またそれによって、人々はお互いに何度も何度も神の啓示を確認し合うことができたであろう。これで人々の連帯が生まれるのである。

 イスラームの聖典『クルアーン(コーラン)』は、二十三年間にわたって何百回何千回にも分けてムハンマド(マホメット)に下された神の啓示を集めた教典である。預言者ムハンマド(マホメット)は、天使ガブリエルのもたらす啓示を完全に記憶するまで復誦させられ、その啓示の挿入個所を明示された。だから、『クルアーン(コーラン)』の章節の配列は、啓示の時期とは関係なく、神の定めた順序に従っているという。預言者ムハンマド(マホメット)は読み書きができなかったので、神の啓示を受けるとすぐ、読み書きのできる弟子(教友)に記述させた。筆記者が読み返し、預言者の校正を受け、預言者の指示によって啓示は所定の個所におさまったのである。そのようにしてイスラーム最高の聖典『クルアーン(コーラン)』は出来上がったのである。

 「クルアーン(コーラン)」とは、読まれるものという意味である。聖典『クルアーン(コーラン)』はその言葉どおり、声に出して読誦あるいは朗誦されるものとされているのである。だからムハンマド(マホメット)は、その『クルアーン(コーラン)』の章句を声に出して読誦せよと弟子たちや信者たちに命じたのである。それを声に出して朗誦して皆に伝え皆で確認し合えということである。一四〇〇年ほどたった今でも、毎日の礼拝を行うことによって、それが行われるのである。それによって、貧しきものにも弱者にも幼い子供たちにも、声の届く範囲の万人に、神からの言葉が確実に伝えられ、多くの場合さらに記憶されていくのである。ここにイスラームの強さがある。

 小杉泰氏は、《キリスト教の聖書が「バイブル(書)」であるように、キリスト教の聖典は「書物」を基本としている、ユダヤ教の聖典は「巻物」である、すなわちこの二つの宗教は文字をベースにしている、これに対して、イスラーム教は、暗記して、暗唱する、朗誦を通して広め、理解するという方式であり、文字に依存しないで人間の口から発する音声をベースとしている、ということである。文字に依存しないで音声をベースとしている分「原初的」ともいえる」というようなことを述べている。さらに、「イスラームは、人類の祖アーダム(アダム Adam)を強調したり、イプラーヒーム(アブラハム Abraham)の教えを再興すると主張したり、自ら原始的、原初的であることを好んでいる」と言うのである。まさにその通りである。前述したように、ムハンマド(マホメット)は何も新宗教を確立しようとしたのではない。昔ながらの誰もが知っているはずの宗教を再興しようとしただけである。

 しかしこの原始的な、声に出して教えを唱えたり、耳から教えを学び確認するということは、人間にとって最もよい学習方法ではなかろうか。本を読んで(文字を通して)学ぶよりも、意味を理解した人が口から発する音声を通して学ぶ方が、より正確に学ぶことができるのではないだろうか。耳学問というと、「自分で習得した知識ではなく、人から聞いて得た知識。聞きかじりの知識」ということで、軽視のおもむきがあると思うが、本当は、一人でやる読書より人の声を直に聴いて行われる耳学問の方が、下層民も参加でき、しかも簡単に誤魔化されない優れた学び方なのではないだろうか。この点でも、イスラームの強さがあると思う。

 このように、イスラームでは、最高レベルの教義が一般庶民・大衆にも簡単に浸透できる仕組みになっている。それによって大衆はいくら生活に追い回されていても、最高レベルの知識や情報を得ることができる。現代日本は最高レベルの知識は本のなかにあり、テレビラジオにはない。だから毎日の仕事に疲れきった一般大衆・庶民は最高レベルの知識や情報を得られない。それによってイスラーム社会では自ずと、大衆同士の連帯が生まれる社会基盤がつくられていくことになる。イスラーム世界では、たとえ政治的な分裂が起きても、大衆レベルではアノミー(無連帯)が起きることは決してない。そのように大衆レベルでの強固な連帯が維持されるのは、イスラームが朗誦を通した宗教だからであろう。ここにイスラームの秘密の一つがあるのだ。これは宗教ばかりではなく、学問にも日常生活にも、あらゆる面で共通する事柄だろう。おそらく間違いなく、人間には庶民や大衆を巻き込んだ、生の語り言葉の楽しみ、あるいは詠(うた)い合いの楽しみが重要なのであろう。

 朗誦(読誦)によって、真の意味で、イスラーム教は万人平等の宗教として機能できるのだと思う。イスラームでは、人間は神に命令され神の僕(奴隷)であるが、人間同士は神の前に平等なのである。だから、この教えが万人に伝達されれば、人間同士が連帯できるのである。

●イスラーム社会の弱点は、指導層の反イスラームにあった

 イスラーム社会の指導者たちは、イスラームの教えに従わなかった。彼らがイスラームの教えに従わなかったこと、ここがイスラーム社会の欠点、弱点であった。正統カリフ時代以降の、全イスラーム史において、そういうことだった。

1.防衛戦争を戦う(ジハード Jihad)

 「ジハード」は「聖戦」とよく言われ、そう思われている。しかし「ジハード」とは「奮闘努力」という意味である。ジハードには、「内面のジハード」、「社会的ジハード」および「剣のジハード」の三つがある。「内面のジハード」は、自分の心の中の悪と戦うことである。「社会的ジハード」は、社会的な善行を行い、公正の樹立のために努力することである。「剣のジハード」は、イスラーム共同体の防衛戦争を戦うことである。「剣のジハード」はマッカ(メッカ)時代にはなく、マディーナ(メディナ)時代から始まったのである。

 ムハンマド(マホメット)は、史上初のアラビア半島の統一を成し遂げ、「別離の大巡礼」を行い、死去した。おそらく六二歳であったのだろう。アラビア半島統一と、シリアとイラクの征服までは、イスラーム共同体にとっては、防衛戦争だった。ムハンマド(マホメット)は「剣のジハード」の半ばで死去したのである。

(引用はじめ)

 マッカ(メッカ)征服(引用者注、無血開城、九三〇年)の後、さらにマディーナ(メディナ)政府の支配領域は広がった。イスラーム(ヒジュラ)暦九年(六三〇/一年)は「遣使の年」と呼ばれる。アラビア半島の諸部族が次々と使節団をマディーナ(メディナ)に派遣し、イスラームに参加したからである。ここに、アラブ諸部族はムハンマドを認め、史上初のアラビア半島の統一も成った。

 イスラーム(ヒジュラ)暦一〇年(六二一/二年)は「別離の年」と呼ばれる。ムハンマドは大巡礼を行い、これが後に「別離の巡礼」と呼ばれるようになった。この巡礼には、一〇万人の信徒が参加したと言われる。この機会に、古来行われてきた巡礼の行を再確認するとともに、ムハンマドはそれを、多神教時代の名残ではなく、イブラーヒーム(アブラハム)以来の儀礼として再定義した。この時定められた巡礼の儀礼が、今日に至るまで実践されている。

 ムハンマドは、アラファの野にある「ラフマ(慈悲)山」の山頂から、有名な説教を行った。今日「別離の説教」として知られるその説教において、彼は「私は務めを果たしたのではないか」と問うた。参集した人々は、「私たちは確かに(そうであると)証言します」と答えたという。

 最後期の章句とされるクルアーン(コーラン)の言葉は、「今日、われ(アッラー)は汝らのために汝らの教えを完成し、汝らにわが恩寵を完遂し、汝らのために教えとしてのイスラームに満足した」(食卓章三節)というものである。ムハンマドが布教した教えが「イスラーム」と呼ばれることも最終的に確定した。ムハンマドの使命は終わりを迎えつつあった。

 もしマッカ(メッカ)時代の彼を「忍耐する預言者」とするのであれば、マディーナ(メディナ)時代の彼は「戦う預言者」であり、また社会統合に心をくだく「政治家」であった。必要とあれば、寛容と宥和の心を示し、必要とあれば剣を取るのが彼の暮らしであった。

 死の床にあった時、彼はイスラームの剣を納めようとしていたわけではない。彼は、ビザンツ軍に対する初戦の敗北を覆すために、新たなシリア遠征軍を組織しようとしていた。しかし、イスラームの共同体と国家を確立するという使命を終えた今、領土の拡大は彼の仕事ではなかった。西暦六三二年六月八日、マディーナ(メディナ)のモスクに隣接する自宅(妻の部屋)にて、ムハンマドは没した。

(引用おわり:小杉泰『興亡の世界史06・イスラーム帝国のジハード』)

 ムハンマド(マホメット)の死によって、危機は、三つの次元で生じた。第一は、マディーナ国家(イスラーム共同体)そのものの解体の危機である。第二は、アラビア半島の諸部族の離反であった。さらに第三の危機として、北方からはローマ帝国(ビザンツ帝国)およびササン朝ペルシアの脅威が迫っていた。

 ムハンマド(マホメット)を継いだのは、初代正統カリフ Caliph(ハリーファ khal?fa、預言者の後継者、代理人)のアブー・バクル(Abu Bakr 在位六三二〜六三四)であった。彼はクライシュ族の中のタイム家の出身で、最初期の入信者の一人である。ムハンマドとは、マッカにクライシュ族を定住させた族長クサイイの二代前のところで祖先を同じくしている。富裕な商人であった彼は、すべての財を投じてイスラームのために尽くし、ムハンマドの信頼も厚かった。アブー・バクルは結果としては難なく、第一と第二の危機を解決した。共同体の分裂を抑え、アラビア半島再統一を成し遂げことができた。

 次は第三の危機であった。アラビア半島のイスラーム共同体が長期的に生き延びるためには、アラビア半島北方では最大のオアシスである、湿潤な緑のあるシリアの地を、どうしても制する必要があった。七世紀初めにササン朝ペルシアがシリアを二〇年近く占領していたが、その時はローマ帝国(ビザンツ帝国)が奪還したばかりで、その支配下にあった。他方、シリアの東隣に位置するイラクは、ササン朝ペルシアの領土であった。そのペルシアの首都クテシフォンは今日のバグダードの近くに位置するので、イスラーム共同体がシリアを手に入れた後には重大な脅威と予測された。つまりこの時、ここまで来た以上、イスラーム共同体は、ローマ帝国(ビザンツ帝国)とササン朝ペルシアの両大帝国と全力をあげて戦うしか、選択肢はなかった。これはムハンマド時代からの予定されていたことであった。

 アブー・バクルは在位二年で死亡したため、この戦いは第二代カリフのウマル(Umar 在位六三四〜六四四)が引き継ぐことになった。

 六三四年、猛将ハーリドが東ローマ軍をパレスチナ南部のアジュナーダインで破り、形勢は大きくイスラーム軍側に傾き始めた。翌年には、シリアの州都ダマスカスを包囲し、半年後に降伏せしめた。このシリアの危機に、ローマ(ビザンツ)帝国は一二万人以上の大軍を皇帝の指揮下に結集した。対するイスラーム軍も四万人の軍勢で立ち向かい、六三六年八月、ヤルムークの戦いにおいて両軍が激突した。その結果、兵員数では劣っていたが、よく組織され目的意識も高いイスラーム軍が勝利を得た。イスラーム軍は地形に合わせた奇襲戦術などをよく用いて、ついにローマ(ビザンツ)軍を壊滅させたのであった。シリアの命運に関しては、これが天下分け目の決戦となったのである。これでシリアはイスラーム共同体のものになった。

 翌年の六三七年にはエルサレム包囲戦が始まったが、この聖都は長い戦いの末、和議によって開城することになった(六三八年)。ウマルは、六三八年、降伏したギリシア正教会の大主教と会い、キリスト教徒たちに「庇護民」としての保護を与えた。またそれまでエルサレムに入ることを許されなかったユダヤ教徒にも、同じように庇護民の地位を与えた。イスラーム、キリスト教、ユダヤ教という三つのセム的一神教がエルサレムに一緒に存在することになったのは、この時からであった。

 ササン朝ペルシアとの対戦は、イラク地方にイスラーム側の部族が侵入したことから始まったが、最初の大きな会戦は「橋の戦い」と呼ばれている。六三四年のこの戦いは、イスラーム軍が明らかに戦術ミスを犯した。司令官も落命する大きな敗北となつた。 しかし、その後は一つの戦いに勝利して、ペルシア帝国軍への恐怖の念を払拭すると、イスラーム軍は快進撃を続ける。六三七年、イスラーム軍はカーディスィーヤの地で、ササン朝の司令官ルスタムが率いる軍隊を撃破し、さらに首都クテシフォンを攻略した。イスラーム軍の司令官はサアド・イブン・アビー・ワッカースであった。帝都から彼らが得た戦利品は、アラビア半島の住民の誰もが見たこともないような大量の財宝であった。イラクを失った皇帝ヤズデギルド三世は、東方(イラン)に逃れ、軍を再結集して、反撃を試みた。しかし、六四二年にイラン西部のニハーワンドの戦いでイスラーム軍に敗北し、ここにササン朝はほぼ終焉した。皇帝はその後も各地を転々としたが、六五一年にメルヴで落命し、ササン朝ペルシアはここに滅亡した。

 こうしてイスラーム共同体は、ウマルの時代に第三の危機も克服するに至った。ここまではこれでよかった。預言者ムハンマド(マホメット)の構想した、ヒジュラ(聖遷、メディナに移住)以来の「剣のジハード(聖戦)」はここまでであった。

 しかしここから問題が出てくるのであった。

(つづく)