「152」 論文 歴史メモ・イスラームの秘密(4) 鳥生守(とりうまもる)筆 2011年8月14日

2.イスラームのカリフ(後継者)や指導者たちは、巨大な歳入を間違って処理した

 第一は、巨大な歳入処理の問題である。

(引用はじめ)

 マディーナには、ウマルの代からすでに、征服地から戦利品や収税によって巨大な歳入が入るようになっていた。(略)マディーナ政府の首脳たちは、自分たちの国家が巨大な富の集積マシンとなったことに、驚きを隠せなかったであろう。

 第一代カリフ、アブー・バクルの治世はアラビア半島の再統一に費やされたが、その末期からウマルの代になって莫大な収入が入るようになって、ウマルはその配分のルールを編み出さざるをえなくなった。彼が採用したのは、イスラームに対する長年の貢献を評価する方式で、(略)さらに、ムハンマドとの近親性も基準に加えられた。これによって、ムハンマドの妻たち、直弟子たちを筆頭とする給金のヒエラルキーができあがった。戦士たちも、それ以前は戦利品の分配にあずかるだけであったのに、アターと呼ばれる俸給を得るようになった。ウマルは、俸給を受け取る者の名簿を整備し、俸給の支給を記録する仕組みを作った。これがディーワーンと呼ばれる官庁制度の始まりであり、ウスマーンもこれを継承した。

(中略)

 ウマルが行った分配では、ムハンマドの妻たちは六〇〇〇ディルハム(銀貨)、バドルの戦い・ウフドの戦いの参戦者は五〇〇〇ディルハム、マッカ征服以前にマディーナに移住した者は三〇〇〇ディルハム、という具合であった。最低額は三〇〇ディルハムであったという。ここにおいてイスラームの意味が変質し始めた。(一六七〜一六九ページ)

(引用おわり)

 巨大な歳入(revenue)の処理問題が出てきたというのだが、先ず戦利品や税収は適正だったかどうかを問題にしなくてはならないだろう。ムハンマド(マホメット)は、それほど多くの戦利品を取り上げてはいない。預言者でありかつ使途であったムハンマド(マホメット)は戦利品に関しても当時の常識に従わず、負けた相手からできるだけ戦利品を奪わないようにしたのであった。おそらく税収(徴税)も同じだろう。彼ら後継者たちは戦利品や税収を取りすぎたのだろうか。その問題があるが、その詳細が分からないし、そういう面での問題が歴史上特に発生していないようなので、ここではこの問題は不問に付す。

 次に巨大歳入の処理であるが、ここでの俸給とは年俸だと思う。アブー・バクル(Abur Bakr)がアラビア半島再統一にそれを費やしたことは正しい。イスラーム共同体(ウンマ umma)の公務のために使ったのだから。しかしウマルが高額の俸給を特定の者たちに支給するようにしたのは、イスラームの平等の原則に反し、非常に大きな問題である。それまで草創期の苦しいなかで長年貢献した者たちやムハンマドの近親者たちや、初期の戦いの参戦者たち、そういう人たちの、これまでの功労に報いるのはよいだろう。だがそれは褒賞一時金の支給などで行べきであった。高額の俸給で行うべきではなかった。

 彼らはそれぞれ有力な指導者の一人として尊敬されるべきであり、要職に就くべき人々であった。だからウマルたちカリフのすべきことは彼らをイスラーム共同体の要職に指名(推挙、推薦)することだった。そのように彼らを優遇すべきであった。だが、彼らの社会的地位を優遇するのであるから、彼らの俸給は各自それぞれ生活に困らない程度としなければならなかった。もっと詳しく言うと、彼らの俸給は公務の種類や内容によって決めるのではなく、彼ら各自の生活事情によって決めるのである。俸給なしでも生活できる人は俸給なしでいいのである。その代わりに彼らの生活のほとんどは公務で占められているのであり、要職についている限りその公務に必要な公金を扱える道が大きく開けているのである。

 さてそれでは、イスラーム最高聖典『クルアーン(コーラン)』はどう言っているのであろうか。

(引用はじめ)

A・みながお前(引用者注、ムハンマドのこと)に戦利品のことで質問したら、こう答えるがよい、「すべて戦利品はアッラーと使途のもの。されば汝ら、(略)万事アッラーと使途のご命令に従わなければならぬ。(後略)」(戦利品章一節)

B・汝らによく心得ておいてもらいたいのはどんな戦利品を獲ても、その五分の一だけは、アッラーのもの、そして使途(マホメット)のもの、それから近親者、孤児、貧民、旅人のものであるということ(戦利品章四二節)

C・信者とは、(略)主(しゅ)を信頼し切れるような人々のこと。礼拝の務めを果たし、我ら(アッラー)の授けたものを惜しみなく施す人々のこと。(戦利品章二〜三節)

D・別にこれといって支障もないのに、(戦争のとき)家に居残っている者は同じ信者といっても、自分の財産も生命もなげうってアッラーの道に奮戦するものと同列ではありえない。財産も生命もなげうって奮戦する者をアッラーは、家に居残る連中より何段も上に嘉(よみ)し給う。勿論どちらの者にもアッラーは最上の御褒美を約束なさりはした。だが居残り組よりも奮戦組の方にずっと沢山報酬を下さる。すなわち、彼らを数段上にお据えになり、お許しもお恵みも(はるかに多く与え給う)。アッラーは、何でも赦して下さる、まことにお情け深いお方。(女章九七〜九八節)

(引用おわり:井筒俊彦『コーラン・上』岩波文庫、一九六四年改定)

 上記引用のAでは、戦利品はすべてアッラーと使徒(ムハンマド)のものと言っている。ということは戦利品はすべてイスラーム共同体(ウンマ)のものである。Bは、一般兵士たちの戦場での働きによって彼個人のものと認定された戦利品についての話であろう。その場合はその五分の四は彼のものであり、そして残りの五分の一は、アッラーと使徒(ムハンマド)とその近親者、孤児、旅人のものだ、つまりは、イスラーム共同体(ウンマ)のものだ、と言っているのだろう。だから、Aは軍全体で獲た戦利品のことである。Cでは、本当のイスラーム信者はきちんと礼拝の義務を果たし、多くの所得を得た場合は、そこから惜しみなくイスラーム共同体(ウンマ)に喜捨(ザカート Zakat)する人である、と言っているのだ。Dでは、信者であれば最上の褒美が神から約束されているのだが、それでも、戦争のときに家に居残っている信者よりも、自分の財産も生命もなげうって奮戦努力(剣のジハード)する奮戦組の方を、神はずっとよろこばれ、その奮戦組の方を何段も上位に置くのだ、と言っているのだ。

 したがってイスラームでは、ウンマでは、自分の財産と生命をなげうってアッラーの示す道のために奮戦するものほど上位(指導者)なのである。預言者であり使徒でったムハンマド(マホメット)もそうだった。彼は財産を残さなかった。だからウマルは見るに見かねて、預言者の近親者たちに高額の報酬を支給すようとしたのかもしれない。彼のものになった戦利品やその他のものは、彼のものではなかった。彼はそれらを預かっていただけである。使徒ムハンマド(マホメット)の所有物は、アッラーのものであり、ウンマのものだったのである。彼には、自分の部屋もなかったのではなかろうか。彼はモスク(礼拝所)に隣接する自宅(妻の部屋)で死んだのである。

 イスラームでは、ウンマでは、上位者たちや指導者たちに対して高額の俸給(報酬)を支給するのは意味を成さないのである。なぜならば、彼らは、高額の報酬をもらったとしても、それを惜しみなくウンマに喜捨(ザカート)することになり、与えた高額の報酬はそのほとんどすべてがウンマに戻ることになるからである。つまり指導者であればあるほど、大きな権力が与えられるが、彼の所得と財産は実質的、最終的にほとんどゼロないしは大衆並みになるのだ。逆に言えば、イスラームでは、所得が増えるとウンマの要職にはつけないのが本当である。これが神アッラーの道、イスラームの教えなのである。

 事実、ムハンマドの妻ハディージャも全財産をイスラームに喜捨して夫と行動をともにしたのである。初代カリフのアブー・バクルも富裕な商人だったが、創業期からムハンマド(マホメット)と行動をともにし、財産のほとんどすべてをイスラームに捧げたのだ。第二代カリフのウマルは清貧の生活だったようだ。このように、使徒ムハンマドから第二代カリフまで、イスラームの最高指導者たちは、実質的に所得ゼロであった。

 それなのに、ウマルは上位者たち、指導者層に、高額の俸給を与え、その上位者、指導層も、それをおかしいと思わず、受け取ったようだ。これによって、イスラーム共同体では、要職者に高額俸給を支給することが蔓延し、以後、当たり前のことになったようだ。これはイスラームの教えに反することであり大きな間違いだったと私は思うが、不思議なことに、これを取り上げて問題にした形跡がない。だが、実はこれは、イスラームの激変だったのである。以後今日まで、これがイスラームの弱点となったのである。

 ウマルのこの間違いは、ウマルの正しい人柄によって、非難を免れたようだ。

(引用はじめ)

 「内面のジハード」にしても「剣のジハード」にしても、神の道に奮闘努力することであり、その目的はただ神の満悦と来世の楽園とされていた。ところが、結果論とはいえ、いまやその努力が金銀財宝の形で報われるようになったのである。

(中略)

 ここにおいてイスラームの意味が変質し始めた。

 もう一つの問題として、このような分配の結果、国家が肥大し始めたことがあげられる。(略)国家機構が共同体の構成員に富を分配するようになれば、分配権を握っている者、すなわち統治者が強い力を持つようになる。

 このような状況に直面した第二代カリフ、ウマルは、三つの対策をとった。第一に、自らは質素で清貧な生活に徹して、自分の家族にも新しい富を享受させなかった。第二に、公正・峻厳な統治を行った。第三に、統治の責任者について、部下の武将や総督たちのささいな過ちも許さず、また、各地の総督は頻繁に任免して、権力と富が集中しないようにした。ウマルの厳しさは、シリア征服の最大の功労者であり、「アッラーの剣」と呼ばれたハーリド・イブン・ワリードを最後に罷免して、惨めな最期を迎えさせたことにもよく現れている。

 ウマルの治世は、後世の史家からも公正なものとして評価され、現代においてさえ、イスラーム国家が論じられる際に、しばしば規範的なモデルとして参照されている。行政・司法において峻厳であったことは疑いなく、また、行政制度を整備し始めたという点からも、イスラーム国家の樹立に大きな役割を果たしたことは間違いない。しかし、その公正さは、多分にウマルの個人的な篤信に依存するものであった。さらに問題なのは、「サービカ」の仕組みが宗教的な論功行賞に立脚している以上、富の分配は平等にはなされえないことにあった。(一六八〜一七〇ページ)

(引用おわり)

 ここでは、イスラームの変質が明確に認識されているが、それで良かったのか悪かったのか、それがはっきりしない。ただ、変質に疑問をもちつつ、質素で清貧な生活に徹したウマルの人格によって、人々はその変質を許し、そして今でもウマルは評価されているのだそうだ。

 しかしこの評価は間違っていると思う。どこが「ウマルの治世は公正」だったのか? どうしてそんな評価が長期にわたって行われているのか、不思議でしょうがない。ウマルが「自らは質素で清貧な生活に徹して、自分の家族にも新しい富を享受させなかった」のは正しい。その点は、私も評価する。しかし、ウンマの指導者層に高額の俸給を支給するのは重大な間違いだったのである。イスラームは、政治的であれ、軍事的であれ、いかなる分野であれ、要職に就いて指導者になった人々には、少なくともその地位にある期間は、公金から高額の俸給を支給すべきではないのである。

 それなのに、ウマルは指導者層に公金から高額の俸給を支給した。これには、ローマ帝国〔ビザンツ帝国〕あるいはササン朝ペルシ帝国の行政制度の影響があったのではなかろうか。これによって少なくとも、大征服を成し遂げた、すなわちローマ(ビザンツ)帝国およびササン朝ペルシア帝国と戦った、誇り高き兵士たち全員は自らの俸給に思いをいたすことになり、その結果大多数の兵士たちが、不満感を覚えるようになっただろう。そしてこれによって、第三代カリフ、ウスマーン(在位六四四〜六五六)時代の混乱、第四代カリフ、アリー(六五六〜六六一)時代の内乱がもたらされたのである。

 さらに、ウマイヤ朝時代の防衛戦争(剣のジハード)ではない、イスラーム共同体にとって必ずしも必要のなかった大征服戦争がもたらされたのである。そのときは戦争ではなくイスラーム文明の文化力で浸透していけばよかったのである。そしてこれによって、イスラームにとって厄介なシーア派(Shiite)の形成が誘導された。ウンマの指導者層に対する高額俸給の支給はこのような混乱を生んだ。ウマルのすべきことは、指導者層に高額の俸給を与えるのではなく、使途ムハンマド(マホメット)なき今、指導者層の公正な序列を明確にし、広く公表することだったのではなかろうか。巨額の歳入は、イスラーム共同体(ウンマ)のものとして預かっておき、ウンマの維持発展のために使い道ができれば、その都度そこから出費するようにすべきだったと思う。

 現在日本は、行政(行法)の高官たち(高級官僚)が高給を食んでいる。一方、身分がないということと誰でもできそうな仕事だという理由で、身体を使って働いている人々がまともな給料がもらえない。これではその社会は絶対に堕落するのである。日本中枢崩壊が必須なのである。実質的には、もうすでに崩壊しているのだ。高官たちの世界は、自分を引き立ててくれた先輩と、自分が引き立てた後輩との、それだけの狭い世界であり、その狭い世界の中で、社会的目標のない知的連想ゲームをして、人生楽しいと思っているのではないだろうか。その背後で宗主国アメリカの眼が光っているのだ。

 だが本当は、高給を食んでいる身分(ネットワーク)にいることによって、ただそのこと自体で、彼らはすでに楽しいのであり、後は何をしようと同じであり、変わりはないのだ。実際には何かしらの無目標・無目的な行為を行うしかない。自分たち「有能者」以外の有象無象(うぞうむぞう)の人間たちにはもはや興味がないのだから。だから、彼らは可哀想な連中である。社会の表に顔を見せることなく、大衆からは尊敬されず、その存在さえ知られることはないのだ。いずれ、このアノミー(無連帯)に自分たちが逆襲される運命であることを彼らは知らない。

 閑話休題、イスラームの弱点は、カリフをはじめとする指導者層にある。巨大歳入の処理問題だけではなかった。

 第三代カリフ、ウスマーンは血統主義、部族主義への回帰とも見えるウマイヤ家の重用を推進した。第四代カリフ、アリーは、古参の信徒ほど尊重しその俸給を高くして、新参者たちの恨みを買った。ウマイヤ朝は、非アラブ人ムスリム(イスラーム教徒)を差別したので、征服地での改宗はそれほど進まなかった。アッバース朝は、「奴隷軍人」を主体とする軍隊を作った。この「奴隷軍人」はオスマン帝国まで続いた。後ウマイヤ朝は、贅を尽くした豪奢なザフラー宮殿(花の宮殿)を建設した。このような問題があった。

 彼らイスラームの指導者たちはイスラームの教えを知らなかったように思える。イスラームの教えを諭す学者たちはいつの時代にもいたと思うのだが、不思議である。しかしいずれにせよ、イスラーム史を知らずして世界史を語るな、である。それは、イスラーム世界の指導者たちは、こうした弱点を持ちながらも、それでも世界的に見れば一定の良識をもっていたというべきであろうか。それとも、大衆レベルへ浸透したイスラームの強さなのか。

(つづく)