「0159」 論文 歴史メモ・ヨーロッパの秘密(3) 鳥生守(とりうまもる)筆 2011年10月2日

●ジョン・カボット

 ジョン・カボット(John Cabot 一四五〇頃〜九九)はイングランドの航海者・探検家だが、ジョヴァンニ・カボート(Giovanni Caboto)というジェノヴァ人だったようだ。コロンブスの新大陸到着(一四九二年)直後に、それを受けて北アメリカを探検した人物である。

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ジョン・カボット

(引用はじめ)

 一四九七年、ジェノヴァ生まれの船乗り、ジョン・カボット(ジョヴァンニ・カボート)は、イングランド国王ヘンリ七世からインドへと続く北西航路探検の特許状を得て、一八名の乗組員とともにマシュー号に乗り、ここブリストルを出帆した。愛妻マテアにちなんで名づけられた三本マストのこの船は、「ワイン五〇トン分を積載できた」というから、比較的小さな帆船なのだろう。この航海でカボット父子らは、カナダ東岸のノヴァスコシア、ケープ・ブレトン島あたりに到着し、イングランド国王の名においてその領有を宣言した。その後さらに北へと帆走したカボットは、ラブラドルやニューファンドランドなどを探検し、その沖合に豊かなタラの漁場(グランドバンクス)を発見して、同年八月に帰国した。ここにイングランドの航海時代が幕を開け、やがてこの島国に「帝国の時代」を到来させることになる。(一三二ページ)

(引用おわり:井野瀬久美恵『大英帝国という経験』)

 カボットは当時の慣習に従って、北アメリカの到着先で領有を宣言したのである。百科事典には次のようにある。

(転載貼り付けはじめ)
エンカルタ百科事典「カボット John Cabot 1450?〜99」

 イングランドの航海者・探検家。ジェノバに生まれ、わかくしてベネツィアにうつり、そこで航海術をまなんだ。1476年、ベネツィアに帰化したが、8年後にはイングランドのブリストルに移住。西にむかって航海すればアジアに到達できると考え、ブリストルの富裕な商人の支援をえて航海の準備をすすめた。93年、コロンブスがアジアへの西回り航路を発見したという知らせがイングランドにとどくと、カボットと支援者たちは、東洋へのより短いルートの開拓をくわだて、ヘンリー7世の勅許をえた。

 1497年5月2日、カボットは18人の乗組員とともにマシュー号でブリストルを出航し、可能なかぎり北西に針路をとった。6月24日に現在のカナダ東南部のケープブルトン島あたりに上陸し、その後、ラブラドル、ニューファンドランド島、ニューイングランド沿岸を航行した。カボットは、アジアの北東部に達したと信じて、この地をヘンリー7世の領土と宣言した。8月にイングランドに帰還すると、国王は彼に年金をあたえ、ひきつづき支援を約束した。

 翌1498年5月、カボットは今度は日本をめざして4、5隻の船をひきいて出航したが、以後の消息は正確にはわかっていない。6月にグリーンランド東岸に達し、沿岸を北上したが、きびしい寒さに乗組員が反乱をおこしたため南下を余儀なくされ、その後、北アメリカ大陸沿いに北緯38度のチェサピーク湾あたりまで航行したと考えられている。

(転載貼り付けおわり)

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コロンブス

 クリストファー・コロン(コロンブス 一四五一〜一五〇六)もジェノヴァ生まれとなっている。同じような年代に生まれており、同じように西回りでアジアに到達できると考えている。カボットが一四八四年にイングランドのブリストルに移住しているが、同じ頃コロンブスはポルトガルのリスボンにポルトガル王に会いに行っている。ポルトガル王の下にはジェノヴァ人の船乗りが多数集まっていた。それでポルトガルの航海技術は当時のヨーロッパでトップクラスだった。以上のようにカボットとコロンブスの二人はよく似た行動をしている。カボットやコロンブスらに西回りで行けとささやいた人物がいたのだろう。

 つまり国際金融資本家やローマ教皇(法王)などのお仲間学者が、たとえばフィレンツェ(フィレンツェ共和国)で生まれの老学者トスカネッリ(Paolo dal Pozzo Toscanelli トスカネリ、一三九七〜一四八二)が、誰かが西回り航路でアジアへ行けばいいと思って西回り航路の可能性を発表し、カボットやコロンブスはその話に乗ったということだと思う。金融資本家やローマ教皇(法王)たちは常に、自らは行動せず誰かにやらせるのである。誰かがやってみて成功すれば、その果実はその後でゆっくり頂こうという寸法だ。イギリス王の「君臨すれど統治せず(The King reigns, but does not govern)」という統治方針も、その金融資本家やローマ法王の方針を見習った態度ではなかろうか。

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トスカネッリ

 このジョン・カボットの二度目の航海は失敗に終わり、彼は命を落としたが、彼の北アメリカへの航海は現代になってもイギリス(大英帝国)王室の誇りだったようだ。一九九七年の「ジョン・カボット航海五〇〇年記念祭典」にはエリザベス二世夫婦みずからが招かれて「マシュー号航海の重要性」を強調したという。

(引用はじめ)

 マシュー号のレプリカが再びブリストルの港に姿を見せたのは、翌一九九七年五月、カボットのニューファンドランド航海五〇〇周年を祝う祭典においてであった。マシュー号の復元は、この記念すべき行事のためのものだった。カボットが航海日誌を残さなかったこともあって、彼がブリストルを出航した正確な日付はいまだ確定されていない。それでも、当時の天候などから五月上旬との説が有力であり、この説にしたがって五月二日、エリザベス二世夫妻を招いておこなわれた式典は実に盛大であった。

(中略)

 エリザベス二世の夫君でマシュー号復元プロジェクトの後援者でもあったフィリップ殿下は、「ヨーロッパの船乗りにとって、大西洋は常に挑戦であり、壁であり続けてきた」という言葉ではじまる祝辞のなかで、こう綴っている。「マシュー号航海の重要性は、ジョン・カボットを北米大陸にたどりつかせ、その大陸に英語を話す人びとを移民させる結果をもたらしたことにある」――この言葉には、五〇〇年前、一四九七年五月のカボットの航海こそ、イギリスの海上発展の扉を開き、帝国への道を拓いたという理解を認めることができよう。それゆえに、マシュー号の航海は大英帝国の原点でもあった。式典では、帝国建設の最初の一頁を開いたカボットら船乗りの勇敢さが讃えられ、出航地ブリストルの重要性が強調された。(一四六〜一四七ページ)

(引用おわり:井野瀬久美恵『大英帝国という経験』)

 この式典も後に人々から批判されることになった。やはりこの式典は、歴史認識としてはどこかおかしいのである。前述のコルストン問題が起こったのは、この式典からわずか半年余り後のことだった。

●資本主義精神の登場

 先に見たようにコルストンが死んでからも、一八世紀のイギリスはまだまだ冒険商人(奴隷商人)の活躍した時代であったが、小室直樹氏によれば、そうした時代に、禁欲的で労働を何より尊ぶ資本主義精神が生まれ育ち登場したというのだ。

(引用はじめ)

 ヴェーバーが(資本主義の精神を体現した人間として)念頭に置いているのは英国のジェントリー(gentry、地主階級)やヨーマン(yeoman、独立自営農民)という階層の人々です。当時のヨーロッパには社会の下層に農奴がいました。その少し高いところに普通の平民(commons)がいた。その平民の上位一割弱を占めていたのがジェントリーやヨーマンだった。ここが物凄く大事なところです。

 この上に貴族(nobleman)がいる。貴族と言うのは公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵だ。この中間にナイト(knight)、それからバロネット(baronet)がいる。

 ヨーマンとジェントリーは平民のトップであるが、チューダー王朝(一四八五〜一六〇三)あたりから王様は貴族を抑えるためにジェントリーとヨーマンを重んじた。あの革命家のオリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell イギリスの軍人、政治家。一五九九〜一六五九)の叔父さんである同姓同名の人物を総理大臣にして大いに改革を進めたのもそのためです。

 このジェントリーやヨーマンは平民のトップであって人口は平民の一〇分の一にも満たないのだが、こういう人々が近代デモクラシーと近代資本主義の担い手になるわけです。(二五五〜二五六ページ)

 (『ロビンソン・クルーソー』の)著者デフオーは作家で政治家でもあるが、生涯を通して有能な政治経済(ポリティカル・エコノミー、political economy)担当の新聞記者でした。

 彼の生きた一七世紀半ば頃から一八世紀前半にかけてのイギリスでは、農村地帯に小さな土地を持ってさまざまな工業生産とりわけ毛織物製造を営んでいた中小の生産者たち(大塚久雄博士はこの人たちを「中産的生産者」〔小さな土地所有者で、同時にマニュファクチャー〈manufacture、製造業〉も経営している〕と呼んでいる)が次第に力を付けつつあったのです。

 デフォーはこの人たちを熟知していました。彼らは敬虔なプロテスタントであり、禁欲的で労働を何よりも尊ぶ人々だった。また、伝統主義の非合理性から脱却して合理的な行動様式をとり、目的合理性を持った生活を送ろうと努力していたのです。

 ロビンソン・クルーソーはそうしたイギリスの背骨となりつつあった中産的生産者層に属する人々の行動様式の理念像であり、デフォーは将来イギリス人のあるべき理想の人間像をこの物語のなかで描き出したのだと言えます。

 イギリスでは一五世紀の終わり頃から一六世紀半ば頃にかけて第一次エンクロウジャー運動が進行する。これは領主や富農が農民たちから耕地や共同地を取り上げ、羊を飼う牧場をつくろうとしたものです。また一七世紀終わりから一八世紀前半にかけて第二次エンクロウジャー運動が起こった。これは農耕のためで近代的な農業経営を行うために必要な農場をつくろうとするものであったわけです。

 こうした大規模で破壊的なエンクロウジャーとは別に、目立たないが実は極めて重要な小さなエンクロウジャーが大規模に進んでいました。それは一六世紀末から始まり、デフォーの時代には中部イギリス全域に蔓延していたと思われます。

 小エンクロウジャーは大きくても五〜六エイカー、小さいと一〜二エイカーくらいであった。イギリスの地味はひどく痩せていた。五エイカーが日本の江戸時代から戦前にかけての水呑み百姓にあたるので、農業だけでは殆ど食べていけない人々だった。

 この小エンクロウジャーが三つか四つくらいで一単位となり、その真ん中に住居と仕事場がある。その周囲のエンクロウジャーでは鶏や雌牛、運搬用の駄馬などを飼い、少量の穀物を栽培している。そして仕事場では毛織物などいろいろな家内工業を行っていました。彼らの多くは敬虔なプロテスタントで極めて合理的な行動様式をとっていたのです。

 ロビンソン・クルーソーが彼らを手本としたものであることはこれからもおわかりいただけると思う。そして、彼らのなかから、資本主義の精神が生まれ、また彼らのなかから一七六〇年代以降の産業革命の担い手が出てくるのです。(二五一〜二五三ページ)

(引用おわり:小室直樹『論理の方法』)

 小室氏は次のように言う。『聖書』の本来の姿に立ち返ることを主張したプロテスタントは、特にカルヴァン(Jean Calvin)は、当然のことながらはじめは厳重に利息を取ることを禁じた。カトリックのように、形式的に禁じたのではない。厳重に禁じた。ところがカルヴァンはよく考えてみると、金儲けを第一の動機としないで本当に隣人が欲しているもの、食糧でも衣類でもこのようなものを生産して、隣人に正当な価格で売ることは、隣人愛の精神に合致していることではないかと考えるようになった。そこで、カルヴァンは今までは絶対に禁止していた利子と利潤を正しい取引が行われる限りにおいて、五%以内という範囲内で許すようにした、と小室直樹氏は言うのである。

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ジャン・カルヴァン

 利益のためではなく、隣人のために、禁欲的に働く。その結果として後から利益が出てくるのはいいことだ。正しい仕事をして、正常な価格で売ったところ、たくさんのものが売れたとしたら、より多くの隣人たちに愛を施したことになる。つまり、利益が大きくなることは正しいことをよりたくさんしたことの証明になる。ここで物凄く大事なことは正しい経済行為という概念が発生したことだ。正しい経済的行為によって得られる利潤は正しい。それによって得られる利子も正しいということになったわけだ、と小室氏は言うのだ。

 副島隆彦氏は、次のように言う。この「勤勉の精神」が近代資本主義(ディア・モデルネ・カピタリスムス)をつくったというのは、嘘だ。コッコツまじめに一所懸命、モノづくりをして働きさえすれば、神の意思に召(コーリング calling)されて、豊かになれる、というのなら、そんなことはほとんどの人がやっている。本当はやはり、資本主義の精神はユダヤ教(ユダヤ思想 judaism〔ジュダイズム〕)だと私は思う。ユダヤ人の金銭崇拝(マモニズム)、強欲(グリード greed)の思想が、近代資本主義(モダン・キャピタリズム)をつくったのだ。なぜなら、ピューリタニズムというか、そこまで行かなくても、プロテスタンティズムというのは、女たちはいつも黒ずくめで手足も隠して、チャドルと言うか、ブルカと言うか、イランのイスラム教の女たちみたいに全身を服で覆っている。金儲け(金銭欲望)も表だっては認めない。性欲もほとんど認めないほどの厳しい黒づくめの思想だ、と副島隆彦氏は言う。(副島隆彦編著『日本のタブー』KKベストセラーズ、二〇一〇年、)

 ここは、副島氏に軍配である。それは、副島氏がここで言った理由のほか色々とあるだろう。その一つは、小室氏自らが言っていることだが、近代資本主義の担い手であるヨーマンやジェントリーが、産業革命を経ると消滅したことだ。なぜ産業革命を経るとその担い手たちが消滅するのだろうか。小室氏は、 《 これらの人々は産業革命の後どうなったかというと、上の方は資本家になり下の方は労働者に没落しました。そして中産的生産者層は消えてなくなるのです。イギリスの歴史では「ヨーマンの没落」と言われるが、資本家と労働者に分かれていった。ではジェントリーはどうかというと、貴族や資本家になる人とそうなれなかった人々のなかから英米における役人ができてくる。 》 と言っている。担い手がなぜかくも短期間に没落するのであろうか。これはおかしいことだ。

 そして「利益が大きいとは正しいことをたくさんしたことの証明」という、ここまではこれでもいい。しかしそこで、(たまたま)膨大な利益が出たときにどうするか、さらに膨大な利益が蓄積されて資産が法外に増えた場合にどうするかが近代資本主義の最大の問題なのである。取引が盛んになるとそういうことが起こるからである。本当はその膨大な利益は神(公共)のものなのだから神(公共)に返すべきだったのである。しかしジョン・ロック以来、その膨大な利益はその個人の財産となり、所有権として神聖にして犯すべからざるものとなっていくのである。これがアメリカ合衆国憲法にも組み込まれ強調されていくのである。

 本当は、身の余る膨大な利益(所得)は神(公共)に返さなければならなかったのである。それで万事がうまくいくのである。ところが、それを神(公共)に返すことがなく、大金持ちたち個人所有になった。そういうことになったから、近現代の戦争など、あらゆる問題が起こったのである。これで貧富の差ができ、公明正大さが失われ、人々の連帯はさらに失われ、孤立し孤独に陥ったのである。

 それはともかくイングランドには、「奴隷貿易」時代にも、地道に暮らそうとしていた人々がいたことは事実であろう。それがイギリスの強みだったかもしれない。

 なお余談だが、副島隆彦氏は『日本のタブー』で次のように重要なことを言っている。 《 一三世紀になると、フィレンツェはヨーロッパで最も栄えた都市となった。ヴェネチア、ジェノヴァも栄えている。各都市が王様たちにお金を貸していて、回収金に取りっぱぐれがあって、破産する危険もフィレンツェは負担した。ということは、フィレンツェがやっぱり、当時、ヨーロッパ一、栄えていたということだ。一三世紀から一七世紀までの、この四〇〇年の間に、フィレンツェがたどった歴史が、この時の人類の最高の体験である。共和政とそれへの反動(独裁制、君主制)を何回も繰り返している。だから、フィレンツェを理解しないとヨーロッパが分からない。メディナ家が育てた自由思想には、大金持ち(大商人)たちの自由主義が入っている。そしてあの穢(きたな)らしいほうの自由思想(金儲け第一主義、強欲)もちゃんと入っている。だから、フィレンツェは、日本で言えば京都なのだ。ものすごく悪賢いし、多様なのだ。故にメディナ家が切り開いたルネサンス、ヒューマニティーズ(Humanities 人文)は、決して、神秘主義、悪魔主義などと罵られるべきでなく、本当はちょうど逆である。罵った者たちのほうこそ、ワルであり悪である。 》 と、このようなことを述べている。どうもこれが真実のようだ。この真実把握で初めてルネッサンス理解の入り口に立てるということだ。だがやはりこのルネサンス精神は変容、敗北、消滅したのである。だからそれが後世に伝わらなかった、後世において分からなくなったのであろう。

 さらにまた副島氏は、同じく『日本のタブー』において、自由には三種類の自由、フリーダム、リバティ、レッセ・フェールがあると書いている。歴史学者たちが書かない、書けないようだが、これも非常に重要なことだ。

●スペインとイングランド

 スペインとイングランドはヨーロッパの中心から遠く辺境の地であったので、共通点が多かったようだ。

(引用はじめ)

 スペインの支配階層は、イングランドと同じように、広大な土地をもつ貴族たちである。どちらの国の貴族層にも、爵位を有するトップ層と、そうでない中小貴族層がいる。十六世紀初頭の爵位貴族は、スペインが八二家族(カスティーリャ六二、アラゴン二〇)、イングランドがおよそ五〇家族。人口比ではどちらも二〜三パーセントとなり、この比率は十六世紀を通じて変わらない。少なくとも二つの国は社会構成上、トップ・ヘヴィになっていないことがわかる。

 ただし爵位貴族の土地占有率は、スペインのほうがはるかに高い。とくにカスティーリャでは、名門の爵位貴族が所有する土地が、カスティーリャ全体の九七パーセントを占め、その年収総額もゆうに王室歳入に匹敵した。イングランドでも貴族はみな大金持ちだが、スペインの公爵や侯爵は、とてつもない大金持ちだったといってよい。これが可能だったのは、スペインでもイングランドでも、土地財産の長子相続が法的に保証され、所有地が分割されることなく、子々孫々に受け継がれる仕組みになっていたからである。

 中小貴族層は、スペインでは郷士(イダルゴ)または騎士(カバリェーロ)、イングランドではジェントリーとよばれる。爵位はないが家紋を有し、イダルゴは 「ドン」、ジェントリーは「サー」または「ミスター」の敬称をつけてよばれる。その数は増える傾向にあるが、それはどちらの国でも、下位貴族に上昇する窓口が開かれていたことによる。

 スペインでは、十六世紀になると、王室収入を補うために、イダルゴ身分が大々的に売りに出された。金さえ払えば「ドン」とよばれ、そのうえ免税特権がつき、裁判でもいくつかの免責が許され、世間では殿様扱い。となれば商売で成功した商人も、役人になって出世したその息子も、こぞってドンに群がり、家紋の捏造も朝飯前。万事が金次第のイダルゴ濫造のご時世とあいなった。(八一〜八二ページ)

 爵位貴族とジェントリーをあわせた「ジェントルマン」の土地占有率は、十五世紀には四〇〜四五パーセントにとどまっていたが、十六〜十七世紀の二世紀間で六〇〜七〇パーセントに上昇した。土地集積は、スペインほど極端には進まなかったといえるだろう。(八五ページ)

(引用おわり:長谷川ほか『世界の歴史17・ヨーロッパ近世の開花』中央公論社、一九九七年)

 少なくとも十六世紀初頭の時点では、スペインとイングランドの社会は、似たものどうしといえそうな共通点を、いくつももっていた。が、イングランドは中小独立農民(ヨーマン)がいたのである。それでイギリスは、スペインほど極端に土地集積は進まなかった。(スペインは九七パーセント、イギリスは六五パーセントである。)これがイギリスの救いであったのだ。

 スペインとイングランドのどちらの王室も、羊毛生産保護を国策にした。この結果、カスティーリャ(スペイン)では穀物生産を犠牲にした牧羊保護策がとられ、農地が次々と「メスタ(スペインの羊毛の生産・出荷を支配した羊毛独占組合)」所有の牧草地に転換されていった。十六世紀のカスティーリャ(スペイン)はこのように、基本的な食糧自給の手段を放棄して、輸出依存の牧羊業にモノカルチャー化したのである。これによって十六世紀のカスティーリャは、慢性的な食糧不足にさいなまれ、十七世紀になると、農民の離村と人口の減少で、国力が目に見えて疲弊したのである。イスラーム時代のその地は、他のどの国にも勝る広大な平野、豊富な小麦、大麦、麻の収穫、それに豊富な絹、葡萄、オリーブ、その他ありとあらゆる果実に恵まれ、数多の泉、水路、頑丈な城塞等がそろっており、国民性は心優しく、市民生活は洗練されていたのである。しかしそれでも表面的には十六世紀のカスティーリャは、羊毛輸出は好況つづき、アメリカとの貿易のおかげで経済は活況を呈していた。カスティーリャ中部のメディーナ・デル・カンポの定期市は、穀物、織物、ワイン、金属製品などの商品であふれんばかりとなり、アメリカとの貿易を独占するセビーリャは、未曾有のにわか景気に沸き立っていたのである。十六世紀のカスティーリャ(スペイン)は、うわべは繁栄していたのである。これからもずっと羊毛を生産するのだから、その繁栄は続くと思っていたのであろう。しかし結局それは続かず、カスティーリャ(スペイン)はイスラーム時代の豊かさを喪失したのであった。

 他方、十六世紀のイングランドの農村は、羊の群れが草をはむ丘を越えると、小麦の耕作、ホップと染料生産のための植物栽培、州境の向こう側では酪農を営むという光景である。国土が小さく、平坦な地勢のこの国でも、当時の農地の活用方法は多彩で、穀作中心、穀作と牧畜の混淆(こんこう)、牧畜中心、の三つのゾーンに分類できた、ということである。だからスペインのようには農村が荒廃しなかったのだ。

 なんでも多彩・多様な生産がよいのであって、一部の生産で長期間繁栄が確保されると思うのは(学問を装った話としては面白いだろうが)完全な間違いなのである。現在の日本が農業を見向きもせず工業生産だけで繁栄できるとする国策も、一時は成功したかのように見えたが、(カスティーリャと同じく)間違いであることが明らかになりつつある。二〇一一年現在もその工業生産の切り崩しが進行しているのである。

 だが、イギリスは長子相続やエンクロウジャー(Enclosure 囲い込み)によって、農村から追い出される若者が多かった。これが都市へ流入し、あるいは海外へ移民していったのだ。イギリスは王や銀行家や官吏たちは大陸から来ることがよく見られる。イギリスは、上層民は大陸から来て、下層民は海外へ移民していく構図があるように感じられる。この頃になると、北ヨーロッパの銀行家(金融資本家)たちにとってイギリス(そしてアメリカ)は比較的安全な場所であったのだと思われる。

(つづく)