「0160」 論文 歴史メモ・ヨーロッパの秘密(4) 鳥生守(とりうまもる)筆 2011年10月9日

●産業革命期のイギリス農村

 イギリスも産業革命期までは、農村人口が多い農本的な社会であったようである。その粗暴な前近代的な風習がなくなるのは、都市人口が農村人口を上回るようになってからという。

(引用はじめ)

 十九世紀の初頭、この国では、すでに産業革命が始まっており、マンチェスターとその周辺では、蒸気機関で動く木綿工場が稼働していた。(略)だがそうはいっても十九世紀の初頭のイギリスは、なお全人口の六割から七割が農村に住む農本的な社会であった。村の入会地の多くはまだそのままに残っており、都市においても工場制は全産業のほんの一部で、労働者の圧倒的部分は手労働にもとづく家内工業に従事し、職場では親方・徒弟制度を中核とする保護・被保護の雇用関係が保たれていた。

 それゆえ、人びとの心のなかにはまだ産業革命以前の前近代的な労働意識や古い村の共同体意識が残っており、それに根ざす文化・風習が存続していた。聖月曜日(セイント・マンデー)は、その代表的な一例である。これは労働者が休日の日曜日はもちろんのこと、翌日の月曜日、いやときには火曜日までも飲酒にふけって仕事を休んでしまうという風習で、前工業化時代には一般的な労働慣行であった。

 前工業化時代の風習の残存は、とくに民衆の娯楽の面で顕著に認められた。農業を主産業とする前工業化時代の社会では、キリスト教会が定めた一年の暦と季節と気候の変化という自然のリズムのなかで共同体の生活が営まれた。畑おこし、冬と春の播種(はしゅ)、夏の草刈り、夏から秋にかけての収穫と続く農事暦とあわせて、復活祭、聖霊降臨祭、クリスマス、地域地域の守護聖人の祭日、四旬節にはいる前の告解火曜日、秋の収穫祭、定期市の日といった休日があり、これらのうちの特定の休祭日には、労働から解放された人びとの遊びのエネルギーが堰(せき)を切ったように爆発した。

 この日は一般に日常的な習慣や規範のたががはずれる無礼講の日と考えられており、人びとは酒を飲み、仮装・ダンスに興じ、若い男女は性の軌道を踏み外した。そしてこういった休祭日には、闘鶏、熊や牛に犬をけしかけて喜ぶ熊掛けや牛掛け、牛追い(村にあばれ牛を放ってそれを棍棒〔こんぼう〕などを用いて集団でいじめ殺す一種の闘牛)など、血なまぐさいブラッド・スポーツが催された。(四八八〜四八九ページ)

 また人びとは、グローヴを着けない素手の拳闘試合やジェントルマン主催の競馬に金を賭けたり、村人総出のフットボール試合に熱をあげた。フットボールは、歴史的にはこのような休祭日に、村では野原や入会地、町では広場や街路上で民衆が楽しんだ娯楽だったのである。それは、対抗する二つのティームが村や町はずれのそれぞれの最寄りのゴール(たとえば二本杉といった)にボールをいれるということ以外これといったルールもない、粗暴なゲームであった。試合がおこなわれる当日、家々の窓ガラスや器物が壊され、ときには地域的な騒乱状態がひきおこされることもあったので、しばしばフットボール禁止令が出されたほどであった。

 だが十九世紀の初頭にはなおかなり認められた伝統的な民衆娯楽や前近代的な諸風習は、世紀の中葉までにはほとんど消滅してしまう。これはこのあいだに、工業化と都市化が急激に進んで前近代的な共同社会が根底から破砕され、都市人口が農村人口を凌駕して近代的な工業化のリズムが民衆生活の基調を構成するようになったからであった。農村では囲い込みと経営の合理化がさらに進んで入会地は減少した。(四九〇ページ)

(引用おわり:谷川ほか『世界の歴史22・近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論社、一九九七年)

 これらをどのように解すればいいかは分からないが、これらのことを知ればイギリスの近代が特に優れていたといえるのかという疑問がわいてくる。イベリア半島がイスラーム社会のときは、農村でも「国民性は心優しく、市民生活は洗練されている」ということだったのだ。イギリスも日本も(イスラーム国家以外は)どこもそんなに違いはないのではないか、との思いになってくる。

●イギリスの児童労働と女性労働

 産業革命期のイギリスの児童労働(child labor)と女性労働もひどい。

(引用はじめ)

 十九世紀の前半に工場制度が普及したのは、綿工業などの繊維工業部門だけであったが、その工場での労働条件はきわめて苛酷なものであった。労働者の就労時間は、一日一二〜一四時間にも及び、それが普通の部類であった。だがより深刻な問題は、女性と若年者、とりわけ十歳にも満たない児童が大勢工場で働いていたという状況で、彼らもまた成人労働者と同様の長時間労働に従っていた。

 この児童酷使の非人間的な不合理を改善するための(略)一九年、二五年の工場法は、(略)その執行を伝統的な地方行政の担い手である治安判事にまかせたため、実質的な効果をあげることができなかった。(略)だが二六年から工場法の父ともいってよいアシュリー卿(後の第七代シャフツベリー伯)が議員生活を開始すると、彼の尽力により、三三年の工場法を皮切りに以後実効ある重要な法律がつぎつぎに成立した。

 まず三三年の工場法は、九歳未満の児童労働の禁止、九歳以上十八歳末満の若年者の労働時間を週六九時間以内に制限することなどをその骨子としたが、あわせて工場立ち入り検査権をもつ工場監督官を任命し、彼らに法の運用を託した。この中央集権的な監督制度が導入されたことで、工場法は国家干渉政策としてはじめてその実効を保証された。

 ついで四四年に成立した工場法が、はじめて女性労働者を対象にしてその労働時間を十八歳未満の若年労働者なみに制限し、さらに四七年の工場法が若年労働者と女性労働者の労働時間を一日最高一〇時間に制限した。(略)そして七四年には、週五六時間労働制(月曜から金曜まで一日一〇時間、土曜六時間)が実現された。

 だが十九世紀の前半、繊維工場以上に劣悪であったのは、炭鉱の労働事情であった。ここでは炭塵の爆発や落盤の危険のなかで、十歳にもならない児童が換気戸の開閉とか巻き揚げ機の操作をおこない、女たちが地下の天井の低い坑道で、一五〇キロを超える重い石炭運搬車にベルトでつながれ、四つん這いになってそれを引いていた。四二年に議会調査委員会の報告書がこれらの事実を明らかにすると、人びとは大きな衝撃をうけ、炭鉱主の反対にもかかわらず、アシュリー卿の提案になる鉱山法がただちに議会で可決された。こうしてこの法律によって、女性と十歳未満の児童の鉱山・炭鉱における雇用は禁止されることになった。(三九八〜四〇〇ページ)

(引用おわり:谷川ほか『近代ヨーロッパの情熱と苦悩』)

説明: C:\Users\Furumura\Desktop\副島隆彦の論文教室\img\industrialrevolutionchildlabor001.jpg 説明: C:\Users\Furumura\Desktop\副島隆彦の論文教室\img\industrialrevolutionchildlabor002.jpg
繊維工場での児童労働の様子    炭鉱での過酷な重労働の様子

 産業革命期のイギリスでは、女性や十歳にもならない児童を炭鉱内や工場で長時間酷使して働かせていたのである。イギリスとはそういう過酷なことを行った国である。私たちは「奴隷貿易」と同様に、この史実を軽く見るべきではない、この史実を重大視しなければならない。このイギリスの恥をはっきりと認識しておくべきだと思う。

●フーリガンの登場

 二〇〇二年、日韓共催のワールド・カップサッカー大会のときに、イギリス(イングランド)サポーターのなかの暴れ者、フーリガン対策をマスコミで騒がれた。マスコミはこの「フーリガン(hooligan)」の歴史を伝えなかったが、百年以上前からイギリス全土で急増していたという。

(引用はじめ)

 一八九八年八月一五日、バンク・ホリデーの月曜日。イギリス全土が異常な猛暑に見舞われたこの日、ロンドンで大騒動がもちあがった。この大都会のいたるところで、街頭にたむろする若者が群れをなして暴行、暴動を起こしたのである。

 彼らの逸脱行為の中身は多様だった。民家や商店、学校の窓を割る。パブやアイスクリーム売りの屋台を襲う。道路いっぱいに歩いて通行人のじゃまをし、それをとがめた市民を殴って金品を奪う。昼間から酔っぱらって相手かまわずけんかをふっかける。街頭を闊歩しながら、すれちがった他の若者グループと抗争する。それを制止しょうとした警官に石を投げ、殴る蹴るの暴行を加える――この日、こうした騒ぎがロンドンじゅうで同時多発的に起こり、善良な市民をふるえあがらせた。警察に連行され、後日裁判所に出廷した大半が一四歳から三蔵で、義務教育修了直後の労働者家庭の若者たちだった。ロンドン各紙には次の見出しが躍っている。「彼らは人間でフットボールをした」「フットボールのように人を蹴った」――。(三二二ページ)

 もちろん、若者集団による不良・逸脱行為は、一八九八年夏に突如としてはじまったものではない。すでに二〇年前くらいから、イギリス全土で若者の非行が急増していた。だからこそ、注目すべきは、この事件をきっかけに、新聞各紙が、彼らのように街頭で徒党を組んで社会的逸脱行為をはたらく若者を「フーリガン」と呼ぶようになり、それが一般名詞としてイギリス社会に急速に広まり、定着していったことにある。すでに日常茶飯事と化していた若者の行為に「フーリガン」なる新しい言葉をあてたのはなぜだろうか。(三二三ページ)

 いずれにしても、当時のイギリス社会は、「フーリガン」という新しい言葉を、本来のイギリス英語の語彙にはない「外来語」として捉えようとしていた。そこには、当時顕在化しつつあった若者の集団逸脱行為を、イギリスとは無関係の、非イギリス、非イングランド的な現象として見ようとする、いや、見たいと願う気持ちが働いていたと思われる。(三二四ページ)

(引用おわり:井野瀬久美恵『大英帝国という経験』)

説明: C:\Users\Furumura\Desktop\副島隆彦の論文教室\img\hooligan001.jpg
フーリガンが暴れる様子

 「フーリガン」という若者の非行は、遅くとも一八八〇年頃にはすでに日常茶飯事と化していたというのである。大英帝国最盛期の最中(さなか)である。私はこれには驚いた。大英帝国は何かおかしな国家なのだ、ということである。

●イギリス国民の退化

 そしてとうとう一九〇〇年頃、大英帝国では「国民の退化」問題が明らかになってきたという。日英同盟締結(一九〇二年)、日露戦争(一九〇四〜〇五年)の頃、あるいはその直前からである。

(引用はじめ)

 一八九八年夏の「フーリガン」事件の翌九九年にはじまった南アフリカ戦争(第二次ボーア戦争、一八九九〜一九〇二)のなかで、あるショッキングな事実が明らかになった。

 この戦争初期、ミュージック・ホールが生んだ新しい英語「ジンゴイズム(戦闘的、排外的愛国主義)」も手伝って、苦戦を強いられたイギリス軍に全国からあらゆる階層の若者が志願した。ところが、その約六割が、身長が低すぎる、痩せすぎ、心臓や肺の欠陥、リューマチ、あるいは虫歯などの身体的な理由で兵士として不適格であると判断され、入隊を拒否されたのである。なぜイギリスの若者はこんなにも貧弱になってしまったのか。(三二七ページ)

 当時のイギリス社会では、統計上、一八七五年ごろから認められる出生率の低下が問題視され、イギリス人の量的な減少が招くであろう大英帝国の衰退が論議の的となりつつあった。(三二七ページ)

 かくして、一九世紀末の出生率低下、すなわちイギリス人の量的減少の問題は、帝国問題と化した。ここに、南アフリカ戦争志願兵を通じて明らかになった若者の身体水準の低下、つまりイギリス人の質的低下が重なり、当時の有識者の危機感をさらに煽った。イギリスの未来、帝国の未来に深刻な影を落とすこの問題は、「国民の退化」問題と呼ばれて、世紀転換期のイギリスで激しい論議の的となった。その解決策と目されたのは、「国民効率(国民の身体能力)」を高めることである。それはパブリックスクール教育の特徴であるアスレティシズムをはじめとする「男らしさ」の向上と同一視され、問題を労働者階級の若者の心身に絞り込んだ。

 一九〇四年、身体能力とモラルの低下がはなはだしい労働者の若者をこのまま放置することは自殺行為に等しいとする認識から、その名も「身体的堕落防止委員会」なる団体が設立された。(三二八ページ)

(引用おわり)

 大英帝国は「国民の劣化」が進んでいた。しかし大英帝国は久しくそれに気づかなかった。このように帝国は国外のことで精一杯で、足元の自分の国の有様が把握できないのだ。

 しかしそれに気づいてから、それ以後、イギリスの貴族たちはその現実が頭から離れなかっただろう。A・B・フリーマン・ミットフォード(リーズデイル卿)もその自叙伝としてMemories by Lord Redesdale(リーズデイル卿回想録)と題し、一九一五年にロンドンで出版した本のなかで、鳥羽・伏見の変(一八六八年一月)前夜の大阪、兵庫での「ええじゃないか」騒動を描いている場面の記述で次のように書いている。 《 「過去を尊ぶことは人民として親孝行と同じくらい重要である」というのは、ブローユ公爵の名言であるが、堕落した今日の時代において、私が好んで引用する言葉であり、われわれ外国人は、日本人が古い日本の精神である大和魂にどれほど負うところが多いか、明記すべきである。その精神の基盤は神道の伝説に由来する。(略)その伝統に基づくものが、世界が賛嘆して頭を下げた、あの英雄的行為(引用者注、日露戦争勝利のこと)である。 》(A・B・ミットフォード『英国外交官の見た幕末維新』九六ページ)

 ミットフォードは、「堕落した今日の時代において」と言っている。これを記述したのは一九一五年である。それは第一次大戦中であり、「堕落」とは、大英帝国のことであり、すなわち、近代ヨーロッパのことである。アメリカ独立戦争(一七七五〜八三年)やフランス革命(一七八九〜九四年)は、ジョン・ロック思想のイギリスのような国になろう、という革命だった。アメリカやフランスから見れば、啓蒙思想においては、イギリスは理想国家に見えたのである。それは旧体制(アンシャン・レジーム ancient regime)、すなわち伝統を否定し打倒し新体制にするという革命だった。そのイギリスがこの体たらくである。果たして、ヨーロッパ文明には学ぶべき伝統とか革命とかがあったのだろうか。瞬間的に、あるいは萌芽的に学ぶ価値があるものが出ていたとしても、それ以上のものではなかったのではないか。

 帝国は内部から腐るというが、大英帝国も内部はこのように腐っていたのである。今のアメリカ帝国も同様にその内部は腐っているのである。日本の支配者や学者たちも、その見かけと尤もらしい論理に心を奪われて、ヨーロッパ文明を崇め奉ってきた。それは大いなる間違いだったと思う。

 植草一秀氏は次のように言っている。二〇一一年八月九日現在、世界連鎖株安が止まらない。これは日米欧が超緊縮財政=財政再建原理主義に進んでいるからである。それを続ければ、金融恐慌、世界大戦が勃発してもおかしくはない、と植草氏は言っている。これがヨーロッパ文明の恐ろしさである。

●金融政策は死んだ(二〇一〇年現在)

 副島隆彦氏は、大銀行の救済は、金融政策でもないし、財政政策でもない、という。

(引用はじめ)

 本来、金融政策である訳がない大銀行の救済を、金融政策のふりをして、財政資金(国のお金)で行った。政府の資金(すなわち税金)で、民間企業である大銀行を、経営が厳しくて倒産(破綻)しそうだと言って、助けてしまった。本当は、「経営に失敗した会社(企業)」として、破産法のきまり通り、死なせる(破産させる)べきだったのである。それを無理やり政府(と中央銀行)が助けてしまった。大銀行、大証券、大生保を、「金融システムを守るため」とか「社会不安、信用不安、取り付け騒ぎ(バンク・ラン)が起きるから」という理由で救援してしまった。これを日本(1998年)でもアメリカ(2008年)でも、そしてヨーロッパ(2010年)でもやってしまった。いいかと思って、誰も反対しないかと思って、まるで当たり前のこととしてやってしまった。これをやったことで毒とバイ菌が、逆に政府や中央銀行のほうに回ってゆくのである。そしてその毒は、社会(世の中)全体に金融失敗の汚染として広がってゆくのである。このことの恐ろしさを皆、気づこうとしない。「大損をした者たちにしっかりと責任を取らせる」ということができていない。オーストリア学派シュンペーターはこのことを言ったのだ。(一九七〜一九八ページ)

 政府が、財政資金、即ち税金を投入して大銀行を助けることは@の金融政策ではない。Aの財政政策でもない。財政資金は、景気回復策となるように、貧しい国民や失業者を助けるために直接使うという、本来の正しい使い方をしなければいけない。金融政策と財政政策をごちゃまぜにしてはいけない。こんなことをやるから金融政策(マネタリー・ポリシー)そのものが死んだのだ。(一九八〜一九九ページ)

(引用おわり:副島隆彦『新たなる金融危機に向かう世界』徳間書店、二〇一〇年)

 副島氏の言うとおりだろう。日本もアメリカもヨーロッパでも、絶対にやってはいけない大銀行の救済をやってしまったのだ。これで金融政策は死んだ。これからは、その毒が広がっていくのだ。このことを指摘する学者、知識人はほとんどいない。だから正しい情報が広まらなくなった。恐ろしい時代になった。

●残っているのは財政政策のみ(二〇一〇年現在)

 政府が余計なことをするなという思想は正しい。だが政府が借金をしてでもお金を出して、人為的に有効需要を創造して人々を生き延びさせるケインズ思想が現実には正しい。

(引用はじめ)

 オーストリア学派の良さと悪さがあって、政府が余計な規制をするなという思想、自分の力で回復するまで寝ていれば治るという思想は正しい。絶対的に正しい、と言っていい。私も原理的にはこのほうが好きだ。この余計なことをするな、という考えが正しいのだけれども、現実にはそういうわけにはいかない。だから修正資本主義者であるところのケインズのほうが正しかった。大恐慌が迫り来る現在もまたきっとそうだ。ケインズ卿は、不景気で死にかかっている貧乏人と失業した労働者たちを助けるために、政府が大借金(巨額の財政赤字)を抱えてもいいから、政府がお金を出して、人為的に有効需要(イフェクティブ・デマンド)を創造して、景気を回復させて人々を生き延びさせた。

 やはりこのケインズ思想が現実には正しい。このことをさらにひとことで言えば、金融政策はすべて終わったのだということだ。国家の経済政策としては、もう@の金融政策(マネタリー・ポリシー)は大失敗して死んでしまって、Aの財政政策(フィスカル・ポリシー)一点張りのケインズ政策理論だけが今や生き残っているのである。そしてこのことがきわめて重要な知識なのだ。(一九六〜一九七ページ)

(引用おわり:副島隆彦『新たなる金融危機に向かう世界』)

 現代の経済社会はもはや人為的状態であり、自然状態ではない。自然状態から遠く離れてしまった。だから人為的に有効需要を創造するケインズ思想が今は正しいということだ。

 小室直樹氏によると、レーガン政権(一九八一〜一九八九)がケインズを捨て古典派(クラシカル・スクール)を選んだ、ということだ。 《 このとき一九八〇年(引用者注、一九八一年の間違いか?)だが、戦後三五年近く、米政府の経済政策は、ケインジアンたちによって推進されてきた。米政府関係のケインジアンは追放されて全滅。ショッキングであった。(七〇ページ) 》(小室直樹『日本経済破局の論理』光文社、一九九二年)

説明: C:\Users\Furumura\Desktop\副島隆彦の論文教室\img\johnmkeynes001.jpg
ケインズ

 レーガン政権は、ケインジアンを追放するという無茶なことをやった。がしかしその期間は、景気は良く、失業率も減った。だからレーガンは人気があったようだ。しかしこの時の景気のよさは、巨大な財政支出によるものであったのだろう。レーガンはケインジアンを追放するために、無理やり景気を良くしたものと思われる。

 当時小室氏は限界消費性向aを0.8として、乗数効果を 1/(1−a) = 1/(1−0.8) = 5 としていた。限界消費性向(マージナル・プロペンシティ・トゥ・コンスーム marginal propensity to consume)とは、所得が1増加したときにそのうちのどれだけが消費に回るかという値である。a=0.8とは、増加所得の8割が消費に回されるということである。そしてこれだと、投下した有効需要は、5倍にも膨れ上がるのである。

 高所得者は普段から消費が十分になされているのだからaの値は低くなる。他方、低所得者は普段から買いたいものがあっても我慢してきたからaが高くなる。政府が人為的に創造し投下した有効需要分が低所得者層に十分にいきわたれば、aは0.8くらいにはなる。これだと有効需要は投入した有効需要の5倍になる。ところが高所得者層にのみわたるとなれば、aは低くなり0.2くらいになってしまう。aがこの値だと、有効需要は投入した有効需要の1.25倍にしかならない。このように乗数効果が少ないのだ。これだと借金して有効需要を投下しても有効需要は大きくならず、その借金を返済できず、借金がたまることになる。だから、低所得層にいきわたるような経済状態になっていないと、つまり高所得層(独立行政法人や大企業)がピンはねするような経済構造であれば、ケインズ政策は失敗となってしまう。

 財政政策が効果がなく財政赤字を増やすだけであるならば、それはお金が底辺まで行き届かないことを示しているのである。その場合は、賃金体系、つまり格差社会が問題となる。

 いずれにせよ、ヨーロッパ文明は恐ろしい。それは秘密ごとをつくって平等社会を否定し、格差社会をつくるからである。

(終わり)