「0170」 論文 サイエンス=学問体系の全体像(33) 鴨川光(かもがわひろし)筆 2011年12月17日

 このもう一つの意義深い格言の作者は不明だが、現代において一つの公式として頻繁に使われているものである(同書 四六一ページ)。

(引用開始)

 有機的統一には、もう一つの公式化が可能である。それは「全体は総和(そうわ)以上のもの」という公式になって、現代によく繰り返されているが、この格言の作者は不明である。

 だが、これと極めて近いことをプラトンは述べている―「全部とは全体ではない」(原注:『テアイテトス』、二〇四ページ)。

 そして文脈から見れば、この「全部」とは部分の総和のことである。美学の問題としては、それは、孤立した断片を、ただ相互に付加してみたところで、芸術作品が生まれるわけではなく、個々の部分をつなぐには、全部を結合する、一本の本質的連鎖が必要であることを意味する。

 さらに哲学的となれば、アリストテレスの言いでは、「全体は部分に先行する」(原注:「政治学」)。(中略)この原理をアリストテレスは国家論に応用し、これは後代にもかなり流行した。(『西洋思想大事典』、四六一ページ)

(引用終わり) 

 「全体」と「全部」という言葉の違いが述べられている。ここでいう全体とは、「ザ・ホール(the whole)」とか「ザ・ホール・ボディ(the whole body)」ということであろう。これに対して「全部」とは、「エヴリ・パートオブ・ザ・マシーン(every part of the machine)」である。

 「全部」というのは、機械を構成する「部品」の全てを集めたという意味で、一つ一つの部品それ自体には本質的な存在理由(レゾン・デトル(reason d'etre)はない、ただの断片でしかない。それを集めたものが「総和」であり、「機械=マシーン」のことなのだ。

 「全体」というのが、「総和以上」「機械以上」のものという意味がお分かりだろうか。一つ一つがただのパーツではなく、意味を持つもの、機能するものとして、互いに「本質的連鎖」をする。これが「社会静学」で「ソリダリティ(solidarity)」(連帯、団結)と言われることとなる。

アリストテレス

 アリストテレスも、『政治学(ポリテイア)』の中で、この「総和以上の全体」(つまり、生き物、有機体)のことを、「全体は部分に先行する」という言葉で残している。

 アリストテレスのこの言葉をうけて、サミュエル・テイラー・コールリッジ(Samuel Taylor Coleridge)は、「真に有機的で、生命あるもの一切について、全体は部分に先行することに依拠(いきょ)せよ」と述べている。コールリッジによって「全体」という言葉は、「リヴィング・オーガニズム living organism」(生命有機体)のことであるとはっきり解釈されている。

   
コールリッジ   ワーズワース

 コールリッジとは、ワーズワースと並ぶイギリス・ロマン主義詩人である。イギリスにおける文学上のロマン主義の創始者の一人である。

 コールリッジらイギリスの詩人たちによって、アリストテレスやプラトンが述べた「有機的作品間の全般的な効果」(『西洋思想大事典』第四巻、四六二ページ)という、美学上の伝統的有機体理論は、ロマン主義として生まれ変わることとなった。

 では、ロマン主義、ロマンティシズムとは何なのか。

●政治的ロマン主義とは何か

 ロマン主義というと、ウィリアム・ブレイク(William Blake)、ウィリアム・ワーズワース(William Wordsworth)から続く、一八世紀末から一九世紀初頭のイギリス詩であり、ロベルト・シューマン(Robert Schumann)、リファルト・ワーグナー(Richard Wagner)ら一九世紀後半の音楽、絵画においては、ウジェーヌ・ドラクロワ(Eugene Delacroix)の「民衆を導く自由の女神」という革命の絵が思い浮かぶ。

    
ブレイク    シューマン

  
ワーグナー ドラクロワ

 ただ一言にロマン主義とはいっても、音楽や絵画においては一九世紀後半であるし、文学は一八世紀末からである。国によっても異なる。

 『西洋思想大事典』第四巻には、「一七八〇年頃から一八三〇年頃のロマン主義」「文学におけるロマン主義」「政治思想におけるロマン主義」「カント以降のロマン主義」と四つの章に分かれている。私は、「政治思想におけるロマン主義」を中心に説明していく。

 ロマン主義はヨーロッパにおいて主にイギリス、フランス、ドイツ、イタリアで生まれ、発展していった。イギリスでは、詩人がその中心的担い手になる。一八世紀のウィリアム・ブレイク、ワーズワース、サミュエル・テイラー・コールリッジがその第一世代と見なされる。

 コールリッジの主張は、徹底した反合理主義であり、「国民的伝統や宗教的神秘主義」を帯びていた。

 フランスでは、政治家であり文学者であるシャトーブリアン(Francois-Rene de Chateaubriand)や、ラ・マルチーヌ(Alphonse de Lamartine)、ヴィニー(Alfred Victor, comte de Vigny)、ヴィクトル・ユゴー(Victor Hugo)らが現れる。彼らの初期のロマン主義的思想は、どちらかというと反革命的であり、フランスの伝統主義に通じていた。

    
シャトーブリアン ラ・マルチーヌ ヴィニー  ユゴー

 彼らフランス・ロマン主義が執着したのも、過去崇拝であった(同書 六五一ページ)。これは明らかにフランス革命とは正反対の思想であり、イギリスの作家たちと相通ずる点がある。

 ところが、一八三〇年代になると、フランス革命に影響を受けたロマン主義第二世代が現れ、ワーズワースのような、純粋な芸術的水準にとどまっていたロマン主義思想が、政治的傾向を帯びてくる。

 イギリス・ロマン主義の第二世代、ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron)、パーシー・ビシー・シェリー(Percy Bysshe Shelley)、ジョン・キーツ(John Keats)らの活動や作品には「伝統的秩序や、それが有する因習的な虚偽を、特権に対する道徳的な反逆の感情」というものが現れてくる(同書、六五一ページ)。


バイロン  シェリー   キーツ

 この反権力、反特権旧体制に対する反逆は、シェリーにおいては無神論を説いたパンフレットを、オックスフォード大学内で配布したかどで放校処分を受け、各地を放浪せざるを得なくなったという行動に表れているし、バイロンは、対オスマン・トルコに対するギリシャ独立戦争に、義勇兵として参加し、命を落としている。

 フランスでは、一七八九年を境に(この年、七月革命が起こり、オルレアン公ルイ・フィリップ Louis Philippe II Joseph, duc de Chartres, puis duc d'Orleansによるブルジョワ政治が、一七九九年のルイ・ナポレオンのクーデターまで続く)、ロマン主義作家たちは、「人道的社会主義」へと傾倒し始める。


オルレアン公ルイ・フィリップ

 フランスのロマン主義は、ブルジョワ志向のルイ・フィリップによる統治の下、「民衆の力という観念と正義が結びついた、抵抗のロマン主義」が生まれ、政治色を一層強くしていった。

●ロマン主義とは反革命の政治学のことであった

 ロマン主義が、次第に政治的傾向を帯びてきたのは、『西洋思想大事典』によれば、「ヨーロッパの反革命運動の核心を占める政治学でもあったからで、政治的ロマン主義は、革命のイデオロギーに対する恐怖から、ヨーロッパで生まれた一群の政治運動と切り離しえない」からだという。(『西洋思想大事典』第四巻、六五一ページ)

 ロマン主義の反革命運動とは、一言で言うと、エドマンド・バークによる「フランス革命の省察」から始まっている。バークの主張とは、ロマン主義の基調となる「反機械論的国家観」(『西洋思想大辞典』四巻、六三六ページ)である。

 (引用開始)

 ロマン主義者は、もし彼が社会や国家というこの主題について、少しでも考えたとすれば、機械論的な国家観には、必ず反対した(何しろ機械論的な「自然」に反対したのであるから)。それゆえ、エドマンド・バークは、彼自身は政治的には保守主義者ではなかったけれども、『フランス革命の省察』(一七九〇年)のなかで、一般的な「ロマン主義的」態度を表明した。

 革命家たちは単なる理論家に過ぎず、人間の本性や歴史に注意を払わず、政治をまるで「幾何学の証明」扱い出来ると思っていたのである。(鴨川光注記:「幾何学の証明」とは、合理主義的考え方のこと)

 彼はこう語っている。もし政治が目標を達成するとすれば、それは「人間の推論にではなく、人間の本性に」あわせられるべきであって、「理性は人間の本性の一部に過ぎず、しかも断じて、最も大きい部分を占めるものではない」(『西洋思想大事典』四巻、六三六ページ)

(鴨川光注記:ここでいう「推論」とは頭を使うこと、知性、マインド、理性のことである。「人間の本性」とは、人間の感情、情緒や信仰心のことである。こちらのほうが人間の本当の姿だと言っている。)

 (引用終わり)

 この部分の執筆者は、バークのこの著名な著作は、「ロマン主義的態度の表明」だと述べている。ここまで、私の文章を辛抱強く読んで下さった読者の皆さんならば、上記の引用の全てがすんなりと理解出来ると思う。

 ロマン主義者とは、自然科学の立場では「ネイチャー・フィロゾファー(nature philosopher)」と言う。これはニュートンを信奉する「ナチュラル・フィロゾファー(natural philosophy)」に対抗する言葉である。

 ネイチャー・フィロゾファーとは、ニュートンやデカルト的宇宙観、つまり宇宙を力のバランスの取れた状態である、「システム」に過ぎないという考えに反対し、「フィールド・セオリー(Field Theory 場の理論)」を提唱した。「フィールド・セオリー」とは、一言で言えば、宇宙は「波」(ウェイヴ wave)で満たされているという考えである。彼らは、この波=ウェイヴで満たされた宇宙を「フィールド」と定義した。日本語では「場、圏、界」という訳語がつけられている。

 重力場(重力圏)、電場(電界)、磁場(磁界)という。(鴨川光注記:もとは「フィールド」の一言なのに、場、圏、界の三つの訳語が、それぞれバラバラに揃わないでつけられているところに、日本語の学問の無理と限界がある。)

 この三つのフィールドが知られているが、その正体のほとんどが明らかになっているのは、「電場」だけである。重力にいたっては、それがいったい何であるのかが未だに分かっていない。

 光も波であることは明らかであって、これも光の場(あるいは電場)というものがある。電磁波というのは「電場」「磁場」に満たされているものという意味である。

 あくまでメカニズム(mechanism)、機械的宇宙観にこだわるニュートン的学問に対して、「フィールド・セオリー」を提唱したことを「ロマンティック・リヴォルト(Romantic Revolt)」という。宇宙は、単なる「スペース(Space)」=空間・虚無・空虚なのではなく、「波」(かつてはエーテル etherと言われ、デカルトはそれを支持した)が「在る」という実在論の側の思想である。

 かつて宇宙は「ユニヴァース(Universe)」といわれ、普遍であり、無限(インフィニティ infinity)であり、「神の恩寵(グレイス grace)」に満たされた世界だったが、「フィールド・セオリー」はかつての宇宙観、神の存在を肯定する宇宙観に近い考え方なのである。

(鴨川光注記:この無限、インフィニティ infinity という言葉に対して、定義、ディフィニション definition という言葉がある。ディフィニションはサイエンスそのものを表すといってもいい。「フィニ」という部分があるが、これは「フィニッシュ」のフィニで、「終わり」を意味する。

終わりを否定する接頭辞「イン」がつくからインフィニティは「終わりなきこと、限りなきこと=無限」となった。

「ディフィニション」の「ディ」は、英語の「ザ」 the にあたる。「ザ・フィニッシュ」というのが「ディフィニション」の本当の意味で、もともとはラテン語の「デ・フィニス」 de finis から来ている。

「定義」という言葉がいつ日本語となったのかはわからない。もともとは「有限」であり「限定」といういみだ。その証拠に江戸末期の一八六二年に出版された、日本最初の本格英和辞書である『英和対訳袖珍辞書(えいわたいやくしゅうちんじしょ)』には、「定限」(ていげん)という訳語がつけられていた。

『英和対訳袖珍辞書』は、早稲田大学出版部から『江戸時代翻訳日本語辞典』として出ている。:注記終わり)

 サイエンスのロマン主義者(ロマンティック。これはニュートン信奉者側からつけられた呼び名である)であるネイチャー・フィロゾファーたちの思想が、政治思想に移し変えられたものが、バークの思想である。

 革命家たちはこれまで見てきたように、無神論の人間が多く、反教会である。それがそのまま反権力、反体制につながっていき、「反逆の感情」と「破壊の理論」へと辿り着く。

 これは、デカルトの合理主義から生まれ、モンテスキュー、パスカル、テュルゴー、コンドルセ、サン・シモンへとつながる、「進歩の観念」を具現化したものであることを、私はこれまで説明してきた。

 バークはそうした革命家の「合理・理性万能」に反旗を翻(ひるがえ)し、人間の世俗の世界(聖なるもの=セクレッド sacredに対して、セキュラー secularという)である政治にまで、幾何学的分解(分析、アナリシス analysis。ニュートンが発案した)出来るのだ、という思い上がりに憤慨(ふんがい)したのである。

(つづく)