「175」 論文 日本権力闘争史−院政編−(2) 長井大輔(ながいだいすけ)筆 2012年1月29日
●貞仁の政権再登板
貞仁は善仁に王位を譲ったあとは、政治は天皇と関白に任せて、自身は悠々自適の生活を送るつもりだった。ところが、善仁を補佐する師実や、その後を継いだ師通(もろみち)は、このころから頻発するようになった強訴(ごうそ、宗教デモ、学生運動のようなもの)に、有効に対処できず、新政権は危機に瀕していた。公卿たち(閣僚たち)は、強訴のような解決不可能な問題に対して、介入したがらず、責任回避に終始していた。そこでやむなく、貞仁は政権の瓦解(がかい)を防ぐため、裏から指示を出すようになった。
1096年8月、貞仁は妻・賢子に続き、愛娘(まなむすめ)の?子(やすこ)を失った。享年21歳。彼女は「大上皇最愛之娘」と言われ、貞仁は賢子の忘れ形見である?子を、肌身離さず、連れ歩いた。貞仁は悲嘆のあまり出家した。法名は融観(ゆうかん)。
1099年8月、関白・師通が38歳で急死した。彼の長男・忠実(ただざね)は、まだ弱冠(じゃっかん)22歳であり、大臣経験も無かったため、内覧(ないらん、関白と同格。天皇あての重要文書を見ることができる)には任命されたものの、関白就任は見送られた。忠実が関白になったのは、6年後の1105年である。忠実は、師通と藤原全子(またこ)の子だが、師通が全子と「離婚」したあとは、祖父・師実の養子として育てられた。師通はその後、藤原信長の養女と「再婚」している。頼通流と教通流に分裂してしまった御堂流を統一しようとしたらしい。師実は1103年に死に、忠実は政治上の師を失った。
1107年7月、善仁が28歳の若さで急死した。このとき、貞仁は重祚(ちょうそ、退位した天皇が再び即位すること)しようと考えたが、すでに出家していたため、断念した。天皇には、当時わずか5歳であった善仁の子・宗仁(むねひと)が立てられた(鳥羽院=とばいん=)。これまで、貞仁は政治のことは極力、天皇と関白に任せて、彼自身はあくまでサポート役に徹していたが、政権を委ねたはずの善仁・師通の相次ぐ急死により、予期せぬ形で、再度、政権の座につくことになった。
新帝・宗仁は5歳の幼児だったため、摂政を設置しなければならなかった。このとき、宗仁の母方のおじ・藤原公実(きんざね)が自分を摂政に任命してほしいと、貞仁に頼んだ。公実は、藤原公季(きんすえ)を祖とする閑院流(かんいんりゅう)の出であった。公実のおば・茂子は、尊仁と結婚して貞仁を産み(貞仁と公実は従兄弟)、公実の妻・光子(みつこ)は善仁の乳母(めのと)となっていた。さらに公実の妹・苡子(いし)は善仁と結婚して宗仁を産み、公実自身は東宮大夫をつとめていた。宗仁の周りは、公実ファミリーで固められていた。天皇の外戚(がいせき、母方の親戚、母方の実家)として、摂政を要求する公実の言い分ももっともだった。
貞仁は摂政を忠実にするか、公実にするかで迷っていた。その迷いを断ち切ったのは、側近の源俊明(としあき)だった。彼は周囲の制止を振り切って、貞仁に決断を迫り、その勢いに圧倒されて貞仁は、前関白の忠実をそのまま、新摂政とすることに決めた。日本史の歴史学者たちは、外戚かどうかと無関係に摂関を担うようになった、これ以後の御堂流を「摂関家(せっかんけ)」と呼ぶ。
宗仁の即位により、またしても輔仁は天皇になれなかった。貞仁の重祚案や幼帝の即位強行には、輔仁の即位を阻止する意図も含まれていた。輔仁には、藤原基長(もとなが、藤原能信の孫)や、村上源氏の源俊房とその弟・師忠(もろただ)がついていた。輔仁派とは、輔仁こそ尊仁の正統な後継者だとする勢力であり、父の遺言に背いた貞仁にとって、彼らは脅威であり続けた。
1113年、宗仁に対する暗殺計画が発覚した(永久の変)。首謀者とされたのは、輔仁派の中心人物の仁寛(にんかん)と勝覚(しょうかく)であり、彼らの父は輔仁派の最大支援者・源俊房だった。この事件により、輔仁の政治生命は完全に絶たれ、輔仁を支援していた村上源氏の俊房流は没落した。その結果、兄・俊房流にかわって、貞仁と結びついた弟・顕房流が村上源氏の主流となった。
●宗仁と忠実の更迭
忠実は、貞仁に対して引け目があった。彼の妻は、かつて貞仁の子・覚法(かくほう)を産んだ源師子(もろこ、父は源顕房)であった。忠実は、師子に一目惚(ひとめぼ)れしてしまったため、忠実の祖母・源麗子(よしこ)が貞仁に頼んで、師子を忠実の妻にしてもらった。二人の間には1095年に勲子(やすこ)が、二年後には忠通(ただみち)が生まれた。
当時、貞仁には、祇園女御(ぎおんにょうご)という愛人がいた。彼女は貞仁から深く愛されていたが、子はなかった。そこで彼女は、藤原公実・光子夫妻の末娘・璋子(たまこ)を養女にむかえた。貞仁は、璋子をわが子のようにかわいがった。
1108年頃、貞仁と勲子との縁談がもちあがる。通説では、勲子は1113年に、宗仁との縁談がもちあがったことになっているが、それは誤りだと主張する角田文衛(つのだぶんえい)説を採用する。
(引用開始)
真相は、正式の后のいない法皇(引用者註:貞仁)が天仁元年(一一〇八)頃、忠実に娘の泰子(同註:勲子のこと)を自分のもとに入侍(引用者註:にゅうし)させよと求められたのに対して、忠実が固辞したということである。泰子を法皇の后に立てることは、摂関家として悪いことではなかった。しかしこれに強く反対したのは、母の師子であったろう。彼女の倫理観からすれば、母と娘が同じ法皇から愛撫を受けることは到底許せなかったに相違ない。(角田文衛『待賢門院璋子の生涯』、33ページ)
(引用終了)
貞仁と勲子との縁談は、母と娘が同じ男に抱かれるのを忌避した師子の反対により、立ち消えとなった。
1114年、貞仁は養女・璋子に相応(ふさわ)しい結婚相手として、忠実の嫡男・忠通を選び、積極的に縁談を進めた。忠実は上皇の命令である以上、従わざるを得なかったが、内心では大反対であった。なぜかといえば、璋子がある禁忌(きんき、してはいけないこと)を犯していたからである。それは、養父・貞仁との性交である。忠実はのらりくらりとかわし続け、最後には貞仁も諦めた。そこで貞仁は計画を変更して、璋子を宗仁と結婚させることにした。1117年に璋子は入内(じゅだい、天皇の御所に入ること)し、翌年中宮に立てられた。璋子は18歳、宗仁は16歳だった。
1119年5月、宗仁と璋子の間に顕仁(あきひと)が生まれる。貞仁は宗仁の後継者は顕仁と決めたが、宗仁と忠実がこれに反する動きに出る。それは、宗仁と忠実の娘・勲子との縁談である。忠実は、摂関家の嫡女(ちゃくじょ)の結婚相手は天皇しかいないと考えていた。しかし、璋子の中宮冊立(さくりつ)により、勲子の入内・立后(りつこう、皇后・中宮になること)は難しくなっていた。
それでも忠実は諦めず、璋子を中宮から皇后にスライドさせ、勲子を新たに中宮に立てればよいと考えていた。そこへ、宗仁が勲子入内を働きかけてきた。忠実はこの誘いに乗った。これを知った貞仁は激怒した。勲子入内は後宮(こうきゅう)における璋子の立場を悪くし、顕仁の地位を脅かすからである。
1120年、貞仁は勲子入内を禁止し、忠実の内覧を停止した。翌年、関白には忠通がつけられ、忠実は失脚した。実は貞仁は、後任の関白に、忠実のおじの藤原家忠(いえただ)をあてようとしたが、「夜の関白」藤原顕隆(あきたか)の反対にあって、しかたなく忠通を関白に任じたのであった。
罷免(ひめん)後、貞仁は忠実の入京を禁じ、忠実は事実上宇治に「配流(はいる、流罪)」された。一方、貞仁の逆鱗(げきりん)に触れた宗仁は、以後従順な態度をとっていたが、1123年、貞仁は宗仁に対して、5歳の顕仁への譲位を強要した(崇徳院=すとくいん=)。こうして、勲子入内問題で、貞仁は宗仁と忠実を更迭した。
1125年4月、忠実の二男・頼長(よりなが)が異母兄・忠通の養子となる。当時、29歳の忠通には嫡男がいなかった。兄弟とはいえ、忠通と頼長は23歳という親子ほどの年の差があったため、頼長はごく自然に忠通の後継者と看做(みな)されていた。1129年1月、忠通の娘・聖子(きよこ)が入内し、翌年、顕仁の中宮になる。
同年4月、宇治の忠実と頼長が入京し、頼長は忠通の後継者として、貞仁、宗仁、璋子の三人と対面した。頼長が貞仁と会見できたことを忠実は喜んだが、貞仁は不機嫌だった。この会見をセットしたのは璋子だが、事前に忠実は忠通を通じて、彼女に仲介を依頼していた。忠通の娘・聖子と璋子の息子・顕仁が夫婦なので、その線を使ってのことだった。
●宗仁・忠実政権の発足
1129年7月7日、貞仁が77歳で死んだ。諡号(しごう、死後につける名前)は、彼の生前の遺言に従って「白河院(しらかわいん)」と決まった。新たに政権の座についた宗仁は、まず忠実の復権と勲子の入内に着手した。宗仁は自分のせいで、忠実は失脚したと思っていたため、忠実に対して負い目を感じていた。1132年、宗仁は忠実を内覧に復帰させ、関白忠通の上位に置いた。関白と内乱の並立は異例のことであった。忠実の政界復帰は公卿たちの総意でもあり、宗仁と忠実は蜜月関係にあった。
1134年、勲子改め泰子(やすこ)は、上皇・宗仁の皇后に冊立された。泰子は39歳、宗仁は31歳だった。二人の結婚式は異例ずくめだった。上皇の妻を皇后に立てるのは、前代未聞だった。宗仁との縁談が破局に終わったため、泰子は婚期を逃してしまっていた。宗仁は年来の宿願を果たし、泰子との結婚は「宗仁・忠実同盟」の象徴となった。摂関家の娘である泰子は、宗仁に対してかなりの発言権があったらしい。彼女は賢い女性ではあったが反面、女としての魅力に乏しく、しかも男嫌いであった。二人は夫婦というよりも、政治的パートナーであった。
泰子立后によって、上皇唯一の后としての璋子の誇りは傷ついた。彼女は無関心を装いながらも、二人の結婚は白河院(貞仁)の遺言に背くことだ、これは自分への嫌がらせだと嘆いていた。同じころ、宗仁は藤原長実(ながざね)の娘・得子(なりこ)を寵愛するようになっていた。1134年8月、得子の一族が一斉に処分されるという事件が起きる。この事件は天皇の名のもとに行われたが、実際には16歳の少年・顕仁によるものではなく、璋子が強く宗仁に働きかけた結果だった。寵姫・得子が登場したとはいえ、宗仁の璋子に対する愛情は以前と変わりなく、璋子と得子では格が違いすぎた。とはいえ、宗仁と璋子の夫婦生活はすでにセックスレス状態にあり、宗仁は得子との性生活に溺(おぼ)れていった・・・。
1135年、宗仁と得子の娘・叡子(としこ)が誕生した。直後に、叡子が皇后・泰子の養女に入ったことにより、泰子と得子が急接近し、璋子と対立する勢力が形成された。璋子は、後ろ盾であった貞仁が死んだことにより、地位が低下しつつあった。宗仁は、泰子・得子グループと璋子の間に立って、双方の面子(めんつ)が傷つかないように、気を遣(つか)っていた。
宗仁と得子の間には、1137年にワ子(あきこ)が生まれたのにつづき、1139年5月、待望の男子・体仁(なりひと)が生まれた。37歳の「中年」になっていた宗仁はどうしても、愛する得子との間に生まれた体仁に、王位を継がせたくなった。だが得子は、この時点では女御(にょうご、皇后・中宮につぐ高位の女官)ですらなく、また家格も低かったため、体仁は顕仁・聖子夫妻の養子とされた。
同年8月、体仁は立太子され、得子は女御に任じられた。女御は本来、大臣の娘に与えられる地位であったから、これは破格の処遇だった。すでに皇后・泰子は院号宣下されて「高陽院(かやのいん)」となり、得子の前には皇后の座も用意された。聖子は顕仁との結婚以来、十数年たっても子供ができなかったから、母・宗子(むねこ)とともに喜んで体仁の養育にあたった。体仁が聖子の養子となったことにより、忠通は体仁の外祖父・養祖父ということになった。この関係は、忠通にとって、かけがえのない価値をもつことになる。
顕仁と聖子の夫婦関係は円満だったが、やがて顕仁は兵衛佐(ひょうえのすけ)という女を愛するようになり、1140年、兵衛佐は顕仁の長男・重仁(しげひと)を産んだ。忠通・聖子父子は、顕仁が「浮気相手」に産ませた重仁の存在に、たいへん不快感をもっていた。
(引用開始)
重仁誕生で第一に被害を受けるのは、中宮聖子の父忠通。体仁つまり近衛天皇の即位を急いだ理由の一つが、この忠通であったことは容易に想像できる。
橋本義彦(引用者註:はしもとよしひこ)氏は、病弱な近衛天皇に子孫がえられないことを考慮して、得子は他の皇位継承者となる可能性のある皇子と親密な関係を結んで将来に備えたのではないかと推定している。だから、得子は重仁の排除を考えていないし、同じことが鳥羽院(同註:宗仁)にもいえるのである。となると、重仁を天皇にしたくないのは、その母ではない聖子とその父忠通ということになる。ここに、保元の乱につながる藤原忠通と崇徳上皇(同註:顕仁)との対立軸が見えてくる。(美川圭『院政』、96−97ページ)
(引用終了)
聖子と体仁の養子縁組により、体仁―聖子―忠通ラインができあがり、重仁誕生により、顕仁・重仁父子に対して、体仁を擁立する忠通・聖子父子が対立する構図が生まれる。重仁を天皇にしたい顕仁vs.体仁を天皇にしたい忠通である。ここに政界の対立軸が生まれ、以後これを中心に政局は動いてゆく。
1141年3月、宗仁が出家した。法名は空覚(くうかく)。5月、高陽院・泰子も出家し、権力闘争の圏外へ逃れた。
同年12月、顕仁は3歳の東宮・体仁に王位を譲った(近衛院=このえいん=)。体仁が即位したことにより、生母の得子は「国母(こくも、天皇の母)」ということで皇后になり、養母の聖子は皇太后になった。対照的に得子のライヴァルだった璋子は、1142年に発覚した得子呪詛(じゅそ)事件に連座して失脚した。
宗仁の意向によって、体仁への譲位を余儀なくされた顕仁だったが、宗仁からは、その子・重仁は、未来の王位継承者の一人として認められていた。重仁は生後すぐに得子の養子となり、2歳で親王宣下、1150年には三品(さんほん、親王の位)に叙(じょ)されていた。宗仁と顕仁の仲は円満であり、顕仁は重仁の即位に大きな期待をかけていた。
●多子・呈子入内問題
1130年代は政界の安定期であった。摂関家は、忠実が内覧として復活し、関白忠通、内大臣頼長を擁し、一体となって宗仁政権を支えていた。忠実の摂関継承構想によれば、忠通のあとは頼長が継ぎ、そのあとは頼長の長男・兼長(かねなが)が継ぐことになっていた(忠通―頼長―兼長)。ところが、1143年、47歳の忠通に男子(基実=もとざね=)が誕生した。忠通の頭の中に、頼長にではなく、実子の基実に関白を譲りたいという気持ちが芽生(めば)え始める。こうして、忠実の摂関継承路線と、実子に関白を譲ろうとする忠通の思わくが、衝突することになった。
体仁の后候補は早くから、頼長の養女・多子(まさるこ)に内定していた。これに対して忠通は、義兄・藤原伊通(これみち)の娘・呈子(しめこ)を対抗馬に立てた。忠通と伊通は親しい関係にあり、また伊通は得子の側近であったため、彼を通じて忠通は得子との結びつきを得る。入内問題で、忠実・頼長は多子を、忠通・得子は呈子を擁立した。頼長の入内工作に対して、なぜ忠通が対抗するかというと、多子が皇子を産んで、頼長が天皇の外戚になると、忠通の系統に摂関が戻る可能性がゼロになるからだ。
1148年、忠実の妻であり、忠通の母でもある源師子が死に、対立する忠実と忠通を橋渡しする調停役がいなくなり、1150年の体仁の元服を機に、忠実・頼長と忠通は激しい入内工作を展開した。宗仁としては両者の面子を立てる形でしか解決を図るほかなく、多子は3月に皇后に、呈子は6月に中宮に立てられた。
入内問題で、忠通と激しく対立した忠実であったが、摂関譲渡問題では、穏やかに忠通を説得できると思っていた。忠実の摂関継承案は、忠通がいったん頼長に摂関を譲り、そのあとは再び忠通の子供が摂関を継ぐというもので(忠通−頼長−基実)、忠実はこの案に自信を持っていた。ところが忠通は、頼長に摂関を譲るつもりは全くないと返答し、ついに忠実の堪忍袋(かんにんぶくろ)の緒(お)が切れた。
1150年9月、忠実と頼長は摂関家の正殿・東三条殿(ひがしさんじょうどの)を強制接収した。忠実は忠通を義絶(ぎぜつ、親子の縁を切ること)し、頼長を新しい氏長者(うじのちょうじゃ、氏族の族長)とした。さらに、忠実は摂関家の分裂に終止符を打つべく、宗仁に忠通の摂政罷免(ひめん)を要請した。ところが、宗仁はこれに応じず、忠通を関白に任じる一方、頼長を内覧とした。宗仁は対立する両者の間で、終始バランスをとりつづけ、どちらにもいい顔をしていた。
●忠通の守仁擁立案
1153年、忠通は宗仁に対して、体仁が譲位を望んでいると報告し、その後継者に宗仁の四男雅仁(まさひと)の子・守仁(もりひと)を推薦した。体仁は重度の目の病気を患(わずら)い、失明の危機に瀕しており、譲位は避けられなかった。忠通はなぜ、守仁を推薦したのか。実は忠通は、前年に呈子の妊娠騒動で政治的失態を演じていた。これは忠通の養女・呈子が体仁の子を身ごもったと発表されたが、一年後に、実は間違いだったことが判明した事件である。忠通は、面目(めんぼく)丸つぶれだった。一方、体仁の病状は悪化し、譲位は不可避となっていた。
忠通は体仁の後継者には、体仁と呈子の息子を立てたかったが、まだ生まれていない。そこで次善の策は、誰かを暫定天皇に立て、本命の天皇につなぐことである。顕仁の子・重仁は絶対にダメだった。娘の中宮・聖子の立場を悪くするし、何より忠通自身にとって都合が悪かった。そこで忠通は、「守仁擁立案」を打ち上げた。守仁は仁和寺(にんなじ)の覚性(かくしょう)の弟子となっていて、もうすぐ出家する予定だった。王位継承資格の乏(とぼしい)しい守仁を立て、傍系(ぼうけい)の一代限りの天皇とする。
守仁は王位継承の面で、重仁と比べると不利であった。重仁の父・顕仁は、一度は王位についたことがあるが、守仁の父・雅仁は天皇になったことがなかった。また、これまで宗仁は、重仁のことを、有力な王位継承者として待遇してきた。守仁も重仁と同じく、得子の養子になっていたが、親王宣下もなく、出家が予定され、王位継承権を失うはずだった。彼の父・雅仁には家がなく、兄・顕仁の屋敷に居候(いそうろう)していた。もし、体仁に後継ぎができなかった場合、宗仁の意思によって、重仁の即位が実現する可能性が高かった。最終的に宗仁の反対によって、守仁擁立案はボツになったが、結果として、守仁を天皇候補の一人に押し上げることになった。
(つづく)