「176」 論文 日本権力闘争史−院政編−(3) 長井大輔(ながいだいすけ)筆 2012年2月5日

 

●雅仁の即位

 1155年7月、体仁が17歳で死んだ。宗仁は直ちに、忠通を関白に再任し、葬儀委員長に忠通派の藤原伊通をあてた。その後、側近の源雅定(まささだ)や藤原公教(きんのり)とともに、徹夜作業で新天皇の人選にあたった。その結果、王位継承者の第一の候補と見られていた重仁は落選し、守仁が即位するまでの中継ぎとして、その父雅仁が天皇に擁立されることになった。

 宗仁が「王者の議定(おうじゃのぎじょう、王位継承者の決定)」の相談相手として忠通派を選んだ時点において、以前忠通が提出した「守仁擁立案」を採用し、重仁を除外して、守仁を即位させることは決まっていた。では、何にそんなに時間をかけていたかというと、守仁をどう即位させるかということであった。議論の過程では、「守仁の即時即位案(幼帝案)」や、体仁の同母姉・ワ子(あきこ)をいったん即位させる「ワ子中継ぎ案(体仁−ワ子−守仁)」が出された。しかし、打診を受けた忠通は、いずれの案にも賛成しなかった。

 忠通は対案として、二年前の自身の「守仁擁立案(守仁中継ぎ案)」を修正して、「雅仁中継ぎ案(体仁−雅仁−守仁)」を出した。守仁中継ぎ案は、体仁と呈子の子が誕生するまでの暫定措置だった。だが、体仁は死んだ。すでに、忠通は二年前に守仁を擁立した時点で、顕仁と対立関係に入っていた。ここで二年前の提案通り、雅仁外しとなれば、雅仁とも対立関係に入る。忠通包囲網だけは、何としても避けなければならない。忠通は、雅仁と妥協することにした。

 雅仁は、形式的にいったん立太子されることもなく、即位した(後白河院=ごしらかわいん=)。中継ぎであることの表現である。1155年9月、守仁は立太子され、翌年、宗仁・得子夫妻の娘・?子(よしこ)と結婚した。これにより、守仁は宗仁の「婿(むこ)養子」となった。

 天皇の交代に伴う摂関人事では、宗仁は忠通を関白に、頼長を左大臣に再任した。しかし、頼長は内覧に再任されなかったことに抗議して、以後出勤せず、自宅にこもり続けた。忠実・頼長vs.忠通は、依然として継続した。その一方、忠通が雅仁と妥協して、雅仁の即位が実現したため、「雅仁・忠通同盟」が成立した。

 1155年12月、宗仁と忠実の仲介役だった藤原泰子(高陽院)が死に、宗仁−泰子−忠実ラインが消滅した。忠実・頼長にとっては、政治的に大きな痛手となった。

 

説明: 王室系図01.bmp

●保元の乱

 1156年7月6日、宗仁が54歳で死んだ。宗仁は死の直前、病気回復の祈祷(きとう)をやめさせ、自らの死を覚悟、死後の準備に入っていた。6月1日には、見物人が紛(まぎ)れ込んできて、自分の葬儀が汚(けが)されないようにするため、自らの御所・鳥羽殿(とばどの)と雅仁の御所・高松殿(たかまつどの)の警備を武士たちに命じていた。葬儀は、側近の藤原公教と信西(しんぜい)が取り仕切った。

 宗仁死後、事態は急激に緊迫化し、雅仁・忠通方は、顕仁と頼長が反乱を共謀していると宣伝し、謀反(むほん)の容疑をかけようとしていた。雅仁・忠通方は7月8日、忠実・頼長が諸国の荘園(しょうえん)から兵を招集しようとしているとの噂(うわさ)をもとに、忠実・頼長が謀反の行動を起こしたと認定した。さらに同日、頼長の所有となっていた東三条殿を没収した。顕仁と忠実・頼長による共同謀議という設定は、雅仁と忠通が連携するためにつくられた口実である。摂関家の当主は忠実なのか、忠通なのか、それにけりをつける戦いが始まった。

 忠通は、「忠実vs.忠通」という父子直接対決を避けるため、「雅仁vs.顕仁」という天皇同士の戦いという構図をでっち上げた。忠通は、摂関家の分裂にけりをつけたかった。自分が関白・内覧・藤氏長者を一身に兼ねたかった。忠通にとって、氏長者と摂関家の財産を父忠実から譲り受けるのは、到底不可能だった。そこで、謀反人に対する処罰として、いったん天皇にそれらを没収させ、天皇から改めて、それらを授かるという形をとるしかない。

 公卿たち(約25人、閣僚たち、日本国の最高指導部)の大半は静観していた。宗仁の遺志が、摂関家の和解にあったことを尊重したためである。忠実・頼長に対する圧力は刻々(こくこく)と強まり、彼らの敗北・引退という形で事件が集結するのは、時間の問題と思われた。忠通は、忠実・頼長に圧力をかけて、平和裏(へいわり)に目的を達成するつもりだった。

 7月9日深夜、これまで沈黙を保ってきた顕仁が、予想外の行動に出る。洛東(らくとう、京の東)の白河殿(しらかわどの)を占拠したのである。雅仁・忠通方は、あわてて武士たちに招集をかけ、翌10日の夜7時ころ、約1000騎の武士たちが集まった。同時刻、宇治にいた頼長が、顕仁の呼びかけに応じて、白河殿にかけつけた。頼長は、今すぐには戦闘は起きない、当面は何事も起きないと考えていた。同様の発想は、雅仁・忠通方にもあった。顕仁は、緊張は高まっても、身の危険はないという見通しのもと、白河殿に入った。

 顕仁は、貞仁・宗仁の御所であった白河殿を占拠することにより、自分こそが貞仁・宗仁の後継者であることを示し、いまだ態度を決めかねている貴族たちの支持を得ようとした。顕仁のもとに、公卿たちが次第に集まるようになれば、雅仁・忠通方もおいそれとは手出しができない。雅仁・忠通方が勝ち、忠実・頼長方が敗れれば、顕仁が政権を奪還する機会は永久に失われる。そのためには何としてでも、忠実・頼長の失脚を阻止しなければならない。

 顕仁が占拠した白河殿と雅仁の御所・高松殿の距離は、鴨川(かもがわ)を挟(はさ)んで2kmある。雅仁・忠通方には、すでに高松殿の警備についていた源義朝(よしとも)・源義康(よしやす)ほか、平清盛(たいらのきよもり)をはじめとする武士たちが、続々と集結していた。忠通・基実父子も10日の夕方には、高松殿に入っていた。軍議では、清盛と義朝が即時開戦を主張し、「開戦」と決定された。午後9時、武士たちは戦闘準備態勢に入り、あとは出動命令を待つばかりとなった。

 「開戦」とは決定されたものの、武士たちにはなかなか出動命令が出なかった。開戦の決定は午後9時、武士たちが出動を開始したのは、翌11日午前2時であった。5時間の空白に何があったのか。

(引用開始)

 後白河天皇(引用者註:雅仁)が奥におり、関白忠通がその前に控え、庭に信西(藤原通憲)と源義朝が座した光景である。(中略)

 信西と義朝の二人は、忠通に出動命令を出すよう激しく迫った。(中略)忠通はひたすら黙然として答えずにいたが、ついに折れて出動命令を下した。(中略)

 頭を?きむしって苛立つ義朝と語気強く迫る信西。それに対し、「目をしばたゝ」いて虚空を見やり、押し黙ったままの忠通。(河内祥輔著『保元の乱・平治の乱』、80−81ページ)

(引用終了)

 忠通が出動命令を出したのは、11日午前2時である。なぜ、忠通は土壇場(どたんば)で出動命令を出すのを躊躇(ちゅうちょ)したのか。忠通は、顕仁方との武力衝突を避けようとしていたのだ。軍事的な圧力をかければ、戦わずして顕仁方は屈服して、白河殿から退却するはずだった。忠通は、顕仁方との裏ルートも使って、交渉による解決をめざしていた。

 天皇同士の戦いはあり得ない。起こるはずがなかった。そもそも、この危機の原因は、摂関家の内紛であり、ここまでは雅仁方でも、忠通が主導権を握っていた。しかし、顕仁方はなかなか白河殿から退去せず、忠通は雅仁方において次第に孤立していった。そして、平和解決の忠通にかわって、武力行使を主張する信西が、雅仁方の主導権を握った。信西は実は、雅仁の代弁者であり、それゆえ、忠通は信西の発言を制止することができなかった。

 公卿は、雅仁方には忠通と基実、顕仁方には、頼長と顕仁側近の藤原教長(のりなが)しかいなかった。大半の公卿たちは、みな家にこもって傍観していた。顕仁は、雅仁方は公卿たちの支持を得ていないと見て強気に出たのであり、雅仁方には、忠通の意見を支持するであろう公卿たちがそこにいなかったために、雅仁と信西の強硬路線が反対されることなく、通ってしまった。

 雅仁方の作戦目標は、顕仁方の白河殿からの強制退去である。11日午前2時、雅仁方の強制執行部隊が出動開始。午前4時、白河殿にて強制執行開始。午前8時、顕仁方が白河殿から退去。

(引用開始)

 後白河方の戦術は崇徳方(引用者註:顕仁方)を殲滅(同註:せんめつ)することではなかった。目標は白河殿から崇徳方を追い出すことに置かれていた。戦闘開始の後、しばらく後白河方は攻撃を続けたが、崇徳方は一向に退却する様子をみせない。そこで最後の手段として白河殿に放火し、崇徳方を強制的に追い出して、合戦を終わらせた。勝利を確保するにはそれで十分である。敵味方ともに、死者を出すまでもなかった。(前掲書、89ページ)

(引用終了)

 両者には、大将級の武士に死傷者は出なかったが、頼長だけが、頭部に流れ矢を受ける重傷を負(お)った。

 白河殿から逃げた顕仁は、弟・覚性(顕仁・雅仁の弟)のいる仁和寺にたどりつき、12日出家した。13日、雅仁方に身柄を拘束され、23日讃岐(さぬき、香川県)に配流(はいる)された。太上天皇に対する処分としては、前代未聞の厳罰であり、これを執行したのは雅仁の意向を受けた信西である。

 保元の乱のもう一方の主役・忠実は、頼長を見送ったあと、頼長の息子たちとともに、宇治に留(とど)まっていた。

(引用開始)

 忠実は十一日、合戦の報を聞くや、すぐに奈良に逃れたが、これは忠通の立場をきわめて厳しいものにしたと考えられる。忠通は、忠実が宇治に留まり、恭順の意を表すことを願ったであろう。勝負の決したこの段階においては、父を謀反人にしないことが忠通の課題であったと考えられる。もし忠実が、頼長の行動に自分は関知していないという態度を取るならば、忠実は罪を免れることが可能であるかもしれない。(前掲書、92ページ)

(引用終了)

 奈良には、忠実派の勢力が強い興福寺(こうふくじ)があり、忠実の奈良逃亡は、雅仁方に対する敵対行動と看做されかねなかった。もし、忠実・興福寺vs.雅仁方との戦いとなれば、それはすなわち、摂関家(朝敵)vs.天皇(官軍)の戦いとなり、今度こそ、摂関家そのものが滅ぼされかねない。実際、雅仁方の中では「強硬派」が台頭し、「穏健派」の忠通は主導権を失っていた。だからこそ、忠通は、忠実に早く恭順(きょうじゅん)の意を表してほしかったのである。

 11日、雅仁は、忠通を氏長者に任じる宣旨(せんじ、天皇の命令)を下したが、忠通がそれを正式に受領(じゅりょう)したのは、8日後の19日であった。そもそも、父からの譲渡ではなく、天皇からの氏長者宣下を狙った忠通が、なぜ宣旨の受領を引き延ばしたのかというと、忠通は戦後になって、ふたたび父忠実からの氏長者譲渡に、わずかな望みをかけていたのである。

しかし、忠実からは何の連絡もなかった。13日、頼長は命からがら奈良にたどり着き、忠実に保護を求めたが拒否され、翌14日死んだ。そして忠実は15日、忠通に書状を送る。忠実はなかなか、敗北という厳しい現実を認めることができなかったが、息子の惨状を知って、ついに諦めたのである。

●戦後処分

 戦後処分では、@忠実は「謀反人」と認定され、A忠実と頼長が領有する荘園群と所領を没収することが決まった。@はすでに、忠実は雅仁に対して「降伏文書」を提出していたが、顕仁を「A級戦犯」として流罪にするため、共謀理論で、忠実も「A級戦犯」として取り扱い続ける必要があったためである。Aは実際には執行されず、忠実の荘園群と氏長者領はほとんど、忠通に継承された。

 顕仁は讃岐に配流、忠実は洛北(らくほく、京の北)の知足院(ちそくいん)に幽閉、頼長は戦傷死、顕仁の子・重仁は出家した。藤原教長は14日自首し、翌15日から取調を受け、調書が作成された。頼長の四人の息子たちと教長は流罪と決定し、8月3日執行された。武士は、20人が処刑された。

●あとがき

 この通史は、藤原頼通に関しては坂本賞三『藤原頼通の時代』、貞仁に関しては美川圭(みかわけい)『白河法皇』、宗仁政権期から保元の乱までは、河内祥輔(こうちしょうすけ)『保元の乱・平治の乱』を土台としている。特に、通説とは異なる説を展開する『保元の乱・平治の乱』には、最も影響を受けた。そのほか、本文中で引用・出典を明示した以外の参考文献は、下向井龍彦(しもむかいたつひこ)『日本の歴史07武士の成長と院政』、元木泰雄(もときやすお)『藤原忠実』、橋本義彦『藤原頼長』である。

(終わり)