「177」 論文 歴史メモ:信仰と信念と理想から見た現代文明の本質(1) 鳥生守(とりうまもる)筆 2012年2月12日

  
新渡戸稲造

 新渡戸稲造(一八六二〜一九三三)は、キリスト教徒であり、人生の三分の一を欧米で暮らした国際人である。でありながら、『四書』『五経』『十八史略』『通鑑』などに言い知れぬ味わいを感じ、「武士道」をも愛する、東洋文明の良さも知る人である。

 
石原莞爾

 石原莞爾(一八八九〜一九四九)は、「戦争思想の天才である。彼ほどの軍事の天才はそうそういるものではない」(副島隆彦『時代を見通す力』)。彼は満州までだとし、ここで数十年後(一九七〇年頃)に行われる最終戦争のための実力を養おうという思想だった。まだまだ、「中国本土には手を出すな」「間違ってもアメリカと戦争してはいかん」と言い続けた人である。

 
吉村昭

 吉村昭(一九二七〜二〇〇六)は、大東亜戦争のことを体験者へのしつこいまでの徹底的な取材を行い、それに基づいて小説にした。しかし体験者たちが次々と世を去って証言が得られなくなると今度は、史料が豊富にある江戸時代後期から末期のことを、小説にした。つまり、事実を徹底的に調べ上げ、事実のみを小説に書こうとした人である。

 石原は、『世界最終戦争論』(昭和十五年初版刊行。『最終戦争論』として中公文庫から二〇〇一年刊行)を残した。新渡戸と吉村の二人も、知り得たことを捻(ね)じ曲げないで堂々と率直に書いている。彼らは偉大である。幸いにして彼ら三人は、多くの著書を残している。それらによって過去の歴史がかなり分かるようになっており、日本の宝となっている。それらはいずれもともすれば忘れられがちであるが、日本の読書人ばかりではなく青少年たちにおいても必読の書ある。

 彼ら三人は、信仰、信念および理想を持っている。私たちは彼ら三人と副島隆彦氏の本を通して歴史を振り返ることができる。

 第二次世界大戦が終わった時、世界の国々はアメリカに従おうとしていた。アメリカはその時には世界の隅々まで制圧できる軍事力をもっていたから、アメリカが王道主義を貫けば、世界はアメリカの大統領を盟主にして統一されていた。それは戦争の消滅を意味し、世界各国の協和と世界平和を意味することだった。しかしアメリカは覇道主義を貫き、王道文明を目指したケネディ大統領兄弟は、暗殺された。それで世界には平和と安定がもたらされていない。

 石原莞爾は、日本は王道文明を掲げ、覇道文明のアメリカと決戦し、これに勝利して真の世界統一を成し遂げようという思想だった。しかし日本(大日本帝国)は王道を行わず、かつ準備不足のまま中国および米国と戦争を起こし敗北した。日本は王道文明を行える国ではなかった。石原の願望は適わなかった。日本人は彼を理解できなかった。アメリカも王道文明を行える国ではなかった。日本もアメリカも失格だった。だから今だ、世界には戦火が絶えない。これが歴史の真実だ。世界は現在、王道文明を行える国を待っているのである。その国が今、台頭しつつある。この国に世界が従うようになると、真の世界統一が成り、世界に平和と安定が来るだろう。

 大体以上のような現代像が浮かび上がって来る。信仰や信念あるいは理想のない書物は読んでも何の役にも立たない。心に刻まれるものがない。信仰と信念および理想をもつ彼ら三人と、副島隆彦氏の本を手がかりとして、歴史を追ってみる。

●ギリシア文明は世界四大文明のひとつ

 鴨川光(かもがわひろし)氏は、二〇一一年八月に「副島隆彦の論文教室」上で発表された論文「「153」 論文 日本人の中国像とは西洋の伝統的中国像である―『西洋の思想と文化における中国像』(1) 鴨川光(かもがわひろし)筆 2011年8月21日」において、《四大文明とは、メソポタミア、インド、中国、ギリシアである。エジプトはメソポタミア文明の一部》と述べている。(鴨川光氏の論文へは、こちらからどうぞ)

 普通は、エジプト文明、メソポタミア文明、インド文明、中国文明の四つとされている。私たちが五〇年ほど前に学校で習ったのは四大文明であり、今でもそういうことになっている。しかし現代文明への影響度の結果からみると、鴨川氏の言っていることの方が正しいと思う。


四大文明

      
ソクラテス       プラトン    アリストテレス

 一般においては、ソクラテス(Socrates)、プラトン(Plato)、アリストテレス(Aristotle)を生んだギリシアは善き文明だとされている。しかし、ギリシア文明はソクラテスを処刑し抹殺した文明であるということはだれでも知っている。この文明は戦争ばかりしていた。他の文明と融和し共存共栄することはなかった。


古代ギリシア

 同じ民族内でも、小さなポリスに分かれて同じ民族同士で戦争ばかりやっていた。オリンピアの祭典(古代のオリンピック、前七七六年に始まったと伝えられている)などの体育競技は、せめて競技期間中は戦争を停止しようよ、というものであった。その競技の種目には、競馬や戦車競走もあったが、競走、槍投げ、円盤投げ、幅跳び、レスリングの五種が、最も重要視された。この五種目は実際の戦いに役立つものだったからである。実戦においては、走力、投げる力、跳ぶ力、組み打ちの術はすぐに役立つのだ。

 ヘレニズム時代にオリエントに建てた都市にはかならず競技場と体育訓練所が設けられたという。競技場はスタディオン(stadion)、体育訓練所はギムナシオン(gymnasium)と呼ばれた。それほどに戦争を第一義とする文明だった。ギリシア文明は決して善き文明であったとは言えない。

 このギリシア文明がローマに伝わり、ローマ・カトリック教会にも伝わり、それを介してヨーロッパへ伝わった。ヨーロッパ文明はギリシア文明を大きな要素として取り入れ、戦争を繰り返した。内部抗争をしながら、外部とも戦い続けた。まるで古代ギリシア、古代ローマとそっくりである。十字軍然り、レコンキスタ然り(この二つの推進主体はローマ・カトリック教会である)、この間に軍事力に異常な発達が成し遂げられた。そしてそれに次いでアフリカ大陸への侵略、アメリカ大陸(西インド)への侵略、それからアジア(東インド)への侵略が始まった。これほどまでに戦争を勃発させた文明は外にない。

 ヨーロッパ文明では軍事技術の格別の発達をみた。ヨーロッパ文明ほど、軍事技術を発展させた文明は外にない。このヨーロッパ文明をアメリカが継承している。現在、このヨーロッパ文明が世界を覆い支配しており、アメリカとヨーロッパは今も新型兵器の開発に余念がない。

 この文明が戦争を繰り返すのは、自立した経済を持たないからである。自分たちの国家や社会が生産したもの(およびそれらを用いた公正な貿易)で生活すれば、戦争を起こす必要はない。しかしヨーロッパ文明では外部から収奪してこなければ、国家や社会が破綻してしまう。ヨーロッパ文明は地道に協和して働かないからである。スポーツの勝者を法外に賞賛し過度に優遇するのに、地道で基本的な生産労働や家事労働には敬意を払わないで蔑ろにしてしまうのだ。地味に、かつ地道に生産する人々を育てないばかりか、彼らの生活と仕事の場を壊してしまうのである。それで社会は行き詰まり、戦争を起こすしか方法がない、ということになっている。

 あのアメリカも、あれほど豊かな国土が与えられ産業の全般的な発展をしたにもかかわらず、その国土は少数の者たちの手に渡って有効に使われなくなり、産業は廃れ、今や破綻国家になってきた。思えばアメリカは、一九二九年に始まる大恐慌で一度は破綻していたのである。その時は第二次世界大戦が起こってたまたまうまくことが運んで、アメリカは復活できた。その時アメリカは世界の半分は思い通りにできる状態だった。それにもかかわらず、その活気は長く続かず空洞を呼び込み、活気と空洞を繰り返しながら、二十一世紀になってまた破綻することが明らかになった。ということでこの間たえず、財政危機、金融危機、通貨危機が世界のどこかで起き、戦争がどこかで起こされ、人々の生活を暗く不安定にしてきた。そういう意味で、現在でもギリシア文明が生きており、それが世界で強制されるに至っているのである。


ペリクレス

 ギリシアでは、前五世紀後半(ペリクレス Periclesの時代)にソフィスト(sophistes)が現われた。ソフィストとは授業料をとって富裕者の子弟に主に「弁論術(Rhetoric)」を教える教師であった。人気のあるソフィストは高額の授業料を得ることができた。民主政のアテネでは、政治的活動をこころざす若者にとって「弁論術」を身につけることは、民会での議論(政争)に勝つために必要であった。

 認識の相対性を唱えたソフィストは、その要請に見合う教師だった。プロタゴラス(?〜前四一四頃)は、ソフィストの第一人者であった。「人間は万物の尺度なり」とする相対主義の立場をとり、真理の絶対的基準を否定したという。同時代のソクラテス(?〜前三九九)は、人々が善く生きるために知識を求めた。青年たちとの対話から真の知識を探求する活動をし、授業料はとらなかったし、その知識の探求は議論に勝つためや「弁論術」を磨くためのものではなかった。ソクラテスはこのようにソフィストと全く異なった活動をしたのだが、彼はソフィストとみなされがちだった。表面的にはソフィストたちに似ていたのだ。ともかくギリシア文明の本流は、「弁論術」を磨くことを非常に重要視し、ソクラテスを処刑したのである。

 「弁論術」すなわち言葉の世界に生きることは、自分を権威づけるとか、政敵を追い落とすとか、開戦の口実を作るとか、そういうことに便利だったというわけだ。そのことがギリシア文明の学問、思想を強固にしたが、同時にギリシア文明の学問、思想は、政治、外交、経済など自分たちの生活に対して大きな悪影響を及ぼすことになった(事実、ギリシア自体は、ほどなく混迷と衰退に陥った)が、これが現在のヨーロッパ文明に至るまで受け継がれ、現在の世界を覆ってしまった。

 ギリシア文明とヨーロッパ文明の共通の特徴は、

一、経済的に自立した社会にならないこと。
二、戦争を起こして侵略・収奪せざるを得ないこと。
三、相対主義的「弁論術」で飾り、自分の悪行を善なる行いに見せること。
四、科学技術を発展させたこと。

という点があげられる。ギリシア文明は既存の風俗・習慣・思想などを疑い見直すという利点も備えたものであったが、大きな根本的な欠点を備えていたのである。この欠点ゆえに既存のものを見直すという利点も善用されることは少なく、悪用されることが多かったのである。現在のヨーロッパ文明、すなわちアメリカとヨーロッパは、その欠点を除去すべきであったが、近現代になってもそれを除去しえないままなのである。そしてその利点と欠点が現在の世界を大きくゆさぶっているのである。

 このようにギリシア文明は良かれ悪しかれ、善悪を別にして人類の歴史に大きな力を振ってきた。だからギリシア文明は大文明なのである。そのギリシア文明を四大文明の一つとした、この鴨川氏の文明観は卓見であり重要である。現在でも世界では、この四大文明の見方をしてないようだが、私はこの鴨川氏の見方に賛成である。間違いなく、ギリシア文明は人類にとって大文明にちがいないのである。

 なお私は、現在の四大文明にギリシア文明を加えて五大文明とするのもいいと思う。それでも何ら不都合はないと思う。またヨーロッパ文明といっても、ここで述べたヨーロッパは南欧および西ヨーロッパのことであり、中央ヨーロッパ、北欧、東欧は含まれないと思われる。なぜならば、後者は裕福と言えないまでも一応経済的に自立している(植民地すなわち強制的収奪がなくてもなんとかやっていっている)からである。

●啓典宗教を考える

 小室直樹氏によると、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教は啓典宗教である。

 
小室直樹

(引用はじめ)

 「啓典宗教(revealed religion)」とは、啓典(正典=canon, Kanon, canon)を持つ宗教である。ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教は啓典宗教である。仏教、儒教、ヒンドゥー教、道教、法教(中国における法家の思想)などは啓典宗教ではない。「啓典」とは、最高教典のことである。「啓典」は、絶対であるか、ほとんど絶対である。(小室直樹著『日本人のための宗教言論』、三一ページ)

(引用おわり)

 だから、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教が三大啓典宗教である。これを比較してみる。

 まずユダヤ教であるが、よく考えてみるとこの宗教は自分たちの宗教はどういうものであるかを人類全体に対して説明をする姿勢がほとんど全くと言ってよいほどない。自らの宗教の説明に不熱心である。かつて十年ほど前に東京堂出版からは、滝川義人『ユダヤを知る事典』と高尾利数『キリスト教を知る事典』(一九九九年)および渥美堅持『イスラーム教を知る事典』というような本がシリーズで出版された。これを見て明らかなように、ユダヤ教だけが自分の宗教を説明しないのである。ということでユダヤ教は布教活動をしないばかりか、自分の宗教を世界に向かって説明しない宗教なのだ。すなわち公明さが全くない。だからこのことによって、ユダヤ教は人類のためになる真っ当な宗教とは言えない、と結論付けられる。ユダヤ教は信用できない、信用すべきでない、ということになる。

 次にキリスト教であるが、この宗教は、人類全体に対して説明は、量的には十分に行われている。その点はユダヤ教とは明らかに違う。しかし、神はどういうものか、神はどう言ったか、キリストはどう言ったか、というようなことの説明があまりない。使徒や信者がどうしてどうなったという話がほとんどである。その点ではユダヤ教に似ているのだ。だからやはり、キリスト教は、神やキリストについての説明が少ないので、真っ当な宗教とすることはできない。だからキリスト教は近代以後大金を注ぎ込んで布教を精力的に行ったにもかかわらず、信者は増えなかったのだ。

 最後にイスラーム教であるが、この宗教は、神とはどういうものか、神は人間にどういうことを勧めどういうことを禁止しようとしたか、神はどういうことを言ったか、開祖ムハンマド(マホメット)はどんなことを言ったか、というようなことをいつも微に入り細に入りよく説明する。そしてそれらを常によく考えようとしている。読み通すのは結構たいへんだけど、この宗教はどういうものであるかはそういう説明を読めばそれなりに明らかになる。小室直樹氏は、《イスラーム教は、「宗教の戒律」と「社会の規範」と「国家の法律」が全く一致》し、イスラーム教は本来の宗教に最も近い宗教である、この宗教を理解すれば他の宗教の至らなさがよく分かってくる、と述べた(前掲書、六七ページ)。私もイスラーム教は真っ当な宗教だと思う。

●通史(日本の歴史)に現われない国際人、思想家としての新渡戸稲造

 新渡戸稲造(にとべいなぞう、一八六二〜一九三三)という人は、《教育者、農政学者。岩手県出身。札幌農学校卒。アメリカ留学ののち、京大教授、一高校長に就任。キリスト教信者として国際親善に尽くし国際連盟書記局次長もつとめた。東京女子大初代学長などを歴任。カナダで客死。著書は「農業本論」「修養」「偉人群像」など》と、国語辞典に載っている。文久二年に、南部藩の盛岡で生まれた人だ。夏目漱石より五歳年上になる。

夏目漱石

 夏目漱石(一八六七〜一九一六)という人は日本人なら誰にでも知られた人だが、国語辞典には《小説家、英文学者。東京出身。本名金之助。東大英文科卒。大学時代正岡子規と親交があり俳句をつくる。松山中学教諭、五高教授を経て、明治三三年イギリスに留学、帰国後一高、東大で英文学を講義。同三八年「吾輩は猫である」により作家として出発、「坊っちゃん」「草枕」などを発表して反自然主義作家として重きをなした。同四〇年教壇を退き、東京朝日新聞に入社、執筆に専念。近代的知性に基づき倫理的主題を追求した。作品「虞美人草」「三四郎」「それから」「門」「彼岸過迄」「行人」「こゝろ」「道草」「明暗」など》とある。こちらは新渡戸より詳しく書かれている。 夏目漱石は慶応三年生まれである。大正五年(一九一六)に亡くなっている。第一次世界大戦の最中ということになる。新渡戸稲造が亡くなったのは昭和八年(一九三三)である。新渡戸は漱石よりも早く生まれ、そしておそく死に、合計で二二年も長く生きている。

 漱石の海外生活は明治三三年(一九〇〇)からのイギリス留学のたったの二年間だけである。漱石はヴィクトリア英女王の葬列を見ることができたが、在英中は総じて下宿に閉じこもることが多かった。それに比べて新渡戸の海外生活は明治一五年(一八八七)の渡米を皮切りにして延べにして二三年に及び、それもアメリカ、イギリス、ドイツなど、多くの国々に住む経験をもち、そしてその間多くの人々と交わり、多くの事柄を見聞したのである。夫人はアメリカ人である。

新渡戸は自身、昭和三年の講演において《ただし、私が彼方(あちら)に二十三年おったといっても、たいがいアメリカ、イギリス、スイス、フランス、ドイツ等で、ヨーロッパにいたとはいえ、スペイン、ポルトガル、あるいはギリシアなど、はなはだ不案内である。またアメリカにおったといっても、南米の事情はさらに知らない。ゆえに、私の西洋の経験というのは、いま言ったような国々のこととご承知を願いたい》(新渡戸稲造『西洋の事情と思想』、一八ページ)と言っている。世界全体を知っているわけではないと謙遜しているが、人生の三分の一をそれらの国々で過ごしたのである。

 国際連盟書記局次長をつとめたというのも、その実態を知れば半端なことではないことがわかる。新渡戸は国際連盟設立時から関わっており、国際連盟設立の説明講演のためにイギリス各地を旅行してまわっている。それもあって事務局次長をおそらく設立当初から六年間つとめ(一九二〇〜二六年)、それに関係してジュネーブには八年間住んだという。つまり新渡戸は国連の設立事業にも、設立後の国連の事業にも深く参加していたのである。

 また日本は昭和八年(一九三三)三月二十七日国際連盟を脱退して日米間の関係が悪化した直後の秋にはカナダのバンフにおける太平洋会議に出席している。それを終え、さらに重大な使命を帯びてニューヨークに向かった途上、突如発病し、ついに同年一〇月十六日にヴィクトリアの一病院で亡くなったのである。この太平洋会議が国際的にどのようなものであったのか、そこで出席者たちがどのような人物であり、そこでどのような発言があったかは、当時の歴史を知る上で非常に重要なポイントであるだろう。が、その内実を知らせる人がいない。

 新渡戸はドイツで哲学博士号を与えられ、そのほかに農学と法学という計三つの博士号を持つ学者であった。新渡戸は、人生の三分の一を外国で過ごし、アメリカ人を妻とし、ドイツ語と英語で学術的著作を世に問い、日本の大学の教授をつとめ、西洋の諸大学で講義をし、ジュネーブの国際連盟のために働いたのである。また新渡戸は、人生のあらゆる問題に興味を感じ、かつ深く研究を進める多角的な性格と天分の素質とに恵まれ、学者としても、思想家としても、文学者としても、政治家としても、宗教、教育家としても、また外交家としても、偉大なるものがあった。そして一般読書人に読みやすい著作も多く残している。

 以上のように新渡戸は当時においては日本においてはもちろん、世界的にもトップクラスの国際人であった。だから新渡戸稲造は、夏目漱石と同等に、いやそれ以上に注目され広く知られてしかるべき人物であった。しかし新渡戸は世界において、また日本において、その後それほど知られていず、ほとんど無視され忘れ去られている。日本の歴史(中央公論社)にも、第二十二巻の隅谷三喜男『大日本帝国の試練』に台湾の農業技術者、そして植民地政策者として、あるいは一高(現東京大学教養学部)校長として、わずかに登場しているだけである。

今井清一『大正デモクラシー』にも、大内力『ファシズムへの道』にも、登場しないのである。新渡戸は五千円札になったほどの人物だが、これでは忘れ去られて当然である。私は何度でも言うが、歴史学者(大学の歴史学教授)の書いた歴史書は、部分的には役立つことがもちろん散見できるが、それにもかかわらず全体の歴史像を大きくゆがめるものとなっているのだ。歴史像をうまくゆがめ、マインド・コントロールのための人為的な歴史像をうまく作り上げること、それが日本(および世界)の大学の歴史学教授の仕事となっている。

 歴史像をうまくゆがませ、作為した歴史像をうまく作り上げること、これがギリシア・ヨーロッパ文明で鍛え上げた弁論術・修辞術が得意とするところであり、その歴史像の意図的、恣意的な作り替えはギリシア文明(のソフィストたち)に起因するのである。現代の日本および世界の大学の歴史学教授は、それを踏襲する者たちである。真実の歴史を書く人間は、大学の歴史学教授にはなれないのだ。大学教授たちの歴史書をしつこく何度も読んでいると、そういうことが次第に明らかになってくる。

 とにかく、新渡戸稲造は日本人に広く知られるべき人であった。彼の本は青少年たちの必読の書である。それを通して、彼の事績や思想は青少年に伝えられるべきである。なぜなら彼はいろいろなことに関して、自分の考えを非常に率直に述べているからだ。新渡戸は一九八四年から二十年間、5千円札の肖像になった。これを誰が推進したかを私は知らないが、これは快挙であった。それは新渡戸が日本(の青少年)に広く知られるチャンスであった。しかし知られたのは名前だけで、彼の事績や思想はほとんど知られていないままである。

 それはどうしてか。マスコミや学校の教師(教授)たちが、新渡戸のことを正確かつ明確に、一般の大人や子供たちに紹介しなかったからだ。新渡戸が、外国生活が長かったこと、国際連盟事務次長をしていたこと、ドイツ国などで博士号を取得したこと、青少年むけの本を書いたことなど。こういう新渡戸に関する基本情報さえ知っている日本人はきわめて少ないのが現状なのだ。(ここ数十年は、新渡戸に限らず、歴史上の人物の人物像が薄っぺらくなっている。これもブレイン・ウォッシュ、つまりマインド・コントロールの故だ。)

(つづく)