「184」 論文 歴史メモ:信仰と信念と理想から見た現代文明の本質(6) 鳥生守(とりうまもる)筆 2012年4月1日

●クエーカー教とはどういうものか 

 
新渡戸稲造

 新渡戸稲造・須知徳平訳『武士道』(講談社、一九九八年、原書一九〇〇年)の著者プロフィールによると、次のようになっている。

《[著者プロフィール]
新渡戸稲造(Nitobe Inazo)
農政学者、教育者としても知られる新渡戸稲造は1862年、盛岡生まれ。
父は南部藩勘定奉行。祖父と父は「十和田市の開拓の恩人」と称えられている。
東京英語学校を経て1877年、札幌農学校2期生として入学、内村鑑三と親交を結ぶ。在学中にキリスト教者となる。
卒業後、開拓使御用掛に。
1884年、東京大学を退学し、渡米。ジョンズ・ホプキンス大学在学中にクエーカー教徒となる
1887年、ドイツのボン大学などに留学。米独で農政学、農業経済学を専攻。
1891年、メリー・エルキントンと結婚。帰国して、札幌農学校教授となった。
1899年、アメリカで静養中、『武士道』を執筆出版する。翌年に帰国。
台湾総督肘の技師、京都大学教授を経て、第一高等学校の校長となり、リベラルな学風を興す。
1909年には東京大学の教授を兼ねる。
女子教育にも力を注ぎ、1918年には、東京女子大学初代学長となる。
1920年、国際連盟事務次長となり、1926年まで国際平和に尽くす。
「国際連盟にはニトベほどの人傑はいない。彼はジュネーブの星である」と謳われた。
1929年、太平洋問題調査会の理事長に。
1933年、カナダのバンフでの太平洋会議に出席、発病し、死去。
本書『武士道』のほか『修養』『東西相触れて』の著書や論文など多数を執筆し、その国際的な広い視野に立った識見と洞察は、明治・大正・昭和の3代にわたって、青少年をはじめ多くの人に多大な影響を及ぼした

 これをみれば、新渡戸は非常に活発な人生であることが感じられる(事実、新渡戸には書ききれない活動が随分ある)。これによると新渡戸は、札幌農学校在学中の一八七八年(十六歳)ごろキリスト教者となり、一八八五年(二十三歳)ごろクエーカー教徒になったようだ。キリスト教を良く思っていないそんな私でも、新渡戸のキリスト教はたいへん好ましく感じられるのだ。ではそのクエーカーとはどういう宗教なのか。百科事典には次のようにある。


ジョージ・フォックス

 ≪17世紀半ば、イギリスに発生したプロテスタントの一派。クエーカーは「ふるえる人」を意味する。信徒が礼拝中、霊感をうけて体をふるわせたことから命名されたとも、開祖ジョージ・フォックス(George Fox)の言葉「主の言葉にふるえよ」にもとづいて、アメリカの一判事が命名したともいわれている。本来の名は友会(Society of Friends) 。フレンド派ともよばれる。

 フォックスはおさないころから、するどい宗教的感受性をもっていた。教会や聖職者のあり方に失望し、孤独な放浪生活をおくったのち、1647年に「神の声」をきいた。以後、布教活動に専念し、心の中にキリストをとらえることをおしえた。これは、「内なる光」という概念に発展し、政治運動化していた当時のピューリタンとはことなる、内面的な信仰を強調する教派が形成されていった。

 クエーカーの教義によれば、神の啓示は直接的かつ個人的なものであり、すべての人がそれぞれの魂の中に神の世界を感じとることができる。このような内的な啓示の受け取り方が「内なる光」とよばれ、教理の中心理念となっている。彼らの礼拝も、「内なる光」にみちびかれた個人が自由におこなう無形式なものである。

 クエーカーは、聖書のキリストの言葉、とりわけ「いっさい誓いをたててはならない」(「マタイによる福音書」5章34節)と「悪人に手むかってはならない」(同書5章39節)を文字どおりに解釈しようとした。そのため、宣誓を拒否し、戦争反対をとなえ、しばしば教会や国家の権威を否定した。

 アメリカへの移住は1660年代。18世紀にはコネティカット州とサウスカロライナ州をのぞく全米にひろがり、定着した。アメリカ先住民との友好関係をたもち奴隷制にも反対するなど、社会改革の草分け的存在となった。

 1980年代の統計では、世界約30カ国におよそ20万人のクエーカー教徒がいる。そのほとんどはアメリカで、約11万7000人。クエーカー発祥の地イギリスは約2万1000人ほどである。日本には1886年(明治19)につたわり、新渡戸稲造などがその流れにふくまれる。英語教育に貢献し、いまもフレンド学園を経営している≫


今上天皇の英語教師ヴァイニング夫人もクエーカー教徒

 クエーカーの教義は自分の魂の中に神を感じ、その内的な啓示を受け取り、個人が自由に行う無形式のもの、ということである。そして「一切の誓いを立ててはならない」「悪人に手向かってはならない」を最低限の信条としたようだ。そしてしばしば教会と国家の権威を否定したのである。信者は世界三十ヵ国におよそ二〇万人ということで、それだけしかいないということだ。これは人数的には、いるかいないかというくらいの、驚くほどのごく少数勢力だ。

 ところでこの、「一切の誓いを立ててはならない」「悪人に手向かってはならない」という最低限の信条であるが、聖書には確かにそう書いている。それを次に示す。いずれもイエス・キリストの山上の説教(Sermon on the Mount)である。腰を下ろして行った説教である。聞き手は群集ではなく、弟子たちのように思われる。聖書では、下記の《 》内はイエスの言った言葉となっている。なかなか含蓄のある言葉である。

山上の説教

 《また、あなた方も聞いているとおり、昔の人は、「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」と命じられている。しかし、私は言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛の一本すら、あなたは白くも黒くもできないのだから。あなた方は、「然り、然り」「否、否」と言いなさい。それ以上のことは、悪いものから出るのである。》(マタイによる福音書第五章33−37、日本聖書教会『新約聖書』)

 《あなた方も聞いているとおり、「目には目を、歯には歯を」を命じられている。しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとするものには、上着をも取らせなさい。誰かが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求めるものには与えなさい。あなたから借りようとするものに、背を向けてはならない。》(マタイによる福音書第五章38−42、前掲書)

 「一切の誓いを立ててはならない」という戒めは、天も地もエルサレムも自分の身体(の一部)さえも自分のもの(所有物)ではない。おそらく自分の持っているお金も自分のものではない。その自分のものでない物を担保(保証)にして誓いを行うなどできるわけがないではないか、というわけだろう。

 そしてまたここでは記していないが、人間は誓ったことを守り通せるほどの能力など有していないのだ、いつなんどき誓いを破らねばならないことが起こるかもしれないのだ、だから、一切の誓いを立てるな、とそういうことだろうと思う。私はそう解釈するのですが、どうでしょう。

 「悪人に手向かってはならない」という戒めは、次の説教の「敵を愛しなさい」と同じく、天の父(主、神)の子となるために、父と同じように振舞いなさい。父の行いを真似て、父と同じことを行おうとしなさい。だから天の父と同じように、悪人に手向かってはならないのだ、そうすれば天の父の子となれるし、そうしなければ天の父の子にはなれない、とそういうことでしょう。これが私の解釈です。「敵を愛しなさい」の説は次のとおりである。

 《あなた方も聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい。あなた方の天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さるからです。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなた方にどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなた方の天の父が完全であられるように、あなた方も完全なものとなりなさい。》(マタイによる福音書第五章43−49、前掲書)

 私は中学生のとき、これらの一部を聞きかじって驚いたものだ。凄いもんだ、とも思った。そういう記憶が確かにある。しかし正直言うと、高校生になって、模擬試験を使って受験勉強に日々励まされているうちにそれはすっかり忘れました。以後今日まで何十年も忘れてしまっていた。キリスト教徒は何なのか、全く分からなくなっていた。この山上の説教を読んで、イエスの思想がかなり分かるようになりました。

 キリスト教を語る大学・大学院の歴史学者たち、偏差値秀才の東大法学部出身の財務官僚・法務官僚たち、そして最高裁判事や最高検察庁の検事たち、この何でも知っているような顔をして自分は人並み優れた人物だと思っている人たちは、イエスの思想やイエスが行なった説教を完璧に知っているだろうか。山上の説教の名前までは知っているかもしれない。しかしその内容を正確に知っているのだろうか。

 国民の上に君臨しているこれらの人々がどの程度知っているのか。また、これらの言葉(戒め)をどのように思うのだろうか。テレビかラジオに出てきて示して欲しい。これらの人々には、国民の前で、偏差値秀才だけではないところ、国民に心底から信頼されるような知徳をもっているところを見せて欲しいものである。これら権力を持った人々は年に一回か二回、定期的に国民の前に出てきて、どんどん御自分の溢れんばかりの才能を示し、自己PRして欲しい。NHKなどのメディアをそのように使って欲しい。そういった意味のメディア出演は、国民は大歓迎するであろう。

 またそうしたメディアの会長や社長も、そして各社の解説委員の方々も、どんどん国民の前で自己PRして欲しいものだ。遠慮することはありません。国民はそのような行動は大歓迎するでしょう。アメリカ・ヨーロッパなどの大国は、ほとんどすべて(表向きは)キリスト教国です。それら先進国の実権を握っている人はほとんどキリスト教徒でしょう。

 だから、日本の枢要な地位にいる人々がキリスト教を正確に知ることは必要不可欠でしょう。ゆえに国際関係上、キリスト教を知っておくことは最重要であり、知っていれば知っているほど、日本国にとっても彼ら本人にとってもなにかと非常に役立つはずです。キリスト教を深く知ること、それは決して無駄なことではなく大切なことだと思います。

 イエス・キリストは「一切の誓いを立ててはならない」と弟子たちに説教したのである。だからこれは明らかに、条約や契約を結ぶな、という戒め(禁止)である。それなのになぜ、アメリカ人やイギリス人たちは条約(協定などを含む)や契約書を交わしたがるのであろうか。

 日米安保条約、日米地位協定に賛成のキリスト教徒の人々、TPP協定を推進しているキリスト教徒の人々は、旧教徒であるか新教徒であるかを問わず全員、破門されるべきではないのか。彼らはキリスト教徒と名乗る資格はないのではないでしょうか。それらに対して黙認しているローマ・カトリック教会の法王以下も全員、キリスト教徒の資格はないのではないか。またアメリカ大陸に初航海したコロンブスなど当時のキリスト教騎士団の騎士たちは、何かにつけ神の名において(相手を殲滅する)誓いを立てたのである。それらの人々はすべて、偽キリスト教徒だ、と私は判断します。

 イエス・キリストは「悪人に手向かってはならない」と弟子たちに説教したのである。「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬も向けなさい」と、イエスは弟子たちに言っている。だからこれは明らかに、報復戦争、経済制裁などをするな、という戒め(禁止)である。それなのになぜ、アメリカやイギリスは報復や制裁をしたがるのか。

 アフガン戦争やイラク戦争に賛成のキリスト教徒の人々、対テロ戦争を推進する人々は、旧教か新教かに関わらず全員、破門されるべきではないのか。キリスト教徒と名乗る資格はないのではないでしょうか。それに対して黙認しているローマ・カトリック教会の法王以下も全員、キリスト教徒の資格はない。それらの人々はすべて、偽キリスト教徒だ、と私は判断します。どうでしょうか。

 報復、制裁と言えば、今現在(二〇一二年一月)はアメリカの対イラン制裁が浮上している。新聞記事によると次のようである。


英国大使館占拠の様子

 《昨年(二〇一一年)、イランのイスラム体制派民兵組織「バシジ」(イラン体制派「革命防衛隊」傘下の民兵組織)に属する学生らが11月29日午後、 在イラン英国大使館を襲撃し、約8時間、大使館の一部を占拠し、(イラン政府に)英国大使の即時追放と対英関係断絶を求める事件が起きた。これに対して、イラン警察は29日夜、大使館を占拠していた学生らを退去させた。またこれとは別に、テヘラン北部の別の英国施設にも29日午後、学生ら約200人が侵入し、英国人職員6人を一時拘束した事件もあり、これに対しても、イラン警察は排除し、学生ら12人を逮捕したと言う。イラン外務省は29日、「(襲撃は)許せない行為であり遺憾」との声明を発表した。

 この事件に対し英米はすぐに反応を発表し、英国のキャメロン首相は29日に発表した声明で「イラン政府は重大な結果を見ることになる」と述べ、イランに対する報復措置を示唆し、オバマ米大統領も「容認できない」と非難したと言う。そして英政府は11月30日、テヘランの英国大使館襲撃事件への報復措置として、駐英イラン代理大使に対し、 在英イラン大使館の即時閉鎖と外交官全員の48時間以内の国外退去を命じたのである。英政府はまた、テヘランの英大使館を閉鎖し、 外交官全員を国外退去させた。両国大使館の閉鎖に伴い、英・イラン関係は「最低レベル」に縮小させた。

 そしてさらにヘイグ英外相は議会で、襲撃事件の中心となった民兵組織「バシジ」を「イラン体制の一翼が動かす組織」だと指摘し、「襲撃が体制の同意なしに行われたと考えるのは空想だ」とイランを厳しく糾弾し、「事件が外交官の保護を定めたウィーン条約違反であることは世界の誰にとっても明白である」と述べた。また、ヘイグ外相は、サレヒ・イラン外相に電話し「最も強い言葉」で抗議したという。 一方で、ヘイグ外相は今回の措置について「外交関係の完全な断絶ではない。両国の関係を最低レベルに低下させる行動だ」と説明し、イラン核開発や人権問題などで両国の代表が交渉する余地を残したのである(引用者注、つまりもっと圧力をかけてイランを追い詰めようという意図である)。

 ヘイグ外相によると、30日に始まる欧州連合(EU)外相会議は、襲撃事件や核開発問題でイランへの「追加措置」を検討する。 英国とイランは79年2月にイランでイスラム革命が起きて以来、関係悪化と修復を繰り返してきた。 米国はイスラム革命後の79年11月の米国大使館占拠人質事件を受け、80年4月からイランとの国交を断絶している》

 イギリス(とアメリカ)は事件が起こると即座に対応を発表している。普通事件が起こった場合、犯人が誰で、その意図は何であったかなど、事件の全貌が即座に分かるはずがない。この事件が「外交官の保護を定めたウィーン条約違反」という国際法ルール違反であり宣戦布告に等しいことであるにして、事件の全容を慎重に把握して、イラン政府の意向を聞いて、そのうえで対応を発表すべきである。

 それなのにイギリス政府はもう翌日に在英イラン大使館の閉鎖、外交官の四十八時間以内の退去を命じ、テヘランの英大使館を閉鎖し外交官全員の国外退去をさせた。だからイギリス(とアメリカ)はまともな文明国ではなく、覇道文明の国である。イエス・キリストは「一切の誓いをしてはならない」「敵に手向かってはならない」と戒めている。ということは、国際法をあまり当てにするな、犯罪に対して報復・制裁をするな、と言うことである。イギリス(とアメリカ)の今回の対応は、これにも反する。イギリス(とアメリカ)政府は、偽キリスト教が跋扈する国であると思う。また王道文明であれば、先ず事件の真相を解明に全力を注ぎ、相手のイラン政府の釈明を聞き、そののちに対応が決めるということになると思う。

 それにもかかかわらず、アメリカ(やイギリスそしてEU)は現在、イランの中央銀行と取り引きする金融機関を国際取引から閉め出すことで、イランからの原油の輸出入をできなくする対イラン制裁措置を世界に呼びかけ、進めようとしている。核開発問題があったとしても、もうそこまで話が進んでいるのである。事件が起これば、十倍返し百倍返しの報復・制裁である。これを世界の先進国のマスメディアが何の異議をも示さず当然のことのように報道しているようだ。

 彼らは自称キリスト教徒ではないのか。やはりアメリカやEUには、信念や理想は全く存在しないかのようだ。この人たちが世界の指導者であるうちは、無駄な戦争が頻繁に起こされることはあっても、とうてい戦争のない世界になるはずはない。彼らは覇道文明人たちなのであり、真正の(王道)文明人ではないのだ。

 ところでちょっと横道にそれるが、イエスによる山上の説教の中に次のような「神と富み」というのもある。

 《だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなた方は、神と富とに仕えることはできない。》(マタイによる福音書第六章24、前掲書)

 つまり人間は、神に親しんで富を軽んじるか、富に親しんで神を軽んじるか、どちらかの道しかない、神と富の両方を得ることは不可能なのである、と言っているのだ。そして富を得た者は、神を軽んじ神をにくむ者であるから、たとえ破門に至らないにしても、キリスト教徒としては神から最も遠い、最も下の階級になるということだ。

 私は二十歳前の大学に入った頃(一九六〇年代末頃)、良い医者は少ない費用で病気を完全に治し、再び病気にならないための生活上の注意を与えるだろう、そうすると人々はだんだんとみんなが健康になって病気の人が少なくなる、そうするとその良い医者の仕事はどんどん少なくなる、そして収入はだんだん少なくなるだろう、その良い医者には富がたまることはなくなる。

 他方悪い医者がいて、少し利いた気になるが効果のない薬を与え(売りつけ)、病気にならないための注意点も言わないとすると、いつまでも病人が減らない、そうするとその悪い医者の仕事は減らず、収入も減らず、だからその悪い医者には富がたまっていく、もっと悪い医者がいて、病気が悪くなる処方箋をしたり、病気になるような生活をすすめたり、そのようなことをして病人が増えるようなたくらみをして、だれにも感づかれずして病人が増加することに成功すれば、そのもっと悪い医者の仕事はどんどん増加し、その収入は膨らむ。

 結局のところ、最も悪い医者に最も多くの富がたまってしまう、とそのようなことを考えていた。そして医学研究が盛んになったから、どんどん医学が進歩して、人々が健康になり、医者の仕事がなくなるのだろう、医者の収入も経る、医者が良いことをしてそしてその収入が減る、ちょっと変な感じだが仕方がない、それでもなんとか人類社会は何とかうまくやって、みんなが健康を喜び合うようになっていくのだろう、と思っていました。本当に善いことをすると、お金に恵まれないことをすることである。イエスは、こういうことを言ったのではないかと思います。

 しかしそれから四十年を経ましたが、日本では医者の仕事は減るどころではありません。益々増えていると言うか、無理やり増やそうとしていると言うか、そういう何のために大金を投入して医学研究をしているのかよく分からない状態になっています。厚生省の役人も一緒になって、医者の仕事と医療費を増やそうとしているのは明らかです。

 アメリカ、イギリス、フランスの製薬・医療の資本に動かされている気配もちらちら見えてきます。彼らは巨大な富を求め、彼らには巨大な富が集まっているはずだ。だけど彼らはどこまで富を貯め込めば気が済むのでしょうか。また、貯まった富をなんに使うのでしょうか。彼らは反イエス・キリストの人々です。彼らのなかのキリスト教徒はすべて、偽キリスト教徒だ、と言うことができると思います。

 今ここに、面白くてそのうえに人生のためになる本を次々に出版して、巨大な収入を得ている人がいるとします。彼は、その収入を、家族の生活費と、まさかの時のための蓄えと、次回本出版のための研究経費と、それから残りを前途有為の若者たちを育てる費用に使っており、そして、その彼の生活費と蓄えは、その国の普通の中流レベルであるとします。

 そうだとすると、そういう彼はイエスの教えから見て果たして、神に仕えているのでしょうか、それとも富に仕えているのでしょうか。生活費と蓄えは中流レベルであるので、彼が富に仕えているとはいえません。また、若者を育てる費用に使っているというのだから、彼はその点で神に仕えていると言える。だから彼は、富に仕える者ではなくて、神に仕える者である、ということになる。彼は、イエス・キリストの言葉に従った生き方をしていると言えるのだ。もし彼がキリスト教徒であったならば、彼は偽キリスト教徒ではなく、真正(本物)のキリスト教徒である、と言える。このように、イエス・キリストの言葉と一致するかしないかを見れば、真性かどうかが簡単に分かってくる。

 話をもどす。ともかく世界の多くの自称キリスト教信者は、旧教(カトリック)か新教(プロテスタント)かを問わず、偽キリスト教徒であることがはっきりした。ローマ・カトリック教会やイギリス国教会のトップの偉い人たちは、偽キリスト教徒である。そのことを世界の人々に報じない巨大マスコミの人々は、愚か者たちであるか、見て見ぬ振りをする悪人たちである。

 他方、クエーカー教徒(友徒会、フレンド派)の人々は、イエス・キリストの戒めを忠実に守ろうとする人々だ。彼らは、真正のキリスト教徒だ。ただしもちろん、中にはクエーカーを装った工作員が外から送り込まれていて、クエーカー教の壊滅のため内部で種々の謀略をする人がいてもおかしくはないので、そういうことには常に注意をしておかなければならない。クエーカー教徒だからといって無条件に気を許してはならない。そういうことが明白になった。その他、エラスムスや『ユートピア』を書いたトマス・モア(Thomas More)や、『インディアス史』を書いたラス・カサス(Bartolome de Las Casas)は、真正のキリスト教徒だ、と思う。

    
トマス・モア      ラス・カサス

 なお、世に啓蒙思想家といわれているイギリスのジョン・ロック(John Locke一六三二〜一七〇四)も偽キリスト教徒である。彼は次のように述べている。

 
ジョン・ロック

(引用はじめ)

 大地が自然に生みだす果実や大地が養う獣たちは、すべて、自然の自ずからなる手によって産出されたものであるから、人類に共有物として帰属し、従って、それらがそうした自然状態にある限り、それらに対して、何人も他人を排除する私的な支配権を本来的にもちえない。しかし、それらは人間が利用するために与えられたのだから、何らかの方法でそれらを専有する手段が必ずやあるに違いない。(中略)

 人は誰でも、自分自身の身体に対する固有権(プロパティ)をもつ。これについては、本人以外の誰もいかなる権利をももたない。彼の身体の労働と手の働きとは、彼に固有のものであると言ってよい。従って、自然が供給し、自然が残しておいたものから彼が取りだすものは何であれ、彼はそれに自分の労働を混合し、それに彼自身のものである何ものかを加えたのであって、そのことにより、それを彼自身の所有物とするのである。(ジョン・ロック著、加藤節訳『統治二論』後篇、第五章三二節)

(引用終わり)

 ロックは自分の身体は自分のもの(所有物)である、その身体を使って労働を加えたもの(土地や森)は、彼の所有物になる、と言っている。これがイギリスにおける弱者追い出しの「囲い込み(enclosure)」による一部強者の土地占有を正当化しジェントルマン(大地主)の発生を容認する理論なのであろうが、先に述べたようにイエスは自分の身体さえ自分のもの(所有物)ではないと言って(戒めて)いるのだ。

 したがってこれは、ロックが偽キリスト教徒であることを示しているのだ。労働を加えた土地も、そしてそれによって得られた産物も、それら全部が労働を加えた者の所有物になる訳ではないのだ。当時のイギリスは大きく偽キリスト教的行為を行っていたのである。

(つづく)