「189」 論文 日本権力闘争史−平清盛編−(3) 長井大輔(ながいだいすけ)筆 2012年5月12日

●言仁の誕生

 中宮・徳子は1171年の入内以来、なかなか妊娠しなかったが、1178年11月、憲仁の長男・言仁(ときひと)を産んだ。行真は、憲仁に男子が生まれなかった場合に備えて、八男・道法(どうほう)と九男・承仁(しょうにん)を憲仁の猶子としておいた。万一の場合を想定した、王位継承者の予備である。二人は言仁の誕生後、その役割を終え、出家した。言仁は、翌12月には、皇太子に立てられた。

 東宮傅(とうぐうのふ、皇太子の教育係)には右大臣・藤原兼実が色気を示したが、左大臣・藤原経宗が任じられた。経宗は流罪から召還された1162年以後は、一貫して平家に従い、親平家派公卿となっていた。1179年2月、憲仁の二男・守貞(もりさだ、母は藤原殖子[たねこ])が生まれ、平知盛が養育を任された。守貞は言仁が夭折(ようせつ、早死に)した場合の予備とされた。王位継承における行真と浄海の連携は依然として、盤石(ばんじゃく)なものであった。

●治承三年政変

 行真は王位継承では浄海と連携する一方、摂関継承では、浄海が後見する基通ではなく、中継ぎの基房をそのまま、摂関家の嫡流にしてもいいのではないかと思うようになっていた。行真は基房を嫡流化するため、平盛子と結婚させようとしたり(浄海の反対で頓挫[とんざ])、基房の妻を皇太子・言仁の養母としたりした。また、基房の嫡男・師家(もろいえ)を摂関家の継承者として育て始めていた。

 1179年6月17日、平盛子(白河殿[しらかわどの])が24歳で死んだ。盛子が相続していた基実の遺産は、憲仁が盛子を「養母」としていたことを根拠として、憲仁が相続した。行真と基房は一旦、憲仁に摂関家領を相続させ、師家が摂関に就任した際に、改めて憲仁から師家にそれを譲渡させようと計画していた。7月29日、平重盛(小松内府[こまつないふ])が42歳で死んだ。彼は、摂関継承問題では基房派に属していた。

 朝廷人事において、師家は行真の意向により、急激に昇進する一方、基通は冷遇されたままであった。これに対して、基通の後見人である浄海は、宗盛に朝廷への出仕(しゅっし、出勤)や官職の就任を拒否させることにより、行真に対して基通の昇進を迫った(具体的には、宗盛に内大臣就任を辞退させ、基通の起用を迫る)。摂関継承問題にめぐって、行真と浄海の間に緊張状態が続く中、10月、行真はついに最終決定を下した。

(引用開始)

 かくする間一〇月九日には、基房の子、八歳の左中将師家が、平家の推す非参議兼右中将の近衛基通を跳び越えて、権中納言に任じられた。師家は前年五位中将となり、いままた中納言中将に就任した。この官歴は摂関家嫡流の特権であり、嫡流の地位を継承させるためにとられた人事である。(高橋昌明『平清盛 福原の夢』188−189ページ)

(引用終了)

 この人事により、将来の摂関は基通ではなく、師家が継ぐことが確定した。11月14日、浄海と宗盛が福原から数千騎の軍勢を率いて入京した。15日、浄海はまず、行真との交渉に入った。浄海の行動に驚いた行真は、弁明につとめ、浄海との関係修復を図った。彼の思い描いていた流れはこうである。まず、行真が摂関継承問題の責任をとって、引退を表明する。次に、浄海が行真を慰留(いりゅう)し、行真が引退を撤回する。そして、行真が浄海の要求を受け入れ、関白を更迭する。こうして、行真と浄海の和解が成立する。

 ところが、行真の思わくは外れた。浄海は、行真の引退をあっさり認めたのである。行真の統治下で、摂関継承問題や延暦寺問題は未解決のままだった。摂関継承問題で、行真は「嫡流」の基通を無視して、「傍流」の基房・師家に摂関を継承させようとしていた。延暦寺では、明雲解任後、学徒(がくと、皇族・貴族出身の学問僧)と堂衆(どうしゅ、下っ端の僧侶、雑用係)の間で抗争が起きていた。行真が任命した天台座主・覚快には、僧侶をまとめる力がなかったのである。

 これらの事態は、浄海からすれば、行真の「失政」であった。行真が政権に居座ったままでは、これらの問題はいつまで経っても解決しない。行真こそ、問題発生の根源である。諸問題を根本的に解決するためには、行真を引退させるしかない。浄海は、このような考えに至り、行真の引退表明をそのまま諒承したのである。次に浄海は、憲仁との交渉に入った。浄海は憲仁に、自分は行真との主従関係を解消したから、徳子や言仁とともに西国へ移住すると告げた。

 浄海は徳子と言仁を「人質」にとって、憲仁に圧力をかけたのである。妻子を「人質」にとられた憲仁は浄海の要求をのみ、基房を関白から、師家を権中納言から解任し、基通を関白・内大臣・氏長者に任命した(「憲仁・基通政権」の発足)。16日、明雲が天台座主に任命された。明雲が復帰するとすぐさま、浄海が期待した通り、学徒と堂衆の和平が成立し、延暦寺の内部抗争は解決した。

 17日、廷臣50人が処罰された。行真側近の下級貴族が厳罰に処される一方、公卿集団(上流貴族)はほぼ無傷であり、その勢力はそのまま維持された。18日、基房は流罪となり、20日、行真が鳥羽殿に幽閉された。こうして浄海は「行真・基房政権」を退陣させ、新たに「憲仁・基通政権」を成立させた。蹶起(けっき)してから七日目、浄海は福原に帰った。

 この政変の際、頼盛は行真を守ろうとして、浄海と対立した。頼盛は行真の側近だった。浄海が軍勢を率いて入京したのは、頼盛との戦闘を想定してのことである。また、行真を京から南に離れた鳥羽殿に隔離(かくり)したのは、頼盛と行真の接触を未然に絶つためである。浄海は武力で頼盛を威嚇(いかく)する一方、基本的には、頼盛との合戦を回避しようと努めている。

 17日に解官された廷臣の中には頼盛の名もあったが、頼盛はすぐに復権している。これは、浄海の宥和(ゆうわ)的な姿勢を示している。以後、頼盛は浄海に服従するようになった。浄海がことにあたって、何よりも重視したのは、一族の団結であった。浄海は行真の失政の一つとして越前国(えちぜんのくに)知行国主問題を取り上げているが、その理由は、これに利害関係を有する重盛の子・維盛や異母弟の教盛を味方につけるためである。

 浄海は、新政権の基盤を固めるため、右大臣・藤原兼実を政治経験に欠ける基通の補佐役(天下の顧問)に起用し、前太政大臣・藤原忠雅を基房派から基通派に取りこんだ。さらに浄海(平家)、忠雅(花山院家)、兼実(九条家[くじょうけ])、基通(近衛家[このえけ])の四者が婚姻関係で結ばれ、基通派の中核勢力が形成された。浄海は温存しておいた公卿集団と基通派を、憲仁と基通の政権基盤とした。政務は憲仁と基通がとり、武力は宗盛が掌握した。憲仁・基通政権を、平家の武力が下から支える体制である。新政権樹立の総仕上げに、1180年2月、憲仁が言仁(安徳帝[あんとくてい])に譲位し、行真復活の芽を絶った。

 治承三年政変とは浄海にとって、朝廷を本来あるべき姿に戻す、朝廷を正常化させるための措置だった。行真と浄海は、王位継承問題では、「行真―憲仁−言仁」を正統とすることで一致し、食い違いはなかったが、摂関継承問題で、ついに決裂することになった。浄海にとっては、行真が摂関を基房・師家に継承させるような事態は異常だった。彼は基通の摂関継承を頑として譲らず、最後までそれを貫いた。なぜ、そこまで浄海が頑(かたく)なだったかといえば、それが神々から受けた神託だったからだ。

●後白河院論

後白河法皇

 ここで行真(後白河院)の人物像に触れておく。行真はよく、保身に長(た)けた謀略家、手練手管(てれんてくだ)の老獪(ろうかい)な人物として描かれるが、実際にはそのような人物ではなかった。彼は若いころは、王位継承の圏外にいたため、天皇になるために必要な教育を受けず、遊んで暮らしていた。芸能に情熱を燃やし、特に今様(いまよう、歌謡曲)への関心は生涯尽きることがなかった。彼の父・空覚は行真のことを「即位の器量にはない(王位継承者としての資質がない)」と評している。

 ひょんなことから即位することになったが、その政策は後先考えない、側近贔屓(びいき)の、場当り的なものだった。作家の永井路子(ながいみちこ)によれば、難局にぶつかると「もう政治はやめた」とか、「政治に関心を持ったことは一度もない」と無責任な発言をしている(『源頼朝の世界』200ページ)。また、行真は、執念深い性格の持ち主だと言われるが、実際には、カッとなってはすぐ忘れ、あまり恨(うら)みをひきずることもなく、熱しやすく冷めやすい、カラッとした性格だった。

 元木泰雄(もときやすお)は、君主の適性に欠ける軽率な振舞(ふるまい)が、治承三年政変を惹(ひ)き起こしたと論じている。

(引用開始)

 危機的状況において執拗に清盛を挑発し、武力の発動に直面すると驚愕して弁明に努めるという後白河の態度は、皮相な好悪の感覚に基づくもので、およそ帝王にそれではない。後白河は清盛の憤怒に接しても、鹿ケ谷事件(引用者註:治承元年事件)における経験から、基房や近臣の処罰はあっても、自身に対して清盛の攻撃の矛先が向けられると思わなかったのであろうか。この辺りの見通しの甘さや、政治的な幼弱さを見せつけられると、政務に熟達した近臣の補佐もなく、また帝王学なくして帝王となった後白河の危うさと限界を痛感させられるのである。(元木泰雄『平清盛の闘い』132ページ)

(引用終了)

 行真の政局における「見通しの甘さ」や「政治的な幼弱さ」は、浄海に対する信頼に由来する。行真は浄海のことを心底(しんそこ)、信頼していた。行真と浄海のつきあいは、桟敷事件で、経宗・惟方の逮捕を泣いて頼んだ時から始まる。行真には、最後は結局、浄海が折れて、自分の言う通りにしてくれるだろうという思い込みがあった。そんな楽観的な性格が、治承三年政変を惹き起したのである。

 貴族集団からの評価も低い。平治の乱後の守仁との政権争いでも、一旦優位な立場を手に入れるも、結局負けたのは、人望がなかったからだ。朝廷の誰もが、行真を天皇として相応しい人物だとは思っていなかった。それは治承三年政変でも同じだった。

(引用開始)

 この政変によって、朝廷は院政体制から高倉の親政体制に変わった。後白河は強制的に引退させられたのであったが、しかし、貴族の清盛に対する反発は意外なほど小さい。清盛を謀反人とする非難もあまり聞かれない。これは後白河が人望に欠けることの表れであろう。朝廷にとって後白河には引退してもらう方がよい、とする雰囲気が貴族にはある。清盛の行動は、仕方のないこととして貴族に支持される面があった。(河内祥輔『天皇の歴史04 天皇と中世の武士』58ページ)

(引用終了)

※NHKの大河ドラマ「平清盛」をご覧の方は、こちらも参考になると思います。

 行真は、朝廷のトラブルメイカーだと思われていた。鳥羽殿に幽閉された行真は、特に反省した様子もなく、今様三昧(ざんまい)の生活を送っていた。行真は、実際には問題ばかり起す、人騒がせな、無能な人物だったのである。

●以仁事件

 治承三年政変とは、貴族の消極的な支持を得て、浄海が行真・基房政権を退陣させた事件であった。知行国が増えたとはいえ、平家の公卿の数は5人で変らず、平家そのものはあくまで政権の下支えに徹し、政務はこれまで同様、上皇(憲仁)と摂政(基通)と公卿(経宗、兼実)が取り仕切った。平家は「軍事独裁政権」など成立させていない。ところが、この政変を、勘違いを起して、平家による朝廷に対する「軍事クー・デタ」だと思い込んだ者たちがいる。朝廷の内情を知らない大衆と武士である。

(引用開始)

 もともと武士や大衆にとって、天皇と上流貴族からなる朝廷の内奥は遠く隔絶した世界であり、そこに起きたことを実感的に理解できるわけがなかった。

(中略)

 後白河の幽閉という事実を聞いた武士・大衆は、清盛の謀反、後白河の無念ということを容易に確信し、強い衝撃を受けたのである。ただし、貴族に言わせれば、そうした理解は多分に誤解であることになろうか。しかし、後白河という人物も朝廷の内実も知らない武士・大衆にとっては、それがごく自然な確信であった。(河内祥輔『天皇の歴史04 天皇と中世の武士』59−60ページ)

(引用終了)

 武士や大衆にとって、治承三年政変とは、浄海の行真に対する謀反であった。行真を救い出さなければならない。この「妄想」に基き、最初に蹶起したのは大衆であった。1180年3月、園城寺大衆が延暦寺や興福寺の大衆に同盟を呼びかけ、行真と憲仁の奪取を企てた。しかし、行真が大衆の計画を宗盛に暴露したため、この企ては未遂に終った。行真には大衆の計画が成功するとは思えず、また彼は浄海と敵対する気もなかった。

 5月15日、憲仁と宗盛は、行真の三男・以仁(30歳)を土佐国(とさのくに、高知県)への流罪とすることを決定し、皇籍を剥奪(はくだつ)し、「源以光(もちてる)」と賜姓(しせい)改名した。処罰の理由は、「将来、謀反を起すかもしれないから」というものであった。以仁はいまだ出家せず、王位継承の可能性を残しており、存在そのものが憲仁・言仁の王統に対する脅威とされた。以仁が謀反を起そうとした証拠はなく、彼は無実だった。

 行真は以仁を出家させず、親王にもしなかったが、これは以仁を憲仁が夭折した場合の王位継承の予備としたためである。しかし、憲仁が即位し、言仁や守貞が誕生した今となっては、以仁はその役割を終えていた。以仁を後見するワ子(八条院)も、以仁の王位継承資格を否定しており、行真とワ子は憲仁の系統を正統とすることで一致している。

 早速、検非違使の源兼綱(かねつな、源頼政の猶子)が以仁の逮捕に向かったが、以仁はすでに園城寺(滋賀県大津市)に逃げこんでいた。園城寺大衆は朝廷からの以仁の引渡(ひきわたし)要求を拒み、延暦寺や興福寺と反平家同盟を結成しようとした。

(引用開始)

 二カ月前の大衆による天皇誘拐未遂事件が以仁の行動に決定的な影響を与えたことは確かであろう。この時点において、反平家派として活動していたのは大衆のみであった。

 以仁はその大衆に希望を見出し、園城寺に駈入った。大衆に我が身を委ね、起死回生を図ったのである。(河内祥輔『日本中世の朝廷・幕府体制』203ページ)

(引用終了)

 事態は、朝廷と以仁を擁する園城寺・延暦寺・興福寺大衆の全面対決に発展した。21日、朝廷は園城寺攻撃を決定し、平家諸将と源頼政に出陣命令が出た。ところが、同日深夜、突如、頼政・兼綱父子が園城寺に駆けこんだ。頼政の敵前逃亡は、公卿や平家に大きな衝撃を与えた。公卿である頼政(源三位入道[げんさんみにゅうどう])は、反平家勢力の中心になりかねなかった。

 頼政はすでに三年前の治承元年事件の時に、明雲を延暦寺大衆に奪われるという失態を演じている。そして、今回、またも猶子の兼綱が以仁を取り逃がすという失態を重ねた。三年前、頼政は明雲を奪取された責任を浄海に押しつけたが、今度こそ、頼政は以仁を取り逃がした責任から逃れることはできない。頼政は以仁逮捕の先頭に立たなければならなかった。だが、頼政の本心は「園城寺攻撃はいやだ。やりたくない」というものであった。ましてや、頼政は出家入道の身であった。「仏敵」になることを何よりも恐れただろう。

 頼政は園城寺攻撃を避けるために、園城寺側に寝返ったのである。しかし、頼政が園城寺に駆けこんだ時を境にして、以仁は大衆の支持を急速に失っていく。24日、延暦寺大衆が明雲の説得を受け、反平家同盟から離脱した。25日、以仁・頼政が園城寺を出て、奈良をめざして逃走した。なぜ、以仁は大衆の支持を失ったのか。大衆は寺院勢力だけで王族を担いで(本当は以仁ではなく、行真と憲仁を担ぎたかった)、反平家運動を起すつもりだった。

 平家軍は「仏敵」となることを何よりも恐れているから、三寺大衆の宗教連合にはおいそれと手出しができない。その間に、公卿が平家から離反し、浄海(平清盛)を失脚させ、行真を復活させるのを待つという作戦である。大衆自身が平家を打倒するのではない。決断を公卿に迫るのである。大衆がやろうとしていたのは朝廷に対する「デモ」であって、平家との「合戦」ではなかった。ところが、以仁が頼政を受け入れたことにより、この作戦は成り立たなくなった。

 大衆相手の戦いなら攻撃を躊躇(ちゅうちょ)する平家軍でも、武士が相手ならば遠慮せずに攻撃してくるだろう。頼政を受け入れた以仁の判断は、大衆の作戦を台無しにしたのである。大衆の熱気は一気に冷めた。以仁は園城寺において孤立し、頼政とともに園城寺から出て行かざるを得なくなった。26日、以仁・頼政は興福寺を頼ろうとして奈良に向かったが、その途中の宇治で、平家方との戦闘の末、全滅した。

※NHKの大河ドラマ「平清盛」をご覧の方は、こちらも参考になると思います。

【参考文献】

 この文章は、長井大輔(ながいだいすけ)が河内祥輔(こうちしょうすけ)の諸著作を土台にして、書いた。私は、河内祥輔は日本中世史を専門とする歴史学者たちの中で、もっとも優れていると思う。本文中に明示した以外の参考文献は以下の通り。河内祥輔『保元の乱・平治の乱』『頼朝の時代』/美川圭(みかわけい)『院政』/上杉和彦(うえすぎかずひこ)『平清盛』『歴史に裏切られた武士 平清盛』/高橋昌明『平家の群像』/竹内理三(たけうちりぞう)『日本の歴史6 武士の登場』/下向井龍彦(しもむかいたつひこ)『日本の歴史07 武士の成長と院政』/Wikipediaフリー百科事典

 

(終わり)